ケロイド   作:石花漱一

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十二、新年一回目の選抜レース②

 選抜レース場の観客席の椅子に座ったが、日頃の疲れが出てしまったのか、タキオンの方に寄りかかって田上は、昏々と眠ってしまった。これで、初めてタキオンが田上に楽をさせてあげることができた。と言っても、できたのは寄りかからせてあげることだけだったが、それでも、田上はとても安心して深く眠っているように見えたので、タキオンは嬉しかった。

 昼食の時間になっても、田上が起きる気配がなかった。さすがに、タキオンもこのままじっとしておくというのは難しかったので、田上を慎重に横にすると、席を三つくらい使って田上を寝やすい体勢にしてあげた。それで、ついでに自分も楽な姿勢になった。席を三つ使ったことについては、他の人たちに奇天烈と思われていそうな目を向けられたが、タキオンは気にしなかった。今は、田上に楽をさせてあげたかった。田上の頭を自分の太ももの上に乗せると、その顔をなんとも言えない感情を持って見つめた。少し緊張するようでもあったから、自身の心臓の音なども聞こえてきて、それが、タキオンに揺さぶりをかけた。

 田上の顔がとても愛おしく見えた。不健康で青白いその顔が、髭の濃い顔が、今まで幾多の苦悩に見舞われてきたその顔が、今はとても愛おしく思えた。タキオンは、田上の頬をそっと撫でた。まだ、自分の心に整理はついていなかった。第一、タキオン自身、愛や恋なんて自分には分からないもの、と決め込んでいたから、田上を想うこと自体、計り知れないことだった。

 冬の寒さが、田上の体を冷やしていた。タキオンは、一生懸命、田上の手を温め、頬を温め、首を温めた。この時程、ウマ娘であってよかったと思ったことはないだろう。その感情は、母性に近いまであった。タキオンは、そのことに気が付くと、急に赤坂先生の言葉を思い出した。

――ただの憐みの感情なんかで傍にいるのは間違っている。

 すると、タキオンは同情で田上を想っていたのかと考えて、なにがなんだか分からなくなった。母性に近いその感情は、実は、ただの同情だった。この声が、頭の中を占めてきた。そんなことは、嫌だった。タキオンは、自分が自分として田上を想っていると信じたかった。しかし、考えれば考える程、信じれば信じる程、自分の想いは分からなくなった。

 タキオンは、黙って、田上の顔を見つめた。冬風に吹かれて寒そうだった。さらには、その風に雪も混じってきた。もうここにはいられなかった。田上を起こすと、「もう帰ろう」と小さく言った。

 田上は、目を覚ますと、タキオンの顔が目の前にあって、それで、夢の事をふっと思い出した。しかし、それはタキオンの儚げな「もう帰ろう」という声によって打ち消された。確かに、冷たくて寒かった。しかし、まだ、競走は終わっていなかった。

「俺はどのくらい眠ってた?」

 田上は、慌ててタキオンに聞いた。

「君の腕時計を見れば具体的な時間は分かると思うけど、ざっと四,五時間は寝たんじゃないのかな」

「じゃあ、昼飯は食い損ねたわけだ。……一時五十分。スカーレットさんのレースは、まだ終わってないみたいだな」

 タキオンが、「もう帰ろう」と言ったのにも関わらず、田上は、まだウマ娘のスカウトを続けるようだった。タキオンは、悲しそうな顔をしたが、田上は、今は寝て元気が有り余っているようで、芝の方を見つめては、「二時から始まるのには間に合えたようだな」と言った。

 タキオンは、田上の気を引くようにその袖を引っ張った。すると、田上は、タキオンの方を振り返ったが、何か言う前にもう一度前の方を振り返った。というのも、前の方から声をかけられたからだった。

「あの~、すいませ~ん」と女の人の声が聞こえてきた。見ると、成人した女性のようではあったが、髪は美しい金髪の、頭にはウマ耳を、腰には尻尾を生やした正真正銘のウマ娘だった。しかし、小柄ではあったので、果たして生徒としてここにいるのかトレーナーとしてここにいるのか、田上には判断がつかなかった。その間にも、タキオンは「帰ろう」と言って、田上の袖を引っ張るので、田上は軽く混乱して、「えーっと…?」としか言えなくなった。

 田上が混乱しているのを察してか、その女性はこう言った。

「私、今年からトレーナーになったんです。ナツノマテリアルと言います。…えっと、私の間違いでなければ、田上圭一トレーナーですよね?」

 田上は、タキオンの手を「やめてくれ」と言って軽く叩くと、今度はマテリアルの方に向かって「ええ、そうですよ」と答えた。マテリアルと名乗るウマ耳の生えた女性は、田上がタキオンと少し揉めているのを見ると、話しにくそうにしたが、自分の用件ははっきり言った。

「私、田上トレーナーの下で暫く学ばせて貰いたいのですが、よろしいでしょうか?」

 マテリアルが、こう言うと、タキオンも袖を引っ張るのをやめて、驚いたように目の前にいる女性を出会ってから初めて見つめた。端正な目鼻立ちに、綺麗な肌、その表情は、どこか女としての自信があって凛々しさが透けて見えた。その表情にタキオンは、ドキッとした。だが、綺麗なそのブロンドの髪は、気の強い女の人のように後ろの方でぴっしりとポニーテールに括られていて、その美しさは、気の強さに半分持っていかれているような気がした。

 田上は、マテリアルの要望を聞くと、困ったように頭を掻いて、そして、タキオンを見た。その時、タキオンはマテリアルに見とれていて、田上の視線には気がつかなかった。だから、田上は、もう一度マテリアルの方に振り替えるとこう言った。

「生憎、今は補佐とかを使う必要もないから、…人員はいらないんだよねぇ」

「そこをなんとかできませんか!ぜひ、田上トレーナーの傍で学ばしてもらいたいんです!」

「学ばしてってねぇ…」

 田上は、マテリアルの勢いにタジタジになりながら、後ずさりもできないため、少しだけ身をタキオンの方に傾けた。

 すると、また「ぜひ」と言って、マテリアルが詰めてきた。田上は、またも困ったようにタキオンを見ると、今度は、ちゃんと目が合った。しかし、その顔は少し恍惚としていた。

「私は、…良いと思うよ」

 口調も恍惚としたままタキオンは言った。その様子に田上は困ってしまったし、言った事にも困ってしまった。田上の予想した通り、タキオンが賛成の意見を述べるとマテリアルはすぐに調子に乗ってこう言った。

「ほら、アグネスさんもこういっていることですし、ぜひ、私を補佐に加えていただけませんか?本当に、…本当に田上トレーナーの下で学びたいのです」

「…学びたいって言ってもねぇ…。…学べることなんて何一つないと思うよ。俺は、ここまでタキオンに引っ張ってこられただけだから、むしろ、ここからがトレーナーとしての本領を試される正念場で、一人を育てたからと言って、それだけで判断するのは些かまずいのでは?」

 田上は、口だけのトレーナーの様な偉そうな口調を真似して、この場からマテリアルを追い払いたかったのだが、マテリアルからはこうも言われた。

「私は、田上トレーナーだけでなく、今、活躍中であるアグネスタキオンさんの走りを見させてもらうことにも意義があると思います。GⅠウマ娘がどのように考えて、どのように走るのか。また、普段からどのようにトレーナーと触れ合いながら、トレーニングをしていくのか。それを、肌で感じながら学ばせてもらう。そのことに、私は大変な意義を感じます」

 これには、田上も頭を抱えた。マテリアルは、絶対に譲らない人のように思えた。今の口調からも、意思が固い人であることは感じ取れた。だからと言って、田上の方もなんだか面倒臭そうという思いは譲れないので、こう言い返した。

「なればこそ、あなたのように熱心な人は、私の傍に置いていくことはできません。彼女たちウマ娘は、走るためにここに来ているのです。決して、新米トレーナーに自分の走りを学ばせるために来ているのではありません。…厳しいことを言うようですが、他を当たってください。補佐じゃなくてもトレーナーはできるし、僕じゃなくてもGⅠウマ娘のトレーナーはいます。…他を当たってください」

 田上は、きっぱりと言葉を区切ったのだが、その直後にマテリアルはタキオンの方を向いて、言った。

「アグネスさん、今の田上トレーナーの物言いについて、どう思われますか?」

「えっ、私?」

 タキオンは、急に話しかけられて驚いたが、隣の田上の「何も話さないでくれ」という顔は全く見もしないで言った。

「…私は、マテリアルさんが補佐になっても構いません。…走りを見られたとしても、それで集中を乱されるような私ではないし、トレーナー君に関しては、……まだ私に引っ張られてここに来たと思っているのかい?」

 タキオンは、最後に田上に聞いた。これには、田上も答えたくなかったが、マテリアルの手前渋々答えた。

「俺は、…まだそう思ってるよ。実際に、お前のためにできたことなんて何一つないんだから」

「あのねぇ、君がいてくれるだけで私の励ましになったんだ。君がいたからこそ菊花賞を優勝することができたんだ。…私は、引っ張ってきたつもりもないし、これからも引っ張っていくつもりもない。また、置いていくつもりも断じてない。そのことは分かってくれ。…それとも、君は置いて行かれたいのかい?」

 田上は、タキオンの顔を見つめたまま何も答えなかった。すると、横からまたマテリアルが口を挟んできた。

「その感じです!私が学びたいのは、二人がどう切磋琢磨していくかです。その景色こそ、美しいとお思いになられませんか!」

 田上はしかめっ面をしたし、タキオンもどうもその表現は好きになれなかったようだ。少しだけ眉を寄せた。

 それから、田上が言った。

「なら、もう学べたのではないでしょうか?これが、僕たちの全てです」

「いいえ。私は、そのこれからが見たいのです。一つの場面を切り取って、これが全てなんてことはあり得ないのです!」

 美しく凛々しいその顔が、今は興奮に満ちて、輝いていた。

「もし、田上トレーナーが良ければ、それを間近で見させてください。どうぞ、よろしくお願いします」

 そう言って、マテリアルは頭を下げた。周囲が、少しだけざわついた。道行く人の目が、通る度通る度、田上たちを――何があったのだろうと見つめて去って行った。田上には、その視線が痛いほど突き刺さって、慌ててマテリアルに言った。

「ちょっと頭を上げてください。…とりあえず、…とりあえず、明日まで返答は待ってもらえますか?」

 田上の言葉にマテリアルは、顔を輝かせて、思わずガッツポーズをした。その後で、気の緩そうなニヤケ顔を作って、タキオンに向かって言った。

「お隣、座らせてもらってもよろしいでしょうか?」

 タキオンは、快く了承した。田上としては、これ以上二人に仲良くなっては困るのだが、タキオンはマテリアルに興味津々だったようだ。マテリアルが隣に座ると、早速こう聞いていた。

「君、随分と肌が綺麗だねぇ。…ただ、化粧が濃いわけでもないようだし、…何か食生活に気を付けていたりするのかい?」

「へ?食生活?」

 マテリアルは、素っ頓狂な声を出した。よほど、田上に押し勝ったのが嬉しかったらしい。今は、気が抜けて凛々しさも美しさも消えて、代わりにウマ娘らしい可愛らしさが残った。だが、田上はと言うと、この後のレースを全てつまらなさそうに眺めて、一着で走り終えた子をスカウトしにいく素振りも見せなかった。ただ、スカーレットが走ったときは、重い腰を上げて、行ってみようかな?という気にもなったが、隣で楽しそうにしているタキオンとマテリアルを見ると、その気も失せた。終始、二人は楽しそうに話していて、どうやら完全にタキオンはマテリアルの味方になっていたようだった。

 今度、遊びに行ってみようかという話を聞いた時は、田上も慌てたが、会話の弾んでいる者の常として、その話はいつの間にか忘れられていて、田上も気付かないほど自然に別の話に移り変わっていた。

 タキオンが気になっていたのは、マテリアルのその美貌だった。どのようにしてその美しさが保たれているのか、どのようにしてその凛々しさがあるのか、タキオンは知りたかった。だから、話が移り変わっても、思い出してはそのことを聞いていた。すると、マテリアルは決まってこう言った。

「大したことはしていませんよ。ただ、私には女としての誇りがあるだけです。それがあるだけで、顔つきは変わって見えますよ」

「ふむ、…なら私はどうだい?女としての誇りがあるのかな?」

「それは、田上トレーナーの方に聞いてみてはいかがですか?」

 田上には、この会話が聞こえていたから、なんでこんな面倒臭いことを自分に押し付けてくるんだろうと、恨めしくなった。

 タキオンが聞いてきた。

「私の顔に女としての誇りがあると思うかい?トレーナー君」

「…そんなものなくてもいいんじゃない?タキオンはタキオンだから」

 田上が、そう言うと、タキオンは奇妙なものを見た、という顔つきをした。そして、背もたれに寄りかかって目の前に広がっている芝のコースを見やった。北風が、急に顔に吹きつけて、なぜだか帰りたくなった。

「トレーナー君、帰ろう」

 タキオンは、また田上の袖を引っ張って言った。すると、田上は振り返ってタキオンを見たが、次にマテリアルの方も見た。マテリアルは、「どうそ、続けてください」というようにニコニコ笑っていた。

 田上は、話すことも面倒臭かったが、仕方なしにこう言った。

「あと一つのレースで終わるから、それを見たら帰ろう」

 しかし、タキオンは「嫌だ」と言って、田上の袖をもっと強く引っ張った。田上には、どうしようもなかった。すると、マテリアルが立ち上がってこう言った。

「私は、もう立ち去らせていただきます。…今日の予定は、もう済んだので。……明日には、返答を聞かせていただけるのですよね?どこに伺えばよろしいですか?」

 田上は、タキオンとマテリアル双方の対応に追われながら、なんとかマテリアルに言った。

「明日は、トレーナー室にいておきます。中校舎の一階で、トレーナー室の前には名前が書いてあるのでそれで判断してください。それでも分からなかったら事務室で。...タキオンやめてくれ!」

 田上が、そう言うと、マテリアルは去っていった。その後は、田上はタキオンの対応に追われた。

 タキオンは、こう言った。

「君、もう今日はスカウトするつもりなんてないのだろう?なら、帰ろうじゃないか、一緒に」

 こう言われると、田上も弱かった。タキオンに言う通り、もう今日はスカウトすることを半分諦めていた。寝てしまったし、途中で邪魔が入ったし、何より、タキオンとの不満のいざこざはまだ解決に至ったように思えなかったからだ。しかし、その言葉が逆にスイッチとなって、田上はタキオンに言った。

「俺は、まだスカウトしたいと思っているよ」

「嘘だ。君、全然、走り終えた子にスカウトしようとしなかったじゃないか!」

「…大変なんだよ。見極めるのは。…それに、お前たちが隣で騒がしくて、集中できなかったし」

 すると、タキオンは言葉に詰まったが、無理矢理にその言葉を消化するとこう言った。

「…ねぇ、帰ろう。ここにいたって意味がないじゃないか。それだったら、まだ、君が部屋に戻って、マテリアルさんの処遇を考えたほうが意義があると思うんだよ」

 タキオンが、そう言うと、田上は思い出したように言った。

「タキオンは、ナツノさんが補佐に入ること、本当に良いと思っているのか?」

「…え?…ああ、うん。私は、構わないよ。彼女、ちょっと話しただけだけど、良い人間ってことは分かるし、ちゃんと筋も一本通ってるってことが分かる。もしかしたら、君なんてすぐに追い越して、GⅠウマ娘を何人も育て上げてしまうかもしれないね」

「……そうであってくれる事を願うよ」

 田上は、タキオンの話を途中で聞くのを止め、生返事だけを返した。

 もう暗くなってきていた。最後のレースがこれから始まろうとしているが、それはもう少し先となるだろう。タキオンが、また袖を引っ張って言った。

「…帰ろう、トレーナー君。もう寒いよ」

「…先に帰ればいいんじゃないか?別に、お前一人ででも帰れるだろ?」

「そ、そりゃそうだけど!…君は、…君は、私が帰ろうって言わないと帰らないだろ?」

「このレースで帰るよ。何言ってるんだ」

 田上の心ない一言にタキオンは項垂れた。それを見やると、田上も仕方なさそうな顔をして言った。

「だって、お前は、別に関係ないだろ?あと一レースくらい見て帰ったっていいじゃないか?お前には、何の支障もないぞ。…それに、俺はちょっと眠れたから元気なのは元気だぞ」

「…でも、倒れたじゃないか。すぐに、意識が戻ったと言っても、倒れたっていうのは不健康な証拠だぞ。もっと自分の体に気を遣いたまえ」

 タキオンは、少し拗ねたように言っていた。田上もそのタキオンの言い草に困ってしまった。的を得ていると言えば的を得ているのだが、実際のところ、今の田上はすこぶる元気だった。だから、どうしようもなさそうに言った。

「そりゃあ、タキオンが心配してくれているのは分かるけどさ。たかが、残り一レースだ。これで、健康にも不健康にもなりようがないだろ?」

 田上の正論にタキオンは、もう何も反論できなくなった。ただ、田上を恨めしそうにぎろりと睨むと、こう言った。

「私は、もう帰る!勝手にすればいい。私の気遣いなんてなんのそので、綺麗な女性でも見つけて鼻の下でも伸ばしておくがいい」

「鼻の下?…ナツノさんのことを言っているんだったら、俺は鼻の下なんて伸ばしていない。むしろ、鼻の下を伸ばしていそうだったのはお前の方だったぞ」

「…君は、失礼なことを言うな。…ああ、そうさ。仮に彼女に鼻の下を伸ばしていたとしよう。…それで、何になる?君は、一緒に帰ってくれるというのかい?」

「お前は、俺と一緒に帰りたいのか、俺を心配しているのかどっちなんだ。話し方が面倒臭いぞ」

「私は、…私は~、君と一緒に帰りたいし、君が心配でもある」

「一つに絞れ!」

 業を煮やした田上が、タキオンを叱責した。すると、タキオンは初め驚いた様な顔をして、その次に悔しそうな顔をして言った。

「もういい。本当に帰る。もう、誰でもなんでもスカウトしてろ!」

 タキオンは、そう吐き捨てると、席を立って観客席から離れていった。再びタキオン、そして、田上の方に視線が集まった。どうにも面倒臭かった。なんで、自分が突然機嫌の悪くなった子供の相手をしないといけないのかと思った。しかし、そのままタキオンを放っておくこともできないので、田上はため息をつくと立ち上がった。そして、できるだけタキオンの背が目の届く範囲にあるように、ノロノロと歩き出した。

「タキオン、なんでそんなに機嫌が悪くなったんだ。別に、俺の事なんてお前には関係のないことだろ?…俺たちが帰省した時のように、…ちょっと落ち着かなかったりするのか?」

 距離があってそれなりに大きな声だったので、帰省した時の出来事は他の人に勘付かれないように曖昧に話した。すると、タキオンが振り返りもしないでこう言った。

「落ち着かない?…いいや、そうじゃないね!…関係のないこと?……これもそうじゃない!」

 ここで、タキオンは振り向いた。そして、田上が追いつくまで待って言った。

「君、私との関係がないと言っているが、本気でそう思っているのかい?」

 タキオンが、詰め寄ってきたので、田上はたじろいだ。それから、どもりながら言った。

「あ、ああ、そうだよ。だって、俺がいつ眠ろうが、お前には関係のないことだろ?そりゃ、前だったら、研究如何実験如何で健康な人間が必要だっただろ?…でも、今は違う。お前は、研究をやめると言ったんだ。それだったら、お前には俺の健康なんてどうでも良いはずだ」

「どうでもいいわけないだろ!」

 タキオンは、声を荒げた。

「…はぁ、これで、やっと分かったよ。…君、私に対して情があるとか、結構前に言っていたことがあるけど、それは嘘だね?君、私の事が嫌いなんだ。だから、こんな意地悪をするんだ」

「いや、お前の事が…」

「いいや、嫌いだね。正直に言ってごらん。私は、何とも思わないから。…どうだい?私の事が嫌いなんだろ?」

「別に、嫌いってことは…ないけど…」

 田上は、しどろもどろになって答えた。タキオンの事は、好きなのに、このままでは勘違いされてしまいそうだった。

「じゃあ、嫌いじゃないって言うんなら、なんなんだい?……ほら、答えられないだろ。じゃあ、つまり、君は私の事が嫌いなんだ。…心配しないでくれ。契約は、このままにしてあげるよ。その代わりに、これからのコミュニケーションは必要最低限だ。余計なことは喋るな」

 タキオンは、そのまま言いたいことだけ言うと、逃げるように、まるで何かに責め立てられてるように去って行った。田上は、その後を追うことはできなかった。タキオンの足は、まるで今日がGⅠ競走であるかのように速かったからだ。田上は、すぐに追うのを諦めた。そして、振り返ると、自分の荷物が椅子の上に置かれていることを思い出した。それから、もうすぐ今日最後のレースが出走する合図も聞いた。しかし、レース場の方に足は向かなかった。ただ、薄暗くどんよりとした曇り空の夕方の下、自分の寮へと戻った。自分の荷物を取りに戻る気はなかった。その元気がなかったからだ。頭の中は、タキオンの事で一杯だった。なぜ、あんなことを言われたのか分からなかった。嫌いだとか嫌いじゃないとか、そんなことが田上の脳裏で渦巻いた。

 頭の中で整理がつかなかった。あまりにも突然の出来事だったからだ。それを、田上が真面に食らっていたならば、今頃悲しみに打ちひしがれて涙を流していたかもしれないが、幸か不幸か、涙は一つも出てこなかった。もしかしたら、田上は不幸だったのかもしれない。もし、タキオンがそう言った後すぐに泣いて謝れば、タキオンも戻ってきて、田上を許したのかもしれない。しかし、こうなってはどうしようもなかった。ただ、タキオンの言う事が嘘であって、明日になったら普通に話してくれるかもしれない、と願うだけだった。

 

 田上は、寂しい道を歩き、寂しい寮に帰った。その途中で、トレーナー男子寮の寮長に声をかけられた。本の間に挟まっていた田上の部屋を変更させてもらう要望書を見つけたから、ちょうど部屋の空きがあって、今すぐにでも変えていいとのことだった。しかし、田上はこの知らせに喜ぶことはできず、却って、悩みを深まらせるばかりとなった。自分の部屋の荷物を一人で運びきることなんて、田上にはできなかったし、また、手伝ってくれる当てもないように思えた。実際の所であれば、友人たちに一度声をかければ、瞬く間に喜んで集まったと思うが、田上にはそんな考え自体なかった。ただ、タキオンに、言わば裏切られたように感じ、目の前が真っ暗な深い絶望に覆われた。

 タキオンに嫌われてしまえば、田上の依るところなどなんにもないように思えた。

 夜は更けていった。田上は、眠りについた。しかし、あまり落ち着きのある眠りじゃなく、終始、なぜだろうなぜだろうという疑問がついて回った。

 

 一方、タキオンは、田上と別れた後に涙を流していた。走りながら、その想いを振り切るように瞬きをし、より一層速度を速めた。そのためか、寮までは一瞬で着いた。タキオンの心は、まだ整理のせの字もないくらいぐちゃぐちゃに汚れていた。涙もぽろぽろと零れていた。あんなことを言ってしまった自分こそ意地悪なんじゃないだろうかと思った。田上が、自分のことを嫌いでないことは知っていた。けれども、秋頃に夕日の下で言われた矛盾に気が付くと、その事が勝手に口をついて出た。自分の未熟さを呪った。田上もまた未熟であるのに、あんなことを言って傷ついてしまったろうと思った。しかし、謝る気にはどうしてもなれなかった。――これこそが、自分の未熟であるところなのだろう。そう思うと、なぜだか涙は引いた。だから、タキオンは、寮に入ると、自分の部屋までこそこそと歩いて行った。今日出会った尊敬すべきマテリアルとは、全く逆のことをしているような気がした。

 そうしていくうちに、何人かの友人に話しかけられたが、そのどれもにタキオンは返事を真面に返さず、ただ自分の部屋だけを目指して、視線に怯えながら急いだ。


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