やがて、時間が経って、お昼の時間になった。このコートで一日中遊ぶ予定だったが、体育館での食事は禁止だったため、近くのコンビニで買ってきた焼きそばパンも代わり番こに外の駐車場近くで食べた。なぜ、代わり番こだったかと言うと、それはタキオンを寝かせていたからだ。田上の太ももから下ろす時にも眠りこんでいたので、大分ぐっすり寝ていたようだ。その様子を田上は、心配そうに見ながら、国近らにその場を預け、自分も外でご飯を食べた。相変わらず、筋肉痛は酷かったが、動けないほどではなかったから、まだ良かったと言えるだろう。今日のバドミントンは、いつもと変わることをしていないのに、タキオンの薬のせいで早くもタキオン、霧島、田上の三人が倒されそうになっていた。
そして、少し時間が経つと、タキオンも起き上がった。田上は、その時はタキオンの横で霧島と鳩谷が試合をするのを見ていた。どうやら、聞くところによると、田上の症状よりも霧島の方がずっと軽いようだった。それでいて、田上と同じくらいの様子を見せるのだから、大袈裟なものだ。田上は、それを痛みのせいか普段よりも少し意地悪になって、僻むように言った。すると、霧島は、慌てて弁明するようにこう言った。
「本当に!本当に、お前と同じくらい痛いときがあったって!…ただ、今はそれも少し治まって、運動できるくらいには動けるようになっただけだから!…本当に!」
田上は、あまり信用していない目をしたが、タキオンがむにゃむにゃと声を上げると、そちらのほうに気を取られた。そして、その間に霧島は鳩谷に誘われて、試合に臨んでいた。
田上は、筋肉痛を耐えながら、それを恨めしそう眺めた。そうするうちに、タキオンは、目を覚ました。
初めは、ただ眠たそうな唸り声を上げて、もぞもぞと動いているだけだったが、暫くすると、田上の太ももが頭の下にないことに気がついて、目を瞑ったまま手探りで探し始めた。田上はタキオンの頭のすぐ上に座っていたからすぐに見つかったが、タキオンが枕として使おうとするのを嫌がった。
タキオンが、まだ残っている頭痛と眠気に苛つきながら理由を問うと、田上は「筋肉痛が酷いから」と答えた。
すると、タキオンは、少しの間固まったまま動かなくなった。目を瞑ってはいたが、何か考え込むように唸っていた。そして、唸り声は段々と熱を帯びてきた後、急にはぁというため息に消された。疲れたようにため息を吐いた後に、もう一度息を大きく吸って、吐くと、タキオンは体を半分起き上がらせて田上に言った。
「...特にどこら辺が痛むのかい?...足?腕?」
「そこら辺が主だけど、...まぁ、全身満遍なく痛い」
タキオンは、またため息をついて寝転がった。そして、言った。
「あ~あ、実験は失敗かぁ...」
田上は、タキオンの独り言に反応してもいいのか迷ったが、堪えきれずに聞いた。
「実験は失敗だったのか?...なんで?」
タキオンは、寝転がったまま頭の上にいる田上をじろりと睨み、そのまま言った。
「...筋肉はね、使わない予定だったんだよ。ウマムスコンドリアから着想を得たと言ったろ?ウマ娘の肉体には筋肉こそあるが、その重さには似合わないパワーを持っている。それを再現したかったのだが、筋肉が痛むのだったら失敗かな。...まだ、他にも可能性があると思うけど、......頭が痛くて何も考えられないや...。...それにしても、私の薬も上手くいかなくて、君の薬も上手くいかなくて、...今日は何も得られなかったなぁ」
田上は、最後の声が震えているのに気がついて、タキオンを見直した。タキオンは、顔を腕で隠して、静かに涙を流していた。そのうちにヒックヒックと声を出して泣いていたが、自身のトレーナーに頼ろうとはしなかった。田上は、戸惑いながらもその腕に軽く触れ、こう呼び掛けた。
「タキオン、......あんまり落ち込むなよ。また、次があるだろ?」
「......次がある...」
タキオンが呟いた。その声には怒りとも憎しみともつかないものが混じっていた。
「次がある。…その次もある。そして、次。次。次。次。…次だ!」
タキオンの少し大きな声に驚いて、近くに座っていた田中がこちらを見た。しかし、田上はそのことに気付きはしても、田中の方にチラとも目を向けないで、タキオンに話した。
「…それが『永遠』だろ?お前が望むものじゃないのか?」
タキオンは、また体の半身を起こして、トレーナーを睨んだ。
「それが『永遠』だ!そうだ!それがだよ!…失敗したら次をして、また失敗したら次をする。成功しなければ、次、次、次と続いていく。それが『永遠』だ!…空しすぎるだろ!空虚だろ!……私は『永遠』が欲しいと言ったが、こんな『永遠』は欲しくない!もっと実の詰まったものであってほしい!…分かるかい?トレーナー君。私の想いが…」
タキオンの怒りは静まり、代わりに悲しそうに田上を見た。
「…分かるよ。帰省した時に何度も言ったろ?そして、俺自身もそう願っている。…ただ、実の詰まった永遠なんて探しても見つからないと俺は思うよ」
「…なぜだい?」
「やっぱり俺たちは、この時間の中に生きている生物だからさ。永遠の中に生きているのであれば、それは実の詰まったものを見出せることができるかもしれないが、…俺たちは時間の中に生きている。過ぎていく時間の中に、楽しさだったり空しさだったりを見出している。…あの町からトレセンに帰っていく電車の中でそう思ったよ」
タキオンは、前髪を下に垂らして項垂れた。そこから、また一粒、二粒と涙が垂れるのが見えたから、田上は言葉を続けた。
「あんまり落ち込むなよ。お前は、今、熱と頭痛で辛いんだろ?気持ちを静めて、また横になったらどうだ?」
自分で言ってて、大した言葉にならなかったと感じたが、タキオンは素直に首を縦に振ると田上の太ももを枕にして寝ようとした。そうされると田上も堪らなかった。タキオンに「やめてくれ」と少し強めに言うと、タキオンも一つため息をついてゴロリと体育館の壁を見る形で横になった。
時間は、ゆったりと流れる川のように静かに過ぎていった。タキオンは、それから帰る時間になるまで起き上がらなかった。どうやら起きているようではあったが、田上が二,三回話しかけても反応は示さなかった。田上は、それに心配をしながらも自分にも眠気が来てしまって、少しの間眠ってしまった。少しの間と言っても、本当に少しの間だった。三十分程だろう。三十分ほど寝て起き上がると、霧島に体調の良し悪しを聞かれたが、寝る前と変化はない、と少し腹を立てているように答えた。霧島は、それに苦笑して、「頑張ってな」と言ったが、それが田上の怒りを膨らませた。だからと言っても、怒っている様子は微塵も見せず、ただ体育館の壁に背を持たれかけさせ、国近と田中の試合を見ていただけだった。
午後三時頃になると、もう帰らなければという話になった。予約をしているので当然時間は決まっている。霧島は、三時半までの予約と言っていたので、その前にコートの掃除なんかをしていると試合をできるのは余裕を持って三時までだった。鳩谷、国近、田中などは、まだ物足りなさそうにしていたが、霧島も薬を飲んだことによる筋肉痛とたくさん遊んだ疲労とで早く帰りたがっていたし、田上も元から長時間なんて遊ぶつもりはなかった。例え、タキオンの薬を飲んでいなかったとしても、二,三試合したらこうして椅子に座って、最悪の場合は一人で先に帰ることもあり得ただろう。だが、今日のところは、タキオンもいたし、自身も満身創痍で自分から立ち上がって帰る気には到底なれなかった。
田上は、いよいよ帰る準備に入る段になると、重い体をのろのろと立ち上がらせて体育館の床を掃除するモップを倉庫の方に取りに行った。途中で霧島に「筋肉痛が辛いならしなくてもいいぞ」と言われたが、それには「全然大丈夫」と返して、倉庫に入っていった。
田上がモップを持って戻ってくると、タキオンが座ってぼーっとしていた。口を少し開けて体調が悪そうに床を見つめていたから、田上はそれを見て少し元気になった。口を開けたタキオンが、可笑しくて可愛かったからだ。田上は、少しばかりの笑顔を作ってタキオンに話しかけると、タキオンは悲しそうに眉を曇らせてこちらを見てきたから、田上はタキオンがつい数時間前までは落ち込んでいたことを思い出した。そして、反省した。タキオンに謝ると、本人は何が起こっているのか分からない様子でこちらを見て、言った。
「今から何をするんだい?」
「帰るんだよ。トレセンに」
「…そうか。もうそんな時間なのか…」
相変わらず、タキオンはあまり物事を理解してはいなさそうだったが、それからはぼーっと床を見つめることを止め、自身のトレーナーが筋肉の痛みに呻きながら床を掃除しているのを眺めた。
鳩谷が、最後にのんびりと網を片づけ終わり、一行は帰ることになった。その時には、タキオンも自分の意識を取り戻すくらいに回復していたが、代わりに田上に甘えて仕方がなかった。
「おんぶ!」
そう言うと、タキオンは梃子でも動かなかったから、田上は筋肉痛に軋む自身の体を無理矢理にでも動かしてタキオンを背に負った。タキオンは、自分が女の子だということを意識していなかったから、平気で胸でも何でも当ててきたのが、田上には居た堪れなかった。しかし、一つだけ幸いなことがあったとすれば、それは仲間の誰一人として田上がタキオンを背に負うことをからかわなかったことだ。むしろ、田上とタキオンの荷物を持ってくれたりして、気遣いが途方もなくありがたかった。
タキオンと田上は、一行の最後尾で軽く話をしながら、歩を進めた。
「トレーナー君」
最初に声をかけてきたのは、タキオンの方だった。妙に声が落ち着いていて、田上の心をざわつかせたが、タキオンとしては別に大したことのない報告だった。
「私は、研究やら実験やらをやめるよ」
田上はぎょっとして聞いた。
「なんでだ」
「なんで?…別に大したことはないさ。ちょっと止めようと思っただけだよ」
「なんで止めようと思ったんだ?小さい時から続けてきたものじゃなかったのか?」
「……まぁ、私の目的、…つまり、足の脆さを克服することは成功したんだからもういいのかなって。…別に君が困る事じゃないだろ?」
「俺?…俺は、…最初の契約の時の条件は、俺が実験体のモルモットとしていることだっただろ?……俺はどうなるんだ?」
「…それは、別に昔の話なんだから忘れてくれたって構わないよ。…それに、君のもう一つの条件は私に好きにさせることだったんだから、それさえしてくれていれば本当に構わない。現にこうして好きにさせてくれているだろ?」
タキオンはそう言って、耳に息を吹いてくすぐるという悪戯をした。田上は、「ああ!」と叫んで首を振ったから、田上たちの前に居た鳩谷が後ろを振り向いた。
「なんにもないよ」
田上はそう言って、鳩谷を前に振り向かせたが、前を向く直前に鳩谷の口元に微かに笑みを見て取った。やはり、仲間たちは自分をからかいたかったのだろう。田上は、そう思うと少し幻滅したが、鳩谷には何も言わずにタキオンに話しかけた。
「もうそろそろ重いんだけど、降りてくれないか」
すると、驚くべきことにタキオンは素直に頷いた。聞くと、「背負われるのも案外疲れる」とのことだった。田上は、「背負う方がもっと疲れる」と切り返すと、タキオンはハハハと笑って、「許してくれ」と謝った。田上は、しかめっ面で「許す」と言った。
それから、二人は歩き続けて、今度は電車の中となった。終始二人は、仲間たちの最後尾を歩いていたが、ここで荷物も持たされ、最後尾にいることも終わりとなった。だが、仲間たちとは少し外れることができたようだ。タキオンたちは、席の方に座らされたが、仲間たちは何かの気遣いがあったのか二人を立って囲むということはせず、だが近くに立って何の気なしに話し込んでいた。
それだから、田上とタキオンは電車の中でも話すことができた。
田上は、タキオンにこう話しかけた。
「タキオン、お前もう熱と頭痛は大丈夫なのか?」
「うん、...問題ないよ」
タキオンは、自分の状態を慎重に確認しながら言った。
「そう。それは良かった...」と田上は言ったが、その声はどこか落ち着きがなく、タキオンの頭に疑問を浮かび上がらせた。
「...何かあるのかい?」とタキオンは聞いた。すると、田上は表情を曇らせて、タキオンの方を見たが、その後に言った。
「...あんまりここでするような話でもないんだろうけど、少しだけ言わせてもらうと、...別に実験を止める必要なんてないんじゃないか?...それとも、ただ単に飽きただけ?」
「うむ...。...確かにこんなところでする話じゃないな。…話せることはあるから帰ったら、少し落ち着いて話そう?君のトレーナー室で」
この返答で田上の知りたい気持ちは静まらなかったが、不納得ながらも頷いた。
ガタンガタンと電車が動いた。
タキオンと軽く話をしながら、電車の中を過ごしていると、途中で霧島と目が合った。あっちの方は、田上と目が合うと笑いかけてきたが、田上の方はそれにしかめっ面で返した。到底、笑う気持ちにはなれなかった。
トレセンに帰ると、田上はタキオンと話す約束をしたことを後悔した。疲労と筋肉痛が田上の体を苛んだからだ。その上、眠たくて眠たくて堪らなかった。一度、そのことをタキオンに言って、また後日に話してもらおうと提案したが、その提案はタキオンの不満そうな顔によって打ち破られた。と言っても、タキオンが打ち破ったのではなく、不満そうな顔に耐え切れなかった田上が自身の身の内に宿る優しさに屈し、白旗を振ったのだ。タキオンにしてみれば、こんな扱いやすくて面白い動物など他にいないかのように思えたが、そのことは口に出さずにただ微笑んだ。田上は、その笑みの真意が分からなかったが、それを見たからと言って気分がよくなるわけでもなかった。田上は、トレセンに戻ると、寮に戻る仲間たちと別れ、自身のトレーナー室へとタキオンと共に歩を進めた。
トレーナー室に着くと、二人はどこにどう座ってどう話し合うのかを迷ったが、結局、いろいろ言った後、この部屋にある低い机を挟んだ二つのソファーにそれぞれ座って、向き合って話し合うことに決めた。田上は、ドアから遠い、部屋の右隅にあるソファーに座り、タキオンがその向かい合ってドアに近い方のソファーに座った。だが、あまり真正面から向かい合うのはタキオンのお気に召さなかったようだ。すぐに立ち上がると、田上のデスクにある車輪付きの椅子に座り、それをガラガラと動かして田上のソファーの近くに寄った。そして、満足そうな声を上げると言った。
「何から話したらいいかな?」
田上は、椅子に座って上から目線のタキオンに少したじろぎながら、言った。
「別に研究をやめる必要なんてないんじゃないか?……これは、強くそう主張したいんじゃなくて、ただ単に疑問になっただけだ。……今まで、趣味だったんだろ?……」
最後に田上は、もう一言言いたそうにしたが、それは余計な言葉だと考え飲み込んだ。それをタキオンは、しかと見届けたが何も触れずにこう言った。
「まず、最初に言いたいのは、……君に八つ当たりしてしまった事だ。体育館での事。…あれは、すまなかった。君に怒るべきじゃなかった」
田上は、口の中でごにょごにょとしながら許しの言葉を与えた。タキオンは、それを感情の分からない顔で見つめていたが、田上の言葉が終わると言った。
「…その上で言いたいのだが、…私が研究をやめるといったのは、もううんざりしたからなんだよ。終わりもしない探求の旅に。…別に珍しい話じゃないだろ?うんざりしたからやめるんだ」
タキオンの言葉に田上は、ふーとため息をついて、考え込んだ。そして、考え込むために下げた頭を上げると言った。
「…俺が、疑問に思ってるのはな?…ちょっと早計過ぎやしないかということだ。…別に、俺に言うこともなく研究をやめたって良かっただろ?それをわざわざ俺に宣言したってところが、…何と言うか、…腑に落ちないんだよ」
田上の話が終わると、タキオンはふむと顎に手を当てて、椅子を回転させながら移動させた。そのうちに、田上は自分がタキオンより低い物に座っていることに居た堪れなくなって、立ち上がって本棚の傍に寄ると、その本棚から本を取り出して落ち着かなげに読みだした。
タキオンは、暫くふむふむ言いながら椅子を回転させ、天井を見ながら考えていたが、やがて、本棚の前で本を読んでいる田上の方を向いて言った。
「確かに、私にとっても腑に落ちることはないが、……別にそんなことはどうでもいいんじゃないか?他でもない信頼できる君だからこそ言った言葉じゃないのか?」
タキオンの言葉が嬉しくて顔が綻びそうになった田上だったが、それでも神妙な顔は崩さないでこう言った。
「…タキオンの信頼できる者であってありがたいけど、信頼できる者としてはやっぱりその問題は見逃せないように思う。タキオンに考える気がないなら仕方がないけど、俺が少しおかしく思ったってことを覚えててほしい」
田上は、そう言うと、手に持った本を棚に戻した。タキオンは、田上の言葉を聞くと、少し目を落として、落ち込んだように見えた。――少し責めすぎたのかもしれない、と田上は心配したが、特に大変な落ち込みようではなかったようだ。ただ、落ち込むには落ち込んでいて、タキオンは椅子から立つと両手を広げて、こう言った。
「ハグをしてくれ」
田上は、嫌そうにしかめっ面をした。しかし、タキオンはそんなことは気にしないで、「ん」と声を出してハグを催促してきた。幾ら三度目と言えど、幾ら自分の好きな人と言えど、自分から抱きしめるのには大きな抵抗があった。
田上が、しかめっ面のまま固まっていると、タキオンは両手を広げたまま一歩近寄ってきて言った。
「ハグをしておくれよ。…もう二度もしただろう?君の緊張も幾らか解れてはいないのかい?」
田上は、しかめっ面のまま、こう言い返した。
「...解れるわけないだろ。女性の経験なんて一度もないんだ。...だから、もう俺を追い詰めるのはやめてくれ。戻れなくなるような気がする」
田上の言葉にタキオンは、最初悲しみの色を見せたが、その後にハグするために上げていた腕を下ろして言った。
「戻れないのは、初めからだろう?私たちが、あの家の布団の中で悩みを打ち明けてから、戻れるものも戻れなくなった。...それに、...言ったろう?先日のハグのとき、ーー逃げようって。戻ることは君の望みなんじゃないのかい?」
田上は、タキオンから顔を背けて、また本棚に目を向けた。そして、一冊の本を探して、手に取ると言った。
「 君があれこれ言うのなら殺してあげよう
君が未来を望むのなら目を塞いでしまおう
永久に
一度足りとも君を見捨てはしない
一度足りとも君を離しはしない
永遠の中で、愛を望もう
深淵の中に
猛り上がる炎の中に
身を切るような冷たさの中に
答えは、きっとあるはずだ
それを探しに
私は地獄三丁目 」
田上は、それきり言葉を切ったまま、話さなくなった。また、目も合わさずにじっと本を眺めていた。その表情には、色濃い苦悩が浮かび上がって貼り付いていた。タキオンは、田上の事を憐れに思ったが、自分の事も尚、重要だった。また一歩、田上の方に近づくと、その肩に手を置き、本を覗き込んだ。古びて、茶色くなっている一冊の小さな詩集のようだ。その開いていたページには、田上が先程読んだ詩が載っていた。
「今君が言ったのは、それのことかい?」
タキオンが聞くと、田上は頷いて話し出した。
「……これが、未だに分からないんだ。作者は、何を想ってこれを書いたのか。なんで、作者は永遠の中で愛を望んだのか。……お前には分かるか?」
タキオンは、眉を寄せてそれを暫く見つめて言たが、やがて、ゆっくり頷くとこう言った。
「……私には、なんとなく分かるよ。…これは、作者が苦悩していたんだろう。自身の行く末を想って。…そうしていくうちに、深淵を覗き、猛り上がる炎を歩き、身を切るような冷たさの中を彷徨い探して、いつのまにか地獄の三丁目まで来てしまった。――ああ、私はどこに行くんだろう?……そういう詩じゃないのかい?」
田上は、タキオンの言葉を聞きながら、険しい顔で小さな本を見つめた。そして、そのあとに小さく呟くように言った。
「……俺たちは、これからどうなるんだと思う?」
「私たち?……う~ん、…とりあえずは三月末に大阪杯があるだろ?それに、まだまだトゥインクルシリーズだけじゃなくて、別のレースにも出てみたいし、…いっそのこと海外GⅠでも目指してみようか?…って感じで、まあまあ長くいることになる。これが君の求めていた物かい?」
田上はゆっくり首を横に振った。しかし、何も言わなかったから、タキオンがまた言った。
「じゃあ、何なんだい?君の求めているものは」
「……俺は、…タキオンのモルモット君じゃなくなった」
ここで、田上が問うようにタキオンを見つめたから、タキオンも同じく問うように見つめ返した。そして、ふっと笑うと、「続けてくれ」と言った。
「研究をやめるってのは、そういうことだろ?…モルモット君じゃなくなるわけだ」
「そうだ。……だけど、それはさっきも話したろう?別にモルモット君じゃなくても、トレーナーでいていいって」
「…俺は、タキオンに引っ張られてここまで来たと思ってる。…少なくとも今は。……お前は一人で万事を解決しただろう?お前の足の事なんて気付きもしなかった俺が、今後もトレーナーとしていれるのか?もっと有能な奴でいいだろ?モルモットとして用済みになった俺なんか捨てて、どこかの優しい奴でも拾って来いよ。…たくさんいるよ。俺の代わりなんて。一人が死ねば、別の誰かが輝き、また死ぬ。そして、また別の誰かが輝くんだ。そうやって社会は回ってるんだ。…タキオンも俺にばっかり依存してないで、別の誰かを拾って来いよ。…俺の出番は終わったんだ。帰省が終わって、トレセンに帰り着いてから、そればかりが心に浮かぶようになった。…そして、今日、お前の言葉を聞いて、確信に変わった。俺には、お前の傍にいてやることはできない」
田上は、目頭が熱くなるのを感じた。何かとんでもない間違いを犯しているような気がした。しかし、田上の心とは裏腹にタキオンは、「やれやれ」と笑いながらこう言った。
「君も大変な奴だなぁ。…私も大概だけど、君も大概だ。…いや、むしろ君の方が大概かもしれない。……落ち着きたまえ。私は君を引っ張ってきたつもりなんてないし、また用済みになったとも思っていない。それに、君の代わりがいるとも思えない。この言葉は、どれも真実だ。君の代わりなんていないんだよ。君は君自身で、ついでに私は私自身だ。他の有象無象なんかでは到底ありえない。私が、君を必要とすれば君が必要だし、君が私を必要とすれば私が必要だ。時々、個を全と勘違いしそうになる時があるだろう?…私にも勿論ある。厄介なものさ。それは、偏見と呼べるもの。個を全、全を個と錯綜させてしまった時、取り返しのつかないことをしでかしてしまったり、そこまでいかなくとも、苦しい想いに苛まれたりする。…今の君だ。……さぁ、こっちへおいで。君は君なんだ。私がハグをしたいのは他でもない君であって、どこかの優しいトレーナーじゃない。…さぁ、おいで」
タキオンが両手を広げても、田上は微塵も動こうとはしなかったが、タキオンが無理にその手を動かすと、田上もゆっくりと動いてタキオンを包み込んだ。今度のタキオンは、田上を抱きしめてやるつもりだったのだが、反対に抱きしめられて少し困った。
タキオンを抱きしめた田上は、何も言わなかった。その表情は、どこか不気味ではあったが、同時に落ち着きを取り戻したものでもあった。田上は、眉一つ動かさずにタキオンを抱きしめ続けた。その様子にタキオンは、心配を覚えたから、田上の腰あたりを軽く一定のリズムでポン…ポン…と叩きながら言った。
「…大丈夫だから落ち着いておくれ。…少なくともいい男を見つけるまでは、君と離れないと前に言ったろ?ここは共学じゃないし、私はそんなに人と触れ合わないからいい男なんて寄ってこない。ここ暫くは、安泰だよ」
タキオンは、田上を落ち着かせるつもりでそう言ったのだが、田上はそうはならなかったようだ。タキオンの言葉を聞くと、体に変に力が入り、タキオンを引っ掻きそうになったから慌てて体を離した。タキオンは、「もう終わりかい?」とからかうように言ったが、そのからかいに普段通り対応することはできず、力なく肩を落として「もう終わりだよ」と返した。
タキオンは、少し不満そうだった。しかし、田上の生気のなさを見ると、憐れになって到底自分の我儘を押し通す気にはなれなかった。
この後、夕食のカフェテリアに行ったが、田上はおにぎりを一つだけ貰うと、心配そうなタキオンを置いて先に帰った。
そして、こういう時の常として、寝るときになると嫌~な夢を見た。暗闇をただひたすら走っている夢だった。光なんて一切見えず、時折ある大きめの石に躓いてこけたり、なぜか目の前に出てきた石の壁に正面からぶつかっているだけだった。ねずみの声が聞こえてきたような気がしたが、それは微かで聞き取りづらかった。どこから聞こえてくるのか周囲を見渡したが、そういう時は決まって、そこが生命のない場所のように静まり返っていた。そのようになると、段々と怖くなってきたが走ってみれば平気だった。ただ、走るのは嫌だった。こけるし、ぶつかるし、息も切れる。
やがて、最後に転んだ時「こん畜生!!」と叫んで地団太を踏んだ。自分を転ばせた石を見つけて叩き割ってやろうかと思ったが、その石は自分の転んだはずの場所にはなかった。全くの平らであった。そうすると、今度は自分に腹が立った。何もないところで転んだ運動神経の鈍い自分に腹が立って、地面に頭を打ち付けた。血が目にダラッと零れてきたのを感じたが、結局視界なんて目を開けてても閉じてても変わらなかった。
田上が、地面に頭を打ち付けたのは一回限りだった。その後は、もう頭がフラフラして、地面にバタリと仰向けに寝転がった。
そして、こう言った。
「あ~あ、疲れちゃった」
その声は、儚く暗闇に吸い込まれた。