さて、話を田上の方に移らせると、田上は、朝起きた時にはもう気分が最底辺まで落ち込んでいて、ベッドから一歩も動きたくないように思えた。半分鬱を患っていた。しかし、そうもこうも言っておられず、ドアの外を歩く人たちの足音が聞こえると、田上もノロノロと起き上がった。
その後もノロノロと朝の支度をして、朝食なんて食べる気にもならず、もっともっとノロノロとした。人の足音も次第に消えて、後は少し急ぎ気味の慌ただしい足音しか聞こえなくなった。その中に、一つのしのしとゆっくり歩く、聞き覚えのある足音があった。その足音は、田上の部屋の前で止まると、コンコンとドアを二回鳴らした。田上は、そいつの顔を見たくなかったから、ドアを開けることはしなかった。すると、またコンコンと二回ドアが鳴った。また、田上は出なかった。その次には、コンコッココンだった。それでも、田上はでない。ココココココン。田上は出ない。コココン、コココン、ココッコンコン。田上は出ない。ドンコッコドンッコッコドンドドンコッココココドンコココドン。これでも、田上は出なかった。
すると、ドアの外の方で話し声がした。
「何しているんですか?部屋に誰かいるんですか?」
寮長の声だった。
「…いや、僕の友人がいるはずなんですが、今日は見なかったので、もしかしたら部屋にいるのかなぁって」
バツの悪そうな鳩谷の低い声が聞こえてきた。
「そんなにドアを鳴らして出てこないんだったら、いないんじゃないですか?」
「どうかなぁ…」
鳩谷の声は、寮長の言ったことを信じてはいなかった。だから、次の瞬間には、鳩谷はまたドアをコココココココココココと叩いて、「田上~」と呼びかけた。その後には、幾許かの沈黙が続き、寮長が言った。
「やっぱり居ないんじゃないですか?」
「…そう、みたいですね」
鳩谷は、まだ信じられないという声色をしていたが、それも寮長に促されると渋々ドアの前から離れていった。そして、その後に田上のスマホに鳩谷からの電話が入ったが、田上はそれには出なかった。しかし、鳩谷が立ち去っていくと、なんだかその面白さからか元気が湧いて出て、自身のトレーナー室に行こうという気が出てきた。
部屋を出ると、もう誰もおらず、共有スペースの電気は消されていてがらんとしていた。いつもよりも随分寒かった。それでも、田上の気は変わらなかった。ただ、ゆっくりと歩いて、トレーナー室へと向かった。
トレーナー室に着けば、そこのドアの前にはもうマテリアルがいて、不思議そうにそのドアを見つめていた。そして、田上が左の方から来るのに気が付くと、途端に顔を輝かせて「やっぱりいらしてなかったんですね」と比較的大きな声で言った。今日もマテリアルは、美しさを最大限に発揮していたが、田上には、美しさなどどうでもよかった。今は、ただタキオンに嫌われた喪失感だけがあった。
「おはようございます」
田上は、穏やかにそう挨拶をした。すると、マテリアルはまた不思議そうな顔に戻って、きょとんとしながら「おはようございます」と返した。それから、ちょっとの沈黙を置いた後、田上に言った。
「…体調でも悪いんですか?」
「……いいや、…実は、昨日ナツノさんと別れた後、タキオンと口論をいたしましてね。…タキオンは、――君は私のことが嫌いなんだ、と言ったんです。…そんなわけないのに。……それで」
「あのー」とここでマテリアルが口を挟んだ。
「とりあえず、部屋に入ってからお話しませんか?ここ、廊下ですし」
「ああ、そうだね…」と田上も頷いて、トレーナー室の鍵を開けて、中に入った。中は、静閑としていて、電気もつけていなかったので薄暗かった。
そして、自分の持っている荷物をデスクの横に置くと、また話し出した。
「なんで、タキオンはあんなことを言ったんだろう?…嫌いな素振りなんて一遍も出したことがないのに。……言うことを聞かなかったから、その鬱憤晴らしだったのかなぁ?」
マテリアルは、自分がトレーナー室に入ってどこに座ればいいのか迷いながら、「どうでしょうねぇ」と返した。その様子に、田上が気が付くと、「ああ、そこに座ってください」とドアから遠い方のソファーを指差した。
マテリアルは、そこに座ると、暫くそわそわしていた。というのも、田上は一向にマテリアルの正面のソファーに座ろうとせず、自分の荷物をがさがさと漁ったまま顔を上げなかったからだ。それで、少し後にようやく顔を上げたが、別に何か取ってきたというわけでもなく、ただ、無作為にバッグの中を漁っていただけのようだった。
田上は、座ると、そのまま話し出さずに暫くそわそわした後、「紅茶を淹れましょうか?」と言った。マテリアルとしては、紅茶なんてそんな好きなものではなかったし、喉も乾いていなかったから淹れなくても良かったのだが、その紅茶を淹れる事が田上の話しやすくなるルーティーンなのかな?と思うと、「ええ、どうぞよろしくおねがいします」と言った。
田上は、紅茶を淹れている間に忙しそうにあっちこっちに行っていたが、やっていることといえば、単純に紅茶を淹れていることだったので、それは意味のない行動だった。恐らく、さっきの荷物を漁る行動と言い、これと言い、田上は落ち着かないのだろう。落ち着かないから何かをして気を紛らわせているだけなのだ。それをマテリアルは分かっていたから、田上の事なんて気にせず、ゆったりと今日持ってきた資料を読んでいた。
やがて、紅茶が出来上がった。紅茶を渡すときに、田上は「これはタキオンのだから、もしかしたら怒られるかもしれませんけど…」と口の中でごにょごにょ言っていたから、マテリアルはそれが可笑しくて、ちょっとだけ笑ってしまった。すると、田上がマテリアルの方を見てきょとんとしたから、「すいません」と言って、咳をしてそれをごまかした。
紅茶を一口飲むと、田上が話し出した。と言っても、これは回りくどい前置きだったのだが、田上にはこれが必要だった。そのことを察して、マテリアルもそれにしっかりと答えた。
「…えーっと?…今日は、何の話でここにお越しに?」
「補佐として、田上トレーナーの下で働かせてもらえるかの交渉です。あなたは、明日、ここで返事を聞かせると仰いました」
「ああ、そうでした。……これは、タキオンも呼んで一緒に話をしようかと思っていたんですけどね。……君とは必要最低限のコミュニケーションしかとらない、と言われました。……どうです?バカでしょう?滑稽でしょう?…僕はそのくらいの人間なんです。学べることなんてありませんよ」
田上は、急に肩を落として言った。すると、マテリアルは言った。
「アグネスさんのそれは、ただの子供の癇癪なのでは?」
「ただの子供の癇癪。…それでも、僕の身には十分堪えますよ。……ただ、相手はただの子供ではなく、大きな高校生ですからね。癇癪と言ったって、子供のようにすぐに気が変わって、お菓子なんかを食べて機嫌を直したりなんてしませんよ。高校生は、意思の固め方を知っています。タキオンなら、尚の事です。動かないと思ったら、てこでも動こうとはしないでしょう。……それでも、僕の下で働きたいんですか?」
「それには、はっきりと――はいとお答えしたいところですが、…まさかこのまま諦めるつもりじゃないでしょうね?私には、タキオンさんは、必ずあなたの下に戻ってくると思いますよ。それを、自分から手を離すおつもりですか?」
マテリアルの言葉に田上は顔をしかめたが、その後に考え込みながら言った。
「…実のところ、僕にはなんでタキオンに怒られたのかが分からなくて、……ただの子供の癇癪なら原因も分かりやすいんでしょうが、…その口論に持ち出されたのが、新年が来る前の秋の出来事ですよ?僕だって、ほとんど覚えていません。あなたには、秋の時自分が何をしてたか覚えていますか?十月とか十一月のたった一日の一言一句まで」
「…秋頃は、試験の勉強で忙しかったと覚えておりますが、さすがに一言一句までは…」
「…そうでしょう。確かに、タキオンが言ったことは――そんなこともあったなぁ、くらいには思い出せますけど、タキオンがそのことについて何か思う程、覚えていたとは思わなかったです」
「…あの、…ちなみに、タキオンさんが言ったこととは?」
マテリアルが、一向にタキオンの言った事の内容を話さない田上に、少し苦笑しながら言った。だから、田上も「ああ、すみません」と言ってこう続けた。
「タキオンは、多分、秋頃に僕が他の子もスカウトして、育てるってことを聞いたんです。それで、その時に少し悩んでいて、――君には私に対する情けがあるかい?…たしかこう言ってきたんです。だから、僕も情があると答えたんですが、つい昨日、それは嘘だと言われました」
「…それは、昨日スカウトしようとしたからですか?」
この質問には、田上も考え込んで暫く黙った。そして、考えに多少まとまりがつくと、こう言った。
「……多分、そのように思います。少なくとも、スイッチはそこで入った?と。……どちらにしろ、くだらないことです。……いいでしょう。ナツノさん」
田上は、呼びかけた。途端にマテリアルは、元々美しく伸ばしていた背筋をもっと美しく伸ばして「はい」と答えた。
「補佐になってもかまいません。…書類はありますか?」
「はい。……ちょっと待ってください。バッグの方に今……、ありました。これですね?」
「はい、これです。…これは、もうハンコを押すだけでいいので、……ちょっと待ってください」
そう言うと、田上は一気に年老いた様に、長年の疲れがその身に溜まったように、ゆっくりと立ち上がって、机の方にハンコを取りに行った。そして、一番上の小さい引き出しからハンコを取り出すと、またノロノロとソファーの方に戻った。
そして、ソファーの間に挟んでおいてあるその低い机の上に置いた書類に目を留めると、自分の方にそれを向け、ハンコを押そうとした。しかし、その直前にマテリアルが口を挟んだ。
「待ってください」
そう言われると、田上は、書類からゆっくりと目を上げて、マテリアルの顔を見た。その顔は自信に満ちていて、あたかも田上にもその自信を分け与えるかのように言った。
「タキオンさんとは、仲がいいですよね?」
田上の心には、その顔を見つめているうちに、自信の様なものが湧いてきたような気がしたが、それも目を逸らすとすぐにしぼんでいった。しかし、その心に自信の種火はしっかりと残っていた。
そのせいか、田上の元気も少しは回復したように思えた。田上は、ふっと小さく笑うとこう言った。
「子供の癇癪であることを願っています」
マテリアルは、その返答に不満があるようだったが、田上が少しでも前向きになれたのを確認すると、満足そうに笑って、顔を輝かせて言った。
「よろしくお願いします!田上トレーナー!」
マテリアルの元気が影響して、田上も小さな笑みを絶やすことはなかった。彼女が立ち去るまでは。今日のところはいい、と彼女に告げると、彼女も素直に出て行った。そして、その背を見送った後、自分のデスクに座ってみると、大きな疲れがどっと溢れてきた。例え、誰かに元気を分け与えられたとしても、元気をずっと保ち続けるのは大変な労力のいる疲れる作業だった。田上は、机の上に顔を突っ伏した。疲れたので、このまま寝てしまおうと思った。どうせ、昨日の今日だし、タキオンもトレーニングがしたくてこの部屋を訪れはしないだろうと思った。田上は、その後、デジタルが入ってくるまで、死んだように微動だもせず眠り続けた。
「トレーナーしゃん、トレーナーしゃん、トレーナーしゃん!タタタタタタキオンさんが!…!タキオンさんが!」
突然の耳慣れぬ少女の声で起こされた。随分慌てた様だったが、何しろ田上は眠りから起こされた直後だったものだから、何が起こったのか分からず、また、眠たくて眠たくて思わず顔をしかめた。
「そんな顔をしている場合じゃないですよ!タキオンさんが…!…屋上で!……!とっ、とにかく立ってついてきてください!」
田上は、喋っている少女が、タキオンの同室のデジタルだとようやく気が付いたところだった。物凄い勢いで捲し立てていたので、驚いた。しかし、その言葉までは飲み込めず、田上は、まだ席を立とうとしなかった。デジタルは、タキオンの言ったように上手くいかず、内心慌ててたが、そんなことはおくびにも出さず、ただタキオンから受けた任務をひたすらにこなそうとした。
田上が、中々立ち上がろうとしなかったので、デジタルはじれったくなって、田上の傍まで行って、その手を引き、立ち上がらせた。田上は、デジタルがこんなに強引なことをするとは思わなかったので、またもや驚いたが、段々と目が覚めてくると、気の動転していたデジタルからタキオンが危ないらしいということを聞かされた。
本当の事なのかどうか怪しかった。というのも、デジタルが全く詳しい内容を言おうとしないからだ。それでも、デジタルのとんでもない勢いに押されて、田上は階段を駆け上がった。二段飛ばし、三段飛ばしで懸命に走って、途中でデジタルに「あなたしかタキオンさんを止められる人はいないんです」と励まされて、走りに走った。そして、四階に到着しようとしたところで、デジタルに「止まってください!」と言われた。何が起こったのか分からずに、肩で息をしながらデジタルを見やると、デジタルは急に我に返ったように「……タキオンさんが…」と小さく言って、階段の上の方を指差した。田上がそちらの方を振り向くと、たくさんの道行く生徒の中にタキオンが階段の前で仁王立ちしていた。
田上は、まだ肩で息をして、訳が分からないという風にデジタルを見た。デジタルは、今や階段の隅で小さく丸くなって、「ごめんなさい…」と呟いていた。たくさんの生徒がいるはずなのに、一時の静寂が訪れた。田上は、動くことはせず、タキオンも動くことはしなかった。
暫く緊張のある見つめ合いをした後、田上が言った。
「何かあったのか?」
すると、タキオンも口を開いた。
「今更、そんな心配したような口調はしないでくれ。吐き気がする。…夢の中の君と同じだ。思い出せた。…そんな目をしていた」
「……何の話だ」
田上の息切れは、まだ少しだけ続いていた。
「…君には、関係のないことだよ。私もまた君と関係のないようにね」
ここで、他の生徒が階段を使いに来たので、田上は横にどかざるを得なかった。そして、言った。
「…もう、俺の事は嫌いなんじゃないのか?」
「私が?…冗談言うな。君が嫌いなんだろう?」
「俺は、お前を嫌った事なんて一度もない」
この言葉にタキオンは怯んだ。マテリアルと話したときに授かった自信の種火が、未だ種火のままであるにも関わらず、静かに燃えていた。その事を、無意識で感じ取って、タキオンは自分から失せてしまったものを田上の中に見つけたのだ。種火は、パチパチと音を立てて燃えていた。
タキオンは、その場から逃げ出したくなった。もう、後は、紙を投げつければ、それでタキオンのしたいことは終わりなのだ。しかし、躊躇いを覚えた。田上の小さな黒い瞳がしずかに燃ゆる。タキオンをじっと見つめていた。タキオンは、とうとう逃げ出したい気持ちを堪え切れなくなって、こう叫んだ。
「嫌いなんだよ!そのいやらしい目つきが!…そんなに私の事が心配か?そんなに私の事が大切か?…それなら、そこにいるデジタル君のように、例え火の中水の中と忠誠を誓いたまえ!」
タキオンは、そう言うと、手に持っていた丸めた紙を階段下の方へ投げつけ、タキオンから見て左手の方に駆けて行った。田上は、追いかけなかった。何が邪魔したのかは分からなかったが、元よりタキオンを追いかけるつもりはなかった。ただ、田上の後ろの方で小さく丸くなっている可哀想なデジタルに、膝を折って屈みこんで優しく語りかけた。
「…デジタル君。…一体、これはどういう事なんだ?」
「……あたしより、タキオンさんを心配してあげてください…」
デジタルは、呟くように言ったが、田上はそれを否定した。
「タキオンだって、デジタル君のこんな姿見たら後で絶対後悔に襲われる。それを、今は解決しないと。問題を先延ばしにしていたって始まらない」
田上の言葉を聞くと、デジタルも怯えるのをやめた。それから、躊躇いながらもこう言った。
「……タキオンさんは、その紙を読んで欲しかったそうです。それで、トレーナーさんを一杯食わせようと…」
デジタルが指差した、今は床にぽつねんと転がっている紙の丸めたものを、田上は取りに行った。そして、中の物を読んだが、あまり意味が分からなかった。だから、またデジタルの方に歩み寄ると、「これの意味ってなんだ?」と聞いた。
デジタルは、てっきり昨日に言った事がそのまま書いてあるものだとばかり思っていたから、――なんで意味が分からないんだろう、と思って覗き込んでみて驚いた。確かに、意味は分かりにくかった。
「…正直…者とバカモルモット?………もうどこかに行ってしまえ…。…これ、あたしが昨日聞いた物と違うことが書いてあります。…うん」
「昨日聞いた物?」
田上は、そっくりそのまま返した。それに、デジタルが答えた。
「ええ、昨日からこの話は持ちかけられていたんですけど、その時は、――正直者はバカを見る。でした。その後に、トレーナーさんを煽る文句を書きたいと言っていましたが……」
ここで、デジタルは話すのを終えた。だから、田上はもう一度紙の文字を見つめ、考えた。そして、思いついた事を言った。
「…この、正直者とバカモルモットは、もしかして、正直者ってのはデジタル君の事かな?…でも、何でこの紙にデジタル君のことも書いてるんだろう?」
田上が、不思議そうに言うと、デジタルが躊躇いつつもこう答えた。
「…もしかしたら、あたしに対する贖罪と言うか、謝罪と言うか、タキオンさんの心の中でやっぱり何かが咎めたんじゃないでしょうか?…ほら、タキオンさんってああ見えて優しいから。…慣れない意地悪をしようとして、心に傷を負ったんじゃ…?……ああ!こうしちゃいられない!デジたんだけでも慰めにいかなくちゃ!」
デジタルが慌てて立ち上がったから、田上と頭を打ちそうになった。だから、田上は反射的に避けようとしたのだが、今度は壁に頭をまあまあ強くぶつけてしまい、左こめかみに見るも痛々しいたん瘤を作った。デジタルは、「ごめんなさい!」とすぐに謝ったが、田上はそれに「いいよいいよ」と返すと、話を先へと進めた。
「…俺も行っていい?」とまだ痛む瘤をそっと触れながら言った。
「へ?どこに?」とデジタルが返すと、「タキオンの所に」と田上も返した。
「ああ、それなら一緒に行きましょう!」
デジタルは、そう言って、タキオンが駆けて行った方に向かおうとしたが、田上がそれを止めた。そちらの方には、いないと思ったからだ。
「多分、タキオンは研究室にいる。三階の向こうの方だから、急ごう。もうすぐ授業が始まるよ」
「いいえ、デジたんは、タキオンさんのためならどこへだって行きます!例え授業だって何のそのですよ!」
その後に何か言葉を続けようとしたのだが、それは恐らく田上への気遣いでデジタルの腹の中にしまわれた。そして、二人は廊下を走って、タキオンの研究室まで着いた。
研究室の前だけ、廊下の電気は消されていて薄暗かった。そして、そこに近づいていくと、すすり泣く声が聞こえてきた。時折、大きくなったり小さくなったり、それから、自分をバカと罵る声も聞こえた。デジタルは、生唾を飲んだ。声は、カフェの部屋の方から聞こえていた。だから、田上は、少し心配そうに聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの音で、ノックをした。
途端に、泣き声がやんだ。そして、足音が聞こえた。かさ、かさとドアの向こうの方で、音が鳴って、それから、ドアの前で立ち止まった。田上たちは、ゆっくりとドアの開くのを待った。
カフェは、引き戸を少しだけ開けて、その隙間から田上を見た。
「ああ、あなたでしたか...」
少々疲れたような声だった。その後に、こう続けた。
「あなた、タキオンさん泣かせて、これ程遅れて来るなんて何しているんですか?私は、タキオンさんの子守りじゃありませんよ」
「ごめんなさい。…...タキオンは?」
田上が、少ししか開けていないドアから、部屋の中を覗き込もうとしたから、カフェはドアの隙間を田上の見えるくらい広げて、指差した。
「あそこの隅の方でうずくまっているのがタキオンさんです。あなたたちが来た途端、泣き止んでその影に隠れました。......私は、もう行きますよ?授業に出ますので」
その後にこう付け加えた。
「できれば、タキオンさんを私の部屋から移動させてください。…そして、あんまり私の部屋で騒がないでください」
カフェは、そう言うと、立ち去って行った。ちなみに、カフェが立ち去って行ってもこの部屋に住んでいる悪霊の件は、問題がなかった。カフェにも仔細は分からないのだが、今の所は、そのようなモノが騒ぎそうな気配はなかった。ただ、正月休みから帰ってきたその日に、初めて何かが起こっただけだった。
田上は、薄暗い部屋に入ると、そっとそっと近寄りつつタキオンに呼びかけた。
「タキオン?」
しかし、何の反応もなかった。ただ、死んだように身を固くして、体操座りで蹲っていただけだった。田上は、もう一度「タキオン」と呼びかけた。すると、今度は反応があったが、田上には聞き取れず「え?」と聞き返した。後ろについてきていたデジタルには、勿論聞こえの良いウマ耳があるので、タキオンの声は届いていた。その内容を田上の方に伝えようかどうか迷ったが、結局何も言わずに、そこで立ち止まって、後は田上がタキオンの方に進むのを眺めていた。
タキオンは、田上に聞こえるように大きな声で言おうとした。「来ないでくれ」そう言おうと思ったのだが、大きな声を出そうと思うと、中々腹に力が入らなかった。そして、その代わりに嗚咽が漏れた。そうなると、後は濁流のようだった。タキオンの涙は次から次へと流れ出て、嗚咽も止まらず、そのうち吐き気がしてきた。腹の中には、出せるようなものなど何もなかったが、タキオンは何度も何度も戻そうとして、何も出なかった。すると、タキオンはもっと泣いた。もっと泣くと嗚咽も酷くなった。悪循環だった。田上には、どうすればいいのか分からなかった。だから、デジタルの方を振り向いた。しかし、デジタルは田上の方を見ておらず、ただ、ひたすらにタキオンの事を心配そうに見つめていた。この時のデジタルは、田上が見ていることに気が付いていたが、その目を合わせることは絶対に避けた。自分にはどうこうできるものではなかったし、田上こそが、今の状態のタキオンを救ってやるべきだと思ったからだ。この突き放すようなやり方は、デジタルの好みではなかったが、そうは言ってられなかった。可哀想な二つも年上のタキオンの姿を、じっと見つめていた。
デジタルが、振り返らないので、田上は自分でやる他なかった。と言っても、心は不思議と据わっていた。苦しそうに咽び泣いているタキオンの横のソファーに座ると、田上は無言でタキオンの背を叩いた。擦った。体勢は、普段使っていない筋肉を使っていて、長時間やっていると辛くなってきたが、それでも田上はタキオンの背を叩き擦り続けた。すると、段々とタキオンの苦しそうな咽び泣きは終わり、次は、しくしくと静かに泣いて「どこかに行ってくれ」と頼み込む声が聞こえだした。
「君たち皆、嫌いなんだ。関わらないでくれ。…頼む。…頼むよぉ」
それでも、田上はタキオンの背を叩き続けた。それでも、デジタルはタキオンを見つめ続けた。薄暗い部屋の中にタキオンの泣いている声だけが、静かに広がった。
やがて、その泣き声も落ち着いてきた。すると、タキオンは無言で立ち上がると、ソファーに座っている田上の右横に腰を落ち着けた。そして、暫く、泣いてたくさん使ってしまった息を整えると、デジタルの方を向いて、それはそれはひどいしゃがれ声で言った。
「デジタル君……、君には負担をかけてすまなかった」
そう言い切ると、タキオンはまた体を前に倒して思い切り泣き出した。また、田上はその背を優しく叩いた。タキオンの体は、涙が落ち着いていくうちに田上の方に傾いて行った。だから、田上もそれを避けて背を叩き続けようとしたのだが、デジタルと目が合うと、思い切り睨まれているのに気が付いて、委縮してその場から動かなくなった。勿論、デジタルが睨んでいた理由は、せっかくの尊ぶべき場面が、田上の消極主義的な性格のせいで台無しにされそうだったからだ。それは、少し安直な考えではあったものの、デジタルの見たかったものは見ることができて、デジタルはタキオンに振り回されたのにも関わらず、大いに満足げだった。
タキオンは、田上の肩に寄りかかったまま、泣き腫らした目をぼーっと空中に向けていた。そして、ある時、正面にまだ突っ立っているデジタルを見つけると、震え声でもう一度言った。
「デジタル君……、ごめん。私の我儘に付き合わせてしまって」
「そ、そんなことないですよぉ!」
デジタルは、少し嬉しそうに言った。
「デジたんは、タキオンさんのためなら例え、火の中……」
そこで、デジタルの言葉は萎んでいった。というのも、デジタルは、階段の所でタキオンが投げ放った言葉がずっと気がかりだったからだ。――デジタル君のように、たとえ火の中水の中と忠誠を誓いたまえ!別に、デジタルとしては、タキオンに好きで忠誠を誓っているわけで、それがトレーナーにまで及ぶなんて考えもしていなかった。それで、また自分がこのことをタキオンに思い出させてしまって、二人の仲が壊れてしまったらどうしよう、と恐ろしくなったのだ。しかし、火の中、まで言ってしまったのなら、もう遅いと言えよう。タキオンの耳にはばっちりと届いていて、タキオンはこう言った。
「例え、火の中水の中?」
「え、ええ…」
そう言われると、デジタルは頷く他なかったが、その後にこの後起こる嵐に耐えようと顔を俯かせた。だが、嵐は起こらず、むしろ、笑いが起こった。
「例え火の中水の中。…私が言った言葉を気にしているらしいよ。デジタル君は。…トレーナー君はどう思う?」
「どう?…ん~、そうだな、…もう一回謝った方がいいんじゃないか?」
タキオンに寄りかかられて、少し居心地が悪そうだったが、声色はそれ程変えないで田上が言った。すると、タキオンは苦笑した。この部屋に来て、初めての笑顔だった。
タキオンは言った。
「それもそうだな。彼女には何回謝っても謝り切れないくらい酷いことをした。…すまないデジタル君。君のお望みとあらば、何回でもこうやって謝罪する。何なら土下座をしたっていい。…嘘じゃない。今して見せよう」
そう言ってタキオンが立ち上がったので、デジタルは慌てて止めた。タキオンは、自分の誠意が見せられずに少し不満そうだったが、デジタルの言う事を大人しく聞くと、また田上の隣に座り、その肩に寄りかかった。
その後に、デジタルは暫くモジモジとしていたから、タキオンは「何か言いたいことでもあるのかい?」と聞いた。タキオンがそう聞くと、デジタルは少しだけ興奮の色を顔に浮かべて、早口に捲し立てた。
「タ、タキオンしゃんと田上トレーナーしゃんと一緒に記念写真を撮りたいのですが、お手数ご面倒でなければ、このデジタルめと一緒に映っていただけますか?……ああ!ちょっと待ってください!あたしのスマホを寮に忘れてきてしまいました!あわわ、どうしましょうどうしましょう」
「取ってきたまえよ」
タキオンが苦笑しながら言った。その言葉にデジタルは、嬉しそうに「はい!」と頷いて、あっという間に部屋から出て行った。その間に少しだけタキオンと田上は、二人きりで話す時間ができたのだが、デジタルが帰ってくるまでのほとんどの時間を躊躇いのある沈黙で過ごして、結局デジタルが帰ってくる数秒前の「トレーナー君、…ごめん」の二言しか言えなかった。
デジタルが帰ってくると、すぐに自分は間の悪いタイミングで帰ってきたことに気が付いた。二人とも先程と別段変わった様子もなかったが、デジタルにはそれが感じられた。だから、部屋に入るとバツの悪そうな顔をしたが、タキオンに「おや?写真は撮らないのかい?」と聞かれると「撮ります撮ります!」と言って、タキオンの方に駆けた。
タキオンと田上は、デジタルがどう撮りたいのかが初めのうち分からなかったが、「そこから離れないでください」と言われると、デジタルの様子を見守った。
デジタルは、「ちょっといいですか?」と言うと、タキオンのソファーに膝を突いてそこに立った。そして、暫く調整しながらごにょごにょしていると、唐突に「ああ、この感じです。これで行きましょう」と言った。デジタルが、スマホを自撮りするために持って、その横にタキオン、そして、その奥に田上という順番だった。田上は、写真を撮られるのがあまり好きじゃなかったから、途中でタキオンに「これ、俺がいなくても良くないか?」と囁いたが、デジタルにもしっかりと聞かれていて、「居た方がいいです!」と揃って怒られた。だからと言って、田上が素直に写真に映るはずもなく、デジタルが「撮りますよー」と言っても部屋の空中ばかり見つめていた。だから、それを見かねたタキオンが腕を組んで、田上をカメラの方に向けると、デジタルから「うひょーー!!」という声が上がった。彼女は、こういう男女の物が何より好きで、この件で一番のご褒美を頂いた。強引に腕を組むウマ娘とそれを嫌がりつつも振り解けない男の人。デジタルは、興奮で顔がおかしくなりそうだったが、写真を撮ることを考えると、慌てて顔を整え言った。
「写真を撮りますよー」
今度は、田上もカメラを見ていて、上手くいった。デジタルは、にんまりと満面の笑みを浮かべた。この写真が撮れたことも何よりのご褒美だった。――役者をした甲斐があった。デジタルは、そうしみじみと思った。
それから、デジタルは帰ることとなった。帰るときには、楽しそうにタキオンとこんな掛け合いをしていた。
「九番、アグネスデジタル。今から先生に怒られに行って参ります!タキオンさんにはお世話になりましたが、これからも私の事を忘れずに!」
「デジタル君!…世話になったのは私の方だ!長い間、苦労をかけてすまなかった!」
「散り行く者に謝罪の言葉は要りませぬ!いつかまた黄泉の国で会った時!その時こそ、改めて罪を告白したまえ!いざ!コードネーム正直者!敵地へ行って参ります」
「行け!そなたの事は一生忘れぬ!」
その掛け合いが終わると、デジタルは部屋の外に出て行った。その後の部屋には、心地よい静閑さが残った。
「行こうか、隣の部屋へ」
タキオンが呟くように言うと、田上もまた呟くように「行こう」と言った。二人は手を繋いで、隣の暫く使っていなかったタキオンの研究室に行った。
「埃っぽいな...」
カフェとタキオンの部屋を分かつカーテンを開けるや否や、タキオンがそう言った。田上もそれに気付いて顔をしかめたが、また別の事に気が付くと、慌てた顔をして言った。それは、タキオンの椅子の上にレースで使う勝負服でもある白衣が掛けられて、埃まみれになっていたことだった。
「お、おい!なんで白衣がこんなところにあるんだ!」
田上がそう言うと、タキオンも物事の重要性に気が付いたようだ。しかし、反省はしておらず、ただ軽く「忘れちゃった」と言った。田上は、項垂れた。
「忘れちゃったって...。...勝負服なんだからしっかりと管理しておけよ。肝心な時に盗まれでもして着れなくなったらどうするんだ」
「その時はその時さ...」
タキオンは、少しだけ上の空で言うと、田上の手を離して、自分の勝負服にゆっくりと近寄って行った。そして、辿り着くとこれまたゆっくり勝負服を手に取り、埃を払った。それから、その袖に手を通した。田上は、その様子を後ろから見つめていた。
白衣に袖を通したタキオンが振り返った。それは、制服に白衣という普段では見られないタキオンの姿だった。タキオンの後ろの窓から光が差した。
「どうだい?」
タキオンがそう聞いたから、田上は思わず「可愛いよ」と返した。自分でも少し照れが残った様に感じたが、タキオンはそれ以上に感じた。一瞬、タキオンが顔を赤くしているように見えたが、それは窓から差す日の光によって見えなくなった。それでも、タキオンが照れたことは分かった。口の中でぶつぶつと言っていたからだ。それは、田上にはこう聞こえた。
「トレーナー君のくせにお世辞なんて言うなんて...」
田上の言葉は、お世辞ではなかったが、あえてそれを正す事はしなかった。ゆっくりと研究室を見回した。
すると、タキオンもそれに気が付いて、田上の方に寄った。田上は、タキオンが近付いて来ると、避けている様子をできるだけ見せないように、そっと離れた。タキオンは、当然、田上に近寄れば近寄る程遠くに行くのに気が付いた。それは、タキオンがどんなにゆっくり近付いたってそうなってしまうので、どうしようもなかった。タキオンの心には、また自分が嫌われているかもしれないという思いが芽生え始めた。
田上は、チラッとタキオンを見てみて慌てた。タキオンの顔は、憎しみににも似た泣き顔になっていた。
「タキオン、ごめん!」
田上は、そう言って駆け寄り、その手を取った。すると、タキオンは今まで押し込めていた息を解放するように大きく吐いて、田上の胸に入り込んだ。その震えている小さな肩は、泣きこそしていなかったが、今にも泣きそうに頼りなかった。
田上は、タキオンの体をそっと抱き締めようとしたが、躊躇いがそれを止めた。しかし、このままタキオンを胸の中に放っておくこともできなかったから、その両肩を掴んで引き剥がし、言った。
「…俺には、やっぱりお前を抱き締めることはできない。…お前がタキオンで、俺が圭一だからだ。圭一は、人を抱き締めることはできない。人と触れ合うのが怖いからだ。…分かってくれ、タキオン」
「嫌だ!分かりたくない!」
タキオンは、そう返すと、無理矢理田上の胸に体を戻した。田上は、驚きもしたが同時になぜか安心もして、タキオンの肩をゆっくりゆっくりゆっく~~りと抱いた。タキオンは、腕の中で嬉しそうに笑った。
それから、暫くそうしていたが、唐突にタキオンが言った。
「トレーナー君。私、勝負服を変えようと思うんだ。...問題はないだろう?」
「勝負服?…多分、問題はないけど、…なんでなんだ?」
「…研究はやめると言ったのに、その服を着続けることは、些かちぐはぐだろう?だから、別のデザインにして心機一転を図ろうと思ってね」
「…どんなデザインがいいんだ?」
ここで田上が、話しやすいようにタキオンから体を離そうとしたが、タキオンは頑として受け付けず、田上の体を強く抱いた。
「炎をテーマとした赤系の色を主体にデザインしてみたいんだ」
「…別に、デザイナーの方に任せても良いんだぞ」
田上がそう口を挟むと、胸の中でタキオンが首を横に振るのを感じ、その時に髪の毛が田上の首をくすぐって鬱陶しかった。
「私がデザインしてみたいんだよ。次は、大阪杯だよね?それまでに間に合うかい?」
「タキオンの頼みとあらば、間に合わせて見せるよ」
タキオンは、この言葉を聞くと急に押し黙った。何か思うところがあったようだ。小さな肩が少しだけ震えてきた。だから、田上は、またその背をぽんぽんと叩いた。すると、タキオンは落ち着いてきて、こう言った。
「……ごめん。君の事嫌いなんて言ったりして」
「…俺の方こそ、タキオンに心労を掛けてごめん。俺が、大人じゃないから、まだ完全ではないから、タキオンが傷付くことになってしまった」
「……いいや。私も我儘だったんだよ。もう少しだけ大人にならねば、ちょっとだけ、少しだけ大人になってトレーナー君の役に立たねば」
「俺の役に立つ必要はないさ」
この田上の言葉にタキオンは顔を上げ、食い気味に返した。
「いや、あるさ。今君が言ったじゃないか。――大人じゃない。完全じゃないって。なら、私も助けてあげなきゃ」
「助けたところでなんになる?結局、タキオンは別の所へ行って、俺は別の道を歩む。…人は一つじゃないんだ。道は幾つもあるんだ。その中で、無理に一つの道に入って、ふらついた俺に押されでもしてみろ。お前は途端に奈落の底だ。……俺には、無理なんだよ。誰かに助けて貰うなんて事。…そりゃ、たまにタキオンに弱音を吐いた事もあったけど、あれは…、何と言うか、苦しさの嘔吐物をタキオンに吐きかけただけで、助けを求めてはいない。……あのまま仲直りしない方が良かったかもしれない。俺がここに来ない方が良かったかもしれない。じゃなきゃ、俺の吐いた物でタキオンまでも汚してしまう」
「なら、その吐いた物まで私は飲み下してしまおう。大丈夫。胃は強い方なんだ。君の嘔吐物くらい難なく消化できる。……でも、こんな軽口では、君は満足してくれないだろう。…それで、私が胃なんかではなく、心がひ弱なことを君は知っている。それを知っていては、私を頼ってくれてなんかいないだろう。…どうすれば君は納得してくれる?どうすれば、君の心は安らかになる?」
田上は、そう言ったタキオンの顔を見つめ、その後に、「知らない」とむっつりとした口調で答えた。タキオンは、口元に苦笑を浮かべ、口の隙間から小さくため息の様な物を漏らした。
「………やっぱり、君が私に情があるというのは嘘だった。…しかし、嫌いなんて事はなかった。君の心は、今の所、自分の事だけで精一杯だ。私の事まで気にかけている余裕なんてないだろう。…それにも関わらず、君は私を心配しているものだから、凄い。凄く優しい。私なんて真似できたもんじゃない。……でもね。私だって負けてられないよ。私は、君に対して情というものがあるんだ。ちょっとやそっとじゃ崩れないものだ。…それがある限り、私は君を気に掛ける。君が、自分の心との話し合いに決着がつくまで。…待っててくれ。私は、君の傍に居るから」
タキオンがそう言うと、田上はそれに何か返そうとしたが、口を少しだけ開けたところでやっぱり止めた。そして、最初思った事とは別の事である「ありがとう」という感謝の言葉を告げた。タキオンは、これには大いに満足そうだった。
「どういたしまして」
そう言うと、ぎゅっと田上を抱き締め、満足のいくまで強く抱きしめてからその手を解いた。タキオンの顔は、泣き腫らしていた目が赤くなっていてみすぼらしかったが、顔は晴れ晴れとしていた。ただし、田上の顔は反対にいつも通りではあったものの、曇っていた。自信の種火は、その力を火が消えるぎりぎりまで使ってしまっていて、今やこれ以上火が大きくなるのかも怪しかったが、とりあえずは、まだ残っていて、再びその力を蓄えようとしていた。これ以上、火が大きくなるのかは分からない。今はまだ曇り空だった。しかし、その空に雨が降ったとき、その火は今までよりさらに大きくなるだろう。本物の火というものは、雨では消えないものだった。雨を乗り越えるその火こそが、本物の火だった。
今はまだ、曇り空の下、火は燻っていた。しかし、雨が来た時こそ、その火の真価は試されるだろう。田上自身に如何なる災禍が振りかかろうとも、その火のが今後消えることはなかった。