バスが暗闇の中に白い雨の筋をより濃く浮かび上がらせながら、ホテルの玄関前へ駐車した。タキオンはロビーのソファーから立って、外に出てくる人の群れを嬉しそうな面持ちで見つめた。
大概の人の群れはタキオンの横を素通りしていったり、タキオンの事をジロジロと見たまま素通りしたが、とうとう間接的に待ちわびていた人一号、リリックが顔を覗かせたかと思うと、その次にエス、マテリアル、田上が現れた。タキオンは、ガラス窓に張り付いて、目をランランと輝かせながら、一行の事を見つめた。田上の方もタキオンがそこに居るのを見つけると、途端に、嬉しそうな微笑を顔に浮かべて、こちらの方へ歩いてきた。
チームメンバーは、嬉しそうにタキオンの方に寄って行った田上と、また、嬉しそうにそれを出迎えたタキオンを微笑ましそうに見ると、その場を後にした。ただ、マテリアルは、タキオンの横を通る際に、指を二本振りながら「チッス」と挨拶をして、そのまま通り過ぎて行った。また、リリックの方は、少々元気はなかったが、とりあえず、二人の様子が微笑ましかったので、微笑だけは浮かべた。
タキオンは、寄ってきた彼氏の顔を見上げると、「圭一君」と呼び掛けた。田上は、「タキオン」と言って、傍に寄って行った。そして、そのまま二人は抱き合うわけではなかったが、思わず伸ばされた手を、タキオンが自然に手に取って、その指先を軽く握っていた。田上は、タキオンの表情が晴れやかなのを嬉しく思って、今すぐ抱きしめたい気分もあったのだけれど、大衆の面前でそうするわけにもいかず、ただ、タキオンと向かい合ってこう聞いた。
「少し元気になった?」
「…まぁ、……うん。…元気だよ」
タキオンはそう言いながら、自分の中に、また圭一君に甘えたいという欲が鎌首をもたげたのを感じて、それを必死に抑えながら、できるだけもう平気になったように言った。
田上はそんなタキオンの顔を少し見つめた後に、タキオンの手を握り返すと、「とりあえず、行こうか」と声をかけた。
ただ、ロビーにはまだちらほらと人がいて、人の目があったので、容易に同じ部屋に入るわけにはいかなかった。だから、タキオンと田上は、ロビーで手持無沙汰にぶらぶらと歩いて、人がはけて行くのを待ったのだが、その途中で部屋から出てきたカフェに出会った。
タキオンと田上は、二人で廊下に置いてあったソファーに座っていたのだが、カフェが部屋から出てきたのを見つけると、タキオンが「おやおや」と言って声をかけた。
「おやおや、カフェじゃないか。どこ行くんだい?」
「……野暮用です……」と言ってカフェは去って行ったが、どうやら、ホテルの中のトイレの方に向かっていたので、タキオンも無理に追いはしなかった。
帰ってきたときにカフェは缶コーヒーを片手に持って来ていた。タキオンはそんなカフェに「おーい」と呼び掛けた。もう少しでカフェはそのまま通り過ぎて行くところだったし、なんなら、タキオンが呼び掛けても尚、無視してもう少し歩いていたが、「カ~フェ~」とタキオンが一際大きな声で呼び掛けると、カフェは、手をかけていた自分の部屋のドアノブから手を放して、面倒臭そうな顔でこちらを見てきた。こんな顔でも、面倒見は良いので、タキオンは暇潰しがてらにカフェに話しかけた。
「調子はどうだい?」
「………あなたに会わなければ、上々でしたね…」
「ふぅん? …ちょっとこっちに来てくれよ。何か一発芸でもしてくれないか?」
そう言われて、ひょいひょいと来るカフェではない。
「しませんよ」と言って、部屋の前に佇んだままだった。タキオンは、気の乗らなさそうにカフェを上から下まで見つめた後に、こう言った。
「…君の…その長い髪はいつ切るんだい?」
「……話はそれだけですか…?」
「いや何、…いつ切るんだろうと思ってね」
「………もうそろそろ切ってみるのも良いかもしれません……」
「…邪魔じゃないのかい?」
「…ええ…」とカフェは適当な返事を寄こすと、もう面倒な事には付き合わないように、部屋の扉を開けて、その中に立ち去って行った。
タキオンは、カフェが消え去った空間を少しの間見た後に、隣のソファーに座っている田上を見やると、「行っちゃった」と言った。
元より、田上はカフェと話す事に興味はなかったので、適当に相槌を打つだけにして、あとはホテルの内装にフラフラと視線を漂わせた。
タキオンは、またそんな田上をじっと見た後に、こう言った。
「前来た時は、君の体調はそんなに芳しくなかったね」
「ああ…」とタキオンの話の意図が分からずに、少々きょとんとしながら田上は頷いた。
「……夕食は?」
「…そういや、もうすぐだったね」
「……君の部屋で食べても良いんじゃないかと思うんだが」
「あの時みたいに?」
「そう。丸テーブルで。…体調悪くなっておくれよ」
「嫌だよ。頗る元気だよ。…そっちのほうが良いだろ?」
「…まぁ、元気なことに超したことはない。…早く二人にはなりたいんだがね」
「……そうだね」と田上は頷いたが、結局、二人は、同じ部屋には入らず、そのまま夕食が始まるのを待った。また、廊下にちらほらいた人も、もう夕食が近いので、部屋で休憩することはせずにそのまま待っている人たちが多かった。だから、田上たちは部屋に入れなかった。
夕食が終わると、二人は一先ず別々の部屋に入らざるを得なかったが、タキオンが時機を見計らって、田上の部屋をコンコンと叩いた。
田上は、扉を開けて出迎えると、「周りには誰も居ない?」と聞いた。タキオンは、田上の部屋の扉を開ける前に人がいない事を確認していたが、今一度、軽く周囲を確認してから「誰も居ないよ」と答えた。
田上はドアの向こうから見える景色を注意深く窺いつつも、「じゃあ」と言って、タキオンを招いた。タキオンは、すぐにその中にするりと入って行ったが、田上はその後に「俺はちょっとトイレに行ってくる」と言って、部屋から出て行った。タキオンは、大人しくベッドに座って、田上が帰ってくるのを待っていた。
田上が自分の部屋のドアを開けると、狭い廊下の中からタキオンの姿が見えた。ベッドの端にちょこんと座って、田上がドアを開けた音がすると、そこからチラリと目を上げた。田上は、その姿に妙な感慨の様な、動揺の様な感情を受けて、少し神妙な面持ちで静かにドアを閉めた。
廊下の電気は消してあった。田上はそれを思わず付けたが、別に、使う事もないので、また消した。そして、待っているタキオンが居る部屋の中に入って、タキオンを見つめた。脳内を色々な言葉が走り回っていったような気がしたが、それらの言葉を掴み取る前に、言葉は走り去っていってしまった。ただ、その中からポツンと取り残された言葉があって、そこには「抱き締めたい」と書き記されていた。だから、少々田上は自分のバッグを無為に漁りながら、この感情をどうするべきか考えていたのだが、それでも、迷いに迷って、タキオンを黙って見下ろすと、タキオンの方からはきょとんとした顔で「座らないのかい?」と聞かれた。
田上は、少しばかりの恥じらいを込めた顔で、ポリポリとおでこを掻いた。それで、タキオンの方も察して「何かあるのかい?」と聞いてきた。田上は、今少しまた迷ったが、最終的には「抱き締めてもいい?」と聞いた。タキオンは、何を今更? という顔をして、田上を見たが、口では「いいよ?」と言った。彼氏が自分からしたがらない行動だったので、少々混乱しつつも、抱き締められること自体は問題なかった。
ただ、タキオンが、いいよと答えた所で、田上は抱き締める形に対しての理想の姿を持っていなかったので、黙ってタキオンを見下ろしたまま立ち尽くしていた。
タキオンは、田上が動かないのを見ると、何かに迷っているのだろうと思って、とりあえず、「どういう風に抱き締めたいとかあるのかい?」と聞いた。
田上は、元から抱き締めたい以外の思いを持っていなかったからしょうがない。ただ、「立ったほうが良い?」と聞かれると、田上は首を横に振った。「じゃあ、ベッドに寝転がってする?」と聞かれると、それは後ろめたかった。
実の所、ベッドに寝転がって抱き締めたかったのかもしれないが、田上にはそれが後ろめたくて嫌だったから勝手に除外していた。だが、タキオンにそう聞かれると、そうだったのかもしれないと気付いたのような気もする。気付かないような気もする。
そうやって、田上が答えかねていると、タキオンがまた「ベッドでしたいのかい?」と聞いてきた。田上は、二回聞かれたら答えなければいけないので、ぼんやりと首を横に傾げた。
タキオンは、そんな様子の彼氏を少し見上げた後に、「じゃあ、何。…とりあえず座りなよ。抱き締めたいんだろう?」と話した。
田上は、困ったように頭をポリポリと掻いた後に、曖昧に頷きながらタキオンの隣に座った。だが、それでも、あんまり抱き締めたがらずに、困ったように視線を下に向けるばかりで、タキオンの方へ向こうという姿勢すらなかった。
タキオンは、それに苦笑しながらも、彼氏をサポートするために「抱き締めたいんだろう? ホラ」と言って、自分の腕を広げて見せた。
田上は、あまり乗り気じゃなさそうにタキオンの事をチラリと見たが、その後に、躊躇いがちにタキオンの方に手を伸ばそうとした。だが、そこで、田上は、あんまりこれが自分の理想の姿じゃない事に気が付いて、こう言った。
「……これじゃあ、あんまり抱き締めにくそうじゃない?」
タキオンは、田上のことをじっと見つめ返しながら言った。
「そう? …じゃあどうしたい?」
「………どう?」と田上はまた困って、頭をポリポリと掻いた。
「そうだよ。 どうしたい? 私が寝っ転がろうか? それとも、君が寝っ転がる?」
そう言っても、田上はただ困ったような顔をして項垂れるばかりだったので、タキオンは「とりあえず、足をベッドの上に乗せてみようか」と提案した。
そして、タキオンはそそくさと足をベッドの上にあげて、体ごと田上の方を向いた。田上は、タキオンが隣で足を上げてベッドに座るのを、視覚以外の五感で感じながら、少し困ったのちに、ゆっくりとおもむろに足をベッドの上に上げてみせた。
そして、タキオンと向かい合って、殊更に困ったような顔でタキオンの顔を見返した。タキオンは、田上がライブに行ってしまう前と後とでは、似つかない笑みを浮かべて、田上に言った。
「私たち、ベッドで一緒に抱き合うどころか、そうやって、毎週ぐっすり眠っているんだがね? 今更躊躇う理由があるかな?」
田上は、少し黙った後に、全然別の事を話した。
「………お前、…元気になったな……」
そう言われると、タキオンは目を逸らして、人差し指でかるくこめかみ辺りを掻いた後に答えた。
「……まぁ、…それなりにね? …まぁ、元気にはなった、少々。……まぁ、そんな所」
「……助ける気になったんだ…?」
「……うん…、…まぁ…ね…? ……私もまだ考えを整理している所だから、あんまり一々口を挟まないでくれよ?」
「…分かった…」
「…で? 君はどうかな? …どんな風に私を抱き締めたい?」
「………もういいよ……」と田上が、面倒臭さ半分、諦め半分で言った。
「もういいという事はないだろう? 君がしたいって言ったのに」
「………もういいよ…」
「……あんまり、我慢もしてくれなくていいんだがね…」
田上はそう言われても、どうも自分の欲を解放する気にはなれずに、また、ベッドの上で項垂れていた。タキオンもあまり無理な事はしたくなかったし、かと言って、今起きた問題について、真面目に議論する気も起きなかった。だから、田上にもタキオンにもあまり負担がかからない様に「ちょっと、一旦、二人で横になってみないかな?」と提案した。
田上は、案外この策に乗ってくれたので、タキオンは、内心で嬉しそうにしながら、田上の横に寝転がった。
田上は、ベッドに横になったあとに、ぼんやりとタキオンの方を見た。タキオンは、今後に起こる展開を期待しながら、田上の顔を見やった。今後に起こる展開とは、田上がその気になって、タキオンの事を抱き締めてくれることだった。
そして、実際に、田上はそのような気分になりつつあった。だから、タキオンの頬にそっと手を伸ばして、優しく触れた。
タキオンは、田上が抱き締めやすくなるようにと、そっと身を寄せた。田上は、タキオンの意図が分かっても尚、少しの間、タキオンの頬に触れ続けたが、やがて、タキオンの背の方にまで手を伸ばして、「……いい?」と聞いた。
タキオンは、聞かれるまでもなく良かったので、「いいよ」と一言で答えた。ただ、田上は、その後にタキオンを抱き締め損ねて、手の居心地がいい位置をもどかしそうに探っていた。
タキオンも同様に、彼が抱きしめやすい姿勢を探りながら、少し笑って「中々、いい位置が決まらないね」と言った。
田上は、その後も色々と探った後に、結局、タキオンが田上の腕枕に頭を乗せて、田上がそれをしっかりと抱き締めた。田上としては、何だか心地が違うような気がした。タキオンに甘えたくて抱き締めたいと言ったのに、これでは甘えてくるタキオンを抱き締めているような気がする。
それでも、しっかりと抱き締められないよりかは、思う存分彼女のことを抱き締められた方がいいので、田上は彼女の体へできるだけ甘えられるようにひしと抱き締めた。
田上は、暫く抱きしめた後に、タキオンを抱きしめていた腕を解くと、彼女と目を合わせた。そして、唐突に自分の気持ちを打ち明ける気になって、タキオンの目を見ながらこう言った。
「……もうちょっと甘えたかった…」
「んん? …まだ抱きしめる?」
タキオンがこう答えるのも無理はないが、田上の甘えるという理想形はもう少し違った。それで、もう少し黙った後に、「膝枕…」と恐る恐る提案してみた。無論、タキオンが断る理由はない。彼氏が自分に甘えてくれるのならば、それは非常に好ましい出来事だ。
すぐに、「いいよ」と頷くと、ベッドの上に正座をしてみせた。田上は正座という気分ではなかったので、少し躊躇ったあとに、「胡座は…?」と言ってみた。無論、タキオンはこれにも了承して、彼女が普段あまりしない胡座を彼氏の前に広げてみせた。
田上は、その中に頭を乗せて、タキオンの顔を見上げた。タキオンは、田上の顔を見下ろして、その頬をちょんちょんとつついてみせた。田上は、少し微笑んでから、一息吐いた。
田上は、タキオンの胡座の上で、じっとしているにつれて、また、タキオンを抱き締めたくなってきた。抱き締められたいと形容しても良さそうだが、抱き締めるために腕を回したいのは田上の方だ。
田上は、それを悶々と考えるうちに、体を横に向けて、タキオンのズボンに寄っている皺を無意識のうちに、ぐりぐりと押していた。タキオンは、穏やかな心地でいながら、田上の顔を少し見下ろしたり、彼のいで立ちを観察していたりしていた。
田上はその内に、タキオンを抱き締める気になって、無言のまままた体を動かすと、タキオンの腰回りに手を回して、その太ももに頭を預けた。
そして、田上はタキオンに顔を埋める姿勢となった。タキオンは、それを無言で見つめた後に、自分の前に出てきた背中をからかうようにそっと撫でた。田上は、それに反応して、タキオンの腹にもっと顔を埋めて、深く抱き着いた。少々満足できるような気がした。変に落ち込む様な事もなしに、タキオンに抱き着いて、その体の厚みやタキオンがこの場に居る現実感を得ることができている。
どうやら、タキオンは実際にここに居て、田上に抱き締めらえるような人間だというのは、案外、腰回りがしっかりしている事から分かった。ともすると、田上は、タキオンが質量の無い人間じゃないかと思うことがあるが、やっぱり、彼女は実際にここに居て、質量なく田上の腕がタキオンの体を通り抜けるのではなく、思ったよりも抱き締め甲斐のある腰をしていた。これを、田上はもっと実のある言葉として表現したかったのだが、どうも、言葉自体はふわふわとしているようだった。
それから、暫く田上が抱き締めていると、タキオンがゆったりとした心地になってきて「寝転がっていい?」と田上に聞いた。
田上がタキオンの事を抱きしめながら「いいよ」と頷いたから、タキオンは、後ろの方へゆっくりと倒れていった。その過程で、タキオンが足を伸ばして、田上も調整の為に少し離れたが、また、元の様にタキオンの腹に抱き着いて、そこに顔を埋めていた。タキオンは、その頭を軽く撫でて、彼氏の中にあるかもしれない不安を慰めながら、今後の事を少し憂いた。
――自分たちの関係にわざわざ逆波を立ててまで、話し合う方がいいのだろうか?と。
正直、今の状況の方が心地が良い。圭一君が自分に甘える気になって、縋るように抱き締めていてくれた方が、タキオンは守られている気がする。大切にされている気がする。それを、わざわざ刺激して、彼を怒らせるようなことになれば、そんな事はタキオンは嫌だ。少々雰囲気が悪くなって、話しづらくなるだけでも嫌だ。かと言って、このまま放置していたら、騙していると言われるかもしれない。
実際、半分はそのような事をしているのだから、タキオンもあまり文句は言えないし、言いたくもない。ずっと仲の良いままでいたいというのは夢想だろうか? 夢想かもしれないが、夢くらい見せてくれたって良いだろう。まぁ、夢が見れないのだから現実なのだ。何と無慈悲な事だろうか。現実の中では一分一秒の油断たりとも許されないのだろうか?
そんなこともないだろう。いや、あるだろうというタキオンが居る。二つの声があるのは、これからどうするべきか迷っているからだ。
タキオンはこの状況が堪らなく好きだ。縋るように抱き着いてくる彼の重みが、この上なく好きだ。なぜ、そのようなままでいさせてくれないのだろうか? なぜ、現実は時間という概念を帯びて進んでいくのだろうか?
タキオンは、――一時の安寧すら許されるのだろうか? 許されないのだろうか? ということに、暫し頭を苛まれたのちに、その頭への苛みを放置することにした。今考えたってどうしようもないとも思ったが、どちらにしろ迷いが解決するわけではないので、苛みは苛みのままそこに存在し続ける。
タキオンは、その想いをかき消すように、田上を優しく撫でることに思いを費やした。
時間を忘れて二人は抱き締め合っていたが、それは唐突に鳴ったスマホのピロンという音でかき消された。誰かからメッセージが届いた合図だった。田上はその音を聞くと、時間という概念を思い出した。だが、まだ少しは動かないで、もう少し存分にタキオンに抱き着いて、踏ん切りがよくなったタイミングで、指先から一つ一つ丁寧に体を動かしていって、ゆっくりゆっくりと体を起こし、タキオンの横に座った。
目を瞑っていたタキオンは、自分の体の上から、暖かな重みが取り除かれているのを悲しく思いながらも、また田上と同じように暫く動かずに、その余韻を感じた後に、目を開いた。
そして、隣に座っている田上を見た。田上はタキオンの事を見ていて、目が合うと、穏やかに「おはよう」と言った。タキオンは、あんまり挨拶を返す気にはならずに、まだ腹の上にあるような気がする田上の重みを感じた。隣に居た田上は、あんまり空気も読めずに、タキオンに言った。
「……もうお風呂だよ…」
タキオンは、それでも黙ったままでいた。それ以降は田上も、タキオンを無理に喋らせようとはしなかったし、何かを話す事もしなかった。ただ、少し黙って、穏やかな顔でタキオンを見つめた後に、キョロキョロと辺りを見渡してから、タキオンの横に寝転がった。
タキオンは、少々嬉しく思ったが、それと同時に、彼の気遣いに自分も応えなければいけないような気がした。ただ、それも押し付けられた感情ではなかったから、タキオンは、もう少しゆっくりと待った後に、田上にこう言った。
「………私、………ここで寝たい……」
「ここで…? ……うーん……。…難しいけどなぁ……」
タキオンは、自分の欲望を口にする事によってそれを発散させたので、少々落ち着いて田上に答えた。
「……まぁ、…冗談だよ。……私は……君に抱き締められるの好き…」
「俺に?」
「……そう…。…君が自信満々の時に抱き締められるのは、あれなんだがね? ……君が、…不安になってる時に、怯えて抱き締めてくるのが好き……」
「……変わってるね」と田上は冗談まじりに言った。タキオンは、少しだけ息を出して笑うと、軽く首を動かしてから言った。
「………だから、……あんまり真面目な話もしたくないんだよねぇ…」
田上は、何と答えればいいのか分からずに、黙ったままタキオンを見つめた。タキオンは、また口を開いた。
「………はぁ……、…難儀なもんだよ。君とこれからも付き合っていくには、君のことを見つめなければいけない。……君の事が難儀だって言ってるわけじゃないんだけどね?」
「…知ってるよ」と田上は、唐突に体を起こしたタキオンを見上げながら言った。
「………まぁ、…人付き合いは難儀だね。…中々上手く行かないもんだよ。理想ばかりじゃ、上手く行かない。現実を見続ければ疲れる。……君の事は好きなんだが、甘え続けるというわけにもいかない」
田上は、少し目を逸らして、ベッドのシーツの皺を見つめた後に、「そうだね」と気を取り直すように言うと、タキオンの横に体を起こして、胡坐をかいた。タキオンは、その顔を見つめて言った。
「……君は……、いや、……難儀かい?君は」
「……どうだろう。…知らない」
タキオンは、後頭部の方をポリポリと掻くと、ため息を吐いてから、またベッドの上にゴロリと横になった。田上は、それを座ったまま見つめた。
タキオンは、とりあえず、自分とマテリアルの部屋で風呂に入り、田上も自分の部屋で風呂に入った。それから、タキオンは、「ぎりぎりまで君の傍に居たい」と言って、また田上の部屋に上がり込んできた。
田上も別にそれを止めはしなかったが、内心では少々複雑だった。それが、表情の中にあるのをタキオンは察したが、敢えて、何かを言う事もせず、田上の横を通り過ぎて、部屋の中に入った。
部屋に入ると、タキオンはそのまま田上のベッドに直行して、そのベッドの上にゴロリと横になった。手前側だ。そして、田上がその奥側の方に入り込んで、狭いベッドの上で二人うつ伏せに肩を並べて、本を読んだりスマホを見たりしていた。
タキオンは、持参していた本を読んでいた。田上は、少しスマホを見た後に、大きく深呼吸をして、ごろりと仰向けになった。もう何も見る事はせずに、ただ目を瞑って、ゆっくりと胸を膨らませては萎ませていた。
そんな田上の事を見ると、タキオンは何だか本を読む気が無くなって、田上と同じように、ベッドの上にゴロリと仰向けになってみた。少々狭いが、何とか二人入れる広さだ。タキオンは、――ここで二人で眠りたいなぁと思いながら、天井を見上げていた。隣からは、彼氏が静かに呼吸しているのが聞こえる。その音を聞くと何だか幸せだ。ずっとここに居たくなる。
タキオンは、その想いを発散するように、隣の田上の手をぎゅっと握った。田上も目は瞑っているものの、タキオンの手を面白がるように握り返してきた。タキオンは、それを少し嬉しく思って、田上の肩にもう少し自分のみを寄せた。それから、今自分が少し心配な事を口にした。
「…………宝塚記念……。……君はどう思う?」
「………タキオンが勝つ…」と田上は目を瞑りながら答えた。タキオンは、それに僅かな苦笑を漏らして、目を空中に泳がせた。
タキオンは、絶対に勝てないと思っている。勝つ自信もないし、気力もない。まるで、自分の中から、ウマ娘たる部分が全て消え去ってしまったような感覚だ。田上を助ける事を目標にして、少しは自分の気を取り戻したからいいものの、流石に、昨日の今日で何もかも回復して、宝塚記念で勝てと言われると、少々きつい所がある。タキオンに勝つ気力はなかった。
そうやって、タキオンが困ったように黙していると、田上が口だけを開いた。
「………自信ないの?」
「………ない」
「………そう……」
そう言った切り、田上は何の言葉も発しなかった。その言葉の後に、何かあるんじゃないかと思って、タキオンも少し待ってみたりしたのだが、田上は返事ばかりをしただけのようだった。
タキオンとしては、もう少し彼氏らしい、それでなくてもトレーナーらしい反応を期待したいしたのだが、これでは肩透かしだった。それで、タキオンはまた、こう言葉を続けた。
「………負けたらどうする?」
「……んー………、…んん…」
「………怒る?」
「………どうかな…。………タキオンが一番分かってるんじゃない?」
分かっている事には分かっている。少々田上の口から自分を安心させてくれる言葉が欲しかったのだが、田上の言葉を聞いて、タキオンは、この話がどっちに転んでもあんまり上手く行かなさそうな気がして、納得した。自信が無い彼女には、「そう…」という肩透かしな返事で済ませたほうが良い。それでも、なんだか体が宝塚記念のことを考えてむずむずしていたので、タキオンは居心地が悪かったが、田上のことを大切に考えると、そのむずむずも少しは消えていったような気がした。
タキオンと田上は二人で手を繋ぎながらベッドの上で、静かに横たわっていた。二人共何も話さなかったので、今日の疲れもあってか、田上はそのまま眠りに就きそうになったが、すんでの所でハッと目を覚ますと、タキオンを部屋から出した。
タキオンは、全く以て残念そうに項垂れながらも、田上の命令で外に出て行く他なかった。そんな残念そうながらも、タキオンは素直に外に出て行ってくれたので、田上は少々申し訳なくな思ったが、こんなところでまで妙な事はしたくなかった。それでも、田上の胸には――一緒に寝るくらいならバレないだろうし、良かったんじゃないか? と咎めるものがあった。
そして、街は眠りに就いて、夜が明けた。
タキオンはマテリアルがつけていた目覚ましで目を覚ました。そして、あまり馴染みのない天井を見上げて、ここが一瞬何処か分からなくなり、次には、――自分は走りに来ていたのだと気が付いて、寝返りを打った。隣のベッドではマテリアルが、ふぁ~~と欠伸した後に、早速朝の支度をごそごそと始める音が聞こえた。
タキオンは、その音を聞きながら憂鬱になった。
――どうせ勝てない試合をなぜ走らなければいけないのだろうか? と思った。その次に、――早く圭一君に会いたい、と思ったが、体はあまり動く気を見せなかった。圭一君はもう起きたのだろうか、廊下には人がいるだろうか、宝塚記念は大丈夫だろうか、と色々な事が脳内を駆け巡ると、それを考える事だけに気を取られて、動けるものも動けなかった。それでも、いつかは動かなければいけない時がやってくるから、と自分を説得して、重い体をゆっくりと起こすと、ベッドの上で気怠げに座り込んだ。
ぼんやりしているタキオンを見ると、マテリアルは、バッグから自分の着替えを取り出しながら「おはようございます」と声をかけた。タキオンは、応えようとしたのだが、口の中でごにょごにょと挨拶をするばかりだった。
マテリアルは、そんなタキオンをまだ寝惚けているのだと解釈して、特に気にしないまま自分の着替えを持って、脱衣所の方に隠れた。そして、すぐに今日着るパリッとした服に着替えて出てきた。髪はもう整えて、後ろの方で結んでいた。その時になってもタキオンはベッドの上で気怠げに座っていたから、マテリアルが声をかけた。
「タキオンさん大丈夫ですか? さっきから動いてませんが」
タキオンは、困ったのを誤魔化すように、眠気を払う仕草として、顔を撫でてみた。マテリアルは、そう声はかけたものの、それほど心配しているようでもなかった。タキオンとして見れば、自分は心配されるほど落ち込んでいるのだが、どうやら、マテリアルは人の気持ちが分からない冷酷な女なのかもしれないと思い始めた。
マテリアルは、まだ少し自分の事に忙しくしていたが、やがて、自分のやるべきことも終わって、周りを見る暇が出てくると、タキオンが起きてからずっとベッドの上に佇んでいる事に気が付いた。そして、それがどうやら落ち込んでいるようだという事も。マテリアルは、田上に相談するかどうかを一瞬悩んだ後に、とりあえず、自分でこう言ってみた。
「タキオンさん、緊張しているんですか?」
タキオンは寝惚けているふりをしながら曖昧に頷いて見せた。マテリアルは、その様子をまた少し観察した後に、傍に置いてあったタキオンの荷物を手に取ると言った。
「まぁ、とりあえず、着替えてください。それで、田上トレーナーにでも相談してやってください。なんにしろ、立たないとどうしようもないですからね。…私じゃ、あなたの相談相手には務まらないようですし」
マテリアルはそう言って、タキオンの膝元に荷物を寄こした。タキオンは、それを見つめて、暫く躊躇っていたが、やがて、圭一君に会いたいという思いが強まってくると、のろのろとその荷物を広げて、自分の着替えを取り出した。そして、そのまま、ベッドの掛布団で体を隠しながら着替えを済ませた。
着替え終わると、タキオンは、時機を見計らって隣の田上の部屋を尋ねた。扉を叩くと、もうすでに朝の支度を完璧に済ませた田上がそこに立っていて、「入る?」と静かな声で聞いてきた。タキオンは、コクリと頷いて、周りを確認してから田上の部屋に入った。
タキオンは、部屋に入ると、長いため息をこれ見よがしに吐きながら、田上のベッドに横になった。田上が、その隣に座ると、枕に顔を埋めているタキオンに言った。
「宝塚記念…不安なの?」
「……うん」と枕からくぐもった声が聞こえてきた。
「………引退が不安なんでしょ?」
「………どうだろう……」
「…違うの?」
「………分からない…」
「………じゃあ、何が不安なの?」
「………君…」
「…俺? ……俺にどうしてほしい?」
「…………分からない……」
「……リリーさんの時みたいに、真面目な話は嫌?」
「………傍に居てほしい……」
「………二人で?」
「…うん…」
「……いい感じの個室があれば良いんだけどなぁ……。昨日の、あの裏口で話す?」
タキオンが枕の中でコクリと頷いた。それから、唐突に、枕から顔を離すと、タキオンが腕を広げて言った。
「私の事抱き締めてくれ。いや、私が抱き締めようか?」
「…どうする?」
「……とりあえず、私の事を抱き締めてくれないか?」
「いいよ。…どうする?」
「……私に腕枕して、それから抱き締めて」
「分かった」と言うと、田上はタキオンの横に寝転んで、腕枕を用意した。それから、タキオンがそこに頭を乗せると、腕を丸めて、タキオンの頭を力強く抱いた。
いつもの温かくて優しい匂いがタキオンの鼻腔から、肺の中へ入ってきた。タキオンはその事を嬉しく思った。そして、同様に、彼氏が自分の事を大切に抱き締めてくれる温かみや重みや厚みをそこに感じて、彼氏への愛おしさが込み上げてきた。
タキオンは田上の胸の中で微笑みながら、暫くの間抱かれ続けていた。田上も義務感からだけではなく、純粋にタキオンの事を愛おしく思いながら、その腕の中に抱き続けていた。こうして腕の中にいる彼女は小さくて、頼りなく、不安げだった。そして、そこから溢れ出る不安が、今は田上への愛情となって押し寄せていた。
田上はそれが心地よくもあったが、ともすると、負担にもなりそうだったので、若干の疑心を抱きながら、その中にタキオンを抱いた。それでも、田上の疑心から出る怯えも、タキオンの不安から出る怯えも、二人共双方に抱きながら、それから逃れるようにお互いの事を抱いていた。
そして、二人共、それに気が付かずに、お互いの事を愛おしく思っていた。
二人はまた時間を忘れて抱き合っていて、また、マテリアルの連絡によって現実へと引き戻された。つまり、二人にとって、マテリアルとは現実へと繋ぐ架け橋なのかもしれない。タキオンは、それを忌々しく思いもしたが、田上にとっては、忘れていた現実を思い出させてくれる重要な役割を持っていた。
昨日の夜にはタキオンのスマホにマテリアルから連絡が入っていたが、今度は、田上のスマホだったので、田上は自分のスマホを見てみた。そこには『朝食です』と一言記されてあった。あんまり時間が経たないうちにその連絡が来たので、二人共不完全燃焼気味ではあった。
ただ、田上は、時間を忘れて抱き合う事よりも、朝食をとることの方が重要だと考えていたので、部屋の外に出る気はあった。タキオンは、田上が重要だと考える事が重要だったので、二人で渋々部屋の外に出た。二人共、言葉数少なだった。
二人がドアを開けると、マテリアルもその後に部屋から出てきて、トイレに行った。タキオンもそれについて、トイレに行った。田上もトイレに行った後に、ぼんやりと廊下で待っていると、カフェが田上の前を通り過ぎて行ったので、二人共無言で会釈だけを交わした。二人共、唐突に微妙な親密具合の知り合いに会って、声が出るような人間ではなかった。
その後に、松浦が出てきて、田上に挨拶をしてきた。田上は「おはようございます」と返すと、そのまま話が続いた。
「今日の調子はどうですか?」と松浦が聞いた。
「タキオンのですか?」と田上が返すと、松浦はニコニコと笑いながら首を振った。
「田上さんの。僕は、ちょっと興奮して昨日遅くまで起きてたんですけどね」
「…僕は、…ちょっと昨日は疲れて、すぐ眠ってましたね」
「ああ、そうでしたね! 田上さん、確か、チームの子が出走してたんでしたよね? ああ、見ておけばよかったな…」
そう言って、松浦は本当に悔しそうに首の後ろをポリポリと掻いた。田上は、好人物加減に少し嬉しくなりながら答えた。
「はい。エスさんとリリーさんですね」
「ん、それ思ってたんですが、リリーさんってあだ名ですか?」
「そうです。リリックさんですが」
「へぇ~。…まぁ、ちょっと僕はトイレに行ってきます。じゃあ、お互い頑張りましょうね。…譲る気はないですよ」
松浦はそう言って、軽く拳を上げて、ガッツポーズをした。田上も頷いて、「僕もです」と答えた。果たして、タキオンが勝てるのかは分からなかったが、そう答えるのが礼儀のような気はした。
タキオンとマテリアルがトイレから出てくると、田上たちは朝食へ行った。そこに、エスとリリックも合流して、一行はそれなりの集まりとなった。
田上とタキオンはそこでも言葉数少なだったが、ぴったりと寄り添ってはいた。二人共、言葉では伝えられないような思いを伝えるかのように、ずっと寄り添ったままでいた。
その理由は、自分の気持ちを言葉で表すと途端に、嫌な響きになるからだ。寂しいとか、傍に居たいとか、不安だとか、そういうのを言葉にするよりかは、気心の知れた者同士で、ずっと背を合わせて、お互いの事を感じている方が良かった。言葉にしてしまうと余計な議論が巻き起こる可能性がある。だから、二人は何も話さずに、ただお互いを守っていた。
部屋に戻っても二人はそんな感じだった。気晴らしの散歩へ行ってもそんな感じだった。そこから、早々に戻ったとしてもそんな感じだった。
そして、漸く、タキオンが田上の部屋に戻って、ベッドに寝転がった時に、タキオンが口を開いた。
「………つらい……」
タキオンが一言そう発すると、田上はタキオンの方を向き、次いで、タキオンの不安を慰めるためにこう言った。
「………もう一回、抱き締める?」
タキオンはコクリと頷いた。元よりそれが目的だ。そして、座っていた田上は寝転がると、タキオンの頭を腕の上に乗せて、それをぎゅっと抱き締めた。
二人とも不安だった。いつかこの状況が破裂して、二人がバラバラになってしまうのではないかと、気が気でなかった。そして、それは、タキオンが田上に抱き締められた今でも同じだ。先程と同じように、嬉しがることなんて到底できなかった。
タキオンは宝塚記念の中にある得体の知れない不安に怯え、田上はそれに波長を合わせるようにして怯えていた。そして、二人共その不安を何とか払拭しようと、お互いを抱き締め続けていた。
時間は躊躇いもなく抱き締め合っている二人の間を通り過ぎた。二人は相変わらず、言葉数少なに二人だけの時間を過ごしていた。マテリアルが皆で散歩に行きませんか? と誘いに来ても、二人はそれを断った。マテリアルから呆れられて、「表情二人共暗いですよ?」と言われても、二人は行くつもりはなかった。
初めの内は抱き合っていたのだが、その内に、抱き合うのにも飽きが来たので、二人共、ぴったりと寄り添いながらも、各々の趣味に勤しんだり、時にはただ窓の外を見つめてぼーっとするだけの時間があったりした。
昼食の頃になると、二人はおのずから部屋の外へ出た。外に出てみると、人は思ったよりも騒がしいし、景色は思ったよりも賑やかで、目に眩しい。洋装のホテルの赤い床は特に眩しかった。
二人ともそのような気持ちで先へ進むと、例のマテリアルとリリックとエスに出会う。リリックは、陽気なエスとマテリアルに中てられて、多少は元気を取り戻したようである。表情が少し明るくなっていた。田上も、ここまで来ると、自分まで陰気になっていてはしょうがないと思って、隣のタキオンに向かって「頑張ろう」と声をかけた。タキオンは、困ったように俯きながら「うん…」と頷いた。田上は、不出来な自分が申し訳なかった。