ケロイド   作:石花漱一

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十二、新年一回目の選抜レース③

 ドアを開けると、机には同室のアグネスデジタルが座っているのが見えた。デジタルは、タキオンがドア開けて入ってくると、暫くは机に向かって集中していたが、やがて一区切りつくと振り返って、タキオンに言った。しかし、それはすぐに心配の声に変わった。

「おかえりなさい、タキオンさん。……目が、…腫れていますけど、どうかなさったんですか?」

 タキオンは、デジタルに話しかけられて、ビクッと怯えたが、その後にまた涙がぽろぽろと零れてきた。

「タ、タキオンさん、大丈夫ですか!?やっぱり、泣いていたんですか!?…誰が、タキオンさんを泣かせたんですか!デジたんが、そいつをとっちめてやりますよ!」

「……トレーナー君だよ。私の。……君にそれができるかい?」

 タキオンの言葉にデジタルは、動揺した。そんなに踏み込んだものだとは思わなかったからだ。

「え、えっと、…トレーナーさんなら仕方がありませんね。…なっ、仲直りの手伝いをしてあげましょうか?」

 途中で声が裏返ったり、どもったりして大変だったが、何とか言い切った。しかし、次のタキオンの言葉はデジタルにはもっと大変だった。

「…仲直りなんて、あっちが望まないかもしれない。…私は、トレーナー君に酷い事を言ったんだよ、デジタル君。君にそれが分かるかい?」

「わ、分かりません…」

「分からないだろう?分からないなら、その口を閉じてくれ。…そして、できるなら、一晩私を放っておいてくれ」

 タキオンは、そう言うと、箪笥から自分の洋服を取って、また部屋の外に出て言った。恐らく、大浴場に入りに行ったのだろう。まだ、そんな時間ではないのに、風呂に行ったタキオンは、デジタルにはどこかおかしく見えた。

 デジタルは、その後を追いかけようとも思ったが、タキオンに怒られたのが想像以上に身に堪えて、その場から動くことができなかった。決して、怒鳴るような恐怖を与える起こり方ではなかったが、「心底そう願っているぞ」というようなある種脅しの様なもので、それもデジタルを縛り付けた。そして、結局は、動けるようになっても、タキオンを追いかけにはいかず、自分の机についた。自分の収集した数々のウマ娘のグッズが目の前に広がっていた。壁につけてある棚、棚、棚にグッズが置いてあり、それから、机にも二つぬいぐるみが置いてあるのだが、机の両脇にタキオンを模したぬいぐるみ、デジタルを模したぬいぐるみがそれぞれ置かれていた。それを見やると、何だか切なくなった。

 

 そのうちに、タキオンが風呂上りの良い香りを漂わせて、部屋に入ってきた。デジタルは、話しかけようかかけまいか迷ったが、そう思って振り返って見たタキオンの目は、「絶対に話しかけるな」と言っていた。だから、デジタルは、そのまままた前の方を向いた。だけども、まだ諦めることはできずに、少しそわそわしたまま、机にある汚い部分を見つめた。そうすると、ベッドに寝転がってスマホを眺めていたタキオンが話しかけてきた。お風呂に入って少しだけ元気を取り戻したようだった。

 タキオンは、こう言った。

「デジタル君、…君、私が風呂に入る前、私のトレーナー君をとっちめてくれると言ったね?」

「えっ?……デ、デジたんは、そんなことは言っていなくて、…何か、不良にいじめられたのなら、あたしがとっちめてあげようかな?と思って、言った物でございます」

 すると、タキオンがハッと小バカにしたように笑った。

「…不良?…君、本気でそう思ったのかい?そう思ったのなら、君も随分バカだねぇ。私が、不良なんかに負けるわけがないじゃないか。その気になれば、噛みついてでも抵抗してやるさ。…ただ、まぁ、賢い私であれば、戦うよりも逃げる方を選択するよ。喧嘩を吹っ掛けてくるようなバカの相手なんて、真平御免だからね」

 そこで話は終わったかのように思えたが、暫くした後、タキオンが話を続けた。

「それで、話があるんだけどさ。…君、ちょっと私のトレーナー君にちょっかいをかけてくれないか?」

「ちょ、ちょっかいですか!?…あたしには無理ですよ!」

 デジタルは、話が途切れた後もタキオンを心配そうに見ていたので、話にすぐに反応することができた。しかし、その反応の速さも空しく、タキオンにこう切り捨てられた。

「いや、君ならできる!」

 そして、タキオンは続けた。

「むしろ、君にしかできないことなんだ。…いいかい?話をよく聞いてくれ。…明日、私のトレーナー君は、トレーナー室にいるはずなんだ。何の用かは知らないけど、とにかく居るという話は聞いた。…それで、トレーナー君がいるはずだから、そこに君がこう言って飛び込むんだ。――タキオンさんのトレーナーさん!あわわわわ、タキオンしゃんが…タキオンしゃんが…。もう、そう言うだけでいい。すると、トレーナー君は話も聞かずに飛び出すはずだ。だから、君は、それを屋上の方へ誘導してくれ。あたかも、私が自殺をしようとしている風に見せかけてね。…でも、騙す言葉は使ってはダメだよ。あくまでもトレーナー君の勘違いなんだから」

 ここで、デジタルが不安そうに「難しそうですね…」と呟くと、タキオンは言った。

「問題ない問題ない。彼は、結構騙されやすいから、芋芝居でも何とかなるよ。それよりも大事なのは、故意に騙さないこと。私たちは、悪いことをするんじゃないんだ。あくまでも彼の勘違いに繋げるということを忘れないでくれ」

 デジタルは、頷いた。もうこの話に、不完全ではあるが乗り気のようだった。デジタルが頷くと、タキオンもまた満足そうに頷いて言った。

「…それで、君が屋上の方に連れて行けば、四階の階段の途中で私がいる。そして、私が紙を投げつけるんだ」

「…紙、…ですか?」

「そう、紙だ。――正直者はバカを見る!屋上の私を助けに頑張ってね、モルモット君…と書いてある紙だ。そして、それを読んでいる頃には、私はもう立ち去っている」

「…それじゃあ、あたしはどうなるんですか?」

「君?…君は、ネタばらしでもしていたらどうなんだい?それで、トレーナー君のがっかりした顔を楽しむとか」

「あたし、タキオンさんのトレーナーさんのがっかりした顔を見て楽しむなんてこと、やろうと思ってもできませんよ!」

 デジタルは、そう抗議した。すると、タキオンは、眉を寄せて有無を言わさない口調で言った。こういうのは、大抵、自身のトレーナーにする口調だったが、今日のターゲットはデジタルだった。

「君、いつもは私の頼みだったら、素直に聞いてくれるというのに、今回はどうしてそんなに抵抗するんだい?普段通りに振舞えよ。普段通りに」

 タキオンが、そうチクチク刺すように言うと、デジタルは困ったように言った。

「あたしは、…デジたんは、タキオンさんとトレーナーさんが喧嘩しているのなんて見たくないのです。…喧嘩した後に仲直りする姿は、真に尊ぶべきことだと思います。…でも、その前には必ず悲しみとか恨みとかがあります。…デジたんは、それを見たくありません。できることなら、皆でそれを鑑賞しながら、――昔はこんなこともあったよね、と言いたのです。…当事者になんてなりたくありません」

 タキオンは、そう言ったデジタルを少し憐れに思ったが、次にはチクチク刺すような口調は変えずにこう言った。

「君には、使命があるんだ。別に、私とトレーナー君の仲直りをしなくたっていい。そもそも、これは私の鬱憤晴らしなんだ。喧嘩なんてものじゃない。ただの……、私の!勝手な意地悪だよ!」

 タキオンは、そう言い切るとキッとデジタルの方を睨んだ。デジタルは、それに怯えたが、そんなことは気にせずにタキオンは続けた。

「君は、してくれるんだろうね?万に一つも断るなんてことはしないだろうね?」

「……デジたんは、タキオンさんの頼みとあらば、なんでも成し遂げます」

 デジタルは、俯いて床を見つめながら言った。

「例え、火の中水の中。…どこへ行こうと、ついて行って見せます。…タキオンさんのトレーナーさんを騙す……勘違いさせることだって…。…けれども、二人の仲が破滅に向かっていくのは見たくはありません。…タキオンさんは、本当にトレーナーさんと仲直りしないおつもりですか?」

 デジタルが、そう言うと、タキオンはたじろいだ。

「あ、ああ、そうさ。仲直りなんてするつもりはないね。だって、彼は、私の事なんてどうでもいいんだ」

「…でも、タキオンさんは、帰ってきたときに涙を流しながら、――酷いことを言ったんだよ、と言いませんでしたか?あれは嘘だったんですか?」

「う、嘘に決まっているじゃないか。気が動転してたんだよ。彼の言い分に」

 タキオンは動揺しつつもそう言ったが、デジタルは、タキオンには読めない表情でタキオンの事を見つめていた。それは、まるで「本当にそうですか?」と言っているようだったが、それがタキオンには分からず、ただもやもやとした思いを抱えるのみとなった。

 

 その後は、デジタルは、結局タキオンの意地悪に協力するという形で、話が終わっていった。タキオンは、夕食を食べる気にはなれなかった。元々、風呂に入った時からその気持ちはなかったが、先程のデジタルの顔を見れば、その気持ちはもっと失せた。

 デジタルは、夕食を食べに部屋から出ていった。やっぱり、タキオンの事を心配そうに見つめていたが、話が終わってからは、そのような顔をすることはあっても、タキオンは話しかけなかったし、デジタルもまた話しかけなかった。タキオンは、デジタルが出ていくとその部屋の電気を消し、眠りにつこうとした。しかし、中々眠れずに、時計はチクタクと過ぎていき、途中でデジタルが夕食を食べて戻ってきた。デジタルは、部屋の電気が消えているのを見ると、驚いたように固まったが、タキオンが寝ているのだろうと思うと、音を立てないようにこそこそと歩き、今度は、自分の着替えを持って部屋を出て行った。デジタルもまた、大浴場に行くのだろう。タキオンは、デジタルがしっかりと閉め切らなかったドアの隙間から伸びる光に目をやった。誰かが通ったのだろうか?その光は度々遮られて、目に鬱陶しかった。だから、仕方なしに立ち上がると、タキオンはドアをしっかりと閉めに行った。

 そして、やっとうとうととした微睡みに到達することができた。しかし、まだ眠ってはおらず、目なんて半分開いていて、デジタルの帰りをぼんやりながらも感じ取ることだできた。デジタルは、できるだけ音を立てないように動いていたが、自分の机の前までくるとさすがに電気はつけた。まだ、なにかしたいことがあったのだろう。机に向かうと、その後は、何かを一生懸命書いてる音しか聞こえなくなった。

 タキオンは、さらに微睡みに誘われ、デジタルの輪郭もおぼつかなくなった。すると、タキオンのベッドからは机に向かっているデジタルの背が見えるのだが、それが、段々とある日の田上の姿に見えた。こんな背中は見た覚えがなかったのだが、それは確かに田上に見えた。だから、タキオンはその背にこう呼びかけた。

「トレーナー君…」

 それは、言葉になっていなかったかもしれない。何しろ、微睡みの最中で、呂律が回らなかったのだ。その上は、声もふにゃふにゃとしていて小さく、デジタルに聞こえたのかすら怪しかった。しかし、タキオンがそう言うと、デジタルが微かに身動きした。そして、タキオンの方を振り返ると、暫く見つめてから、近寄って行った。これは、タキオンには全て田上がしているように見えていた。だから、デジタルが近づいてくると、口の中で何かふにゃふにゃ言って笑った。それから、眠りについた。デジタルは、タキオンの床に落ちそうな掛け布団を正そうと近づいて行ったのだが、思いがけず笑いかけられて少し戸惑った。しかし、タキオンが寝ぼけていたのだろうと思うと、デジタルも微かに口元に笑みを浮かべた。そして、タキオンの布団を落ちないように正した。タキオンは、デジタルのおかげで少しだけ安らかな眠りについていた。しかし、その時に見た夢は、生臭い嫌なにおいのする夢だった。自分を責める夢だった。そのことでタキオンは、多少嫌な思いもしたが、朝起きてみれば、何もかも忘れていた。ただ、田上に意地悪をすることだけを考え、田上が、それを受けてどんな思いをして帰るだろうかという事を考えた。しかし、そこで問題が発生した。なんと、今日から冬休みが終わり、三学期の始まりだった。サボり魔のタキオンは、三学期などどうでも良かったが、デジタルは違った。いつでもできるというわけにはいかなかった。だから、こう提案した。

「二時間目の休み時間にしましょう。一揆です。そこで、一揆を起こすんです。あたしの中のデジたんは、総動員ですよ。必ず、憎き田上トレーナーめを滅ぼして見せます」

 デジタルは、自分を奮い起こそうと躍起になって、どこのだれともつかない、農民とも武士ともつかない人の物真似をしていた。これには、タキオンも少し引いた。

「別に、憎くは…」

 そう言ったが、デジタルはそれを遮った。

「時を待ちましょう!機会は必ず訪れます!その度は、私が何よりも高らかに響く角笛を吹きとうございます!お許しいただけますか!」

「あ、ああ…」とタキオンは、デジタルの勢いに挫けそうになりながら了承の返事をした。今や、何よりも田上を打ち滅ぼそうとしているものは、デジタルだった。タキオンは、軽いお遊びのつもりだったのだが、デジタルがこうなってしまっては止めようがなかった。自分も急いで田上に投げつけるための紙に文字を書いた。――正直者とバカモルモット。こんなくだらない遊びに付き合わされて、さぞ大変だったろう。もうどこにでも行ってしまえ!

 少しむしゃくしゃしながら書いたら、昨日言ったこととは、異なることを書いてしまったが、最後まで書ききれたし、内容は田上さえバカにできれば良いので書き直すことはしなかった。ただ、紙の下になにも敷かずに油性ペンで濃く書いてしまったので、机の方にインクの黒い染みが残ったのが、タキオンには残念だった。しかし、もうすることもないので、タキオンは自分も教科書の入ったバッグを持つと、デジタルの後に続いて、校舎の方へと歩いて行った。それは、久々の授業だった。

 

 先生は、タキオンがいることに大層驚いているようだったが、タキオンの出席を確認すると嬉しそうに顔を綻ばせた。このクラスに友達は少なかった。何人か話しかけてくる人はいたが、それは大体興味本位であって、タキオンと友達だからではなかった。大抵の人は、タキオンを敬遠していた。GⅠウマ娘であって、その上、怪しげな実験ばかりしている変人。これが、タキオンに貼られたレッテルだろう。実際のところは、そんなに怯える程タキオンは変人ではなかった。ほとんどの人と話が合うことはないが、カフェやその他友人と話すことはできるのだ。会話などに難があるわけではなく、タキオンが、そういうつまらない輩と話したくないだけだった。

 ただ、このクラスにも友人はいる。トーキョーアルトという名前の子と、ハナミビヨリという名前の子だった。タキオンとしては、この子たちと一緒にいるのが一番楽だった。他の子のようにひっきりなしに喋ったりしないし、例え、一緒に歩いていたとしても無理に会話をしようとしない。つまり、タキオンに気を遣わせないのだ。だから、タキオンがたまにしか来なくても、友達でいてくれるし、久々に話してもつい昨日会ったかのように話してくれる。これが、タキオンにはとても楽だった。

 タキオンは、窓際の一番後ろの中庭に面した席だった。その中庭は、正門に面した一番大きい校舎、南校舎と中校舎の間にある中庭で、一般的には、「綺麗な方の中庭」と呼ばれていた。それは勿論、もう片方が汚いからで、北校舎と中校舎の間の方はなぜか年がら年中芝生が枯れていて、例え夏になったとしてもその草が伸びることはなかった。それで、学園の抵抗として、花壇をそこに据えているが、枯草の前にはそれもあまり輝かなかった。

 タキオンは、綺麗な方の中庭を見つめていた。すると、そこに田上が現れた。何をしているのかは分からない。ただ、中庭を横切っているように見えた。あんまり見たくもない後ろ姿だったが、なぜだかタキオンは、食い入るようにその背を見つめた。今は、一時間目の授業中だったから、外を見ているタキオンの耳に、先生の声が念仏のように聞こえた。女の先生の甲高い声だった。それが、波のように大きくなったり、小さくなったり、高くなったり、低くなったりして、タキオンの耳に纏わりついた。

 田上は、南校舎と中校舎を繋ぐ渡り廊下のところまで来ていた。先生の声が、タキオンの頭を占めるようになってきた。甲高くひび割れるように、その声は聞こえ、タキオンはそれを嫌がった。しかし、田上から目は離せなかった。そして、渡り廊下の手前で田上は立ち止った。これから何をするのか、タキオンはじっとそれを見ていたのだが、驚くべきことに、田上は振り返るとそのまま探すようなそぶりも見せないで、真っ直ぐにタキオンを見た。その目は、タキオンは憎むように睨んでいた。タキオンは、その目を見たくなかったから、いよいよ目を離そうと思ったが、顔は動かそうと思ってもびくともしなかった。先生の声は、耳鳴りとなった。もう右も左も分からないまま、田上を見つめていた。すると、田上はふっと、その場から消えた。タキオンには、何が起こったか分からなかった。どうして、田上が消えたのか。しかし、それが起こったおかげでタキオンは、顔を動かせるようになった。窓の外から目を離し、クラスを見回した。誰も何も、田上が消えたことには気が付いていないようだった。先生の甲高い声も、前と同様多少の不快さはあったが、タキオンに耳鳴りを与えたような物凄い嫌な気分にはさせなかった。

 そして、タキオンは授業を聞きながらうとうととした。眠気などは何もなかったが、自然と強制的に眠りへと誘われた。

 それから、目が覚めると、先生が横に立っていて、「アグネスさん、起きてください」と声をかけていた。すると、タキオンは、今まで見ていたのが、夢だったのに気が付いた。境目が分からないほどのリアルな夢だった。これが、何を暗示しているのか…。それが、タキオンには分からなかったが、とりあえず、先生の言う事を聞いて、一時間目の授業はそれから眠らずに終えた。と言っても、授業の話なんて聞いておらず、さっきの夢の事をタキオンはむっつりと考え込んでいた。

 

 授業が終わると、一時間目の休みが入った。だから、タキオンは、久々に会う友人に話しかけに行った。休み時間だったから、皆がそれぞれ好きに立ち歩いていて、アルトとハナミもそうだった。アルトは、自分の席から動いていなかったが、ハナミがアルトの前の席に移動していた。アルトの前の席の人は、友達とどこかに行ってその席にはいなかったからハナミが座っていても問題なかった。タキオンは、アルトの席の左隣の、これもまた空いている席に座って、「やあやあ」と呼びかけた。すると、二人とも右の方向を見て話していたのだが、タキオンの声がした方向に振り向きこちらも言った。

「やあやあ、アグネスタキオンさん。今日もおはようございます」

 のんびりとアルトが言った。

「やあやあ、アグネスタキオンさん。ご機嫌はよろしくて?」

 明るくハナミが言った。すると、タキオンは、ふふふと笑って言った。

「久々だねぇ、君たち。今日もおはよう。ご機嫌も…まあまあよろしくて」

「あら、まあまあ?…何かあったのかしら?…心配ね?アルトのお嬢様」

「心配だわ。顔を見てごらんなさい。…授業中ぐっすり眠った顔をしてる」

 そう言うと、二人ははははと明るく笑った。その様子にニコニコしながら、タキオンは言った。

「君たち二人もお変わりないかな?」

「ああ、変わりはないよ」

 アルトがそう言った。

「元気元気。冬の寒さも脳天をカチ割るくらいには元気」

 ハナミもそう言った。

 タキオンは、満足げに笑った。しかし、次の瞬間には二人に話そうと思っていた授業中の夢の出来事を思い出して、顔をしかめた。すると、二人ともタキオンの顔を見つめて、それからアルトが心配そうに言った。

「…タキオン、どこか痛いの?」

「え?…いいや、別に痛いってわけじゃないんだけど、さっき夢を見たんだよ」

「夢?」

 ハナミが聞いた。

「そう夢だ。…ただ、やっぱり君たちに話すような夢じゃなかったかもしれない」

 タキオンがそう言うと、急にアルトが表情を変えて言った。

「おいおい、なんだよー。そこまで言っといて、躊躇うのか?最後まで話せよ。最後まで」

 それから、タキオンの膝をちょんちょんと突いた。すると、タキオンも煩わしさを感じたが、それは奥の方に秘めて、微かに口角を上げて言った。

「だって、君たちに夢の話をしたってしょうがないだろ?」

「しょうがない?…まぁ、しょうがないっちゃしょうがないか」

 アルトは、タキオンの微笑みで、その内に秘めているものに気が付いたようだ。反省したようにそう言ってから、ハナミの方に助けを求めるように見た。だから、ハナミが言った。

「私たちに話してみてもしょうがないけど、人に話してみて初めて分かることってあるでしょ?順序良く言葉にしてみれば、見てみたくないものも見たいと思っているものも見えてくるんじゃない?」

 ハナミの言葉にタキオンは、――もっともだ、その通りだ、と思ったので、渋々ながらも言った。

「私、物凄くリアルな夢を見たんだよ。…夢と現実の境目も分からないくらいリアルな夢をね?」

 すると、タキオンが、そこで話を止めてしまったので、アルトが、「それで、それで?」と聞いた。話を聞いてくれる観客としては、二人は申し分ないもののように思えた。タキオンが、言葉に詰まると上手く話を引き出してくれたし、盛り上げ方もくどくなく、それがさらにタキオンに話しやすいようにしてくれた。

「…私、中庭でトレーナー君を見たんだよ。…私の席があるところの視点からね。…トレーナー君は、中庭を横切って歩いてた。それで……」

「そして、どうなったの?…まさか、いきなり服を脱ぎだしたとか?」

 これは、ハナミが言ったのだが、これには、タキオンも少し笑った。そして、話を続けた。

「いや、そんなんじゃないさ。…ただ、歩いていただけ。…するとね、先生の声が、急に耳鳴りのように聞こえだしたんだよ。初めのうちはまだよかったんだけど、時間が経てばもう頭がおかしくなるくらい。…それから、トレーナー君がこっちを見たんだ……」

 ここでまた話が途切れたから、ハナミが言った。

「どんな様子だったの?」

「…どんな様子。……どんな様子。…どんな様子?……忘れてしまった。…思い出せないや。トレーナー君は私を見て、どんな顔をしてたんだろう?」

「忘れたの!?」

 アルトが、少しだけがっかりしたように言った。それから、こう続けた。

「…まぁ、忘れたんだったら仕方がないけどね。また、思い出したときくらいに私に言ってよ。私、他人の夢の話聞くの、結構好きなんだよね」

「なんで?」とハナミが聞いた。

「その人のちょっとした物語じゃん。夢って。…それで、その人がどんなことに悩んでいるんだろうとか、どんなことに怒っているのだろうとか知ることができれば、それは大層な物語に化けると思うんだ」

 すると、ハナミが「アルちゃんってそういう本好きだもんねー」と相槌を打ったから、タキオンも同じく相槌を打って、こう聞いた。

「君がこれまで聞いた事のある夢の中で一番傑作だった夢ってなんかあるかい?」

「ない」

 アルトは、きっぱり言い切った。その後に、のんびりと穏やかな笑顔を作って言った。

「だって、夢って、すごく難しいんだもん。一生懸命、分かろう分かろうとしても、一遍だって最後まで分かり切ったことはない。…まぁ、それでも面白いものは面白いんだけどね。大抵の夢は、難しすぎるから忘れてしまう」

 すると、タキオンは目を丸くした。

「君、分からないと言っても、分析しようとしているのなら、それは凄いことじゃないか。大抵の人は、それを見過ごすんだよ」

「えへへ、そ~お~?」とアルトは、タキオンに褒められて嬉しそうにしていた。だから、ハナミもそれが羨ましくなって、「私も次から分析してみようかな…?」と呟いた。それにタキオンは、反応して言った。

「おや、やってみたまえよ。アルト君の言う通り、結構面白いよ。自分の夢というのは。ただし、分析するのはこれまたアルト君の言う通り、難しい。簡単に行くようなものじゃないし、私もあんまりコツは分かっていないから、外しているときがあるかもしれない。…今回も分からなかったしね」

「…どう?田上トレーナーの様子思い出せた?」

 唐突にアルトが聞いたが、タキオンは、暫く考え込んだ後、黙って首を振った。

「そうかぁ…。…もしかしたら、投げキッスをしてたとか?あの顔でそんなことされたら、私だったら、嬉しすぎて舞い上がっちゃうな~」

「どうしてだい?」

 タキオンが、少し不安になって聞いた。アルトは、その様子に気が付いたが、何にも触れないで少し微笑んでからこう言った。

「だって、可笑しいんだもん。田上トレーナーに投げキッスされたら、タキオンでも笑っちゃうでしょ。私もこそばゆすぎて、ぞわぞわして舞い上がっちゃうもん。…と言っても、田上トレーナーにそんなサービス精神があるとは思えないけどね。……あっ、もうすぐ授業始まる。どっちか一緒にトイレに行かない?」

 ハナミとタキオンは、揃って「嫌だ」と返した。それを聞いたアルトは、にやっと笑って「薄情者」と言った。それから、席を立ち上がり、トイレの方に急いで駆けて行った。

 タキオンたちもここで解散となったようだ。ハナミとタキオンは、それぞれ「バイバイ」と言うと、自分の席に戻って行った。途中でタキオンは、ハナミの方を振り返ると、ハナミもまたタキオンの方を見ていた。ハナミの方が席が近かったから先に座っていた。座ってニコニコしていた。そして、タキオンと目が合うと、もっとニコニコとし、それから、口パクでこう言った。

「た・の・う・え」

 その後に、手でハートマークを作った。なんだか、いやらしくて下品な仕草に思えたので、タキオンはそれを無視して自分の椅子に戻った。しかし、その後からずっと、今度はハナミの仕草が気になり始めた。実のところ、近頃、自分は田上の事が好きなんじゃないかと思い始めていたところだった。だが、これは、まだ皆にカップルやら夫婦やら言われて、勘違いをし始めただけのような気がしていた。まだ、タキオンの中で確定のしていない、面倒臭い難問だった。

 しかし、それも今日で終わりだった。あの紙を投げつければ、タキオンの気は晴れ、田上もタキオンにうんざりするはずだ。自分が田上に恋なんてしていようがいまいが、これでもう田上との親密な縁は切れる。ただの距離の遠い、トレーナーとその担当ウマ娘となる。――これが一番良い。タキオンはそう思った。親密な人などいない方が楽なのだ。田上が、大変だってどうしていたって、親密でなければ何の関係もないのだ。田上もそう思っているのだろう。だから、タキオンには関係がないと言い、人の心配をよそに帰ろうとなんてしなかったのだ。

 だが、これは大変な間違いだった。自身のトレーナーを大変な奴だ、大変な奴だ、とこれまで幾度となく繰り返し言ってきたにも関わらず、その事を念頭に置かずタキオンは考えていた。そのタキオンもまた大変な奴だった。偉そうに人に説教できるような人間ではなかった。しかし、タキオンがそれに気が付くのは、まだもう少し後だった。


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