四十一、一連の出来事
宝塚記念が終わった二日後、火曜日の昼までに、二つの出来事が起こった。まず一つは、田上とタキオンへ、日本を代表するバンド『大きな蛇』がウマチューブで録音放送しているラジオ番組『ある事ない事ラジオ』通称『ANラジオ』への出演依頼が届いた事だ。
そして、もう一つが、週刊誌に田上とタキオンの熱愛報道が載った事だ。田上はこれに大いにショックを受けて、午前中はトレーナー室で大いに気が抜けた時間を過ごしていた。
今の所、実生活に影響は及んでいない。しかし、つけられたら面倒だろうという事で、タキオンやらマテリアルやらが変装の為に衣服を貸し出す申し出をしてくれていた。田上は、そうするしかなかった。週末にタキオンが田上の家に泊まりに来る、定例行事についての話し合いは見送りとなった。それどころじゃなかったからだ。
まず、フジキセキがその記事を見て謝りに来た。その記事の中には、タキオンがフジキセキをスマホで殴ったことも書き記されていたから、あの場にいたウマ娘の中に情報提供者がいたのだろう。そして、その事件を有耶無耶にするために、タキオンと田上が付き合っているという噂を流したのに、付き合っているという情報どころか、あの事件の事まで書かれていて、本当に詰めが甘かったと謝った。元より、田上とタキオンが悪いので、フジキセキに謝られる筋合いはなかった。それでも、一生懸命謝ってきたので、双方とも謝り合いながら、困ったことになったと言うだけ言って、その場を解散した。解散のぎりぎりまでフジキセキは謝ってきていたから、こちらまで申し訳なくなった。
その次に、田上の弟の幸助から、LANEの方に無言で、記事のURLが送られてきた。特に心配をしないのが幸助らしい。タキオンの母は、タキオンに『大丈夫?』と送ってきて、田上の父は、田上に『大丈夫?』と送ってきた。今の所実生活に影響はないから大丈夫だ。
それから、田上の友達の霧島も『大丈夫?』と送ってきた。田中と鳩谷が何の反応も示さなかったのは、裏で、皆で話してから、代表として霧島がメッセージを送ってきたのかもしれない。田上はまた、『大丈夫』と答えた。すると、向こうからこうメッセージが返ってきた。
『田中も鳩谷も気が付いていたらしい』
やはり、裏の方で繋がっていたようだ。
『そうなの?』
『そうらしい』
『国近の方も知ってるよ』
『そうなの!?』
『そう』
その後に、ウサギが『頑張れ!』と親指を立てているスタンプを送信してきたから、田上も『頑張る』と書いている適当なスタンプを返した。
その後、幾つかの知人から連絡が来たが、寄越す者は皆そこまで否定的でもなかった。大概、田上とタキオン両人の事を知っていたからだ。そして、皆、タキオンと田上が付き合っていることに驚いて、タキオンがフジキセキを殴ったという事は、とんと見落としていたらしかった。もしかしたら、記事のタイトルだけ見て、驚いて連絡を寄越してきただけなのかもしれない。
それから、田上とタキオンは理事長室に呼ばれて、事情聴取をされた。流石に、GⅠを三勝もした子のスキャンダルであるから、おいそれと見逃すわけにもいかなかった。だが、それ程圧迫面接の様相を呈しているわけでもなく、理事長と秘書二人でタキオンと田上から話を聞いて、一応、淫行などをしていないか聞いてきた。二人共、同じ家に週末に泊まることにしているという事はしっかりと打ち明けのちに、そのような事実はないと告げた。ここで、妙な事を隠して妙な事になっても面倒だから、二人で先に打ち明けた。
トレーナーとウマ娘が同じ家に泊まっているという事を聞かされた理事長と秘書は顔を見合わせたが、とりあえず、それを聞き流すことにした。無論、やましいことはしていないのは事実なのである。恋愛を縛る校則が無いのは、無闇に人を縛りたくないからであり、やましい事をしていないのならば、責める通りもない。それはもうタキオンが「私が一緒にお風呂に入ろうと言っても、彼は入りませんでした」と言う所で、二人が誠実に付き合っているという事が分かった。特に田上がそうであるという事が。
それを打ち明けられた時は、年配の理事長は苦笑したが、「じゃあ、こちらは火消しを頑張るから、あなた方は次走に向けて、整えていってください」と言い、田上とタキオンは解放された。
理事長たちから解放された後に届いたメッセージは、タキオンの母方の祖母からだった。タキオンは、そのメッセージを田上に見せながら、読み上げた。
「『暇がある時に家に来ませんか?』だって」
「……厳しい方のおばあちゃんだよね?」
「そう。……果たして、文句を言われるかな?……母さんの時は揉めたそうなんだがね?……もう、結婚如何で揉めるのは懲り懲りそうだとも思ったが……、普通に宝塚記念の事を話したいのかもしれない。今でもレースを見るのは好きだからね」
「朝日家電のおじいちゃんでしょ?」
「朝日家電のおじいちゃんはそんなに問題はないさ。元より、こっちの方は、幾分柔軟だって、父さんが言っていた」
「……おばあちゃんは?」
「………まぁ、何を言われようとも、私は君と離れる気はないよ。親に言われた見合いで、そこらの男と付き合う気はないもの」
「ふぅん」と田上は頷いた後、「暇な時って?」と言った。
トレセン学園から祖父母の家まではそう遠くはない。電車で約三十分程だ。レース終わりでトレーニングが無いから、行こうと思えば、今日の放課後にだって、ちょっと寄る程度の事はできる。流石に泊まる気はない。
タキオンは、――行ってもいいが…、というつもりだった。このタイミングで連絡をつけてきたとなると、恐らく、熱愛報道の事だろう。すると、それに祖母がどんな反応をするのか気になる。そんなに悪い結果にもならないんじゃないだろうかと思う。祖母は言っても甘い節がある。そんなわけで、タキオンは少し考えた後に、「ちょっと向こうの方にも詳細を聞いてみるよ」と言って、祖母にメッセージを送り返した。
『何の用?』
祖母はこの画面を見ていたのか、すぐに既読されて、メッセージも返ってきた。
『宝塚記念を労ってあげたい』
タキオンはどうも嘘臭いと思ったが、とりあえず話には乗ってあげることにした。
『となると、夕食もそちらで食べるという事かな?』
『そういう事。好きな物たくさん作ってあげるよ』
どうしても来てほしいらしい。食べ物で釣ってきた。
タキオンはそのメッセージを少し眺めた後に、隣を黙って歩いていた田上に声をかけた。
「君も私のおばあちゃんちに来る?」
「お前の!? 嫌だよ」
考えるよりも先に言葉が出てくるくらいの勢いだったから、タキオンもクスクス笑って言った。
「えぇ? いいじゃないか。私だけスキャンダルの餌食になるなんて不公平だ」
「不満に思ってるかもしれない人の家に、当の不満の一番大きな要素が乗り込もうとしてるんだよ? 誰だって嫌だよ」
「分からないよ? 週刊誌について文句を垂れるだけかもしれない。人の色恋を飯のタネにしてる連中に」
「そうかぁ? ……お前のお母さんたちの家に行くのだって、俺は早過ぎたと思ってるんだけどね」
「なに、そんなに変わらないよ。…一か月も二か月も。早いか遅いかだけ」
「ええ?……あんまり行きたくはないよ。…特に、俺に対して怒ってる人の場所にはね?……何か言われるの?」
「……どうだろうねぇ…。……恐らく、…なに……、んー……。…うん…、……大丈夫だとは思うがねぇ……」
「そんな、縛り上げられて、監禁されて、誰かと見合いさせられるとか、交渉決裂だったら、縁を切られるとかはないだろ?」
「……まぁ、……ないだろうがね……」と何だかタキオンが言い淀んでいたので、田上も慌てて聞いた。
「あるの!?」
「いや、………厳しい人ではあるんだが、……まぁ、…孫の恋人を蹴り除けるような人でもないのかな……?」
「……蹴り除けられる可能性がある人の所に、俺を誘ったの?」
田上がそう言うと、タキオンが少し微笑んでから言った。
「まぁ、怒りを露わするような人じゃないと思う。ただの祖母。………君が居たほうが、私も心強いんだがねぇ……」
「…お前ほど、口も上手くないから、そんなに役には立てないぞ?」
「………そもそも、暇な時間は君と一緒に居たいんだがね」
「…じゃあ、断る?」
「んー……、大して遠くもないからね……。…言ってしまえば、君を紹介というわけではないが、…改めておばあちゃんに紹介してみたさがあるのだよね」
「……早くない?」と田上が、多少、おばあちゃんという得体の知れない存在におびえながら言った。
「なに、もう向こうは知っているのだから、早いも遅いもないじゃないか」
「………もっと他のタイミングはないのかな? …朝日家電のお爺ちゃんも暇じゃないだろ?」
「家の時間は大切にしている方だよ?」
「じゃあ、俺が行った時にもいるかもしれないと?」
「んー」とタキオンは唸った後に、急にスマホの方に意識を戻して、「あ、これを聞いておきたいんだった」と言って、メッセージを打ち出した。隣の田上はそれを覗き込んで、『泊まったほうが良いの?』と打たれているのを確認した。メッセージは、祖母からすぐに帰ってきた。
『夕食を食べるから、外泊届は必要になると思う』
『了解』と送り返した後に、タキオンは田上に言った。
「一緒に行かないかい?」
「…行きたくないんだけど…」
「たった一泊だし、夕食をとるだけだから、そんなに辛くはないと思うんだけどね」
「……たった一泊って言ってもねぇ」と田上は、未だ嫌そうだ。
タキオンは、どうにかして田上を連れて行きたかった。最早、この世に彼の居ない日があるなど考えられなかったからだ。暇な時間なら、猶更彼は私の傍に居て、辛いことがあったら慰めて、楽しい事があったら一緒に笑うのが道理というものだろう。そんな考えだった。
「私、…一人は嫌なんだけどな」
「……一人ぃ?」と田上は困って、タキオンを見つめた。
ここはタキオンが譲歩したほうが良いだろう、と田上の目が物語っている。確かに、嫌がっている人を無理矢理連れて行くのは道理ではないだろう。しかし、タキオンだって、どうしても田上についてきてほしいから、ぎりぎりまで粘る他なかった。
「そう、一人は嫌。例え、一泊でも君と居る時の方が良いから、君も一緒に来ない?」
「……それは断れないの?」
当然の疑問だ。タキオンは、それに答えるために、頬をポリポリと掻いた。
「………断る?」
「そう。……断れない程強い誘いなの?」
田上にそう言われてから、タキオンは自分のスマホを見た。それ程強くもないが、タキオンには思うことがある。
「………強い誘いではないけれどね……。別に、仲が悪いわけではないから、できれば行ってあげたいという気持ちはあるんだよ…」
「……祖母孝行?」
「…そう。……どうしても行きたくないかい?」
タキオンがこれで最後とばかりに聞いてきた。田上は、どうしても行きたくないから、「どうしても」と申し訳なさそうに言った。タキオンはその言葉を聞くと、自分のスマホの画面を見て、その画面を消しながら、ふぅと仕方なさそうにため息を吐いた。
田上からは同行したくないという答えを受けたタキオンだったが、トレーナー室に戻ってもくよくよしながら田上に言っていた。
「君が来てくれた方が楽しいんだがねぇ」
「俺は、緊張で食べ物がのどを通らないかもしれないぞ」
「そこが問題だ。君のその心構えさえ解いてあげることができたなら、私たちは二人で、余裕でおばあちゃんちに行くことができたのに」
「今度はおばあちゃんちに行くんですか?」とマテリアルが唐突に口を挟んできた。タキオンは、自分のリズムが崩されたのを少々不愉快そうにしながらも、マテリアルの方を向いて「そうだよ」と答えた。
「圭一君が一緒に行くって言ってくれさえすれば、私も安泰なんだがね」
「俺はあんまり行きたくないけどね」と田上は隣のタキオンに向かって言った。タキオンは、首を傾げてあざとい視線を田上に向けた。
「そこをなんとかしてくれないかなぁ? 彼女の頼みだよ? 君がこの世で一番愛してる人。一番好きな人。…そうだよね? マテリアル君」
「ん? …そうですよ」とマテリアルは適当に答えた。タキオンは、一人味方が増えたので、途端に喜んで田上に向かった。
「ほら、マテリアル君もそう言っている! だからさぁ、私と一緒に、一泊どうだい?」
「今日、スキャンダルが出たばかりだぞ」と田上が冷静に諭した。
「そりゃあ、……そりゃあ、GⅠ取ってから今までで一番つまらない事が注目されるという事だね。カフェも同じ目にあえばいい」
「人の不幸を願うな」と田上が苦笑しながら言ったが、それで、収まるタキオンの気持ちでもなかった。また、田上に媚びるような目つきをしながら言った。
「なぁ~、…本当の本当の本当の本当にダメかい?」
「本当の本当の本当の本当にダメ」
「本当の本当の本当の本当の本当の本当にダメ?」
「本当の本当の本当の本当の本当にダメ」
「残念、本当が一つ足りない」
「そう」と田上が適当に返事をすると、タキオンも途端に我に返って言った。
「そうじゃないんだよ。茶番は良いんだ、茶番は。……なぁ、一欠片でもないかい? これから、おばあちゃんちに処刑されに行こうとしている私に対しての、慈悲や情けは」
「一欠片は、…まぁ、あるけど…」
「それなら行こう! もういいよ、君の口座に百万振り込んであげる。だから行こう」
「金なんて、困れば貸してくれるんだろ?」
「……そりゃあ、貸すがねぇ……。と言うか、もう共有財産みたいなものではあるんだが、………。いや、……何すれば私についてきてくれる? 私の口座の全額振り込もうか?」
「行くつもりがあるんだったら、全額振り込まないでも行くよ」
「んー、………私の事可哀想だと思わない? 悪い話じゃないと思うんだよ。きっと君の好きな料理も出してくれると思う。彼女を守ると思ってさぁ、ね? 私と行かない?」
そこまで攻められれば田上も弱かった。元来、田上はタキオンに甘いし、タキオンも田上の甘さを突く術を知っている。タキオンが、本当の本当に困っているというのならば、力になってあげたいと思わない男ではなかった。田上は、あんまり敵地に乗り込むのは嫌なのだが、タキオンの為と思って、渋々「まぁ、仕方がないなぁ」と承諾した。タキオンはこれに大いに喜んだ。
「ああ! やってくれる男だと思ってた、君は! それでこそ、私の彼氏だ! 世界で一番優しい人だ! ……まぁ、少々無茶を言って済まないとも思ってる。私の我儘を聞いてくれてありがとう」
「……まぁ、…その代わり、あんまり嫌な雰囲気にはさせないでよ?」
「善処する。…と言っても、向こうの了承が無いと、この話もおじゃんなんだがね…。…上手く行くかな…」
タキオンはそう言いながら、スマホをポチポチと打って、『熱愛報道をおばあちゃんが知ってるか知らないけど、私のトレーナーの田上圭一と熱愛報道が出たので、彼の方も連れて行ってみて良いですか?』と送った。それから、返信が来るのを待った。
丁度、タキオンの祖母が、スマホから目を離したタイミングだったのか、それから暫く連絡が来なかった。それから、連絡が返ってくるまでの間に、もう一つ大きな出来事が起こった。その出来事は、トレーナー室のドアを叩いて、幾人かの友を引き連れてやってきた。
トレーナー室のドアを開けて入ってきたのは、白色に近い芦毛の髪を持ったタキオンより幾分背の高いウマ娘だ。その後ろに、如何にも陽気そうな友達を数人引き連れて、こう言った。
「私をチームに入れてくれませんか?」
丁度、休み時間だったので、リリック以外のチーム全員がこの部屋に揃っていて、この妙な事を突然言い出したウマ娘を、揃ってみんなで見つめた。つい今朝方、アグネスタキオンと田上圭一の熱愛報道が出たばかり、そして、日曜には宝塚記念を負け越したばかりだというのに、この人はなぜここに来たのだろう? と皆で訝しんだ。それで、田上が返答に困って「えー」と言い淀むと、その子は続けた。
「私、ロードムービーと言います。皆には、ロードとか、ムービーとか、ビームとか呼ばれることもあります」
その名前を聞くと、田上の記憶の中に思い当たる節があって、こう聞いた。
「あれ? ……ロードさんって、……佐藤達郎トレーナーさんの所で、GⅡとってませんでした?」
「ああ、ご存知でした? あそこ、今期で辞めたんです。中々、ウマが合いませんでしたので」
「ヘぇ……」と田上は、頷きながら――中々、有望そうな子が来た、と思った。そして、顔色を窺うように、隣で椅子に座っているタキオンの顔を見た。
まず、タキオンを通過しなければ、このチームには居られない。タキオンは、田上の顔をなんとも言えない表情で見てきていた。断りたい要素はあるのだが、本人の前では言えないという顔だ。
田上もここで即決するわけにも行かないから、また、ロードムービーの方を向くと、こう言った。
「まぁ、…まぁ、ちょっとこちらも忙しいので、返答は少し待ってもらえるかな?」
「熱愛のことですか?」とロードムービーは不躾に聞いた。
田上は、一瞬固まって、ロードムービーのにこやかな顔を見たあとに、言葉を発しようとしたのだが、先にロードムービーが口を開いた。
「私、気にしてませんよ、そんな事。それより、チームの雰囲気ってどんな感じですか?」
ロードムービーは、そう言いながら、トレーナー室全体を見回した。皆、レースが終わって少し気が抜けている雰囲気だ。そんな目が、怪しむようにロードムービーのことを見てくる。
その目線だけを見てみれば、今のチームは一体となって、ロードムービーのことを怪しんでいる。ロードムービーは、そんなことは気にせずに、未だニコニコしながら言った。
「チーム入ったら、ここでピアノ弾きたいんですけどいいですか?」
「ピアノ?」と田上が聞き返した。
「そうです、ピアノ。…bgm代わりにはなりますよ?」
田上は、問いかけるように、周りのチームメイトを見た。皆、自分の意見を表明するのを嫌がって、曖昧な調子で、田上を見つめ返してきた。それで、田上はとりあえず、話をまとめるために、また、ロードムービーに向き直って言った。
「まぁ、今ここでは返答は出せないからな……。どうしたらいいかな…」
「見学とかどうですか?」
「見学?」
「そうです。それなら、私もチームの雰囲気を知れるし、…何なら、そこで私がタキオンさんと併走してみてもいいですよ?」
わざわざGⅠウマ娘を名指ししてくるあたり、少々傲慢だ。自分の相手になるのは、GⅠウマ娘しか居ないと言うかのような口振りだ。この言葉にこの場にいる皆があまり良い思いをしなかったし、特にタキオンはロードムービーへの印象を悪くした。それでも、事を穏便に済ませるために、タキオンは、田上に会話の主導権を託した。
「併走は、…また考えておきますが、……今の所、皆のレースが終わって休暇にしようと考えていたところなんですよね…」
「ヘぇー、…なら、私はどうした方がいいですか?」
「んー……、どうします?」と田上は、マテリアルに聞いた。ロードムービーもそちらの方を見て、マテリアルもロードムービーの方を見つめ返したあとに、田上に向かって言った。
「トレーニングを…んー、いや、まぁ、これまでの成績を見せてもらうほうが賢明じゃないですか?」
「そうですね。……じゃあ、ちょっとこちらの方でも、ロードさんの成績を確認したあとに、話し合って連絡するので、連絡は…」
「LANE交換しておきます?」と提案されたので、田上は、そのようにして、今回の話を終わらせた。ロードムービーは、最後に田上にこう言って去っていった。
「私のピアノ、上手いんで期待しておいてください。チーム入ったら、バーみたいなbgmかけてあげますよ」
田上は、苦笑しながら「分かりました」と答えて、その子を追い返した。
ドアを開けると、まだロードムービーの友達が待っていて、田上が顔を見せると、ワッと声を上げて、クスクス笑った。年頃の女の子がこうなのは、田上も同じ学生時代を過ごしてきたから分かっている。だから、特に怒りもしないで、クスクス笑う子たちが去っていくのを見守った。ロードムービーは、最後に「また会いましょう!」と手を振って、去って行った。
田上が、トレーナー室に戻って、マテリアルに「どうします?」と聞くと、その後に、タキオンが「おばあちゃんから返信が来た」と答えた。話は一旦中断となって、タキオンの話しに意識は向けられた。
「『良いですよ』だって」
「良い?」と田上は困ったように言った。内心では、おばあちゃんが断ってくれることに期待していた。
タキオンもそれを察して、顔に微かな笑みを浮かべながら言った。
「おばあちゃんも君の事はそれ程嫌っていないよ」
「……俺の事をわざわざ家まで呼び出して、追窮するつもりじゃない?」
「その時は私も抗議するよ。……行ってくれるんだろ?」
「……参ったなぁ……」と田上は誤魔化すように微笑みながら、自分のデスクに座った。それから、こちらを見てきているマテリアルとタキオンへ交互に目をやったのち、こう言った。
「なんか、色々と出てきたな、…話す事が」
「君、怖くて家に帰れないんだったら、私の寮で匿うがね?」
「俺の方はそんなに顔が割れてないからいいんだよ。……とりあえず、…何話そう?」
「おばあちゃんちにはもう行くという事で良いんだよね?」
「うん。行くよ」と田上は観念した様にため息交じりに答えた。
「じゃあ、詳細をこっちの方で決めておくから、君らであの子の事を話し合えば? …多分、予定は、…近々かな? 木曜辺りが良いかな、と思っているんだけど」
「木曜の朝に…、じゃなくて、木曜の夜に、お前のおばあちゃんちに行って、…金曜の朝に…、ここに出勤?」
「うん。…だから、着替えは用意しておかないといけないかもしれない」
「………パジャマと着替えだな…」
「うん」
「………魚料理とか出てきたらどうしよう? 俺、完璧に食える自信とかないんだけど」
田上が自分の不安を伝えると、タキオンは苦笑した。
「なら、向こうにそのように伝えておくよ。『魚を完璧に食える自信がないそうだから、出さないでやってくれ』って。…うん。人間味をもっと出していったほうが良いな。おばあちゃんは、そういうのに弱いかもしれない。元々礼儀の人間だし、向こうが、自分よりもか弱い人間だって知ったら、愛着も湧くかもしれない。…君はもう孫の一員の面して行ったほうが良いな。あんまり見栄を張らずに、自然体の君で行ったほうが良いかもしれないね。自信のない男は老人にモテる」
「本当かぁ?」と田上が言った後に、またこうも質問した。「……家に行ったら土下座とかするべきなのかな?」
「土下座?」
「………すみませんでした、というか、……お邪魔します?」
「土下座まではしなくていいよ。孫のつもりで行きたまえ」
「孫のつもりって言われてもなぁ…」
「まぁ、なんだろうね…。…まぁ、とりあえず、予定だ。他に質問はない?」
「服も、ラフすぎると駄目だろ?」
「うーん……、私が買った服はあるだろ?」
「ああ、選んでくれた奴ならある」
「じゃあ、…おばあちゃんちに行く前に、私が君の家に行って、選んであげるよ。良い感じの物を見繕ってあげよう」
「そうしてくれると、ありがたい」と信頼している彼女の申し出を快く受けた。それから、祖父母の家行きの話は一旦終わり、次に、ロードムービーについて話し合う事となった。
田上とマテリアルは、二人でロードムービーの成績を見た。GⅢ二回優勝、GⅡ二回優勝、GⅠも二回挑戦して、一回は五着、もう一回は四着という成績だ。GⅠに二回挑戦して、二回とも掲示板内というのは、中々の好成績だ。下手すると、次のレースで、GⅠ優勝もあり得るかもしれないだろう。少なくとも、そのポテンシャルは秘めている。
距離は、マイル・中距離を得意としているらしい。GⅠには、去年の天皇賞・秋、有馬記念に挑戦していたが、残念ながら勝つ事はできていない。長距離での実績はないようだが、有馬記念にも挑戦してみたのかもしれない。
問題は人柄じゃないかと、二人とも考えていた。妙に友好的なのは、礼儀知らずなのか、親しみやすいのか。どちらにしろ、嫉妬してくる彼女がいる田上に、ずっとそのような態度を取ってくるのであれば、こちらのチームともウマが合わないという事になるだろう。
そこら辺はどうなのだろう? と思って、田上たちはタキオンに聞いてみた。タキオンは、どっちつかずという様な表情だったが、「あんまり良い印象は持たなかったね」と答えた。つまり、まだ、交流が足りないという事でもある。土曜にするトレーニングに呼んでみようか? という話になって、それはそこで決着がついた。
その後に、祖母とやり取りをしていたタキオンが詳細の予定を伝えてきた。
「やっぱり、木曜の夕食という事になったよ。時間は、トレーニングもない事だし、授業が終わったら、そのままと言うか、一旦準備をしてから、適当に出かけようか?」
「お前が俺の服を選んでってこと?」
「そう。好きなメニューは何? 刺身は食うかい?」
「食べる。お前の宝塚記念お疲れ様会だろ? お前の好きなメニューにすれば?」
「じゃあ、人参ハンバーグという事でいいかな?」
「いいよ。俺も嫌いじゃないし」
「よし。…となると、…メニューだけ伝えて……、後は何かあったかな?」
「一泊だけだろ?」
「そう。……まぁ、…お食事会に呼ばれたと思ってくれ。そんな…――娘さんを僕に下さい、と言うべき場ではないよ。祖母にも、私の両親はそれをちゃんと知っているという事も伝えた。余程の事がない限り、私たちに怒るという事もないよ。それに、お爺ちゃんの方も来るらしい」
「来るの!?」
「来るかもしれない、といった所だね。お爺ちゃんに連絡をつけたら、孫娘の彼氏の顔を拝みたいと言ったらしいよ」
「それ、…俺、ダメ人間判定されない? 優秀な人間じゃないよ?」
「しかし、私を大切にできる人間だ」
「……自信なくなってきたなぁ…」
「大丈夫だよ。少なくとも、二人共、表向きに敵意を表したりしないよ」
「裏で、タキオンに――あの人はやめておきなさい、って言うの?」
「……まぁ、君が心配する事はないさ」とタキオンは、答えを有耶無耶にしたが、流石に、ただで有耶無耶にされる田上でもなかった。
「言うかもしれないの!?」と聞いた。
「まぁ、…大丈夫。君のような人間を捉まえて――ダメ人間だ、という人間は、もう経営から下りたほうが良い。君の事を何にも理解できていない」
田上はこう言われた後に、ぽりぽりと頭を掻いた。
「………まぁ、頑張るしかないよな…」
「……値踏みするような質問をして来たら、私がその間に割り込むよ。大丈夫。私の相手をできるのは君くらいだよ。誇ったほうが良い」
タキオンがそう言うと、田上は苦笑した。それで、その話も終わり、漸く次の話へと辿り着いた。
「あの『ある事ない事ラジオ』の出演依頼はどうする?」
「…このタイミングで、メディア出演かい?」とタキオンが聞き返した。
「そうなんだよ…。どうしたもんかなぁ…」
「向こうはどういう気持ちなんだろうね? 私たちの熱愛は勘定に入れてなかったわけだろ?」
「…そうだろうね」
「……向こうは、また、キャンセルの連絡入れてくるのかな?」
「……そもそも、向こうはどんな気持ちでこっちに連絡を寄越したんだろう?」
「現役でトップのウマ娘と、そのトレーナーだからじゃないかい?」
「んー……、あれもあるかなぁって思ったんだけど、…あの、大阪杯の時に、ライブでタキオンが勝手に歌詞を変えただろ?」
「あれを?……それをわざわざ対面で会って、ラジオでお叱りに?」
「んー…」と田上が曖昧に唸ると、タキオンが、ふっと笑った。
「流石に、怒っている相手をわざわざラジオで呼び出して、怒るなんてことはしないだろう? 君は、それを聞いてるらしいが、怒るなんてことはなかっただろ?」
「まぁ、……そういう人柄の人たちだしね…」
「じゃあ大丈夫だ。…君は、出演したいのかい?」
「んー…、タキオンは?」
「君がしたいんだったら、してもいいよ」
「んー……、出演ねぇ…」
「返答期限は?」
「木曜」
「明後日か」
「んー………、どうしようか…」
「出演が怖いのかい?」
「んー……、まぁ、…ずっと憧れてた人だよ? その人と話せるんだよ?」
「怖いのかい?」
「んん……、…怖さはあるねぇ…」
「……ラジオは、どんなことを話すんだい? お葉書きを読んで、それに答える形式かな?」
「あー…、まぁ、ゲスト回は、それに加えて、木下さんがゲストに聞きたいことを色々と質問してるね」
「じゃあ、私には、…なんて質問するんだろうな? …君なら、トレーナーとしての業務内容があるが…」
「お前はあれじゃない? 研究関連とか、レースに関する心構えとか、そんなの」
「ああ、研究か…」とタキオンが嫌そうに呟いた。「折角忘れてきた所だったのに」
「忘れたいの?」
「…いや? ……余計な事で頭を悩まさせたくない」
「現実逃避?」
「そう呼んでくれたまえ」
「じゃあ、やっぱり、出演は辞めておこうか」
「いや、いいよ。…君が、その憧れの人と話したいっていうんだったら、私はそれを邪魔したくない」
「でも、多分、十中八九研究の事は聞かれるよ? 何してるのか? とかモルモット君というのは、どういうことなのか? とか、結構根掘り葉掘り」
「そんな、情報屋みたいなラジオなのかい?」
「ゲストは、気になる人を呼んでるみたいだけどね」
「じゃあ、私達二人が気になられたって事?」
「…多分、そうだと思う。……多分、なぜ仲が良いのかとか、そんなことを聞きたかったんだろうけど、そこに熱愛だよ」
「レースと恋は両立できないって週刊誌に書かれていたね」
「…まぁ、…俺にもそこのところは分からん。追い追い」
「………どのくらい話すんだい?」
「どのくらい?」
「時間」
「…一時間くらいかな。…一時間半くらい話しているときもあったかも」
「それを、…あのバンドメンバーは四人だろ?」
「そうだね」
「となると、六人で話すのかい?」
「いや、ゲスト回のときは、ドラムの吉田さんと…ベースの重原さんが居なくなるね」
「じゃあ、居るのは?」
「木下さんと和田さん」
「…ふぅん?……で、君はどうするんだい?」
「んー…、……俺、別に話すのが上手いわけでも無いからなぁ…」
「……じゃあ、やめるかい?」
「んー……」と田上は悩む調子だ。
このままでは、今日が終わっても決まらないのではないかと思う。ただ、タキオンとしては、木下と田上を話させたい寄りの立場だった。なんて言ったって、年来のファンだそうだし、彼が話してみたいと思っているのならば話させてやりたい。しかし、問題なのは彼の気持ちであって、話したくないのならば、無理に引っ張って連れて行く気もなかった。
タキオンは、元々そんなに興味はないが、人格者と話すのならば、特に問題はない。人格者の話は、筋道立っていて、聞いていて面白い。ただ、田上程のファンではないので、あまり興味はないだけだ。
タキオンは、一先ず、右にも左にも決め切れない田上のために情報を整えて、決心し易いようにする事にした。
「ラジオの収録はどうするんだい? 録音だったね?」
「そう。……でも、…報道されたばっかりだしなぁ……」
「………嫌だったら向こうも連絡を寄越すんじゃないかな?」
「…そうかな? …なんて?」
「……ご都合により云々かんぬん…」
「……むしろ、それは自分たちの方からは言い出しにくいから、こっちに断ってほしいと思ってたりしない?」
「大人っていうのは、そんな駆け引きまでしないといけないのかい?」とタキオンは、少々問いかけるような目付きで見てきた。
「んー……、どうなんだろうなぁ……。…ちなみに、これ、ギャラはないよ?」
「あら、ギャラ無しなのかい?」
「雑談みたいな体だから、呼んで、快く来てくれる人を集めてる」
「…私に、タダ働きしろと?」
「嫌ならいいよ。断るだけだから」
「断るのは易いだろう? 受け入れるのは難いはずじゃないか?」
「んー……、断るのは易いよ…。受け入れるのも難いよ。……どうしたもんかなぁ…」
「私が君の代わりに、返事を送ってあげようか?」
「お前が?」と言って、田上はタキオンの顔とパソコンの画面を交互に見比べたあと、「俺がやるよ…」と躊躇いのありそうな声で言った。それから、「んー…、どうしたもんかなぁ…」と唸った。タキオンは、彼氏の優柔不断さに苦笑しながら答えた。
「私が代わりに決めてあげてもいいんだよ?」
田上は、また神妙な目付きでタキオンを見た。
「………自分が優柔不断だからって、彼女に自分の事を決めてもらうの?」
「んん? ……そうしてあげてもいいが」
「………それはなぁ…。………問題は、熱愛報道が出たってことなんだよなぁ。それで、向こうのこちらの印象もガラリと変わってる可能性がある」
「……じゃあ、ギリギリまで向こうから何か反応が無いか待ってみたらどうだい? それで、何もなかったら、潔く諦める」
「うんん…」と田上は曖昧に頷いて、「そうするしかないかぁ」と言った。
『ある事ない事ラジオ』についての話も有耶無耶のまま終わった。今日の最後の授業も終わり、トレーニングもないので、二人は放課後の廊下を当てもなく彷徨った。
外は雨だったので、一番上の渡り廊下にはいけなかった。だから、二人は、二階の渡り廊下で、しとしとと降り続く雨をぼんやりと見つめていた。
「梅雨前線だねぇ…」とタキオンが呟くように言った。田上がその声を傍らに、中庭に降り注ぐ雨を憂鬱そうに見つめていた。
二人の間に、あまり会話は起こらなかった。ただ、少々憂鬱な湿気に悩まされているだけである。
タキオンは、自分の髪をクルクルと指に絡めたあとに、廊下の向こうからやってきた女生徒と目を合わせた。女生徒は、タキオンに見られていることに気が付くと、口角を上げて立ち去っていった。
田上は、雨をぼんやりと見つめていて、その女生徒には気が付かなかったが、女生徒は――噂の人たちだ…とニヤニヤしながら立ち去っていった。今日は、いつもよりも特に、廊下を二人で居ると、好奇の視線を投げかけられる。二人共、普段からそれには慣れているので、話しかけられない限りは無視している。
またも、廊下の向こうから女生徒がやってきたが、タキオンは、その姿を捉えた途端に不快になった。因縁の相手、ササクレである。向こうもタキオンの姿を捉えた途端に、火傷痕のある顔に眉を寄せたから、タキオンはすぐに視線を外して、中庭の方を見た。ここで変な喧嘩をしてもしょうがない。
それは向こうも同じだったようで、タキオンは背後の方にスタスタと歩き去っていく音を聞いた。タキオンは、その音が立ち去って充分経った頃に、田上に話しかけた。
「今、例の火傷の子が来たよ」
その口調が、なんだか意地悪げに聞こえたので、田上は少々眉を寄せて、「やめろよ、そんな言い方」と言った。
「名前を口にするのも不快なんだよ」
「それにしたって、もっと別の言い方があるんじゃないか?」
「……コンプレックスヤンキー?」
「……金髪の子、くらいでいいんじゃないか?」
「トレセンには金髪はたくさん居るだろう?」
「……例の…金髪ヤンキーが来たくらいで、俺にも通じるよ」
「まぁ、それでいい。…今日も目付きが、キレていたね」
「お前だからじゃないのか?」
「私だからかな? …君も多分同じ顔をされるだろう?」
「まぁ、…しょうがないよ。喧嘩したんだしな」
「あれで笑うことがあるのかねぇ?」
「…同じ学年なんだから、見たりしないの?」
「まぁ、…偶に見るがね。…流石に、友達と話しているときは、…私の時のような顔をしないね」
「タキオンも向こうからおんなじ風に思われてるんじゃない?」
「おんなじ?」
「私の前では、すぐ不快そうな顔をするけど、彼氏と居るときだけは、なぜか笑ってる」
「そんな風に思われてるのかな?」
「思われてるんじゃない? …ササクレさんと会った時はどんな顔してるの?」
「……ヤツが来た、みたいな顔だね。こんな感じ」
そう言って、タキオンは、警戒心の含みのある真顔をしてみせた。
「じゃあ、向こうからもそう思われてるよ。――私の前では不快な顔をしてるって」
「不快な顔かな?」
「少なくとも、嬉しそうな顔じゃないよ。警戒してるでしょ?」
「まぁ、そうだね。……私、君と一緒におばあちゃんちに行くの、楽しみだよ」
「………俺は、そうでもないな…」
唐突に、変わった話にも難なく対応して、田上はそう答えた。タキオンは、顔に笑みを浮かべて言った。
「………君はそうなのかな……。……」
このあとに、唐突に、結婚についての話をしたくなったのだが、今ここで言うべき話でもないような気がした。無論、結論なんて今ここで出るものでもないというのは、これまでの積み重ねで分かっているし、無闇に議論を重ねて今の雰囲気を悪くしたくはなかった。だから、タキオンの言葉は迷った末に、別の方向から出てきた。
「あの子、…ロードムービーと言ったかな? あの子はどう思う?」
「どう?……まだ、判断材料がないな…。お前は?」
「私は、大丈夫だよ」
「印象悪いって言ってたのに?」
「そのくらい我慢する」
タキオンがそう言うと、田上は中庭に降り注ぐ雨の粒を見た。
「我慢してもらうと困るんだよ。…どこかで爆発するかもしれないしな…。……あの宝塚記念もお前を棄権させようか迷ったんだけどなぁ…。……とうとう踏ん切りがつかなかった……」
「……何事も経験だよ」
「……失敗も?」と田上は、皮肉めいた調子で言った。
「そう。……失敗からも得られる事があるというのは、君が、エス君とリリー君に言い聞かせてたことだろ?」
「………詭弁だよ…」と田上は、俯きがちに言った。
「…………君がそんなに暗いんじゃつまらないなぁ…」
「…雨の日はこんくらいの調子の方が良いんだよ」
「……暇だなぁ…。……何か、話とかないのかい?
「話? …んー……、……あの報道…、お前、そんなにショックを受けなかったね…」
「…まぁ、…人の言葉に耐性があるのかな? ……元々、覚悟はしていたことだし、去年の夏合宿の時もそんなに気にしてなかっただろ?」
「…そうか…」
「……あれはどうする? 君の家に行くの。…ゴニョゴニョ言っていたが、結局、話し合えてなかった」
「俺の家?」と田上は、気怠そうに反応した。
「そう。……思うが、報道の方には、つい最近君が引っ越したって事までは伝わっていないんじゃないかな? だから、トレセン学園に入ってこれない週刊記者は、君と私が、寮の中でよろしくやっているんだろうと。…だから、警戒もされていないのでは?」
「……まぁ、そこら辺は、分からん。何件か、ラジオとは別に取材の依頼も来てたけどな…」
「熱愛について?」
「そう。…俺たちの方でも火消ししてみたほうが良いのかな…」
「理事長が火消ししてくれるって言わなかったかな?」
「『誹謗中傷はお辞めください』的な声明は出してたけどな…。………俺たちの方でもなにか言ってみてもいいのかな?」
「なんて?」
「……父母の許可は取りました、…みたいな…」
「それでも、文句を言うやつは文句を言うだろう? それに、週刊誌の方だって、あっちはこっちを批判したくてやってるんじゃなくて、自分の食い扶持を稼ぐためにやってるんだから、何言ったところで、時間が解決してくれるのを待つしかないんじゃないかな? 元より、世間は私達の結婚に心底から興味があるわけでもなく、ただそこに言論の自由を行使するべき対象となる二人組が現れたから、真っ当に批判しているつもりなんだよ。現に見てみたまえ。恐らく、このまま続報がなければ、人の噂は七十五日だ」
「………そんなもんかなぁ……」と田上は、尚もしとしとと降る雨粒を見つめながら答えた。
田上のやる気がないので、タキオンも雨の方を見た。それから、唐突に、ある思いが湧いて、田上に言った。
「君の小学生時代の思い出とか聞かせておくれよ」
「思い出…? ……ないよ。そんなの…」
田上は、ため息交じりに答えた。
「ない事はないだろう? 過去の事を魅力的に思ってるんじゃないか。狐の小判とか言っていただろ?」
「……忘れてくれ…」と田上は、俯いて、少々苦しさを滲ませながら答えた。タキオンは、ここで追窮するべきかどうか迷ったが、今ここで諍いを起こしたくなかった。折角の幸せな一時だ。それを自分の余計な一言で台無しにしたくはない。できる限りできる限り、この幸せな時間を長く享受していたい。
タキオンは、その思いから、遂にそれより先へは踏み込まずに、ただ田上の横へと寄り添うだけにした。
それから、少しの沈黙を挟んだ後に、タキオンが口を開いた。
「そう言えば、また話が逸れて、違う方向に行った。……君の家への宿泊は、今話しても詮無い事かな…?」
「……どうだろう…」
「………ねぇ」とタキオンは迷った末に呼びかけた。どうしても、田上の子供時代については興味があったのだが、それを振り払うための迷いだった。
タキオンは、田上の事を見つめながら言った。
「ねぇ、さっきは悪かったから、そんなに落ち込まないでほしいな」
「……雨の日だからだよ」
「………じゃあ、私は、雨は嫌だな」
「…俺も…」
田上は、自分が話さないのを雨のせいにした。タキオンは、もう少しなりとも田上と言葉を交わして、交流を育みたかった。幸せな時間をもっと幸せなものにしたかったのだが、ここで、自分が駄々をこねても仕様がない。雰囲気が壊れて、僅かなりとの幸せが立ち去って行ってしまうだけだ。だから、タキオンはまた、田上の横に寄り添って過ごした。だんまりをしがちな彼氏が少々恨めしかった。