準備が終わったときになって、タキオンは、ぼんやりと蟠った空気を振り払えないままに、こう言った。
「……次は、責任についての話をする?」
「……責任?」と田上が少々嫌そうに答えた。
「そう。…と言っても、……あんまり…思考がまとまらなくはないかい?」
「……俺の責任って言ってもね…。…今に始まったことじゃないよ」
「……今に始まった事じゃないからこそ、……話し合いたい節もあるんだが、……なんだか嫌だね。……喧嘩したくないから言いたいことも言えなくなってる。……いっその事、喧嘩したほうがいいのかな?」
「……喧嘩はしたくないよ」
「そう。…結局、マイナスの感情がぶつかり合うんだからね。あんまり気持ちの良いもんじゃないよ。……でも、こうやって、…喧嘩したくないって思いながら話すのももどかしくはないかい?」
「……一理はある」
「だろう? ……まぁ、ギリギリのところでタップダンスでも踊ってみるかい?」とタキオンは冗談めかしてそう言った。田上は少し笑いながら言葉を返した。
「怒るか怒らないかのところで?」
「そう。…実際、確かに、私達は踏み込まなければならないが、踏み込みすぎると喧嘩に発展してしまうから、それは嫌だと二の足を踏んでいる。なら、ギリギリまで行って、タップダンスを踊って、お茶でも濁してみようかな、という話さ」
「…まぁ、それでもいいけど、…責任ってなんだっけ?」
「……何だったかな? ………確か、……私への責任を君が持っているという話だっただろ? ……それがどこから生まれたのかというと、………君が落ち込んでたからだよね?」
「んん…」
「……なんで、私への責任という話になったんだったかな? ……ご飯かな? …勝手に落ち込んだと君が言ったし、私に対しても、何か責任のようなものを感じて、何かせねば、何か尽くしてあげなくては、と思っているようだし、私に対して申し訳無いと感じているようだからね。 そう。これだね。私になんて、申し訳ないなんて思わなくてもいいんだよ。私は好きで君の世話をしているわけだからね?」
「そう」と田上は他人事のような調子で相槌を打った。
「…そう。…ちょっとここで、タップダンスでも踊ってみるとするかな?」
「…踊れば?」
「……ここから先が中々……、君が立ち入ることを許してくれない部分だものね」
「…そう?」
「…そう。…何回も、私のことは気にしなくてもいいって言ってきたけど、未だに、気にしているからね。……私という人間が…矛盾的なのもある。…そうなると、私も申し訳なくなる。…すると、君も申し訳なくなるわけだ。…そうなると、私=君という方程式が出来上がるわけだね?」
「…そうかもね」
「…そう。…だから、私が落ち込まなければ、君も責任を感じないのでは? …空論だが。……私が困れば困るほど、君も責任を感じる。…私だって、君には私のことを好きでいてほしい。一生。……だから、……んー………、難題だよ?圭一君」
「んん…」
「んん……、……相互に…矛盾もあったりして、…それをどうするかが議題だ…。悪い所が見つかれば、更に悪い所が見つかる……。一体どうすればいいのかな?圭一君」
「……俺だって分からん」
「…私だって分からないよ。……たださ? マテリアル君に週一で喧嘩してるって言われてるし、実際、そのくらい喧嘩してたんだが、……喧嘩と言っても、仲直りは比較的すぐにできているんだがね? ……マテリアル君の鼻を明かしてやりたい気もするし、……普通に喧嘩はしたくない。……喧嘩と言っても、本当にすぐ仲直りはできているんだがね?」
「…それは、マテリアルさんだったら、…――私が居たからですけどね、って言うと思うよ」
「…まぁ、…否めなくもない。あの人なしでは、仲介役が居ないから、そこまで話は進まなかっただろうが、……それにしたって、……まぁやめ。喧嘩の原因に、私の我儘も多分に含まれるから、深掘れば深掘るほど私の悪さが露呈する」
「悪い所も好きだよ」
「ん? …あ、ここに女を駄目にする男が居る。きっと家事育児もこなせて、高収入の完璧な人なんだろうね」
「言う程」と田上が反論した。
「君が卑下するほどでもないさ。実際、君ほどに良い人物はそんなに居ないもの」
「沢山居るよ。俺の友達に幾らでも居る」
「なに、君のように私の事を考えてくれる人はそうそういない」
「…どうかな?」と反論を我慢しきれなかったように、田上は言った。
「……実際、私の事を好きだと言ってくれる人は君しかいないんだから、君はもっと自分の気持ちを大切にしたほうがいいよ。君の気持ちは、君にとって唯一無二なんだから」
「…ふーん…?」
「…私の事好きだろ?」
「…どうかな?」
「……素直に認めたまえ。今日、ご飯を作ってあげたのは誰だい?」
「……タキオン」
「うん。当たり前のことをしただけだと言ったが、君がそう素直じゃないと、私が如何に君にとって大切な存在かということを言いたくなる。……今日、帰るときにも行かないでって言っていたくせに、何が――どうかな? だよ」
不図すると、空気は険悪な揺らぎ方をする。タキオンは、自分の言葉の選び方のミスを感じたし、田上もタキオンに対して申し訳なくなり、胸が締め付けられるような思いだった。その為に、二人の間に沈黙が訪れたが、また、タキオンが話し出した。
「君、まだ、ゲームをやっているのかい?」
「…そう」
また、不図すると、「私を見て」と言いそうになる。そうすると、雰囲気がもっとぐっと悪くなるのを分かっていたので、タキオンはそれを堪えて話を続けた。
「………ゲーム機は明日届くそうだよ」
「……そうだね」
「………私はなんて君に言えばよかったんだと思う? どうやったら、諸々の問題を解決できたと思う?」
「………俺には分からんよ」
「……私にも。……でもさ、私の事は好きだろう? ……君は」
「……うん…。……明日、一緒にゲームをしたいくらいには好きだよ…」
「……残念だね。明日は、おばあちゃんちだよ…」
「…残念…」と田上は、儚げに言った。
最終的には、この場の空気はギリギリの所で和む方向へと転じた。
二人共、喧嘩しない方向へと、言葉を選んで会話をした結果だった。タップダンスは功を奏して、二人の仲を取り持った。ギリギリの所に居た二人は、また、ギリギリの所まで行くだろう。そしてまた、そこでタップダンスを踊っては喧嘩しないことに安堵するのだった。
果たして、前に進んでいるのかどうか定かではないから、また、タップダンスでお茶を濁す。
それからの二人は、あまりタップダンスも演じずに、ぼんやりと至らない事を話してから、眠りに就いた。
タキオンは、電話を終えてからすぐに眠りに入ったが、田上は、少々の不安を感じて、気晴らしにゲームをしてから眠りに就いた。
朝、タキオンのモーニングコールで目を覚まして、曖昧な頭で世界を覗いた。タキオンは、朝から良さそうな調子である。
田上は、朝起きた瞬間には、今日におばあちゃんちに行かなくてはならないことを思い出して不愉快だった。
別に、タキオンのせいというわけではない。彼女のせいにはしたくはない。かと言って自分のせいでもない。けれども、それでは虫の居所が悪いので、田上はおばあちゃんのせいにした。そもそもおばあちゃんがタキオンを呼ばなければ、こんな面倒な事にはならなかったのだ。
ただ、やっぱり、タキオンが無理に自分を誘わなければ…、という思いもあった。しかし、彼女を恨みたくもないし、喧嘩もしたくないので、それは別の誰かのせいにし続けるしかなかった。
タキオンは一応気遣いの言葉をくれたが、それが、田上に何か影響を成したということもなく、むしろ、田上はその言葉を相手にしなかった。やはり、少なからず、タキオンを恨んでいる。しかし、こうやって、「喧嘩したくない」と憐れにも頭を下げてくる彼女に向かって、恨みの念を抱くわけにも行かなかった。
田上だって、彼女の事が好きだ。傷付けたいだなんて思うわけもない。しかし、気分は悪くなる一方である。
田上は、自分のこの状態を鬱だと判断して、自分の体を無理に動かした。無理に動かした分、頭には苛々が募る。偶に机を蹴ってみる。箸を折ろうと力を込めてみるが、本当に折れてしまったときが不味いので、その力はすぐに抜いた。
朝食では、電話を掛けてきたタキオンと話す。自分の不調に気付かれても不味いので、電話に出ないという選択肢はなかった。ただ、やはり話しているうちに、田上の苛々が態度に出てしまって、タキオンに気付かれる。気付かれると、田上も多少ほっとして、タキオンにこう文句を言った。
「やっぱり、お前のことは恨んでる。ほんと、次からは気を付けてくれ」
「んん…、…分かった。すまないよ…」
「……とにかく、俺は今日は一日中緊張してるかもしれないから、あんまり変なことは言うなよ?」
「…了解。…変な事?」
「……なんか、…俺を刺激しそうなこと」
「……まぁ、配慮しよう。……君がリラックスできるように、気を配ることは?」
「……配慮の上だったら」
「…膝枕とか」
「…あのベンチで?」
「…そう」
「……まぁ、…それは時間があったらな」
「昼休みとか?」
「……気が向いたら。…とにかく、ちょっと苛ついてるかもしれないけど、許してくれ」
「良いとも。…別に、トレーニングも土曜日からだし、出勤しなくても良いんじゃないかい?」
「……お前には会いたい」
田上がそう言うと、途端に、タキオンは顔ににんまりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……愛いやつじゃないか」
「うるせぇ」
「ふふふ、…愛いね、愛い。可愛いよ」
「うるせぇ」
といった風に朝食は過ぎて行った。田上の苛々もタキオンに打ち明けられたことによって、大分、スッキリとしていた。
また、昨日と同じ所で、同じように地面を見つめて蹲っているタキオンに、田上は落ち合った。
田上は、また、同じように、タキオンの肩にぽんと手を置いて、「おはよう」と言った。その後に「何をしてるの?」と続けて聞くと、タキオンはぼんやりとした顔を上げて、田上の方を見た。
「……ここに蟻の巣があった…」
「へー」と言って、田上は、タキオンの横にしゃがんで、「どこ?」と聞いた。タキオンは、「ここ」と指で指しながら教えてくれた。二人は、暫く朝の日差しの下で、じっとその穴を蟻が出入りする様子を見つめていたが、やがて、タキオンが言った。
「……私の水着って、何がいいと思う?」
昨日と同じ轍を踏んでいるから、田上はタキオンの考えを読み取ろうとして、その顔を見た。それから、こう答えた。
「……こんな所じゃ答えられないよ」
「……そうだね…。……忘れてた。…というより、今、不図思いついたから、適当に言ったことなんだがね。……調子はどうだい?」
漸くタキオンもぼんやりするのをやめて、田上の顔を見つめながら聞いた。
「……中の下かな」と田上は答えた。タキオンは、その答えに満足そうに口角を上げると、立ち上がって「さぁ、行こうか」と退屈な欠伸混じりに言った。田上は、その横にいそいそとついていった。
特に、何も語ることもなく、朝の時間は過ぎて行く。
田上にとってはあまり芳しくない出来事だ。できる事なら、語ることがあるくらいの質量を持って、午前中を過ごしたかった。その質量の分、重みでおばあちゃんちに行く事が遅く感じられるだろうと考えたからだ。
当然、そんな事もなく、無慈悲に時間だけが過ぎて行く。タキオンは自分に優しくしてくれた。エスは相変わらず本を読んでいる。リリックは、トレーナー室には寄り付かない。マテリアルも、暇なので本を読んでいる。マンガを持参している事もある。
マンガと言えば、リリックは田上が貸した『鳶の名』を気に入ってくれたようだった。先週の木曜に十五巻ほどお試しで貸したのだが、木曜のうちにもう読み終わっていて、続きを貸してほしいと言われたから、今度は二十巻ほど月曜に貸していた。まだ、読み終わっていないのか、何も言ってこないが、もうそろそろ読み終わる頃だろうと思って、田上は待ち構えていた。ただ、今日は来そうにない。もしかしたら、飽きてしまっているのかもしれない。
ロードムービーについても、音沙汰はない。果たして、田上にはあの子がこのチームの最後の子になるのかが気になるところではある。今週末にはまた選抜レースがあるが、あの子が入ってくれるのであれば、観に行く必要もない、しかも、ロードムービーは、中々、これまでの実績のある子だ。前任の佐藤トレーナーとウマが合わなかったと言っていたので、性格については少し気がかりだが、そこら辺も合わせて、今後様子を見たいと思う。
田上は、そんなことを考えながら、午前の曇り空をぼんやりと見やっていた。
昼時になると、タキオンと共にカフェテリアへ行く。相変わらず、二人で食べるほうが好きなようで、マテリアルとエスは置いて、ここまで来ていた。マテリアルとエスは、リリックを誘うと言って何処かへと消えた。
タキオンは優しい。会話はぽつりぽつりと進む。田上は進んでほしくない。まだ話したい事が沢山あるというのに、そのどれもを言葉にできないうちに、優しいタキオンは田上を気遣いつつ話を進めてしまう。田上が、今一番求めているのは、時間が止まることだった。ただ、それはタキオンにだってできない相談だ。止まる時間の中で生きることができていたのなら、二人はどんなに楽だっただろうか。
話したいことがぼんやりと頭の中にある。しかし、田上がそれを言葉にできないうちに、タキオンが話を先に進める。田上は言葉にできないので、タキオンがしてくれる話に耳を傾けるしかない。その話自体に不快さはない。ただ、時が止まればという不快さはあるが、タキオンに八つ当たりしてもしょうがないという事は、田上が一番良く分かっている。
むしろ、タキオンの話は、田上の事を気遣って優しく話してくれているので、耳に心地良いくらいだ。彼女が自分を気遣ってくれるのは、正直に言えば嬉しい。不真面目に言えば、つまらない。田上は、少々つまらなさそうな顔をしながらタキオンの話を聞いていたが、内心で嬉しいと思っている事は、その言葉選びから、タキオンの方も分かっていた。
言葉を探しているうちに、昼食は終わってしまう。「いよいよだね」とタキオンが言ってきた。そんな事は言われなくても分かっているが、タキオンの口から出た言葉を聞くと、いよいよ田上の胸に真に迫ってくるような気がしてきた。
田上は、ただひたすら――おばあちゃんに怒られないんだろうか? という事が心配だった。怒られないと思えば、怒られないような気がするし、逆に、怒られると思えば、必ず怒られるような気がする。
ただ、実に不可解なのが、自分が何故その家に行かなければならないのだろうか? という事だけだった。タキオンからしてみれば、自分についてきてほしい。あわよくば、酒の席で田上が酔って、自分に甘えさせようという魂胆だろう。
田上にも、そんな事は見え透いている。ただ、それは、後付けの理由かもしれないから、一番初めの理由を考察してみると、少々これも不可解である。
「ついてきてほしい」とは一体どういう事だろうか? タキオンが不安なわけでもない。幼い頃に住んでいた家だからそうだろう。それに、おばあちゃんにも大して怯えてはいなさそうだった。大概、恐れを抱かないタキオンだから、厳格な祖母にも恐れを抱かないのかもしれない。
タキオンから聞いた話では、祖母は厳格そうな人間だと田上は解釈をした。そう解釈をしたから怯えているのかもしれない。ただ、タキオンは、「祖母は礼儀に厳しい」と言っていたから、そこについては、怯えても当然だろう。自分の幼少期は、タキオンに比べてずっと庶民派だ。そんな日本庭園の庭なんて持ったこともない団地暮らしだ。自分の母は、教育には厳しかったが、礼儀については、特に何も言われなかった。母自身が庶民派だし、どちらかと言うと、自然体を好んでいたようにも思う。
そんな母を持って、礼儀のある息子が出来上がるわけでもない。無論、社交上で少なからず礼儀を知る場はあったが、礼儀をしたいとは思わなかった。礼儀は窮屈であるからだ。そして、礼儀を知る場面があったと言えども、そもそも、熱愛報道が出た孫娘について行って、家にお邪魔する事こそ礼儀知らずとも思える。少なくとも、田上の礼儀の概念上では。
しかし、義祖母はそれを許した。これは不可解である。例え、孫娘が許しているとあっても、そちらの家に、ゴシップとして話題にあげられるという迷惑をかけたのである。江戸時代であれば、腹を切って詫びるのもおかしくないのではないかと思う。こちらの田上家は勝手を知っているからいい。母方の前田家も同様だ。孫が、例えゴシップで取り上げられたとしても、不倫でもない恋愛事くらいだったら嬉々としているはずだろう。
連絡は来ていないから、向こうの様子は知らないが、少なくとも、ただ付き合っているというだけだったら向こうは大喜びなはずだ。しかも、正月には自分の孫を、他人の娘に勧めていたのを思い出した。今思えば、恥である。
なんにしろ、不安は不安として、田上の上に乗っかっている。タキオンは、それに優しく触れてくれる。時に、謝罪もしてくれるが、田上も文句を言った時からは気にしないようにしている。どちらにしろ、彼女は自分の癒し手であって、次二人で泊まる時には、存分に癒してもらおうという考えだった。
田上は、そこで、自分たちの宿泊計画が、何も進展していない事を思い出してこう言った。
「お前の変装問題って結局どうなったんだっけ?」
二人は、昼休みの誰も居ないベンチで、寝転がって話をしていた。田上は、タキオンの膝枕に頭を乗っけている。
「……私は、昨日君の家を訪ねたじゃないか」
「……そうだけど、……どうなんだろうなぁ…。……どうだと思う?」
「……私は、むしろ、マスクではなく色付き眼鏡を掛けたほうが良いのではないかとも思ったりしたがね。…そう言えば、私の瞳は赤かった」
「……お前の真似して、栗毛で、赤いカラコンつけてる人もいるけどな…」
「…私の真似は私の真似だよ。……ただ、サングラスまでつけると、あからさまに怪しくなるよね…」
「つけてる人もいないことはないけど、……タクシーを使う事の方が最善かな?……お前、昨日はなにで来た?」
「…電車で」
「………車持ってる友達もいないしなぁ…。……でも、前みたいに、一緒に帰ることは避けたほうが良いと思う。トレセン職員みたいな人間と、お前が一緒に居るのは、周りから見ても怪しいと思う」
「……そうかな?」
「……怪しい。…だから、少なくとも、俺たち二人共が私服であれば、まだ、マシに溶け込めるから、……今日は私服を持って来てないな…」
「……電車の中で、他人のふりをする?」
「……それはな…。…お前、歩いて行く? 歩いて行けない距離じゃないだろ?」
「んん? …まぁ、歩いて行けない距離でもないが…」
「俺が歩いて行こうか?」と田上は、女一人に歩かせるのは道徳に反すると思って、そう言った。タキオンは、別に、歩いてもそこまで苦にならない距離であるから、こう答えた。
「いや、君が、定期あるんだから使いなよ。私、ウマ娘レーンで走って行こうかな?」
「…軽く?」
「…そう。別に、本気で走る必要もないだろ?」
「うん。……まぁ、ある程度仕方がないか?…おばあちゃんちに行く時には、電車にする? タクシーで行く?」
「……私は別に、どちらでも構わないがね」
「……んー、……なんかやになってきたな」
田上がそう言うと、タキオンはニヤリと笑って言葉を発した。
「歌うかい? やになっちゃうソング」
「…嫌だ。……んー……、週刊紙の記者の指を切り落としに行こうかな? なんか、腹が立ってきた」
「…一緒に行くかい?」とタキオンが言うと、田上はその顔をじっと見つめてから、顔に少しの苦笑を漏らした。
「………お前、本当にしそうで嫌だな」
「ええ!? 私が!? 本当に!? ……しないとも…。…君にそんな風に思われていたとは心外だなぁ…」
「……お前、時々突拍子もない事を言い出すから」
「……確かに、言う時はあるが、流石に見境なく人間の指を切り落としには行かないさ。そのくらいの善性はある」
「…もっとあるよ。自信持て」
田上がそう言うと、タキオンはふふふと笑った。
「…君が言い始めたのに」
「……冗談だよ。そんなに本気でやるとは思ってない。ただ、…少し迫真なところはあるよ」
「…別に、今のはそんなに迫真じゃなかったとも」とタキオンは、少々拗ねたような口調で言った。田上は、タキオンの心を傷付けた代償としてその頬を撫でながら、謝罪した。
「ごめん。…本気でやるとは思ってないよ」
「………キスかなぁ…」
「え?」
「……キス。…私にしてくれないと、許してやらないかなぁ…」
そこまで言われると、田上も満更ではない男なので、周囲に誰も居ないか確認しつつ、タキオンとキスをした。
田上の膝の上に座ってキスをしていたタキオンは、キスが終わると、嬉しそうな満足そうな顔をして、田上の膝から降り、その横に座り直した。暫く、二人は微笑んで見つめ合っていた。その微笑みが、段々と花壇の花々に向けられたあとに、タキオンが口を開いた。
「結局、タクシーで行くんだったかな? 電車だったかな?」
「……そこの所を、俺も今悩んでた。……どっちが良いと思う?」
「……んー、……正直、…どちらでもかな…」
「んー……、……どっちにしたもんかなぁ……」
「電車でいいんじゃないか?」
「……電車ぁ?」
「……人を隠すのなら、人混みの中、だ。タクシーの運転手だって、人。電車の中に居るのだって、人。なら、より相手に無関心な電車でいいんじゃないかな? …立派な日本家屋の所にタクシーで連れて行ってもらうのならば、誰だって、この人らの素性はなんだろう? と思うのじゃないかな?」
「……んー……、でも、別に、わざわざタクシーで、その家の直前まで連れて行ってもらう必要はなくない? 別の場所まで連れて行ってもらって、そこから歩きでその家に向かってもいいんじゃない?」
「…ああ、そういうやり方もあるね。…どちらでもいいが」
「……んー……、……タクシー…、電車……。…怯えすぎかな?」
「…怯えすぎじゃない?」
そうタキオンに言われても、田上にはあまり響かない。タキオンは元より、根が据わっている。常人が動じることに動じないタキオンが、「怯えすぎじゃない?」と言ったとしても、常人である田上は、自分こそ世の中一般の人なので、怯えて当然だと思っている。だから、怯えることに対しては疑問を抱かない。ただ、どちらか一方に決め難いのは少し不愉快である。
「……んー……、どっちかなぁ……」
「……私はどちらでもいいよ」というタキオンの言葉を最後に、田上は、何処かで鳴く鳥の声を聞きながら、黙りこくってしまった。
これは、考えるのが面倒臭くなって、現実から逃げている男の顔だ。二人は、いつの間にか、また膝枕をして、寄り添っていた。田上の耳には、鳥の声と、風の音と、タキオンが傍に居る音が聞こえる。傍に居る音と問われれば、何が聞こえるというのは言い難いが、ただ、やっぱり、目を瞑っていても、タキオンが傍に居る事は感じ取れるので、タキオンが傍に居る事を音とする。田上には、その音が今はありがたい。そして、好きだ。
そうやってぼんやりとしているうちに、チャイムが鳴って昼休みが終わってしまった。田上は名残惜しそうにタキオンの傍を歩きながら、「また、放課後まで答えを考えておくわ」と言って、タキオンと別れた。タキオンは、最後まで優しかった。
五時間目の休み時間になっても答えは出さなかった。タキオンは、そんな優柔不断な彼氏をからかわずに、優しい目で見つめてくれたが、田上は、タキオンの目とは裏腹に、また緊張が催し始めてきていた。
放課後になって、追い詰められたのちに、ようやっと「タクシーで行こうか」と田上は言った。その後に、「やっぱり、電車のほうが良いかな?」と考えを二転三転させた挙句に、「やっぱり、タクシーにしよう」と覚悟を決めた。
二人は、帰り道を同じくにはしなかった。田上は電車で先に帰って、タキオンはのんびりと駆け足で田上の家へと向かった。無論、私服に着替えて、変装もしていた。
家に着くと、田上は周囲を警戒しながらタキオンを家の中に入れた。駐車場で、車のドアを開けている人は居たが、恐らくタキオンの姿は見ていない。田上は、問題なく事を遂行した。
タキオンは、部屋に着くと、早速、待っていた田上の服を選んであげることにした。その際には、ちゃんと首にあのネックレスを下げさせた。田上に今日着せる服は、赤いチェックのジャケットを、白無地のシャツの上に羽織らせ、下には、薄茶色のスラックスを穿かせることにした。そして、できあがった自分の理想の彼氏を見ると、タキオンは満足そうにうんと頷いた。
「うん。…サイズもぴったり、…特に咎められる所もなし。…うん。いつも以上に男前になったよ」
タキオンは、最後に田上に昨日買った黒い帽子を被せながら言った。田上は、申し訳ないような、嬉しいような微妙な心持ちで表情を作りながら、「お前には面倒かけてばかりだな…」と言った。当然、タキオンは「何言ってるんだい」と言い返す。
「何言ってるんだい? そんなのは君の言うセリフじゃなくて、私の言うセリフさ。これまでは私がずっと君に面倒を見られてきたじゃないか」
「……付き合ってからは」と田上が一言反論した。
「……付き合ってから? ……そりゃあ、付き合ってからは、君の面倒を見る事もあったが、……まぁ、特に苦でもないんだし、あんまり気にしない事だよ」
「……ありがとう」と田上が感謝の言葉を告げた。その時に、部屋のチャイムが鳴って、何者かに呼び出されたので、田上は玄関の方に向かった。
玄関に着いてドアを開けると、そこには宅配人が居て、田上に一つ包みを手渡してきた。田上には、その箱の中身が菓子であると見当がついた。田上は宅配人を見送ったのちに、部屋の中の方に戻って、その包みを広げながらタキオンに「お菓子が着いた」と声をかけた。タキオンは、田上が包みを開ける様子を見つめながら、「んん」と返事をした。白い包みを開けると、その中から抹茶色の用紙に包まれた菓子が出てきた。田上はそれを見ると、うんと頷いて言った。
「ちゃんと包んでくれている」
「大丈夫そうかい?」とタキオンが確認のために聞いた。
「…うん。…多分大丈夫。破れてる所もないし、質量もある。…とりあえずは、手土産が用意できた」
安堵の吐息を漏らしながらそう言った田上を見て、タキオンは微笑んだ。
「……別に、手土産なんて用意しなくても良いんだがね」
「……良いんだよ、あるもんはあるんだから。…あんまり余計なこと言うな、混乱する」
「うん。…じゃあ、君の明日の着替えを用意するから、少し待ってて」と言って、タキオンは田上の衣装箪笥の前にしゃがみこんだ。田上は、また、自分の着替えの用意に付き合わされることとなった。
四時半にここにタクシーが迎えに来てくれる。そして、祖母の家から五分ほどのスーパーマーケットまで送ってもらうという寸法だ。そのスーパーで何も買わないのも申し訳ないと田上が言い出したので、二人でアイスでも食べながら向こうへ向かうことにした。
四時半にアパートの駐車場へやって来たタクシーに二人は乗り込んだ。田上は、連れであるタキオンに対して運転手から何か咎められることはないかと、内心びくびくしながらタクシーに乗り込んだのだが、タクシーの運転手は案外二人に無関心だった。ちゃんと予約された客だと確認すると、そのまま、大して物も言わないままに走り出した。タキオンは、車窓から外を見つめていた。田上は落ち着かないので、また反対側の車窓を見たり、タキオンを見たり、タキオン側の車窓を見たりして、タクシーの中で過ごしていた。
以外に、タクシーは早く過ぎ去った。三十分よりかは少し長かったが、着いてみるとあっけない。田上はいつの間にか、タキオンと共にスーパーマーケットの入り口に立たされていた。タキオンは、そんな田上の様子には構わず、「アイスは何にしようかなぁ」と呟きながらひんやりとした店内へと入って行く。その冷たさと、外気の温かさが、何だか良く分からない風味を醸し出している。田上は、仕方がないから歩を進めた。
アイスコーナーでは、タキオンは案外すぐにこれと決めてしまった。ストロベリー味のカップアイスだ。田上は、あんまり思考がまとまらずに、ぼんやりとしながら四五分程悩んでいたが、タキオンがもう飽き始めてきたので、仕方がないから何でもいいと思って、自分はバニラ味のカップアイスを選んだ。
代金は田上が出した。その時に、タキオンがこれ見よがしに「君には世話になってばかりだなぁ」と言った。無論、田上はこんなことは世話だとは思わない。人として当たり前の事である。ただ金を出しただけで世話になるんだったら、タキオンからは世話以上の物を貰っている。
スーパーマーケットから出たはいいが、このままでは暑さでアイスが溶けてしまう。流石に、歩きながらアイスを食べるというのは理想論だった。二人は、どこかでアイスを食べる場所はないかと思って、探した末に辿り着いたのは、比較的大きな公園の片隅にあるベンチだった。
二人は、そこに座って、静かにアイスを食べた。日は傾く方へと動きつつあるが、暑さは一向に衰えない。二人は、冷たいアイスを一口ずつ交換したりしながら、そこで暫くの時間を過ごした。
公園から出て、まだ照らしてくる陽の光にじりじりとうなじを焼かれながら、二人は道を歩いた。
のんびりとはしない。けれども、陽の暑さに次の一歩を押し阻まれるような心地で、歩いて行く。そうやって歩いて行くうちに、立派な門のある家に行き当たる。ここらには、もた似たような家がちらほらあったので、それほど突飛に大きな家という気はしない。
周りの風景と照らし合わせれば、という意味でだ。田上は、自分の身長よりも大きい門を見つめて、「これ?」とタキオンに聞いた。タキオンは、もう構わずに開いている門をくぐって中の方へ行き、家の戸が開いていないのを確認すると、インターホンをビーッと鳴らした。一瞬間が空いてから、「どちらさまですか?」との声が聞こえてきたから、タキオンは「タキオンだよ。彼氏連れて遊びに来たよ」と答えた。インターホンの向こうからは、「ああ、タキオン」との中年の女性の声が聞こえると、そこで会話が途切れた。
そして、今度は、玄関の引き戸が開いて、そこからピンクの服を着た中年の女性が現れた。よんちゃんという女性の写真は一度見せてもらっていたから、田上にもすぐにその人がよんちゃんだと理解できた。そして、またタキオンも親しげに「よんちゃん、久しぶり~」と言って、読んちゃんとハイタッチをしていたから、それでもこの女性がよんちゃんだという事が確認できた。
よんちゃんは、自分が差し出した両手にタキオンがハイタッチを返してくれると、「久々~」と言ったのちに、田上の方に向かって「ようこそいらっしゃいました」と丁寧に頭を下げた。
「タキオンちゃんの彼氏様だとは予てから聞き及んでおります」
「ああ、すみません。こちらも中々不精な者でして」
その言葉の続きが何であるかは知らないが、二人共礼儀の上での会話をしていたので、その続きが何であるかはどうでも良かった。その続きの言葉は、タキオンに遮られて何処かへ消えていってしまった。
タキオンは、軽く笑いながら言った。
「何がすまないんだい? ねぇ、よんちゃん聞いて? この人、ずっと――俺は怒られないんだろうか? 俺は怒られないんだろうか? ってビクビクしながらここまで来たんだよ?」
「あら~、全然そんな事ないですよ? 皆歓迎ムードで、タキオンちゃんのトレーナー兼彼氏様がいついらっしゃるのかと心待ちにされてたんです」
「ああ、はい。ありがとうございます」と田上は恐縮して、ほとんど俯きがちに頭を下げた。
それから、「立ち話は何ですから奥の方に…」とよんちゃんが手で指し示すと、タキオンはそのまま遠慮会釈なく、家に上がりこんでいった。田上は、尚も少々びくびくしながら、「お邪魔しまーす…」と小声で呟きながら、靴を脱いで、一段高い玄関の中に上がった。
田上は、タキオンの後を怯えながらついて行った。タキオンは、怯えている田上に一々構っていてもしょうがないので、後ろの方で玄関の扉を閉めていたよんちゃんに向かって言った。
「私たちの荷物はどこへ置けばいいかな?」
「えー、……奥の六畳間に」
よんちゃんがそう答えてから、タキオンは田上の方を見て話しかけた。
「じゃあ、荷物を置いた後におばあちゃんの所へ挨拶に行こうか」
田上は何も答えることができずに、ただ少し困ったようにタキオンを見返した。そうなってくると、タキオンも田上が憐れなので「元気を出したまえ」と言いながら、田上の手を安心させる様に握った。ただ、当然の事、それだけで田上の元気が出るというわけでもなかった。
硝子戸の開け放たれた縁側を抜けて、二人は、さらに奥の方へと向かった。手を繋いでいると言えど、この家の勝手を知っているのはタキオンなので、少し田上の手を引っ張り気味に歩いて行く。
田上は、縁側から見えた庭に心を惹かれて、追い縋っていたい気分だったのだが、今はタキオンについて行くこと以外には何もできない。大人しく牢屋へ連れて行かれる罪人の様に、田上は歩いて行った。
一先ず荷物を置いて、部屋から出てくると、同じように襖を開けて出てきた、タキオンと同じくらいか、それより年下の女の子と出会った。恐らく、この家の住人だろう。向こうも、出てきたこちらに気が付くと、「ん、タキオン」と声を掛けてきた。タキオンは、「やあ、さつきちゃん」と返事をすると、田上の方を向いて言った。
「圭一君、こちらがこの家の長女、さつきちゃんだ。私より二個下。今年高一になったばかりだったかな?」
「そう」
その後に、含みのある沈黙が生まれたので、タキオンがまたさつきの方に向かって言った。
「さつきちゃん、こっちは私の彼氏兼トレーナーの圭一君」
「初めまして」とさつきが言ってきたから、田上も「初めまして、よろしくおねがいします」と挨拶をした。その後に、タキオンが続けて言った。
「他の兄弟たちは?」
「さあ? こうたもあやめも家には居ると思うよ?」
「そう。声をかけて行こうかな?」
「やめとけば? 思春期は怖いよ?」
「…そんなに荒れているのかい?」
「いや? …適当言っただけ」
さつきはそこまで言うと、「じゃあ」と田上に一礼して、脇を通って、さらにその奥の廊下へと消えていった。その子が通り過ぎると、田上は無言のままタキオンを見やった。タキオンも無言のまま田上を見返したが、少ししてから口を開いた。
「緊張してる?」
「してないわけがない」
「まぁ、大丈夫さ。ここも、これから度々訪れる家になるよ」
タキオンはそう言って、田上の手を繋いで歩き始めた。
田上は、タキオンの横を歩きながら、――豪い事になった、と思った。――こんな豪邸には、人生で一度訪れれば満足するものだ。誰がわざわざ好き好んで、こんな豪邸を持つ家と家族になりたいと思うのだろうか?
それはまさに自分であるが、田上は容赦のない時の流れに引きずられるままに、タキオンと手を繋いで廊下を歩いて行くしかなかった。
タキオンが、襖に向かって「おばあちゃん、ちょっといいかい」と呼び掛けた。家の中はシンと静まっている。物音一つも聞こえないような中で、田上は息を殺して、祖母の返事を待っていた。
微かに物音がしたかな? と思うと同時に、「どうぞ」と静かな年老いた女性の声が聞こえてきた。声にはあまり張りがない。しかし、部屋に入ってみれば、思ったよりも年寄りではないことが分かった。無論、会うのは初めてではないが、久々である。もっと年寄りのような気もしていたが、頭は完全な白髪ではなく、どちらかと言えば灰色だ。ただタキオンが開けた襖を覗いてみた感じでは、顔や目はキリリと厳格そうに引き締まっているようにも見えた。
丁度、赤い眼鏡を眼鏡ケースを仕舞っている仕草が目に映った。祖母とも目が合ったが、田上が話し出そうと口を開く前に、タキオンが先に話し始めた。
「やぁ、おばあちゃん、お望みの彼氏を連れてきたよ」
祖母は、口を開かずに、目だけで返事をした。田上には、なんと言っているかは分からなかったが、祖母の方は、――自分から望んだのではない。あなたが連れてきたがったのでしょうが、と心の中で言っていた。
タキオンは、それをぼんやりと察して、挑戦するような目付きで祖母の顔を見たが、それには何も言わずに祖母の前に正座した。それから、どうすればいいのか分からずに固まっている田上に向かって、「圭一君、私の隣に」と言った。
そこで、祖母は「ああ、座布団を」と言って、部屋の片隅に積んであった丁度ニ枚の座布団を、タキオンと田上に渡してきた。田上は、祖母でも見ていて憐れになるくらいに畏縮して、「ありがとうございます」と今にも消え入りそうな声で言った。祖母も元々自分の下に敷いていた座布団に落ち着くと、タキオンが話し出した。
「こちら、おばあちゃんもご存知、私の彼氏兼トレーナーの田上圭一」
「よろしくお願いします」と元気なく言いながら、田上は頭を下げた。これであるなら、まだ、初対面の時の方が堂々としていた。あの時なら後ろめたいことなど何もない。しかし、今は、この厳格そうな祖母の大事な孫娘に手を出した悪い大人として、ここで裁かれに来ているのだ。むしろ、タキオンと別れるのは寂しいし悲しいが、今すぐ勘当をしてくれても良かった。その方が、まだこんな重苦しい沈黙に、ジリジリと脳を焼かれずに済む。
田上が永遠に感じたほど、長い間祖母が黙っていたわけではなかった。ただ、消え入りそうな声で「よろしくお願いします」と言い、頭を上げたあとも、裁かれる人のように俯かせた田上を見、そして、タキオンをじっと見てから言った。
「話はどこまで進んだの?」
「早ければ、卒業すれば、籍を入れる。…ただ、私も大学には行く予定だから、これは変更するかもしれない。そして、籍を入れたとしても、すぐには結婚式はしない予定だね。…子供も追い追い」
「……お母さんとお父さんはそれを知ってるの?」
「うん、知っている。ゴールデンウィークに遊びに行った時に、彼も連れて行ったから。特に悪い顔は勿論しないし、桜花もお兄ちゃんお兄ちゃんと言って懐いていた」
「そう」と祖母は返事をしたあとに、「田上さん」と呼び掛けた。田上の意識はこの世から離れかけていたので、大して厳格でもないその祖母の呼び掛けにも、ビクンと体を震わせて顔を上げた。
田上は、遂に自分が処刑される瞬間が来たのだろうかと思って身構える。祖母は一向に話さないように思う。じっと自分を見つめてきているので、その内、田上の視線がフラフラと横の方へ頼りなく泳いでいってしまう。これでは、しっかりとした心のある人間には見えないだろうと思って、田上は一生懸命祖母を見つめようとしたのだが、祖母の目に怯えて、やっぱり田上の目はフラフラと彷徨い歩いていた。
そうやって、田上が四苦八苦している内に、祖母が口を開いた。
「……田上さんは、うちの孫娘と結婚するということでよろしいですか?」
「…はい」と田上は頷く。最早、視線が下がっていくのを止めることも忘れて、田上は畳を見つめる。
「……強引に押されて、交際しているということもありませんか?」
強引という言葉には田上も思い当たる節がある。その言葉の精査に田上が一瞬思い悩んだ隙に、タキオンが口を開いた。
「私達はそういうことも話し合ってきたよ」
祖母は、――お前に聞いているんじゃない、という目でタキオンを制した。タキオンは、それに不愉快そうに目を細めたが、この人間に真っ向から口答えをすると面倒なので、タキオンは黙って田上を見た。
田上は畳を見つめて、今の状況に困り果てているので、二人から見つめられているとは知らない。ただ、この沈黙の中で、自分は答えたほうがいいのか、答えないほうがいいのかをぐるぐるぐるぐると、その場で回転しているような勢いで、堂々巡りをしているのである。それには、祖母が答えを出してくれた。
「田上さん、どうですか?」と一向に話し出さない田上に向かって、少し優しい口調で聞いた。
「……強引ではなかったと思います」
「……この子は口が上手いですからね」と言った所で、タキオンも流石に怒る。こんな所で、不安定な彼氏を動揺させたくもない。「おばあちゃん」とタキオンが続きの言葉を遮った。「……おばあちゃんは、詮索を入れるために私を呼んだの?」
祖母は、途端に、表情から二人を問い詰める詮索の色を消して、一介の老人を装いながら言った。
「いえ、宝塚記念は頑張りましたね」
「五着だったが。…もしかして、それで圭一君に文句を言いたくて、来ることを許したのかな?」
「いいえ。GⅠクラスを三勝しただけでも立派ですよ」
「なら良かった」と言って会話が途切れた。タキオンは、言葉の行方に困って、視線を動かす内に、田上の方へと行き着いた。
田上は、またその場で堂々巡りをしながら、畳を見つめて黙していた。横から見る彼の顔は、大分参っているようである。早く緊張から開放させてあげるためにも、タキオンは話を終わる方向へと持っていった。
「まぁ、それなら、夕食はありがたく頂いていくよ。…それに、この人緊張しているんだが、何かと礼儀を気にしてお菓子を持ってきたんだよ。…圭一君、持ってきたんだろ?」
タキオンのその呼び掛けで、田上ははっと我に返って、隣に携えていた菓子の包を前に差し出した。
「これ、つまらないものですが、ご家族の方で召し上がっていただけたら…」
田上はやっとの思いで、そう言葉を発してから、ため息が出そうになるのをこらえて、また畳を見つめ始めた。祖母は、「まぁまぁ、ありがとうございます。ありがたく頂戴いたします」と言って、その包を受け取って、机の上に置いた。
それから、タキオンは正座を少し浮かして、自分たちが帰りたがっていることを示唆してから言った。
「じゃあ、言いたいことも言ったし、私達はそろそろお暇させてもらおうかな?」
「どうぞ」と一言祖母は発した。
タキオンは、そんな祖母を横に、田上の肩をちょんちょんとつつくと、「帰るよ」と呼びかけた。田上の顔にはにわかに生気が戻り、コクコクと頷き返してきた。
そして、二人は立ち上がると、それぞれ祖母の方にお辞儀して出ていった。