四十二、最後の子
放課後が来て、二人は、また渡り廊下から外の雨降りを見つめていた。丁度、田上が「今日、傘持って来てなかったな」と言っている所だった。タキオンは、それに余裕綽々といった態度で「私の傘で一緒に帰ろうじゃないか」と言った。田上は、その態度に微笑み返すと、「お前の傘があるんだったね」と答えた。
「相合傘だね」とタキオンは嬉しそうに田上に囁いた。
だが、田上は別に相合傘にそれ程いいイメージを持っていなかったから、こう返した。
「相合傘って言っても、そんなロマンチックにはならないけどね。はみ出して濡れちゃうし、窮屈だし、傘くらいは一人一個でいいよ」
「そういう奴だから、君は私くらいにしか好かれなかったんだよ。相合傘にそんな現実的な観測を持ったら、恋人のやる事なんて大概甘いよ?」
「そう。……俺もお前も甘々だよ」
「ふぅん? ……あ、カフェだ」と言って、タキオンは、向こう側の一階の渡り廊下を歩いているカフェを指さした。
何の用があるのかは分からないが、渡り廊下を左から右に向かって、スタスタと歩き去ろうとしていた。そこに、何の前触れもなく、カフェがこちらの方を見てきたから、田上は驚いた。
ただ、もしかしたら、カフェの身の回りにいる怪奇が自分たちの居場所を教えでもしたのかもしれないと、スピリチュアルな事を考えもした。そして、その真相も分からずに、カフェはスタスタと歩き去って行った。田上の隣では、タキオンがカフェに手を振っていたが、それにも手は振り返さず、ただスタスタと歩き、見えなくなった。
タキオンは、カフェが立ち去るのを見ると、振っていた腕を下ろして「つれないね」と田上に言った。田上はもとより、カフェと話したいとは思っていなかったので、特に同調する事もなく、また、一階の渡り廊下を見た。
そこの所に、中等部の子らしき二人組が、話しながら歩いて行った。その横を、小走りに、また中等部らしき子が追い越していった。その子が、右の方へ消えていって、歩いていた二人も右へと消えようとしたころに、また右の方から小走りの別の子がやって来た。その子の後に、もう一人小走りの子がやってきて、先に行っていた子が振り返ると、今流行りの一発芸人の物真似をして見せた。そして、二人でゲラゲラ笑いながら、校舎左の方へ走って行った。
それからは、人が通らなくなったので、田上は手持無沙汰になってタキオンを見た。タキオンも田上と同様に廊下を見つめていたが、田上に見られている事に気が付くと、彼氏の方を微笑しながら見返した。
「…何か用かい?」
「……いつ帰るのかなぁって思って」
「……もう少しこうするのも良いかもしれないと思ってね…」とタキオンが、また渡り廊下の方を見ながら答えた。
そこには誰一人いない。と思ったら、田上たちが居る渡り廊下に、先生が一人歩いてきた。田上は、タキオンと同じ年齢の生徒になったような気分になって、その先生から目を逸らした。
その先生は、百九十もあるかもしれないといった大柄の男の先生だった。だから、田上も生徒のような気分になった。
浅黒い肌の先生は、手に持ったクリップボードをパンパンと人差し指で弾きながら、並んで中庭を見て立っている田上とタキオンをじっと見つめて去って行った。その先生は、そこに並んで立っているのが田上とタキオンだという事を分かっていた。そして、付き合っているという事も風の噂で聞いて知っていた。
ただ、ほとんど赤の他人のような人間の恋愛に口出しするほどお節介でもないので、そのまま通り過ぎて行った。実を言えば、二人が本当に誠実な恋愛をしているのかは知りたかった。誠実でなければ、悪印象を持つだけだったが、元より赤の他人なので、声をかける理由もない。少なくとも、後ろ姿だけは、普通に恋愛をしている男女に見えた。
田上も、トレーナーと生徒が付き合っているという後ろめたさもあって、身を縮こまらせつつタキオンと共に立っていた。二人共、先生が後ろを通る時は何も話さなかったが、その先生が充分に立ち去ったとみるや否や、顔を見合わせて微笑み合った。
「妙にでかい先生だったね」とタキオンが言った。
「…だから、俺も少し黙っちゃったもん。二人で話してること自体は良いはずなのに」
「…住みにくい世の中になったね」
「……タキオンのクラスにはあの先生は来ないの?」
「…いや、……恐らく来てない」
タキオンがそう言うと、田上がふふっと笑った。
「恐らくって何なの?恐らくって。先生の顔くらい覚えてないの?」
「退屈な話をする先生であればあるほど、私は覚えていないね。…一番鮮明なのは、担任の金ちゃんくらいだよ」
「化学の先生は?」
「…あれは、……顔を見れば分かるよ。顔を見れば。大概の先生はそうさ。見れば分かる」
「俺は見なくても分かってたよ」
「ええ? ……じゃあ、今高校時代の先生の名前を言えるかい? …数学の先生は?」
「……えー……、…小野。小野だったね。…確か」
「ほら、自信ないじゃないか。私と同列だよ」
「いや、国語の先生は、原先生だったって覚えてるよ?」
「へえ? …なぜ?」
「…なぜ? ……話は面白かった先生だったよ。おばちゃんだったんだけど、神社とか寺が好きって何回も何回も言ってたから、渾名が宮大工だった」
「宮大工?」とタキオンが可笑しそうに微笑んだ。
「そう。なんか、休みの度に、どこそこの神社や寺に行ったって話をしてくれてたから、友達の内の一人が――あの人は宮大工なんじゃないかって言い出して、それで、渾名が宮大工になった。その渾名聞いても、笑ってたから良い先生だったよ。…まぁ、それ程悪質でもないからね」
「へぇー。宮大工ね。……もうすこしパッとした渾名もありそうな物だけどね」
「んー、………あるかな?」
「……神仏習合とか?」
「……渾名にしては長すぎない?」
「んー、……東大寺とか伊勢参りとか、そこら辺のメジャーな物でも良かったんじゃないかな? 宮大工は、……そりゃあ、職人としてそれをできる人は凄いんだろうが、言葉としてはあまり…万人に知れ渡るというか、……頭の中に引き出しがあるとしたら、上から二番目か三番目の引き出しにしまってある言葉じゃないかな?」
「…まぁ、お前の言いたい事は分かる」と田上が微笑みながら言った。「まぁ、そんなのはもうどうでも良いんだけどな。…もう帰らない?」
「…帰る?」
「そう。話をするにしても別にこんな所でわざわざ話をしなくてもいいんじゃないかと」
「……もう少し…君とここで話をするのも好きなんだけどなぁ」
そうタキオンに言われると、田上もあまり無理に帰ることを勧める気も無くなって、タキオンの視線が向く方向に合わせて、自分もそちらを向いた。
タキオンの視線はまた渡り廊下の方へ向いていた。田上もそちらを見るが、誰か来そうな気配はない。少しして、人が不図現れたが、田上たちの下をくぐって中庭を歩き、傘も差さずに一階の渡り廊下を横断していったので、その子の顔すら見えなかった。タキオンは、その子の後ろ姿をぼんやりと見ていたが、その子が去って少ししてから、田上に「帰ろうか」と提案した。田上は、快くそれを受け入れた。
一種の妙な沈黙が二人の間にあった渡り廊下だったが、それは、帰る準備をするためにトレーナー室に訪れれば次第に消えていった。
田上は、万が一のために、トレーナー用のキチンとした服から、予め用意してあった私服に着替えて、トレーナー室を出た。
タキオンも、まさか制服でここを出るわけにもいかないし、おばあちゃんちから帰ってきてから、まだ寮にも訪れていなかったので、泊まる準備をするためにも寮へ戻った。外は雨だったので、田上は、寮に一番近い体育館の渡り廊下でタキオンを待った。元より傘を忘れてしまったのでしょうがない。寮の前で、手持ち無沙汰に待っておきたい気分ではあったのだが、濡れ鼠になってまで待ち構える必要もないので、仕方なく寮の一番近い場所で待っていた。
体育館には、トレーニングに行くトレーナーやウマ娘やらが、待っている田上の背後を通って歩いて行く。田上は、タキオンを待って、雨を見つめてぼんやりとしているところだった。
不図すると、田上は自分の職業がトレーナーであるということを忘れそうな気がした。いや、この学園に蠢いているトレーナー諸君を見て、不意に自分がトレーナーだったということを思い出すといったほうが良いかもしれない。
どうも、祖父母の家から帰ってからそのような気がするし、もしかすると、前々からそのような感じだったかもしれない。少なくとも、祖父母の家から帰ってきてから、自分というものがあやふやだ。無論、認められるとは思ってなかった。ただ、認められるかもしれないという希望は抱いていた。それを真っ向から否定されたし、真っ向から肯定された。祖父は良い人だった。タキオンも嫌いじゃないのだろうということがよく分かる温和で賢い人柄だ。気さくなのももしかしたら加点されているかもしれない。
祖父は認めてくれたが、祖母からは否定された。これは、タキオンが当初予想していた通りのものだったから、自分たちはむしろ祖母に認められるために、あの家に行ったと言っても正しいだろう。
それが無惨にも打ち砕かれたのだからしょうがない。祖母との交渉は決裂し、タキオンにもう二度と行かないとまで言わせた。田上としては、折角の家族なのだから、皆仲良くあってほしかったのだが、それも上手く行かないらしい。
田上は、異世界に居るかのようにその出来事を見つめて、引き裂かれるような思いをぼんやりと抱いていた。それが、自分が自分であって、自分でないような心持ちを作り出していた。
家族は分裂するべきではないという観念を持った自分が居る。一方で、タキオンと一緒に居続けたいという自分も居る。後者の自分は、その座を明け渡しそうで、明け渡したがらない。家族を分裂させてまでも、タキオンといる事を選びたいと言っている。
そうなってしまうと、自分は悪人になる。悪人になりたくない田上は、タキオンと一緒に居たい自分をぼんやりと見つめる。すると、自分は異世界からそれを見つめているような心地になる。そんな具合で、田上は、意識をふわふわとさせていた。
果たして、田上はどちら側につくのが正しいのか分からない。家族を分裂させたくないのも正しいように思う。この世に生まれた中で、一番の親友とも別れたくないと思うのも正しいように思う。双方が双方とも、眩しく正しさの輝きを放っているからその輝きに目を細めて、他人事のように見つめていた。
ある人は、それを『俯瞰』と呼ぶかもしれない。またある人は、それを『逃避』と呼ぶのかもしれない。田上は、それを逃避と呼ぼうと思う。結局、真面に目を見開いてその輝きを直視したくはないのだ。そうすれば、自分の目は輝きに眩んでしまうだろう。もしかすると、その輝きがあまりに眩しすぎて失明までしてしまうかもしれない。
そうなれば、自分は自分がどことも分からないまま、手探りで暗闇の中を歩き出さなければならないことになる。それは怖い。しかし、その輝きを直視しない今も、自分がどこに立っているのか分からないこともまた事実ではあった。
田上が静かに雨が降るのを見ていると、その奥の方から傘を持った人影が田上の下へ歩いてくるのが見えた。田上は、それが自分の知っている人であると思ったが、誰であるかは判別が付かずに、ただその人をぼんやりと見つめていた。顔や姿の輪郭は見えていて、脳裏にその人の名前は浮かんでいたのだが、その名前を脳が上手く読み込めなかったために、田上はその人の名前を、その人が話しかけてくるまで思い出せずにいた。
タキオンが、毎週末に見せてくれるような愛嬌のある私服に着替えて、傘を差してやって来た。
「やあ、待たせたね」とタキオンは田上に声をかけた。そこで、田上は、やっとこの目の前に居る人の名前がタキオンであるという事に気が付いた。
ただ、今度は、ここで言うべき言葉がぱっと思い出せずに、ただ微笑むだけでタキオンのその挨拶に応えた。
タキオンは、その表情に覚えがある。田上が、物思いに耽った後のぼんやりとした顔だ。その表情に覚えがあったから、タキオンは取り立てて何かを尋ねる事もせず、――きっと何か考える事でもあったのだろう、と解釈をして、彼氏を自分の傘のなかに入れた。その後に、田上はやっと「ありがとう」と言った。
正門付近まで来ると、田上もやっとタキオンの隣に居る人物が、田上圭一だという事を自覚して、正門のほうを警戒気味に言った。
「バレるんじゃないかな?」
「……ここまで来て?」
「…うん…。……裏門から出たほうが良いんじゃない?」
「……どうかな? ……ほら、私たちの前にも校門から出る人がいる。別に良いんじゃないか?」
「……校門からいかにも付き合っていそうに相合傘をしてる人が出てきたら流石に不自然だよ。……裏口の方がいいんじゃないか?」
「……裏口と言ったって、別に極秘の秘密通路ってもんじゃないからねぇ。…どっちにしろ、正門にパパラッチが居るなら、裏門にだっているんじゃないかな?」
「……そうかなぁ?」
「…そうだよ。…ほら、横の方から相合傘のウマ娘二人も出てきた。同じじゃないか」
「…こっちは、トレセン学園でも数少ない成人男性とウマ娘の相合傘だよ」
「…大丈夫だよ。ほら、向こうだって、私らがここから出てくることを予期して待っていないから。私らは寮住まいなんだから」
田上は、不満そうに、また、不安そうに正門を見つめた。正門から出て行く人もチラホラと居る。あそこに紛れ込めればと思うが、正門から出てくる人をよくよく観察しているの人なら、自分たちがいかにも怪しい二人組であるという事は、ぱっと手に取るようにわかるだろう。
それに加えて、タキオンの栗毛の尻尾、髪の毛が見えている。これではもうほとんど詰みのような気はするが、一つだけ自分たちの言い訳やら盾になれるのが、『自分たちは寮に住んでいる』と世間に勘違いされているかもしれないという事だ。
田上も、一応自分の過去のインタビューを探ってみると、自分とタキオンが双方共寮住まいである事を明言していた。明言していたからには、つい最近自分たちが引っ越したという事実は知らない人が多いと思う。田上の友達か、寮長辺りが漏らさなければ。恐らく、田上の友人らは、聞かれなければ漏らさないと思う。
ただ、田上の友人が一般に誰であるのかは世間には知れ渡っていないから、そんなに聞かれる心配もないように思う。タキオンの友達は知らないが、二人が、毎週末に同じ家に通っているという事を知っている人は僅かだと思う。
だから、可能性として言えば、田上とタキオンが別の家へと毎週毎週通っている事を知っている部外者は、ほとんどの場合居ないはずだと思う。
そして、トレセン学園についての常識として、大概のトレーナーやウマ娘は寮に入寮していることになっている。特に独身はそうで、妻帯者ではないと世間に広く知れ渡っている田上の場合は、インタビューを見た事が無くても、寮に入っているのだろうと考える事が一般的だった。
田上は、意を決してと言うより、隣のタキオンに仕方なく連れて行かれるままに、正門をくぐった。一つには、人を隠すなら人混みの中という言葉が田上の中にあったから。もう一つには、タキオンが言った、裏門でも正門でも同じだろうという言葉を信じたから、敢えて裏門へ行く必要はないと無理に自分に言い聞かせていたからでもある。
それでも、田上は、正門付近にいる人という人に怯えて、二人入っている傘の中で小さくなって怯えていた。タキオンは、そんな田上を励ますように、態度を堂々としながら田上の横を歩いた。
幸いな事に、二人に話しかけてくる人物はいなかった。シャッター音も聞こえなかったし、傘から周囲を覗いた限りでは、こちらに興味を持っているような素振りをしている人も、不審な素振りをしている人も見かけなかった。ただ、トレセン前の道路の向かい側に置いてある自販機の前で、傘も持たずにジュースを買おうとしている大学生くらいの青年が不審と言えば不審だったが、それは恐らくただの変な青年であると思われた。
田上は、正門を去って暫くしてから、ふぅと難所を逃れた様に安堵のため息を吐いた。タキオンも、怯えている田上に気遣って何も話しはしなかったし、恋人らしい素振りもしてあげなかった。タキオンとしては、例え嘘でも恋人じゃないふりはしたくなかったし、周囲には自分たちが恋人であると気が付いてほしいくらいなまではあったが、それで彼氏が怯えてしまっては元も子もないので、タキオンは大人しく、彼氏が握っている傘の下でゆっくりと歩いていた。
下手すると、そうやって周囲を警戒している方が恋人らしいかもしれないとも考えたが、どちらにしたって、相合傘の下に潜んでいる男女など、恋人という二文字からは逃れられないので、タキオンは適当に田上の隣を歩いた。
田上は、ふぅとため息を吐いてから、雨音に消されそうなほど低く静かな声で「タクシー使った方が良かったかな?」と言った。タキオンには、それが雨音にかき消されて聞こえなかったので、「え?」と聞き返した。
「タクシー使った方が良かったかな?」
「今それを言うのかい?」
「言う。…だって、電車に乗ってもそうだし、家に入る時もそうだけど、人を隠すのに人混みの中ってのも無理があるだろ?」
「大丈夫だよ。現代人は皆スマホを見て、側溝に嵌まるんだから」
「現代に嵌まる様な側溝はそうないよ」
「じゃあ、電柱にぶつかる」
「……どうだろうね? ぶつかるのかな?」
「…さあ? …まあ、不注意な人はぶつかるだろう? スマホしか見えていないんだから」
「……まぁ、スマホに熱中し過ぎていたら、電柱にもぶつかるかもね」
「そうだよ。だから、スマホに熱中している現代人は、私たちなんぞには気にも留めないのだよ」
「……でも、電柱にぶつかる程スマホに熱中しているわけでもないだろ? 大概の人は、多分、歩きスマホをしながらでもぶつからないように気を付けてるよ」
「ぶつからないように気を付けていないから歩きスマホをするんじゃないか? 君はしないだろう?」
「うん」
「ほら。ぶつからないためだろう?」
「ぶつからないのもあるし、…そんなに歩いている時間に見る程スマホの中身って厚くないからね」
「…そうだ。…話がずれたな。…そう。だから、現代人は私たちを見てる余裕はないのさ」
「何も電車の中の万人が万人、スマホを見てるわけじゃない」
「万人だとも。少なくとも、人をジロジロ見るような奴らばかりじゃないだろ? 例え、そこに栗毛のウマ娘が居たとしても、ジロジロ見るのは失礼だと、大抵の人が思うだろう? 君がそうであるように」
田上もその考えには一理あったから、うーんと唸った。
「………そんなもんかなぁ…」
「…まぁ、…今からでもタクシーを捕まえるかい?」
これにまた田上はうーんと唸ったが、慣れない事をわざわざ慌てながらしても仕方ないので、結局、田上に残された道は、誰にも気が付かれないと信じて、電車に乗り込んでみるしかなかった。その後も、田上は少々の悩みをタキオンにぶつけながら、駅までの道を二人で歩いた。
駅から出て、二人は傘を差しながら歩いている。電車では偶然か必然か誰にも話しかけられずに済んだし、誰にも写真を撮られずに済んだように思う。少なくとも、堂々と写真を撮るような輩を田上は見つけなかった。こそこそと撮った者がいたとしても、それが分かるのは後日である。今日を心配したってしょうがないと、田上は無理に割り切った振りをすると、自分の頭の中からそれを追い払った。
頭の中から追い払えたのは、やはり、一つの難所だと思っている場所を、何もなしに乗り越えられたからだ。これで、もし、後日二人が一緒に出かけているところを撮られたなら、もう、今度は二人で山の奥か海外へと逃げるしかないのじゃないかと思った。
タキオンは、もう電車を過ぎたのだからマスクを取ってもいいだろう? と田上に呼びかけたのだが、田上としてはここは外なのでまだ不味い。田上は、例えそれが善良な一般市民であったとしても、ここに噂の二人が歩いていると悟られたくなかった。
タキオンはマスクが鬱陶しいものの、外したいという思いも強くなかったため、仕方なく彼氏の言うことに従った。本気を出せば、彼氏の言葉など恐れるに足らなかったが、ここでいざこざを起こしたくもないので、タキオンは大人しく従ったし、タキオンだって同様に、変な人間に出会って自分たちの間に変な出来事を起こされるのも勘弁だったので、邪魔臭く思いながらも大人しくマスクをつけていた。
家が近くなってくると、田上も少々ソワソワとし出して、「大丈夫かな?」とタキオンに不安げに言った。タキオンは元より楽観的だったから、「大丈夫だろう」と適当に答えて歩を進めた。
駐車場が近くなってくると、田上は、駐車場に人が居るのを気にしだした。田上が、目を細めて駐車場に居る人を識別しようとしながら「あれは、松山さんじゃないかな」と不安げに言った。タキオンは松山さんが誰だか知らないが、田上と同様にその人のことを見つめた。
「少し太り気味だね」
「じゃあ、松山さんかもしれない。…うん、多分そうかも」
「隣人?」
「うん。朝とか偶に会う」
「どうする? 少し時間を潰す?」
「…どうかな…。…すぐ行ってくれるのかな…」と田上は不安そうに松山を見つめる。
すると、駐車場の車で何か作業をしていた松山は、田上たちが歩を少し遅れさせた間に、移動を始めた。ただ、また歩調を戻せば、ドアへ入ろうとする松山とかち合う可能性があったから、田上はもう少し歩を遅らせて様子を見た。
松山は、両手に荷物を抱え、その上に傘も差しているから、ドアの開閉には手間取りそうだった。案の定、松山は一旦荷物を降ろし、傘を閉じ、荷物から鍵を探して開けるという手間取りを見せた。これには、タキオンも苦笑して、「見事にぐだぐだだったね」と評した。
この最後の難所を乗り越えると、田上は、急ぎ気味にタキオンを中へ入れた。そして、玄関の前にでも濡れた傘を置いて乾かしておこうと思ったのだが、女物の傘がここにあっては大変なので、狭い玄関に仕舞い込んでおいた。
狭い玄関を通り抜けて、畳の部屋に戻った時、田上は、ふーーと長いため息を吐いて「やっと帰り着いたー」といつになく嬉しそうな調子で腰を下ろした。タキオンも田上の隣に微笑んで腰を下ろしながら、「私も、あの家よりもこっちの方が断然我が家という感じがするよ」と言った。
田上は何も答えずに、漸く安心できる場所へと辿り着いて嬉しそうにしていたが、暫くすると、自分も手を洗いに行った。タキオンは、先にもう洗っていた。
田上は、手を洗ってきて部屋に戻ってから、また、ふーーとため息を吐いた後に、「明日も仕事だぁ」と力無くタキオンの横に座った。その後に、タキオンが「膝枕するかい?」と自分の膝を差し出してきたので、田上は「うん」と返事をして、その膝の上に寝転がった。
田上は、タキオンの顔をぼんやりと見上げた後、目を逸らして天井を見た。それから、手持無沙汰に周囲を見回してから、今度は疲れたようにため息を吐いた。
「また、あんな緊張をしないといけないのか……」
「……朝の出勤?」
「そう。……どうしよう」
「今回は、傘だったから仕方がなかったが、次は、私が一人で歩いて向こうまで行ってもいいよ?」
「…良いの?」
「良いとも。…まぁ、君にビクビクさせるのも申し訳ないしね」
「……お前一人に歩かせるのも申し訳ないけどな」
「…じゃあ、どっちにするんだい?」
「………それは明日でいいよ。…今日の夜に決めよう。あんまり考え事をしたくない」
「そうだ。私、買ったゲーム機を持ってきたよ。一緒にしようじゃないか」
田上は、然程乗り気な気分ではなかったのだが、彼女が楽しみにしていた事は自分も楽しみにしていた事であったし、ここで変に自分が乗り気じゃない気分を主張して、彼女をがっかりさせたくもなかったので、田上は直ぐに起き上がると「じゃあしようか」と声をかけた。
タキオンは、嬉しそうに口の端を上げて「うん」と頷いた。
田上と一緒にゲームをする前に設定が必要だったので、ここら辺の事情に詳しい田上が解説しつつ、ゲームへの準備を着々と進めていった。タキオンは、金が必要な所はもう迷いなく金を出して、話を先へ先へと進めようとした。田上も乗り気ではない気分ではあったのだが、同時に、乗り気でもあったので、少々変な心持になりながらタキオンと念を押しつつ準備を進めた。
そして、五十分程経った後に漸くゲームができるようになった。当初の田上の予定だと、もう少し早くできるはずだったのだが、このゲームのダウンロードの時間がかかるという事をつい失念していた。だから、この五十分の内の三十分程は、ダウンロードに費やされて、大いにタキオンを退屈にさせた。
仕方がないので、待っている間は二人共今までの疲れを癒すために、いちゃいちゃと抱き合って過ごした。こうすれば、タキオンの退屈も大分紛れる事となった。
ゲームのダウンロードが終わって、タキオンは念願のゲームをやっと開始した。田上も新しいセーブデータからそれを始めて、タキオンと同じスタートラインに立った。
そのゲームのメインテーマと共に、オープニングムービーが流れ始めた。
タキオンは、その映像を少量の感慨と共に見つめた。ゲームの準備にここまで手間取るとは思っていなかったから、その分感慨も湧く。田上もこのオープニングムービーを久々に吟味した後に、さっさとゲームを開始した。
タキオンも次いで、新しいセーブデータを作って、ゲームを開始した。するとここにも難所がある。キャラクターの体形や、顔の造形を決めろというのだ。田上は、キャラクター作りを今にも始めようとしているが、タキオンはこんなところで手こずらせられるのならば、堪ったものじゃない。こちらはもう五十分も待たされてしまったのだ。
だから、タキオンは、田上に少し付き合って、自分の動かすキャラクターの髪の色や目の色、体形を少し設定した後は、他にも設定できる項目があるにもかかわらず、すぐに本編を開始するボタンを押してしまった。
田上も、二人目のキャラクターなので、少し設定をいじっ、個性をある程度出したところで、ゲーム本編を開始した。二人共、性別は各々と同じ物にした。タキオンがウマ娘で、田上が男だ。
ゲームを始めると、また、ストーリーの初めの序章として、オープニングムービーとは別に、映像が流れ始めた。タキオンは、その映像をじっと見つめた。特に、深そうな物語性はない。ゲームを進行する上でのストーリーのように感じた。
田上は、自分のゲーム機は放っておいて、タキオンと一緒にその序章を見つめた。二人別々に見たとしても、音が遅れて聞こえてくるだけだし、田上はもう既にストーリーを知っているし、今はタキオンと一緒に居たい気分だったので、自分のゲーム機の音を消して、タキオンのゲーム機を肩を寄せて見つめた。
むしろ、タキオンには序章の映像よりも、肩を寄せてきた彼氏の方が気になったくらいである。タキオンが映像から目を離して、隣の彼氏の方を見ると、彼氏の方も自分を見てきていた。そして、二人で微笑み合うと、また映像を見つめた。
映像が終わると、タキオンは早速「で?何をするんだい?」と聞いた。最早自分で考える気のない口調だ。それに、田上は苦笑すると、「右上にやることが出てるでしょ」とタキオンの画面を見ながら言った。
「ああ、…会長に話しかけるとあるね」
「そう。そして、その赤い吹き出しがその会長だから、一旦それに話しかけて」
「はあ。…やることが沢山あるね。まださせてくれないのかい?」
「まだ、チュートリアルがあるよ。それが終わったら、もう俺とできるようになるから」
「近頃のゲームは始めるまでが長いんだね」とタキオンが言ったから、田上は、「大体こんなもんだよ」と反論した。
「おや、練習場に連れて行かれた」
「それがチュートリアル。そんなに長くないし、操作方法分からないで進めても面倒だろうから、ちゃんと操作方法は覚えてからしな」
「ん〜…、攻撃がXで、Yで武器をしまう。……ふむ。……ふむふむ。……君はもうチュートリアルを終わらせたんだな」とタキオンが田上の画面を覗いて言った。
「うん。俺はもう全部知ってるし」
「……うん。私もこんなところだろう」
「オプションから武器操作説明を見ると、もっと細かいのが載ってるよ」
「んん、変な事を私に言わないでくれ。早く始めたいんだから」
「おう」と田上は返事をすると、これから二人でするためにどういう場所へ赴けばいいのか、タキオンの画面を見つつ指示をした。
タキオンは、初めから終わりまで自分で考える気などさらさらなく、田上の言われるがままに動く意志を見せた。田上は、タキオンが本当にゲームをしたいんだろうかと怪しみもしたが、田上と一緒にゲームをしたいという熱量だけは、普通の人と同様にあったので、特にその疑心を口にすることはなかった。それに、そうやって自分に懐いてくれる彼女が少し可愛かった。
漸く、タキオンが待ち受けていた、田上とのマルチプレイができるようになった。二人は、主人公が初めに着ていた初期装備を身に纏って、クエストへと出掛けた。
田上は、自分が使い慣れた武器でプレイしても物足りないと思ったので、タキオンを補助できるように、サポートに特化した武器を持っていった。タキオンも、初期の武器では不満だったらしく、刀身が長めの剣を担いでクエストに行くことにしていた。
初めはやはりモンスターの方も弱く、田上には温く感じたが、タキオンはそれなりにモンスターの動きを読むのに苦戦して、「ああっ」とか「んっ」とか声を出していた。
それでも、田上のサポートもあって、死ぬということもなくクエストをクリアできた。このモンスターから出た素材をショップへと持って行って、武器や防具に加工し、己を強くするというのがこのゲームの醍醐味だ。
さらに、目の前には、素材が足りずに作れない強そうな武器や防具がぶら下げてあるので、これも、次へのクエストへとプレイヤーの歩を進める材料となっている。タキオンの手に入れた素材では、とりあえず、武器か防具のどちらかしか強化できなかったので、タキオンは一先ず武器を強化してみた。田上も同様であり、それほど変わらないとも思ってので、武器を強化した。
そして、ショップに並んでいる武器防具を散々見つめたあとに、タキオンが「次は、これを作りたいから、この素材を取りに行こうよ」
と言った。ただ、そこで問題だったのが、夕食の問題だ。もう五時を十分十五分ばかり過ぎている。夕食を作る時間だって要る。田上が、このことを説明すると、タキオンは眉を曇らせて少し時計を見つめた後に「あと一回だけクエストに行こう」と提案した。田上も終わる目処が近々にあるのならやぶさかでもないので、タキオンのその提案に乗って、あともう一クエスト出掛けることにした。
このクエストが終わると、田上は夕食を決めるために、タキオンと冷蔵庫を覗いていみたが、そう言えば、この中には冷凍のグラタンがあったということを思い出した。タキオンも十分に腹を満たせる量が揃っている。二人は、特に話し合うということもなく、手間も惜しいので、このグラタンを食べようということで合意した。
電子レンジで冷凍グラタンを待っている間、二人は、クエストには行かなかったが、ゲームを開いて、次に作る武器やら防具やらを吟味していた。タキオンも案外このゲームにハマってくれたようで、初めの態度とは違い、ゲーム性が分かれば、自分から動き出すようになってくれた。
それで、田上が「これに、オフライン専用のクエストがあるよ」とタキオンに教えてみたのだが、あくまでも、これをするのは田上としたかったかららしく、「オフラインはやらない」ときっぱりと断った。田上は、そんなタキオンの態度が可笑しくて笑ってしまったのだが、同時に、それ程までに彼女が自分に対して懐いてくれているのが嬉しくもあった。
夕食を食べている最中は、二人共ゲームを手放して、談話に意識を傾けた。タキオンは、テレビが入りそうな空間を少し見つめたあとに、「君、まだテレビ買ってないんだね」と田上に言った。田上は、グラタンを口に含んだまま頷いたあとに、「そう言えば」と答えた。
「買わないのかい?」
「…んー……大して買う義理もないしなぁ…。なにか観たかったら、ウマチューブでどうにでもなるし…」
「必要ないんだったら、買わなくてもいいじゃないかな?」
「……まぁ、当分買うつもりはない」
「それよりも、だよ。君、洗濯機はいつ買うつもりなんだい?」
「いつ? ……いつでも」
「もう全てコインランドリーで済ませるつもりかい?」
「んー……、まぁ、…事によるとね…」と田上は冗談で済ませようとしたが、タキオンの方は、田上が面倒臭がって洗濯機の事を考えまいとしているのが、手に取るように分かっていたので、田上の冗談には惑わされないで、言葉を続けた。
「洗濯機は買いたいと言っていたんだろ?」
「……まぁ、…成り立っているし、これでも良いかな…、と」と田上は、まるで女房に叱られている旦那のように頭を下げて、困った風にしていた。
「……君がそれでも良いって言うんだったら、私もそれ程口を挟みはしないがね。……私の理想としてはね。君と私が同棲するときに、慌てて洗濯機を買うよりかは、もうすでにここで買っておいたほうがいいんじゃないかなぁとも思うのだよ」
「……卒業したら同棲するんだろ?」と田上が机を見つめて考えながら言った。
「…多分、そうなると思う。……大学に入るにしても、私はここから通える程度のところしか行かない」
そう言われると、田上は困ったように、心が消耗されるように表情を曇らせた。
「………別の所でもいいんじゃない?」と田上は苦し紛れに言った。
タキオンは、田上に同情するように口角を上げながら答えた。
「君と同棲したいんだから、どこでもいいんだよ」
「……本当に?」
「本当。…だって、考えてみてくれ? あの時は、わざと遠い所の大学を選んでみたんだが、ちょっと考えれば、こんなに私は君の事が好きで好きでたまらないっていつも言っているのに、わざわざ遠い大学なんて行きたがるはずもないじゃないか。私の生活の中心に居るのはいつも君だよ」
「……俺…?」と田上は尚も困ったように机を見つめながら言った。
「そう。大好きだから」
「……あんまり、俺に縛られるようなこともしてほしくないんだけどなぁ…」
「……別に、何でもいいんだよ。第一、私は人並みに大学を卒業しようって領分で、その大学資格を持ってどこかに就職しようってんじゃない。…養ってくれるだろ?」
「……それは、…まぁ、…養う事には養うけど、……」と田上は歯切れ悪く黙り込んだ。
「養うけど、なんだい?」
「……養うには養うんだけど、……だから、…俺に自信が無いってのもあるんだけど、……あまりにも時期尚早しや過ぎないかって事」
「……仮に、…もし私たちが、大学行く途中で別れたとしても、私は大学に通ってるんだから問題あるまい。無論、私の学力で選べる大学はそれなりにある。頭は良い方なんだ」
「……んー……、そりゃあ、頭は良い。……ここが東京か…」
「んん?」タキオンは、田上の言葉の意味が分からずに聞き返した。
「…選択肢の幅があるって事。田舎じゃそうもいかない」
「鹿児島かい?」
「鹿児島もそう。まぁ、選択肢以前に、俺はあっちに引っ越したんだけど」
「大内県」
「そう。……ふぅ……、お前は……」と言ってから、田上は口にグラタンを含んだので黙った。タキオンが、続きを問うように見つめていると、田上は、グラタンを飲み込んでから言った。
「お前はすげえよ。…俺なら、十八で結婚相手を選ぶなんていう度胸はない」
「なに、女の方から君に寄ってくるよ」
「並の女じゃ俺はビビってる」
「私は君にとって並の女じゃないものね」とタキオンは嬉しそうに微笑んだ。
田上は、周囲に目を泳がせつつ、またグラタンを食べた。