部屋に入って自分のスマホを見ると、案の定、不在着信がある。タキオンは、それを確認しながら、同室のデジタルに「スマホが鳴ったかい?」と聞いた。デジタルは、「ええ」と頷いたあとに、自分の作業へと向かった。タキオンもそれ以上話しかけるのも悪いと思って、話はそれきりにし、代わりに、田上の方へ電話をかけた。
田上は、電話に出るも少々上の空のような心地で、「今、ボス戦をやってるんだ」と言った。そして、「ちょっと終わるまで待っといて」とも言った。タキオンも電話は繋がるだけで良いし、「ちょっと待っといて」と言っても、タキオンが話せば答えを返してくれる彼氏だったので、タキオンはのんびりとしながら話しかけた。
「ゲームかぁ……。私も一台買って、君とやるのもいいな…」
「韋駄天堂の?」
「そう。…どのくらいの値段?」
「んーと…、……確か三万だった」
「じゃあ、簡単に買えるね」
「ん、……ネットでするんだったら、場合によると、オンラインへの加入が必要だぞ」
「…何円?」
「年、…何円だったかな? 千円とか二千円とか、そのくらい」
「……どんなゲームがある?」
「……二人でするんだったら、すごろく系のパーティゲームとか…、あとは、…何かな…。……対戦系のオンラインゲームとかできるしね…。…あと、…何かあったかな…」
「ああ、あのバトルロイヤルとやらもできるわけだね?」
「ああ、そう。タキオンだったら、飲み込みも早いだろうから、すぐ上手くなるかもね」
「…まぁ、…そんなのに興味はないかな。君と一緒のゲームをしたいってだけで」
「……俺が今やってるのは一緒にはできないけど、モンスターを皆で一緒に倒す系のゲームは、俺とお前の二人だけでも結構やりやすいかもな」
「…すごろくのパーティゲームは?」
「……二人でやるのって寂しくない?やっぱり、四人くらいはいたほうがいいんじゃない?」
「……四人もゲームをやってる友人はいないなぁ…」
「俺なら、あと二人は多分集められるけど」
「ん、なら、それでいいんじゃないかい?」
「霧島か、鳩谷か、田中か、国近しかいないけど」
「いいじゃないか、そのメンバーで」
「……俺としては、タキオンとモンスターを倒すゲームしてみたいなぁって気分ではある」
「モンスターを倒すゲーム? ……それだけかい?」
「まぁ、…基本的には、モンスターを倒して、素材を入手して、防具や武器を作って、次の強いモンスターを倒そうってゲームだね」
「ふむ。……君がやりたいっていうのなら、やぶさかではないがね」
「じゃあ、買うんだったらやろう? 本当に買うんだったら」
「ん、じゃあ、今買おうかね」
「え、今!? …もうちょっと熟考の余地はないの?」
「君とゲームをしたいのは前々からそうだし、君と共通の趣味があるのもいいからねぇ」
「……もう少し考えない? ちょっとやって飽きるかもしれないよ?」
「いや、君とやるんだから飽きないもの。それに、君とゲームをするんだったら、それだけでも三万円の値打ちがある」
「ええ……」と田上が困った声を出した後に、「あ、死んだ」と言った。
その声を聞いてタキオンは満足げにふふふと笑うと、田上が話を続けた。
「本当にするつもりはあるの?」
「今、調べてる。……三万ちょっとだね。…これなら買ってもいい」
「ソフト代もかかるよ」
「君は、その、モンスターを倒すゲームは持ってるのかい?」
「もう最後までやってるよ」
「あれ、じゃあ、君と私だと開きがあるのか」
「いや、別に俺はまた初めからゲームを始めてもいいかな、って思ってるんだけど」
「君は飽きないのかい?」
「タキオンがやろうっていうんだったらいつでもやるし、武器の種類とかも、自分じゃあんまり使ったことのないのもあるから、全然大丈夫だよ」
「そのゲームの名前は?」
「『モンスターアンドソルジャー』」
「分かった。……うん。どちらとも買った。…あとは、オンラインに加入すればいいのかな?」
「え、通話しながら?」
「タブレットでだよ」
「ああ、……本当に買ったの?」
「うん。君の好きなものに触れてもいいだろ?」
「…『DIVER』はいつするの?」
「ええ?……うーん、……気が向いたらね」
「えー、もう『DIVER』はいいの?」
「うん。…私の目的はあくまでも君とゲームをすることであって、ゲームにハマることではないもの」
「えー、…まぁ、いいか。…本当に買ったんだ」
「うん。本当に買ったよ。早く君と遊びたい」
「……まぁ、パーティゲーム自体は俺の家で遊べるんだけどな」
「ん、俺の家で思い出した。…お風呂で手土産について考えてきたかい?」
「ああ……、んー……、結局…、分からんのよなぁ…」
「…帽子に関してだって、結論は出ていないんじゃなかったかな?」
「んん? ……そうか。……別に、二人で、行く必要はなくないか?」
「あるだろう。センスのない君だから、また、センスのない帽子を買ってきてしまう可能性がある」
「…っていうのは建前で、本当は、俺とデートしたいだけだろ」
「その通り。バレてしまったのならしょうがないから、観念して、私をデートに連れて行きたまえ」
「ん? ……俺が観念するの?」
「そう。彼女の心を暴いたからには、君が責任持って、私をデートに連れて行かなくちゃならない」
「……デートねぇ…」と田上は嫌そうに言った。
「……何が嫌なんだい?」
「何? ……んー…、………バレるかもしれないのと、……まぁ、そのくらいかな」
「……バレる不安は拭えない?」
「んー……、まぁ、…今日熱愛出たばっかりだよ?」
「……出ただけだよ…」
「んー………、やっぱり、俺は少し怖いよ。…何が起こるか分からない」
「……何も起こらないと思うがね…」
「……そりゃあ、熱愛報道出ても大して動揺もしなかったお前なら、最早、報道すらも大した事じゃないのかもしれないけど、俺からしたら、あの報道も本当に嫌だった」
「……それは分かってるよ…。…んー…、じゃあ、…帽子はどうする?」
「明日、他の物を買うついでにそれらしいのを買ってくるよ」
「……じゃあ、その時には写真を送って、私に知らせてくれよ。また、サムいのも買ってしまうかもしれないんだし」
「……無地のを買えばいいんだろ?」
「そう言って、今度は、田んぼの刺繍が付いた帽子を買って、――田上の頭の上に田んぼがあるから、田下になっちゃったとか言い出すかもしれない」
「俺、そんなにギャグのセンス低いと思われてるの?」
「実際、そんなもんじゃないか、今の帽子だって。だから、擬似的なデートだと思って、私に写真を送ってくれないか?」
そこまで譲歩をされたのなら、田上にも何も言うことはない。
「まぁ、いいよ」と若干不服そうに答えた。田上が不服そうなのはギャグのセンスがないと言われた名残である。
そこで話はまとまって、今度は手土産の話になった。田上は、「手土産はどうしたもんかなぁ…」と困ったように、タキオンに言った。タキオンはまた、通常のように答えた。
「手土産なんて、なくても全然許されるよ」
「…でもなぁ、…そう言ってもなぁ…。……どうしたもんか…」
「私が向こうに聞こうか? ――圭一君が、手土産が必要かどうかについて悩んでいるよって。そしたら、向こうは絶対、――いらない、って答えると思うよ」
「そりゃあ、孫の彼氏に手土産がほしいなんて言う方がおかしいだろ。普通は、礼儀で断るよ。大して仲がいいわけでもないんだし。……また、急な話になったなぁ。前々から分かってれば、用意できたのに」
「…いつ届くのかは確認した?」
「和菓子?」
「そう。とりあえず、確認してもいいんじゃないかな?」
「んー…、そうだね…」と言いながら、田上はパソコンをいじり始めた。
タキオンは、田上がキーボードを鳴らすカタカタという音を聞きながら、同じ部屋に居る気分に浸っていた。こういう音が聞こえてくると、田上が今部屋のどこに居て、どういう風な姿勢でパソコンのキーボードを打っているのか、いつも見てきた彼女のタキオンなら、ありありと想像できる。それを、自分だけしか想像できない特権に浸って、同じ部屋に居る気分を楽しんでいた。
田上は、そんな事も露知らず、生活音を無造作に打ち鳴らすと、暫くうーんと唸った後に「明後日なら、届きそうかもしれない…」と言った。
「なら、それにすれば?」とタキオンは答えた。
「……でも、…果たして、それで良いのかどうか…」
「……誠意は伝わると思うよ。…中身もしっかりしたものだし、それは向こうも食べればわかるだろう。おばあちゃんなんかは、甘いものは嫌いじゃなかったはずだ」
「………伝わるかな…?」
「…伝わるんじゃないかな。別に、自分の嫌いだったものというだけで、向こうは怒らないよ。元々、嫌いなものでも貰う立場だもの。そして、孫娘の将来の旦那だ。そうそう邪険にもならない」
「……最初から反感貰ってたら駄目だな」
「その時は何上げても駄目さ。向こうが、端からそれを撥ね退けるつもりなんだもの。伝わる誠意も伝わらない」
「……じゃあ、その時は?」
「私が断固抗議する。そして、決裂したときには、私が君を連れて家を出て行く」
「……ふぅ……、どうしたもんか…」
「決めるしかないよ。ラジオ出演にしろ、おばあちゃんちにしろ。君が決めなきゃ」
「……はぁ……、ラジオあるんだよなぁ…」
「良かったね。憧れの人と話せるチャンスじゃないか」
「良かねぇよ。タイミングが最悪だ。…皐月賞勝った後くらいだったらなぁ…」
「…で、どうするんだい?とりあえず、おばあちゃんに何贈るか決めなよ」
「んー…、やっぱり、お菓子でいいかなぁ…」
「いいと思うよ。孫娘の彼氏がくれるお菓子なんて、何個あったっていいだろうからね。…孫娘の中では、私が初めてなんじゃないかな? 彼氏を連れてきたのは」
「ええ? 妙なプレッシャーかけないでよ」
「ええ? 今の言葉に、プレッシャーをかける要素があったかい?」
「…孫娘が初めて彼氏を連れてくるって」
「別に、孫が初めて彼氏を連れてくるだけだろう? 自分の娘じゃないんだから、あっちは温かく迎え入れるだけじゃないか」
「自分の孫だろ?」
「ただの孫だよ」
「ただのGⅠを三つもとって、初めて五着になった時に呼び出した孫。…熱愛の出たただの孫」
「じゃあ、やっぱり、ただの孫じゃないか」
「ただの孫じゃあないよ。熱愛出たんだぜ?」
「たかが熱愛だよ」
「向こうはそう思ってないかもしれない」
「じゃあ、聞いてみようか?『おばあちゃんは、圭一君の事、どう思ってますか?』って。『圭一君が心配しているようなので』って付け加えてもいい」
「…不躾じゃない?」
「『年の差婚をどう思いますか?』と送ってみてもいいが、そう言えば、私の両親は似たような境遇だった。なら、全然大丈夫だね。向こうは一度経験してるよ」
「……そんなもんかなぁ…」
「まぁ、とりあえず、商品を注文したまえ。商品の到着日を確認したということは、そのホームページには行っているんだろう?」
「そう。……こんなもんかなぁ…」
「お菓子は選んだのかい?」
「まだ」
「じゃあ、お菓子も選びたまえ。あと、多分、私も食べられるから、私好みの菓子を頼んでくれてもいい」
「お前の好きな菓子って…?」と田上がぼんやりと聞くと、タキオンがあそこの店で食べた菓子を、思い出せる限り羅列していった。
田上は、適当に相槌を打ちながら、偶にそれを本気にしてみたりして、まぁ、こんなものかとお菓子を選んだ。
結果は、まぁ老人が好みそうなものを幾つかと、タキオンの好みを幾つか詰め合わせて買った。会計のボタンをポチリと押したところまで来ると、田上もようやっと一息吐いて、安堵のため息を漏らすと、「やっと終わった…」と嬉しそうに、電話の向こうのタキオンに報告した。
タキオンは、田上がお菓子を選んでいる間中、ずっとサポートを努めていた。したことと言えば、度々不安になる彼氏に「大丈夫大丈夫」と励ますことだったり、祖母や祖父の好みを、予想で論じてみたりするだけだったが、田上には、菓子選びのサポート役として、大いに役立ってくれた。
タキオンは、安堵のため息を吐いた田上に向かって、「よくやったね」と褒めてやった。田上もそれで暫くは、手土産を選べた達成感で有頂天になっていたのだが、時間が経つと、段々それも下火になっていった。そして、代わりに、「ラジオどうしよ〜」という言葉が漏れ始めた。それに、タキオンは言葉を返した。
「それは、今考えたって仕方のないことじゃないか」
「木曜まで待つの?」
「君が決めたきゃ、今にでも決めていい」
「……今は無理」
「じゃあ、考えても仕方のないことじゃないか」
「えぇー…、でもなぁ? …知ってる? 大きな蛇って、ミリオンめちゃくちゃ出してるんだぜ?」
「具体的な枚数は知らないがね」
「一番売れたので、二百七十万枚。…途轍もねぇよ…」
「…何の歌?」
「えー、『Out of the house』。今日まで〜背負ってた殻を脱ぎ捨て〜、僕は〜そーとーへー、出てぇ〜ゆく〜。みたいなやつ」
「ヘぇ、……聞いたことがあるような、ないような曲だね」
「まぁ、昔の曲だからね。……はぁー…、どうにかして、タキオン…」
「ラジオに出ればいいじゃないか」
「出るっつっても、……神様だからね? 向こうは。神様と話をしていいと思ってるの? タキオンは」
「……私は、君程に興味はないがね」
「あー、これだからタキオンは。もっとタキオンに、大きな蛇の曲を聞かせればよかった」
「もう、充分聞いてるよ」
「……じゃあ、処刑だ…。…不敬罪…。神を崇めよ…」
田上はそう言って、自分の枕に頭を突っ込んだ。手土産の注文が終わったところで布団には入っていた。
開けている窓からは、雨の音を潜り抜けて、湿っぽく生暖かい風が入ってくる。だから、田上は少し汗をかいていた。
「……神って言われてもね…。…じゃあ、君は話さないということでいいんだね?」
「神と話せるのにその機会をふいにするの?」
「面倒な奴だな。…そんなに会いたいんなら、私に会えばいいじゃないか」
「タキオンに?」
「そう。私は、トップアスリートなんだから、レース界では、君のような輩から見れば、神様と言われる部類に入るだろう。 身近な所に居るぞ、君の大切な神様が」
「タキオンは、………まぁ、…神様にしては身近過ぎるな」
「不敬罪だな。罰として、君が私の部屋に泊まり込んで、私の傍に居てくれなきゃ」
「……ねぇ、…本当にどうすればいい…?」と田上は、今のタキオンの言葉を流して、そう言った。
「私の部屋に住み着く妖怪になればいい」
「なんで、俺が妖怪なんだよ」
「じゃあ、幽霊だ。その内、――大きな蛇と話すことができなかった、恨めしやぁ〜、って出てくるよ」
「出よう。お前の部屋に毎日出てやろ」
「ん、いいよ。それがいい。毎日来てくれ、私の部屋に。衣食住全て提供するよ?」
「そんなんじゃ、幽霊の方も出る甲斐がないよ。……俺は何を話してるんだ? ラジオの事だよ、ラジオの事」
「ラジオに出るのは諦めて、私の部屋に出ることにしたんじゃなかったかな?」
「上手い事言うな。…一体どうすればいいんですかね?」と、今度は、少々投げやり気味に言った。
「君が決めるしかないじゃないか」とタキオンが言い返した。
「……決めるったって……、どうすればいいんだろ…」
「もう、いっその事、断りの電話なり、メールなりを入れてしまえ!」
「ええ? 折角話せる機会があるかもしれないのに?」
「うん。そんなにくよくよ悩むんだったら、どちらかにすれば良いじゃないか」
「………日曜に落ち込んでたやつのセリフとは思えん」
「ああ! 言ったね君ぃ! もう、許してやらないからね。もうなんと言ったって、許してやんない」
タキオンのその言葉で、今まで幸せに言葉を交わしていた田上の心に、ざわざわと魔の手が這い寄って来た。一瞬言葉に詰まりかけたが、タキオンの口調は明らかに冗談だったので、ギリギリでこう言った。
「ごめん」
できるだけ元気に言ったつもりだったのだが、やはり、賢い恋人の目は欺けなかったようだ。
「……本気にした?」とタキオンが声を落ち着けて聞いた。
「ううん。…冗談だって分かってるよ」
「……そう? ……こういう類の冗談はあんまり好かなさそうだけどね」
「じゃあ、なんで分かってて言ったんだよ」
「いや、つい口から出てしまった。……こういう類の冗談は嫌いだろ?」
「……別に、そんなに悪質でもなかったよ、今のは」
「じゃあ、別れるのを連想させる冗談」
「…まぁ、……嫌い」
「じゃあ、悪かった。…繊細だものね、君は」
「……そうかな?」
「そうだよ。…今のもビビったんだろ?」
「……さあ?」
「……まぁいい。悪かった。……許してやんないって言うだけでも駄目?」
「……さあ?」と田上が言い返した。
この二回目の発言で、タキオンは、田上が明確に発言することを避けていることを理解した。そうなると、真正面から攻めてしまうと、また諍いが起きる。それだけは避けたかったから、また、この出来事を深掘りできそうな機会に巡り会えることを祈って、「………まぁいっか」と言った。
タキオンに気遣われた田上は、少々複雑な心持ちだった。
「……それで? ラジオはどうなったんだい?」
「………もう、やる気はなくなってきたな……」
「……私のせい?」
「……初めから、そんなにやる気はなかったよ」
「……今まではどうしよか悩んでいたじゃないか」
「………まぁ、……ちょっとした憧れはあったけどね。……まぁ、普通に考えれば、熱愛報道出た人間が無闇に表側に出るのは良くないよ」
「悪いことはしてない」
「……まぁ、決めた。もう、出ないって向こうに連絡する。明日、一番にやっておくよ」
田上は少々気落ちした声でそう言った。
「……できれば、私としては話してほしいもんだと思っていたがね」
「…さっき、――断りの連絡を入れてしまえ! って言ったのに?」
「いや、…まぁ、それはそれとしてだよ。君があんまりくよくよしてるもんだから、私もどちらかに決めさせたくなってそう言った。でも、君が憧れの人と話す所は見てみたかったんだがね…」
「……まぁ、出ても、なんか上手く話せない気がする。ラジオなんてやったこともないしね」
「誰だって初めてはあるよ」
「初めてを笑う人も居るよ」
「そんな人だけじゃないよ」
「そんな人の方が声は大きいよ」
「……まぁ、君には笑わない彼女が居るからね。…幸せを享受してくれればいいよ」
田上の心には、またも、タキオンの言葉によって、ざわざわと魔の手が伸びる。幸せなんてものがあるのか、田上には確証がない。確証がない事について、嘘でもいいからうんと頷いていいのか分からない。
それでも、タキオンが自分の事を大切にしてくれていることだけは知っていたので、躊躇いがちに「うん…」と頷いた。元々、雰囲気が暗かったので、田上の返事は状況に則しているようだった。その為に、タキオンは田上の心の微妙な変化には気が付けなかった。
あとは、眠くなるまで、なあなあにゲームのことなどを話して、二人は別々の場所を電話で繋げて過ごした。二人は、十二時になる前には眠りに就いた。デジタルは、それより前には眠りに就いたので、最後の方は、少しひそひそと話していた。
田上は、布団に入って、目を瞑りながら、今日はいろんなことがあった、と思った。ラジオの依頼については、今日ではなかったが、本格的に悩まなければならなくなったのは、熱愛報道が出た今日だ。もし、熱愛報道が出なければ、田上の意思も出演する方に傾いていたのかもしれないが、出てしまったのならばしょうがない。二人のためにも、今は世間に波風は立てないほうがいいだろう。静かに眠るように過ごすのだ。
田上は、そう考えながら深い眠りに落ちて行った。
タキオンは、田上の事をずっと考えていた。圭一君を傷付けはしなかっただろうか? とか、圭一君は何をどういう風に考えて、怯えているんだろうとか考えていたが、当然すぐに答えが出てくるわけでもなかった。答えが出るには、まだまだ漠然としている。しかし、タキオンは寝る前の常として、そういったことをぐるぐると考え込みながら、次第に眠りの中へと落ちて行った。
朝起きて、タキオンは田上に早速電話を掛けた。眠たげな声がいつものように「おはよぉ〜…」とあくびを噛み殺しながら聞こえてくる。タキオンは、それに「おはよう」と返すと、「気分はどう?」と聞いた。これも、朝のルーティーンである。
「まあまあ……」と田上は答えた。
これもいつものことである。大概がまあまあ、調子の良い時は「ちょっと良いかな」と答えてくる。とはいえ、朝っぱらから弾けるほど元気な人もなかなか居ないものである。殊に、今、起こされたばかりの人であるならば。だから、まあまあなりに、二人は朝の言葉を交わして、一旦自分たちの朝の支度に取り掛かった。
田上が、朝食を作っているときに、電話の向こうからタキオンが言った。
「君、向こうの寮の食堂には顔を見せていないんじゃないかな?」
「ああ、…修さんのところね。…ホント、顔を見せてやらなきゃな。いつ死ぬかわからないのに」
「普通に、昼食の時はあそこで食べればいいのに」
「昼食の時って言っても、…もう、あそこの寮には住んでないからなぁ…」
「一食分くらい大した違いはあるまい」
「お前、そういうのがいけないんだよ。こっちは、あそこに住んでないんだから」
「…でも、向こうは来てほしいんだろう?」
「……そうかもしれないよなぁ…」
「……君に料理を振る舞いたいんじゃないかな?」
「……そこまでされるとなぁ……、俺も困るっていうか…、なんというか…」
「とりあえず、顔を見せに行ったら?」
「まぁ、そうしよ。休み時間くらいに行ってもいいな」
「私も連れてってね」
「なんで?」
「いやぁ、だって、私の旦那君じゃないか、君は。君の行くところなら、どこへでもついていくよ」
「……寮に関係のない二人が?」
「寮に関係なくたって、入ることはあるだろう? その中の人間に用があるんだったら。…ウマ娘寮じゃあるまいし」
「ううん…」と田上は曖昧に頷いて、焼いていた目玉焼きを自分の皿に移した。
「じゃあ、行く?」と田上が聞いた。タキオンは、初めから断る気はないので、「行こう」と答えた。
田上は、少々油断気味にトレセン学園へと出勤したが、トレセンの建物が見えてきた時に、――そう言えば、熱愛報道が出てたんだった、と思い出した。無論、帽子は、タキオンの物じゃない、自分の『K』の印の付いた黒い帽子を被っている。一応警戒のためにそれを付けていたのだが、トレセンが見えてくるまですっかり忘れていたのだ。
田上は、トレセンの校門付近まで来ると、注意深く周囲を見渡した。トレセン学園の前の道路は至って平和そのものである。記者の影なんて、一つも見えない。
――まぁ、記者の方もたかが生徒とトレーナーの真っ当な恋愛に、それ程の興味もないんだろう、と田上は思った。これで、興味を持たれるとしたら、世間は余程平和に違いない。政治家の汚職もなく、もっと有名な芸能人の不倫もないんだろう。つまり、あるからここにはいないわけで、世の中は物騒だ。つい先日も、関税とかなんとかで、アメリカとロシアが揉めていた。
田上は、校門前を掃除している中年の清掃員に、「おはようございます」と声をかけられて、それに、「おはようございます」と返しながら、田上は少し水溜りの残っている校門を抜けた。
今日は曇りがちの日である。所々から、太陽は見えるものの、雲は依然として空にあり、太陽を覆ったり、覗かせたりと、どちらか一方に判然としない日である。ただ、やはり雲が多く、一度見れば曇天、次に見れば、太陽が覗いている。という日である。
タキオンは、やはり、校門に立つのを嫌ってか、校舎の玄関口で水溜りを見つめながら待っていた。水溜りに余程集中していたのか、タキオンは田上が肩に手を置いて、「よぉ」と声を掛けるまで気が付かなかった。
しゃがみこんで水溜りを見ていたタキオンは、一度ぼんやりした顔で田上を見上げ、次に、そこに立っているのが田上であることに気がつくと、顔に嬉しそうな笑みを覗かせて、「おはよ」と答えた。田上も「おはよう」と言ってから、タキオンの横にしゃがみこんだ。
「なんか、虫でもいるの?」
「いや、暑いな…と思って。…もうそろそろプールも良いものだね」
「ああ、プールね。…気分転換には良いかもしれないね」
「……私、思ったんだが、もうそろそろ夏じゃないかぁ」
語尾に変な抑揚を付けて、そう言ったタキオンを見つめながら、田上が「そうだねぇ」と答えた。
「……水着、…買いに行くべきじゃないかい?」
「水着?」
「そう。水着。……君の好みとしては、…なんだい? ビキニとか、露出の多いものがいいのかな?」
「………ビキニ?」と田上があまり理解できていないような表情で、そう答えた。
「そう、ビキニ。今のスクール水着だと、流石に、君と遊びに行くっていうのに、格好が付かないだろう?」
「………ビキニ…つったってなぁ……」と田上が言い淀んでいると、傍を中年のトレーナーらしき人が通り抜けた。それで、田上も持ち前の警戒心を発揮して、タキオンにこう言った。
「それは、…とにかく、ここでする話じゃないよ。もっと、電話とか、トレーナー室ですることだよ」
「ん、じゃあ、行こうじゃないか」と言って、タキオンは立ち上がった。
水着の話はトレーナー室でするべきだと言ったが、田上としてはまた、話題を変えて、このままタキオンとゆっくりのんびり暑さに乾きそうになっている水溜りを見つめて会話をしたかった。しかし、タキオンはもうトレーナー室に行くつもりで満ち満ちているので、田上は仕方なく立ち上がって、タキオンの横で歩いて行った。
トレーナー室に着くと、もうエスが居て、マテリアルが居たが、タキオンは構わずに、水着の事を早速聞いた。
「夏に来ていく水着は何がいいかな?」
その途端に、マテリアルがこちらの方を向いた。本を読んでいたエスはウマ耳だけ動かして、こちらの会話を聞こうとしたのだが、自分の耳が動いていることに気が付くと、そちらの方へ耳を向けまいと頻りに耳をキョロキョロと動かしていた。
田上は、マテリアルがこちらを見てきているのに気が付いて、思わずそちらの方を見てしまった。そして、目を合わせた後で、言葉を考えて「……どう思います?」と徒に聞いた。
そして、マテリアルが「何でも買えば良いんじゃないですか?」と言い返すと、遂にエスが耐えかねて、タキオンたちの方を見た。
田上は、エスの視線にも気が付きながら、少々困ったように、「何でもいいんじゃないか?」とタキオンに言った。
「何でも良い? ……好みくらいはあるだろ?」
田上はそう言われると、タキオンの視線から逃れるように、周囲を見回したあと、タキオンを見て言った。
「……見ろ。マテリアルさんもエスさんも俺を見てる。どう見ても、成人男性が水着の好みを言えるような状況じゃないだろ」
「えぇ〜?」とタキオンはがっかりした声を上げたが、ここで粘ってもしょうがない。もつれた糸を引っ張って、固結びにし、余計に面倒臭くなるだけだ。
やるのだったら、丁寧に解いていかないといけないから、「仕方がないか…」とタキオンは大人しく引き下がった。実際、真っ当に恥ずかしい状況ではあるのだから、タキオンが引き下がる方が賢明だった。
その後に、田上は、タキオンを横に、『ある事ない事ラジオ』の出演を断るメールを送った。文を書いて、メールを送る直前に、田上はあからさまにくよくよとした、はぁ〜…というため息を吐いたから、タキオンを苦笑させた。
「断るんだろ?」とタキオンが言った。
「………断るよ? ……断るんだけどさぁ〜…」
「……仕方が無いよ。報道は出ちゃったんだし、君はそれを気にしてるんだろ?」
「んんー………、まぁ、しゃあない……。セイッ」
そう言って、田上は断りのメールを送った。そしてまた、その後にため息を吐いた。
「はぁ~……、どうすればよかったんだろ……」
「……しょうがないよ、しょうがない。君には神様みたいな彼女が居るんだから、それで我慢したまえ」
そう言ったタキオンの顔を微妙な表情でじっと見てから、田上は答えた。
「………神様よりも凄いよ…」
「おや、それは良かった。……これで、やっと一段落ついたかな?」
「……ついた。……まぁ、まだ、ロードさんの事はあるけど、…それに、おばあちゃんち行きの事も……あるけど、……まぁ、…断ったよ…。…断ってしまった」
「……くよくよ悩んでたってしょうがないね。…次だよ、次」
タキオンがそう言うと、また、田上はタキオンの顔をじっと見つめた。タキオンは、それをじっと見返した。二人は少しの間見つめ合っていたが、やがて、田上の方から不意に目を逸らすと、少しため息を吐いて言った。
「……話したかったもんだ」
「終わってからならいくらでも言えるさ」
「…言えるよ。……なんか、………」
田上が言葉に迷って話せないでいると、タキオンが変わりに口を開いた。
「なんか…。なんだい?」
「………なんか、………儘ならねぇわ。…儘ならねぇ」
「……私もだよ」
「……お前もか」と田上はタキオンの顔を見て言った。
「私もさ」とタキオンは、また、同じことを答えた。
「………ふー……」と自分のパソコンの画面を見つめながら名残惜しそうにため息を吐いた。まだ、未練はあった。タキオンはその顔を見つめながら机に肘をついて、暫く自分も、田上と同じように黙り込んだ。
暫くしてから、タキオンが言った。
「圭一君」
「ん?」
「……思ったんだが、……君、買い物ついでに帽子を買うと言っただろ?」
「あ、まだ帽子渡してなかった」と言って、田上は、昨日借りたタキオンの帽子を今返した。結局、借りたのはタキオンからそれ一つだけである。
「ああ、ありがとう」とタキオンは帽子を受け取りながら言った。「それで、買い物ついでに買うというのは、ネットではなく、実際のお店でということだよね?」
「うん」と田上はこれから何を言われるんだろう、というような、不思議そうな顔付きをしながら返事をした。
「それは、あの、オールスター(田上とタキオンが、洗濯機の前で揉めた店の名前)で買うのかな?」
「ん、…うん、そのつもりだけど、なに?」
「いや、……そこだったら、私もついて行っていいんじゃないかと思って」
「………ついてくる…?」
「うん。私はそれがいいと思うのだけど」
「……なぜ?」
「…だって、あそこの店は大っきいし、一人一人が他人の顔を見ているわけでもない。人を隠すには、人混みの中、だ」
「人混みって言っても……、お前、昨日は、写真送るだけでいいって言ったじゃん」
「…良い案が出たから、提案してみたんだが…」
「……俺は、……あんまりなぁ……」
「……私だって、帽子被って、マスクをすれば、ただの一般ウマ娘になれると思うんだがね……」
「うーん……、なれるかは怪しそうだけどな……」
「……駄目そう?」
「んー……」と田上が唸ったところで、タキオンは教室に向かわなければ行けない時間になった。タキオンは、いそいそとトレーナー室から出て行ったエスを横目に、はぁとため息を吐いた。そして、立ち上がると、また田上の方を向いて、「駄目かい?」と聞き直した。田上は、申し訳無さそうな顔で「んん…」と唸るだけだったが、勝ち目がなさそうなのは明らかだった。だから、また、タキオンは不満を持ちながらも、大人しく引き下がった。その不満のために、タキオンが、次トレーナー室に戻ってきたときは、少々不機嫌だった。
一時間目の休み時間に戻ってきたタキオンは、田上の横で少々悶々としていた。できることなら、もっと田上といちゃいちゃしたかったのだが、それができる場所はない。そういう雰囲気もない。ベンチに連れ出そうと思っても、彼氏の方はタキオンが我儘を言わなくなったように思っている。そして、実際にタキオンだって、もうあんまり我儘は言いたくない。けれども、田上ともっと触れ合って、二人だけの世界に浸りたかったから悶々としていた。
田上は、タキオンがあからさまに無口なのには気が付いていた。普段であれば、少なくとももう少しは田上に話しかけてくる。なにか考え事をして黙しているときはあるのだが、雰囲気としては、少々イライラしているようだった。だから、田上は、そんなタキオンの気を紛らわすためにも話題を作って聞いた。
「おばあちゃんから何か連絡あったりしなかった?」
「おばあちゃん? …なぜ?」
「いや、…――やっぱり、俺は来なくていい、みたいな…」
「この期に及んで、まだそんなことを考えているのかい?」
「いや、……やっぱり、緊張するじゃん。……それに、俺、やっぱり必要なくない?」
「私が君を必要なんだもの。…君と一緒に、あの家に行きたい」
「……そう言えば、……その家って、伯父さんも住んでるんじゃなかった?」
「ああ、そうだね」
「そうだね?」
「……伯父さんは、妹の娘の彼氏なんて、そんなに興味はないだろうからね…。……同席するのかどうか…」
「するの?」と田上が怯え気味に聞いた。タキオンが、それに微笑んで答えた。
「悪い人じゃないがね」
「結婚はしてるの?」
「うん。娘が二人、息子が一人。長女のさつきちゃんに、次女のあやめちゃんに、一番下のこうた君」
「待って? 俺、そんな大勢に見つめられながらご飯食べなきゃいけないの?」
「そうしたいのなら私は構わないが」
「そうしたくはない…! ……おばあちゃんの方に聞いてくれない?」
「なんて?」
「えー……、伯父さんの所は、一緒にご飯を食べるのか」
「分かった。君が聞きたいって言ってもいい?」とタキオンはからかい混じりに聞き返した。田上は、首を横に振って、「俺の名前は出すなよ」と強めに断った。タキオンは、田上とちょっとした触れ合いができて、満足そうに微笑みながらそうメッセージを送信した。
返信は、案外すぐに来た。
「正太郎さんのとこは、私達に気遣って、外食をしてくるそうだ」
「ほう? ……俺たち、一泊はするんだよね?」
「うん」
「……ということは、……伯父さんのとこはどうするの? やっぱり、外食を終えたら戻ってきて、話すことにはなるの?」
「…なるだろうね?…でも、夕食時に囲まれながら、飯を食べるということはないんじゃないかな?」
「ほう??……正太郎さん?」
「そう。それに、奥さんの方は喜美子さん。長女がさつき、次女があやめ、一番下が、こうた」
「………参ったな…」
「……質問はされるだろうが、皆悪い人じゃない」
「そりゃあ、…悪い人じゃないだろうけどさ…。……向こうも困るんじゃない?」
「何に?」
「……こっちは付き合って2ヶ月の人間だぜ?」
「実際の付き合いはそれよりも長い」
「……そりゃあ、……そうかもしれないけど、………伯父さんに会うのは、もうすぐ結婚するってなってからだろ?」
「私は、もうすぐにでも結婚したい気分だ」
「自由でいたいって言っていたのに?」
田上が揚げ足を取ってきたのに少し気分を損ねて、タキオンは眉を寄せた。
「私に矛盾があることなど、君は初めから知っているだろう?」
「……そうだね…」
「………」
丁度雰囲気が悪くなったタイミングでまたチャイムが鳴って、タキオンは教室へ行かなければならなくなった。チャイムがなっても、二人共少しの間動かなかったが、唐突に、田上がタキオンの方を向いて「お前、授業だろ」と言った。
タキオンは、田上の方をじろりと睨んだが、すぐに、目元からキツさをなくすと、立ち上がって言った。
「……君の事、好きじゃなかった時なんてないから」
この言葉はタキオンの心にも、田上の心にもダメージを与えた。もし、これを回避する方法があるのだとすれば、それは、田上が早めに引き下がれば良かっただけなのだ。田上は、そのことに気が付けずに、少々の不快感に――俺はどうすればよかったんだろう…、と頭を悩ませながらその時間を過ごした。
次の休み時間に、トレーナー室にやってくると、開口一番にタキオンは「つまらない授業だった」と田上に言った。田上は静かな声で、「お疲れ」と答えた。先程の事を引きずっているような静けさだったが、タキオンはそれに気付いてか気付かぬかをしながら、田上の隣に置いてあるパイプ椅子に座り、また言った。
「あれほどつまらない授業も中々ないね」
「……いつもよりもずっとつまらなかったんだ?」
「……まぁね」
タキオンはそう言ってから、頭の後ろをポリポリと掻いて、部屋を見た。エスはもう居る。本を読んでいる。マテリアルも同じように文庫本を読んでいる。誰も自分らに興味のありそうな人たちは居ない。
その事を確認すると、タキオンは田上の方を向いて言った。
「君の上に座って良い?」
当然、田上も断る理由はないので、静かな声で「いいよ」と答えた。だから、タキオンは田上の上に向かい合わせで乗っかって、それから、田上の頭をぎゅっと抱き締めた。先程の諍いから来た寂しさを表現したものだった。そして、それは、田上にも充分に伝わって、タキオンの腹をそっと抱き返した。タキオンは、愛してやまない彼氏と触れ合える嬉しさに、暫く浸っていたが、やがて、体を離すと言った。
「私たち、なんであんなに雰囲気が悪くなったんだい?」
「………さあ?」
「………結婚の話かな。……そこに踏み込んだからそうなったんだ。……まだ、結婚は、私たち二人にとって、少々面倒な問題なのかもね……」
「……そうかも…」
「………偶には君から勇気を出して、仲直りすればいいのに…」と言いながら、また、タキオンは田上の首に抱き着き直した。
「………追い詰められたら、勇気を出すよ…」と田上は答えた。
「追い詰められたら? ……それはどこまで?」
「………さあ?」と田上はまた答えた。
タキオンは、曖昧で心細い彼氏が愛おしくなって、殊に強く抱き締めると、その頭部を励ますようによしよしと撫でた。
この休み時間はずっとそうやって過ごしていた。