二人は、部屋から出ても暫くは話さなかったが、自分たちが荷物を置いていた部屋に再び辿り着くと、タキオンが言った。
「君の緊張酷かったよ?」
「……もう何も言わないでくれ…」と田上は言うと、部屋の隅に積まれていた、畳まれている布団にその身を預けた。タキオンもその隣りに座って話を続けた。
「ほんと、あのおばあちゃんですら、少し気を遣っていたもの。…大丈夫だった?」
田上が、柔らかな布団のなかに顔を埋めて何も言わないのを確認すると、タキオンも彼をそっとしておいてやろうと思い、隣に寄り添ったままスマホを無為に弄ってニュースを見た。
少ししてから、田上が布団から起き上がり、タキオンに「疲れた」と呟いた。タキオンは、スマホから目を上げると、田上の方を見て言った。
「お疲れ」
「……うん。………失敗だったかなぁ?」
「…なにが?」
「………自信のない男だって思われたんじゃない?」
「………そうかな? ……私も、初めはそうなるんじゃないかと予想していたんだが、案外、私が標的だったから驚いたよ。…むしろ、私の方が貶されてたよ? 孫娘があなたの事を騙していたんじゃないかって」
その時に、廊下の方から足音が聞こえて二人とも黙った。襖は閉じているので、誰が入ってくるのかは分からないが、ここで、おばあちゃんとの挨拶を言うわけにもいかない。そうやって、二人共、襖を見つめて黙っていると、足音は自分たちの部屋の間で止まり、トントンと襖を叩いてから、「タキオンちゃん、田上さん、よろしいですか?」との声が聞こえてきた。タキオンが、「よろしいよ」と返事をすると、襖が開いて、今度はまた綺麗ですらりとしたウマ娘の方が立っていた。
その女性は、田上の方にちょっと頭を下げると、こう挨拶をした。
「初めまして~、タキオンとは直接血は繋がっておりませんが、この子の伯父の正助(しょうすけ)の妻で、タキオンの伯母となります、アノナツノヒと言います~。よろしくお願いします~」と二度も頭を下げてきた。
それをぼんやりと聞いていた田上だったが、自分が、布団に体を寄り掛からせただらしのない体勢だったという事に気が付くと、慌てて、その場で正座をし直して自分も頭を下げながら答えた。
「あ、どうも初めまして、タキオンの彼氏としてお邪魔させていただきました、田上圭一です。よろしくお願いします」
そうやって、二人が頭を下げ終わったところで、ナツノヒは、膝を折って、菓子を積んだ盆を二人の前に差し出した。
「タキオンちゃんと田上さんにお菓子を、と思いまして。七時頃に夕食が始まりますので、その時には、良子ちゃんの方が呼びに来ると思います。飲み物とか、……タキオンちゃんは紅茶?」
「ああ、うん。淹れてくれるとありがたい」
「田上さんの方は…」
「あー、……タキオンと同じ紅茶で…」
「緑茶や冷えた麦茶もございますが…」
「ああ、じゃあ、冷えた麦茶の方にしてくだされば…」
「はい。分かりました~」と返事をして、伯母の方は去って行った。タキオンと田上は、その閉じられた襖を見ていたが、やがて、タキオンが田上の方を見て言った。
「やはり、君はここでは落ち着けないか」
「…うん。…と言っても、結婚したら、またここに来ないといけないのか…」
「んん? ……そうだろうねぇ。…まぁ、結婚した時には、もう流石にここに来るのも容易いんじゃないかな? だって、私に対しての罪悪感とか、女子高生問題とか、そんな諸々の問題を解決して、結婚しているんだろうから」
「……さぁ?」と田上は目を逸らして返事をした。
実際、田上は、本当にそのようになっているのかが分からなかった。もしかしたら、タキオンに流されて結婚している可能性だって、あることにはある。
その時には、まだ不満に思っているかもしれない。何が不満かと言えば、それこそ罪悪感だったり、女子高生だったりするだろう。
ただ、まぁ、これらの事を考えたとしても、田上には自分の未来がどうなるのかさっぱり分かっていなかった。もしかしたら、どこかで罪悪感に苛まれて自殺している可能性さえあると思っていた。
二人は、縁側の方で、少々不快なくらい暑い陽の光を浴びながらお菓子を摘まんでいたが、その内に、タキオンが暑いと言い出したので、まだ、壁の方で陽の光を凌げるくらいの所へ行って、その陰から縁側の先の庭を見ていた。
殊に熱心に見ていたのは、田上の方だった。田上は、この庭を見た事がないから熱心に見ることができるが、タキオンとしては、幼いころから小学生卒業まで飽きる程この庭を見てきた。彼氏と見る庭は、また違った味もあるのだが、今は暑いので、涼しい風が通る縁側の影で、彼氏を隣に優雅に紅茶を嗜んでいた。
その内に、また縁側を通る人が現れてきた。これは小学生高学年くらいのこうたと言う子である。
こうたの方は、最新のゲーム機を片手に、縁側の方へ現れ出たのだが、知らない男の人と、親戚の姉が居るのを見かけると、途端に固まった。タキオンもこうたの方に気が付いていたので、直ぐに声をかけた。
「こんにちは、こうた君」
こうたは、警戒心満々な表情で、「こんにちは」と挨拶を返した。
「こちら、私の彼氏兼トレーナーの田上圭一。これから、度々この家に来るかもしれない人だよ」
「田上です。よろしくお願いします」と田上は挨拶をした。相手は小学生なので、そこまで緊張はしなかった。小学生が相手だと力関係ははっきりしている。どうやっても覆されることはないだろうという確信からの安心感だった。
こうたの方は、こちらも礼儀正しく「こうたです。よろしくおねがいします」と少々の警戒心を覗かせながら言った。その後に、タキオンがまた口を開いた。
「こうた君のそのゲーム機、私今日買ったよ」
「本当?」
「本当。…何と言うゲームだったかな?」と田上に聞いてきたから、田上は「『モンスターアンドソルジャー』」と答えた。
「そうそれだ」
「へー、『モンソル』って友達のお兄ちゃんがやってた」
「へー、…君が今やってるゲームは何なんだい?」
「『トモダチライフ』」
「へぇ? それは何をするゲームなんだい?」
「…アバターを作って、…自分とか友達とか、そんな人たちのアバターを作って、生活を観察するゲーム」
「へぇー…、それ、私は居るのかい?」
「居るよ」
「ちょっと見せてくれよ」
「……ええ」とこうたが嫌がったので、タキオンは、笑いながら「嫌ならいいよ」と答えた。
「それは、あれかい? 学校の友達だったりも作っているのかい?」
「そうだね」
「……このお兄さんも作ってやりなよ」とタキオンは田上の事を指差した。「いずれ親戚になる人だぞ」
タキオンがそう言うと、こうたは明らかに面倒臭そうな表情を見せたので、田上も苦笑しながら「しなくていいよ」と断った。それから、またタキオンが口を開いた。
「まぁ、冗談だが、…それはひょっとして女の子も居るのかな?」
「うん、居るよ?」
「ふふふ、…すると、君の好きな子もいるかもしれないわけだ」
「……居ないよ」とこうたは、飛び切り嫌そうな顔をして、タキオンに言った。「居ないから作る理由がないもん」
「へー、…じゃあ、その女の子もただの友達と言うわけだ」
「そう」
「…もしあれなら、私とこの圭一君を夫婦として同じ家に住まわせてやってくれよ。…私の好きな人だから」
こうたは、それには返事をせずに、ふんと小バカにしたように鼻を鳴らした後に、横の隙間を空けて、家の中へと入って行った。
田上は、その後ろ姿を見て、家が再び静かになった事を確認すると、タキオンに向かって小声で話しかけた。
「意地悪だな、お前」
「……なに、…私も好きな人がいるという気持ちが分かっただけさ。…むしろ、今の方が前よりずっと人間味のある人間になった」
「……小学生に好きな人がいるのは当たり前だよ」
「……ところがどっこい、私は居なかった」
「…そうだったな…」
「……君と居る時間は楽しいよ…」とタキオンが唐突にそう言ってきたので、田上も「俺も…」と呟きながら、庭を見つめた。
二人共飲み物を飲み終わった時に、田上がタキオンに「ねぇ、庭って見に行ってもいいのかな?」と聞いた。タキオンは面倒臭そうにしながら、「無料だよ」と答えた。
「……一緒に行かない?」
「……暑いよ?」
「…真夏ほどじゃない。…行かない?」
「しょうがないなぁ…」と言いながら、タキオンは半分寝そべらせていた体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。それから、田上が靴を履きに玄関に行こうとしたので、「おい」と声をかけた。
「庭に行くだけだろ? スリッパじゃ駄目なのかい?」
「スリッパ?」
「そう。ここにあるよ」
そうタキオンが指をさした縁側の下の方を見やると、確かに、少し長くなった雑草の中に直方体に切られた石がポツンとおいてあり、その上や下に二足ばかり、これまたポツンと雑にスリッパが置いてある。ともすると、雑草の中に埋もれそうでもあるが、丁度二足あるので、田上とタキオンは歩いて行ける。田上とタキオンは、早速その和風な柄の布と木でできたスリッパを履いて、庭へと出かけた。
縁側から出た庭の右の方には、少し小さめの木が生えていたり、植木鉢に緑色の草木が植えてあった。どうやら、そこには花は無いようである。どちらかと言うと緑色の草木で、唐突にカラフルで彩色豊かな花々が現れると、景観が崩れるのを恐れたのかもしれない。
家の周りは質素な色の木の塀で覆われているが、その上部には、立派な塀瓦が置かれている。流石に金持ちの家である。塀まで手抜かりはない。
縁側を出てすぐ左を見ると、まだ家で景色は見渡せないが、ちょっと出てみると、まだ庭が広かったことを知れる。そして、そこからは、趣のある丸石で囲まれた池も見える。田上は、そこを見て「鯉は居るのかな?」とタキオンに聞くともなく聞くと、「二匹居るよ」と答えられた。確かに、よく見てみれば、陽の光で照らされたところに、白や橙色の影が見えるような気がする。田上は、まずそこまで行ってみることにした。
池に至るまでも石畳で整備された細い道がある。人二人が丁度通れるくらいだから、田上とタキオンは肩を並べて、池へと行った。タキオンは、頻りにきょろきょろと辺りを見回している田上を見て、少し誇らしそうな顔をしながら隣を歩いていた。こうなってみると、金持ちな家に生まれて嬉しいと思う。これまでも、人生の中で金持ちであってよかったと思う事は何度かあったが、今回もまた同様に、彼氏が自分の実家に好奇心を持っているのを見て、誇らしかった。
二人はとりあえず、池の前に行った。池は三畳ほどの広さである。意外に大きいのか、それとも、意外に小さいのか、田上は判じかねていた。上から見下ろしてみる分には、意外に小さい。もう少し程広さはありそうな物かと思っていたが、やはり、庶民派の田上からしてみれば、大きいような気もする。
団地に池などあった事はない。団地の公園に池を作ろうとしたこともあるが、少し掘っただけで頓挫してしまった。団地にあったのは、塗装が剥げ始めている遊具と、錆びた支柱と枯れた藤である。小学校低学年くらいまでは咲いていたような気もするが、いつの間にか咲かなくなっていた。小学校高学年頃になると、自分の母親も教育熱心だし、友達も、習い事に通い始めていたので、あまりその公園も利用しなくなっていった。――あの公園は今どうなっているだろうか?
田上はそんな事を思いながら、今居る彼女と池を覗き込んだ。池の鯉は、人が近くに来るや否や、直ぐ水面近くに上がってきて、餌をねだる様な仕草を見せ始めたが、生憎、田上たちは餌を持って来てはいない。田上とタキオンは、そんな様子の鯉をじっと見つめた。
少し経った時に、タキオンが「暑いな…」と少々辛そうに呟いたから、田上は、すっくと立ち上がって、庭の他の場所を見た。
縁側から左の方には、それなりに立派な松の木がある。陽の光に緑色の針葉を輝かせ、立派に立ちそびえている。暑さに負けるような気配もない。立派な松である。田上がそこから先に数歩歩けば、一つ岩が見える。
庭には、二つ岩があり、一つは松と池の間に、一つは、塀の裏口と家の間に置いてある。ただ、田上は、二つ目の岩を見はしないで、ただ蹲って暑さに耐えているタキオンに目を落とすと、自分はまたしゃがみ直した。
池では相変わらず、鯉が、飢えているのか満たされているのか知らないが、一生懸命に自分たちの方へ泳いでくる。田上は、この鯉に餌を上げたいような、上げたくない様な心持ちである。それと同時に、暑さに辛そうにしているタキオンを、どこか涼しい所に連れて行ってやりたいとも思う。田上は、あと一時間程もすれば暮れる六月の陽の暑さを感じながらそう考えていた。
少し鯉を無闇にぼーっと見つめた後に、田上は、また我に返ってすっくと立ち上がると、タキオンに「あの松を見に行こう?」と呼び掛けた。タキオンは案外平気そうな様子で顔を上げると、松を見てから「いいよ」と答えた。
細い石畳の道は、池から松の方へ伸びて行く。それは、松の手前の方で折れ曲がって、家の台所から塀の裏口の方へと続く別の石畳に繋がる。
田上は、それを松の方まで来て気が付いた。裏口は正面門よりも質素ではあるが、それでも、そこに石畳が伸びているのだから、見あげたものである。田上などは、裏口という概念さえファンタジーではないかと思う。
二人は、石畳の道から外れて、松の木に近寄る。見てみれば何の変哲もない松の木だ。これなら幾度か見た事のあるような気はする。それでも、庭に松の木が生えているのだから立派なものだ。
田上は、自分よりも背の高い松の木を見上げた後に、「たけぇ」とただにべもなく呟いた。それ以外の感想は出てこない。庭に池はそれ程見ないが、庭に松なら、昭和からあるアニメで見た事がある様な気がする。それに、自分の祖父母の家にも、松ではなかったような気はするが、自分の身長ほどの木なら植わっていた。すると、松も木という言葉に属するものだから、庭に木というものは一応見た事がある。庭に、池という言葉に属する物は、今日初めて見た。
松を見た所で、鯉ほど動かないので、見るべきところはすぐに見終わる。まず、高いという所と、庭にまあまあ大きめの木が生えているという所と、幹が茶色だという所と、良い具合に枝が横に張り出して、趣を醸し出しているような気がするという所だけだ。
ここをざっと二分ほどで、周囲をぐるりと回りつつ見ればもう満足する。そこで、田上がまた池の錦鯉でも見に行こうかなと思い始めた所で、おぅいおぅいと呼ぶ声が、家の方から聞こえてきた。男の老人の声である。
田上は、その事が確認できたが、頭の方には、まさか朝日家電の社長が帰ってきたとも思わず、ただ、男の老人が庭に向かって何か叫んでいるぞという事だけが浮かんできただけだった。
田上とタキオンは、顔を見合わせると、タキオンの方が「私たちを呼んでるのかな?」と首を傾げつつ歩き出した。田上もその後について行くうちに、これはタキオンのおじいちゃんの声だったのではないだろうか、と内心青ざめ始めた。
田上の予感は的中した。縁側の方には、ふくよかで気立ての良さそうにニコニコした老人が、立ってタキオンたちを待っていた。後ろの方には、孫のこうたを従えている。どうやら、騒ぎを聞きつけて出てきたような顔だった。
おじいちゃんは、タキオンたちを見つけると、殊ににこにこして「田上君、タキオン」と手を振ってきた。タキオンは、苦笑しながらそちらの方へ行くと、ある程度近づいてきたところで、おじいちゃんが田上の方に話しかけてきた。
「やあ、田上君久々だね!」
あまりにも前のめりだったので、おじいちゃんは縁側から半分足を浮かしていた。タキオンは、そんな祖父の上機嫌ぶりを見ながら「もう飲んでるのかい?」と聞いた。祖父は首を横に振った。
「いやぁ、飲んでないよ。飲んでない。孫の彼氏の顔を一目見ておこうと思ってね」
「前に見た事はあるでしょ?」
「いやぁ、何度見ても男前だよ、田上君」
田上は、「はぁ、ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
「いやぁ、君がタキオンと結婚するって言うんだったら、嬉しいもんだ」
祖父がそう言うと、タキオンは田上をチラリと見た後に、祖父に声をかけた。
「私もそうしてくれると嬉しいんだが、今回、ここに来る時に――俺は怒られるんじゃないか、怒られるんじゃないか、って物凄く心配していたよ?」
「それはいかんなぁ。大丈夫だよ、田上君。歓迎しているよ」
「はぁ、どうもありがとうございます」とまた頭を下げた。そこで、祖父は、田上にあまり気を遣わせるのも悪いだろうと思って、「じゃあ、見に来ただけだから」と言うと、片手を上げて立ち去って行った。随分と言いたい事だけを言って、立ち去って行く人だと、田上は思った。
タキオンも同様に思って、祖父が去った後の縁側を見ていたが、やがて、田上の方へ顔を向けると言った。
「歓迎されてるってよ」
田上は、こうたが去った襖を見てから言った。
「ほんとに?」
「本当だとも。無闇にお世辞を言う人じゃないよ」
「男前だって言われた」
「男前だとも。お世辞なんかじゃない。事実だ」
「……事実ねぇ…」と言って、田上は振り返り、池の方へ目を向けた。そして、タキオンが「また鯉を見る?」と聞くと、「うん」と頷いてから、田上とタキオンは歩き出した。
「……本当に男前だと思って、お前もおじいちゃんも言ってるのかな?」
「言うとも。男前じゃなかったら付き合わないだろうし」
「……前は、…君は芸能人には敵わないとか言ってなかったかな?」
「……いつ?」
「……大阪杯終わったくらいの頃じゃない?」
「……それは、君が疲れていたからじゃないかな?今こうして、お洒落して、日の光の下で落ち着いている君を見てると、十二分に男前だと思うよ」
「……ファッションか」と田上は、合点がいったように頷いた。当然、タキオンは、自分の彼氏のかっこよさを服だけだとは言いたくないので、反論した。
「…ファッションだけじゃないよ。…優しさも人を男前にするよ」
「……じゃあ、お前は女前だ」
田上がそう言い返すと、タキオンは嬉しそうにふふふと笑った。
「……嬉しいもんだね」
「……彼女を嬉しくできたんなら、俺も充分男前だな」
そう田上が言うと、二人はまた池の前にしゃがみこんだ。そこで、少し黙していると、唐突に足音が聞こえ始めて、二人は振り向いた。見ると、家の影からまた祖父が現れて、まっすぐとこちらの方へ向かってくる。タキオンが、「また来た」と呟くのが聞こえたが、田上は少し身構えながら、次は何が起こるのかと祖父が来るのを待った。
祖父が手に持っていたのは、鯉用の餌だった。それを田上に手渡すと、「餌をやっておやんなさい」と言った。田上が「どれくらい?」と聞くと、「指で掴んで二三回」と答えられたので、田上は仕方なくそれを二三回池にパッパとバラまいた。途端に、鯉たちは池に浮かんだ餌に食い付き始めて、人には見向きもしなくなった。田上と祖父は立って、タキオンはしゃがんだままそれを見つめていたが、唐突に祖父がこう聞いてきた。
「田上君、……趣味はあるかね?」
「……趣味…ですか?」
「そう。趣味」
「……えー、…読書とか、…音楽鑑賞とか…ですかね?」
「ほー、…音楽ってのはどんなものを聴くんだね?」
「あー、…えー、…JPOPですかね」
「ほぅ、…あれだね? 『無人島』とか『FANTASY』とかだね?」
「ああ、はいはい。…僕がよく聞くのは『大きな蛇』とか『ロマンスピース』とかですかね」
「ああ、大きな蛇。成程。あのバンドの曲は聴いた事があるが、木下さんは良い詩を書くね」
「ああ、はい。そうですね。とても…何と言うか、…心に響く詩だと思います」
「うん。真に迫るというかだね。…タキオンは聴いたりはしないのかい?」と祖父は、蹲って鯉をじっと見ているタキオンを見て言った。タキオンは、適当に顔を上げると、祖父を見て言った。
「私は、この人が聴いてるのを傍で聴いてるよ」
それを聞くと、祖父は満足そうに微笑んだ。
「それなら結構だ」
そう頷いた後に、また田上の方に向かって聞いた。
「読書の方は何だね? 流行りの物は読むのかね?」
「えー……、…まぁ、…最近はあの『砂と花と陽炎と』という本が面白かったですね。…波止場響子さんが書いた」
「ああ、あれは私も読んだ。あれもよくできた話だったね」
「そうですね。…はい。…流石、賞を獲った物だと思いました」
「うん。ああいう作家は、また、中々居ないもんだね。木下さんと同様に」
「はい。僕もそう思います」と田上は、餌を食うために熱心に水面に向かって泳いでいる鯉を見ながら答えた。
それから、また少しの沈黙の後に、祖父が口を開いた。
「近頃は、二十代の若い人の間でもゲームが流行っているそうだが、田上君もやってたりはしないのかな?」
「あー、……まぁ、…はい。それなりに…」と田上は答えた。無論、一般の人に比べたらそれなりにとは言えないだろう。どっぷりとゲームに浸かって、高いパソコンまで買ってしまった。
「私も韋駄天堂のゲームをやってみたんだがね。どうも最近のゲームはボタンが増えすぎじゃないかね?」
「……まぁ、…はい。…慣れてるので何とも言えませんが…」
「タキオンは、ゲームをしないのかな?」
祖父がそう聞くと、タキオンはまた適当に顔を上げて言った。
「今日、その韋駄天堂のゲーム機を買ったばかりだよ」
「おや、どういう風の吹き回しで?」
「圭一君と一緒にしようと思って」
「気になるゲームがあったのかい?」
「いや、…まぁ、彼氏の趣味を一緒にやってみるのもいいんじゃないだろうかと思ってね」
「ほー。…中々、田上君もやるじゃないか。あのタキオンにここまで気を許させるとは」
「それくらい良い人なんだよ」と話しかけられた田上の代わりに、タキオンが池の鯉を見つめながら答えた。祖父はまた満足気に笑うと言った。
「じゃあ、夕食前には戻ってきたまえ。…夕食まで庭を散策してるかい?」
これは、田上一人では答え難かったから、田上は下にいるタキオンに向かって「どうする?」と聞いた。タキオンは、田上の「どうする?」の中身を察してこう言った。
「帰る時に帰って、行くときに行くから、夕食の時には、さっきみたいに呼ぶか、私達の部屋を叩けばいいと思うよ」
祖父は、「分かったよ」と頷くと、田上から鯉の餌を受け取って、また、家の方へと戻っていった。田上は、その祖父の後ろ姿を少し見つめたあとに、また、鯉を見てしゃがむと、隣のタキオンに言った。
「暑くない?」
「大分、昼に比べると、暑さも和らいできたよ。雲も少しあるしね」
タキオンがそう言ってから、田上は、空を仰いだ。確かに、昼に比べると、少し雲の量が多い。それから、夕日となりつつある西の空を見、太陽が雲に隠れて見えづらいことを確認すると、また、目を鯉の方に戻した。鯉は、まだ水面に散らばっている餌をパクリパクリと食べている。その度に水面が揺れている。波紋が広がり、やがて池を覆う丸石まで達すると、波紋は勢いを消沈させる。そして、また新たな波紋がそこまで達して、古い波紋をより強い波紋で掻き消していく。鯉は水面にゆらゆら揺れて、一生懸命に与えられた餌を食べる。
田上は、隣のタキオンが何を考えているのかが、不意に気になったが、それもまた、鯉が作り出す新たな波紋にかき消されて、やがて、思考は波紋一色に染まる。
寄せては返す思考の波と、鯉の生み出す水面の波紋は、波長を合わせて、揺れては止まる。揺れては止まる。その内に、何を考えることもしないで、タキオンと田上その合わさった波紋の波長に支配されながら、ぼんやりと池を見つめていた。
不意に我に返った田上は、じっとし過ぎていて、足が強張ってきていることに気が付いた。それで、田上は、膝の音をパキパキと立てながら、足を真っ直ぐに伸ばした。
田上が動いたことによって、波に思考を奪われていたタキオンも我に返って、田上を見上げた。田上は、自分の足の血流が良くなっていくのを感じながら、タキオンと顔を合わせて、へへへと可笑しそうに笑った。
「タキオンも足が強張ってない?」
「んん?」
「足。…強張ってない?」
「んー」と唸りながら、タキオンも田上の横に立ち上がった。そして、タキオンも自分の足の血流が良くなるのを感じながら、ふふふと田上に笑いかけた。
「…もう帰るのかい?」
「…いや?…どうする?」
「……別に、どうとも。……君が庭を歩きたいっていうんだったら、私もそこへゆくよ」
「んー」と田上は、庭を見渡すと、丁度、まだ訪れていない岩が目についた。それを見たまま、一瞬田上は迷ったが、次には、タキオンに「あの岩を見に行こう」と言った。タキオンは、田上に「ただの岩だよ」と気怠げに言ったが、歩き始めた田上には素直についてきていた。
岩の周りには、しっかりと丸く剪定された庭木がこじんまりと植えられていた。その植物の周りには、少しのアクセントとして、野草が小さく白い花を咲かせている。
田上は、そこに近付くと岩に手を置きつつ、「これに座っていいのかな?」とタキオンに聞いた。タキオンは、少々呆れ気味で、「座っちゃ駄目な岩なんて、この家にはないよ」と答えた。
田上は、それを聞いても尚、恭しそうに平たい岩の上に座った。丁度、二人くらいなら座ることのできそうな岩だったので、タキオンも「ちょっと詰めてよ」と言いつつ、田上の隣りに座った。そして、二人でのんびりと、家の縁側の方を見やった後に言った。
「この岩、少し熱いね」
「うん」と田上は頷いた。
確かに、この岩の上で目玉焼きが作れるほどではないが、座っていると、ズボン越しでもじんわりと熱さが伝わってくる。冬なら暖かいが、夏だと願い下げだ。田上はすぐ立った。タキオンは、まだ我慢できると見えて、立ち上がった田上をぼんやりと見つめている。
田上は、それでも少しこの岩に未練があったのか、また、手の平で触って、温度を確かめてから「やっぱり熱いね」と言った。
タキオンは、「うん」と頷いてから、田上の横に立ち上がった。二人は、どこを見るともなく、敷地全体を見回した。これ以上に、遊び道具になりそうなものはない。鯉だって見飽きたし、松は元から見たことのあるものだし、岩は熱いし。
そうやって、田上は困った後に、タキオンに「どうする?」と再び聞いた。タキオンの答えも同じである。初めから、田上の行くところならどこへでもついていくつもりだ。だから、「どこでも?」と答えて、彼氏の顔を見た。彼氏は、縁側を見るともなく見て、少し悩んだ。それから、不意にまた辺りに目を泳がせた後に、田上はタキオンに言った。
「なんか、行きたい場所はないの?」
「行きたい場所?」
「そう」
「……私は、別に岩の上に座らなくても、地べたに座ってもいいよ」
「それも良いな」と言った後に、田上は自分の喉の渇きに気が付いて、「喉が渇いたな」と一言発した。
「じゃあ、家に戻るかい?」
「ん?……まぁ、戻っても良いけどね…」
「外にいたい?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと台所の方で水を貰ってこよう」
そう言って、二人は、裏口の方へ歩き始めた。
家の裏口は、台所と繋がっている。タキオンは、木製の戸を開けると、中にいる人に向かって「ちょっと水を二杯くれないかい」と声をかけた。すぐによんちゃんが返事をして、コップが二つ手渡された。田上もタキオンもそれを一息にグイと飲み干すと、タキオンの方がもう一杯と言った。田上は遠慮して、自分も二杯目が欲しい事を言い出しづらかったのだが、よんちゃんの方が「田上さんは?」と聞いてくると、「ああ」と返事をしながらもう一杯ほしい事を伝えた。
よんちゃんが注いでくれたもう一杯の水を飲み干すと、田上の喉の渇きも無くなり、二人はまた庭の方へと行った。それから、西日が当たるのを避けながら、岩の影ではなく、家の影で涼しくなりつつある夕を過ごした。
少ししてから、また一人、二人の下へ来訪者が現れた。今度は伯父である。こちらも少し太り気味ではあるが、しっかりとした黒髪に白シャツ姿で、田上たちの方へきびきびと歩いてきた。タキオンは、すぐにその姿に気が付いて、「あれが伯父だよ」と田上に声を掛けた。
それで、タキオンが指差した方向を見ると、その途端に、田上は礼儀上立ち上がらなければならなくなった。田上は、尻に着いた草を払いながら「こんにちは」と声をかけた。伯父の方は、「ああ、こんにちは」と頭を下げてから、また少し歩いて近づき、ある程度来たところで止まってから言った。
「あなたが田上さんで?」
「ああ、はい。そうです。よろしくお願いします」
おじさんが握手を求めてきたので、田上はその手を握り返しながら、頭を下げた。そして、手を話すと、伯父さんは田上と一緒にのんびりと立ち上がったタキオンに向かって言った。
「タキオンも相変わらずだね」
「うん。信頼に足る彼氏も隣に居て、相変わらず以上だよ」
「その割には宝塚記念は五着だったな」
「なに、私もピークを過ぎたのかもしれない」とタキオンは、少々お道化気味に言った。伯父は、口元に笑みを浮かべてから言った。
「いやいや、まだまだ走れそうな顔をしてるよ。私らは、これから出先で食べに行くので、少人数でゆっくりご飯を食べれればいい」
「この人は、今日は、会う人会う人に怯えっぱなしだったよ」
「なんで?」と伯父は、本気で理解できていなさそうに、田上の顔を見、タキオンの顔を見てから言った。
「ん? …実家が立派なもんで、ちょっとビビってるらしい。自分は、団地暮らししかしたことがないから、こんな所は不釣り合いだと」
「ははは、大丈夫だよ、田上さん。むしろ、団地の暮らしの方に興味がある。どんなものかな?」
「えー、……まぁ、そこらのアパートやマンションと変わりませんね。……老人が多かったような気もしますが」
「はぁ、……老人ね」と呟いた後に、伯父は切り替えてからまた言った。「初対面ですが、気持ちの良さそうな人で良かったです。これで、タキオンがどんな人を連れてくるのかと、私は戦々恐々としてましたから」
「私にも、人を見る目くらいはあるとも」
「いやぁ、まさかあるとは思ってなかった。じゃあ、……タキオンも大きくなったな」と伯父は、別れの言葉を告げそうな気配だったのに、唐突に、そうタキオンに言った。
「大きくもなるさ」とタキオンは言い返した。その言葉に伯父はハハハと笑った。
「いやぁ、時間の流れは速い。お前の母さんですら、俺は本当に結婚するのか怪しいもんだと思ってたのに、俺より先に結婚したし、それで、俺も少し焦ったもんなのにね。いつの間にか、こうたも小学五年生だ」
「私も、時間の流れには驚くよ」
「そう。タキオンも、あんなに、ついこの間まで、ちいちゃいちいちゃいしていたのに、いつの間にか、結婚するくらいまで大きくなるもんなんだからね。……こらぁ、人生っていうのもあっという間だなぁ」
伯父は、しみじみと呟いた後に、田上に向かって言った。
「田上さんもそういうのはあります?」
「ああ、はい。…あります」
田上の頭の中にノスタルジーという言葉が浮かんだ。タキオンの頭の中にも、同様の言葉が思い浮かんで、田上の顔を見たが、伯父は二人の間にある物を知らない。ただ、またしみじみと唸りながら、首を傾げた後に、来た時よりは釈然としない様子で「田上さん、会えてよかった。 タキオンも、また、夜には帰ってくるから。…土産話の一つでも二つでも」と言いながら立ち去って行った。
二人は、その背が建物の影に隠れるのを見つつ、自分たちもまた建物の影に座り込んだ。夕日はもう暮れようとしている。夕日が地面に近づくにつれて、空にある雲は多くなってゆく。
「明日雨だっけ?」と田上は空を見ながら聞いた。
「そう。明日は雨だった」とタキオンは答えた。
空気は温くなってゆく。少々の湿気も感じられる。雨でも降ればいいと田上は思ったのだが、どうやら、雨が降るにはもう少しかかるようだ。雨が降れば、田上が考える必要もなく、家の中に逃げ込む羽目になれたのだが、雨が降らなければ、家にいつ帰るかいつ帰るかという事を常に考え続けなければならない。
タキオンは、自分で決める気はない。特に、考えてもいなさそうだし、帰るとなればすぐに帰るだろう。田上は、自分の事を置いていってほしいと思った。そうすれば、もしかしたら、このまま自分の部屋に帰ることができるかもしれないと思った。無論、そこまでの過程は省いて考えた。もしかしたら、実際そうなった場合には、一悶着あるだろう。一悶着があるから嫌なのだ。どちらにしろ、田上は夕食には行かねばならない。もうすぐ自分を呼ぶ声が聞こえてくるだろう。ほら、もうすぐだ。今に来る。今に来る。あと少しで来る。もう少しで来る。あと十秒だ。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。…………。
「田上さーん、タキオンちゃーん」
ああ、やっぱり来た。
田上は、和風な家に似つかわしくない、平凡な洗面台で手を洗った。トイレにも行った。
洗面台で手を洗っているとき、不意に鏡の中の自分を見つめてみる。すると、自分の後ろ側に立っているタキオンが見える。タキオンも鏡の中に居る自分を見つめていて、目があった。タキオンは、少し口角を上げて笑いかけて来た。愛嬌がある。流石、自分の彼女である。他人様にお上げしても恥ずかしくないくらいの器量を備えている。きっと引く手も数多だろう。自分には勿体なく、またこの飛び切りの愛嬌を持ち合わせた人を幸せにすることなど不可能に近いから、できることなら、自分よりも顔もいい、性格もいい、学もある、才色兼備な人物に上げたいくらいである。誰か、自分から名乗り出てくれるものは居ないだろうか?
田上は、微笑んだタキオンに釣られて自分も少し微笑んだが、すぐに鏡のなかの自分の微笑みを気持ち悪く思って、緊張を含んだ仏頂面に顔を整えた。
――付き合って二ヶ月の彼女の祖父母と、その実家で一緒に飲み食いをするなど、正気の沙汰ではない。きっと、俺は、どこか寮のベッドの上で酷い悪夢でも見てるんだろう。そして、目が覚めたら、タキオンを好きになる前の自分に戻っているんだ。
田上の心持ちはそんな感じだった。
タキオンは、田上が洗面台で手を洗った後に、自分も手を洗った。何か声をかけてやろうかとも思ったが、その前に、田上がトイレの方へと足を向けたので、結局言えずじまいとなった。
どうやら、自分の彼氏は再び緊張しているようである。今になって、やっぱり、彼は誘うべきじゃなかったと、タキオンは反省した。彼のことを見誤っていたし、自分の我儘だってあった。もう少し彼もうまく立ち回れるのではないかと予想していたのだが、これは上手く行かない。加えて、自分の我儘。つくづく自分の事が嫌になる。一体、何回彼を騙せば気が済むのだろうか?
彼だって、優しい方である。常人の男であれば、まず、もう見限られている頃であろうから、それで言えば、喧嘩しても愛想は尽かさない彼に、自分の頭は上がらない。それなのに、上げて彼の顔を見て話す。とんだ善人だ。これで、彼に優しいと褒められるのだから、世の中の人間はよっぽど悪い奴らなのかもしれない。
そうでもないだろうということは、タキオンも分かっていたから、タキオンは今一度田上の優しさに感謝した。そして、その時にトイレから出てきた田上は、ボーッとしながら自分の手を泡で擦り続けているタキオンを見て、「お前、いつまで手ぇ洗ってんだ?」と声を掛けた。我に返ったタキオンは、すぐに手を水で洗うと田上に言った。
「また、緊張してるのかい?」
「……さあ?」
「………すまなかったね」
「……今更謝ってすむもんじゃないよ」と田上は無頓着に言った。
田上としては、これからはもっと俺に優しくしてくれ、というつもりで言ったのだが、タキオンには、その言葉が胸にグサリと突き刺さった。彼に嫌われたら、自分はもうやっていけないという思いが浮かび上がる。しかし、どこで祖父母が聞き耳を立てているのか分からないこの家では、敢えてそれを口にするということも許されなかった。
けれども、タキオンはどうしても嫌われたくなかったから、再度「本当にすまなかった」と深い謝意を表した。
田上は、思ったよりも、自分の言葉で彼女がダメージを受けているのを見て戸惑ったが、タキオンと同様に多くは語れない。だから、田上は、タキオンの腕を軽く触りながら、「そんなに怒ってないよ」ととりあえず言った。
それから、「さぁ、行こう」とも促したが、その前にタキオンもトイレへと行った。