ケロイド   作:石花漱一

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十四、バレンタイン①

十四、バレンタイン

 

 田上は、朝起きると、すぐに体をむくりと起こしたが、その後に大きな大きな欠伸を一発かました。今日は、二月十一日、建国記念日。祝日だった。この日になると、入寮してくるトレーナーが増えた。特に、今まで地方に住んでいた人たちなどが、ここの休みを目指してやってくるのだろう。少し遅いくらいだったが、四月までに寮に入れば、一応の所問題はないので、のんびりやっている人は多かった。それに、今回が三連休だったというのも大きな原因なのだろう。寮の中は、朝から人の移動で騒がしかった。

 今日の所は、タキオンのトレーニングはなかった。これは、元々その予定である。休息がてらにタキオンとお出かけに付き合わされることもない、田上にとっても正真正銘の休みだった。だが、それにしては、部屋の外が騒がしいだろう。それもそのはず、大体の人がここを通って自分の寮の部屋に行くのだ。田上は、この前、寮長に部屋を変えてもいいという話を持ち掛けられたのだが、それは二月に入ってちょっとした時に断ってしまった。それを、今、やっぱり後悔した。その二月の頭の時は、この部屋に情が湧いてしまって、寮長からこの話題を持ち掛けられた時は、思わず断ってしまった。その情とは、今までタキオンとか友達とかが来て、思い出のある部屋を手放すのが惜しいと思った事なのだが、今朝になると、その情も薄らいで自身の安寧を求めた。――どうせ、別の部屋に行っても思い出はできるんだ。そう思った。

 田上は、早速起き上がった。昨日の夜の事は、心の奥の方にしまい込んでもう忘れていた。だから、田上には、心もとない活力があった。その事に田上は気が付いてはいないのだが、とりあえず活力があるので、てきぱきと自分の体を動かしていた。寮長にもう一度頼み込んでみるのだ。まだ、部屋はありますか?と。あの時、断ってしまった負い目が田上にはあるのだが。それでも、この騒々しさには耐え切れず、寮長に直談判しに行った。

 朝起きて、顔を洗い、髭を剃り、鏡の前で少し表情筋を動かす。それから、着替えて、眼鏡をかけて部屋を出た。寮長の部屋はすぐそこである。と言う事は、寮長もこのうるささにくたびれているかもしれなかった。

 

 田上は、寮長の部屋のドアを叩いた。共有スペースのすぐそこには、寮長室があって、寮長はそこで寝泊まりをしている。そして、そのすぐ隣に田上の部屋があるのだ。

「おはようございます、柊さん。少しお話ししたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 ドアの内側の方から大きな声で、「はーい、少し待ってください」という声が聞こえてきて、暫くしてから扉が開いた。

「ああ、あなたでしたか。…何の御用でここに?」

「実は、折り入って頼みがあるのですが、先日、僕が断った部屋の件で、…もう部屋は満杯になってしまったのでしょうか?」

 田上が、そう言うと、寮長の柊さんは露骨に嫌そうな顔をしたから、申し訳なくなった。それでも、柊さんはこう言った。

「えっと…待ってください。一部屋くらい空きがあったと思います」

 そして、柊さんは、田上に「そこのソファーの方でお待ちしていてください」と言って、目の前の共有スペースにあるソファーを指差すと、部屋の方に引っ込んでいった。田上は、ソファーに座れと言われたものの、素直にそこに落ち着くことはできずに、少しの間扉の前に立って、共有スペースを見回した後、ゆっくりとソファーの方に歩いて行った。

 ちょうどその時に、タキオンが、女子寮に続く廊下の方から「おはよう」と言って出てきた。まだ、パジャマだった。

「何で、出てきたんだ?」

 田上は、ぎょっとして聞いた。このソファー周りには、数人のトレーナーがいたから、そのトレーナーたちが「何だ、あれ?」という目つきでタキオンの事を見ていた。

 タキオンは、こう答えた。

「君に会いに来たんだよ。君がもう起きているものなのかどうか気になって」

 タキオンは、まだ少し欠伸をしたり、目を擦ったりしていて、眠そうだった。

 田上は、「ああ、そう…」と答えて、何をしようもなかったからテレビを見つめたが、タキオンがそこに立ったまま動こうとしないから、「何で来たんだ?」ともう一度聞いた。

「マテリアルさんは?」

 その後にこう付け加えた。

「まだ、寝ているよ」

 そう答えて、タキオンは田上のソファーの隣に座ってきた。その途端に田上は、昨日の夜の出来事を思い出した。そして、タキオンが座ると同時に、タンと立ち上がった。タキオンは、田上に寄り掛かろうと半分重心を傾けていたので、田上が立つと寄り掛かるものがなくなって少し座ったままよろめいた。

「なんで立つんだい?」

 タキオンが聞いた。田上は、最初のうちタキオンの声が聞こえなかったふりでもしようと思ったのか、ぴくりともせず立ったまま正面の壁を見つめていたが、やがて、思い出したように座っているタキオンを振り向いて言った。

「ちょっと落ち着かなくてな。寮長さんと話してて、今、待っている最中だったんだ」

「何を話していたんだい?」

「……それは、決定してから言うけど、…お前にもちょっと手伝ってもらうかもしれないから、…手伝ってくれる?」

「それが何なのかによるけど…」

「…部屋の事なんだ。…ほら、あそこって人がたくさん通るだろ?」

 田上は、共有スペースから見える自分の部屋を指差した。

「だから、俺もいい加減別の部屋にしたくって、その引っ越しできる部屋があれば、タキオンに手伝って欲しいんだけど…。物の移動とか」

「ああ、それならお安い御用さ。いくらでも運んであげるよ」

「ありがとう」と田上は、感謝の言葉を告げて、それから、落ち着かなげに柊さんの部屋のドアを見た。まだ、柊さんは出てこなかった。

「座ったら?」

 タキオンが少しの期待を込めて言ったが、田上は「いや、いい」と言うと、場所を移動して共有スペースの壁に寄り掛かって、難しい顔をしてテレビを見始めた。明らかに避けられていることをタキオンは察した。やはり、昨日の接近は失敗だったと思った。少し悲しかった。どうにも、自分の思い通りにはいかなかった。田上とは、そういう男なのだ。頑固で、常に険しい顔をしていて、悩ましい顔をしていて、それなのに一人で抱え込んで、タキオンなんて頼ろうとしないで、自分から逃げ続けて、何もかもから逃げ続けて、人の話なんて聞こうとしない。そして、とても優しいのだ。他人に迷惑をかけること以外だったら、何もかもでも許してくれる。――自分の事も許してあげれたら、とタキオンは思う。だが、それはまだまだ深い遺恨なのだろう。田上の覗きたくないものなのだろう。タキオンには、それが分かるが、どうにも簡単に田上の遺恨を取り除いてやることは難しくて、同時に、自分の恋も遂行させねばならなかった。田上も自分の事を好きだという事実を知らないタキオンには、大変難しい事だった。

 タキオンは、遠くに行ってしまった田上を眺めやった。田上もタキオンが見ていることには気が付いていただろうが、田上はかたくなにそちらの方を見ようとしなかった。だから、そのままソファーにいることもつまらなかったタキオンは、田上の所に行こうとしたが、そこで田上を呼ぶ寮長の声が聞こえ、出鼻を挫かれた。しかし、タキオンは、それでも田上の方に歩いて行き、寮長と話している田上の横に立って、その手に持たれている書類を覗き込んだ。柊さんは、怪訝な顔をしてタキオンを見つめやったが、「トレーナー君?これが、引っ越しの書類かい?」とタキオンが言ったのを聞くと、事情を察した。

 田上は表面的にはタキオンに鬱陶しそうに返したが、その声の調子は、少しだけ明るかった。

「ああ、できるって。しかも、めちゃくちゃいい部屋だ。三階の窓の大きい角部屋だぞ。こんな部屋、なんで早くに埋まらなかったのか不思議だ」

 すると、柊さんが「あるんじゃないですか?…知らないうちに物が動いてるとか、夜な夜な女の人のすすり泣きが聞こえるとか、赤ちゃんの泣き声とか、誰かの足音とか」と田上をからかうように言った。田上は、その言葉を少しだけ真に受けて、背筋をぞくっとさせながら「冗談はやめてくださいよ」と困ったように言った。そこで、タキオンが口を挟んだ。

「君の部屋が移るというのなら私も気を付けないといけないね。間違えでもしたら面倒だ」

「そもそも来てほしくないから、部屋を移したんだ。…それに、来る必要もないだろ。もう研究をしてないんだから、出来上がった薬をすぐに届ける必要もないんだし」

「そう度々、研究の事を引き合いに出されると、私も困るじゃないか。思い立ったときに、君の部屋に行っちゃ、何がダメなのかい?」

「じゃあ、せめて、スマホを使って俺に連絡しろ。そんなアナログな方法じゃなくてな。…お前には文明の利器があるだろ?」

 目の前で言い合いをされている柊さんは、困ったように二人のやり取りを見ていた。

「ああ、そうともさ。だけどね。アナログだって良い事はたくさんあるんだぞ」

「例えばなんだ?」

 田上が少し面倒臭そうに言った。

「例えば……」

 ここでタキオンは、今自分が言おうとしたことに恥ずかしくなってしまった。「君に一目でも会えるじゃないか」と言おうとしたのだが、これはあまりにも直球のように感じた。だから、別の事を言った。

「例えば、…目が疲れない…とか?」

 田上は、呆れた。

「お前、そんな手札で俺に勝負しようとしてたのか?いつものお前だったら、もう少し真面な返答ができるだろ。…まぁ、別に良いけど」

 それから、前の方に目を向けると待っている柊さんに気が付いて、田上は慌てて「すみません」と謝って話を続けた。

「もう、これに名前書いておけばいいんですよね?引っ越しは今日でも問題ないですか?」

「はい、問題ないですよ」と柊さんが返した。それで、話は終わった。

「引っ越しが完全に終わったら、絶対に私に言ってください。それから、壁の汚れなんかは、こちらの方で掃除させていただきますので、なさらなくても問題はないです。していても問題はないですけどね。3××号室です。鍵は、これで」

 そう言うと、柊さんは奥の方に引っ込んでいった。

「こんなものでいいのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。すると、田上は隣にある自分の部屋に足を向けて言った。

「寮だから、こんなもんじゃないか?…後は、部屋番号の変更の手続きとか、まだまあまあ残ってるけどね。それは、この書類を出せば済む話だよ」

「ふーん…」とタキオンは、あまりよく分からなさそうに頷いて、田上の後について行ったが、部屋に入ろうとしたところで止められた。

「なんで入ってくるんだ?」

 田上が、少しぎょっとして言った。タキオンは、不思議そうな顔をして返した。

「何って、引っ越しすんじゃないのかい?今から」

「ああ、…今からじゃないよ。少なくとも荷物を適当に纏めるのに一時間くらいはかかると思うから、それまで待っててくれ。…それに、お前、まだパジャマだろ?服を持ってきたんだったらそれに着替えろよ」

 田上が、そう言うと、タキオンは自分が寝巻のままであったということに初めて気が付いて、「ああ、そうか…」と少し顔を赤くさせた。しかし、田上はそれを見ておらず、ただ「俺が呼んだら来てくれ」と言うと、ぱたんとドアを閉めた。タキオンは、なんだか、少し腹が立った。なぜなのかは分からなかったが、田上がこうも冷たいと、自分の事をぞんざいに扱われているようで気分が悪かった。一度、――呼んでも行ってやらないことにしよう、とも思ったが、その場合は、タキオンをあてにしている田上が可哀想だったので、その考えは取り消した。そして、タキオンは、また、マテリアルの部屋の方に戻って行った。

 

 タキオンが戻ってくると、マテリアルが下着姿だったので、ドキッとした。だから、そそくさと「ごめん」と言って扉を閉じると、居心地が悪そうにマテリアルの顔だけを見つめていた。マテリアルは、何も気にしていないようだった。だから、ゆったりとズボンを穿きながらタキオンに言った。

「ああ、タキオンさん。どこにいらしてたので?」

「トレーナー君のとこだよ」と――早く着替え終わってくれないかな、と思いながら、タキオンは返した。マテリアルは、その様子に気が付いたようだ。ニヤッと笑うと、まだブラジャーしかつけていない上半身の方をタキオンに見せびらかしながら言った。

「どうです?この肉体。色が白くて、私の髪色とよく合うでしょう?」

 タキオンは、顔が赤くなるのをごまかすようにしかめっ面をして、こう返した。

「そりゃあ、よく合うけど、…君はそうやって誰にでも自分の体を見せびらかすのかい?こっちは、緊張して居心地が悪いよ」

「タキオンさんは、緊張しているんですか?」

 尚の事ニヤニヤして、マテリアルが言った。

「でも、誰にでもじゃないですよ。勿論、男性にはそれなりに深いお付き合いをした人にしか見せないつもりです。…でも、女性同士でしょう?そこらへんは、私は問題がないと思うのですが、どうでしょう?」

「どうでしょうって言われても、それは、育ってきた環境の差でしかないじゃないか。…それで、私は少なくとも、同性であれ、自分の体を目一杯見せるような環境に育ってはいないからね。…私の前では、止めたまえ」

 タキオンが怒ってそう言うと、マテリアルは、ニヤニヤ顔を止めてニコッと笑って言った。

「タキオンさんの前で下着姿になる機会なんてそうそうありませんよ。…つまり、もっとお泊り会をしてくれるんですか?」

「もう、何でもいいから、早く着替えてくれ!」

 タキオンは、いよいよマテリアルに抗しきれなくなって、投げ出すようにそう言った。すると、マテリアルもニコニコして上の方を着始めた。「寒いですね」と独り言なのか、タキオンに話しかけているのか分からない調子で言ったから、タキオンは何も返さなかった。

 マテリアルは、相変わらず、美しかった。「着替えてくれ!」と叫んで、顔を伏せたのにも関わらず、もう一度、チラと顔を上げてその体を盗み見るくらいには美しかった。その様をマテリアルはしかと見ていて、タキオンと目が合うとにこりと笑いかけた。それを見ると、タキオンの頭には不意に浮かび上がってきたものがあったが、それは一筋の恥ずかしさに押さえつけられて、中々言葉にできず、タキオンは、無表情のまま、ただマテリアルを見つめ続けた。

 マテリアルは、彩度の低いピンク色の長袖を着て、その上に、デニム生地のジャケットを羽織った。その服装を見ていると、タキオンには先程の事とは別に、思い付いた事があった。これは、恥ずかしくもなんともなかったので、すぐに聞いた。

「今日はどこかに出掛けるつもりなのかい?」

「え?...ああ、タキオンさんには言ってないんでした。今日、一緒に駅前のお店に行って買いませんか?」

「何を?」

「バレンタインのチョコをですよ。一緒に買いに行きましょう?」

 その途端にタキオンは、大声を出した。

「君!昨日も言っただろ!どうせ成功しないって!君は人の話を聞かないのかい?」

 タキオンの怒りにマテリアルはふふふと笑って言った。

「別に愛を伝えるだけのためのものではないでしょう?バレンタインは。...去年はどうしてました?田上トレーナーとは去年からの付き合いでしょう?」

 すると、タキオンは「去年は、そもそも、まだそういう感情はなかった訳だけど...」と言いながら、去年のバレンタインを思い出そうとした。

 去年は、作り上げた薬がちょうどバレンタイン近日だったので、ついでにと思い、チョコに染みこませて、タキオンは田上に渡した。勿論、田上は薬の副作用で光ることには光って、タキオンの求めていた実験も成功した。思い出すと、タキオンには少し恥ずかしかった。去年の自分に間違いがあったとは言わないが、それでも、あんな風に自分が田上に接近していたとなると、あの頃に羨ましさのある恥ずかしさがあった。

 タキオンは、思い出したことをマテリアルに言った。

「去年は、渡すには渡したさ。…ただね。あの頃の私には何の恥じらいもなくて、今、トレーナー君に渡そうと思ったら、それこそ恥ずかしくて顔から火が噴き出しそうだよ」

「だから、愛の告白なんかじゃなくて、日頃の感謝でもいいじゃないですか」とマテリアルが反論した。タキオンは、反論の反論を少し考えて言った。

「日頃の感謝を告げることだって恥ずかしい事じゃないか。私を何だと思っているのかい?マッドサイエンティストなんて呼ばれたこともあったけど、感情は確かにあるんだよ?」

 タキオンの必死ともいえる訴えにマテリアルは少したじろいだ。そして、投げ出すように言った。

「ならいいですよ。タキオンさんが嫌なら。私一人で買ってきます」

 その途端にタキオンが声を上げた。

「それはダメだよ!君だけ抜け駆けするつもりかい?…それに、昨日近寄らないと言ったじゃないか!その矢先でこれかい!?」

「その矢先でも何でもいいですけど、私は、――これからよろしくおねがいします、という意味で田上トレーナーにお渡しするんです。抜け駆けなんかじゃありませんし、私は、田上トレーナーの事は好きではありません。…どうするんですか?タキオンさんの言う抜け駆けを止めたいのなら、タキオンさん自身も私に張り合って走らないといけませんよ」

 そうマテリアルが冷静に言った後にこう付け加えた。

「GⅠウマ娘に張り合うなんて、私もまだまだ捨てたもんじゃありませんね」

 それから、ニコッと笑った。その笑顔にタキオンは不覚にもドキリとしてしまった。少しの間、考える事ができなかった。そして、ようやく自分の気を取り戻した時、まだ胸をドキドキさせながらも言った。

「残念ながら、私は今日は用事があるんだった」

「用事ですか?何の?」

「今朝、トレーナー君に会いに行ったときに、今日引っ越しをしたいから手伝ってくれと言われたんだ」

「引っ越し?あの人、どこかに越すんですか?」

「寮の部屋を移動するだけらしいよ。何でも、部屋の前をたくさん人が通るから嫌らしい」「へ~」とマテリアルが頷いた。それから、こう聞いた。

「じゃあ、もう今日のうちはできないんですか?タキオンさんが私と一緒に店に行きたいのなら別日に無理矢理とってもいいですが」

 タキオンは、マテリアルの言葉に短い間悩んで、それから言った。

「…私は、君が渡すのなら私もその時に一緒に渡したい…と思う。…しかし、…あの人、トレーナー君は、勘違いしないだろうか?」

「何をですか?」

「……その、…私が好きだって事」

 タキオンがそう言うと、マテリアルが可笑しそうにハハハと大きな笑い声を立てた。

「タキオンさん、それは勘違いではなくて、本当の事でしょう?それに、勘違いしてくれた方が、こちらにとっては都合がいいじゃないですか」

 マテリアルの指摘にタキオンは複雑な顔をして答えた。

「勘違いではないのはそうだが、都合がいいかどうかは別だろ?昨日も言った通り、私は避けられるんだよ。…今朝も少し避けられた。…やっぱりダメだったなぁ…」

 こう言うと、タキオンは落ち込んで項垂れた。それを励まそうと、マテリアルは苦笑しながらタキオンの背を叩き、言った。

「それなら、ちゃんと日頃のお礼として、担当されているウマ娘としての位置付けを行えばいいじゃないですか。バレンタインがそのチャンスですよ」

 しかし、それでも、タキオンに励ましの言葉は効かなかった。俯いたままこう言った。

「チャンスと言っても、昨日もチャンスだと思って飛び込んだんだ。…それで、失敗だよ。…日頃のお礼と言っても、それでトレーナー君に担当ウマ娘とトレーナーという線引きをしっかりとされてしまえば、もう私の土俵はなくなる。立つ場所さえ奪われる。…トレーナー君だって根っからのバカじゃないんだから、なんとなく私の気持ちに気付いている可能性もあるけど、それでもあの様だよ。…トレーナー君は何を考えているんだろう?それが分からない。…分かりたくない。…ああ……」

「タキオンさん、そんなに落ち込まないで。嫌われていないのであれば、チャンスはきっとありますよ。…今日は、田上トレーナーの手伝いがあるんでしょう?それであれば、二人っきりで会話なんかをして、探りを入れてみるのもいいのでは?」

「会話なんかで探りを入れられるなら、私はこんな苦労はしないよ。そもそもトレーナー君とはまだまだこの先もいる予定はあるんだ。そんなに急く必要はない。…そうだ!そんなに急く必要はないんだ!」

 そう言うと、タキオンはにわかに元気を取り戻して、立ち上がった。マテリアルには、タキオンに何が起こったのか分からずに、ただ顔に苦笑を浮かばせるしかなかった。

「それでいいんですか?」とマテリアルが聞くと、タキオンがこう答えた。

「そうさ、まだ急く必要はない。少なくとも、君は牽制できて、彼の周りには彼に影響を与えられるような女性はいないのだから」

「では、バレンタインは?」

 マテリアルが、そう言うと、タキオンは考えてから言った。

「別にしてもしなくてもいいが、…これは今日の予定次第だな。…どのくらいの量を運んで何時に終わるんだろう?…トレーナー君に聞かねばなるまいな」

 そこでタキオンは部屋の中を見回したのだが、あることに気が付いて急にクククと笑いだした。だから、マテリアルが不思議そうな顔をして聞いた。

「何が可笑しいんですか?」

「…いや、呼んだら来てくれと言われたんだが、…恐らくトレーナー君はスマホに連絡するつもりなんだろう。それなのに、私はスマホを持っていなくてね。…それが可笑しくって」

 そう言うとタキオンはまた笑い出した。どうやら、落ち込んだ反動で変に陽気にでもなったようだ。マテリアルは、そんなタキオンに戸惑いながらもニコニコ見つめた。

 タキオンは、ひとしきり笑い終わると、今度はそわそわしだした。聞くと、「普段着に着替えたい」と言った。それで、仕方がないので、客人に「脱衣所で着替えてください」と言うわけにもいかず、マテリアルは部屋の外に出た。女子寮も慌ただしく動く人たちが見えた。しかし、その人たちも廊下の遠くの方で動いているばかりで、廊下のこちらの方は、心地の良い静閑そのものだった。マテリアルは、大きく息を吸った。何とも言えない、いつもの匂いが鼻を占めた。だが、すぐにタキオンが扉を開けて出てきた。そして言った。

「トレーナー君の所に行こう。仔細を聞きたいんだ。君も同行したまえよ」

 タキオンは、ベージュの二ット服に黒のジーパンを穿いてそこにいた。

「お似合いですね」

 お世辞でも何でもなく、ただそう思ったのでマテリアルはそう言った。すると、タキオンは嬉しかったようだ。顔を素直ににこりとさせ、しかし、口は正反対に「お世辞は嫌いだね」と言った。マテリアルもにこりとした。それから、二人は田上を求めて、男子寮へ向かった。


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