ケロイド   作:石花漱一

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四十一、一連の出来事⑧

 田上とタキオンが食事の並んだ和室に通されると、もうすでにそこには祖父母が並んで待っていた。祖父は二人が入ってくると、嬉しそうに顔を上げて、「くつろぎなさい」と手招きをした。

 田上は、タキオンの影に隠れるようにして、おずおずと部屋の中へと入っていき、祖父の向かいで、タキオンの隣の席に田上は正座した。その後に、祖父は「正座しなくてもいいよ。縁談じゃないんだから」と田上に声をかけてきたので、田上は仕方なくその言葉を聞き入れて足を崩した。タキオンは、普段の癖として正座をしているが、これは見慣れた光景なので咎められることはない。

 祖母は、田上たちが部屋に入ってきても、一言も発さなかった。顔は温和なようではあるが、田上には絶対に目を合わさない。田上はどうも状況が妙だと思った。礼儀を重んじる人なら、もう少しくらい歓迎の言葉をくれても良さそうなものである。それを、言葉どころか目線も寄越さない。タキオンと祖父の方だけは見る。しかし、田上の方は見ない。田上は、その妙な雰囲気を感じながら、大人しく胡座で座っていた。

 食卓には少し熱そうな人参ハンバーグが置かれている。その隣には温かそうな白米である。そして、蒸したジャガイモは、ハンバーグの横に添えられている。それから、色彩を豊かにするために、小さいパセリもちょこんと乗っている。そこにまた、汁物もあまり多すぎない量で運ばれてきた。

 これでは、まるでハンバーグ定食である。これが、ちゃんと見事に作られているもんだから、――金持ちの家政婦ってのは伊達じゃないんだな、と田上は舌を巻いた。こうなってみると、いよいよこの家で一番低能なのは自分だ。家政婦はただ家事をするんだからそこら辺の主婦をするのと変わらないんだろう、と田上は勝手に決め込んでいた。しかし、家政婦は家政婦でも金持ちの家政婦はやっぱり違うのかもしれない。(そもそも、現代において、金持ちくらいしか家政婦は雇わないであろうが)田上は、驚いた。そして、また、自分の居場所が窮屈になる。この家で一番優しいのは、もしかすると、タキオンでもよんちゃんでもなく、一番偉いはずの祖父なのかもしれない。

 その祖父でも、田上に「お酒は飲むかい?」くらいの事は聞いてくる。田上は、もう自分になにも聞かないで欲しかったが、表面上は頑張って取り繕って、「あんまり…」と言い淀んだ。祖父は、田上の押し隠したところの詳細を突き止めようと聞いてくる。

「少量も飲まないかい?」

 田上は、隣のタキオンに助けてほしいと思ったが、事情を知っているはずのタキオンは何も口を挟まない。きっと、腹の奥では、田上に酒を飲んで、酔って甘えてほしいと思っている事だろう。そこに、田上の心も――甘えられるのだったら甘えてやろう、と同情と言うか、欲と言うか、そんなものが顔を覗かせる。だから、祖父の質問にも「少量なら飲みます」と肯定ともとれる言葉を与えた。

「じゃあ、少量って言うと、……あんまり飲まない方だね?」と祖父は、田上の不安定さに影響されたのか、頓珍漢な言葉を言った。田上は、少々不安に目を泳がせながら答えた。

「二三杯くらいだったら、…はい。…大丈夫です」

「ああ、じゃあ、あんまり勧めないようにしよう。…全部できたかい?」

 そう祖父は、最後に自分の分の料理を運んできたよんちゃんに言った。どうやら、よんちゃんもここで食べるらしい。タキオンと微笑みながら見つめ合った。

「じゃあ、乾杯で行こうか。…そうか。タキオンだけが飲まないんだね?」

「そう。まぁ、おじいちゃんが酔い過ぎたら、この人と一緒に喋っておくよ」

「そうしなさい。…タキオンは、…」と祖父が、食卓でタキオン用の飲み物を探していると、よんちゃんが「麦茶」と言って、タキオンのコップに注いだ。

 祖父は、田上にまた「酒は強い方かな?」と聞いて、田上が「あんまり」と返すと、「じゃあ、そんなに注ぎすぎるといけないね」と言って、ガラス瓶に詰められたワインを取り出した。和風な部屋に、洋風料理に、和風な汁物に、洋風なワイン。果たして、田上はここがどこだか判じかねているうちに、祖父はワインのコルクを開けて、「さあ、田上君。コップを」と言ってきた。田上は屈みながら「ああ、ありがとうございます」と言って、透明なグラスを差し出した。そこに、慎重にワインが注がれる。きっと、孫娘の彼氏にワインを注ぎたかったのだろう。そのような嬉しそうな顔をしている。

 全員に飲み物が行き渡ると、祖父が音頭を取った。

「えー、……じゃあ、俺が音頭を取るまでもないんだが、折角、田上君が来てくれたので、タキオンの優しい彼氏に、乾杯」と言って、祖父が田上のグラスをチンと言わせた。タキオンもチンと言わせ、よんちゃんもチンと言わせ、祖母もあまり要領を得ない顔でチンと言わせる。田上は、グラスに溜まっている得体の知れない赤黒い液体を少しの間見つめた後に、遠慮気味に一口飲んだ。今日は、もう何も喉を通らない気分だ。

 田上は、一口ワインを飲んだ後に、隣のタキオンを見た。田上の背が陰気に曲がっているので、正座のタキオンはいつもより一際高く見える。その顔がニヤニヤと嬉しそうに笑っている。田上の滑稽を見て笑っているのだ。――誰のせいでこうなったんだか、と思った。二人きりの部屋に戻ったら小言でも何でも言わなければ済まない。田上は、そう思いながら、目の前のハンバーグの前に置いてある箸に目をやった。

 スプーンとフォークとナイフは、一応机の上に、箱の中に入れられて置かれてある。祖母は、フォークとナイフで丁寧に食べている。祖父は、箸で切って食べ、「美味い」と言っている。それから、目の前をぼーっと見つめて手を動かそうとしない田上を見ると、「緊張してるのかな?」と聞いてきた。

 ここで、「緊張してるのかな?」と聞いてくる辺り、タキオンと血が繋がっている人なのだろうと思う。

 田上は、「食べないのかい?」と聞かれていたら困っている所だった。今から食べ始めるか、さもなくば、食べていない理由を話さなければならないからだ。それを一つ飛び越して、「緊張しているのかな?」と聞くのは、田上が手をつけていない理由を察してから、そう質問している。この祖父にして、あのタキオン蟻といった所なのだろう。

 田上は、その質問に少しホッとしつつも、苦笑いしながら「少し…」と答えた。すると、祖父は気を利かせて、「ナイフとフォークが必要かね?…別に、無理に使う必要もないが」と聞いてきた。

 この質問は、田上として大いに助かる。またも、田上の心を察してくれた質問だ。田上は、少し「あー…」と悩んだ後に、「箸で、…頂かせてもらいます」と自分の箸を手に取った。

 これでは道化も良い所であると田上は気が付いた。自分以外の皆はちゃんと自信を持って食べている。それなのに、この憐れな田上圭一と来たら、夕食の席に来て、終始おどおどしてばかりで、祖父には気を利かせられる始末である。

 田上は、もう祖母は信用ならないと心で決めつけていた。恐らく、祖母は自分を鑑定するために、ここへ呼んだのだ。初めは違う理由だったかもしれない。しかし、タキオンが彼氏を連れてきたいと言い出した途端に、この策を思いついたのだろう。そうでなければ、辻褄が合わぬような気がする。この中で、一番低能な自分に対して、あからさまに冷淡である。これが、もしかしたら、堂々とこの家に乗り込んでいたら祖母の態度も違ったのかもしれない。いかにも優秀そうなトレーナーとしてのオーラや愛嬌を振り撒いて、祖母をうんと唸らせることができていたなら、御眼鏡にもかなっただろう。

 しかし、実際にタキオンの彼氏としてここへやって来たのは、しがない平凡な男である。これで彼女持ちなのだからしょうがない。祖母の前に引きずり出されて、鑑定されるのも最早運命だったのかもしれない。

 田上は、少々憤りを覚えながら、箸でハンバーグを切り分け、一口ずつ丁寧に丁寧に、味わう事を知らずに喉へ飲み込んだ。

 

 祖母とよんちゃんとタキオンは、女だけで会話を盛り上げている。専ら、よんちゃんが田上について、タキオンから何か聞くのである。祖母は、田上の事については、あまり返事をしたがらない。したとしても、綺麗に受け流しているように見える。田上は、心の内で――タキオンはこれを察しているのだろうか? と思った。いつも、察しの良いタキオンなのだから、この時だけ察しが悪いというのも都合が良すぎるだろう。自分が蒔いた種が芽を吹かせているのに、そんな事にも気付かずに放置してしまうのだろうか?

 いや、ここに関しては、田上のタキオンへの信頼があった。タキオンは、このような事を気付かないはずの女ではない。少なくとも気が付いている。気が付いている上で、自分に嘘を吐いてくるかどうかだ。

 タキオンとしては、ここで不誠実なところを田上には見せたくはないだろう。限りなく誠実ではあろうとするから、自分が気が付いた事には、例え田上が気が付かなくても謝ってくるはずだ。となると、田上はタキオンが可哀想になってきたから、少し怒りを和らげて、――謝ってきたら優しくしてやろう、と心に決めた。

 祖父は、案外食卓では話さない人のようだった。田上は、よんちゃんやタキオンに話しかけられた時には義務的に答えているが、その時以外は黙々とご飯を食べている。祖父も同様だ。タキオンの父も酒に酔っていない限りはそうだったから、もしかしたら、この家系に属する男たちは皆そのようになってしまうのかもしれない。

 祖父は、自分が主役じゃない時は話さない人なんじゃないだろうか、との考察を田上はしてみたりもした。話す事は好きそうな顔をしている。しかし、女連中は、そんな祖父を脇にやって、自分たちだけでわいわいと賑やかに話す。田上もあまり話す方ではないから、ここで祖父が無理に田上と話す事もしなさそうだ。となると、祖父の方は、田上が緊張のあまり話したがらない事を察して、話しかけないで居てくれているのかもしれない。

 田上は、その事に気が付くと、いよいよ祖父の事を神様か何かじゃないかと思い始めた。もしかしたら、金を持てばこんなに賢くなれるのかもしれない。いや、賢いから金を持っているのかもしれないが、一先ず、人の扱い方だけは心得ている。五十くらいも歳は離れているが、二十五の若者の心もちゃんと心得ているようだ。――流石、大企業の社長なだけはある、と田上は、太り気味の祖父の事を見直した。

 田上が、ワインを一杯飲み終わると、祖父がそれを目聡く見つけて「もう一杯いるかい?」と聞いてきた。まだ許容量のような気はするから、田上は少し、自分の体内を探るための神妙な顔つきをしながら、コクコクと頷いて、「ありがとうございます」と答えた。

 その時になって、タキオンは田上の方を向くと、「二杯目?」と聞いてきた。正座はいつの間にやら崩している。田上は、「うん」と頷くと、ワインを口に含んだ。少々上せてくる心地もある様な気はするが、タキオンに甘えられるほどではない。折角だから、それくらいになれるまでは飲んでやろうと、田上も考えた。

 タキオンは、大きい大きい人参ハンバーグもいつのまにやら半分程食べてしまっていて、少々腹に物も入って愉快気分のようであった。ただ無闇に田上の事を見つめてくる。田上が、ハンバーグを口に運ぶときも、白米を口に運ぶときも、ポテトを口に運ぶときも、その口の中まで見ようとするほどに、一挙手一投足をまじまじと見つめてくる。

 その視線も流石に気になって、田上は「なに?」と低い声でタキオンに聞いた。タキオンは、上機嫌の様な口調で「いやぁ、…飲むんだなぁと思って」と答えた。田上はグラスに入っているワインを見つめると、「飲むよ」と答えてから、そのグラスを取って自分の口に液体を含ませた。

 最早、舌がバカになりつつあるような気もする。ハンバーグを食べているんだか、ワインを飲んでいるんだか分からないような気もする。そんな気持ちを抱えながら、田上は、ハンバーグを平らげ切った。汁物までしっかりと食べた。タキオンは、田上の観察に夢中で、途中から何も手をつけていなかったから、祖母に「タキオン」と嗜められていた。タキオンは、口答えでもするものかと田上は思ったが、案外素直に「応とも」と頷いて、また食事に手をつけ始めた。

 タキオンが、食べ終わる頃には、田上も少しぽわぽわとしてきていて、ワインを勧めてくる祖父にも「ちょっとこれ以上はやめておきます」と答えていた。祖父は代わりに、よんちゃんのほうにワインを注いでいた。祖母は、あまり飲まない性質らしい。田上は、二人の事を対照的だと思った。――あれで、よく夫婦をやっているものだ。何か秘訣でもあるのあろうか?

 流石に、そんな無粋な事を聞きはしなかった。代わりに、タキオンの質問に答えた。タキオンは、食べ終わって座布団の上で寛ぎながら、田上の両手を軽く握って言った。

「出来上がったかい?」

「……いいや? …まだ理性はあるよ」

 そうは言っているが、少し口調はふわふわとしていた。

「君の酔ってる所も二度目か」

 酒の入っている祖父は、祖母の方に大きな声で盛んに何かを話していた。祖母は、「へー」とか「ほー」とか言って聞いている。時には、笑顔も出す。笑顔なんてものがこの人にはあるんだな、と田上は驚いた。

 それから、田上は、タキオンの手を触って少しぼんやりとしていると、祖父の方が二人に向かって質問をしてきた。

「お互い、何歳と何歳だったかな?」

「私は、今十八。圭一君が、今年の八月で二十六だったかな?」

「そうです」と田上が祖父の方に向かって頷いた。

「すると、八歳差だね?」

「圭一君は、八歳も年下と付き合うなんて、って怯えていたけどね」

「いやぁ、田上君。八歳はまだ普通だよ。歴史に名が残る人でも、普通にそのくらいの年の差で結婚しているのもいる」

 その後に祖父が「田上君」と改まって言ったから、田上も「はい」と返事をした。

「タキオンを幸せにしてやってくれ。ひよこのように小さい時から見てきた孫娘だ。君だったら、私はタキオンを託せるよ」

「はぁ」と田上は曖昧な返事をして、頭を軽く下げた。それから、祖父は祖母の方を向いて言った。

「お前もそう思うだろう? 田上君なら、タキオンを預けても大丈夫だって」

「ええ」と祖母は頷いた。この質問は綺麗に受け流した。この場でそれに気が付いたのは、田上とタキオンとよんちゃんのみである。祖母は、礼儀の衣で隠せた気になっている。祖父は、酒に頭をやられているので、細かい所作についてはもう察せなくなっていた。

 田上は、酒のお陰で軽くなった頭でも、その祖母の様子を察することができたが、特に怒り出すということもせずに、少し悲しそうな顔をしてタキオンのことを見つめた。

 タキオンは、それをなんとなく察して、田上の手を握ると優しく撫で始めた。祖父は、よんちゃんと何かしら話し始めたが、その内に、よんちゃんが立ち上がって、「お風呂の用意をしてくるので、それが終わったら、私はうちの方へ帰らせていただきますね」と言った。祖父は、「ふぁ~〜~あ」と大きな欠伸をした後に、自分のスマホを手にとって見つめたあと、田上とタキオンにまた話しかけてきた。

「明日の朝は雨だそうだが、二人共傘は?」

「持ってきてない」とタキオンが答えた。

「うちのを持っていくといい。予備の傘が二本はあったはずだ」

「……返さなくちゃいけないのが面倒だね」

「なに、傘の一本二本返さなくてもいいし、返したいんだったら、返せるときに返しに来てもいい。どうせ予備だよ」

「まぁ、…いや、駅まで歩く義理もないからな、家の前にタクシーでも呼ぼうか?来る時もそれで来た」

「ああ、じゃあ、金は出そう。…ああ、それに小遣いもやっておこうか」

「いいよ、金はある」とタキオンが断ったが、祖父はもうすでに財布を開けていた。

「近頃の子は物を欲しがらんからね。そりゃあ、無闇に欲しがるよりも、欲しがらない方が健全かもしれんが…。…はい、とりあえず、三万持って行きなさい。田上君にもだ」

「あ、僕ですか?…そんな…、はい。ありがとうございます」と田上は渡されるままに、二万を受け取った。

「田上君の方の一万は、タクシー代だと思って、使った後は二人で分けなさい」

「はい」と二人で頷いた。その後は、幾らかの沈黙があった。祖母は、先程二人が話している時に、立ち上がって何処かへと行ってしまった。祖父は眠たそうな顔をして、スマホを見ていたが程なくして、「どなたが一番に入られますか?」と聞くと、「俺でいいかな?」祖父が田上とタキオンに向かって聞いてきた。二人共良かったので田上はコクリと頷き、タキオンは「うん」と声を出して頷いた。

「じゃあ、お先に」と言うと、祖父は重たそうな体をゆっくりと持ち上げて、のそのそと風呂の方へと行った。

 食卓にはまだ皿が残っているので、よんちゃんがそれを下げ始めた。その時になって、タキオンがそれを手伝いはじめたので、田上もそれに倣って手伝おうとしたのだが、ぼんやりとしていて足取りや手つきが覚束なかったので、タキオンに直々に「君は座って待ってて」と言われた。その時に、伯父家族が帰ってきてこの部屋を覗いた。伯父は、締まらない腹を襖の間から覗かせながら、田上の顔を見て「ああ、酒が入ったんだね?」と聞いてきた。

 田上は、ぼんやりとした目でコクリと頷いた。それから、また伯父は、体を部屋の中に入れた。後ろには、奥さんであるナツノヒが待機している。子供たちも自分たちは何をすればいいんだろうという目つきで、母親の周りで立っている。伯父は、なんとはなしに部屋の中に突っ立っていたが、やがて、よんちゃんが皿を下げに部屋の中へ入ってくると言った。

「やぁ、もう風呂には入ってきたよ」

「ああ、はいそうですか」とよんちゃんは返事をしてから、また皿を下げに戻った。伯父は、その次に田上に顔を向けると、座りながら言った。

「酒は飲める方ですか?」

「いえ、…ちょっと飲んだくらいです」と田上は覚束ない頭で答えた。

「そうですか。…ああ、タキオン、…お前はまだ酒は飲めないんだったな」

「うん。さっきおじいちゃんにもそんな感じの反応をされたよ」

「田上さんが成人してるから、お前もてっきりもう成人したものかと思ってしまう」

「早く成人してみたいもんだね」とタキオンが答えると、伯父がハハハと笑った。

「結婚式の時には呼んでくれ」

「んん、…どうかな。圭一君は小規模でやりたいと言っていたが」

「そうなのかい?」と伯父が聞いてきた。

 田上は、結婚式に呼ばなかったら伯父に悪いので、「まぁ」と困り気味に答えた。

「……少人数と言うと、……どの程度かな? 血縁者は呼ばれるくらいかな?」

「……まぁ、…具体的な事は……」

「ははは、そうだった。気が早かったな。まぁ、焦らずに頑張ってくれ。タキオンは昔から手の掛かる子だったが…」と伯父が言うと、田上が「今もそうです」と答えた。当然、タキオンは不満そうに「ええ~」と言った。

「それを言ったら、君だって手の掛かる子じゃないか」

「似た者夫婦というやつだな」と伯父がニコニコしながらそう言った。

 それから、伯父は立ち上がると、田上にまた言った。

「田上さんはこれから風呂で?」

「ええ…、…次が僕なのかは知りませんが…」

「ああ、そうですか。お酒はもう?」

「ああ、はい。あんまり飲みたくないので…」

「そのくらいの方が良い。…じゃあ、…まだ気は早いかもしれないが、タキオンを貰ってくれという言葉を残してお暇させてもらうとするよ。今日はどうも来てくださってありがとうございました」

「いえいえ、どうもこちらこそおもてなしいただいた上に、気を遣って外の方まで出ていただき…」と田上は頭を下げた。

「いえいえ、ちょっと遊びに行ったようなもんですから、そんなに苦労もありませんでした。…タキオンを貰ってやってください」

「ええ、ありがとうございます」と田上が返事をすると、漸く伯父は去っていった。その後に、タキオンはまっさらになった机の傍らに座って、田上の手を握ると言った。

「………貰ってくれるのかい?」

「……お前が良ければ…」と田上が、近くによんちゃんが居ることを忘れて言った。

 よんちゃんは、その言葉を聞いて、今日一番のニヤニヤ顔を出していた。タキオンは、よんちゃんのそれに気が付くと、少し邪魔に思って、田上に「部屋に帰ろうか」と提案した。田上に断る理由はない。今までずっとそう願ってきたことなのである。むしろ、今すぐにでも行きたいくらいだったから、田上はすぐに立ち上がった。タキオンが手を恋人繋ぎにしても、何も怒らなかった。

 そうやって、自分たちの部屋へ廊下を歩いていくと、また、この家の住人が立ち塞がってくる。長女のさつきである。部屋から出てきたさつきと二人は、ばったりと出くわし、さっきの視線は、二人の顔からそのまま繋がっている手の方に向けられた。

 それから、また、二人の年上の恋人たちの顔を見た。田上は、少々赤い顔でタキオンの事を見ている。目は物事を理解していなさそうだったので、酒に酔った赤面だ。ところが、この年上の従姉妹は酒に酔っているはずがない。だから、顔は真面だが、態度は少々揺れて、「何か用がな?」と照れ隠し気味に言った。

 さつきは、その様子を鼻で笑った後に、「タキオンって恋人と手を繋ぐような人だったんだね」と言った。タキオンは、「そうだとも」と言った後に、「じゃあ」と強引に話を終わらせて、そこから立ち去っていった。従姉妹に見つかっても尚、手を繋いでいた二人の後ろ姿を、さつきは面白そうな顔で見つめていた。

 

 二人は部屋に戻ると、やっと一息つけたような心地になった。あの食卓の場は、もう二人にとっては現実の世界ではなく、今この襖で閉ざされた狭い空間こそが二人にとっての現実の世界だった。

 そこだけが、二人の自由な表現が許される場所である。だから、二人が入って襖が閉じると、すぐに田上はタキオンのことを背後から抱き締めた。タキオンもこうなることを予期していたように、平気な顔をして抱き締められた。そして、田上の暖かさを背に受けながら、落ち着いた声で口を開いた。

「……疲れたかい?」

「うん…」と田上は、拗ねた子供のように小さな声で頷いた。

「じゃあ、とりあえず座ろうか? …私も今日はくたびれた。私がくたびれた分、もっと君にはすまないことをしたと思っているよ」

「……知ってる。……だから、大人しくじっとして、動かないで…」

「うん、分かった」と言いつつも、まだ二人は襖のすぐ近くで立ったままだったので、抱き合ったままよちよち歩いて、積まれている布団まで行った。そして、そこにごろりと横になると、田上がタキオンのことを真向かいにギュッと抱き締めた。少々縋るような心地だったから、タキオンは満足を覚えた。そのまま、二人は暫く黙って呼吸を続けていたが、やがて、タキオンが口を開いた。

「私の事好きだね」

「うん…」

 その後に、タキオンの脳裏にはチラチラと、「愛してる」とか「好きだよ」とかいうある種のからかいの言葉が思い浮かんだが、その邪念は我慢しておいた。今、音として実際に発した言葉だって、思い返すと妙な線を行っていたような気がするから、これ以上同じ轍を踏むのは避けておいた方がいい。程度を考えておいた方がいい、という考えだった。

 それから、また少しの沈黙が生まれた後に、田上が口を開いた。

「…………行かないで……」

「……行かないでって言っても、…君から離れようとするだろう?」

「……うん…」

 また少しの沈黙が生まれる。どうも言葉が上手い具合に続かない。圭一君が酔っているからかもしれない、とタキオンは考えた。

 普段の田上であれば、タキオンの心を察してくれて、もう少し上手く言葉を発してくれるが、酔っている田上はそこまで気が利かない。その上に、タキオン自身も――酔っているから、と少し遠慮がちになる。

 結果的に、話が続きにくくなるのだが、タキオンはもっと田上と話して安心を得たいし、単純にもっと言葉を交わしたい。しかし、タキオンも半分諦めている節はある。ここで自分が出そうと思う言葉は大概甘い言葉を囁くことになってしまうだろう。そんな事は彼氏の方が嫌う。タキオンは嫌われたくないから黙るしかない。ただ、まぁ、こうやって抱き締められるのも普通に心地の良いものだ。…この胸の中で呼吸をしながら、言葉を交わすことができたのなら、もっと心地は良くなるのだが。

 タキオンは自分の心持ちがフラフラする気分だった。

 

 少しして暑くなって、部屋の片隅に置いてある扇風機の方へ行こうとしたのだが、これは田上が止めた。寂しがり屋の愛しい彼氏は、どうやら自分を掴んで放したくないらしい。タキオンは、救死くらい汗ばむのも良いかもしれないと思いながら、酒の匂いのする彼氏の胸の中で大人しく抱かれていた。

 それから、また少ししてから、襖をトントンと叩く人物がいた。見ると、祖父である。タキオンは、もうほとんど眠ってしまった田上を布団の所に置いて、脱力した腕の中から抜け出して、祖父の前に立った。祖父は、部屋の奥で寝転がっている田上を見て「もう寝たのかい?」と聞いた。タキオンも同様にして部屋の奥の田上を見ながら「うん」と頷いた。彼の胸には、ネックレスが電灯の光を反射して輝いている。

「次の風呂は、タキオンか田上君かのどちらかだと思って来たんだが」

「…うん。どうせ風呂には入らないといけないだろうし、今起こすよ」

 そうタキオンが言うと、畳の上を歩いて、田上の所へ行った。それから、田上の肩を左右に揺すると「起きて圭一君」と声をかけた。田上は、んん…と寝顔をしかめた後に、目をぼんやりと開けて、タキオンの顔を見た。

「……なに?」

「お風呂だよ」

「……嫌だ」

 そう言うと、田上はタキオンの腹に腕を回して抱き着いた。どうやら、祖父の存在には気が付いていないようである。

 これには、立ち回りの上手いタキオンも流石に驚いて、「ひゃっ」と声を上げた。それから、慌てた様に腕を振り回してから、「おじいちゃんがいるんだよ」と言ってその腕を解き始めた。

 祖父は、その様子をニコニコしながら見つめていた。田上は、タキオンに腕を解かれるまでもなく、「おじいちゃんがいるんだよ」と言われた途端に、頭が幾らか冷静になってすぐに抱き着くのをやめた。

 タキオンは顔を赤らめながら「君ってやつは…」と言った。田上は、それには答えないで、タキオンの背後にいる祖父を確認すると、申し訳なさそうな顔をしながら「すみません…」と頭を下げた。

 祖父としては、自分の前で緊張して畏まっている孫娘たちよりかは、こうやって、仲の良い所をふんだんに見せてくれる方が喜ばしかったから、「全然大丈夫だよ」と答えた。その後に、「風呂はどうするかね?」と聞いた。タキオンもまた同じように「圭一君が先に入る?」と田上に聞いてきた。

 田上としてはどちらでもいいが、この場だと少し不安が残る。まず初めに、風呂の場所が分からない。と思ったのだが、それを一瞬考えた後に、そう言えば洗面台の近くにあったあの扉が風呂なのかもしれないと考えついた。ただ、本当なのかは判別し難い。田上にとって、あの曇りガラスの扉は限りなく風呂に近い何かである。決して心を許しても行けないようにも思う。

 そう思って、田上が少し悩んでいると、タキオンが「私が先に入ろうか?」と提案してきた。これも、すぐには受け入れ難い。こんなだだっ広い家で、敵地で、自分だけを一人にしないでほしいのだ。この世で一番の親友であるタキオンにいてほしかったのだが、生憎、それはプライドが邪魔するし、少し理性的に考えてみれば、どっちにしろタキオンは風呂に入って、田上は一人にならざるを得ないのだ。ただ早いか遅いかだけである。

 それらの理由で、田上が頭のなかで意味のない押し問答を繰り返していると、「じゃあ、もう私が先に入ろうか?」とタキオンが、田上の決定を代わりにしてあげるかのように言った。

 田上は、タキオンの気遣いを知っても尚、少し揺らいだが、酒のせいか自分の心のせいか、ここで自分の力で決断を下すのは難しいように思えたから、仕方なく「それでいいよ」と答えた。

 タキオンは、振り返って祖父を見ると、「それでいいそうだ」と答えた。祖父も、なんの気なしに「ああ、分かった」と答えると、その襖を閉めて立ち去って行った。その後に、タキオンは持ってきた荷物から自分の着替えを取り上げると、「じゃあ、先に入ってくるよ」と言って、襖から外の方へ出て行った。

 田上は少し疲れたような返事をしたが、生活だけは遂行しなくてはならないから、タキオンはそんな田上を置いて出るほかなかった。タキオンとしては、風呂の時間くらい放っておいて、自分はできるだけ早く帰ってきてやればいいだろうという感覚だった。

 実際、田上も待つことには待てたし、待てない程機嫌も悪くなかったのだが、タキオンには傍に居てほしかった。それと同時に、田上も生活は遂行しなくてはならない事を知っていた。だから、少し疲れたような返事でタキオンを送り出した。

 タキオンは、田上の事を気遣ったが、少し疲れたように聞こえるのは、酒のせいでもあるかもしれないと解釈して、風呂の方へと向かった。

 田上は、タキオンを見送った後は、ごろりとまた寝転がった。そして、寂しさを感じて蹲りもしたのだが、蹲った所でタキオンがすぐに帰ってくるでもない。その事に少し経ってから気が付くと、不意に自分の身を起こした。

 何をするでもない。ただ身を起こして周囲を見つめた。シンと静まった家のどこからか、伯父らしき男の人の笑い声が聞こえてきた。少々怖い。部屋の電気は薄暗く和室を照らしているような気がする。押し入れを閉ざしている襖は、その中にもしかしたら何がいるのではないかと思わせる不気味さを漂わせている。

 田上は、その襖を怖々見つめた後に、ごろりと横になったが、今度は、襖からいつ化け物やら不審者やらが飛び出してきてもいいように、警戒して見つめながら寝転がった。そして、すぐに自分が滑稽だと思いもしたが、簡単にその押し入れの襖に気を許すわけにも行かないので、己の安心と安全を得ようと、田上はソロリソロリと襖の方に四つん這いで忍び寄り、その前まで行くとゆっくりと立ち上がった。立ち上がったのは、襖からもし本当に化物か不審者が飛び出してきたら、四つん這いじゃすぐには抵抗できないだろうと考えたからだ。

 田上は、襖をゆっくりと開けて、化け物とゆっくりと目が合うのも嫌なので、勇気を持ってすっとその襖を引いた。襖は上下に二段あったが、上段は空だった。この空の部分には、今畳の上においてある田上とタキオンの分の布団が置いてあったのではないかと思われる。

 次に、田上は下の段を見たが、ただ棚と引き出しがそこにあるだけだったので、田上は、自分の身近に化物または不審者が居ないことを確認できた。

 それでも、まだ、若干の不安が残っていたので、押し入れを開いたままぼーっとしていると、その押し入れの奥の方に黒色のペンで何か書かれているのが見つけられた。目を凝らしてよくよく見てみると、『うまむすめ』と幼児が書いた字の下に、ウマ娘らしき似顔絵が描いてあった。下手な絵なので、らしいということくらいしか分からない。

 田上は、それに少し不安を和らげられて、――これを描いたのはもしかしたらタキオンなのだろうか? と思いながら、またその絵をまじまじと見つめ直した。タキオンだというのならば、もっと面白い。こういう彼女の小さい頃の片鱗を覗けるのならば、わざわざ苦心して夕食まで食べた甲斐があるというものだ。

 ――あとで聞いてみよう、と思いながら一頻りその絵を見つめた後、田上は押し入れの襖を閉じた。

 

 少しウトウトしてみたり、荷物から『沢下り』を取り出して読んでみたりと、田上はあまり落ち着かない時間を過ごした。その後に、適当に一点を見つめてぼーっとしていると、「やあやあ、遅くなった。次は君だよ」と言ってタキオンが部屋に入ってきた。

 田上の心にはまた不安が這い寄ってきたが、それは束の間タキオンに破られた。タキオンが「風呂まで案内するよ」と言ったからだった。

 田上は、ノロノロと自分の着替えを用意した後に、タキオンの後について廊下を歩いていった。途中の部屋から、伯父の奥さんのナツノヒが顔を覗かせて、「今から風呂?」とタキオンに聞いた。タキオンは、「そう」と答えて、その横を通り過ぎていった。田上も一礼しながら通り過ぎた。

 タキオンは、洗面台まで行くと、「まぁ、わざわざ私が案内するまでもないが、…ここがその風呂。湯の熱さは大丈夫だと思う。君が長湯をするのでなければ」と言った。当然、田上はこの敵だらけの家で守ってくれるタキオンが居ない場所に長居をするつもりなどないから、「すぐに上がる」と答えた。

 タキオンは、「それならいい」と言うと田上の肩を叩いてから、その場を後にした。田上は、脱衣所を塞ぐ扉を少し見つめたあとに、警戒を持ちつつ自分の服を脱いだ。もしかしたら、この時に誰か入ってきて、自分が露出狂に仕立て上げられるのではないかと内心怯えていたが、無事誰も入ってくることもなく、田上は服をさっさと脱ぎ終わった。それから、湯気の立つ浴室の中へと足を踏み入れた。

 やはり、金持ちの家なだけはあって、風呂は自分の家よりも、父の家よりも、実の祖父母の家よりも広かった。とはいえ、トレセンの大浴場くらい広いのかと言われれば違う。浴槽の広さは人一人が寝転がったとしても少しの余裕があるくらいの広さだ。体を洗う場所もそれに準じて広い。田上の家の洗い場は、人一人が寝転がれても、両手を広げて大の字にはなれなかった。ここは、それが丁度できる。実際に、裸で寝転がって試してみた。誰かに見られたらと思うと恥ずかしかったが、わざわざ浴室まで入り込んでくる人は居ないだろう。

 田上は、高級品かもしれないシャンプーやらボディソープなどで適当に体を洗ったあとに、ゆっくりと湯に入った。思ったよりも熱めだった。これでは、長湯をする前に、すぐ体が火照ってしまって、風呂から上がりたくなるだろう。これは、受動的な田上には好都合だ。自ら上がるか上がらないかを考える暇もなく、風呂の方からこちらを追い出そうとしてしまっている。ならばその力に押されて出て行っても、田上としてはなんらの問題もない。

 熱い湯に浸かっている内に、やっぱり田上の体は火照ってきた。それ程長くは浸かってなかったから、もう少し長く浸かろうと思って、一二分ほど浸かった後に、体を赤く火照らせて田上は浴室から出てきた。

 

 風呂から上がると、田上はすぐに体を拭いて着替えて、自分の元着ていた服を手に持って、脱衣所から出てきた。その後に、どうすればいいかと思って、田上が廊下に視線を泳がせていると、奥の方からタキオンが微笑を浮かべながら出てきた。電気のついていない薄暗い廊下から出てきたタキオンを田上は思わず美人だと思って見つめた。

 タキオンは、その薄暗い中をゆっくりと近づいてくると、「風呂はどうだった?」と聞いてきた。田上は、正直に「熱かった」と答えた。それから、タキオンは「今からトイレに行くから君は先に行ってていいよ」と田上に声をかけてきたから、田上は「次の風呂って?」と聞いた。

「おばあちゃんだと思うが、…まぁ、私が聞くよ。君は部屋に戻ってていい」とタキオンが断ってくれたので、田上はそれに素直に従って、その場をあとにした。

 

 部屋で待ってて程なくしてタキオンが帰ってきた。田上は、もう既にタキオンが敷いてくれていた布団の上に横になって、ぼーっとしていた。タキオンが入って来なければ、また寝てしまいそうな心地だったが、タキオンが入ってくると、田上は敷かれた布団の上で寝返りを打って、タキオンの方を確認した。

 寝間着姿のタキオンは、相変わらず自分には勿体ないくらいの美人で、スタスタと歩いて田上の横に寝転んでくれた。布団は二つあるというのに、二人が寝転がっている範囲は狭い。

 その内に、タキオンが一枚の布団のなかに一緒に入りたがって「ちょっと詰めてくれよ」と声を掛けた。しかし、今夜は少し暑い。それで、田上が「暑いよ」と断ったのだが、タキオンは暑くても良かったので二人で寝転がった。扇風機が二人へふわふわと風を送っていた。

 田上は仕方なく布団のなかに一人分の空間を明け、そこにタキオンがニコニコしながら入ってきた。二人は少しの間無言で見つめ合ったあとに、タキオンの方が口を開いた。

「抱き締めるかい?」

 田上は、表情に躊躇いの色を見せたあとに、コクリと頷いた。タキオンは、「これから少しの間は、人は来ないよ」と言いながら、田上の腕の中に入ってきたから、田上はまだぼんやりしながら聞いた。

「何かあるの?」

「ん? …うん。…ちょっとね。…おばあちゃんが、私の方に話があるらしいから、おばあちゃんの部屋に来なさいって」

 当然、田上は祖母絡みのことには警戒する心を持っているので、「部屋に行くの?」とまた不安そうに詳細を尋ねた。

「…んー、…うん。……もしかしたら、君絡みのことかもしれないし、場合によったら、私はもうこの家を二度と訪れない。君と居ることを選択する」

「………タキオンには、……家族と仲良くしていてほしい」

「向こうが仲良くしたくないんじゃしょうがないし、第一、もう君は私にとって家族同然だもの。私は家族と離れて、家族と居ることを選択するだけさ」

「…そう…」と田上は頷いた後に、また殊更にぎゅっとタキオンの事を抱きしめた。

 これもまた縋るようである。タキオンの事を離すまい離すまいと力を込めて抱きしめてくる田上の、その力強さに少し苦しくなるのがタキオンは嬉しかった。その力強さに比例して、タキオンは愛されているという実感が増していたから、今は殊に強く愛されていた。

 田上は、暫くそうやって、タキオンを万力込めて抱きしめた後に、少々酔いなのか眠気なのかで朦朧とした頭の中で、こう呟いた。

「………俺の人……」

 タキオンは、自分に対して話しかけられていると思って身動ぎをしたが、どうやら田上の様子では独り言か、一方的にタキオンに語り掛けられているようである。

 これは、タキオンにとっては好都合な話だ。田上が自分の独占欲を自覚して、タキオンの事をもっと長く強く抱き締めてくれるのならばこれ以上に嬉しいことはない。

 タキオンは、その独り言に言葉では答えないで、代わりに、今まで抱き締められるだけだった自分が、田上の腹回りに腕を回すという行為をすることで答えた。

 果たして、それが田上に伝わったかは分からなかったが、少なくとも、タキオンの方も田上の事を求めているということは伝わったはずだ。特に、それをすることによって、具体的な反応が返ってくることはなかったが、それから少し経ってまた、「俺だけの人……」と呟きながらより力を込めて抱き締めてきた。タキオンは、嬉しくて思わず、田上の胸の中で息を漏らして笑った。

 二人は暫くそうやって過ごしていたが、やがて、不意に襖の叩かれる音がしたかと思うと、「タキオン」と老婆のか細い声がした。田上は、まるで敵でも来たかのように、ぱっとその襖を睨めつけたが、返事はしなかった。だから、タキオンは自分が返事をして、名残惜しくも田上の腕の中から抜けて、襖を開けた。

 祖母は、タキオンの髪が乱れているのを見ると、「おや、寝てたのかい?」と聞いた。

「いや、…まぁ、寝てたか。少し布団でゴロゴロしてたから、本格的に寝てはないよ」

「…うん。まぁ、…さっき呼んだのは覚えているね?」

「ああ。…圭一君は連れて行っちゃ駄目なのかい?」

 タキオンは、返答が分かり切っているのを敢えてそう聞いた。祖母は、瞬きをしていたら気が付かないくらいの一瞬顔をしかめた後、「田上さんには関係の無い事ですから」と案外正直に答えた。

 それには何も答えずに、不安げな顔で見てきている田上を、迷うように振り返り見た。祖母も田上の方を見やると、「少々タキオンをお借りします」とできるだけ丁寧に声を掛けた。

 そして、タキオンの方へ向かって、「行きましょう」と声を掛けた。

 タキオンは、田上の目を見て、今の自分にできることを必死に考えていたが、この場の状況を変に乱したくもない自分が居て、その流れに身を任せている方が穏便に済みそうな気がした。だから、ただ申し訳無さそうに片手を上げて「すぐに戻ると思うよ」と声をかけてから、襖を閉めて立ち去っていった。

 田上は、タキオンが去った後の襖を暫く見つめていたが、やがて、ため息を吐くと背を丸めて、タオルケットの中にその身を埋めた。果たして、タキオンを恨めばいいのか、祖母を恨めばいいのか、何を恨めばいいのか分からない心地だった。ただ、田上はタオルケットの中に身を縮こまらせた後に、また、はぁ……と大きなため息を吐いた。

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総合評価:93986/評価:9.6/完結:145話/更新日時:2021年10月16日(土) 21:00 小説情報


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