昼食は口に入った。美味しい事には美味しかったが、どうも隣のタキオンの事が気がかりで、いつの間にやら食べ終わっていたような気がした。タキオンは、ノロノロとしながらも、昼食を食べ終わり、箸を置くと、田上の方を向いて「参ったね」と言った。
田上だって参りそうだったが、また倒れるようなことを起こすわけにはいかないと思って、なんとか――しっかりしろ、しっかりしろ、と自分の頭に念じ続けていた。まだ、前回の大阪杯の時よりかは、真面に脳が働くような気がする。
むしろ、働いていないのはタキオンだろう。終始、落ち込んだ様な、ぼーっとしているような顔をして、昼食を終えていた。どうも、体の周りの空気が粘土みたいに重苦しくなったようで、手を出そうとしてもあまり動かず、口を開こうとしても息ができないような心地だった。
そんな中で、田上はタキオンを気遣いながらマテリアルの部屋まで運んで、自分の荷物を用意させた。タキオンを棄権させようかどうか迷ったが、どうも踏ん切りがつかないままに、レース場まで行くバスに乗ってしまった。
松浦がこっちの気も知らないで、陽々と話しかけてきた。タキオンは陰気にうんと頷いた。それで、松浦も空気の悪さを察して、落ち着きを取り戻しながら、田上と幾つか話をした後、カフェの方へ立ち去った。
カフェは、元気のないタキオンを流し目でじっと見た後、目を逸らして、窓の外を見た。車が、阿保の様に走って来ては去って行く。走って来ては去って行く。
カフェは、タキオンなんて相手にもならなさそうだと思った。
お友達の幽霊が、バスの窓の外を黒い影をたなびかせて走っている。そうやっているうちに、カフェの視線に気が付くと、途端にお道化て手を振ってきた。
カフェはトゥルースが走っている姿が好きだったので、少し残念に思った。トゥルースに手を振り返さなかったのは、その腹いせではなく、単に愛嬌が無いからだ。
カフェはトゥルースをじっと睨めつけた後、窓から見えるレース場に目をやった。果たして、どんなレースが繰り広げられるのだろう、と妄想を繰り広げているだけで、少し心臓はドキドキしてくる。走るのは無論好きだ。ただ、レース場よりかは、広い草原を走り回る方が好きだ。と言っても、別にレース場もそれ程苦手でもないので走る。影の先に光るものを求めて。
タキオンは、控室の椅子を一列に並べて、具合の悪そうに、その上に横たわっていた。田上は、タキオンの頭の方に椅子を置き、そこに座って、タキオンの気分が少しでもよくなるようにと、その顔を広くて武骨な手で撫でていた。
タキオンがこうすれば喜ぶのは分かっていたし、タキオンは実際に喜んでいた。それでも、辛さを十分に癒す事はできずに、自分の腕で目を覆って、少しだけでも体を動かさないようにした。
別に熱があるわけではない。風邪を引いているわけでもない。自分が、鬱と似たような物になっているのはなんとなく分かるが、それを言い訳にして逃げる程、タキオンの心も鍛えられていなかった。
田上は余程タキオンを棄権させようかと迷ったが、タキオンは「出るから放っておいてくれ」と辛そうに言った。
田上は、マテリアルとも相談したのだが、タキオンは出ると言って聞かなかった。そして、出てくれた方が嬉しいトレーナーたちは、無理にそれに反対してまでも、タキオンを棄権させる勇気を持ち合わせていなかった。
田上も迷いこそしたが、自分がタキオンにつられて陰気になっている事に気が付くと、それは良くないと思って、とにかくタキオンを元気づけようとした。
それで、田上は、タキオンの頬を撫でながら、「元気出ろ~元気出ろ~」と昔、母が、自分が熱を出した時にしてくれた時の様に力強くそう唱えた。
実際、タキオンもなんだか面白くなってきた様な気がして、思わず、ニヤリ笑いも零れそうになったのだが、ここで自分が元気になってもらっても困る。何だか、圭一君を騙してしまったような気がするし、人間として、この場で元気が出て笑うというのは相応しくない。
タキオンの心境としては、まだ、レースに対してのモヤモヤが晴れたわけではなかった。だから、笑ってしまうと、レースに対してのモヤモヤが見逃されてしまうような気がした。それでも、田上は、タキオンの元気が出るにしろ出ないにしろ、これを最善の策だと信じて、タキオンの頬を「元気出ろ~元気出ろ~」と唱えながら撫で続けた。
時には、おでこを撫でたり、髪を梳いたりしながら、タキオンの事を一生懸命元気づけた。タキオンは、それに真正面から答えきれない自分を申し訳なく思ったが、同時に、真正面から答えなくても、一生懸命に撫で続けてくれる恋人に感謝の念を持った。
マテリアルは、そんな二人を見ながら、――仲が良いな、と思った。
外は雨だ。九時ごろから降り出した雨は、レース近くの三時後半になっても止む気配はなかった。タキオンは、こういう日は嫌いだ。特に、ぬかるんだレース場を走るのなら尚の事嫌いだ。
しとしとしとしとと雨はレース場に降り続き、屋外である観客席にも、ビニールの合羽を来た人たちが、白い塊となってざわざわと佇んでいる。皆、タキオンやカフェ、その他の子達のレースを楽しみにやって来た人たちだ。人気投票では、昨今のタキオンの元気のなさを鑑みて、カフェに入れた人が多かったのか、一位がカフェで、二位がタキオンという結果だ。三位は、前哨戦のGⅡで優勝を収めたストーリーテラーだ。
タキオンは、本来の調子であれば、人気投票でも一位になるかもしれなかったが、どうも、他の人の視点からでもタキオンが目に見えて調子が悪そうなのは分かっていた。それでも、応援してくれる人がいるから二位なのだ。タキオンとしては、応援してくれない方がありがたかったのだが、そうも言っていられない。
タキオンはいつの間にか勝負服の白衣を着て、ターフの前に立たされた。そこで、少し呆然としていると、横をカフェが走り去っていった。カフェは、いつものあの黒い服だ。風に黒い布や髪、尻尾をたなびかせて走っているのを後ろから見てみると、まるで、影がその場を走り抜けて、雨の中へ消えて行っているようだった。タキオンは、あんな風に走れるカフェを少し羨ましく思いながら、自分も徐々に走り出した。
スタンドの前を通り過ぎると、歓声が鳴ったから、タキオンは急いでそこを後にした。自分は、あまり人に歓迎されるような人間でありたくはなかった。
タキオンは、雨の中に小さな黒い影が猛スピードで走り去っていくのを捉えた。気合いは十分、調子も十分と言ったところだろう。
タキオンは、――カフェがあそこでこければいいのに、と他人の不幸を願ったが、そう願っても詮無い事だった。カフェはこけず、自分は走る。むしろ、自分が足首など痛めて棄権したほうが良いのではないだろうかと思ったが、わざわざ自分で無理に足を捻る程、その思いは強烈ではなかった。
それでも、刻一刻と迫ってくる時間の為に、タキオンはとりあえずターフの向こうへ走る。自分なんて走ったって何にもならないだろうとか、どうせ負けるのにとか、適当な事を八つ当たりでもするかのように考え続けたが、何をどうやったって詮無い事だ。いつの間にか自分はゲートの後ろで待機するウマ娘の群れに加わっていた。
そこで、カフェと目が合った。カフェはあたかも今から黒い炎が目から吹き出さんかのような形相で、タキオンを見てきている。その目は、本気で走れ、と言っている。タキオンの心を見透かしている。タキオンは少々後ろめたくなって、カフェから目を逸らした。
次にはファンファーレが鳴る。終わる。ゲートの前に立つ。そこに入る。少々ため息を吐く。少し待つと、ゲートが開く。自分はそこから飛び出した。
走り出しは可もなく不可もなく。一番不可があるのは、自分のメンタルかもしれない。それ以外はもしかしたら完璧なのかもしれないが、タキオンとしては完璧ではない方が良かった。
完璧に走り切ってしまうと、自分の問題がまるで何もなかったことにされてしまうのではないかと恐れた。そして、実際に完璧に走ったら、空気は有耶無耶になる可能性が高かった。少なくとも、今日は走れたという事で、田上は一旦満足してしまうだろう。尤も、走れないのだからこうして苦労している。一思いで一着になれるのならば、自分もこんなにくよくよと悩まずに済む。カフェにもあんな目を向けられずに済む。
そもそも、カフェはなんの恨みがあって、私にあんな目をしてくるのだろうか? こっちはそんなつもりじゃないのだが、あっちは一方的にこちらの方をライバル視してくる。――全く困ったものだ、とタキオンは心の中でため息を吐いた。
レースの先頭は、逃げの作戦を得意とするストーリーテラーが引っ張っている。タキオンは先行の位置に居たが今一やる気は出ない。隣には、この前のマイルのGⅠを勝った子がいる。タキオンよりも年上の子だ。その後ろに、またぞろぞろと幾人かの群れが、タキオンたちの後ろをつけ狙っていて、その最後尾から三四番手の位置に、カフェがじっと辺りを見据えながら走っていた。機を失えば、前を塞がれる。常にルート取りは把握しておかなくてはならない。
ここに居るのは、皆、大概一流のアスリートだ。数多のウマ娘の中から勝ち上がってきた。タキオンがそのトップの中のトップに君臨している。いや、していた? どちらかは分からないが、どっちにしろどうにかなれば良いと思っていた。普通の女の子になって、田上と付き合えるのならば、タキオンにとってはそちらの方が断然良かった。いや、普通の女の子だったら、圭一君の方は見向きもしてくなかったかもしれない。
——自分はどうすればよかったのだろうか? と多少の苛立ちを抱えながら、タキオンは走った。右に走ればぬかるみがあり、左に走ればその分距離も伸びる。人もごちゃごちゃしている。こんな不快な雨の中で、勝ち残れと言う方が滑稽だ。言うのならば走ればいい。 ――誰が? 圭一君でもない。マテリアル君でもない。エス君でもなければ、リリー君でもない。ならば、カフェに走らせよう。あっちが一方的にライバル視してきていたって、こっちには何の関係もないのだ。最早、自分のウマ娘としての部分は消え失せた。このレースが終わったら引退しよう。
――引退? 誰が? 私が? なんで? なぜ、私が引退しなきゃならない。
――圭一君と結婚するためだよ。
――結婚なんて今すぐにできるわけでもないのに?
――でも、最早、ウマ娘としての部分は消え失せたんだろ?
――…でも、私はまだ走れる。
――そうやって、自分の栄光に追い縋るのか?
――……追い縋りたいんじゃない。…私は、……ただ、走りたいだけなんだよ
――詭弁だ。
――詭弁なんかじゃない。…走るのは好きだよ。
――超高速で? 架空の理論で?
――夢を持ったって良いだろう…?
――どうせ、人間の肉体には限界がある。
――ウマ娘の肉体には?
――…ある。寿命すなわち限界だ。現に、お前は不老不死でいたくないと思っているじゃないか。
――それなのに、永遠は欲しい。
――矛盾だな。
――矛盾だよ。つまらない。圭一君の懐でずっと蹲っていたい。
――……彼を助けるんじゃないのか?
――………今更私に何ができる?
――……なんにも。
――だろう? もう、私には、現実から逃れて、夢に浸って生きるという選択肢しか残されていないのだよ。
――そんな事の為に生きてるのか?
――彼と一緒なら死んだっていい。
――とんだ色狂いだ。彼は、真面目に生きたがっているんだぞ。
――私の言う事なら聞いてくれる…。
――お前の言う事なら? 自惚れてるんじゃないか? 先週怒られたばかりだろ?
――じゃあ私にどうしてろって言うんだ!!
――………死ねばいいんじゃないか? 死んで彼を解放してやれば。
―—……私が死んだら、彼の方だって悲しむ……。
――悲しみは一時。生きれば、永遠に悲しむ。
――………幸せになりたい……。
――………諦めたまえ。………幸せという言葉は、初めから無いも同然なのだよ…。
そんな事を考えているうちに、タキオンは、いつの間にか最終コーナーの所まで来ていた。タキオンの位置は、四番手くらいになっていた。皆もうそろそろ動き出していた。タキオンは、マークされているのか、いつの間にか周りを囲まれている。揃いも揃って、私の事を倒すべき敵だと認識している。――今の自分にそんな力はないというのに。
それでも、レースに出たからには、勝つために動かなければならないので、やる気のない頭でできるかぎり勝利への道筋を探った。いつの間にか、カフェは後ろの方からロングスパートをかけて、前の方へ躍り出ようとしていた。自分の一二馬身後ろにカフェが居るのを確認できる。もうすぐ最終コーナーも終わり、直線に入る。ここで、周りを囲んでいたウマ娘たちの意識も勝利の方へと傾いて、タキオンの囲いにも綻びが生じる。タキオンはそこに位置取ったが、いつもの様な周りの皆をあっと思わせる驚異の末脚は飛び出してこなかった。
タキオンは、カフェが先頭に踊り出すのを見送った。流石カフェだと思った。菊花賞で自分が勝ったのも全くの偶然じゃないかと思う。腑抜けてしまった自分にはもうあの時のような力はない。ピークの時期も過ぎ去ったのかもしれない。負ければ負けた分だけ、メンタルに影響するかもしれない。タキオンはそう思いながらも、できる分だけは頑張って、なんとか掲示板内の五着には収まった。
タキオンは、すぐには止まらずに、暫くゆっくりと自分のスピードを落としたのちに、掲示板を覗いた。自分の番号が、掲示板にくっきりと映って見える。カフェの番号は一番上に光り輝いている。
その後に、タキオンは田上とした、色んな会話や作戦会議を思って申し訳なくなった。あんなに色々な事をしてくれたのに、自分は勝つ気すらなく、ぎりぎりの五着に収まった。これで良いと思っていた。あの時にした真剣な会話は全て嘘だ。私は悪い女に違いない。全て負けると思っていても尚、適当に彼と話の調子を合わせていた。私は二枚舌のヘビに違いない。
私は、ウィナーズサークルにはいない。敗者として、愚者として、折角の白衣に多少の泥をこびりつかせたまま、つまらない廊下を歩く。この後の圭一君の反応が気になったが、結果は勿論見えている。彼は怒りはしない。
むしろ、今のタキオンの心境としては、田上がこっぴどく怒ってくれた方がマシかもしれなかった。それで、やっと自分の目が覚めるかもしれないと思ったが、同様に、怒られるのもあまり好かなかった。怒るくらいだったら抱き締めてほしいし、そこで怒られたとしたら、自分は逆に怒り返すだろう。――何故私の気持ちを分かってくれない? と。
タキオンは、どうしようと思った。圭一君を助けたいと思ったし、自分にはそれができるという自信もつい昨日までは、不意に、幻の様に浮き上がってきたのだが、今ではもう自分が助けられる側だ。それでも、自分は圭一君を助けると思わなくてはいけないのだろうか? 一体どうすればいいのだろうか?
そう思って、ぼんやりとシャワー室までの廊下を歩いていると、曲がり角から田上が顔を覗かせた。一瞬目を合わせてしまったタキオンは、しまったと思って、すぐに目を逸らした。できれば気が付いてくれないほうが良いと思ったし、また、気が付いてほしくもあった。ただ、気が付いたとて、何を話せばいいのか分からなかったから、どっちつかずな心境だった。しかし、田上はタキオンとバッチリ目を合わせてしまったのだから、タキオンの事には気が付いている。その袖の長い白衣を、田上はこれまでも幾度となく見てきた。そして、今日もまたその姿を見た。
田上のやる事は決まっていた。励ましもしなければ、無為な喜び方もしない。ただ、自分は落ち込む事無くタキオンの傍に寄って行って、「よくやったな」と言いながら、その背を軽く叩くだけだ。田上は、廊下の向こうからこちら側へ歩いてきたタキオンの傍に行くと、そのような行動を取った。近くではマテリアルが見守っていた。
タキオンは、田上の気遣いが身に染みて、無闇な弱音を吐くわけにはいかなくなった。彼が自分のことを大切に思ってくれているのは、口調からもう既に分かる。そこで、無闇な弱音を吐いて困らせるのもタキオンの本意ではない。
タキオンは、「ありがとう」と小さく、今にも空気の中に溶けてしまいそうな声でそう言った後に、シャワー室へと歩いて行った。田上とマテリアルはその後ろ姿を心配そうに見送った。
マテリアルは控室に戻り、田上はシャワー室近くの廊下で、紅茶を飲みながら待っていた。鼻の中に残る匂いを感じながら、紅茶を一口ずつ啜っていた。
タキオンは、シャワー室で、元の服に着替えて出てくると、廊下で田上が待っている事に気が付いて驚いた。てっきり、控室で待っているのかと思っていたから、これは嬉しい驚きだ。彼だけは、私の事を特別だと思ってくれている。
田上もシャワー室から出てきたタキオンに気が付くと、それ程レースの勝敗を気にしていなさそうな微笑みで、タキオンに「お疲れ様」と言った。タキオンは、シャワーによって少し冴えた頭で、元気を多少取り戻しながら、苦笑した。何故苦笑したのかは分からなかったが、ほっとしたし、負けたことが申し訳なかったのもあった。
タキオンは、自販機の前に立って、中の商品を見つめていた田上の横に寄り添うと、こう話しかけた。
「………私の今日の走りはどうだった?」
「……どう? ………タキオンはどう思った?」
「…私?」
「そう」
「………んー……。…もうちょっと上手く走れたかなって」
「……そう…。……タキオンがそう言うならそうなのかもね…」
「………私に気を遣ってくれてる…?」
タキオンは、田上から手渡された百八十円で、田上が持っているのと同じ紅茶を買いながらそう言った。
「ん? ……まぁ、…あんまりどう言えばいいのかも分からないし、無闇な事言えば変だから、お前の言う事を聞いたほうが良いかな、と思って」
タキオンはその言葉に、紅茶を一口飲んだ後に答えた。
「それが正解だ」
そう言われると、田上も少し微笑んで「良かった」と言った。
それから、二人は比較的穏やかな心地で、寄り添いながら控室へと戻った。また、昨日の時の様な裏口に行くか、控室にするかどうか迷ったのだが、二人共、大分落ち着いた調子であったので、ゆっくりと、マテリアルが待つ控室に足を運んだ。
控室のドアを開けると、ぼんやりと天井を見上げていたマテリアルが、慌てて顔を戻し、部屋に入ってきた田上とタキオンを見た。それから、二人の方に向かって言った。
「先程、お母様の方がいらっしゃいましたよ?」
成程、二つの荷物が白い机の上に置かれている。タキオンの母のと、妹の桜花の荷物だろう。田上は、「今は?」とマテリアルに聞いた。
「トイレの方に二人で行ってらっしゃいました」
その言葉のすぐ後に、タキオンの母と桜花がやって来た。そして、田上たちを見ると、「あら~」と嬉しそうな声を上げた。
「圭一君、こんにちは~。今日は五着だったけど、いいもの見せてもらいました~」
「ああ、いえ、僕の至らない限りで申し訳ありません」
田上は、この人に「圭一君」と呼ばれていたことを今まで忘れていたので、多少驚きながらもそう返した。母の方は、「いえいえ、全然」と言って首を振るとタキオンに声をかけた。
「あんたも今日は、雨に降られて、五着でって、災難だったね」
「ああ…」とタキオンは返事をした後に、椅子の方に座った。田上もその横に座ったまま、母と妹の動向を見ていると、妹が田上に話しかけてきた。
「お兄ちゃん久しぶり~」
「ああ、桜花ちゃん久しぶり」
「お姉ちゃんと仲良くしてた?」
「ん? …まぁ、…良い具合だったよ?」
その言葉の後に、母が口を開いた。
「試合前の方に訪ねられなくて済みません。ちょっとどたばたしていたもので」
田上の方は、今日は母が来る予定だったという事を、タキオンの世話で完全に忘れ果てていたから、特に謝られる必要はなかった。お互い様だ。ただ、謝られるのが礼儀なので、田上もその礼儀に則って、「いえ、お構いなく」と答えた。それから、タキオンの母は、ゴールデンウィークの時の思い出話に取り掛かった。それを面白がって聞くのは、タキオンでも田上でもなく、マテリアルだったので、最終的に、母は、マテリアルに向かって結構話しながら、皆で会話をしていた。そして、その言葉の折々に桜花が、口を挟んで話を盛り上げていた。田上とタキオンは、時折目を見合わせて、仕方がなさそうにした。自分たちの色恋を話のネタにされると、何も言うことができない。
そうやって、レース後の時間は無くなっていった。
元より、二人は話をしたいのかどうかが分からない。話をしたくはあるのだが、その話す内容によって、二人の関係がぎくしゃくするのは嫌だから、なるべくなら話さないで済ませたい。しかし、そうも言っていられない。問題は目の前にある。そして、二人はそれに見て見ぬ振りをしたい。
そんな二人は一先ず置いておき、カフェの方を話してみる。
カフェは、カップに注がれたコーヒーが渦巻いているのを眺めていた。そこに泡立つ空気の塊は、時にタキオンの事になったり、田上の事になったり、ロードの事になったり、トゥルースの事になったり、松浦の事になったりした。そして、その思いをコーヒーごと一気に飲み下してみる。
コーヒーが胃に注いで、溶かされるのかと言うと、それは違う。それは、血液にそのまま個体として溶け込んで、やがて、血流に乗って、脳内へとやってくる。そして、また考え出すという寸法だ。ただの茶番だが、容易に飲み下せるものでもない。カフェは、いつもその考えをカップに注いではコーヒーと共に飲み、またカップに注いでいた。
今日の勝利がカフェにとって大きな喜びになったかと言うと、それは違う。むしろがっかりした。ゴール板を駆け抜け終わって、後ろを振り返った時、白の衣が泥に塗れて、ぼんやりとスピードを落としていく様を見ると、本当にこの人は腑抜けてしまったのだな、と思う。自らそれを認めているかの如く、五着だ。あの時の情熱は本当に、一体どこへ行ってしまったのだろうか?
カフェは、口の中に溜まったコーヒーの熱を、外へ逃がすかの如くため息を一つ吐いた。隣のベッドには、コサメノアジサイが寝転がりながら、薄青色の尻尾を振っている。見ているのは本で、そのタイトルは、『砂と花と陽炎と』というタイトルだと教えてもらった。今話題の本だ。なかなかの名作らしいから、今度自分も読んでみようと思っている。それに、装丁というのも中々にお洒落で自分好みだ。表紙の絵は、砂の中にあるオアシスに赤いハイビスカスだ。自分好みの絵だから、自分の部屋に持っておきたいくらいだ。ただ、あんまり無闇に買いすぎるのも自分の性ではないので、そこはまだ本棚やお財布と相談してみる必要がある。アジサイから冒頭を読ませてもらった限りでは、その中身も自分の好みに仕上がっている。
世の中には偶にこういう人がいる。自分の心の中にある風景をそのまま書き出せるような人というか、普遍的に存在している感情を思い出させてくれる人。波止場響子はまさにそれだ。あの、カフェの記憶に残った『scene』というゲームを作った監督もそうだ。カフェはそういう人たちが好きだ。そういう人たちの作る小説は、大体、人の心に寄り添うものが多い。と言っても、人の心に忖度するのではない。人の心を考えることが、そのまま寄り添うことへと繋がっているのだ。そうして、自分の心の中にある蟠りが、一つずつ一つずつ解かれていくのを感じると、カフェはそれを心地よく思う。
そうは言っても、まだまだ世の中分からないことだらけである。果たして、自分の心が、他の人が見えない物が見えるという柵から解放されるのだろうか? と思った。まだ、年若いカフェは、もう無理なのではないのだろうかとも考えた。その後に、また、今日勝ってしまったことを思い出して、ため息を吐いた。
自分は一体どうしたかったのだろうか? とカフェは考えた。タキオンに勝っても駄目。負けても駄目となると、流石に、タキオンの方に同情してしまう。ただ、向こうだって、走れるレースをわざわざ腑抜けから捨ててしまったのは事実である。
とすれば、カフェは、――タキオンは自分にとって永遠のライバルであってほしかったのかもしれないと思った。いや、どうだろうか? そもそも、この宝塚記念でタキオンが全盛期の力を見せなかったのは事実である。タキオンが全力で挑んできても尚、カフェが勝ったのなら、もしかしたら、カフェは満足していたのかもしれない。いや、しかし、全盛期の力で挑んでくるタキオンには絶対に勝てないという確固たる自信が、カフェにはある。あれは、情熱の炎だ。自分にはない輝きを持っている。影はいつだって光の背後にある。そのような感覚だ。だから、カフェはタキオンのことを尊敬している。男に惚れたら弱くなるということと、生活面のだらしなさ以外は。
大体、あのトレーナーは、トレーナーとしてあるまじきことをしているのではないだろうか? 教え子に惚れたということは置いておいて、あの五着という結果は、トレーナーとしては大失態だ。今まで勝てるものを勝てなくさせた。恋人になっても尚、勝たせ続けるというのがトレーナーとしての役目じゃないのだろうか? それが、惚れた途端に、タキオンの方からやる気をなくさせた。これは、トレーナーとして、やるできことをできているのだろうか? 本来ならば、やる気はそのまま持続させるべきである。それを消してしまったのだから、カフェは、――田上トレーナーをトレーナーの座から下ろすべきじゃないかとすら思った。
ただ、そうすれば、タキオンさんと片割れになっているような人だから、タキオンさんのやる気はもっと削がれるだろう、と予測した。となると、田上トレーナーの指導の下で、タキオンさんがまたやる気を出して、再起するのを祈るしかない。
カフェは、少々もどかしく思った。
船体がぎしぎしと軋む音を立てる幽霊船に乗って、死出の旅に向かえば、何か見えてくるものはあるだろうか? なぜ自分は見えないものが見えてしまうのだろう? とか、なぜ自分はこの世に生まれてきてしまったのだろう? とか。
見えないものが見えるからこそ、この世はもっと見えないもので溢れていると思う。人の感情とか、人間関係とか、その他にもあるのじゃないかと思う。カフェはそれを漠然と感じて、少々逃げている。向き合う事を教えてくれたのは、松浦トレーナーだ。あの人はよくできた人だ。この世に見えないものがあるという事をしっかりと分かっている人だ。田上トレーナーとは比べ物になった物じゃない。故に、菊花賞を優勝できなかったことだけが悔やまれる。しかし、タキオンさんの方には憧れる。あの背中に勝ちたいと思う。なぜ憧れるのかは知らない。きっと、負けたからじゃないかと思う。
そこでカフェは、少し考える事に疲れて、自分のベッドに横になった。もう少ししたら自分のライブへ向かわなければならないが、今はもう少しだけ休みたかった。
田上はタキオンをウイニングライブの準備へと見送って、自分は昨日と同じように控室に入った。そして、少し疲れたので、そこで腕を枕に眠っていたが、程なくして関係者の席へ向かう事となった。
そこでも、公演が始まるまでに田上は一眠りした後、ウイニングライブの熱狂の渦の中に立った。初めの方で、まだ、何回もライブをこなした事のない子達が踊るのを見ると、昨日のライブを思い出した。
昨日は、まるで、我が子を見守るかのような感覚で、田上はハラハラしながらリリックの方を見ていた。エスの方はそれなりに歳も上という事もあったし、自信もリリック程ないという事もなかったからよかったが、リリックはつい午前中に七着に破れたばかりで、田上は立ち直り切れているのか心配だったが、ちゃんとこなしていたので安心した。
エスの方は、田上たちの方を見て手を振ってくれたが、リリックは「関係者席の場所は言わないでほしい」と直々に頼まれた。そこを教えられてしまうと、ダンスに集中できなくなるかもしれなさそうだからと言う。
田上とマテリアルは、一生懸命サイリウムを振って、リリックの事を応援した。田上もそんな柄ではなかったのだが、それでもできる限りの声は出した。
今日のところはいくつかのダンスが終わって、最後のトリにタキオン立ちが出てきた。と言っても、タキオンはいつものセンターではない。五着の位置に立って踊っている。ここまで来ると、流石に慣れた子が多い。動きも機敏で、見ていて安心感がある。
田上は、タキオンに見えるようにサイリウムを振った。流石は、プロ根性のあるタキオンで、本来ならもっと田上の所を見たいはずなのだろうが、視線を送ってきたのは一度きりで、後は観客に向かってしっかりと踊っていた。
ただ、タキオンがセンターじゃない事だけが田上には悔しかった。本当なら、タキオンがあそこに立って踊っていたはずなのに、自分が不甲斐ないばかりに、タキオンを五着にまで落とさせてしまった。
――次があるなら、次こそは! と田上は、少々気合いを入れていた。
ライブが終わって、帰る時になった。タキオンは田上の隣に座った。タキオンが窓際の席だ。
バスに乗る際、カフェと順番を譲り合うことがあった。その時に、カフェがこちらを睨んできていたので、タキオンも睨み返した。特に、怒ってはいないし、むしろ、仲の良い友達の方がタキオンとしては心地が良かったのだが、どうやら向こうはそうもいかないらしい。もしかしたら、レースでタキオンが五着だったことを根に持っているのかもしれないが、そんな事一々引きずっていたってどうにもならない。第一、なぜこちらの方が怒られなければいけないんだ。こちらが負けたからには、こちらが怒る方が順当だろう。まぁ、私は元よりそんなに怒りはしないが。
カフェに怒られる理由には心当たりがあるが、そんなこと気にしたってどうにもなるまい。
タキオンはそんな気分だった。実際どうしようもないのだ。あの時の自分にやる気を出せと? 勝って何もかも終わりにしろと? そんな事、どうしたってできない相談だ。過去をひっくり返すことができないのは身に染みて分かっている。あっちは理不尽な怒り方だろう。こっちは、順当に選手として、不足なところがあって負けたというのに、向こうは自分を神か何かだと思っているのか? そんな事は、スポーツ誌だけで充分だ。
そんな事を考えていたとしても、最愛の彼氏の横というものは心地の良いもので、バスに揺られて、ホテルに運ばれているうちに、タキオンはすっかり気分が解けていた。後は、彼氏たる圭一君に、自分の悩みや不安を聞いてもらって、それに答えを出してもらうばかりだった。
ホテルですれ違ったカフェにタキオンは、意気揚々と話しかけた。
「やぁ! カフェ~! 今日は好走だったねぇ!」
「………あなたは凡走でしたね……」
「いやぁ、雨には参った。もう、足が取られて取られて、走りづらい事この上無かったよ」
「私も同じ条件でした……」
「だから、好走だったと言ったんじゃないか! おめでとう!」
先程から妙に元気なタキオンをじっと見据えた後に、カフェはこう言った。
「………引退でもするつもりですか……?」
「引退?」
カフェにそう言われた途端に、タキオンの表情には動揺の色が現れた。元気も少し引いたし、口もペラペラと回らなくなり、目をカフェの背後に彷徨わせたのちに言った。
「私が引退するのはまだ先だよ」
「……あなたが五着だなんて、…もうピークは去ったのでは?……」
カフェの言葉にタキオンは嫌そうな表情をした。
「……。…なに、…やるときはやるさ。…次走は?」
「………ジャパンカップか……有馬……」
「残念。私は、天皇賞・秋かもしれない」
タキオンは、隣に居る田上を見ながら言った。田上は、タキオンの話を聞きながら、今の言葉を飲み込むように頷いた。
カフェは、その田上を見た後に言った。
「………菊花賞の時のあなたはどこに行きましたか?……」
タキオンは、これまた面倒臭そうな顔をした。
「菊花賞? ……ずっと私はここに居るとも」
「………覇気が消えましたね……」
「……圭一君からも言われたよ。……どうしたもんか分からない……」
「………では、…まだ走るつもりはあるので?……」
「……まぁ、…どうしたもんか分からないよ。実際にピークを過ぎたのかもしれないし、負けを気にし過ぎて、沈んで行ったウマ娘もこれまでに居る事には居る。…私もそうならないように祈っておいてくれ」
「……願わくば、もう一度あの時のあなたと走ってみたいです……」
タキオンは、不確かな事を期待しているカフェの言葉を聞くと、仕方がなさそうに口角を上げて、田上の方を見た。田上も――カフェさんの意見に賛成する、というように首をコクコクと縦に振った。ここにももう一人、不確かなことに期待する奇人が居る。この世は奇人だらけだ。
タキオンは、その中でも特に親しい奇人二人に苦笑しながらその場を後にした。
カフェは、まだ望みがありそうだと思って、少し嬉しくなったが、それは表には全く出さずに自分の部屋に戻り、夕食を取りに行った。隣にはコサメノアジサイが居る。アジサイもまた、自分を慕ってくれる後輩の一人である。こんなに後輩が慕ってくれているのは、偏に松浦のお陰だ。松浦が言葉を尽くして、カフェについて説明してくれたからこそ、自分は今こうして心優しい人々に囲まれて過ごすことができている。松浦には本当に本当に、感謝してもしきれない恩がある。第二の父親のような人だ。
この夕食には、アジサイとカフェと松浦の他に、もう一人チームの子がいた。ムチュウノトオリである。この子は、カフェに似て、じっと黙しているタイプだ。いや、むしろ、カフェよりも無口な方かもしれない。喋る気がある時は、ちゃんと声が出せるんだと驚くくらい喋ってくれるが、無口なときはとことん無口だ。今日の夕食は無口な方であるから、会話の主導権は松浦とアジサイが握っていて、それぞれ必要な時にカフェたちに話を振ってくるという方法を取っていた。
と言っても、ムチュウは無口モードに入っていたので、頷くか首を振るか、首を傾げるということくらいしかしなかった。カフェは、この子の様子を観察するのが好きだった。無言で自分の意志を伝えようとしている姿が可愛らしいし、ともすると、自分に安心感を与えてくれる。なぜなのか、具体的な理由はカフェにも分からなかったが、もしかすると、黙しがちな人としての仲間意識からの安心感かもしれない。
松浦は、アジサイと話している途中で、「恋人ってどんなもんなのかなぁ」と零していた。アジサイがそれに答えた。
「付き合ったことあるんでしょ?」
「…言ったっけ?」
「言ったよ。高校と大学の時に付き合ったって」
「………白米美味いな…」
松浦は答えに窮して、唐突に白飯の感想を述べた。アジサイはそれに、深く追求することはせずに、また全然別の話題に移った。ただ、カフェの頭の中だけは、今の話題に取り残されていた。
——男性と付き合うというのはどういうことなのだろう? 果たして、自分が男性と付き合う日が来るのだろうか?
友達と呼ぶには鬱陶しい、しかし、それに近しい存在であるアグネスタキオンは、もう恋人を持っている。そこの所だけ聞くと、自分よりも彼女の方が、一段階大人へ近づいたのじゃないかと思う。自分には、家族と同等かそれ以上に大切だと呼べる他人は存在しない。皆、大概友達止まりだ。別に、それが悪いというわけではなく、ただ、『恋人を持つ』という感覚が分からないだけだ。
一体、恋人を持つと自分の体に何の変化が起きるのだろうか? その人が大切で大切で堪らなくなり、遂には、タキオンさんの様に腑抜けてしまうのだろうか?
――もしかしたら、そうなるのかもしれない、とカフェは思った。自分の隣にも愛せる事のできる頼れる男性が現れたら、自分はその人の事を大切にしてしまうだろう。そして、レースへの情熱も、半分はそちらの方へ持っていかれるのかもしれない。
――恋人が居ないから、自分も今の様にレースへ情熱を傾けていられるのではないかと思った。他人の事を本気でライバル視するよりかは、やっぱり、恋人の事を大切にしていた方が自分の心は落ち着くような気がする。今のタキオンさんの心境はそれなのだろうか?
そうなってしまえば、自分はただ一人置いて行かれただけになる。いや、自分の周りに、自分の事を思いやってくれる人は、案外多いが、それでも、ライバルだと思っていた人が、いつの間にか大切な人を見つけて、大人の階段を上って行くのは寂しい。
――皆こんな風に大人になって行くのだろうか? 年来の親友が、結婚して子供を産んでみたり、見知った芸能人がいつの間にか死んでしまっていたりする。そこに寂しさを感じながら、大人になって行くのだろうか? 果たして、自分は大人になれるのだろうか? 他人を愛してやまない日がやってくるのだろうか?
なんだか、自分の将来については絶望的のように思えた。松浦の様に自分の事を理解してくれる人は多数ではない。妄想だろう、と酷い言葉を投げかけられた時もある。そんな世間に出てもみくちゃにされるくらいならば、世間には出ない方がマシだ。それでも、時間が進む限り、自分はおのずから世間へと放り出されてしまうだろう。強かに生きねばならない。他人を信用してはいけない。自分の殻に閉じこもって、攻撃してくる人から自分を守るのだ。そうやって生きていかねばならない。
そう思いつつも、あんまり社会に出て働く自分の姿を想像できなかった。
ともすると、子供を抱いている自分の方が想像に易い。子供は嫌いではない。むしろ好きな方だ。偏見に塗れた世の大人を見るよりかは、純真無垢な子供を見ている方が、まだ安らぎを得られる。子供の笑顔というものは、何にも勝る良薬だ。口に苦くも無いから、見てる分には心地が良い。喋ると、少々都合の悪い質問もされるが、汚い偏見に塗れた大人よりかは、まだ飲み込みが早いから、話し甲斐はある。
素敵な男性を見つけられたら…、と思うことがあるが、果たして、素敵な男性がこの世に何人いるか知らない。松浦は素敵な男性の部類だろうが、あの人には恩を感じても恋はしない。いや、すべきなのかもしれないが、どうも、男性というものに恋心を抱かない。もしかすると、自分は同性愛者なのかもしれないと疑った事もあるが、女よりかは断然男と結婚したい。タキオンという人間にも、執着はあっても、恋は無い。
カフェは何だかこの世をつまらないと思った。何でも理解できればいいのに。疑問に思う事なんてなく、ただ、幸せへと続くレールの上を歩くことができればいいのに、自分はこういう性質の人間だから、つい、なんだか妙な事まで考えてしまう。不安にならなければいいのに。自分が幸せに生きれるという確証があればいいのに。
そう思っても詮無い事だというのは、今までの人生の中で何度も味わってきた。果たして、自分が解放される日はあるのだろうか? と思う。
カフェは、ベッドに寝転がって、夕食時の考え事を堂々巡りで繰り返していた。堂を行っても、堂に行き着く。堂を行っても、堂に行き着く。解放されたいがために歩いているのに、結局、ただ考える事に疲れるばかりだ。自分の身に、きっかけになる何かが起これば良いと思っているが、果たしてそれはいつやってくるのだろうか?と思う。それは、もしかしたら、素敵な男性かもしれない。全力で挑んでくるタキオンに勝つことかもしれない。いや、幽霊がきっかけになったりするのかもしれない。しかし、堂の前に立ってじっとしているのも息がつまって苦しかったので、カフェは、じっとする事もできずに、またぐるぐると堂を巡り始めるのだった。
タキオンと田上も似たような物ではあるが、これは、二人が相互に働きかけるという点に於いて、まだ、カフェよりも動きはあった。堂の前で一回転してみたり、じゃんけんをして、あっち向いてホイをしてみたり、その動きによって、少しは改善の予兆もあるような気がした。ただ、二人はホテルのベッドの上で、何か一歩でも先に進むような話はあまりしなかった。タキオンが田上に甘えて、田上がそれを抱きしめたり、田上がタキオンに甘えて、タキオンがそれを抱きしめたりした。
そうして、宝塚記念での一連の出来事は、カフェが一着、タキオンが五着、エスが二着、リリックが七着という結果で終わった。田上としてはもう少し頑張りたいところだった。