「そういえば、洗濯機の話がまだ終わってないんじゃなかったかな?」とタキオンがまた話を切り出した。
「そうだっけ?」と田上は半分とぼけるような心持ちでそう言った。
「そう。…同棲の方に話が逸れて行っちゃっていたね」
「…そお…」
「…そう。……君が、コスパを気にして同棲の話を持ち出したのであれば、……。大学の内に子供を産むのかな…?」
「……子供ができれば、引っ越す可能性もあるかもね…」と田上は、他人事のように机を見つめながら答えた。
「……いや、……子供一人増えたくらいなら、まだここに住んでいても良いだろう?…産んだとしても、ここを離れる事はないから、特に、子供がまだ小さい時は。だから、大学入ってすぐに産んだとしても、まだ五六年はここに居てもいいんじゃないかな?…それで元は取れるんじゃないかな?」
「……人の親か…」と田上は自分の首をポリポリと掻きながら、さも嫌そうに、または困ったようにそう言った。タキオンは、この態度には何回も見覚えがあったから、それ程動揺はせずに言葉を返した。
「いずれにせよ、私だってまだ多少の怖さはあるよ。そりゃあ、少しは夢があるがね。…私だって、…人の親となると、…様々な不快な事に我慢できるかは分からないね。子供の夜泣きだったり、授乳だったり、面倒な事はあるだろう。……私たちどうすれば良いんだろうね」とタキオンは、多少なげやりに田上に言った。田上は、自分にそんな事を聞かれても困ると言ったような表情で、頭を左右に振った後に答えた。
「だから、来週の父さんちに行くのは、まぁ、俺にとっては良い事だったりするかもしれないな、って思った。諸々の相談はできる」
「うん。できないよりかはできたほうが良い。私も聞かせてもらおう」
「………洗濯機ね…」と田上は仕方がなさそうに呟いた。
「躊躇う理由はあるかな?金を気にするのであれば、多分、今洗濯機を買っても良いと思う。…それとも、単に面倒が理由かな?」
「……面倒っちゃ面倒」
「じゃあ、私が代わりに選んで、ここに持ってくる手続きでもしようか?…そもそも、いつもの店で買う?それとも、ネットで注文するかい?」
「どうしようかなぁ…」と田上が面倒臭そうに言った。考える気は無さそうである。ここで、タキオンが早口に捲し立てて、田上が考える事を強制するのも逆効果だと思われるので、タキオンはただ一言「どうする?」と聞き返し、答えを待つために少なくなりつつあるグラタンを頬張った。
田上は至極面倒臭そうに、んー…と唸って周囲を見回していたが、これは、悩んでいるふりであり、実を言えば、洗濯機を買うのは面倒臭いと決め込んでいた。それを、正面からタキオンに言ってしまうと、タキオンは正論をぶつけてくる。別に、正論が悪いというわけではないのだが、田上は正論にしろ悪論にしろ、頭の中のメモリを考えるという事に使いたくなかった。これを考えるのであれば、まだゲームの装備をどうするか考えた方がマシだ。
それで、暫く悩んでいるふりをして唸っていたのだが、またタキオンが返事を催促してきた。
「どうする?」
「んー」と田上は唸ったが、ここで、もう誤魔化すことはできないと察して正直に言った。「……面倒かな…」
「面倒なら、私が買ってやるんだがね」
「…お前だけの問題じゃないじゃん。結局、俺の物になるわけなんだから、洗濯機を受け入れる日の予定とか、金とか…そこら辺を考えてみると……、ちょっと面倒かなって」
「…そうか…。……じゃあ、今すぐじゃないにしろ、買うことを考えられる日は来るかな?」
「ええ?」と田上は困った声を出した。田上としては、もう考える気もなく面倒臭い。いつ買うかと聞かれても、金に困らないくらいの給料は貰っているので、わざわざセコセコとした金勘定をしなくてもいい暮らしをしている。コインランドリーもその一環である。
タキオンは、セコセコとした金勘定をしたほうがいいと思っているらしい。田上も時と場合によってはそういうことをするが、金は面倒臭さを解消するためにある。特に、金に困らないうちは。
だから、田上は、タキオンの考えを端から金で打ち消していた。それでも、尚タキオンは洗濯機を買ったほうがいいんじゃないかと提案してくる。田上は、もう洗濯機を巡っては、あの場所で喧嘩した思い出もあるので、あんまり触れたくはなかった。
だから、この状況をどう打開しようかと考えると、少々面倒である。この話に決着がつくにはどちらかが折れなければならない。そして、今この瞬間は、憐れにも自分の彼女として存在しているタキオンの人柄が良すぎるので、彼女の方が少し譲歩をしてくれた。考える猶予を与えてくれようというのである。しかし、洗濯機を買うのはどうしても譲れないようである。
タキオンの考えも十分に分かる。面倒事を無理矢理金で解決するのは良くないというのである。御尤もだ。確かに、田上は、洗濯機を買う事を『面倒だから』という理由で避けている。その田上の目の前から、『面倒』という二文字さえ消されれば、田上は恐らく洗濯機を買っていただろうと、自分でも分かる。タキオンの方も恐らく分かっているから、丁寧にこう聞いてくる。
こう考えると、少タキオンの事が憐れになった。しかし、今の所田上は『面倒』という二文字を目の前から消す方法を知らない。唯一知っているのが、『金』という一文字である。それでも、何も答えないで空気を悪くするとタキオンが可哀想だったから、田上は「まぁ」と頷こうとしたのだが、そうする前にタキオンが「考えるのは難しいかい」と更に譲歩を重ねてきた。田上は、それに「うん…」と頷いた。そして、つくづく自分には勿体無いくらいの美人で優しい彼女だと思った。
夕食が終わって後片付けをしている田上の周りに、タキオンが纏わりついてきた。田上には、タキオンのその仕草が殊に幼く見えたので、なんだか女子高生を騙しているようで悪い気分になった。そういう気分には不図なったが、この頃は調子が良い方である。
これを良い方と言って良いのかは知らないが、まぁ、田上はタキオンという人間が好きでもあった。もしかしたら、騙されているのは自分かもしれないし、反対に、自分がタキオンの方を騙しているのかもしれない。ただ、最近はそういう騙す騙されるについて考えるのが苦しいという事に気が付いたので、あまり考えようにはしている。それでも、不意に頭の中に浮かんでくることはあった。
『妻』という一文字がそこに在ったり、『嫁』という一文字がそこに在ったり、『奥さん』という三文字がそこに在ったりする。正直、こうやって、二十五になっても、結婚の事など何にも考えないでのほほんと生きてきた自分だから、自分と結婚したいという女性が現れてくれるのは有難い事だ。
こうやって、その心持ちを変えずに、この先五年も生きていたら、あっという間に三十になってしまう。四十になってしまう。そうなってしまう前に、結婚を志願してくれる女性が居たことは本当にありがたかった。女子高生だったとしても有難いものかもしれない。ただ、まぁ、女子高生か、成人女性かで言われたら、成人女性の方が遥かにありがたかったかもしれない。しかし、女子高生だって女性である。『結婚』という二文字を見つめる気のなかった自分には、十二分にありがたい存在なのである。有難い事には有難いが、……どうも、それが自分でなかったら、恋愛小説のように眺められることもできたかもしれない。
タキオンは、自分が女子高生であるという肩書に縛られてほしくないと言っていた。言うだろう。恋する相手に肩書で拒否されるのならば、その肩書を考えてくれるなと、大抵の人間ならいうはずだ。その肩書はあくまでも肩書であって、自分を構成する物ではないのだ。それをどうにかして伝えたがるだろう。
この恋に一つ失敗があるとしたら、自分が弱みを見せてしまった所か、タキオンと仲良くなり過ぎた所か、タキオンのキスを許してしまった所じゃないかと思う。いや、一つと言わず、今挙げた例は全て、失敗の一助になっていたのかもしれない。これも、以前に何回も考えた事ではあるが、タキオンが女子高生だという事を思い出すたびに、これらの事も一緒になって浮き上がってくるのだから、未だ解決には至っていないのだろう。
田上は、果たして、これらの事が本当に解決するものかと思う。そして、自分はそれを解決せずに、そのままずるずると引きずってタキオンと結婚するのか、それとも、その重みに耐えかねて自殺するのか……田上としては前者の方が可能性が高いように思えたが、その場合は、生きている間中、自殺が脳裏をチラチラと過るのだろうと思う。タキオンを若いうちからの未亡人になどしたくはない。
今からタキオンと別れたくないのは田上もそうだ。折角付き合ったし、何回も何回も話し合って、漸く落ち着いた心持ちになり、彼女を抱き締めるのにもあまり苦がなくなってきたというのに、ここで別れたい男児が日本のどこに居るのだろうか? 居たとしても数は多くないだろう。良ければ、親密になれた女性と一生を添い遂げたい。現代に生きる日本男児の大半はこう思っているのだと、田上は考えている。
そこの所に、田上の頭には――例え女子高生であっても? という言葉が飛び込んでくる。飛び込んでくるのだが、タキオンと一生を添い遂げたい田上は、それを見て見ぬふりをすることにした。その方がタキオンも喜んでくれるし、自分だって安心して彼女のことを抱き締められる。少し依存気味なところはあるかもしれないが、タキオンとしては、ぎゅっと抱きしめられるのは好きらしい。彼女に喜ばれれば、嬉しくなるのは男の性である。
田上は、食事の後片付けはすぐに済ませて、それらのことを考えていた。タキオンが風呂に入っている間だったり、自分が風呂に入っている間だったり。そうやってぼんやりと考え込んでいたが、元より、考える気のない問題なので、堂々巡りを結末とした。
最後に田上の頭の中に残ったのは、やっぱり、こんな自分に対して結婚したいと申し出てくれる女性が居ることは、結構幸せなことなんだろうなぁという感想だった。今はタキオンの事が大好きであるという方に傾きつつある田上だった。
外は雨が降っていた。開けていた寝室の窓の隙間から、冷たいような涼しいような風が入ってくる。タキオンは、それを嬉しがって、「涼しいねぇ」と田上に呼び掛けた。田上は、彼女の笑顔を見ることが幸せであるから、田上も嬉しそうに微笑んで「うん」と静かに頷いた。
家は静かだった。窓の隙間から、外に降る雨の音が心地よく二人の間に流れてくるくらいだ。そんな中で、二人はおもむろにゲームを取り出して、先程の続きをし始めた。一時間から一時間半かそこいら続けると、タキオンも飽きて、二人はゲームをしまった。
田上は、元より彼女の幸せな笑顔を見るために生きているような人間なので、彼女が飽きてゲームをやめることに何の苦も見出さなかった。
田上としては、彼女が幸せであればある程こちらも嬉しくなってくるのである。その為にお道化たりはしないが、心底惚れきっているような顔で彼女の髪を撫でたりする。そうすると、彼女も嬉しそうな顔でこちらを見てくるので、また、田上も同じように嬉しくなって微笑んでいた。
ゲームを終えた後は、二人共寝る前の段階まで差し掛かっていたが、食卓の部屋の電気を消したのみで、まだ、自分たちが寝る部屋には煌々とした明かりをつけて、布団の上で抱き合って寝転がっていた。ともすると、二人はそのまま寝落ちてしまいそうだったが、少なくともタキオンはこのまま起きるつもりで田上と抱き合って言葉を交わしていた。
会話の内容は、また、祖母との談話の事をほじくり返していたり、ゲームの事だったり、甘い囁きだったりした。ただ、甘い囁きは程々にしなければ、彼の方に誤解を与えかねないので、慎重に少しずつ少しずつ吐き出していった。田上の方も、好きだと返してくれたので、一応の所は上手く行ったようだった。
タキオンは、まだこの時間、この日を、一分一秒でも長く感じて、田上との一時をこの身で享受できる限り享受していたかったのだが、今日という日も夜闇によって終わりが来るようだった。
タキオンは、田上と同じ布団で寄り添い合いながら寝ることもやぶさかではなかったので、タキオンの意識が眠りへと落ちるその一瞬まで、彼のことを感じられるように、ピッタリと寄り添いながら眠りに就いた。
朝、田上が起きると、田上の首に腕を回して、体には足を乗せてタキオンが眠っていた。いや、眠っていたというのはほとんど嘘で、田上よりも先に起きたタキオンが、田上が眠っている事を幸いにして、体を密着させてまた二度目の眠りに就こうとしているだけだった。
田上が自分の体の上にある重みに気が付いて身動きをし始めると、タキオンの体も眠りに落ちようとしていたのから目を覚まして、田上の事を逃さないようにぎゅっと力を込めた。田上が、傍にあった顔を見つめると、タキオンの顔は悪戯小僧のように微笑んでいた。
田上は、まだ少し頭の中に寝惚けがあったので、少しの間はタキオンにそのようにして抱き着かれていたが、やがて、ふぁ~~と大きな欠伸を一発放つと、タキオンに「おはよう」と呼びかけた。
タキオンは、何も答えなかったが、田上から見えないように顔を布団に埋め、また、田上に巻きつけていた緩んだ手足に再度ぎゅっと力を込めた。ウマ娘の力だったので、田上の体はピクリとも動きそうになかった。けれども、時間にはまだ余裕があったので、田上はまたゆっくりと「おはよう」と声をかけた。
二回目となると、タキオンも「おはよう」と挨拶を返してくれたが、田上の体を抱きしめる腕の緩まる気配はなかった。田上の頭はまだ寝惚けから覚め切っていなかったので、ともすると、そのまま二度目の眠りに落ちてしまいそうだったのだが、それではいけないと途中で思い直すと、タキオンにまた「起きたいから腕をどけてくれない?」と頼んだ。
タキオンは、悪戯っぽく嬉しそうに「嫌だ」と答えて、田上の肩に自分の顔を埋めた。嫌と言われればどうしようもないのだが、田上も動き出さなければならないので、「タキオン、トイレに行きたい」とも声をかけた。
しかし、タキオンは田上の肩に顔を埋めながら「そうやって、私から逃げるつもりだろう」と拒否した。田上の頭はまだ完全に冷めきっていない。だから、朝特有ののんびりさで「タキオーン」と適当に天井に向かって呼び掛けた。タキオンは「嫌だ」と答えた。これではどうしようもないので、田上は次の策を考えて、それを実行に移した。
「……タキオンの事を抱き締めるから、この腕ちょっとどけてくれない?」
「……本当?」と田上の肩からくぐもった声が聞こえた。
「本当。…お前を抱き締めてから、トイレに行くよ」
「………じゃあダメ」とタキオンには呆気なく拒否された。これには田上も少しイラッとしたが、ここで自分の機嫌が悪くなってもしょうがないので、できる限りタキオンも田上も譲歩できるような策を考えた。
「じゃあ、俺の事抱き締めてていいから、トイレの方に行かせて? トイレの前までお前は抱き着いてていいから、トイレに入る一瞬だけはちょっと一人で入らせて? …お前も、俺がここで漏らすのは見たくないだろ?」
「……見ても良いかもしれない」とタキオンが、肩に顔を埋めながら答えた。田上が、それに流石に困ったような注意するような声で「おい」と声をかけると、タキオンも「冗談」と言った。
それから、田上を抱きしめる腕を緩めると、顔を上げて「私をお姫様抱っこでトイレまで連れてって」と言った。田上も、それくらいの事は苦に思う事もなくできるので、縛られることのなくなった自分の体を立ち上がらせて、タキオンを両手でひょいと持ち上げると、トイレへと五六歩くらいでひょいひょいと歩いて行った。
流石にこの狭い廊下でタキオンの様な成長し切った女性を横向きに抱くのは難しかったから、田上は少々カニ歩きになりつつ、タキオンをトイレの前まで運んだ。そして、下ろそうとしたのだが、ここでタキオンが自分から立とうとしなかったので、少々面倒なことになった。
タキオンは、田上が面倒であればあるほど嬉しそうな顔をしていたのだが、流石に、このような面倒な事を彼氏に押し付け過ぎると、また怒られる結果になってしまうから、冗談はほどほどにして、嬉しさを満喫した後に、タキオンは立ち上がって、田上がトイレに入るのを許可した。
田上がトイレから出ると、タキオンもトイレに入ったが、その際は田上にトイレの前で待機するよう命じた。田上も付き合いの良い人間だったので、タキオンがトイレに入っている間、大人しくトイレの前で黙って待っていた。
タキオンがトイレから出てくると、またお姫様抱っこを命じられたのだが、そんなに両手を塞がれると、朝の準備も真面にできないので、田上はそれを拒否した。代わりに、タキオンは、田上の後ろに張り付いて過ごすという代替案を提案してきたので、田上はそれを採用し、二人でペンギンみたいにしながらよちよちと歩いた。
田上が朝食を作っている間、タキオンは田上の邪魔になり過ぎない程度に、その周りにくっついて過ごした。タキオンも寝惚けから解放されると共に、その面倒臭さも失くなっていったようだった。
代わりに、甘え上手にはなったから、田上は甘い恋人の様な気分になって、心持ちが複雑だった。嬉しくはあるのだが、どうも、恋人過ぎるというか、タキオンの甘え上手に、自分が上手く乗せられているというか、別にそれでも嬉しかったのだが、この現状を認め切れていない自分もいた。
それでも、まぁ、普通の恋人の様に穏やかな様子で、二人は焼かれた魚の切り身を白飯と共に食べた。そして、出勤時はどうするのかという話になった。
田上としては、田上が電車で行って、タキオンが歩きで行くという策で決まりの様な気はしていたのだが、それはどうも自分の良心というか、男気というか、変な物が咎めていた。
今回の主題はそこだった。タキオンは、元より、歩きで行っても全然構わないという意見である。意見が揃わないのは、田上が躊躇っているからだ。男が電車で、女が歩きなど、この男女平等の時代を目の前にして、あっていいのだろうかと田上の気が咎める。男が女に苦労を掛けるのじゃない。女が男に苦労を掛けるのじゃない。どちらの性別も、お互いに苦労を掛けてはいけないというのが、完璧主義者の男女平等論だった。いやいや、男女平等とは夫婦がお互いに手を取って助け合うような事を言うんですよ、という人も居るだろうが、この混沌とした時代でそれだけが男女平等というには浅はかだろう。
もしかすると、混沌は混沌なりに、完璧な男女平等論がこの世の中で囁かれているのかもしれないし、囁かれていないのかもしれない。田上にはそこの所が分からない。ただ、男女平等の時代に育った田上は、男こそが犠牲になるべきじゃないのかと思った。
こう思うと、田上の男女平等論は、少し男が下になっているような気もする。いや、女はか弱いという偏見や道徳があるから、男が犠牲になるべきだという考えが生まれているのかもしれない。
だから、元々は、女が下で男が上という考えなのかもしれない。その天秤を釣り合わせようとした結果、男を犠牲にして女を上げるという結果になっているのかもしれない。
そもそも、ウマ娘は身体的に、全く以てか弱いなどという言葉とは正反対の方向に位置しているのだが、ヒトの女性と然程変わらない容姿をしているために、少々混同しがちである。また、男と違って、ウマ娘はそれ程自分の力に驕りを持たないため、全体的な性格はヒトの女性とそれほど変わらない。ただ、普通のヒトよりかは圧倒的な力を備えているため、タキオンの様に我儘になると、その分扱いが面倒臭くなる。
従来の考え方で言えば、ウマ娘は運動能力はあるため、肉体的な酷使は然程気にならないのは男性も心得ている。ただ、田上を目の前にしたタキオンであれば、ヒトと同様、心のか弱さも田上に見せているのである。
道徳を持っている田上であれば、身体にしろ精神にしろ、か弱い人間には無理をさせたくないという心が働く。自分の心の弱さも差し置いてそう思ってしまうので、事は面倒だ。これは、そもそも男女平等という問題ではないのは、タキオンの目には明らかであるが、田上の目には男女平等という言葉がチラつく。男尊女卑という言葉がチラつく。女尊男卑という言葉がチラつく。それがチラつくことによって、田上はどちらへ進めばいいのか分からなくなり、躊躇いばかりを覚えていた。
ただ、田上は、この問題についての行き着く先は、やはり、タキオンが歩いて、自分が電車という結果になるのだろうと考えていた。殊に、タキオンはウマ娘であるから、単に女性を歩かせることよりも罪悪感は少ない。自分が歩いて行くという手もあるのだが、こっちには定期があるし、タキオンの方が足は速いのだから、その方が効率がいい。そして、元より、タキオンはその条件で合意しているのだから、文句のつけるところはないだろう。この躊躇いも、やがて、残り時間も少なくなって、タキオンに諭されると共に、――まぁ、仕方がないか、という物に変わっていった。
タキオンは、昨日差して帰った傘を片手に持ちながら、温い晴れ空の下を田上と共に歩いた。雨が上がった後の水溜りを彼氏と共に歩きながら見つめるのは楽しかったが、駅まで歩くとそれも終わった。二人は駅の手前で片手を上げながら別れると、それぞれの道に立った。
田上は、正門からタキオン共に入るのも嫌そうだったため、向こうの駅についたとしても、タキオンは待ちたくなさそうだった。タキオンも田上のその不安については熟知しているので、特に駄々をこねる事もなく、大人しく一人で歩いて行った。そのような仕草に、むしろ、田上は申し訳なくなったような気がしながら、彼女を見送った。
電車で通りを見下ろしながら、田上が通り過ぎ去っていくと、道の方にタキオンが見えた。タキオンも電車の方に気がついて、速度を上げつつある電車の中を見ようとしているように、田上には見えた。少なくとも、タキオンは、電車に気が付くと、顔を上げて見ていた。しかし、田上には気が付かなかった。田上は、自分のことを探していたであろうタキオンの顔を、少しの間車内で思い出していた。
駅に着くと、田上はすぐに歩き出した。駅から出たところで、タキオンが見つかれば一緒に行ってみようという気も起こって、キョロキョロと見回してみたのだが、どうやら、その辺りには居ないようだった。タキオンも流石に、電車に追いつけるほど全力で走ってはいないだろうと思われるから、恐らく、田上より後ろを来ているのだろう。走っているのかどうか定かではないが、走っているとしたら原付か自転車くらいの速度で走ってきているだろう。一応、タキオンが歩いてでも間に合うような時間には家を出た。
田上は、後ろからタキオンが走ってきたりはしないかと、度々後ろを振り返りながら、トレセン学園までの道を歩いたが、結局、正門を潜り抜けてもタキオンは田上の所までやって来なかった。きっと、のんびり走ったり歩いたりしているのだろう。
田上としても、正門で見つからないために、その方が良かったような気もするし、反対に、タキオンと一緒に入った方が良かったように思った。それで、帰りは一緒に電車で帰ろうかなとも思ったのだが、今度は、田上がトレーニングにいつも着ていく服だったのでどうしようかと思った。
このような白シャツ黒半ズボン姿の男性は、そこら辺の道端にも居る。ただ、トレセン学園でも、この類の男性をトレーニングで見かける。田上は、自分がトレーナーかバレるかどうかと思った後に、考える事が面倒くさくなって、考えるのをやめた。
田上がトレーニング場の土手に座ってぼんやりとしていた三分後くらいに、タキオンが駆け足でやって来た。
「いやぁ、ウォームアップはできたんじゃないかな?」と持参のタオルで汗を拭きながらそう言った。田上は、タキオンの状態を観察しながら、少々ぼんやりとした声で「そうだね」と答えた。まだ、練習が始まるまでは十五分ほどある。少々早く来すぎてしまったかもしれないとも思ったが、別にこのくらいでも良さそうな気はした。まだ、トレーニング場には、自分のチームのメンバーは来ていないが、もうそろそろ来始めるころだろう。
そう思って、二人でぼんやりと土手に寝転がっていると、タキオンが落ち着いた直ぐ後くらいに、土手の上の方から「おはようございます」とリリックが声をかけてきた。そして、こうも言った。
「『鳶の名』読み終わったので、続き貸していただけないでしょうか?」
「ああ、いいよ。…明後日かな?…その時に持っていくよ。また取りに来て」
「ありがとうございます」とリリックは律儀に答えると、田上たちの横にある階段の方に行って、そこを下り、下の方で待機を始めた。大概、この子は行動が早いので、田上が来る頃には、もう待機をしてくれている。どうも、トレーニングの事をそれ程退屈だと思っていなさそうな態度だったので、田上としてはありがたかった。
それから、四、五分は誰も来なかったが、マテリアル、エス、そして、最後に見学に来たロードムービーがニコニコしながらやって来た。三人は相次いで来て、マテリアルとエスは、そのまま下のリリックと合流したのだが、ロードムービーは、部外者なので軽々しくその輪に入るわけにもいかず、田上に向かって「私はどうしたらいいですか?」と聞いた。田上は、まだ始まってもいないトレーニングなので、どうしてくれても構わないと思って、「トレーニングが始まるまで待っててください。始まったら呼ぶので」と答えた。
「どこで?」とその子は当然言った。田上には、当てもないので「どこかそこら辺で」と少し考えてから答えた。
その子としては要領を得ない返事だ。
田上としては、少しその子が邪魔だった。気遣いをして、具体的な場所を答えようと思えば答える事もできるのだが、今は気遣いもしたくないくらい、少し休憩していたかった。休憩と言うと言葉が変かもしれない。体は疲れていないのだが、頭のどこかが疲れているような気がする。また、上手く頭が回らないような気がする。
その頭の引っ掛かりを癒すために、トレーニングまでの残り僅かな時間を使って、田上は回復しようと決め込んでいた。そんな中に、脳みそを使う話を持ち掛けないで欲しかったのだ。
幸いなことに、その子は田上の邪険などあまり気にも留めないで、大人しく階段の所にちょこんと座り込んだ。それを見ると、田上も多少申し訳なく思った。
田上のぼんやりとした具合の悪さも、特に癒やされることもなく、四、五分というのは本当に短い時間なのだと痛感させられるほど、時間は簡単に過ぎて行った。
田上は、腕時計を確認すると、丁度九時ぴったりになっていることを確認した。それから、ふーとため息を吐きつつ半身を草地の上に起こした。タキオンは、田上の隣の付かず離れずという位置で寝転がっていた。普段のタキオンならば、こういう場合にはくっついてきたがるはずだから、外だからと田上に気を遣ってくれているのだろう。
田上には、その優しさが心に染みるような染みないような気がしたし、くっついてほしかったような、ほしくなかったような気もした。
とりあえず、話を戻してみると、起き上がった田上に反応して、タキオンは「もうトレーニングかい?」と声を掛けてきた。田上は、普段よりも少し気落ちのした声で、「うん」と頷いた。ともすると、落ち着いているときの田上の返事と似ていたので、タキオンには、それが落ち込んでいるのか、落ち着いているのかの判別はあまりつかなかった。それでも、とりあえず激しく落ち込んでいるという事は無さそうだったから、何も触れずに話は先へと進んだ。
田上は、タキオンに返事をした後に、また、気怠そうにふーっとため息を吐きながら立ち上がって伸びをした。それから、一瞬の躊躇ったあとに、少し遠くの階段でスマホを見つめながら座っていたロードムービーに「もうすぐ始めます」と声を掛けた。ロードムービーは、しっかりした「はい」という返事をして、スマホを手提げにしまった。
田上が歩き出すと、タキオンもその後ろについて、土手を下り始めた。田上は、そんな彼女に一度も振り返らないなんていう無情なことをすることもなく、土手を下りつつあるタキオンを振り返って、ついてくるのを待った。
タキオンは、嬉しそうに微笑みながら、田上の横について歩き出した。そんな二人を後ろから見つめながら、ロードは――本当にこの二人は付き合っているんだな、と確信を深めたが、田上がこちらの方も心配するように見つめてくれると、ロードは階段を下り始めた。
マテリアルとエスとリリックは、先に来た二人を素直に出迎えて、あとから来たロードもすんなりと受け入れた。リリックは、あの逆スカウトの場にはいなかったが、ここに見学者が来るというのは予めLANEで知らされていた。だから、礼儀正しく「ロードムービーです。今日はよろしくお願いします」と深々頭を下げたロードを見て、――こんな人がチームに入るかもしれないのかぁ、との感想を抱いた。
リリックの初対面の印象は良い方だった。別に、チームに入ってくれても良いんじゃないかと思った。快活で面白そうなので、チームが賑やかになるんじゃないかと思った。田上やエスやタキオン辺りは、ロードを警戒していたが、マテリアルは大概リリックと同じ感想を抱きつつ、まだ、完全に心は許さずに見定めようとしていた。
田上は、軽く皆にロードの紹介をした後に、今後の予定について話し始めた。今後の予定と言っても、夏に走る予定はないので、大概大雑把だ。タキオンには、天皇賞・秋を目指して、とりあえずトレーニングをしようかと言ったが、反応はあまり芳しくなかった。別に、落ち込んでいる調子はないのだが、かと言って、やる気がメラメラと燃えているでもなし。言われたから、やってみる気はあるのだよ、といった雰囲気だった。
エスについては、未勝利だが、この前は惜しかったので、また同じくらいの距離を挑戦してみようかと言ってみた。エスにも、特に展望はないので、田上の言うままで良かった。リリックについては、少々妙なところもあったので、「どうしてみたい?」と聞いてみた。
リリックは、走るのは好きだったが、レースは苦手だったので、「さぁ…?」と答えた。田上にも、リリックが答えを誤魔化そうとしたのが伝わったが、レースが苦手だというのはもう初めから田上も心得ていたので、特にその真意を問いただすという事もしなかった。ただ、無理に話を勧める事もしないでこう言った。
「じゃあ、リリーさんのトレーニングは一応続けていくけど、…レースは緊張してるみたいだったからね? 一応続けていくけど、……俺はもう少しリリーさんの話を聞いてみたいと思っててね? …まぁ、俺じゃなくても良いんですけど、…マテリアルさんとかでも。…無理に、俺に話す必要もなく、…多分、マテリアルさんの方が話しやすいだろうから、話すんだったらそっちに話してみてくれてもいい。勿論、俺でも良いんだけど。…リリーさんが気にしている事とか、悩んでいる事とか、…例えば、レースで緊張してしまうとか、あったらマテリアルさんでも俺でも話してみてほしい。マテリアルさんも俺も全然怒る様な事はしない。見て、マテリアルさんの顔」
そう言って、田上がマテリアルの顔を指さしてみると、マテリアルはわざとらしく得意げな顔をして見せた。
「あんなに剽軽なお姉さんだから、相談だったらなんでも優しく乗ってくれる。……とにかく、なんか俺のトレーニングとか、マテリアルさんのトレーニングとか、レースとかについて思うことがあったら、いつでもいいから言ってみて。マテリアルさんのトレーニングに不満があるんだったら、俺に言ってみてもいい。マテリアルさんもそのくらいで人を恨む人じゃないし、真正面からそれを言ってみるのが嫌だったら、俺が代わりに言ってあげるって事もできる。…とにかく、言ってみてほしいというより、ちょっと俺たちの為に言ってほしいって所があるかな? 俺のチームの理想像は皆仲良くが良いから、不満とかも改善できる限りはしてみる。最近は、タキオンの方も大人しくなったから、言いやすいとは思うけど…」と言いながら、田上はタキオンの方を見た。タキオンは、少々不平な物言いに含みのある表情をして口を開いた。
「大人しくはなったよ。まぁ、わざわざ後輩が君に相談するのを邪魔するようなことはしないさ。…寛容だからね」
そう付け加えて、タキオンは黙った。田上の物言いに不満を覚えているようではあったが、確かに、以前よりかは親しみやすい言動になっているように、リリックは感じた。その後に、田上がまた口を開いた。
「まぁ、とりあえず、リリックさんのレースは…エスさんと同じ辺りにしたいとは思ってる。その時期くらいに、タキオンも一レースくらいはできたら良いとも思っているんだけどね」と言って、田上はまたタキオンを見た。是とも否とも言い難い表情だった。
「まぁ、でも、夏合宿は行く予定なんだよね?」
田上はリリックに顔を向けて言った。
「はい」とリリックが答えた。「母が楽しんで来いって」
「そう。楽しむことが先決だからね。…具体的な予定はまた後日。…ロードさんは、…どうします? とりあえず、僕らと一緒に一メニューくらいこなしてみますか?」
「ああ、はい。できるのであればしてみたいです」とロードは、律儀に改まって答えた。
「じゃあ、ちょっと考えてからしてみましょうか」と言って、トレーニングは漸く本番となった。