ケロイド   作:石花漱一

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大阪杯編
十一、ダイワスカーレット①


十一、ダイワスカーレット

 

 田上たちが帰ってきた数日後、スカーレットとタキオンは、偶然相見える機会ができた。一月九日の出来事だった。タキオンは、今日も研究室に行こうとしていたところだった。今は冬休みなので、誰もいない廊下を一人でスタスタ歩いていた。今日のトレーニングはなかった。ついでに言うと、昼食もなかった。それは、自身のトレーナーである田上が、遊びに出かけるからということだった。それならば朝に作る分には関係ないじゃないか、とタキオンは文句をつけたが、その言葉は通らなかった。どっちにしろ、田上には、この日にタキオンの弁当を作る気がなかったのだ。田上にそのことを言われると、タキオンは「冷たいぞ!」とまたも文句の言葉を投げかけたが、上手くあしらわれただけだった。そのため少し機嫌も悪かったのだが、スカーレットと会うとその機嫌の悪さも途端に引っ込んでしまった。

 スカーレットは、長いふわふわしたスカートの様なズボンと、その上に七分丈の白い服を着ていた。そして、暗い廊下をふらふらと歩いていたのだが、タキオンを見つけると途端に笑顔になって「タキオンさん!」と呼びかけた。

「タキオンさんのトレーナーさんって、まだ就寝中だったりしますか?トレーナー室に行ってみても誰もいなくて…」

「トレーナー君に用があるのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞くと、スカーレットは「ええ」と少し躊躇いがちに答えた。その様子をさらに不思議に思いながらも、タキオンはこう言った。

「トレーナー君なら今日は出掛けるはずだけど…、何も聞いていないなぁ。…今、十時頃だろ?トレーナー室にいないってことは、…いないのかなぁ?」

 そう言って、タキオンもスカーレットに聞き返す始末だったから、スカーレットは困ったようにハハハと愛想笑いをした。

「…では、タキオンさんもご存じないんでしょうか?」

 スカーレットが気を取り直してそう聞くと、タキオンは考え込むように唸った。そして、言った。

「生憎、スマホも今手元にはないからなぁ。…多分いるんじゃないのか?トレーナー寮に。なんなら今呼んできてもいいが」

「いえ、大丈夫です。自分で行って確かめてみますので。…お手数おかけしました」

 スカーレットがそう言って、頭を下げ、そそくさと去っていくのをタキオンは、少しぼーっとして見ていたのだが、不図思いつくとスカーレットの背を追いかけ言った。

「私も行ってみるよ。トレーナー君に少し小言を言いたくなったからね」

「本当ですか?」とスカーレットは、顔をにわかに輝かせたが、すぐにその輝きを落として、考え込んだ。何か悩みがあるようだったが、タキオンが何か言う前にスカーレットはその顔にまた輝きを戻らせてこう言った。

「すみません、少し考え込んじゃって!では行きましょう」

 タキオンにはやっぱり何が起こっているのか分からず、隣で歩いている横顔をじっと見たが、スカーレットがこちらを見つめ返すと、慌てて、考えていた事とは別の事を言って気を逸らした。

「君の服、いい感じだね。どこで買ったんだい?」

 タキオンは、いい話題を持ってこれたようだった。大先輩であるタキオンに服のことを褒められてスカーレットは嬉しそうに頷いて、「~~で買ったんです!」と言った。それから、トレーナー寮の前まで話を弾ませながら二人は歩いた。

 

 トレーナー寮の前に着くと、数人の男の集団がいたが、タキオンはその中に田上の姿を見つけて、喜びの滲む大きな声を上げた。すると、男たちがそれぞればらばらにタキオンの方を振り向いて、その中でただ一人ベンチに座ってスマホを見ている田上に声をかけた。

 田上が目を上げると、すぐにタキオンを見つけて顔をしかめた。すると、タキオンはその顔を見たから、途端にこっちも顔をしかめて表情を曇らせた。そして、スカーレットに田上の方を指差しながら言った。

「あの顔を見てごらんよ、スカーレット君。私を見てあんな顔をしたぞ。酷いなぁ、トレーナー君は」

 タキオンが、嘆き悲しみ被害者の様な面をしてそう言うと、その演技らしさが可笑しかったのかスカーレットがクスクス笑い声を立ててこう言った。

「相変わらず、仲がよろしいんですね。お二人は」

「そんなことはないさ!」

 タキオンが、少し大きな声を上げた。

「昨日も少し口論をしたばかりだよ。お弁当を作ってくれないから」

 タキオンがそう言うと、さらにスカーレットはクスクス笑って、タキオンを見つめた。そして、田上の方を見ると「私にもお二人の様に仲の良くなれる人が見つかるでしょうか?」と独り言のように言った。

「どうだかね…」

 タキオンは、少し機嫌を悪くしたようで、ぶっきらぼうにそう言うと前の方を見つめた。相変わらず、田上はしかめっ面で、迷惑そうにタキオンを見ていた。

 

 タキオンが田上の方に近づいていくと、田上の柱の様な友人らしき男たちの中から田上が声をかけてきた。

「何か用か?」

「いや、スカーレット君が用があるって言うんだよ」

 タキオンが、そう言って隣のスカーレットを見た。すると、スカーレットは不安げにこう言った。

「もしかして、今から出掛けるところでしょうか?」

「いや…」と田上は、否定しようとしたが、仲間たちがいることを思い出して、慌てて座っているベンチから仲間たちの顔を見上げた。仲間たちもまた困惑しているように田上の方を見返したが、その中にいた霧島がこう言った。

「少しくらいだったら俺も大丈夫だけど」

 すると、この中で一番背の低い、スカーレットくらいの身長の田中が言った。

「俺も全然大丈夫」

 その声に続いて、全員が「大丈夫だよ」と口々に言うと、田上は今度はスカーレットの方を見て言った。

「少しだけなら大丈夫って言ってるけど」

「……少しって具体的にどのくらいでしょうか?」

 そう言うと、田上は霧島の方を見上げた。霧島が、この遊びの予定を立てた企画立案者だったからだ。だから、あまりこの計画会議に参加していなかった田上は、予定も分からないので霧島を見上げた。すると、霧島が困ったように頭を掻きながら言った。

「少し?……一応、予約して場所借りて遊ぶからなぁ。……あんまり時間はとれないかも」

「そうですか…」

 スカーレットが力なくそう答えた。そこで、タキオンが少し興味を持って聞いた。

「どこで何をして遊ぶんだい?」

 田上が答えた。

「お前には関係のない場所」

「ちょっと冷たくないかい?」

 タキオンが少し表情を曇らせ、怒りながら言った。すると、霧島が諫めに出てきた。

「あんまり冷たくするなよ、田上。…今日は、体育館でバドミントンをしに行くんだ。一つのコートしか借りられなかったから、皆で休憩しながらするんだけど、アグネスさんとスカーレット?さんもくる?」

「いや、やめとこう?ウマ娘混ぜても俺たちがボコボコにされるだけだし」

 田上が、慌てて霧島の狂言を止めようと入ったが、霧島はハハハと笑っただけで田上の言葉は無視した。そして、返答を求めるように二人のウマ娘の方を見た。

 タキオンは、乗り気のようだった。ただ、まだ少し考える時間が必要だったようで、顎に手を当てながら、「ふむ、バドミントンか…」と呟いた。しかし、スカーレットの方は、言われた当初から参加する気はなかったようだ。困ったように愛想笑いをした。それでも、断る事ができなかったようで、何も言うことをしなかった。それを見かねたタキオンが「別に君は行かなくていいんだよ」と言った。すると、またもスカーレットが不安げな顔をしたから、「何かあるのかい?」とタキオンは聞いた。

 スカーレットは、至極言いにくそうに言った。

「……私、どうしても近くタキオンさんのトレーナーさんとお話をしたいんですけど」

「…だそうだけど」とタキオンは、田上の方を見たから、田上も言った。

「じゃあ、…いつ話す?俺は明日にでも時間取って話してもいいけど」

「では、明日の昼にお食事しながらカフェテリアの方でお話しできますか?」

 田上は、「ああ、いいよ」と頷いた。すると、会話の中にタキオンがしゃしゃり出てきて言った。

「それなら、私も同行していいかい?カフェテリアだろ?スカーレット君に悩みがあるのなら、私も相談に乗りたいし」

 スカーレットが、少し考えた後「いいですよ」と答えたから、タキオンはまた言った。

「そしたら、トレーナー君。明日の昼食もいらないや。作らなくていいよ」

「了解」と田上は、頷いた。そして、そこで話は終わりかに見えたが、霧島が田上にとって余計な一言を発した。

「…それで、二人は一緒にバドミントンしに来るのか?」

 その言葉に田上は、しかめっ面をしたが何も言えなかった。それは、タキオンがすぐさま「私は行くよ」と答えたからだ。

「ちょうどトレーナー君と試したい薬があったんだ」

 そうタキオンが言うと、仲間たち数人がクスクスと笑い声をあげた。田上はこれが嫌だったのだ。ただでさえ、タキオンとどこかに出かけるには気を遣わなければならないというのに、その気遣いを仲間たちにはからかわれるのだ。だが、どうこう言っても、タキオンはついてくるのだろう。それに、仲間たちの手前、タキオンがついてくるのを止めるのもままならないだろう。田上は、さらに深くしかめっ面をし、ふぅとため息をついた。

 スカーレットは、今度は「私は遠慮しておきます」とはっきり言って立ち去っていった。それを見送ると田上は、一応タキオンにこう提言した。

「お前が来てもつまらないだけだぞ。なんて言ったって、俺たち人間なんだから。バドミントンで何人でかかったって、お前に勝てないんだから」

「それなら、つまらないなりに楽しむさ。…勿論、つまらなくて暇で暇でしょうがなくなったときは、君が相手をしてくれるのだろう?それに、今回の薬の効果は身体に影響を及ぼすものなんだ。バドミントンがてら、体を動かしてくれれば、私は楽しめるよ」

 実のところ、田上にはこの遊びであまり体を動かす気はなかったのだが、この言葉で少なくともタキオンが満足するまでは体を動かさねばならないことが決まってしまった。どのくらいで満足してくれるのかは分からないが、こういう時にタキオンがすぐに満足することはまずあり得なかった。

 

 やがて、タキオンと霧島が二言三言話した後、タキオンは動ける服装をしに寮に着替えに行った。そのついでに研究室から薬も取ってきたらしかったから、ただ着替えてくるよりは時間がかかった。

 タキオンは、学校指定の体操服で帰ってきた。上の方にジャージを着ていたが、下はただの体操ズボン一着だった。ちなみに田上たちは、揃いも揃って学園から支給されたトレセンのマークの入った黒いジャージである。一度だけ見てしまえば、まるで部活動をしている学生の集団かと思ってしまう程だった。

 赤と白のジャージを着たタキオンがトレーナー寮前のベンチに到着すると、ようやく出発の時が訪れた。田上は、少し憂鬱だった。これから、タキオンの前でバドンミントンを負け続けて恥を晒すと思うと億劫だったし、どんな薬を飲まされるのかと思うと猶更億劫だった。田上は、トレーナーにしてはあまり運動が得意ではなかった。というより、他の四人ができすぎているのだ。他の四人もゲーム好きであまり運動もしていないというのに、一度運動靴を履かせればよく跳ねた。たまに、運動不足解消として、霧島がこういう遊びに誘うのだが、その時は一番背の低い田中とどうにかやりあえるくらいで、後の鳩谷、霧島、国近には勝てたものではなかった。しかし、霧島たちもそれを分かって手加減などをしてくれてはいたので、田上も遊びに行けばそれなりに楽しむことができた。

 だが、今日はタキオンがいた。あまり仲間内で気を遣われているのを見られたくはなかった。だから、今日はあまり試合に参加しないで居たかったのだが、それもタキオンに薬を渡されれば違ったものになるのだろう。――せめて、タキオンに圧倒的実力差でボコボコにされるならいい、と願いながら、田上はタキオンの隣を歩いた。予約していた体育館は、駅を一つ越えた所にあったから、六人はぞろぞろと駅に入ると、電車を待ってそれに乗り、一駅乗るとすぐに下りた。そして、体育館までまたぞろぞろと歩いた。

 

 体育館に着くと、霧島が事務員としていたのだが、その間にタキオンが話しかけてきた。田上の肩を叩いて「トレーナー君」と小声で呼びかけた。二人は、六人の群れの最後尾にいた。なぜかと言えば、タキオンがやっぱり部外者感があって、それについて田上も自然と後ろに行ったのだ。

 タキオンが呼びかけると、田上が「何?」と答えたが、彼女の手に持たれている物を見ると顔をしかめた。それは、限りなく透明に近い水色をしたタキオン特性の『お薬』だったからだ。田上は、そのお薬を気色悪そうに眺めながらこう聞いた。

「この薬の効果は、何なんだ?」

「この薬は、ウマ娘の体にあるのではないかと噂されているウマムスコンドリアの発想を元にして作った、人間の身体機能を著しく高める薬だ」

「…ふーん。…つまり、ドーピングってことだな?」

 田上は、少しニヤリとして言った。

「君たちが今から試合をするのであれば、そのようになるが、公式試合でないのなら問題あるまい。ただの素人の遊びだ。…そして、私はこれを飲む」

 そう言って、タキオンは今後は再度の高いピンク色をした薬を自分の肩から胸に斜めに掛けたバッグから取り出した。それを見ると、田上は再び顔をしかめて聞いた。

「今度は何なんだ?」

「ウマムスコンドリアの存在を確かめるものさ。この薬が効けば、ウマムスコンドリアの存在が証明され、それによる活動が低下される。…つまり、ウマ娘としての身体機能がなくなるということだね。普通の人間の少女並みになる」

「そんなことして大丈夫なのか?」

「大丈夫さ。この私を何だと思っている?これは、検証を重ねて作ったものさ。時間経過で効果は消えるし、実を言えば、私の体で実験を行ったからほとんど結果は分かっているんだ。これは、その最終段階だよ」

 タキオンは、ここで言葉を切ると、再び続けた。

「むしろ、君の方が心配だと言えるね。まだ、検証が少ないからそれだけ効果も不安定だ。……だが、心配するには及ばない。もし最悪が起こったとしても、それは高熱に浮かされるくらいさ。…そして、私は君と同じ物をもう一本持ってきたんだけど、……飲んでくれる人はいるかな~?」

 タキオンは、そう言って前の人たちを眺めたが、田上が慌ててこう言ってタキオンの気を逸らした。それは、純粋に仲間を想っての行動だった。

「タキオン、俺、さっさとこの薬飲むから他に注意事項とかないの?」

「…注意事項?……えっと、効果が出るまでには三十分かかるね。それに、……ああ、そうだ!物凄く苦いんだった。私のバッグの中にめちゃくちゃ甘いチョコを入れてきたんだよ」

 その時、六人の列が動き始めて、体育館の中に入っていったので、大切なことを忘れていて慌てたタキオンがさらに慌てた。

「タキオン落ち着け」と言って田上は、とりあえずその場からタキオンを動かした。後ろにまたもう一団体が来ていたからだ。

 脇に避けると、タキオンはバッグの中をごそごそ漁り、「あった!」と言ってラップで包んだ大きなチョコの塊を取り出した。それから、言った。

「私特製のチョコさ。苦みに耐えられるように飛び切り甘くしておいた」

 タキオンがそう言うと、田上は少し不安になった。これまで、こういう実験でタキオンが苦みを和らげるために何かを作ってくれたことなどなかったからだ。大抵は、蜂蜜か何か、市販の甘いものを田上に寄こしただけだった。

 田上は、飲み薬を用心深く見つめながら、「そんなに苦いのか…」と呟いた。すると、タキオンがその呟きに反応した。

「めちゃくちゃに苦い。十分覚悟して飲んだ方がいいよ」

 田上は、いよいよ薬を飲むのに緊張してきて、生唾をごくりと飲んだ。それを見て、先程まで真面目な顔をしていたタキオンが笑った。

「そんなに心配しなくてもいい。私がちゃんとチョコを作ってきたんだし、…勿論これには他の薬とかは入れてないよ?…それに、いざとなったら、私が何かして助けてあげるから」

「…何か?」

「……応援とか?」

 タキオンが頼りなさげにそう言ったから、田上はもう不安で不安で仕方がなくなった。しかし、一度気合を入れるとこう言った。

「俺がゲロを吐いたら後始末を頼む」

 そう言って、グイと飲み込んだ。途端に強烈な嫌な臭い、それから計り知れないほどの苦みが訪れた。田上は、それをひとまず手に持っていた水筒で口の中をすすいだ。それから、チョコの包みを開けて待機していたタキオンの手からチョコを引っ掴むと、急いで舌の上でそれを転がした。チョコが口の中に入ると、それだけで少し楽になり、舌の上で転がせばもう苦みは消え去った。田上は、ほっと一息ついて、タキオンに「ありがとう」と言った。タキオンは、田上のあまりの対処の早さに少し苦笑しながらも「どういたしまして」と答えた。すると、体育館の入口の方から鳩谷の低い声が聞こえてきた。

「…何してんだ?」

 鳩谷がそう言うと、あまりのドスの効いた声にタキオンがびっくりして振り返ったが、見覚えのある顔だった事を確認すると、こちらもほっと一息ついた。それから、鳩谷の質問にこう答えた。

「ただの実験の下準備さ。君たちをあっと言わせてみせるよ」

 タキオンの言葉に鳩谷がにやりと笑った。

「光るのか?」

「それもあるけど、今回はトレーナー君の本気を見せてしまうかもしれないねぇ」

「へぇ、それは楽しみだ」

 なんだか宣戦布告を勝手にされたようで田上も戸惑ったが、とりあえずタキオンの脇に立って、百八十四センチもある浅黒い肌の巨体の鳩谷に向かって言った。

「おうよ、お前なんかけちょんけちょんのぼっこぼこにしてやるわ!積年の恨み、ここで果たしてやるからな!」

「果たしてお前がアグネスさんの力を借りても勝てるかな?」

 鳩谷は、悪人のような真似をして言った。

「けちょんけちょんよお!」

 田上は、そう言うと、体育館シューズを履くために、地面に置いていた袋を持ち上げて、その袋から靴を一足取り出した。タキオンもすぐに自分の薬を飲むと、それに倣って体育館シューズを履いた。その間に、鳩谷は体育館の入り口から消えていた。

 タキオンは、その事を靴を履きながら確認すると、田上にこう言った。

「さっきの君の小者みたいな演技、最高だったね」

「おうよ!」

 田上は拳を振り上げた。行く前とは打って変わって、勇み足が良好なようだった。そして、拳を下げるとタキオンに言った。

「俺はあいつらに負け続けてんだ。今日こそ、あいつらを負かしてやれるぞ」

「君、弱いんだ。……まぁ、体力を測ってみるに貧弱だからそんな気はするけど、…そんなに弱いのか」

 タキオンが少しがっかりしたように言ったから、田上は困惑して聞いた。

「俺が弱かったら何か都合が悪いのか?…実験もこれまで、問題なくしてきただろ?」

「もちろんさ。変化を調べたいのだから君が貧弱でも構わないが、…強い肉体もいいものだろ?鳩谷君だっけ?さっきの人」

「ああ」

「鳩谷君にしろ、霧島君にしろあまり運動をしていないと言うのに、中々に図体が良い。さっき君がそう言ってたよね?運動してないって」

「鳩谷は少し筋トレとかをしてるっぽいけど、それも大した量じゃないらしいから、…まぁ、そんな感じ」

「それならいい。実にいい。あの二人のどちらかにも今回の薬を飲ませてみたい。…それに、君があの中で最弱なのかい?」

 田上は、また少し躊躇いながらも頷いた。

「君が、最弱というのなら他の二人も気になる。どのくらい君との差があるんだろう?」

 タキオンは、そう言って自分の世界に入り込んでしまったので、田上はタキオンの手を引いて体育館の少しの喧騒に包まれた中まで連れて行った。

 

 体育館には、スポーツクラブのチームが大半を占めていて、卓球やらバスケやらを行っていたが、田上たちはそこから少し外れたコートの一角を借りていた。そして、そこに今バドミントン用の網を張っている最中だった。もうすでに網を引っかける長い鉄の棒は持ってきていて、体育館の床に突き立てていた。

 そこに田上たちはのんびりと歩いて行って、声をかけた。

「誰VS誰からするんだ?」

 網を張っている霧島と鳩谷のどちらに言うともなく言ったが、霧島が答えた。

「誰からでもいいよ」

「じゃあ、俺はパス」

 田上は、そう言うと、体育館の横の座る場所で談笑している田中と国近の近くに行った。だが、その隣には座らないで、少し離れた所にタキオンと二人で座った。タキオンは、まだぶつぶつ言ってしきりに、鳩谷と霧島の事を見つめていた。田上は、タキオンがいつか駆け出して二人に薬を飲むようせがみに行くんじゃないだろうかと思っていたから、注意深く見守っていたが、田上が止める間もなくタキオンは急に立つと二人のもとに走っていった。その手には、しっかりと田上と同じ薬が握られていた。

 田上は、慌てて自分も立ち上がって「おい!」とタキオンに叫んだが、「君は少し黙っておいて!」と返されると、なす術なく呆然と立ち尽くした。どっちにしろ、苦いと言うだけで重いものではなさそうだったので、田上はタキオンの説得をしないうちから諦めて、元のベンチに座り直し、タキオンが霧島に言っているのを聞いた。きっと説得の成功率の高そうな人の良さそうな方から試しているのだろう。

「霧島君」

 タキオンがそう言った。

「君、この薬を飲んでみないかい?」

「…薬?」

 タキオンが差し出したものを受け取ると、訝しそうにそれを眺めた。そして、言った。

「田上に飲ましたんじゃなかったんですか?」

「それはそうさ。だが、実験体は多い方がいいだろう?それで、君を抜擢したって言うわけだ」

 そう言われると、霧島は困ってしまって、助けを求めるように田上の方を見た。田上は、元からもう助けるつもりなんてなかったから、わざとらしい笑顔を作ると、右手を上げて親指を立てた。そして一言「頑張れ!」と言った。その言葉に、霧島はさらに困った表情をして言った。

「あんまり飲みたくないんだけど…」

「あんまり?…つまり、私の説得次第では飲んでくれるという解釈で間違いないかな?…それでは、話だけでも聞いてくれ。…まず、この薬は…」といった風にタキオンが話し始めたものだから、霧島は困ったように頭を掻きながらとりあえずその話を聞いた。元々は、話が終われば、断るつもりだったのだが、ここで愉快な仲間たちの介入があった。

「飲めば?」

 遠くの方から国近が、ニヤニヤしながら言ってきた。すると、その横に鳩谷がいるのを見つけた。先程まで反対側の棒で網を張っていたはずだったのだが、タキオンが来るとさっさと終わらせて、自分だけそそくさと逃げたようだった。霧島は「薄情者め!」と心の中で叫ぶと、タキオンにこう言った。

「ちょっとまた後日ってことは…」

「後日にしたってしょうがないだろう?今にしよう。今に。…その方が、手っ取り早く事が過ぎ去って君も気持ちよく朝を迎えることができると思うし。……トレーナー君もそう思うよね?」

 タキオンが、後ろの田上にそう聞くと、田上は飛びっ切りの笑顔を見せて、「そう思う!」と答えた。そして、霧島から見て一番右端にいた田中もついでに「そう思う!」と賛同した。この場には、敵しかいなかった。すると、霧島は諦めた様にため息をついて、自分の持っている薬を眺めた。今回の物は、幸い見るだけで吐き気がするような色ではなかったから、霧島も飲んでもいいような気がしてきた。

 そして、それを見たタキオンが言った。

「飲めるかい?」

 少し大人しく、先程の様な興奮した子供のものじゃなく淑女のような声でタキオンが言ったから、霧島も心を決めた。

「飲む」と言うと、試験管についていた栓を開けた。そして、一気に飲もうとしたのだが、タキオンに慌てて止められた。物凄く苦いから注意してほしい、とのことだった。すると、ここで田上も立ち上がって霧島の方にやってきた。普段からタキオン特製の薬を飲んでいるスペシャリストの登場だ。田上は、丁寧に飲み方を教え、苦みをできるだけ取り除く方法を伝授した。

 そうすると、隣でタキオンがにこやかに笑った。自分のトレーナーの案外頼もしい部分を見て、嬉しくなったのだ。そして、田上に「チョコはもう一つあるのか?」と聞かれると、「あるよ」と言ってバッグからそれを取り出し、包みを開けて待機した。

 いよいよ霧島が飲む番となった。霧島が緊張したように生唾を飲むと、先程のタキオンと同じように田上は「心配しなくていい」と言った。霧島は不安げに田上を見つめたが、何も言わずにまた自分の手に持っている試験管を見つめ直した。そして、一息を入れて、グイと飲み込んだ。だが、水筒を開けるのに手間取っているようだ。顔を歌舞伎役者の化粧の様なしかめっ面にさせて、慌てふためきながら急いで水筒を開けた。田上は、それを見て、顔を笑みに歪ませそうになったが、それは我慢した。その辛さは自分も知っていたからだ。ただ、後ろの方で国近か田中のどちらかが大声で笑っているのが聞こえた。鳩谷は、こんな風には笑わないし、国近の声にしては少し甲高いので、きっと田中なのだろう。それを田上はわざわざ注意する気もなく、霧島に「大丈夫か?」と少し同情気味に言った。

 霧島は、チョコを口に入れて、その甘さに顔を綻ばせていたところだった。暫く田上の方を見つめたが、何も言わなかった。そして、その甘さに十分口を楽しませた後、こう言った。

「お前って、いつもこんなん飲んでんのか?」

 田上は、顔に照れを滲ませて「いや」と答えた。すると、霧島は少し期待が外れた顔をしたが、それでも顔を尊敬の色に変えて「でも、こういう対処をさらっとするあたり、お前はすげーやつだよ」と言った。田上は、もう照れを隠し切れずに、満面の笑みを讃えて「それ程でも…」と答えた。タキオンは、それを見てると自分も嬉しくなって顔を綻ばせ、そして霧島に言った。

「効果は三十分ほどしたら現れるからね。…うん、効果時間も一時間ほどだし、今日一日遊ぶ君たちには問題あるまい。薬の効果を存分に楽しんでくれ」

 そう言うと、タキオンは田上の後ろについて、元の座る場所に戻った。そして、田上の横に座ると、こう言った。

「なんだか楽しくなりそうだねぇ」

 田上も同じ意見だった。黙って頷き、タキオンの意見に賛同すると、仲間たちが話していることに耳を傾けた。

 まず初めに、鳩谷と国近がするようだった。霧島は、チョコを食べたとは言え、さっきの苦みのショックがまだ抜けきらず、一番初めにするのは棄権するそうだった。田中は、もとより一番初めにする気はなく、のんびりとストレッチをしながら初めの試合を観戦するそうだった。

 すると、田上とタキオンに白羽の矢が立った。点数をカウントして、審判もしてくれとのことだった。これは、田上だけに言われたことだったのだが、タキオンも隣に人がいないと自身が暇になるため、田上と一緒にすることに名乗りを上げた。別に止める理由もなかったので、田上は快くその申し出を受け入れた。初めから凄い試合だった。鳩谷、国近、両方譲らず、数分後にやっと鳩谷が一点を取った。十五点の勝敗分けまでに大分時間がかかった。結局二人とも、最後の方まで粘ったが、鳩谷が十六、国近が十四で勝敗が決した。まさかの延長戦まで行ってしまった。いつもは、国近が鳩谷に少し劣るくらいだったので、善戦できた国近は喜んでもいたし、悔しがってもいた。しかし、選手は次の人に変わり、ラケットは霧島と田上に渡された。二人ともふくらはぎと腕が薄ぼんやりと光り輝いていた。


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