ケロイド   作:石花漱一

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十二、新年一回目の選抜レース①

十二、新年一回目の選抜レース

 

 今年も選抜レースの時期がやって来たが、その前に少し前回のタキオンたちのその後を語るとしよう。

 スカーレットと話をした次の日、タキオンは、保健室を訪れた。勿論、スカーレットを交えて赤坂先生と会話をするわけではない。タキオンの少しの私用だった。それは、田上のことで、内容は、田上と母親の関係性についてだった。別に、赤坂先生に報告する必要もなかったのだが、元々赤坂先生からの報告で田上の哀しみが発覚したから、その恩義に報いて、今回の帰省での事を赤坂先生に話した。

 赤坂先生は、最初、タキオンが入ってくると、今回の帰省での思い出を話すよう催促した。赤坂先生は、ニュースでタキオンと田上が同じ所に旅行に出掛けていたのを知ったのだが、タキオンの元気そうな顔を見ると、今まで心配していたものも落ち着いた。

 そして、電車で三時間ほどかけて竜之終町に行ったことや、田上の家族の事や、霧雨と冬の寒さで死にかけたこと、その次の日には、風邪もひかないで奇跡的に全快して初詣に行ったことも話した。それから、最後に田上の父に聞いた事を話した。

「トレーナー君のお母さんはね。言っても聞くような母親じゃなかったようだよ」

「ほう」と興味深げに赤坂が答えた。

「それなら、なぜ田上は母親のことを泣くほどに好いているのだろう?…そんな母親なら恨みを持ってもいいんじゃないか?」

 赤坂がそう言うと、タキオンが返した。

「そんなこと私にも分かりっこないよ。何しろ、彼、複雑なんだよ。溜めこんでいるんだよ。身の内に宿る想いを。私の事なんて、頼ってくれようともしない。…孤独が好きなのかねぇ…?」

「…そんな人間はそうそういないよ。大抵は、自分を孤独へと追い込んでいる。知ってか知らずか…、多分知らないんだろう。例え、自分が一人になったとしても、なんにも救われることなんてないってことを。…自分自身ですら救われない」

 その時に、タキオンは自分がもう戻れないことを想って、田上の懐で泣いた事を思い出した。それを、赤坂先生にも相談してみようかどうか迷ったが、結局のところ口を開こうとはしなかった。しかし、その様子は察せられたようだ。赤坂先生が、不思議そうな顔をすると、「なにかあったのか?」と聞いた。それには、タキオンも参ってしまった。もう田上だけにしか話さないでおこうと心に決めたのに、そこに話してみろと顔突っ込んできたのだ。これには、どうしようもなく、だが、少し躊躇いながらも話し出した。

 タキオンは、少しバツが悪いような感じで話した。

「……少しね?……私も泣いてしまったんだよ」

「泣いた?」

 赤坂が、怪訝そうな顔をした。

「勿論、私のはトレーナー君のよりずっと分かりやすかったよ。自覚している分。……それでも、少し…何と言うか、ちょっとトレーナー君に頼り気味になっちゃってね」

「へ~。…まぁ、タキオンがしっかり分かっていると言うんだったら、あんまり深入りはしないけど、ちゃんと田上にも頼ることを忘れるんじゃないぞ。それで、自分の事も見失うんじゃないぞ」

「そこのところは、全くもって大丈夫さ。むしろ、今はトレーナー君の方が重要で、…昨日なんかはスカーレット君に胡散臭い宗教みたいな事を吹き込もうとして…。勿論、彼も真面な人間ではあるんだよ。君も知っての通り。…ただ、やっぱりどこか不安定な箇所があって、そこを私はなんとかしてあげたいと思っているんだ」

 タキオンがそう言うと、赤坂先生は険しい顔をして、保健室の床を見つめていた。丁度、タキオンの座っている足元だったので、その時間が長くなるとむず痒くなって、タキオンは少しだけ足を動かして視線の左の方にずれた。

 すると、赤坂先生は話し始めた。

「…まぁ、あなたたちは、私から見てもいいパートナーだから、あんまり心配することもないと思う。多分、解決には導くことができると思う。…ただ、それが長い長い道のりになって、死ぬときになっても治っていないかもしれない。私は、それが心配だわ。…いずれ別れは来るし、それ以前に心の病が悪化したりするかもしれない。…タキオンにも田上と一生を添い遂げる覚悟はないでしょ?」

 赤坂先生がそう聞くと、タキオンは躊躇いながらも頷いた。

「私は、できるだけ彼の傍にいてやりたいと思っているよ。…ただ、……そんな…結婚なんて…」

 そう言うと、タキオンはなぜだか知らないが、心臓がどぎまぎして、顔が熱くなってきたような気がした。だが、そんなことを深く考える間もなく、タキオンの熱を冷ますように赤坂先生がこう言った。

「あんまり中途半端な覚悟で、結婚なんて望んじゃいけない。その人と一生を添い遂げる覚悟が必要なんだ。タキオンにそんなものがないんだったら、ただの憐みの感情なんかで傍にいるのは間違っている」

 その言葉を聞くと、タキオンは意気消沈したように「ああ」と頷いた。赤坂には、残念ながらその様子を察することはできなかった。ただ、話の終わりの「頑張ってね」という言葉を言うと、タキオンを保健室から帰らせた。

 これが、一月十日の出来事だった。

 

 それから時が流れて、一月二十五日金曜日。今年初めの選抜レースが行われる二日前となった。田上は、スカーレットに「トレーニングを見ていただけませんか?」と誘われ、タキオンといつも行っている運動場に足を向けた。このところ、レースのトレーニングもしておらず、のんびりと休養していたので、ここに来るのは久々だったが、相変わらずというわけにはいかなかったようだ。選抜レースの手前、たくさんの生徒がトレーニングをしようとここに押し寄せていた。一応、その場を管理する人はいるにはいるのだが、どうにも元々ここに来ているのがトレーニング慣れしていない未熟な生徒たちだったので、たった数人で管理するのは大変だったようだ。それでも、なんとか秩序は保って、柵の立てられた芝生の周りを大勢がぐーるぐると回っていた。

 こんなことでは、真面なトレーニングはできそうになかった。だからと言って、他にもある敷地内の運動場に行ったとしても、ここと同じような光景が見えるであろうということが予想された。

 田上は、頭を困ったように掻きつつも、スカーレットの走りをしっかりと見てみたかったので、ちょうど人のいない運動場のすみっこで短距離走として、瞬発力を計った。結果は、上々の出来で、選抜レースに出て勝つには申し分ないように思えた。しかし、それだけでは勝てると結論付けることはできないだろう。スカーレットの出る千八百メートルのタイムも計ってみたかったのだが、生憎、先程言った通りで、真面なタイムは計れそうになかった。しかし、ここは無理も承知で、たくさんいる人を避けてもらいながら、スカーレットに走ってもらうことにした。これは、やはりダメだったと、田上は思った。すると、ここまでついてきていて、今まで土手の草の上に寝転がって本を読んでいたタキオンが、田上に近寄ってきて言った。

「…これは、ダメそうだね。…今回は、ただ、走らせて様子を見るだけにしておいたらいいんじゃないのかい?彼女もトレーニングをしているようだし、選抜レースも一回じゃないんだから、こんな人のごった返した面倒臭いタイミングでしなくてもいいだろう?」

 田上は、その言葉に難しい顔をして、こう返した。

「…ただ、俺がこのまま放り投げて路頭に迷わすのもなぁ…」

「それなら、私から言ってやろう。…なに、彼女も分からない人間ではないし、そもそも有望株ではあるんだ。一日ごときのトレーニングで、選抜レースくらい負けはしないだろう」

 そう言うと、タキオンはちょうど目の前の方に人を避けながら走ってきたスカーレットを手を上げて制した。

「おーい、止まってくれ」

 タキオンがそう言うと、スカーレットは困惑した表情をしながら、タキオンを見、そして、後ろの方にいる田上を見た。

「何かあったんですか?」

 スカーレットがそう聞くと、タキオンが言った。

「私とトレーナー君とで話し合ったんだが、これは、いくらやっても無駄だ。人を避けながら、トレーニングなんてストレスが溜まるだけだ。…少なくとも、私はそうだが、…君もそうなのだろう?」

 スカーレットはタキオンの言葉に上手く反応できずに、困ったように田上を見た。すると、田上は言った。

「別に、走りたいなら走ってもいいんだけど、人を避けなくとも、この学校周辺の道路にあるウマ娘用のレーンで走った方がストレスは少なくすみそう。…そして、見た限りは、走り方にも特に問題点は見つからなかったから、選抜レースの心配はあまりしなくてもいいんじゃないか?」

 だが、この言葉でもスカーレットには上手く伝わらず、今度は、また困ったようにタキオンの方を見た。すると、タキオンは言った。

「要するに、選抜レースが不安で走りたいんだったら、君の好きなようにすればいいわけで、それが、道路であろうと運動場であろうと好きにしたまえ、ということだ。選択肢があるのは、トレーナー君なりの優しさだよ」

 その言葉でやっとスカーレットの理解は得られたが、それとは裏腹にスカーレットは少しの間思い悩んだ。というのも、やっぱりまだ、自分が力不足なんじゃないかと心配で、信頼できる人たちに見ていてもらいたかったのだ。タキオンは、それを察すると、思いついたようにこう言った。

「ん!…それなら、一度、私と競争しないかい?最初にやった、短距離走で。…あれでも分かることはあるのだよ?スカーレット君。…そして、GⅠウマ娘としての経験の違いってものを見せつけてあげよう」

 タキオンはそう言うと、「ひとっ走り着替えてくるよ」と言って、寮の方に駆けて行った。

 残されたスカーレットは、嬉しそうだった。なぜなら、二人はまだ一緒に走ったことなんてなかったからだ。それは、スカーレットが誘わなかったからで、もしスカーレットが誘っていたならばタキオンは喜んでそれに応えただろう。だが、スカーレットには、大先輩のGⅠウマ娘であるタキオンには到底敵いそうにないという思いがあって、今までそれを避け続けてきた。

 そして、今日、思いがけず競争する機会を掴めたが、スカーレットは先ほど言った思いとは逆に、大先輩と一緒に走れる、それも競争できることにワクワクしていた。これには、スカーレット自身も少し驚いた事であったが、それ以上にワクワクが勝って、タキオンが体操服に着替えてくるまで嬉しそうにニコニコしていた。

 

 タキオンが戻ってくると、三本先取の勝負が始まったが、そのどれもにスカーレットは負けて、叩きのめされた。一度、惜しいところまで言ったように思ったが、それでも届かないものは届かなかった。タキオンは、田上の方を向いて、ふふっと得意気に笑った。これが、GⅠウマ娘の貫禄だった。だが、これによってスカーレットが酷く落ち込むということはなく、むしろタキオンへの尊敬の念を強めた。

 これで、スカーレットは、一区切りついたようだった。

「外の方を軽く走ってきます」と言うと、田上の「あんまり走りすぎないように」との忠告を受けて、正門から外走名簿に名前を書いて走りだして行った。

 その後ろ姿を見ながら、タキオンが言った。

「私たちももうそろそろトレーニングを再開しないとね」

 タキオンの言葉に田上は、「うん」と頷いた。なんだか元気がないように思えた。

 もうすぐ、空が紅に染まる時間だった。その兆候は見え始め、空の端の方がぼんやりと赤く染まり出した。

「もう、今日からしてしまおうか」

 タキオンが、もう一度田上に言った。今度は、田上も答えなかった。少し心配そうに田上の顔を眺めた。

「…何を思い悩んでいるんだい?」

 タキオンが聞いた。すると、田上が答えた。

「……スカーレットさんは、…速いだろう?」

「勿論さ。当たり前の事を聞いてどうするんだい?」

「…もしかしたら、別の道だってあっただろ?走らないで絵を描いたり、詩を書いたり…。…それなのに、どうしてお前たちウマ娘は走るんだ?三冠やGⅠを志すんだ?」

「…それは、…私には難しい質問だけどね。…一つだけ言えることは、私が走ることを志さなかったら君と出会えたことなんて万に一つの可能性もなかっただろうって事だね」

 そう言うと、田上が顔に少し笑み作った。

「…なら、案外悪くないことのような気がしてきたな。…ウマ娘って」

 薄暗くなってきた。雲も立ち込めてきた。紅に染まるかと思われた空は、灰色のどんよりとした雲に覆われた。田上たちは、今日のところは帰ることにした。ただし、暗くなるまで学園内を散歩した後でだった。

 二人は、一言もしゃべらず、ただ、足の向くままに任せた。時々、二人が別々の道を取ろうとすると顔を見合わせてニコッと笑い、そして、どちらかの選んだ道に舵を取った。どちらの選んだ道に舵を取るのかは、その時その時だった。タキオンの時もあれば田上の時もあって、その判断の仕方なんて二人にはなかった。ただ、あどけない雰囲気に合わせて、舵を取った。

 

 そして、土曜が過ぎた。土曜は特に何もなかった。一度、タキオンが「暇だ」と言って、訪ねてきたこと以外は、平穏そのものだった。タキオンは、暇だから田上の部屋に入りたそうにごねていたが、田上は、それをドアの前で何とか追い払った。その様子を終始寮の誰かが見ているので、田上は顔から火が出るかと思うくらい顔が熱くなった。

 タキオンは、田上が「何か相手をしてやるから」と言うと落ち着いて、それ以上ごねなくなった。それから、田上は自分の部屋に立て籠もる事の出来る機会を掴んだのだが、それはしなかった。タキオンが部屋の前で待っていることを知っていたし、もしそれをして、タキオンの呼び出す声が聞こえてくれば逆らえないのは、身に染みてわかっていたからだ。

 田上は、寮の共有スペースの方にタキオンを連れて行き、そこで「トランプでもなんでもしてどーぞ」と言った。タキオンも初めのうちは乗り気のようだったが、田上のトランプの腕が想像以上に弱いことを知ると飽き始めて、遂にはそこらへんのトレーナーにちょっかいを出し始めた。

「君、何か面白い話をしたまえ」とか「君の五十メートルのタイムはいくつだい?」とか、友人でなければ反応のしようがない面倒臭い絡み方をした。その度に田上は、タキオンとその人の間に割って入って、「すみません、うちの子が」とまるで実際の親のように謝った。そうすると、タキオンは面白がってクスクス笑った。田上が、それに面倒臭そうにため息を吐くと、さらにクスクス笑った。

 その後は、いよいよタキオンも何もないと知ると、落ち着きを取り戻して、共有スペースのテレビを見ては「そいつは見当違いだな」とか「見ろ、トレーナー君。北海道で熊が出たそうだ。…これは生中継しているやつなのか?」と声を掛けた。その度に田上は顔を上げて、それに答えた。特に何もない土曜日だった。

 それから、もう寮に帰る時間になると、タキオンを見送った。別に不審者なんてこの学園にいるはずもないし、そもそもウマ娘に敵う男なんているはずもなかったが、暗かったので田上は一応タキオンに付き添って寮の前まで送った。

 寮の前まで着くと、タキオンと田上は別れの言葉を交わして、そのまま別れた。田上には、タキオンから「転ばないように気を付けてくれよ」という心配の言葉が授けられた。

 寮の方に戻ると、今まで共有スペースで二人でソファーに座っていた様子を見ていた霧島にからかわれた。実のところ、霧島は田上とゲームをしたかったのだが、それが叶わなかったので、ちょっとした鬱憤を晴らしたかったらしい。田上には、それが霧島の口調で分かった。分かったからと言って、そんなやつの相手なんてする気になれずに、食堂の方に行くと、飯を食ってそのまま部屋に帰った。

 

 日曜日になった。今日は、朝から騒がしかった。皆それぞれが興奮して、いつも遅くに起きている人でも早く起きているらしい。田上が準備を整えて共有スペースに行くと、そこにはワクワクした顔の人たちがいくつもいくつも並んでいて、うんざりするほどだった。田上も今日は、選抜レースを見に行く予定だったので、早くに起きた。自身のトレーナー室からあれこれの必要なものを取っていかなくてはならなかったからだ。

 選抜レースは、まだもう少し遅い時間、九時から始まるが、田上が起きたのは六時半だった。これでは、田上もトレーナー室から荷物を取りにいかなければならないと言えど、興奮して起きてしまった事には言い逃れができなかった。

 田上は、共有スペースの中に友人たちの顔を見つけたから、ここで話しかけられては面倒だと思い、こっそりと隠れるように外へと出ていった。

 

 外に出れば、そこも人でごった返していて、まるで祭のようだった。生徒がトレーニングに使うものではない、レースとして使うレース場は、トレーナー寮の傍ではなくもっと先の方にあったのだが、それでも人は大勢いた。

 この時期から、新規のトレーナーが入ってくる。十一月くらいに中央トレーナーの資格を取る試験を済ませて、そして、一月くらいにトレセン学園内へと入ってくる。普通の企業などであれば、年度末などを基準にするのだろうが、この学園は時間の進みというものを気にしていないようだ。世間とのズレなど気にせずに、自分たちの思うがままにやっていた。

 それでいて、トレセン学園を主な就職先としたトレーナー専門の大学でさえ、卒業の時期が少しずれていたりもするので、その齟齬に田上は苦労したりもした。

 だが、今年のトレーナー諸君は見たところ大丈夫なようだった。心配で腹の調子を崩している人もいなさそうだし、広いトレセンの中で迷子になる人もいなさそうだった。どの顔も満ち足りていて、幸せそうでうんざりした。この中の何人が、トレーナーという職を嫌になってやめるのだろうかと思ったからだ。だが、それは実際のところは、ただの妬みでしかなかった。自分自身に一瞬たりともなかったその希望の表情を、嘘の仮面だと思って、見下しているだけだった。

 

 田上は、人の流れに逆らいながらトレーナー室へと向かった。この時期は、不審者にも注意しないといけない。知らない顔が次々と入ってくるので、誰が誰でこれがあいつなんて、分かる人はそうそういないのだ。それだから、たまにそういう騒ぎがあったりする。だが、トレセン内の警備がすぐに駆けつけ、騒ぎを起こす奴はすぐに連れて行かれた。何人雇っているのかは知らないが、トレセン学園の財力は底が知れなかった。トレーナーも数知れず居るし、ウマ娘もそれ以上に数知れず居る。

 知らないウマ娘もたくさん入ってきていて、人の流れの中にいた。たまにぶつかったりすると、ぎろりと睨まれたが、こちらが「すいません」と言うと、途端にその顔を食い入るように見つめて、隣の女子に囁いた。

「あれ、アグネスタキオンさんのトレーナーさんじゃない?…あれ。…あの……、田上トレーナー」

 これは、全部田上に聞こえていたが、無視して先に進んだ。

 

 ウマ娘寮の前にも人だかりができていたが、これは新しい人たちではなく、ぞろぞろとやってきた新しい人たちを見る、興味津々なウマ娘っ子の集まりだった。その中の一番後ろの方に、タキオンのアホ毛が伸びているのが見えたような気がしたが、気のせいだと思うと、田上はトレーナー室へ歩を進めた。

 その途中で田上が声を掛けられることもあった。大抵は、今年は入ったトレーナーばかりで、度胸の据わってない人でなければ、田上の厳めしい顔に話しかけることなどできなかった。そして、そういう人たちは、決まってGⅠウマ娘を育てたコツなどを聞き、田上から碌なものが聞けそうにないと知るとがっかりして去って行った。これには、田上も気分が悪くなった。なぜ、見ず知らずの他人にがっかりされないといけないのか?

 そして、今月十日のスカーレットとの出来事を思い出した。あれには、自分も痛くなるほど反省していたので、そのことを掘り返されて、苦々しい気分になった。

 そんな時だった。タキオンが後ろから走ってきたのは。

「おーい、トレーナーくーん」

 そう後ろから声が聞こえてきた。見ると、人の波を掻き分けて、タキオンが近づいてきているのが分かった。白目を剥いて死んでいるデフォルメされたライオンが描かれている服を着ていた。恐らく部屋着か何かなのだろう。それくらいに軽快な服装だった。

 あんまり変な服だったし、公衆の面前でタキオンと会うのも何だか恥ずかしかったため、田上はその呼びかけを無視して先に行こうと腹を決めた。しかし、その直後、タキオンの「あイタ!」という声が聞こえ、思わず振り返った。タキオンは、人混みに紛れて見えなくなっていた。

 田上は、タキオンに何事があったのかと心配になって、すぐに後ろの方に戻った。すると、人混みから外れるようにタキオンがヨロヨロと出てきた。そして、出てくると、すぐにそばの花壇に腰かけて、自分の足を眺めていたから、田上は近寄って「大丈夫か?」と声をかけた。

「何かあったのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンが足の指を抑えてこう言った。

「足を踏まれたんだよ。…すみませんと謝りはしたけど、ウマ娘の足がどのくらいに大切か分かっていないようだねえ。すぐに、先の方に歩いて行ったよ」

 タキオンは、それから自分足を眺めた。冬だというのに、サンダルで出歩いていたから田上はぎょっとした。

「お前、なんでサンダルでここに来たんだ?」

「ん?…君を見つけたからだよ。何か急いでいるようだね?どこに行くつもりだったんだい?」

「…別に急いではいないよ。トレーナー室に荷物を取りに行っているだけ」

「それなら私も同行しよう」

 これは、タキオンの方が急いでいるようだった。タキオンは、急いで立ち上がると、田上に「行こう!」と呼びかけた。なんだか様子のおかしいウマ娘に引っ張られながら、田上は仕方なしにその後について行った。

 

 トレーナー室に着くと、タキオンは少しそわそわしているようだった。田上が、荷物を取りに行くだけと言っているにも関わらず、本棚の前に立ってどの本を読もうか選んでいるので、タキオンは田上の横に付いて「はやくしろ」と急かした。

 これには、田上も良く思わず、タキオンに「何かあったのか?」と聞いた。すると、タキオンは何かに気が付いたようにはっと目を見開き、そして、落ち込んだように肩を落として言った。

「…すまない、トレーナー君。少し興奮していたようだ」

 タキオンは、そう言ったが、田上の質問に明確に答えていないことは、田上にも分かった。だから、こう聞いた。

「なんで、興奮してたんだ?」

「なんで?」

 タキオンは、オウム返しにそう言うと、急に固まった。そして、「なんで…?…なんで…?」と繰り返しながら、その顔は次第に熱を帯びていった。田上には、何でタキオンがこんなにも言う事に詰まっているのか不思議でならなかったが、わざわざそんなことに触れるのも悪いだろうと思ってこう言った。

「もう荷物を取ったから帰るぞ」

 途端に、タキオンが「ああ!待ってくれ!」と大きな声を上げたから、田上は、怪訝な顔をしてタキオンを見つめた。この顔は、タキオンには少し堪えた様だった。驚いて「どうしたんだ?」と声を上げてくれれば、タキオンも話しやすかったが、そうやって怪訝な顔をして心配そうに見つめられると、出てくるものも出てこないかのように思えた。

 だが、タキオンは、無理矢理言葉を捻り出した。ここで言わねば、今後、言う機会がないような気がしたからだ。もしあるとすれば、それは喧嘩になったときくらいだろう。そんなことはごめんだった。

 タキオンは、小さく自分の言う事を恥じるように言った。

「……君、もう新しい子のスカウトなんかをする気なんだろう?」

 タキオンが何を話したいのかまだ分からなかったが、田上はとりあえず頷いた。

「…そうなのか……。ならば、その話はもう少し早く私に伝えてもらえると助かったんだがね」

 今度のタキオンは、少し怒っているようだった。ただ、それでも理解できずに、田上は曖昧な口調でこう言った。

「…俺は、大丈夫だと思ったんだけど…。お前にも、俺がスカウトするつもりがあるって、バレてしまったし」

「バレたことが許可に繋がることには思えないだ。私は。…それに、君は大阪杯まで私の環境を変えないつもりだということを言っていただろう?それは、どうなったんだい?」

「…それは、…もう大丈夫だとばかり思っていたから…。ごめん…。…なら、もうこの荷物もいらないか」

 田上が、がっかりしながら机の方に荷物を置いたので、タキオンは慌てて言った。

「別に、君の事を責めたいんじゃなくて……、ねぇ、分かるかい?ちょっと私にも気を遣って欲しかっただけで、君を貶したいんじゃないんだよ。ただ、……」

 ここでタキオンは顔を赤らめた。どうも、赤坂先生と話したあたりからおかしかった。田上と一生を添い遂げる覚悟なんてないはずなのに、そのことが頭の中にチラついて仕方がなかった。しかし、タキオンはここで踏ん張りを見せると、最後まで言い切った。理由は、やっぱりこれを言わなければ、今後後悔してしまうような気がしたからだ。

「…ただ、…君にこの前私を抱きしめてくれたような温もりが欲しいだけなんだよ。…それが、なくならないかが心配であって、君にどうこう言いたいわけじゃない」

 タキオンは、そう言うと、ここで全力を使い切ったようにふーとため息を吐いた。田上は、タキオンの言葉を聞くと、苦々しげな顔をした。田上にとって、タキオンを抱きしめた事は良い思い出とは言えないからだ。しかし、タキオンは田上に返答を求めるように見つめていた。世界が傾いていくような気がした。こんなことに答えなんて出したくなかった。

 そのうちに、世界は真っ白になった。

 

 気が付くと、目の前にタキオンの顔があって驚いた。慌てて起き上がると、周囲を見渡した。ここは、淡い光の差し込むトレーナー室だった。そして、どうやら自分はタキオンに膝枕をされていたようだった。なぜ、そうなったのかは分からなかった。ただ、立ち上がるとすぐにフラッときて、机の端にしがみついた。すると、タキオンが心配そうに寄ってきて言った。

「大丈夫かい?どこか痛む場所などないかい?…君は今倒れたんだよ」

「倒れた?」

 オウム返しに聞いた。

「そう、君は今、倒れたんだ」

「…どのくらい?」

「ついさっきさ、一分も経たないうちに君は起き上がったよ」

「……なんで膝枕をしてたんだ?」

 田上が、苦しそうにそう聞くと、タキオンがこう言った。

「君の事が好きだからさ」

「好き?」

 田上の心臓が飛び跳ねながらも、またオウム返しに聞いた。

「そう。君の事が好きで好きで堪らなくて、愛しいその顔を眺めていたかったのさ」

 田上は、何も言えなかった。遂に念願の夢がかなったと思ったからだ。しかし、同時にあることにも気が付いた。それは、目の前にいるのはタキオンではないという事だった。

 それに気が付くと、再び世界が傾いた。そして、ぐるんと一回りすると、田上は、トレーナー室の天井を見つめて、寝転がっていた。

「トレーナー君!?」

 タキオンの悲鳴が聞こえてきた。先ほど見たのは、夢だった。しかし、現実のぎりぎりまで近づいたリアルな夢であった。実際に、田上は倒れていた。

 田上の見た夢は、初めのうちは鮮明に覚えていたが、タキオンが心配して駆け寄ってくるぱたぱたという足音が近づいてくるにつれ、その夢は朧げになっていった。その夢の名残を掴もうと、田上は空中に手を伸ばしたが、その先には本物のタキオンが現れた。田上の伸びた手を握ると、心配そうに言った。

「君、大丈夫かい?頭打ってないかい?意識は?…あるね。…生年月日は?名前は?どれもこれも言えるかい?」

 田上は、フラフラする頭を無理にでも動かしながら、体を起こした。タキオンは、なおも心配そうに田上の傍にいたが、田上はタキオンに構う余裕などなかった。堪らなく悲しくなったからだ。朧げな夢の先に見えたタキオンの姿が。あんな夢を見たことが。

 田上は、大きく疲れを絞り出すようにため息をついた。隣には手を握って、タキオンがいた。田上は、その手を解こうとしたが、これはタキオンが頑として受け付けなかった。すると、また一つため息をついた。

 タキオンは、聞いた。

「…何がそんなに悲しいんだい?」

 田上は、これに答えることはできなかった。喉に腫れ物ができて、その道を塞いでいるように思えたからだ。ただ、静かに首を横に振った。目頭も熱くなってきた。タキオンの前で泣きたくなどなかった。それを一生懸命堪えるように、田上は息を荒くした。

 タキオンには、今、田上の中でのっぴきならない事が起こったのを感じ取った。しかし、本人がそれを我慢しようとしている以上、何も言うことができなかった。――せめて、私を頼ってくれたらいいのに。タキオンは、そう思った。

 田上の悲しみは、タキオンにも伝染した。タキオンも田上の顔を見ていると、段々と悲しくなってくるような気がした。しかし、自分が感情の渦に飲まれてはいけないと心を強く保ち、そして、自分自身と田上を励ますように殊更に強く手を握った。

 すると、田上はゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。荒ぶっていた田上の息も次第に普段の状態に戻った。それでも、タキオンは手を離そうとはしなかった。タキオンは、田上の手が白くなるまで強く握っていたが、これは無意識にやっていたことだったので、田上に「痛い」と言われて初めて、自分がこんなにも強く手を握っていたことに気が付いた。

 ただ、「痛い」と言わせたことで、田上の口を開きやすくすることはできたようだ。タキオンが、何が悲しかったのかもう一度聞くと、一応、口を開いてくれた。しかし、それは何にもならず、もう何が悲しかったのかは覚えていないという旨を伝えられただけだった。

 タキオンには、どうしようもなかった。ただ、田上の容体はもう大丈夫そうだという事を確認すると、立ち上がってこう聞いた。

「今からどうするんだい?」

 田上には、これから選抜レース場に行く予定があった。しかし、それをタキオンに伝える努力はしなかった。代わりに立ち上がることに全力を割いた。フラフラとおぼつかなかった。タキオンは、それを支えた。答えは聞いてなくとも分かっていた。今のは、念のために聞いただけだった。

 タキオンは、田上の傍にぴったりと寄り添って、その体が進むのを支えた。ドアを開け、荷物を持ち、体を支えているその様は、まるで長年を共に過ごした老夫婦のようでもあった。しかし、それは紛れもない田上とタキオンで、田上も普通に歩けるようになると、タキオンの体の支えを解いて、離れて歩こうとした。しかし、それはタキオンが許さなかった。

強引にその手を掴むと、人の流れの中に身を置き、流れが一歩一歩進むたびに、タキオンたちも一歩一歩進んだ。

 不思議なことに大衆の面前だというのに、タキオンと手を繋ぐことはさほど恥ずかしくはなかった。ただ、胸の内にえも言われぬむず痒さができて、その心地よさに口元に微かに笑みを作っただけだった。


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