ケロイド   作:石花漱一

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十三、愛とは?④

 トレーナー寮は、ウマ娘寮と違って、比較的静かだった。特に、女子寮の共有スペースは、本当に静かで、誰も大きな声を上げて笑う事をせず、誰もソファーの上に立って、床にジャンプなんてしていなかった。勿論、ウマ娘寮もそういう分別のない子が寝る時間になれば静かにはなるのだが、いつも静かだとなるとタキオンも羨ましかった。タキオンは、共有スペースを利用する時間、というよりも風呂上りなどにゆったりとする時間がそれなりにあったので、こうも落ち着けるとなるとトレーナー君の部屋と言わず、普通に女子寮でもいいから、ここに住まいたくなった。しかし、そうも言ってられないので、タキオンは、男子寮の方へと急いだ。女子寮の方からウマ娘がやってくると、物珍しそうに男子たちはタキオンを見つめたが、すぐに自分たちの話に戻った。

 男子寮は、女子寮ほどではないにしても、静かだった。というのも、女子寮の方は声を上げて笑う人はほとんどいなかったが、たまたまタキオンが来た時だけなのか、がははと無遠慮に笑う人が数人いた。それが、あまりに耳障りだったので、タキオンは田上の部屋へと急いだ。

 

 田上は、ちょうど風呂上がりだったようだ。首にタオルを掛けて、廊下の奥の方からスタスタと歩いていた。少し解れた心地だったのだろうか、鼻歌を静かに歌いながら、所々電気の付いていない廊下を歩いていた。

「トレーナー君!」

 タキオンが、まだ自分に気が付いていない田上に呼び掛けた。それが、静かな共有スペースにあまりに大きく響いて聞こえたようだったから、男たちの笑いがちらほら聞こえた。タキオンは、顔を赤くして、田上の方に歩み寄って、そして、自身のトレーナーに八つ当たりをした。

「君が、あんまりにも遠くにいるもんだから、大声を出してしまったじゃないか。君のせいであの人たちに笑われたぞ」

 これも共有スペースにいた人たちに聞かれていたようだ。何人かのハハハと笑う声が聞こえ、さらにあの耳障りながははと笑う声も聞こえた。タキオンはもう腹が立ってしまったから、共有スペースにいる人たちにこう言った。

「みっともないぞ!大の大人でありながら、子供の事を笑うなんて!それでも君たちはトレーナーか!」

 また、笑い声が起こった。そして、「俺たちはトレーナーだぞ!」という声がどこかから湧きあがった。この調子は、まるでタキオンを煽るようだった。だが、タキオンはそんな調子には気付かず、こう言った。

「よし!今、言ったやつ立て!私が直々にその不遜な面を拝んでやる!」

「俺です!」と言って、一人の青年のように若々しい男性が立った。

「お前か!」とタキオンが言うと、そちらの方に歩いて行こうとしたから、田上がその手を取って「もういいだろ?タキオン」と不安そうに言った。田上は、こんな風に注目されるのは嫌いだったのに、運動場の時と今とで、今日二度目だった。

 そんな田上を見て、タキオンは思い止まった。しかし、怒りまでは止まり切れずに、最後に若々しい男性にこう吐き捨てた。

「もう二度と私のことを笑うな!」

 男性の周りで笑い声が起こった。タキオンの腸は煮えくり返る思いだったが、田上が再度「もうやめてくれ」と言うと、タキオンも渋々引き下がった。

「あの人たち、酷くはないかい?」

 田上が、自分の部屋に連れ込むこともできないので、タキオンと一緒に廊下の奥に逃げるとそうタキオンが言った。田上は、困ったような顔をして言った。

「ああいうのは、どこにでもいるんだよ。それに一々怒っていたら切りがないだろ?」

「そりゃあ、勿論、そうだけどさ。私は悔しいんだよ、トレーナー君。笑われて黙っているなんてことできないだろう?」

「できるよ。だって、それで怒って、厄介な輩に絡まれでもしたら、この上ない面倒だろ?」

 そこで、田上は階段の方に舵を取り、タキオンにも行こうという事を仕草で伝えた。タキオンは田上の横を歩いて、階段を上りながら言った。

「確かにそれはそうだけど、でも、やっぱり私は怒りたいんだよ」

「なんでなんだ?」

「……頭に怒りがチラつくからだよ」

「なら、その怒りを抑える練習をしろ。その怒りに身を委ねてちゃ、何にもならないってことはタキオンにもわかるだろ?」

 二人は、一歩一歩階段を上り、屋上の方に近づいて行った。

 タキオンは言った。

「でも、…でも、…うん。納得はできる。…ただ、抑えられるかなぁ」

「それは、まだ不安定な時期だからしょうがない。段々やっていくんだよ。段々」

 それから、二人は、階段の上の方を見つめながら、屋上まで歩いて行った。屋上に出るドアには、鍵が閉められていなかった。ここの扉は、本来は門限の時間に閉められるのだが、こうして夜に外の風を吸いに来る人もいるので、閉まっている日いない日はまちまちだった。

 屋上のドアを開ければ、冷たい風がぴゅうと吹いてきて、田上は思わず身震いした。タキオンも身を縮こまらせて、「寒いねぇ」と呟いた。静閑な屋上だった。田上は、この静閑な屋上を見に来た。田上は、この屋上が好きだった。校舎よりかは低かったが、それでも十分に高い所。そして、寝転がって見れば、明かりは目に入らず、ただ星空だけが見える場所だった。ただ、今日は、寝転がることはしなかった。あまりに寒すぎたからだ。

 田上は、白い息を吐きながら真っ暗な空を見上げた。女子寮の明かりが、目に入ってきたが、それを無視してみてみれば、やはり静閑で、綺麗な星空だった。田上は、美しい星空をぽうっと眺めた。タキオンもその横に立って、空を眺めてみたが、あまり大した感情は抱かずすぐに飽きてしまった。そして、隣の田上を眺めた。田上は、寒さで鼻の頭を赤くさせているのにも関わらず、夢中で星空を眺めていた。目はあっちへ動きこっちへ動き、色んな星を探していた。まるで、小さな子供のようだった。田上の子供の頃を垣間見たような気がした。それを見ると、タキオンはなんだか寂しくなったが、同時に嬉しくもあった。こんなに顔を輝かせているのは、タキオンをスカウトした時ですらない。あの時が、一番、田上の感情が高まったときだろうと、タキオンは思っていたがそんなことはなかった。今の田上の顔を見れば、それが分かる。そのくらいに顔を輝かせていた。

 やがて、田上は、タキオンがいる事を思い出すと、地上の方に目を向けたが、タキオンが「君、一生懸命星を探していたようだけど、どれがどの星とか分かるのかい?」というと、嬉しそうに「ああ」と低い声で頷いて、星空を指差した。

「あそこの方に見える星が分かるか?」「…えーっと?…あのちょっと小さいのの横にある星の事かい?」「多分それだ。その星が北極星。…それくらいだったら、タキオンも知ってるか?」「いや、知らないよ。私は、星の事に関してはからっきしなんだ。…ほら、続けてくれ」「…じゃあ、あの星は分かる?冬の大三角形の星だけど」「ああ、…あれだろ?多分、シリウス」「残念」

 こんな風に二人は話していった。タキオンは、ここがチャンスだと思ったから、少しずつ距離を縮めた。田上が星空を指差す度、そっと寄って、田上がこちらを向けばふっと微笑む。そして、最後には田上の腕と腕を組んだ。田上は、タキオンが寄ってきていたことには気が付かなかったが、さすがに腕を組まれると気が付いたようだ。星空を見つめて楽しそうに喋っていた声が止み、次に口を開いた時には、いつもの疲れ果てた男の声に戻っていた。

「もう、寮に戻ろうか」

 田上が言った。タキオンもまさかこんな風になるとは思わなかったので、思わず「ごめん」と謝った。

「いや、いいんだよ」

 心なしかいつもより疲れているような声だった。風呂上がりの熱気は、寒空へと奪われた。田上は、今はもう誰も寄せ付けない背中をして、体を小さくさせて、寮へ帰ろうとした。タキオンは、今にも叫びだしたくなった。「実は君の事が好きなんだ!」と。しかし、それもまた渇いた寒空へと奪われた。タキオンは、口を開けこそしたが、言葉は何も出てこず、そのまま口を閉じた。そして、田上の後に続いて、建物の中に入ると、屋上のドアを閉めた。

 

 その後は、二人とも別れ際の「バイバイ」という言葉しか交わさず、歩いて行った。そして、それぞれ別れると、田上は自分の部屋へ入り、タキオンはマテリアルの部屋の方に行った。少し迷子になりかけたが、何とかマテリアルの部屋の前まで辿り着けた。そこで、タキオンが部屋の取っ手に手を掛けた時、タキオンが来た反対の方からマテリアルが来た。無表情のタキオンにマテリアルが不思議そうに話しかけた。

「タキオンさん、田上トレーナーを探すって、迷子にでもなったんですか?あの人」

 マテリアルは、風呂上がりのタオルをまだ首の方に掛けていた。タキオンは、その言葉に少し笑って、こう返した。

「いや、ただ、トレーナー君の正確な居場所が分からないからそう書いただけだよ。本当は、トレーナー君の所に遊びに行っていただけだよ」

「そうなんですか」

 マテリアルは、嬉しそうにニコッと笑った。マテリアルは、例え肩にタオルを掛けていたとしても絵になった。その様にタキオンは少しの間見惚れた。全く油断も隙もあったものじゃなかった。マテリアルの美しさは、絶えずタキオンを魅了していた。そして、タキオンがその魅了から覚めると、少し活力の戻った頭で思った。この美しさに眉一つ動かさず、耐えられるトレーナー君は一体何者だろうか?と。タキオンはどんな人、例え同性である女でさえもこの美しさには見惚れない事はできないだろうと思った。ウマ娘の中でも抜群の美貌をマテリアルは持ち合わせている。それによって、誰もが彼女に見惚れるのだが、不思議なことに田上にはそれがなかった。――もしかしたら、悟りでも開いた仙人なのか?タキオンは、本気でそう思い始めたが、――なら、私の出る幕がないじゃないか、と思うとその考えを頭から振り払った。――トレーナー君は、きっとやっぱり自分の事に悩んでいて他の人の事を見ている時間がないんだ。そう思った。だが、そうは言っても、これからマテリアルに言う事は止めなかった。

 タキオンが、マテリアルに言いたい事とは、運動場でカフェと話した、田上とマテリアルの仲を牽制しておくことだった。もう、マテリアルが田上に惚れているのであれば、タキオンに成す術はなかったが、まだ日が浅いマテリアルなら惚れてはいないだろうと思った。それを早速言おうと思ったのだが、マテリアルはタキオンが話し出す前にこう言った。

「タキオンさんは言いたい事があるんでしょ?それなら、一緒にお布団に入って話しましょうよ」

「なんでなんだい?…第一狭いだろ?」

「その方が、何か仲良しで良いじゃないですか。私は、その方が話しやすいです」

「私は、その方が話しにくいんだけどねぇ」とタキオンが返したが、マテリアルに「さあさあ」と背を押されて、ベッドの奥の方に押し込まれた。

「このまま寝るのかい?」

 タキオンが聞いた。

「ええ。…狭いのが嫌でしたら、寝るタイミングで私が床で寝ますけど」

 タキオンは、「私が言い出したんだから、私が床で寝るべきなんじゃないのかい?」といおうとしたが、マテリアルの「私が下で寝るのは当然ですよね?」という顔を見ると、それを言う気も失せて、「いや、狭いのは嫌いじゃないよ」と言った。

 そして、二人は、話し始めた。ただ、このまま寝るというので、タキオンはその前に一度トイレを済ませに立った。それから、いよいよ話が始まった。

「それで、話っていうのは、小言ですか?相談事ですか?」とまず初めに、マテリアルが聞いた。それが、あまりにもすらすら出てきた言葉だったので、タキオンは半笑いで「なんだい、それは?」と聞いた。

「タキオンさんが、寮に荷物を取りに行ったときに、田上トレーナーが話していたんです。――きっと小言だぞ、って。だけど、私はタキオンさんと話すことができるのが嬉しいので、――小言でも相談事でもドンと来い、って返したんです」

「なるほど、トレーナー君には後で、小言を言っておかないとな」とタキオンがお道化て返すと、マテリアルからハハハと楽しそうな笑いが起こった。タキオンがそれを静かに微笑んで見つめていると、マテリアルもやがて笑い終わりこう言った。

「最初から話が逸れましたね。でも、私、これって凄く学生の時の修学旅行みたいで楽しいです」

「んん?修学旅行に憧れがあるのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。

「ええ、私、小学校中学校では、仲の良い人がいませんでしたから」

「高校は?」

「熱で途中リタイアになりました」

 マテリアルは、世間一般から見れば、悲しそうなことを明るく言った。タキオンは、その明るさに苦笑して、聞いた。

「それは、悲しい事なんじゃないのかい?」

「そうですけど、今がまあまあ楽しいですからね。田上トレーナーを選んだ甲斐がありました。あの人、とっても優しいですね。あとは、不機嫌そうな顔を直してもらえたら、完全パーフェクトなのに」

 途端にタキオンは、胸がざわついて、話の脈絡なんて何の関係もなしに言った。

「君、あまりトレーナー君に近寄らないでほしいんだ」

 マテリアルが、ニヤリと笑った。

「それが、言いたい事ですか?」

「そうだ」とタキオンが答えた。そして、少し沈黙が流れたが、再びタキオンが言った。

「君がトレーナー君に近寄って貰われると困るんだ」

「誰がですか?」

 マテリアルは、相変わらずニヤニヤしている。その顔に、タキオンは少しむっとしながらも言った。

「私がだよ」

「何でですか?どうしてですか?まさかタキオンさん、田上トレーナーの事が好きなんですかぁ?」

 マテリアルは、意地悪な質問を重ね、遂にタキオンの核心に触れた。タキオンは、それを言われると、怒って何か言い返そうと思ったが、口を開いても何も出てこず、次には項垂れて、下を向いた。うつ伏せに肘を立てているので、シーツに皺が寄っていた。タキオンは、その皺を伸ばそうと、少し頑張ってからやっぱり諦めた。マテリアルは、何も言わずにその様子を眺めていた。タキオンの返答を待っているのだ。こうなると、タキオンも言わざるを得なかったから、渋々、渋々言った。

「……トレーナー君の事は好きだよ。……でも、君の事は嫌いだ。そんな意地悪な質問をする人だとは思わなかった。…これもやっぱり話すべきじゃなかったかもしれない。…ねぇ、言わないでくれよ。私は君の事を信頼してこの事を言ったんだ。君が、もしトレーナー君に言ってしまえば、私は、もう走れなくなるよ。君は私の滅ぶ様を見に来たんじゃないだろう?」

 マテリアルに話した事を後悔したタキオンが、慌てて言った。マテリアルもそれを暫くニヤニヤしてみていたが、やがて、こう言った。

「まぁ、私は、秘密は守りますよ。守ってほしいのであれば。…勿論、生まれてこの方、誰かの秘密を漏らした事はありませんよ」

「本当かい?」

 タキオンが不安そうに聞いた。すると、マテリアルも暫く考え込んで、「…二つ、三つは漏らした事があるかもしれませんね」と言った。タキオンは、悲鳴のような声を上げた。

「二つ三つ漏らしていれば、十分じゃないか!…ああ、もう駄目だ。私は、終わった。マテリアル君に全部漏らされて私は、終わるんだ。まず、トレーナー君の方から避け始めるだろう…。ああ、想像しただけでも嫌だ」

「本当に言いませんから」

 タキオンのあまりの落ち込みように、マテリアルもとうとう優しくなって、タキオンの手を落ち着かせるようにとんとん叩いた。

「本当かい?」

 タキオンが聞いた。

「本当ですとも」

 マテリアルが答えた。そして、続けた。

「もし、漏らしたら目一杯私の顔面を殴ってください。そして、なんとか田上トレーナーの方に交渉してみます。……案外、あの人押しに弱そうだから、頑張ればいけるんじゃないですか?私が漏らさずとも、明日タキオンさんがぐいぐい攻めれば」

 タキオンは、少し俯いて考えてから言った。

「多分、あの人は押せば逃げるし、追い詰めたら余計言う事聞こうとしないと思う。それが、他人であればあるほど…。…ねぇ、私は、トレーナー君の人間関係の中でどのくらいの距離にいると思うかい?」

「タキオンさんが?…普通に一番近いんじゃないですか?あの人、そんなに交友関係は広くないでしょう?」

 マテリアルがそう言うと、タキオンが少し呆れて言った。

「君、まだ日が浅いのに、もうトレーナー君の交友関係まで知っているのかい?…答えは聞いていなかったけど、私の――トレーナー君に近寄らないでくれ、という頼みはどうなったんだい?」

「私は、…田上トレーナーとは、補佐とその上司という適切な距離感を保ちますよ。…ただ、友達のような感覚で、私も田上トレーナーも接してきているので、その辺の区別が大変ですね」

「…何とかしてくれよ?」

 タキオンが不安そうに言った。

「勿論、それはタキオンさんと約束します。できうる限り、体を寄せるなどの無駄な接近は取り除きます。それに、タキオンさんの秘密をあの人に言わないことも誓います」

「トレーナー君だけじゃないからね。他の人にも言っちゃだめだ。それに、例え私と話す時でも名前は出しちゃだめだ。誰かに聞かれでもしたら面倒だ。…誓うかい?」

 マテリアルは、ニヤッと笑って「誓いましょう」と言った。それから、不図思いついたように言った。

「…でも、タキオンさんが田上トレーナーと付き合っちゃえば、それもなくなるのではなくて?」

「…簡単そうに言うけど、相手があのトレーナー君となると難しいよ。……ついさっきも失敗したばかりだ」

「…失敗?」

「……うん、失敗だ。少し腕を組んでみようとしたら、避けられた。本当に嫌そうだったよ。……もしかしたら、私の事が嫌いなのかなぁ?……ああ、嫌だ…」

 タキオンは、そう言ってベッドに顔を伏せた。マテリアルは、ぽんぽんとその背を優しく叩いた。

「あんまり悩んでみてもしょうがないですよ。それに、田上トレーナーは、多分あなたの事が嫌いではないと思いますけどね」

 タキオンは、顔を伏せたまま「本当かい?」とくぐもった声で聞いた。

「本当ですよ。……あんなに仲が良いんだから」

 マテリアルは、最後の言葉を本当の所は、「むしろ、好きなようにも思いますけどね」と言おうとしたが、これを言ってしまっては、少々つまらないように思えたので、変わりの言葉で補った。ただ、やっぱり自分を抑えられなくなって、その後にこう言った。

「次の木曜、バレンタインですよね?そこで、想いを伝えてみては?」

 タキオンは、顔を伏せたまま暫く黙り込んで、その後に言った。

「…どうせ成功しないよ。トレーナー君が、私の事を好きであっても嫌いであっても、結局は逃げるんだ。私は、トレーナー君がそういう男だということを知っているよ」

「じゃあ、どうするんですか」

 マテリアルは、何とかタキオンを焚き付けたくて、煽るように言った。すると、タキオンからは、「その口調はやめてくれ」という言葉が返ってきた。それから、こう言われた。

「とにかく、今は、バレンタインの事を考えるよりも大阪杯の事の方が大切だ。今年でピークが終わるかもしれない、先の見通せない私では、愛よりも競技を優先した方がいい」

「では、田上トレーナーの事はどうでもいいと?」

「……そんなことはない。…ただ、トレーナー君だって、もう少しは待ってくれるだろうって事だ。…私は待っててくれ、と言った事があるから、トレーナー君は待っててくれるはずだ」

「いつ、そんなプロポーズ紛いなことをしたんですか?」

 マテリアルが驚いて言った。

「…プロポーズなんかじゃないよ、本来の目的は。…私が、トレーナー君を助けたいんだ。…私のただの我儘だよ。…、…、…もう、寝るから話しかけないで…」

 タキオンは、消え入りそうな声で最後にそう言って、すぐに寝息を立て始めた。タキオンは、狭いベッドで寝返りもできないのに、一番寝にくそうな体勢で寝始めたので、マテリアルは仕方なしにベッドから立ち上がると、タキオンの体勢を整えてあげた。タキオンの寝顔は、恋する乙女のように少し悩ましげだった。しかし、同時に美しくもあった。美しく儚かった。その儚さすらも秘めた顔は、マテリアルが体を動かすと、口をもにょもにょ動かしながら「トレーナー君…」と言った。マテリアルは、嬉しそうに微笑んだ。そして、タキオンの体を整え終わると、その顔をこれまた嬉しそうに眺めやった。それから、タキオンの鼻を指でちょんと突いて、自分のその隣に寝転がった。暫くは、考え事をして眠れなかった。二人の行く末を想像すると、とても楽しかったからだ。星の見えるレストランの屋上で田上がタキオンにプロポーズとか、反対にタキオンがレースに勝利して、田上に大勢の前でプロポーズとか色んなシーンを考えた。しかし、その後に少しだけ空しくなった。自分の事を考えたからだ。色んな人と交際したのにも関わらず、そのどれもに立ち去られてしまった。別に、皆悪い人たちではなかった。普通の人もいれば面白い人もいて、皆それぞれに楽しませて貰った。ただ、マテリアルに負い目を感じただけだった。マテリアルが、その背を追いかけようとしなかったのが、いけなかったのかもしれない。誰か一人でも引き留めていれば、今も続いている交際になったかもしれない。マテリアルにとって、これまで生きてきてただ一つの心残りはそれだった。

 マテリアルは、惚れっぽい人で妄想家でもあったから、田上と出会って、――この人ならもしかしたらいけるかもしれない、と淡い淡い期待をほんの少しだけでも覗かせていたのだが、それもタキオンの話を聞けば簡単に砕け散った。到底、タキオンに勝てそうなものではなかったし、そもそも失恋と呼べるほどの大きさの恋ではなかったからだ。ただ、そう思っていただけだった。だから、タキオンの想いを聞いて、恋敵と思うこともなかったし、想いを聞いて勝てなさそうなことに、嫉妬することもなかった。ただ、思っていただけなのだ。すると、マテリアルは、少しだけ落ち込んだ。――それくらいの女なんだ、私は。そう思った。少しだけ涙が出てきそうになって、慌ててそれをごまかすようにタキオンの方に体ごと向きを変えた。すうすうとタキオンは穏やかに眠っていた。それを見れば、マテリアルの心に再び元気が湧いて出た。

「頑張ってね」

 そう呟くと、タキオンの頬をそっと撫でた。ぷにぷにしていて柔らかかったから、暫くそうした。それから、マテリアルも眠りについた。我慢していた涙が、今になってようやく出てきたが、それは重力に基づいてシーツにぽたりと落ちただけだった。そして、それはシーツに飲み込まれて、朝にはとっくに痕跡すらも消えて、乾ききっていた。

 

 田上は、タキオンに腕を組まれて、それを拒否した後部屋に戻ると、堪らなく苦しくなった。今回のタキオンの腕組は、今までの甘えるようなものではないと、田上は感じた。それは、女らしさのある、人を愛そうという腕組だった。ただ、田上の頭の中では、まだ勘違いの可能性を捨てきれなかった。それでも、胸が苦しくなった事実は、消しようがないのだが、田上は勘違いだと思いたかった。

 心臓が、バクバクとなって頭を占めた。まさか、あんな詰め方をされるとは思わなかった。田上には、どうしても人の気持ちには答えられないという想いがあった。それは、前にもタキオンに話した通り、人と触れ合うのが怖いからだ。人と触れ合えば、やがては、自分の心を見透かされる。それが、怖かった。他人に自分の心を見てほしくなかった。まれに、澄んだ瞳の持ち主に、心を見透かされることがあるが、それが嫌だった。自分の心とは、おぞましいものだった。少なくとも田上はそう思っていた。何か一つ、汚れが落ちても、次にはまた別の汚れで穢れている。それは、偏に自分の心の奥底が、荒んでいるからだと田上は考えた。実際にその通りだった。他人どころか自分でさえ触れる事のできない心の奥底では、水のない渇いた海が広がっていた。その剥き出しの海は、人と触れ合えば触れ合うほど露わに見えてくるようになり、おぞましく見えてくるようである。田上にとって。それは恥ずかしい事だった。忘れたい事だった。だから、タキオンに弱音を吐いた時なんかはいつも後悔した。タキオンと抱き合えば抱き合うほど、心の距離が近くなっていくような気がした。――それもいよいよ詰めなのか?田上は、そう考えた。だが、やっぱりその考えは嫌なことだったので、田上は、自分に言い聞かした。

――タキオンが今日腕を組んだのは、いつものあいつらしい触れ合い方で、タキオンの方と言ったら何も考えてはいないんだ。

 そう思って、眠りについた。なんだか変な夢を見たが、それは起きた時には忘れていた。


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