ケロイド   作:石花漱一

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十一、ダイワスカーレット④

 朝起きると、田上は体の筋肉痛に苛まれたが、昨日ほどの痛みではなかった。むしろ、程よい痛みが刺激になって気持ちいいとも言えるだろう。だからと言っても、万全とは限らなかった。田上は、枕元の棚の上から眼鏡を取ると顔にかけた。

 今日は、トレーニングの予定はさほど決まっていなかったが、やるとしたら午後からだろう。田上は、そのように考えて、髭を剃った。スカーレットとの約束は覚えていたが、憂鬱だった。大してできた人間でもないのに相談されるのは、その身に似合わず重い物であったし、タキオンと相見えることも重い物であった。ここに来て、タキオンへの想いの整理がつかなくなった。本人に好意があるなしに関わらず、「他でもない君だからこそ」と言われるのは気持ちがよかったが、それ故に田上の心を悩ませた。踏ん切りがつかなくなったのだ。いつかは別れるもの、と静めていた心が、可能性に喜び上がっていた。だが、今のところはそれもまだ落ち着きのある方だった。喜ぶくらいならまだマシな方だろう。田上は、今日は少し元気だった。

 

 陽気な日和だった。そうは言っても、冬なので寒くはあったが、快晴により気温は通常よりも高いような気がした。

 そんな中、田上の寮にタキオンが訪ねてきた。「散歩をしないかい?」とのことだった。ちょうど、暇つぶしにゲームをしていたところだったので、田上は外に出たがらなかったが、タキオンがもう少しごねれば、困ったように頭の後ろを掻きながらも、少しの喜びに胸を躍らせて田上はタキオンと出掛ける準備をした。もうすでに着替えてはいたので、その上にジャケットなどの羽織るものを着て、そして、靴を履いて出掛けた。

 タキオンは、田上の寮の部屋のドアの近くで待っていたのだが、その間に田中に絡まれていた。タキオンは、終始鬱陶しそうにその話を聞いていたが、田上が出てくると途端に笑顔になって、田中をふっと笑わせた。

 田上の部屋は、寮の共有スペースの近くにあるので、大抵の人は田上の部屋の前を通って行くのだが、迷惑千万極まりなかった。その途中で声をかけてくるのだ。ここが、共有スペースの近くでなければ、友達もあまり通らないし、ついでに声をかけてくる、ということもないだろう。一度、寮長に部屋を変えられないか掛け合ってみたが、返答は「今すぐには少し難しい」とのことだった。それが、去年の今頃にあたるので、田上は一年近くも部屋が変わるのを待っている。と言っても、半分諦めていて、もうこの場所を享受し仲間たちが来るのにも渋々慣れていた。一方、寮長の方はと言うと、こちらも半分忘れていた。勿論、田上の要望書をもう一度見返せば、思い出すには思い出すのだが、なにせたくさんのそういう要望書を一人で管理していたので、田上の要望書が時期が来たにも関わらず見出されないのは、本棚の一番上の本の間に挟んでしまっているからかもしれない。

 

 田上は、タキオンと共に陽の出ている午前十一時を歩いた。それは、幾らかの緊張を伴ったが、田上にとって心地のよいものとなった。

 田上は、昨日の出来事にいつ触れられるかひやひやしていた。自分の通常ではない状態に触れられるのは、大きな痛みを伴ったし、それがタキオンなら尚のことそうだった。それにも関わらず、田上にはその事が話題に上らないよう祈ることしかできなかったから、もうどうすればいいのか分からなくなった。幸いなことに、タキオンはこの事に触れることはなかったが、終始、何かを伝えたそうに会話の間にそわそわした沈黙を置いていることが、田上に分かった。分かったからと言って、田上の予想した通りのものだと、タキオンに気遣いをしても自分の立場が危うくなるだけなので、それをすることはなかった。

 ただ、タキオンが一言それらしいことを言ったのだが、これは上手くはぐらかすことができた。それは、こんな言葉だった。

「トレーナー君」

 まず最初に、タキオンが呼び掛けた。ちょうど、パンジーの花がぽつりぽつりと生えている花壇に差し掛かったところだった。

 タキオンは、花壇のパンジーをしゃがんで指差しながらこう言った。

「見てごらん。パンジーの花が咲いてるよ」

 田上は、花に興味などなかったが、タキオンに合わせてしゃがんみこんで「ああ、そうだな」と答えた。

 二人は、暫くパンジーの花を見つめて黙っていた。タキオンは、パンジーの花にそっと触れ、嬉しそうに笑ったが、田上は土の上を歩いている蟻をじっと眺める以外のことをしなかった。

 やがて、パンジーの花を愛おしそうに眺めながらタキオンは言った。

「こうして散歩をしてみるのもいいものだよね。...気分転換になるし、何より楽しいし」

 田上は、数瞬の沈黙の後に答えた。

「なんで俺を誘ったんだ?...別に一人でも良かっただろ?」

 すると、タキオンは信じられないという顔をして、田上を見た。

「君との方が楽しいだろ!?…うん。......それに、君にも少し楽をさせてあげたかったし...」

 田上は、静かに「ありがとう」とだけ返した。その声には、それ以上の言葉を押さえつけるものが秘められていて、口を開いてまた話を続けようとしたタキオンの口からは何の物音も聞こえず、その口をただ閉じさせるだけとなった。タキオンの表情は少しの間、曇っていたが、残念ながら田上はその事には気がつかなかった。

 

 それから後は、歩いていくうちにタキオンも機嫌を取り戻し、木や街灯の上に鳥を見つけては「あれは、あれあれこうこうと言う名前でね、こんな生態を持っているんだ」とお得意の雑学を披露し、自身と田上の足音が、トレセン学園内の石畳の街道にとんとんと鳴っては嬉しそうにふふふと笑った。手こそ繋いでいなかったが、二人の後ろ姿は竜之終の町にいたときと変わらなかった。ただ、一つ変わったところがあるとすれば、二人はあまり話さないで歩いていたことだった。田上が話したがらなかったのが原因だろう。タキオンが二言三言話しかけても、田上は真面な返事をせずにすぐに話しを終わらさた。別にタキオンもそれ以上のことを求めていなかったので、二人は優しい時間を過ごすことができた。

 話の中でスカーレットの話題が出てきた。これも長く続く話題ではなかったが、タキオンが少し続けたい話題ではあったので、田上の返答が短いなりに長くは続いた。

 それは、こんな調子だった。

 再びタキオンの「トレーナー君」という呼びかけから会話は始まった。田上はこれに答えなかったが、タキオンは話を続けた。

「今日のスカーレット君との約束は覚えているだろうね?」

 田上は、「ああ」と答えた。

「昼からなんだろ?それなら昼まで私と共に時間を潰そうじゃないか」

 これには、田上は答えなかった。タキオンは、不満そうに鼻を鳴らして言った。

「なんとか言ったらどうなんだい?」

 田上は、「ああ」と答えた。タキオンは、今度は不満そうに鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。

 そして、少しだけ経った後に言った。

「今度は何を話すつもりなんだろうね?彼女は。...おそらく、また何かレースやそれに関わるものなんだろうということは分かるけど…。君はどう思う?」

 田上は、タキオンの話を何も聞いていなかったようで、急に我に返ったように「え?」と聞き返した。タキオンは、田上にも分からないくらいの一瞬に顔をしかめ、そして、言った。

「スカーレット君は、何を話すんだろうね!」

 その声が、怒気を孕んでいることには、たちまちのうちに気がついて、田上は慌てて「ごめん」と謝った。タキオンは、その言葉に満足げな表情を見せ、話の続きを催促した。

 田上は、不図、足の下でカシャカシャと踏まれて崩れていく枯れ葉に落ち葉に目を止めて言った。

「何を言われても、俺には俺の答えられる範囲のことでしか答えられないよ」

 そして、突然吹いた北風に身を震わせた。

 

 二人は尚も石畳を歩き、体育館に行く渡り廊下も散歩して回った。そして、高笑いをしながら通り過ぎていく女子生徒の横をすれ違った時、誰かのスマホがピロンと鳴った。

「ああ、私のだ」

 自分の物が鳴ったのかと思って、尻ポケットを探っている田上に、タキオンは声を掛けた。そこで田上はそもそも自分がスマホなんて持ってきていなかったことに気がついた。

 だが、田上には、こんなことよりも興味のあることができて、今まで半端だった口を開いた。

「お前、今日はスマホを持ってきていたんだな。ただの散歩なのに」

「スカーレット君との約束を考えてね。...私たち、カフェテリアで話す約束はしても、具体的な約束はしていなかっただろ?それで、スカーレット君の方から何か連絡をよこしてくるもんじゃないかと思って、こうして散歩にも関わらず、スマホを携帯していたというわけさ。...勿論、私が君と昼まで時間を潰すという話は聞いていたんだろうね?」

 田上は、申し訳ないような顔をして、首を横に振った。

 タキオンは、ため息をついて言った。

「まぁ、そんな気はしてたよ。......そして、ここで、スカーレット君からの連絡だ。――カフェテリアの前でお待ちしておりますが、お手数ながらトレーナーさんの方にもご連絡いただけますでしょうか?...おや!もうそんな時間か!よし、行こう。トレーナー君」

 タキオンは、そう言って、田上の手を繋ぐように軽く触れたが、その手は無情にも振り払われた。これは、田上の無意識が勝手にしでかしてしまったことなので、田上自身はそのことに気付きもしなかった。タキオンもその手を繋ごうとしたことは、あまり期待したものではなかったが、それでも少し残念そうに眉を寄せた。

 その顔には、田上は気がついた。だが、なぜタキオンがそんな顔をしているのか分からなかったので、不思議そうに首を傾げてタキオンを見返した。そこで、タキオンはまた田上の手を繋ぐことに挑戦した。今度は、田上も反応を示した。

「やめてくれ」

 そう言いながら、しかめっ面をしてタキオンの手を払ったが、逆にタキオンは満足そうな顔をした。そして、嫌がる田上の手を、少しだけ控えめに、人差し指だけ握った。そうされると、田上も怒っていいのか分からなくなり、何とも言えない顔をして前を向いた。

 二人は、静かな陽の光の下、その陽の光に負けないくらいの陽気さを醸し出して、カフェテリアへと歩いた。

 

 カフェテリアに近づくにつれ、田上はそわそわしだして、いよいよもう多くの人が見えてくると、タキオンが握っていた人差し指を振り解いた。田上が、思ったよりもあっさり解けたので、なんだか拍子抜けだったが、タキオンが可笑しそうにクスクス笑っているのを見ると、不機嫌そうな顔をした。すると、またタキオンはクスクス笑った。

 カフェテリアに近づいていくと、スカーレットの姿が見えた。カラフルに色付くウマ娘の髪の毛の森の中でも、その深紅の長い髪は見つけやすかった。

「タキオンさんにトレーナーさん!」

 タキオンたちを見つけると、スカーレットは嬉しそうに声を上げた。タキオンもまた、嬉しそうな笑みを作って、それに答えた。そして、その次に田上も挨拶をした。スカーレットは、田上の方にも嬉しそうに挨拶をしたから、田上も嬉しくなって思わず笑顔を作った。それを見て、タキオンもさらに嬉しくなり、溢れるほどの満面の笑みを作った。

 スカーレットと出会うだけで、二人の雰囲気は変わった。スカーレットの元気の良さに救われたのか、何なのかは分からなかったが、タキオンはそれがとてもとても嬉しくて思わず、田上にこう言った。

「君は、笑顔が一番素敵だよ」

 途端にスカーレットが、目の前の二人の雰囲気に黄色い声を上げた。

「お二人は、付き合ってらっしゃるんですか!?」

「そんなんじゃないよ」

 タキオンは、怒ろうにも相手がスカーレットだから、そんなにムキにはなれず、中途半端に渋い顔をして言った。それに気づいたスカーレットが、「すいません」と反省の色のある小さな声で言った。

 一方、田上はタキオンの突然の褒め言葉に面食らって何も言えなくなっていた。顔のことなんて褒められたことがなかったから、なんて返したらいいか全く思い付かなかった。しかし、そう考えているうちに、話はどんどん進んで行って、田上が答えを出す必要はないかのように思えた。田上は、それが安心できるようでもあったが、同時に、なにか返事をしてみたかったという、後悔に似た念に少しの間苛まれた。

 だから、田上は、女性陣が前を歩き、昼食を受け取る列に並んでいる間も一人で、楽しく喋っている二人の後ろについて、悶々と考え込んでいた。

――なんて返せば良かったんだろう?...タキオンの笑顔も素敵だよ、かな?それだと少し気持ち悪いか?...それなら、別にそんなことないよって謙遜しておけば良かったか?...それも微妙だな。...何が正解だったんだ?

 こんな調子で考え込んでいたが、明確な答えは出てこず、頭に浮かんだ案は何もかもくだらないもののように思えた。

 

 昼食を受け取ると、三人は、全員が座れる席を探したが、中々見つからなかった。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしても見つからなかった。そのうちに、タキオンも人混みに少しくたびれてきたが、田上はと言うと、二人の後ろをついてまだ先程のことを考え込んでいたので、人混みはさほど気にならなかった。

 一度、田上が逸れそうになってからは、タキオンにも警戒されてしまったので田上は自分の考え事に集中できなくなった。だから、仕様がないので、田上も席探しに付き合うと、すぐに目の前の席の人が立ち上がって、三人分の席が空いたのを確認した。よって、三人はその席にすぐに座り込んだ。

 そうすると、すぐにスカーレットの気分が優れなくなったかのように思えた。タキオンが、話しかけてもぽつりぽつりとしか答えず、三人の座っているテーブルはカフェテリアの中の喧騒に飲み込まれた。

 

 しばらくして、しょぼしょぼとした雰囲気の中、タキオンが頭に思い浮かんだことを適当に田上に言っている時、スカーレットが突然口を開いた。しかし、その口から言葉が出てこなかったのを田上は確認した。スカーレットは、再び口を閉ざして、スープを啜った。だから、田上はここがタイミングだろうと思って、話しかけた。勿論、タキオンが田上に話しかけ終わった時にそうした。

「スカーレット君は、今日話があるって言っていたけど、どのタイミングではなすのかな?...食事が終わってからがいい?」

 スカーレットは、突然話しかけられて、大層驚いた様子だったが、しどろもどろになりながらも「今、話してもよろしいでしょうか?」と聞いた。

「いいよ」と田上も答えた。

 すると、スカーレットは躊躇いながらも話し出した。

「......私、やっぱり不安なんです。これから、デビューできるか。トレーナーさんにスカウトしてもらえるか。......トレーナーさん、これから私はどうすればいいでしょうか?...私と同年代の人にもデビューしている人はたくさんいます。その中で、勝った人も勝てなかった人も両方いることを知っています。...私は、どちらになるのでしょうか?...選抜レースに向けて、最低限のことはしています。トレーニングもしっかりしました。けれども、私の不安は収まらないんです」

 スカーレットの話は、そこで終わった。すると、タキオンは田上に憐れみの眼差しを向けた。なぜなら、今、スカーレットがした話は、田上自身も答えを見つけ出せずに悩んでいることだったからだ。

 田上は、その質問に酷く動揺したが、自分の様子に出してしまうことはなんとかこらえた。しかし、スカーレットの質問に対する答えなんて出てきそうもなかった。これは、田上のその可哀想な知恵を超えた問いだった。タキオンもまたその事を理解して、助け船を出した。

「...それは、トレーナー君には重すぎる問いなんじゃないのかい?彼は、一介のトレーナーに過ぎないよ」

「そうなんですか...?」と、失礼なことにスカーレットは、がっかりしたように言った。これは、田上としては全く面白くなかった。実に苦々しい出来事だった。勝手に期待されて、答えを求められたあげく、その問いの答えが返って来ないとなると、勝手に失望するのだ。迷惑以外の何者でもないだろう。そして、それに加えて、自分の好いている女性に憐れみの目を向けられ、助け船を出されるのだ。これによって、田上の自尊心は酷く傷つき、有りもしない答えの面影をくだらないことと思いながらも、無理矢理に導き出した。

 田上は、スカーレットの無遠慮な問いに少し腹を立てながら答えた。

「あるよ。...タキオンも失礼だな。自分のトレーナーを信用しろよ」

「私は、別に君を疑っている訳じゃないよ!?」

 タキオンは、心底驚いた!という面持ちで、田上に言い返したが、田上はそれを無視して言った。

「先行きが分からなくて、不安なときはな、心の中でこう念じればいいんだ。――私は、絶対に強くて、何もかも上手く行って、不安なことなんて何一つなくて、きっと最後に笑うのは私なんだ!」

 ここで、スカーレットが「そうすればいいんですね!」と嬉しそうに目を輝かせたから、タキオンは驚愕を隠せなかった。

「おい、待ってくれ!それじゃ、胡散臭い宗教となんら変わらないじゃないか!思い込みだよ、思い込み!そんなんじゃ、鬱病よりも酷いことになるだけだぞ!」

 田上は、鬱陶しそうにタキオンを眺めるだけだった。スカーレットもこの乱入者に少し腹を立てたようだった。

「なら、どうすればいいのか、タキオンさんには、分かるんですか?」とつっけんどんに聞いた。

「分からない!」

 タキオンは、素直にそう言ってから話を続けた。

「ただ、トレーナー君の話を信じちゃいけないってのは分かる。...スカーレット君にそんなことを吹き込むだなんて見損なったぞ!トレーナー君!」

 タキオンの本気の恨みが籠った眼差しに、田上はたじろいだ。

「だって、答えを出さなきゃ...」

「だっても何も、そんなに急く必要なんてないんだ。…分かるかい?トレーナー君。君には、時間はたっぷりあるし、私も傍にいるんだ。まさか、まだ私をか弱い女の子か何かだと思っているんじゃないだろうね?それなら、もう一度考えを改めたまえ。今、君の目の前にいるのは、『個にして全』であり、『全にして個である』アグネスタキオンだ。それ以外の何者でもない」

 タキオンの堂々たる発言にスカーレットも田上も恐れおののいたが、次の瞬間にはタキオンも普通の可愛らしい少女に戻った。

「さあ、トレーナー君。スカーレット君に何か言いたまえ」

 その口調は、少しくたびれているようだった。タキオンらしくもない凄みを出して、疲れてしまったのだろう。今にも消え入りそうなため息を吐いた。

 田上は、その様子を怯えて警戒しつつも反省し、普段通りの優しく憐れな田上へと戻った。その様は、まるで今までやんちゃをしていた犬が、飼い主に見つかり怒られて項垂れているようだった。

 田上は、今にも泣き出しそうな震え声で言った。

「ごめん、スカーレットさん。俺は、それに答えを出せるような高尚な人間ではないんです。自分の教え子に怒られるくらいのくだらない人間です。すいません、俺よりももっと良い人間はいます。保健室の赤坂先生に聞いてみてはどうでしょうか?まだ、マシな答えが返って来ると思います」

 そう言って、不安そうにタキオンを見た。タキオンは、初めのうちは、田上がこちらを見つめて、何を伝えたいのか分からなかったが、スカーレットの方にも田上が目を向けるとやっとその意味が分かった。

 だから、こう言った。

「その時には、私も同席しよう。私は、あの先生とは仲が良いんだ。...それに、そう言う悩みを持つ子は度々来るんだ。君だけじゃないから、赤坂先生もきっと言えることはあるはずだよ」

 スカーレットにそう言うと、今度は、田上の方を向いて言った。

「...君は、......来なくても良いだろう?もう君の領分ではなくなった訳だし」

 田上は、黙って頷いた。

 こうして、また、スカーレットの悩みも解決できずに、変に不安な雰囲気のまま、タキオンの話し声とカフェテリアの喧騒だけが耳に入ってくるかに思われた。しかし、不思議なことにスカーレットはにこにこしながら、残りの昼食を食べていた。これを不思議に思ってタキオンが聞くと、スカーレットからこう返ってきた。

「私、目標ができたんです」

「目標?」

 タキオンは、スカーレットの突拍子もない発言に、思わずそのまま聞き返した。すると、スカーレットはもっとにこにこして、言った。

「お二人の様になりたいんです」

 これには、話を聞いていただけの田上も怪訝な顔をした。それにも、スカーレットは、可笑しそうににこにこ笑った。

「...そうです。お二人の様になりたいんです」

 今度は、田上の方を向いて言った。だから、田上が首を傾げると、また言った。

「私は、先程のお二人のやり取りを見てて、思ったんです。――ああ、こうして、言いたいことが言えて、二人して助け合って、まるで気心の知れる親友のような関係になれたら、私も楽しくレースができるんだろうな、って」

 スカーレットがそう言うと、田上とタキオン二人揃って顔を見合わせた。二人とも考えていることは一緒だった。それを、タキオンがスカーレットに代弁した。

「私たちのことを、君は、まるで少年漫画のキャラクターか何かかと勘違いしているようだけど、私たちだって苦労しているんだぞ」

「あら、タキオンさん。少年漫画のキャラクターだって、苦労しているんですよ?」

 この言葉でタキオンは完敗だった。田上の方を向くと、どうしようもなさそうな顔をして、助けを求めた。すると、今度は田上が言った。あまり元気はなかったが、スカーレットを喜ばせるくらいのことはできた。しかし、それは田上の思っていた結果とは異なっていた。

 田上は、こう言った。

「スカーレットさん、あんまり高尚な人間ではありませんよ。...僕は。タキオンには助けられてばっかりです」

 すると、タキオンが口を挟んだ。

「何言っているんだい。君がいるだけで、私の助けになることもあるんだぞ。...それに、私も到底高尚な人間とは呼べないし、むしろ他人に迷惑をかけていたりする。そういう時に助けてくれるのが君さ。...分かるかい?そう落ち込むんじゃないよ。昨日から変だぞ、君は」

 とうとう触れられたくないところに触れられたが、それは、会話の波に瞬く間に流されていった。

「そういうところです!」

 スカーレットが、少し身を乗り出して言った。

「お二人のそういうところが、私はとても好きなんです。もう、本当に気心が知れているじゃないですか。言いたいことが言えているじゃないですか。その姿に私は憧れを抱くんです。それこそが、パートナーのあるべき姿なんです。タキオンさんには、分かりますか?」

 スカーレットの勢いがいつにも増して、物凄いのでタキオンはたじろぎながら「デジタル君みたいなものだな。こんな様子は」と呟いた。

 それから、三人は楽しく昼食を取った。今度は、スカーレットが会話の音頭を取ったが、何に配慮してか、前に話していた話題はその昼食中二度と取り上げなかった。これにより、田上は心地よく食べることができたし、タキオンも一々渋い顔をせずに済んだ。

 そうして、時間は過ぎて行き、三人は昼食を食べ終わり、スカーレットとは別れの時となった。田上とタキオンは、もう少し昼食の腹ごなしに歩きながら会話をするようだ。スカーレットにそれを知らせると、クスクス笑い出したので、田上とタキオン揃って似たようなしかめっ面をした。すると、またそれが可笑しくなってクスクス笑いをさらに高めたが、タキオンがなぜ笑うのか理由を聞いても、それはついぞ言うことはなかった。

 

 帰り道、寮の前で別れるとき、二人は向かい合って両手を繋いだまま話していた。

 それは、タキオンが田上と別れたくないとごねたからだった。

「もう、君と別れなくちゃならないのか。時が経つのは早いなぁ…。…もう少しいてくれよ」

「…また、離れたくなくなったのか?」

「そんなことないさ!」

 タキオンは、強がった。

「…ただ、もう少しだけ君と話していたいなぁって」

「そりゃあ、無理だろう。夕食も今日は食堂の方で取るつもりだし」

「なぜだい?別に、カフェテリアにちょっと歩いても構わないだろう?」

「それが、構うんだな。…もう、足がクタクタで棒みたいなんだよ。それに、筋肉痛だって、昨日の今日でまだ全然治ってない。残念ながら、お前との夕食は今日は無理だ。そもそも、夕食自体、帰りついた時に食べる気力が残っているのかも分からないし」

 そして、二人は段々と離れていって、明るかったのが日が落ちるまでの時間となった。タキオンは、一旦寮に帰って、また夕食をとりにカフェテリアへと戻ったが、田上は自身が予言した通り、自分の部屋に辿り着くと夕食どころではなくなって、辛うじてシャワーだけを浴びると、後は昏々と眠りについた。それは、昨日の夢とは違い、気持ちよく安らかに寝れる眠りだった。

 その夢の中で、田上はタキオンを描いてニヤリと笑った。タキオンもまたどう時刻に、田上の夢を描いていたが、それは田上への幾らかの心配が含まれたものだった。

 しかし、二人とも朝起きたときには、そんな夢はすっかり忘れ果てていた。


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