ドアを開けると、迷惑そうな顔をした田上が出てきたが、普段ここでは見慣れない二人を見ると、すぐに驚いた顔に変わった。そして、「何の用だ?」と怪訝な顔で聞いた。
「まだ、荷は纏め終わってないけど」
そうタキオンの方を向いて言ったが、タキオンが答える代わりにマテリアルが口を挟んで言った。
「引っ越すんですか?この寮の中って聞きましたけど、具体的にどこに?」
「三階の角部屋」
淡白に田上が答えて、それから、また問うように二人を見つめた。だから、今度はタキオンが口を開いた。
「マテリアル君が、私と一緒に出掛けたいと言っていてね。けど、今日、君の手伝いをするって言ったろ?だから、君の引っ越しがどれくらいかかるかによって変更しようと思うんだ」
すると、田上は眉間に皺を寄せた。何か悩んでいるようだったが、一度、自分の部屋の方を振り向くと、渋々言った。
「…実は、荷造りはあんまり進んでなくてな。肝心の纏めるのが、一人でするとさすがに大変なんだ。別に、これまで手伝ってくれとは言わないけど、……もしかしたら、今日中にできないかもしれない。…いや、できないから二人で店で遊んできてていいよ。…タキオン、また後日、…来週の日曜に頼めるか?その日のトレーニングを休みにするから」
珍しくあまり揮っていない自身のトレーナーを不思議そうに見つめ、「いいけど…」と頷いた。そして、やっぱり気になったのでこう聞いた。
「君、進んでいないって、どのくらい進んでいないんだい?」
「そりゃあ、…別にタキオンに言わなくてもいいくらい」
「となると、全然進んでいないんだな?手伝ってあげようか?」
「いや、いいよ。一人でできるし」
この言葉を聞くと、タキオンは悲しくなった。悲しくなって、思わず言った。
「もっと私を頼ってくれてもいいんだよ?トレーナー君」
「え?」
この言葉に田上は驚いたようだったが、次の瞬間には再び眉間に皺を寄せ言った。
「別に、一人でできる量なんだ。お前に手伝って貰わなくたって、次の日曜にはできてるさ」
「そうかい…」
タキオンもあまり強く言えなくて、ここで引き下がった。その様子を見ていたマテリアルが、見かねて言った。
「田上さん!あなた、女の子が手伝うって言っているのに、その申し出を断るって言うんですか!?それは、男として如何なものかと思いますよ」
「俺は、男とか女とかそういう、縛る物言いは嫌いなんだ。それを出汁に俺に言う事を聞かせたいって言うんならやめてくれ」
そう田上が疲れたように言うと、マテリアルもさすがに不味いと思ったのか、「すいませんでした」と謝った。しかし、この後も少しだけ続けた。
「でも、なら、タキオンさんが手伝うって言っているのに、それを断るっていうのはどうなんですか?」
マテリアルの言葉に田上は、暫くの間反応せず、ただ慎重に間合いを測るようにタキオンを見つめてから言った。
「…別に構わない。タキオンは、俺の中でそんなに大きな存在じゃない」
その瞬間に目の前に居た二人が揃って、息を飲んだが、それに田上は気が付かなかった。タキオンは、何も言えなかった。田上からこんな言葉を聞くとは思えなかったからだ。マテリアルは、怒りのあまり何も言えなかった。そして、タキオンの方を心配そうに見やると、その衝撃を受けた顔が見えて、田上への怒りよりもタキオンへの心配の方が勝った。どっちにしろマテリアルは、面と向かって田上に何か言う事はできなかっただろう。それは、田上がその言葉を言った後すぐに、場の異常な沈黙に気付いてか気付かずか、そそくさと逃げるように扉を閉めたからだ。その時に言った言葉は、冷静というよりも冷酷そのものに聞こえた。
「それじゃあ、俺はまだ荷造りしないといけないから」
たったそれだけの言葉だったのだが、それが、またさらにタキオンを落ち込ませた。もういよいよ泣きそうになってきたので、マテリアルは、恨みの籠った目で田上の入っていったドアを見つめた後、「外に行って新鮮な空気を吸いましょう」と言って、タキオンを外へと連れだした。その際に、もうそのまま買い物に行こうと思って、財布と必要な諸々入れたバッグを取ってきた。そして、外出する事を事務員に言うと、マテリアルとタキオンは歩いて駅前の方へと向かった。
タキオンは、終始、黙りこくって、浅く呼吸していた。その呼吸音が、マテリアルの耳について離れなかった。恋する乙女とは、時に無情な風に晒される。今がまさにそうだった。タキオンにとっては昨日の今日だったのだろう。チャンスを掴もうと思って接近して、それが大失敗して、今度は、その恋している人に直接、無情な言葉を浴びせられたのだ。タキオンは、自分を責める事しかできなかった。マテリアルは、それを一生懸命慰めようとして、時に田上を貶したりもしたが、それでもタキオンは、俯いたままマテリアルの隣を歩いて、一言も発さなかった。
そして、駅前の店に入り、バレンタインのチョコレート売り場に来た時、ようやくタキオンは言葉を発した。
「……トレーナー君は、…」
そこで言葉が途切れた。何かを言おうと思ったのだが、タキオンにはその言葉の続きが思いつかなかったからだ。だから、マテリアルが聞いた。
「あの人が何ですか?」
「……あの人は、…私の事を本当に何ともないと思っているのだろうか?本当に何ともないと思って、あの発言をしたのだろうか?」
店の中でも、特にバレンタインのチョコ売り場は、わいわいがやがやとしていて、うるさかった。その為、マテリアルにはタキオンの言葉が聞き取りづらかったのだが、辛うじて聞き取るとこう言った。
「私は、田上トレーナーが、タキオンさんの事を何ともないと思っている事はないと思っています。少なくとも、あなたをスカウトして、二人きりでここまで来たんですから」
マテリアルがそう言うと、今までチョコを見つめて、ぼーっと話していたタキオンがマテリアルの方を向いて悲しげにニコッと笑った。
「…そう言ってくれると嬉しいよ。…ただね、そのことについて、前にトレーナー君、…あの人と話をしたんだ。私は言ったよ。――君は私に情があると言ったのは嘘だ、と。…別に悪い意味じゃないんだよ。今の状況を整理しただけなんだ。…それをトレーナー君は、真に受けてしまったのかな?…それとも、元々そんな風に思ってたのかな?……大きな存在じゃないって。……別に構わないさ。彼の中で私が大きくたって小さくたって…。…だけど、彼の口からそんな事は聞きたくなかった。…彼は、…もっと優しい人間だと思っていた。……遂に、気でも狂ってしまったのかなぁ?…あの人、悩みの深い人だから」
そう言うと、またチョコの方に目を戻した。マテリアルもタキオンに釣られて、チョコを見た。手の平大の大きなハート形をしたチョコレートが、そこには並んでいた。そして、そこから一つを手に取ると、タキオンはそれを眺めやりながら言った。
「こんなもの渡せば、トレーナー君をどうにかしてやることができるのかなぁ?」
「……どうでしょうねぇ…。…少なくとも、動揺くらいはすると思いますが、発言の内容は変わるのかは分かりませんね」
「…私もそう思うよ。……はぁ」
タキオンは、話の最後にため息をつくとそれきり、話さなくなった。ただ、無言でチョコを選んではぽいとマテリアルの持っている買い物かごに投げ入れ、四,五個選ぶと、後はマテリアルの後について行くのみとなった。
「…田上トレーナーは、甘さ控えめの物の方がお好きなんですね」
タキオンが投げ入れたチョコを見ながら、マテリアルが不意にそう言った。すると、タキオンも今まで閉じていた口を開いて言った。
「そうなんだよ。…彼、甘過ぎると嫌がる性質でね。何度か、ぼやいているのを聞いた事があるよ。…それに、正月の時にお菓子を買いに行ったときも試食の時から私たちは全くの正反対だったし…。…こうなるのも運命なのかねぇ。もしも運命というものがあるとしたらの話だけど…。君はどう思う?世に言う『運命』とは存在すると思うかい?」
「運命ですか?…私にはあんまり分からないですけど、過ぎ去ったことのみに対して『運命』という言葉は、当てはまると思います。…というより、『運命』とは一種の慰めるための言葉でしょう。…それを未来に使うのであれば、逃避に当てはまるのではないでしょうか?」
「私も概ね同意見だ」とタキオンが頷いた。
「しかし、逃避もまた慰みになるのではないかな?」
タキオンの難しい話にマテリアルは、顔を曇らせたが、しっかりと答えた。
「そう言う事もできますが、それだと、そもそも『運命』という言葉は、在りもしない空想の言葉になりますね」
「空想の言葉…。そうさ、その通りさ!…だから、私たちは前に進まなくちゃならない。言葉なんかに頼らずともね。…だけど、頼るものがないとなると、苦労ばかりが続いてしまう」
にわかに活気づいたタキオンだったが、すぐにまた声の調子を落とした。マテリアルは、それを励ますように言った。
「頼る物は『運命』を信じる事なんかではないでしょう?結果を『想像』することです。いかに大変な苦難が待ち受けていようとも、その苦難を乗り越える自分を想像して、どんなときにもめげずに生きていく。それが、生きる術ですよ」
すると、タキオンは驚いたようにマテリアルを見つめて、その後に失礼にも「君がそんな事を言えるとは思わなかった」と言った。これが、あまりにもタキオンの心からそのまま出てきた言葉だったようで、それが顔に現れていたので、マテリアルは笑った。そして、笑いながら「失礼ですね」と言った。
「私だって、言えるときは言えますよ。タキオンさんは、私が見た目だけの女だとお思いですか?それは違いますよ。私には、女としての誇りがあるんです」
マテリアルは、胸を張って言ったが、タキオンの次の言葉にマテリアルは胸を張るのを止めてしまった。
「でも、君は男女関係は色々失敗してきたのだろう?」
不思議そうにタキオンは聞いた。
「そ、そこを突かれると弱いですが、私はまだまだ発展途上だと思っています。いつか本当に好きな人が現れれば、意地でも成し遂げて見せますよ」
「ふ~ん」とタキオンは頷いて、それから言った。
「マテリアル君は、どのチョコを選ぶんだい?」
マテリアルは、まだ一つも選んでいなかった。買い物かごに入っていたのは、タキオンの選んだ五個のチョコのみで、マテリアルはと言えば、タキオンの様子が気がかりでまだ何も選んでいなかったのだ。だから、マテリアルは、少しの間バレンタイン期間中に特設されたピンク色が目に眩しい一画を回ってから、「これ!」と決めた。
「時代の風雲児味?何だいこれは?」
タキオンが、マテリアルの持っている手の平に収まる大きさのチョコを覗き込んで聞いた。
「分かりません」とマテリアルが答えて、そのチョコの裏に書いてある原材料を見始めた。
「……辛い…やつが結構使われてますね。勿論、甘い物であるのも変わりはないですが、…食べてびっくりする商品でしょうか?…それにしても、…辛い物をこの量は人を苛めてませんか?…案外、美味しかったりするんでしょうか?」
「ふ~ん…、私も買ってみようかな。……と言うか、私は財布を持って来ていなかった。君、持ってきたのかい?」
「私はバッチリ持ってきましたし、最初から、タキオンさんに奢るつもりでここに来ましたよ?」
「それだと、何だか申し訳ないなぁ…」とタキオンが悩ましげな顔をしたからマテリアルが言った。
「少なくとも、今は財布は持っていない訳だから、ここは素直に私の厚意を受けてくれないとチョコが買えませんよ」
「それもそうだけど…、チョコを五個はやりすぎかな。…少し減らすとするよ」
そう言って、タキオンが買い物かごから幾つかチョコを取ろうとしたのだが、マテリアルがタキオンから慌てて買い物かごを遠ざけて言った。
「いけませんよ!五個あれば、その五個でいいんです!それが、タキオンさんのあの人への愛じゃありませんか!」
「ちょっと待ってくれ、そんなに大声で話してもらっては困る」
マテリアルの大きな声にタキオンも慌てて、二人は暫く押し合い圧し合いしたが、やがて、何について争っていたのか焦点を見失って、二人とも笑い出した。そして、タキオンが言った。
「分かった。今回は君に奢らせてもらおう。五個全て。それに加えて、その時代の風雲児味も食べてみたいのだけど、いいかい?」
「ええ、いいですよ」とマテリアルがにっこり笑って答えた。これで、タキオンの気分も少しは上がったようで、それから、帰るまでは二人で陽気に話していた。
タキオンの表情が重くなったのは、トレセン学園が見え始めてからだった。ここで、――やっぱりタキオンさんは、まだ田上トレーナーの事を気にしている、と気が付いた。だから、状況の整理と励ましも兼ねて言った。
「これから、学園に帰ってどうします?」
「ん?……ああ…、自分の部屋で過ごすよ」
「じゃあ、田上トレーナーとは?…このままトレーニングをしていくと、いつか怪我を招きますよ?」
「……それは、…機会を待つさ。少なくとも動きがあるのは、バレンタインだろう?あそこで何も起きなければ、いよいよトレーナー君を招いて、談判を始めないといけない。――なぜ、あんな事を言ったのか?とね」
まだ、タキオンの表情は重かった。マテリアルは、見ていて心苦しくなった。それが、タキオンに伝わったのだろうか?こんなことを言った。
「…そんな顔をしてたら、君のその顔が台無しだろう?もう少し、明るい顔をしないと」
「タキオンさんの方が台無しですよ!…私の顔なんて、皆からちやほやされているだけで、在って無いようなものです。…しかし、タキオンさんのその顔は、その瞳は、私には唯一とも言える輝きを持っていますよ。誰もタキオンさんを真似できません。誰もタキオンさんになれません。…そのくらい、タキオンさんの顔は、良い顔ですよ!…だけど、私の顔が暗いというのなら、タキオンさんの顔の方がもっと暗いですよ!元気を出しましょう。田上さんは、きっと分かってくれます!」
マテリアルは、必死になって訴えかけたが、タキオンは「そう上手くいければいいんだけどねぇ…」と呟いただけだった。その後の沈黙は、マテリアルには破れないものだったから、暫くタキオンの顔を見つめた後、どうしようもなくなったように空を仰いだ。今は、この二人の気分と同じように沈んだ曇り空が、目一杯に空に広がっていた。
それから、二人はトレセン学園に着くと、一度、女子寮の方に戻った。タキオンの着替えが必要だったからだ。タキオンは、マテリアルが「取ってくる」と言って、寮に入っていった間、外の方で待たされた。その時、タキオンは、生唾を飲みながら、終始、男子寮の方を凝視していた。
そして、マテリアルが戻ってくると、タキオンは自分の着替えを持って寮の方に帰った。チョコは、マテリアルが保管することとなった。女子寮にある冷蔵庫に保管しようと思ったらしいのだが、もうすでに誰彼のチョコレートで満杯になっていて入れられなかったらしい。タキオンも自分の寮の共有冷蔵庫に保管する気持ちもなかったし、今は冬だから野ざらしにしても大丈夫だろうと言う事で、マテリアルの部屋で保管されることに決定した。となると、マテリアルは部屋を暖めてはいけないわけなのだが、生憎、引っ越してきたばかりで碌な暖房器具も揃えていなかったマテリアルは、部屋を暖めずとも自分の体を温める術を知っていた。それに、ウマ娘なので、元々体温も高かった。このような要因やら何やらがあって、マテリアルの部屋に保存されるわけになった。
タキオンは、後は、バレンタイン当日を待つばかりとなったが、その気は重かった。次の日になって、授業に出て、合間の休み時間に陽気な二人の友達、ハナミビヨリとトーキョーアルトに声をかけられてもその気分が上がることはなかった。ハナミビヨリとトーキョーアルトは、そんなタキオンを心配したが、いくらタキオンの中にある心配事を聞き出そうと思っても、タキオンは上の空で全く人の話を聞こうとしなかった。だから、二人は屋上に続く階段(だが、そこはいつも閉められているので、誰もそこを利用せず、屋上に行きたい場合はもう一つの別のドアで屋上に行く)で話し合った。
まず初めに、アルトが言った。これは、アルトの方が「ちょっと話そう」と言って、ハナミを連れ出したからだった。
「今日のタキオン、少しおかしいよね?ずっと上の空で、耳とか首の後ろとか触っても、何の抵抗もしなかったよ?」
アルトがそう言うと、ハナミが笑った。
「抵抗はしてたじゃん。それも上の空だったけど。…何かあったのかな?もしかして恋?遂にあの子も色付いてきたのかしら?」
「タキオンって、恋するとあんなに上の空になるの?研究の途中だったのに間違えて授業受けに来た時みたいじゃん。…ありゃあ、大丈夫なのかな?普通に悩んでたりしない?」
「…う~ん、どうだろ?私には、田上トレーナーの事をやっとタキオンが気になりだしたのだと思ったけど」
「それだとしたら厄介じゃない?あのトレーナーの顔みりゃ、恋なんてしなさそうなことは分かるし、それが年下の担当しているウマ娘だったら尚の事なんじゃない?」
「……う~ん、…私には分かりませんなぁ。何しろ、小学校の時から女子校住まいで、同級生との恋なんて、漫画やドラマの中でしか見た事がありませんから」
「そりゃ、結構なこってすけど、私には、なんだかタキオンが可哀想に見えるなぁ…。上の空って言っても、落ち込んでいるように見えるだろ?」
「…そりゃあ、否めない」とハナミが言った。
「でしょ?…でも、どうしたら、タキオンに協力してあげられるかな?私、少なくとも、あんなタキオンの顔を見続けるっていうのはしたくないよ?」
「そりゃあ、私もだけどさ。私たちにできる事って、結局、タキオンにとっては邪魔なことだったりするんじゃない?少なくともさ、今は、碌なコミュニケーションが取れないんだから、もし私たちがタキオンにお節介を焼いて、空回りして、それがタキオンだけに降り注ぐってなったら、嫌だよ?せめて、タキオンが何について悩んでいるのかが知れればいいんだけど」
そこで、驚くべきことにタキオンの声が聞こえた。
「何を話しているんだい?」
小声で話していたことが功を奏してか、タキオンには今の話が伝わらずに済んだが、それが伝わらなくて良かったのかどうかは分からなかった。だから、二人は、驚いて顔を見合わせまま、何も話せなかった。
やがて、アルトが笑いでごまかしながら言った。
「いや~、タキオン、今日元気がないなって思って、二人で話してたんだよ。どう?調子は」
「……絶好調さ」
明らかに不自然な間があったことに二人は気が付いて、顔を見合わせた。タキオンは、顔に心許ない笑みを浮かべていた。すぐに消え去りそうだった。タキオンが、強がりをしているだろうという事が、二人には分かった。分かったからと言って、その笑みを見ていれば、何も言う事はできなかった。ただ、「私も話に混ぜてくれよ」というタキオンの言葉を了承して、それからは、できるだけタキオンを楽しませようと二人は明るく話すのだった。
ここ数日は、矢の様に過ぎ去って行って、田上には何だか重苦しかった。それと言うのも、タキオンが明らかに変わってきているからだ。良くか悪くか田上には分からないが、タキオンは田上から離れてゆき、その表情に変化を見出せなくなった。また、再び菊花賞の時のような事が起こるのを田上は恐れた。自分の見ていないところで、タキオンが何かを乗り越えてしまう。それが恐ろしかった。それがあるとすれば、自分が何のために必要なのか分からなかった。そして、今では、タキオンに言葉一つもかけてやれない状況なのだ。大阪杯への練習は続いていて、一月末に出走登録をして、レースに出るウマ娘が決まってからは、ダンスのレッスンも始まった。ダンスが、何の為の伝統なのかは田上には分からなかったが、不思議なことにタキオンはこれまで一つの文句も言わずに喜んでそれをしていた。今回もそうだった。まだ、研究していた頃はデータ収集のためだとばかり思っていたが、研究をやめた今でも文句一つ言っていない。勿論、今の状況でタキオンの文句などが聞けるとは思えなかったが、たまに体育館を覗けば、一生懸命に頑張っている彼女の姿が見えて、胸が苦しくなった。
その時に流れている歌も聞いたのだが、これもまた、田上を苦しくさせた。それは、たまたまタキオンがセンターを踊っている時で、それも歌は彼の有名なバンド『大きな蛇』のボーカル、木下一抹が作詞作曲した『走れウイニングライブ』という曲だったからだ。木下の濃い葛藤がその曲には込められていて、それにあてられて田上の目からは涙が出そうになった。その曲は、もう何年も前の曲だというのに、まだ色褪せずに人の心を震わせた。
そして、遂に二月十四日となった。この日は、朝から天気が悪く、生憎の曇り空、そして、雪の予報まで出ていた。田上が、トレーナー室に行くために外に出てきた時は、まだ雪は降っていなかったが、今にも降り出しそうなくらい空気は冷えていた。田上は、寒さに身を震わせた。今日が、バレンタインデーなど田上には関係がなかった。男子寮の方にも、朝から渡そうと早速小さいウマ娘たちが来ていたのだが、その中に当然タキオンの姿はなかった。――当然の事だろう。去年くれたと言っても、それは研究のためだったんだから。空風がびゅうと吹いた。田上は、トレーナー室に急いだ。今日も淡々と仕事をこなすためだ。マテリアルが補佐になってからは、色々教えながらしたりもした。しかし、ここ最近は、マテリアルまで余所余所しくなってきたように感じた。相変わらず、一緒に仕事をして、たまに話もしたりするのだが、目はこちらに向いていないように感じた。
二月十四日。田上は歩く。トレーナー室まで。寒さに身を凍えさせて短い外の風あり。トレーナー室に行っても暖房は無く、毛布で体を温めることくらいしかできない。それでも、田上は歩く。トレーナー室まで。今は、もう孤独が身に染みて、人の温もりを忘れる。それから、田上は歩く。トレーナー室まで。たった一人の虚像を見つめ、明日を見つめ、亡者に夢を見る。亡き母に夢を見る。田上は歩く。止まったことなんて一度もない。ただ、歩き続ける亡者のように。