ケロイド   作:石花漱一

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九、帰らねば…(後編)

 賢助が戻ってくると、タキオンは早速話を始めようとしたが、その前に賢助が口を開いた。

「圭一がアグネスさんに何か意地悪をしましたか?」

 あまりに雰囲気が悪すぎて、賢助もこうならないと聞けなかったようだ。タキオンは、その言葉に動揺こそしたが、そんなことは関係ないとばかりに怒りに満ちた声でこう言った。

「あの人が私に何をしようと、何をされまいと、知ったことではありません。私が、一方的に怒っているだけですので、お気になさらずに」

 そう言ってからタキオンは少し後悔した。賢助は何にも関係がないのだ。それなのに、感情に任せて怒りをぶつけてしまったから、タキオンはどうしようもなくなって、「すみません」と謝った。賢助は何とも思っていないようだった。ただ、こう言った。

「もしあいつが何か悪いことをしたなら、すぐに見捨ててやってください。気を病むことはありません。元々、この家の子供です。社会に出て砕けるようでしたら、この家で面倒を見てやります。…ですから、アグネスさんが、あいつにかまけて不幸になることがあるようでしたら、僕が無理矢理引っ張ってでも連れて帰りますよ。他人に迷惑をかけるわけにはいきません」

 賢助がそう言うと、タキオンもいくらか落ち着いた。だから、こう返した。

「トレーナー君も同じことを言っていました。そして、悩んでおりました。いつか自分がタキオンを深みにひきずりこんでしまうのではないか、と。……親子ですね。考え方がよく似ております」

 外のすぐ近くの道路をバイクの通る音が響いた。しかし、その音が去ると静寂が続いて、明るい電灯の下、二人の息をする音が鮮明に聞こえた。賢助は、正座に座り直した。タキオンが、元々正座だったからだ。そして、二人の目線が合うと、賢助が言った。

「そして、聞きたいこととは?」

「簡潔に言いますと、トレーナー君は母を想って泣くような趣味はおありでしょうか?」

「母を?……う~ん、あいつにそんな感じは、感じたことがなかったけどなぁ。泣いたんですか?」

「人伝にそれを聞きました。私にもイメージが湧かなかったので、不思議に思い、詳細を調べてみようと思ったのです」

「それは間違いないので?」

 賢助は、少し身を乗り出して聞いた。

「はい。噂などではなく、見た本人からの信頼できる情報です」

「へー」と賢助は頷きながら、また座り直して今度は胡坐に変えた。どうやら、正座は我慢ができなかったようだ。しかし、タキオンは、今の所足の痺れを堪えるための身じろぎ一つせずに話をしていた。

 賢助が言った。

「じゃあ、それが理由で圭一をこの場に同行させたくなかったわけだ。…あんまり好きそうな話じゃないもんな。圭一の。…あいつがこれを聞いてたんだとしたら、それは少し怒るな。怒るし、傷ついて少し塞ぎこむだろうな」

「それを避けたくて彼を他所へやりました」

「ふむ、なるほど。…それじゃあ、用件は?聞きたいことは最初の事だけじゃないだろ?」

「そうです。…まず、トレーナー君と母親の関係性について聞きたいのですが、具体的に仲が良かった悪かったとかあるでしょうか?」

「仲……?う~ん…、普通に良かったと思うよ。家は、離婚も再婚もしてないから、生まれた時から母親も変わらないし、俺の嫁の方も幸助が生まれてから少し大変だったけど、分け隔てなく接していたし。……うん」

 タキオンが、何の返事もしなかったので、賢助は最後に申し訳程度に締めくくりの言葉を置いて、話を終わらせた。タキオンは、顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて、ゆっくりと顔を上げると言った。

「幸助君の方にも質問しましたが、同じような事を言っていました」

「あ、幸助の方とももう話したんだね。…いつの間に?」

「和菓子を買いに行ったときに、店の外にトレーナー君を置いて、軽く話をしました。…それで、次に質問したいのが、あなた方夫婦の関係とあなたから見た兄弟の関係」

 一度に、二つ質問が来たから、賢助は戸惑った。

「えーっと、じゃあ、俺とその嫁、美花の関係から」

 賢助は、誰が美花か分かりやすいように後ろの棚から、家族写真を一枚取ると、その手元に置いて話を始めた。

「馴れ初め……。馴れ初めから話した方がいいのかな?」

「どうぞご自由に。大切だと思う情報から話してもらって構わないです」

「…じゃあ、もう分からないから、馴れ初め…から話していくと、大学に入った当初に知り合ったんだよな。それはもう、一番初めから。あいつが財布を落としてたのに、全然気が付かないで歩いて去っていくから俺も戸惑ったよ。結構気づきそうなものだけどね。案外気が付かないんだな。…そして、財布を拾ってあげたのが一番初めの出会いで、その後、俺がバンドやってるサークルに入ると、また美花がいた。もうお互い顔見知りだったから、そこで結構仲良くなった。で、段々好きになっていって、その年の夏に付き合うことになった。……やっぱり、これは話す必要がないかもしれないな」

 自分の話してしまった事に少し照れてしまったようで、そう言った。タキオンは、そのことを可笑しく思って、クスリと笑いながら「どうぞご自由に」と答えた。

「じゃあ、単純に仲が良かったかそうでなかったというのなら、仲は良かった。離婚もしてないからな。あのまま順調に行ってれば、死ぬまで仲が良かったと思うよ。…まぁ、死んだらどうしようもないんだけどな」

 賢助がそう言うと、タキオンの頭には不図ある考えが浮かんできた。

「……ちなみに再婚というのは…?」

 少し失礼かとも思ったが、タキオンは思い切って聞いた。賢助は、それを聞くと、少し気分を害したようだ。表情を曇らせ、こう言った。

「再婚は、圭一にも幸助にも何度か勧められたけど、するつもりはない。…俺が、一番引きずっているのかもしれないなぁ。忘れたいと思うけど、どうにも忘れることができないよ」

「それは、仏壇を置いているからでは?」

 タキオンは、思わずもっと踏み込んだ質問をしてしまったが、賢助はやっぱり表情を曇らせただけでその気分を表す言葉は吐かなかった。ただ、こう言った。

「仏壇?……やっぱり忘れることはできない。そして、できるだけもうこれ以上このことに踏み込まないでくれ」

 賢助がそう言って、やっとタキオンは無礼を働いてしまった事に気が付いた。「すみませんでした」と言うと、こう続けた。

「兄弟のことは?」

「兄弟?…小さい頃はしょっちゅう喧嘩してたな。…今でも仲が悪いのかどうかは知らんけど、ここに来た一番最初の日を見てみると、あんまり変わったものではないかな」

「トレーナー君は、幸助君のことが嫌いだと言っておりました」

「嫌いと言っても、それは心の底からじゃないだろう?多分、アグネスさんの手前、格好つけたのか。それとも、男兄弟のよくある仲の悪さなんじゃないのか?あんまり、男同士で仲良くしてもしょうがないしな。…まぁ、初日が最悪だっただけで、特に仲は良くも悪くもなかったのは見ただろう?子供の時も、少し喧嘩が多かっただけであんまり変わらなかったよ」

 そこでタキオンは、また考えに耽るために暫く押し黙った。そして、考え終わると言った。

「トレーナー君に弟が生まれてから、どのくらいトレーナー君に対しての母親の対応は変わりましたか?努力の話ではなく、結果の話です」

「幸助が生まれてからは、大変だったから、俺も圭一の世話をするようになって、その分圭一と美花の触れ合う時間は減ったかな?」

「それはどのくらい?愛情を感じるのに大きな差はありましたでしょうか?」

「愛情?……あんまり分からないなぁ」

 ここでタキオンは、賢助が言葉を濁したのを感じ取った。ただ、それを指摘しても話は終わらないから、質問を変えた。

「では、育てるときに何かモットーにしていたことはありますか?」

「モットー?…それは、心根の正しい人間になってほしいと思って育てたけど、あんまり意識して育てた覚えはないな」

「では、トレーナー君が小学生の時などに嫌がっていたことは?」

「う~ん…、習い事をいくつかさせたけど、どれもすぐに嫌がってやめたな」

 タキオンは、そこである考えに至ったのだが、これを言ってもいいものか迷った。これは、明らかに失礼に当たるからだ。しかし、タキオンの心は抑えることができず、遂には口を開いた。

「お父さんは、先程から自分の事ではないかのように話していらっしゃいますが、ここの家庭で言うと、育てるのを熱心にしていたのは、お母さんの方で?」

 これは、できるだけ丁寧に言うことに成功した。タキオンは、なるべくなるべく父親を責めている口調にならないようにした。その甲斐あってか、賢助は困ったように頭を掻いただけで、怒りはしなかった。

 賢助は、躊躇いがちに言った。

「…まぁ、そういうのの主導権を握っていたのは、美花だけどね。俺も口を挟みはしたよ。特に、圭一が嫌がったときなんかは」

 これで、タキオンに合点がいった。もう話す必要はなかった。最後に、「ありがとうございました。もうこれでお終いです」と言うと、話を終わらせた。

 タキオンの合点がいったのは、田上は母親から圧を受けていたということだった。これは、父親の最後の言葉から想像がついた。田上の母親は、父親が口出ししないと止まらなかったのだ。まだ、問題の本質のところは謎のままだったが、この会話で一番の収穫だった。

 タキオンは、満足げに頷いたが、まだ田上に腹を立てていることを思い出すと、急に表情を曇らせた。その表情の変化に賢助は少し不安になったが、「俺が電話をしますよ?」と言うと、タキオンが頷くのを見て、電話をかけた。

 

 ショッピングモールで雑貨を見ながら、――タキオンたちは何を話しているんだろう?と田上は想像していたが、大きなぬいぐるみを目の前にすると、その考えは吹き飛んだ。そして、丁度その時に父からの電話があった。

「もしもし、終わった?」

 開口一番に田上は、そう言うと、電話の向こうから低い声で「終わったよ」と聞こえてきた。

「案外、早かったんだな」

『ああ』

「じゃあ、今から帰ります」

 そう言って、田上は目の前にある自分の身長を優に超えた大きい熊のぬいぐるみのことを報告しようかとも思ったが、それは少し大人げないのでやめた。代わりに、「バイバイ」と言って電話を切った。

 だが、そこからすぐに出口に向かうことはしなかった。まだ大きなぬいぐるみを見ていたかったし、この雑貨屋をもう少し見て回りたかったからだ。

 雑貨屋の中はたくさんの物で溢れていた。大きなクマのぬいぐるみは、店頭に飾られていたのだが、中の方にも小さいがクマのぬいぐるみやその他動物、アニメのキャラクターのぬいぐるみが飾られていた。雑貨屋というより、手芸屋だったが、店の名前は『MARYの雑貨店』という名前だった。全国展開をしている大きなチェーン店というわけではなさそうだった。だが、その中身は、大変に見ていて面白く、田上も子供に帰りそうな魅力あるキラキラしたもので溢れていた。

 人もたくさんいた。どうやら、地元では人気の店のようだ。その大半が女性だったから、田上は少し居心地が悪かったが、それもおしゃれな棚を見ていれば忘れた。

 その棚は、三段の引き出しが付いた、小さな棚だった。その上には、この店の人の遊び心か、小さい人形が三人ちょこんと並べられていた。一つは、男の人、一つはウマ娘、一つは女の人だった。田上は、これに堪らなく興味を持った。値段表はどこにも見当たらなかったし、店の中を探してもこれと同じものは何一つ見当たらなかった。

 ウマ娘の小さい人形は、タキオンと同じ栗毛だった。ピンクの服を着て、男の人の人形と隣同士に座っていた。女の人は、少し離されていたが、別の世界線にいるのではなく、少し離れた所からウマ娘の人形と男の人の人形を見守っているようだった。

 田上は、これを動かしたくなったが、さすがに大の男の大人が、人形遊びをしていると見ていられないので、動かそうとした手は押しとどめた。すると、代わりに、人の好さそうなウマ娘の店員が話しかけてきた。

「この人形気になりますか?私が作ったんですよ。ほら」

 そう言うと、その人はウマ娘の人形を持って、ちょこちょこと動かした。まるで、遊びに誘っているようだったが、田上が動かないとなるとその人は、男の人形を持って田上に渡してきた。

 そして、人形を口元に持ってきて、ままごと遊びのようにこう言った。

「今日は、何の御用でこの店を訪れたんですか?」

 これは田上にもそうしろということらしい。田上は、自分の持っている男の人形を見つめながら暫く迷ったが、いつまででもその店員は待っていたので、田上も付き合ってあげた。しかし、付き合ってあげたと言っても平気なんてものではなく、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

 田上は、店員の言葉にこう返した。

「ぼ、僕は、ちょっと暇潰しに」

「そうなんですか?何のためなんですか?ただ、暇だったから?それとも時間を潰すため?」

 道行く人の目がこちらを見ていて、それに押し潰されそうになったが、店員は相変わらず人形を介して話しかけてくる。田上も、一度始めたからには応じないわけにはいかなかった。どこかで、クスクスと笑う声も聞こえてきた。

「じ、時間を潰すためですね。友人が、ちょっとやりたいことがあるそうなので?」

「ズバリ、その友人とは?」

 田上は、その質問の意図が分からず、「友人?」と聞き返したが、店員はただ頷いただけだった。だから、田上は必死に考えてこう言った。

「ゆ、友人とは、少し仲のいいただの友達です。ここに一緒に遊びに来ただけです」

「では、その友人が何かサプライズを用意しているのでは?」

「…それはないと思います。元々、目的があって一緒にここに来たみたいだから。それに、記念日の様なものも特にないし、その記念日すらも友人は頓着はしません」

「じゃあ、なぜ、その友人と仲がいいのかな?」

 店員がそう聞いてきたところで、田上はもう限界となった。持っていた人形を棚の上に戻しながら、「もうやめませんか?」と呼びかけた。店員の方は、笑って「いいよ」と返してきたから、田上は拍子抜けした。こんなことなら最初から、この変な遊びに付き合わなければ良かったと思った。しかし、そのことは口には出さないで、田上はその場からそそくさと離れようとした。すると、店員も一緒についてきたから、驚いた。田上は、「何か用ですか?」と思わず、邪険に扱ってしまったが、店員はニコニコ笑うとこう言った。

「その友人さんの所に今から帰るんですか?」

 田上は、まだ少し店の中を歩こうかとも思っていたが、店員にそう聞かれると面倒臭くなって「そうです」と答えた。

 すると、店員はまた言った。

「あなたって面白い人ですね。あの遊びに付き合ってくれた人、それも初対面で付き合ってくれた人は中々いませんよ」

「…あれは、皆に吹っ掛けてるんですか?」

 田上は、気になったので聞いた。そうすると、店員は顔を笑みでいっぱいにして、嬉しそうに「はい、そうです」と答えた。

「ただ、私が作ってきたものを熱心に見てる人だけですけどね。…そういう人も、私があんなことをすれば、急な用事ができたり、トイレに行きたくなったりする。…だから、あなたは中々の強者だよ。誇っていい」

「あんまり誇れるようなものじゃないですね」

 田上が、顔をしかめて言うと、その顔が可笑しかったのか店員がけらけら笑い出した。その笑いに、田上はもっと顔をしかめて、「それじゃあ」と言うと、その場を立ち去ろうとした。しかし、店員は慌てて笑うのをやめてこう言った。

「もしかして、あなたの友人って、ウマ娘だったりします?」

 田上は、急な質問に固まったが、暫くするとゆっくりと首を横に振った。

「そうですか。私の読みは外れましたか。…はい、これあげます」

 店員は、いつの間にか手に持っていた男の人形と、ウマ娘の人形を田上に差し出した。ただ、田上は、それを売り物だと思っていたから、戸惑った。そして、「これは売り物なんじゃ?」と恐る恐る聞くと、店員は「全然違いますよ」と言った。

「さっき言いませんでしたか?私が作ったものです。売り物なんかじゃありません。ただ、あそこに置いていれば可愛いと思ったんです」

「…盗まれないんですか?」

「盗まれますよ。盗まれるために置いているんです。ただ、あんまりしょっちゅう持っていかれると困るので、そういう人の顔は覚えていて、絶対に張り付いています。そういう人以外、...つまり、あなたのように直接渡す人は、信用しているので、多分今後盗むなんてこともないでしょう」

 店員はにやっと笑って、田上を見た。

「これ、貰ってやってください。この子たち、あなたのことを好きだと思うんです」

 店員が差し出した手に、田上は恐る恐る手を広げてそれを受け取った。しかし、一つ気になることがあって、その手を引っ込めずに聞いた。

「もう一人の人形がありませんでしたか?」

「…ああ、ありましたね。…ちなみにどんな関係に見えました?あなたの目線から」

「…母親だけ少し遠くに離れた親子?」

「つまり、ウマ娘ちゃんの人形が子供で、後の二人が親、ということですね?」

 そう言うと、店員は答えを求めるようにこちらを見たので、田上は頷いた。

「私も最初はそう思っていました。しかし、並べてみると、あんまりしっくりこないんですよ。それで、なにかな~なにかな~って思っていると、今日、あなたを見て分かりました。…この子たちは、ウマ娘とその大好きな男の人。つまり、恋人同士。あのもう一人の人形は、その男の人の母親だけど、そのカップルにはあまり関係がない。…もう一つ、父親の人形を作らなければならなくなりました。だって、母親一人だけでは寂しいですからね。…その人形は大事にしてくださいよ。いつかあなたの身に、愛する人を抱けるまで。…恋人はいないんですよね?」

 店員の最後の言葉は余計だったので、田上は曖昧に頷くと、人形を持ってその場を後にした。まだ、雑貨屋の方から幾つかの視線を感じたが、それはもう気にしなかった。

 この人形を貰えたことが少し嬉しかった。その人形は少し温もりがあるような気がした。それを大事そうにポケットにしまうと、田上は、寒い道を家まで歩き続けた。

 

 家に帰ると、相変わらず暖かい部屋が田上を出迎えたが、タキオンが少し怒っていそうなのが気がかりだった。だからと言って、田上も大した用事があるわけでもないので、タキオンの隣に座ると持ってきた人形を机の上に置いて、眺め始めた。

 もう父親が料理を作っていた。まだ、お昼には早い時刻のように思えたが、賢助が言うには「早く作って、早く食べて、お前たちが電車に乗っていくのを俺も見送りたい」とのことだった。その駅まで行くのも少しのんびり歩きたいそうだった。

 それを聞くと、田上にももういよいよという感じが増してきて、タキオンと話すために口を開く気もなくなった。しかし、タキオンの方から話しかけてきた。

「……それは、…何だい?」

 右隣から急に話しかけられて、田上は戸惑ったがこう言った。

「人形。店で貰った」

「貰ったということは、配っていたのかい?」

「いや、たまたま変な人に会って、知らないうちに貰った」

「知らないうちに…」

 タキオンは、まだ話すことがありそうな口調をしていたが、何を思ったのかそこで口を閉じた。そこで、田上もこう話しかけた。

「お前、もう帰る準備をしておけよ。昼には出るんだからな」

 タキオンは、そう言われると、最初はキョトンとして話を聞いていたのか疑わしいくらいに黙り込んでいたが、やがて、少し眉を寄せるとこう言った。

「私、やっぱり帰らない」

 この言葉に田上は仰天した。

「帰らない!?どうして!?」

「君が帰らなくていいって言ったんじゃないか。だから、私はその選択をしただけだよ。それ以外に理由があるかい?」

 少し怒っているようだった。田上は、その事に気が付いたが、特に何も言うこともできず、「は、はぁ、…分かった」と呟くだけだった。すると、またタキオンが言った。

「やっぱり帰る」

「え!?どういうこと!?……は!?」

「やっぱり帰るんだよ。トレセンに帰ることにする」

「……えっと、どういうこと?なんでそんなに言うことが変わるの?」

「どうでもいいだろ!そんなこと!それよりも、君が帰る支度をしてくれよ。自分でやるんじゃ面倒臭い」

 田上は、また「分かった」と困ったように呟いたが、すると、タキオンもまた言った。

「…やっぱり帰らない」

「え!?どういうこと!?何が起こってるの!?…なんで!?」

「帰らないんだよ。君の耳はただの穴なのかい?ちゃんと言ったろ?帰らない」

「え、…いや、タキオンってそんな言うことが二転三転するやつだったか?」

「するさ。私の何を見ているんだい?もしや、君の目も節穴だって言うのかい?あーあ、これはトレーナー失格だねぇ。残念だ。トレセンに帰ったら、君と契約解除の手続きをするよ」

「は!?…え!?何が言いたいんだ?やっぱり俺が何かしたのか?」

 田上がそう言うと、タキオンの堪忍袋の緒が切れたようだ。これまでになく激昂して田上に怒りをぶちまけた。

「何もしてないんだよ!!…何のための私のトレーナーだ!!私の言葉をことごとく無視しやがって。この野郎、この野郎」

 タキオンは、田上を座ったまま足の裏で踏みつけ始めた。中々に力を込めてやっていたので、田上は後ろに倒される他なかった。

「ごめん、ごめん」と終始謝っていたが、タキオンの怒りは冷めやらなかった。

 賢助は、その声を聞いていたが、止めに行くことはしなかった。もう勝手にすればいい、と思って、その場を息子が解決することに託したのだ。

 タキオンの言葉は続いた。

「昨日の夜からそうだった。何を思ってるのかは知らないけど、私の言葉を聞け!自分だけの世界に入ろうとするな!気持ち悪いんだよ!!なんで私の話を聞かないんだよ!私のトレーナーだろ!抱きしめろと言ったら、抱きしめるんだよ!話聞いてるのか!!?」

 田上から何も反応がなかったのでそう聞くと、「聞いてます聞いてます」とうずくまった田上の口から返事が聞こえてきた。それを聞くと余計に腹が立ったが、もう言うことがなくて、迷った末に田上の尻を思いきり蹴った。田上の呻く声が聞こえた。妙に小気味よかったが、それでも怒りは晴れなくて、「むしゃくしゃする!!」と叫びながら、炬燵に座り直した。それから、机にあった人形を二つ引っ掴むと、田上に投げつけた。

 

 昼食が出来上がるころには、その場はすっかり収まってはいたが、タキオンの怒りがまだ抜けきっていないため雰囲気だけは最悪だった。田上にはどうしようもないかのように思えた。田上が、何か言おうとすれば「うるさい」と言われ、口を開くことすら許されなかったからだ。

 それは、いつまで続くか分からなかった。タキオンの子供のように短気な怒りかとも思えたが、田上自身にも思い当たる節があって、それを大変申し訳なく思った。どうにも自分のことが嫌いになった。嫌になった。どうしようもなくなった。口を開けばうるさいと言われ、かと言ってこのまま口を閉じていても解決はしそうにない。そんな状況で、ただ飯を食べている自分が嫌になった。

 これは、昼食を食べ終わり、いよいよ帰るよという時も続いていた。

 タキオンは、もう帰るつもりだったようだ。自分で勝手に荷物をまとめると、真っ先に家から出発した。

 田上は、行くときに被っていた『K』の文字が付いた帽子を被ると、自分も家を出た。少し名残惜しかったが、また来ると思うと、すんなりと家を出ることができた。出た時にタキオンにこう言われた。

「君、その帽子似合ってないぞ」

 ただの難癖かと思われるし、田上に帽子を脱ぐという選択肢はなかったため、その言葉を意に介さなかった。

 そして、家を出ると、タキオンが先頭に立ち、田上と賢助が話をしながらその後ろをゆっくりと歩いた。賢助には、先程の喧嘩について触れる気はなかったようだ。ただ、それでも心配が抑えられなかったのか、「仲良くしろよ」と一言だけ言ってきたときがあった。

 

 駅には、思ったよりも早く着いてしまった。タキオンが、ずっと先を歩いていて、そこで立ち止まっては田上たちが来るのを待っていたので、自然と歩く速度も早くなっていったのだ。タキオンは、歩いている間、何も話さなかった。例え、田上と目が合ったとしても話す気は毛頭なかったようだ。田上を冷たく見据えているだけだった。

 だが、駅のホームに着いて賢助がトイレに行くと、話しかけてきた。

「仲直りしないか?」とのことだった。

 田上は、タキオンを驚いたような目で見つめただけで、何の反応を寄こさなかった。だから、タキオンは話を続けた。

「もううんざりなんだよ。こうやって喧嘩をするのが。……君から何か言ってほしい」

「……ごめん」

「もっと他には?」

「…タキオンの事、無視したり、何も考えなくてごめん」

「そうだ。その通りだ。…仲直りのハグは?」

 タキオンは、そう言って、今まで線路の方に向けていた体を田上の方に向けた。そして、腕を軽く広げた。田上は、戸惑いながら「人の目が…」と躊躇った。

 すると、タキオンがこう返した。

「私が人の目を気にしたことがあったか?…さぁ、早く」

 田上は、タキオンが広げた腕にぎこちなく入っていった。だが、タキオンはその手で田上を包むことはなく、代わりにこう言った。

「君が私を抱きしめてくれ」

 田上は、戸惑いながらも言われたとおりに抱きしめた。駅の待っている人たちの視線がちらほらこちらに向いた。田上は、自分が物凄くまずいことをしているような気がしてならなかった。まるで、人の弱みに付け込んで、そこから出てくる甘い汁を啜っているようだった。

 タキオンが鼻をスンスンと言わせ、田上の匂いを嗅いでいるのを感じた。耳が、燃えるように熱くなるのを感じた。

 田上は、時を忘れてタキオンを抱きしめていたが、賢助が戻ってくると、途端に時の大波が田上を襲った。冷や汗が体中を這い回り、首を絞めてこようとするのを感じた。

 体を離すと、タキオンは不満そうな顔をしたが、どこか気持ちよさそうな顔もしていた。タキオンは、「もっと」と甘えるような声を出したが、田上が青ざめた顔をしているのを見ると、自分も後ろを振り向いて賢助がいるのを確認した。すると、タキオンも少々居心地が悪くなったが、賢助は何も見ていなかったようにこう言った。

「今何時だ?」

 時計は、電車が来るまで残り五分を示していた。

 田上の動悸は、まだ冷めやらなかった。タキオンが、右隣でまだ手を繋いでいた。何をしたいのか分からず、その手を振り解こうとしたが、タキオンは決してその手を離さなかった。

 

 やがて、電車が来た。それに乗った。ドアが閉じる。ゆっくりと動き出す。父の笑顔が見える。遠い。遠い。過ぎる。去ってゆく。小さく。小さく。ため息が聞こえる。自分の物かそうでないのか分からない。タキオンの物のような気がした。もう父は見えない。電車の影に霞み、見えなくなる。背後の山もまた、電車の影に霞む。規則正しい振動が、過ぎていった日々を見送っている。左手を握られる。小さな暖かい手が、自分を包む。例えそれが、過ぎていった山々よりも小さくとも、田上を包んでいた。

 

 ガタン  ガタン  ガタン  ガタン  タッ  ガタン  ガタン

 

「トレーナー君」

 電車の音に支配されていた頭の中に、タキオンの声が響いた。

「トレーナー君」

 田上が返事をしないので、もう一度呼びかけてきた。すると、その声に「何?」と返すと、タキオンがこう言った。

「さっきはありがとう」

 田上は、何も答えなかった。ただ、流れゆく景色の中に自分を置いて、その流れの中で時の早さを感じるだけだった。


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