田上は、昼まで何事もなく過ごした。いや、なさ過ぎたと言ってもいいだろう。その理由は、マテリアルが来なかったからだった。いつも田上より遅れてくるマテリアルだったが、普段であれば、昼までには来ていた。しかし、十一時になってもマテリアルは来なかった。別に、補佐であれば大した用事もないので、トレーニングの時間までに来れば、何事もないのだが、田上は――どうもおかしいぞ、と思った。思ったところで、出勤を催促する気もないので、田上はマテリアルに連絡一つ寄越さなかった。そして、昼が来れば、昼食を食べる気もなかったので、田上は、鳴るお腹を我慢して、一人でデスクで寝ようと決めた。
丁度そこだった。マテリアルとタキオンが来たのは。タキオンは、入ってきて眼鏡をはずして寝ようとしている田上を見つけると、マテリアルに言った。
「ほらね、この人は、ここ最近こうなんだ。不健康すぎて、いつ倒れるんじゃないかと私は心配だよ」
「そうですね」とマテリアルがニコニコしながら頷いていた。田上には、何が何だか分からず、慌てて眼鏡を付け直すと、問うように二人を見つめた。だが、二人は田上の視線なんてなんのやらで話し続けている。
タキオンがこう言った。
「私、もう少し売店の方で何か買ってきた方がいいだろうか?あの人は、誘ったら一緒に昼食を食べてくれるかねぇ?」
「分かりませんね」とマテリアルは困ったように頷いた。
二人は、田上の方には行かず、ソファーに座って暫くの間話していた。その話の中に出てくる人物が、「あの人」とか「この人」としか言わないが、自分の事を話しているであろうことは分かった。というのも、そう言う度に、タキオンがこちらをチラと見てくるからだ。――言いたい事があるんなら、はっきり言えばいいのに。田上はそう思ったが、口には出さずに、また眼鏡を外して寝ようとした。
「寝るつもりのようだよ、彼」というタキオンの声が聞こえたが、田上はそれも無視した。できるだけ人の声を聞かないように、器用に耳を両の手で塞いで、田上は寝た。決して、右手で右耳、左手で左耳をガシッと抑えるという、不格好なものではなくて、右手と左手を反対にして、それを机にうつ伏せで寝た。結局の所、その格好になるための試行錯誤は、タキオンにじっくりと見られていたので、不格好でも何でも意味がなかった。
タキオンは、田上が俯いて寝始めるとすぐに立って、悪だくみをしている顔で声を立てないように田上の方を指差して、マテリアルに知らせた。マテリアルは、何だろうと思って、田上の方を振り向いたが、田上が両耳を抑えて寝ているのを見ると、タキオンと同じようにニヤリと笑った。
「トレーナー君に悪戯するんだったら、どんなものが良いと思う?」
タキオンが小声で聞くと、マテリアルも小声で返した。
「う~ん、……悪戯って言っても、私が渡す辛いチョコレートも悪戯のような物ですよ?」
「…そうか。……じゃあ、塞いでる耳に突然息を吹きかけるしか方法はなさそうだね」
「そうですね」
マテリアルが頷くと、二人は机の両側に立ち、それぞれタキオンが田上の左、マテリアルが田上の右につくと、合図するようにコクリと頷いてから、田上の手をどけて耳に思いきり息を吹き込んだ。
「ああ!!」と叫び声を上げて、田上は即座に起き上がったから、タキオンたちは頭がぶつからないように慌てて左右に避けた。田上は、初めのうち何をされたのか分からなかったが、段々と状況が掴めて来ると、半ば本気で怒っているような顔をして、「何をしてんの?」と聞いた。
「君を起こそうと思ってね」
田上の怒った顔に自分のやったことを少し後悔しながら、タキオンが言った。それから、ソファーにあるレジ袋を持ってくると、田上に手渡した。
「何だこれ?」と言って、田上がその袋の中を覗き込むと、チョコのお菓子が何個も入っていた。田上は、慌てて顔を上げてタキオンを見た。タキオンは、少しだけ笑みを浮かべて、田上を見ていたが、その心の内は心配そのものだった。これから、何と言われるのか。タキオンには、これが少し怖かったが、田上の言葉と言ったら、動揺した「あ、ありがとう」だけだった。タキオンは、少しほっとして、マテリアルの言っている言葉を聞いた。
「私も一つ買ってきたんですよ」
「ど、どれを?」
「えーっと、赤い包みの……ああ、それ、時代の風雲児味です」
「何の味?」と言って、田上が裏を見て原材料を調べようとしたから、慌ててマテリアルが止めた。
「それは、食べてからのお楽しみですよ!こんな分からない名前の味、きっとおかしいに決まっているじゃないですか!」
「おかしい物を俺に食べさせようとしているのか!?」
田上は、驚いて言ったが、マテリアルからは無慈悲にも「そうです!食べてください!」と言われた。だから、田上はもう一度袋を覗き込んで言った。
「…これ、二つあるけど、二つとも食べろってことじゃないよね?」
「ええ、一つはタキオンさんが食べてみたいって言って買ってきたんです」
田上は、タキオンを興味深そうに見やってから、またもう一度袋の中を覗き込んだ。実は、とても嬉しかった。女子二人に囲まれてこういう物を渡されたとなると、いよいよ男としての株が上がってきたように感じた。しかし、自惚れだと思うと、慌てて雑念を頭から振り払うように聞いた。
「この…一、二、三、…五個がタキオンの買ってきた物?」
「ああ、そうだよ。君、あんまり甘い物は苦手だろうから、甘さ控えめの物を買ってきたけど、どうだい?これで良さそうかい?」
「ああ」と田上が頷くと、タキオンは嬉しそうに笑った。これで、タキオンの気持ちも少しだけ救われた。それから、マテリアルが口を挟んできた。
「これ!早速食べてみてくださいよ!タキオンさんも一緒にどうですか?」
「…じゃあ、私も食べてみようかな」
そうタキオンが言うと、まだ椅子に座っている田上は、隣に立っているタキオンを不安そうに見上げたまま、赤い包みを一つ手渡した。タキオンがその包みを開けて見た感じでは、普通の市販のチョコ菓子そのものだった。原材料名にあった辛そうな物など、微塵も感じさせなかった。そして、タキオンが包みを開けても田上が不安そうに見ているのを見ると、タキオンが言った。
「どうしたんだい?君も食べるんだろ?…と言うか、君も食べたまえよ。一緒に食べるために買ってきたんだから」
田上は、自身がなさそうに「ああ、そう…」と言うと、自分もレジ袋から包みを取り出し、そのついでに眼鏡も掛けて、開けて見てみた。田上の方も、見た限りでは普通のものと何ら変わらなかった。
「食べてみてください」
マテリアルの言葉に促されて、田上は、一口だけチョコをかじった。タキオンもまた、一口かじった。二人とも、何事もないかのようにどんな味なのかを感じながら、チョコを食べていた。もぐもぐ、もぐもぐとしていた。そのうちに、タキオンが妙な顔をし始め、田上も妙な顔をし始めた。二人の表情の変移をマテリアルは笑いを堪えて見つめていた。それは、二人とも全く同じ表情でチョコの味を確認していたからだ。しかし、ここで笑ってしまっては興が削がれると思って、マテリアルは笑いを堪えていた。
二人の顔はついに、眉間に皺を寄せるまでとなって、次には、田上が立ち上がった。
「どんな味ですか?」
マテリアルが聞いたが、二人は何も答えなかった。ただ、揃って妙な顔をしたまま、廊下の方に歩いて行った。マテリアルが何をしに行ったのかと思って見ていたら、二人は、廊下の水道の水を急いで口に含んで、吐き出し、一生懸命その身に起こった辛さを引き剥がそうとしていた。時折、ひーとかはーとかいう二人の声が聞こえて、ここでマテリアルは耐え切れなくなって、笑い出した。タキオンが、一度、自分でそれを選択したのにも関わらず、マテリアルを責めるように見てから、また口を漱いだ。
それで、暫くしてから、二人は一斉に話し出した。
「なんだこれ!?風雲児味!?強烈過ぎるだろ!」と田上がまだ残りの二口分くらいのチョコを憎そうに見つめて言った。
「このイカれた商品を考え出した奴は誰なんだ!見つけたら、その体をバラバラに裂いてやらないと気が済まない!」とタキオンが叫んだ。
その言葉にマテリアルは、さらにハハハと笑った。その様子すらも憎そうに見つめて、田上が言った。
「マテリアルさん、俺に食べさせたんだから、あなたも食べなきゃ俺が損だ。…ほら、俺のこっちの方はまだ口をつけてないから、そっちを食いな。これは、上司命令だぞ」
田上が脅すように言ったが、マテリアルは元からその味に興味があったようで、素直にあーんと口を開けた。すると、タキオンが横から入ってきて言った。
「ちょっとトレーナー君!君の魂胆は見え見えだぞ!どうせこれを全部マテリアル君に食わせて、自分の食い切れなかった分は処分しようという考えなんだろう!それはずるいぞ!マテリアル君、私のを食べてくれ!」
タキオンが割り込んできたので、マテリアルは口を閉じた。そして、問うように二人を見比べた。田上には、そういう魂胆はなかったのだが、タキオンがそう言うと、マテリアルの口にタキオンが言うより早く放り込まなかったことを後悔した。こうなってしまえば、どうせ選ばれるのはタキオンだった。しかし、マテリアルは、二人を見比べた後に、諭すようにタキオンに言った。
「タキオンさん、ダメですよ。あなたは、自分で選択して、これを買ったんでしょう?それなら責任が伴います。田上トレーナーには、私が無理を言って買ってきたので、私に責任があるでしょう」
そう言うと、マテリアルは田上の手にあったチョコをぽっと掴んで、自分の口に入れた。暫くもぐもぐしてから、田上たちと同じように身悶えして、水道の方に駆けて行った。タキオンは、残った自分の分のチョコを悲しそうに見つめた。それから、助けを求めるように田上を見つめた。これも田上の予想していたことの一つであった。結局、タキオンに根負けして、自分が食べる。もう、タキオンと言い争うのは面倒臭かったから、田上は仕方なさそうに言った。
「タキオン、俺がそれを食べてやるよ」
「本当かい!」
タキオンの顔が嬉しそうに輝いた。その輝きに田上は、なぜだか涙を流しそうになって、慌ててタキオンの手から風雲児味のチョコレートを受け取った。それは、間違いなく風雲児味だった。――もしかしたら、これはジョーク商品でも何でもなく、ちゃんと開発した紛れもない一つの商品なのかもしれない。田上は、そう思った。そう思うほどに、その風雲児味の名前と味は一致していた。田上は、そのチョコを一生懸命噛んだ。辛さで、涙が出そうなのをごまかせるかと思ったが、逆に辛すぎて涙が出てきた。口一杯に頬張って、辛さが鼻を突いて、一粒二粒と田上の目から涙が出てきた。タキオンは、それを見て初めのうち笑っていたが、どうやら田上の涙が辛さによるものだけじゃないのを察すると、急に心配そうな声色になってこう聞いた。
「何か思うところがあるのかい?」
田上は、思わず首を振ってしまって、後悔した。だから、もっと涙が出てきて、もういよいよ止まらなくなった。開いているドアから聞こえてきた水道の水音は、今やもう聞こえなくなっていたが、マテリアルが部屋に入ってくる気配がなかった。
田上は、タキオンの顔をどうしたらいいか分からない面持ちで見つめた。タキオンは、田上が一度首を振ってしまったから、もう話してはくれないだろうという、諦めた面持ちで田上を見つめ返していた。田上は、涙が出る程辛いチョコを飲み込みたくはなかったのだが、自然と自然と口の中にあったそのチョコは量を減らしていって、最後には田上は自分から飲み込んでしまった。そして、口を突いて出たのはこんな言葉だった。
「ずっとずっと、気掛かりだったんだけど、…数日前の俺の言葉は正しかったのか?」
「どんな言葉だい?」
タキオンには、結果が分かっているように思えたが、田上の話を聞き出すために聞いた。
「………あれだよ。お前は俺の中で大きな存在なんかじゃないって。…今の俺は、そんな事思っちゃいないんだけど、あの時の俺は不思議と心の底からそう思ってたんだよ。…でも、今考えたら、あの時のお前の顔って、凄くショックだったようだから、俺、本当に悪い事をしてしまったのかなって」
「そりゃあ、勿論、悪い事さ。女の子を大きな存在じゃないなんて、男の言う事じゃない。男であれば、どんな女の子でも、例えお世辞であっても、大きな存在だ、と言わなければならないんだよ?分かるかい?君の優しさは、唯一の物だと私は思っていたけど、それでも、綻びがあって、それを引っ張ると糸が抜けて汚くなってしまうんだ。その犠牲になったのが、この私だ。君は、私の事を何でも動じない生物だと思っているのなら、即何としてでも契約を解除してやるけど、本当はそうじゃないんだろう?たまたま私に厄が降りかかっただけなのだろう?」
「たまたま?……いや、そうじゃないんだ。確かに、あの時はタキオンの事をそう思っていたんだよ。何にも動じないやつだって。…そう思ってしまえば、お終いだ。俺はとうとう気が狂ってしまったんだ。一番大切にしなきゃいけない人でさえも傷付けてしまった。……頼む。タキオンから言ってくれた方が気が楽だ。俺と金輪際会わないって言ってくれ。俺は、トレーナーを辞めるよ」
田上がそう言うと、マテリアルが勢いよく部屋の中に入ってきて言った。
「何でやめるんですか!まだまだこれからじゃないですか!あなた、三人くらい担当したいって言ったじゃないですか。まだ一人もスカウトしいませんよ!…それに、私は!私はどうなるんです?あなたからは、まだ何も学んでいません!」
「いや、正直言ってもう何もないんだ。教える事なんて。俺も一人の新米トレーナーでお前も一人の新米トレーナー、俺がダメだっただけだよ。今からでも精神科に受診すれば、何か異常でも見つかるだろう。そうすれば、鬱でも何でも診断されて、俺は家に帰ることができる。…ああ、家に帰りたい。今、俺に必要なのは休息なんだ。たった一時でもいいから俺に休息をくれ」
田上は、遂に身の内に宿る疲れを曝け出して、助けを乞いた。それは、これまでのあまりの疲れに憔悴しきった憐れな一人の男だった。タキオンは、疲れた様にもう床に座り込んでいしまった田上を見下ろした。田上が見上げ返した。二人の間に暫く、沈黙が流れた。その間にマテリアルが何かを話したそうにもぞもぞしていたが、何も言わずに二人を見守っていた。
暫くしてから、静かにタキオンが言った。それは、優しさもあったが、同時に厳しさもある落ち着いた声だった。
「……それでは、君は私を置いて行きたいと言うんだね?」
田上は、タキオンの顔を見つめたまま何も答えなかった。だから、タキオンはもう一度言った。
「……それでは、君は私を学園に残し、去って行きたいと言うんだね?」
田上は、それでも黙ることを続けたが、この後に、タキオンが何も言わなかったので、渋々口を開いた。
「……俺だって、お前を残して行きたくはないけど、……もう疲れたんだよ。今すぐ死んでもいいくらいに」
「では、私との約束はどうするんだ?契約は?私は、誰に教えを乞えばいいのかな?」
「……それは、霧島にでも誰にでも任せるよ」
「そうやって、人に任せるということが、本当に正しい事なのかな?…確かに、人に頼るという事は重要だ。だが、今の君は人に頼るというよりも、人に全てを任せて逃げ出すという行為そのものなんだぞ!私を置いて行くということはそう言う事なんだぞ!」
タキオンの語気が荒くなった。そして、そこで一息入れると再び続けた。
「君が悩んでいるのは分かっている。苦しんでいるのは分かっている。…けれどね、今、一人ぼっちの女の子を置いて行くというのなら、それは容認できない!君は、何のためにこの学園に来たんだい?綺麗な女の子を口説くためかい?レースに勝ってお金を稼ぐためかい?…そんなんじゃないだろう!君は、あの日見た冴えないトレーナーとウマ娘に感動してここに来たんじゃないか!なのに今はどうだ!私と一緒に皐月賞と菊花賞を勝ちこそしたものの、今の君は、絶対にどの冴えないトレーナーよりも冴えていないぞ!!」
タキオンは、涙を流して、田上に訴えかけていた。それに、田上は呆然として、何も言い返すことができず、ただタキオンの世界一美しい赤い瞳を見つめていた。
タキオンは、尚も続けた。
「私が、悩んだこともあった。君が悩んだこともあった。しかし、そのどれもを一緒に乗り越えようとしてきたじゃないか!それを…!今更、疲れたからリタイアするって!?私は何なんだ!!なんで君の隣に居続けたんだ!!これじゃあ…、これじゃあ、まるっきり…私がバカじゃないか…」
そう言うと、タキオンはしくしく泣き始めた。すると、田上はおろおろと立ち上がって、「大丈夫か?」と声をかけた。タキオンは、泣きながら首を横に振ったから、田上はどうしようもなさそうに周りを見渡した。そこで、マテリアルが後ろの方に心配そうな顔をして、佇んでいるのが見えた。田上は、マテリアルに目線で助けを求めた。しかし、マテリアルは田上の方なんて見てはおらず、タキオンをただハラハラとして見つめていたのだ。田上は、泣いている思春期の女の子をまた見つめ直した。田上に顔を見せないようにして、必死に零れ落ちてくる涙を拭っていた。それでも、涙は次々に零れ落ちてくるから、タキオンが手で涙を拭うのも間に合わず、床にぽたぽた雫が垂れていた。
部屋の中には、タキオンの泣いている声だけが聞こえていた。中々に近寄り難かった。二十五のおじさんが、思春期の女の子を慰めたってどうしようもないように思えたのだ。だから、田上は心配そうにタキオンを見やることしかできなかった。
やがて、タキオンの涙が引いてくると、今度は田上の机に置いてあるレジ袋を引っ掴みその中から、チョコ菓子を二つ掴み取った。そして、次に田上の方に向き直ると、そのチョコ菓子を袋から出して無理矢理口の中に押し込もうとし始めた。当然の如く、田上はタキオンが何をしようとしているのか分からなかったので、抵抗した。すると、タキオンが怒って言った。
「食え!私の気持ちが受け取れないというのかい!!」
そう言われると、田上も仕方なしに口を開いてタキオンにされるがままにチョコ菓子を放り込まれた。そこで、田上の口の中に忘れていた風雲児味の辛さが蘇ってきた。だが、それもチョコ菓子を食べていたら、あんまりよく分からなくなった。タキオンは、チョコ菓子の銀色の包みの中に入っていた小さな丸いチョコを何個も何個も田上の口の中に放り込んだ。田上が、一粒食べ終わっただろうと思えば、次の一粒を入れ、また一粒食べ終わっただろうと思えば、次の一粒を入れ、その数が一つの包みの中だけでもたくさんあったので、田上にはいつ終わるのかの目途が見えなかった。それに、ちゃんと田上が噛んで飲み込むのを見てからタキオンが次を口の中に入れてくるので、一粒一粒がとても長く感じた。
いつしかタキオンの手は、入れる度に少しずつ付いたチョコやら田上の唾やらで汚れ始めたが、それでもタキオンは田上の口にチョコを入れるのを止めなかった。
二つ目のチョコ菓子に移った。次のも数がある種類のチョコ菓子だったが、タキオンは自分もチョコを食べ始めた。それでも、田上にしっかりと食べさせはしていた。時折、優しく「美味しいかい?」と聞きもした。田上が、「美味しい」と答えれば、満足していたので田上は全てに美味しいと答えた。
腹に溜まらないチョコ菓子ばかりだったので、田上はお腹がだんだん空いてきた。たまにマテリアルがいる方から、腹の空いたぐぅという音が聞こえてきたが、その部屋にいる人でそれに触れる者はいなかった。田上の腹もぐぅと鳴った。恐らくタキオンにも聞こえているだろうと思ったのだが、タキオンはその音を聞いてにっこりと笑っただけで、次のチョコ菓子を「食べたまえ」と差し出すだけだった。いい加減、田上の口の周りもチョコで汚れてきた。だから、素直に食べさせてもらうのは止めて、タキオンに言った。
「タキオン、…ちょっともうちゃんとしたお昼を食べたい気分なんだけど」
田上がそう言うと、タキオンがきょとんとして田上を見つめて言った。
「…もう、気分は大丈夫なのかい?死んでもいいとか言わないのかい?」
その声は少し震えていた。それを暫く黙って見ていると、タキオンの目から再び涙が、ぽたりぽたりと垂れてきた。田上は、どう反応すればいいのか分からず、ひたすら無表情でその顔を見つめた。
タキオンがもう一度言った。
「もう大丈夫なんだよね?死ぬとか言わないよね?…何とか言ってくれ、トレーナー君」
そう言われたから、田上は答えた。
「……今の所は、死なないよ。精神科に行く気も失せた」
「…それじゃあ、あんまり意味がないじゃないか。――今の所は、なんて問題をただ先延ばしにしただけじゃないか。…私の涙は、君の為に流れたというのに、君の考えを変える一助には到底なれなかったのかい?」
田上は、無言で頷いた。すると、後ろから頭を強めに小突かれた。振り返ると、マテリアルが眉間に皺を寄せて、悲しそうな顔をして立っていた。
「……田上さんは、学ばなかったんですか?そこに女の子がいたのなら、嘘でもいいから強がるのが男ってもんです。タキオンさんを安心させてあげてくださいよ」
「……でも、…」
「…でも?何ですか?」
「…でも、ここで嘘をつくのは、タキオンの為にならないし、嘘をついても見破られるだろうと思った…」
田上が低い声で、真面目そうに言った。マテリアルは、また口を開けて、田上を嗜めようとしたが、それを遮ってタキオンが言った。
「いや、いいんだ。マテリアル君。少なくとも、また前の様に話せるようになった。今日の収穫はこれだよ。私は、これを収穫しに来たんだ。今回の件は、トレーナー君の心とはまた別の出来事だったんだ。それを収穫できただけマシだよ。…どうせ春は来るんだ。時が経てば、何かが変わる。良くか悪くかは私には判断がつかないが、それでも、その時に私にできる事はこの人の傍に居る事だけなんだよ。この前もそう誓ったんだ」
それから、タキオンは、マテリアルの方から田上の方に目をやった。
「まだ、君の心は治まらないようだね?」
「ああ」
「まだ、私と走り続けるつもりはあるかい?」
「ああ」
「私の具合が、トレーナー君の様に悪くなってしまった時は助けてくれるかい?」
「ああ」
心なしか、この時の返事は少しだけ強かった。
「君の具合が悪くなってしまった時は、絶対に私を頼ってくれると誓うかい?」
「…」
田上は、答えずに顔を俯かせた。
「じゃあ、マテリアル君は?」
これにも答えなかった。タキオンは仕方なさそうにため息をついた。
「君は、どうしても私には頼れないようだけど、私は君を助けるって誓ったんだ。少なくとも、君の未来に一筋の輝きが導き出されるまでは。……だから、私にとって君は他人でも何でもなく、君が先ほど言ったように、私も君を一番大切な者の中の一人だと思っているんだよ」
「……ありがとう」と田上がむっつり黙りこくった後言った。
「どういたしまして」とタキオンが返した。そして、時計を見やった。今からカフェテリアに行っても、食べ終わるには及ばない時間だった。だから、タキオンはまた田上の方に向き直り言った。
「ここに居る皆は、今日はお腹を空かせて午後に挑むようだね。少なくとも、今すぐに売店で買えるない私はそうだろう。…マテリアル君、付き合ってくれてありがとう。君は、私たちのこんな姿を見たくて来たわけだろ?それなら、君はとっても変わってるよ。こんなもの見たって疲れるだけなのに。……そして、トレーナー君。顔を上げて私を見てくれ」
言われるがままに田上はタキオンを見た。
「君は、いつも大変なようだから、できない事があったり、その事柄について踏ん切りがつかない事があったら、遠慮なく相談してくれ。私を舐めるんじゃないぞ。少なくとも、科学分野において、私の方が優秀なのだから。…それに、マテリアル君もいるわけだから、私に相談しにくい大人の悩みという物があれば、そちらに相談すればいい。別に、これは強制じゃないから聞き流してくれたってかまわない。ただ、私たちがそう願っているって事を知ってくれればいい。…マテリアル君もそう思っているよね?」
「勿論ですよ!田上トレーナー、私、結構モテるんで彼女欲しかったら、人を引き付けるコツとかを伝授しますよ!」
マテリアルの意気込みは素晴らしいものだったが、それは、田上にとってもタキオンにとってもずれたものだったようだ。田上としては、部下にそこまでの世話をされたくなかったし、タキオンは、「私がトレーナー君の事を狙っていると言わなかったかな?」と半ば軽蔑するような目付きで見た。マテリアルは、二人の顔に瞬時に気が付いて、今言った言葉を訂正した。
「あっ、…やっぱりこれじゃなくて、普通に相談してくれたら乗りますよ。むしろ、恋愛の相談は受け付けられませんね。絶対にしません」
そこで、タキオンの方に視線がいきそうになったから、マテリアルは必死に田上の顔を見た。田上には、マテリアルがなんでそんなに必死なのか分からなかったが、一応「分かった」と返して、話を終わらせた。すると、タキオンが言った。
「私は、もう少しこの部屋に居たかったりするけど、午後の授業が始まってしまうから、もう自分の教室に行くとするよ」
「あっ、じゃあ、途中まで私もついて行きます」とマテリアルが、言ってその後について行った。何だかニヤニヤしていたので、話すことでもあったのだろう。田上は、そう思うと、はぁとため息をついて、眼鏡を外し自分の顔を少し揉んだ。涙を流してしまったので、大分疲れていた。だから、その眼鏡を外すと、田上はそのまま眠りについた。
そこで、また一つ不可解な夢を見た。それは、童謡から始まった夢だった。
「とーりゃんせとおーりゃんせ」とどこかで誰かが歌っているのが聞こえた。子供たちが大勢で歌っている声だった。田上は、その声を探し求めて歩いたが、どこにも子供たちは見つからず、途方に暮れた。
そこは夕暮れの街だった。知らない街の知らない住宅街。その住宅街は永遠と続いているようで、まるで、田上が見たことのある。ホラーゲームの世界のようだった。夕日も落ちることなくずっとそこに居て、田上を照らしていた。あの童謡は、まだ続いていたが、遠くなったり近くなったり、全く居場所は分からずじまいだった。
歩いて行くと、そのうちにタキオンに出会った。タキオンは歌っていた。
「とーりゃんせとーりゃんせ、行ーきはよいよい帰りはこわい」
細く、伸びる声が、田上の耳に届いた。タキオンは、夕日の方からやってきた。そして、田上の方に歩いて行き、その手を取るとニコニコして言った。
「行かねばなるまいよ。行くのさ。私と共に」
田上は、そこで一つ咳をした。すると、大量の血が口から出てきた。まるで、喉に詰まっていた淡が一気に出てくるように、その血は出てきた。そのせいなのか、一気に胸のつかえが取れたような気がした。だけども、田上は言った。
「行くのはいいが帰りはどうだ?」
「行くことさえできれば、もうここには帰ってこないさ」
タキオンがそう返した。田上は、一度後ろを振り返った。遠くで、中学生くらいの女の子が手を振っているような気がしたが、それは朧げで視認するのは難しかった。田上は言った。
「遠くに居るのは誰なんだ?」
「誰だっていいじゃないか」
タキオンが、今度は急かすように言った。そして、田上の手を取ると、「行こう」と呼び掛けた。だが、田上は動かないで、後ろの子を見つめた。笑い声が聞こえたような気がした。それが、なぜだか耳について離れなかった。すると、またタキオンが来てから止んでいたあの童謡が聞こえ始めた。その歌は、どこから聞こえるか分からない。田上は、キョロキョロと辺りを見渡して、タキオンに聞いた。
「あの歌はどこから聞こえてくるんだ?なんであんなに大勢の子供たちが歌っているんだ?お前は何で歌いながらこっちに来たんだ?」
タキオンは、何も返さずに、ただ遠くにいる女の子の方を指差した。田上もそちらの方を見た。すると、タキオンが静かに話し出した。
「…紅い光もあそこまでは届かない。…もうどうすることもできないのさ。…前に進まなきゃ。進むんだ。どうやっても、時が進むのは止められないのだから」
子供たちの歌が、ワーーンと鳴って大きくなった。歌は、まだ田上の頭を破壊せしめんとばかりに続いている。田上は、泣きたくなった。もう止めてくれ!と懇願したくなった。しかし、そうしようと思って、顔を上げた時には、タキオンはもういなかった。そこには、電柱が一本立っていた。――なんだ、俺は電柱と話してたのか…。そう思うと、田上の夢は途切れた。
タキオンは、マテリアルと一緒に長い廊下を歩いた。マテリアルは、今すぐにでも話したそうにうずうずしていたが、タキオンに「せめてここでは話さないでくれ」と言われると曲がり角までは黙る決断をした。そして、曲がり角を曲がる途端に言った。
「タキオンさん、あれプロポーズじゃないですか!――この人の傍に居る事だけなんだよ、って並の女じゃ言えませんよ!」
「あんまり大きな声で言わないでくれ」
鬱陶しそうにタキオンは言った。すると、マテリアルも少しは声を落として言った。
「なんで告白なさらないんです?」
「まだ、その時ではないからさ」
「その時とは?」
「…あの人が落ち着いた時さ」
「落ち着いたらどうするので?なにか具体的な予定は?その時に、三十くらいになっていたらどうしますか?」
「三十になってたら、……のんびりするさ。…とにかく、私はあんまりこの話題は好かないな。私が、想いを伝えると決めたらその時なんだ。その時こそが想いを伝えるときなんだ。君にごちゃごちゃ言われる筋合いはないよ」
「そうですか」
マテリアルは、その言葉ににこりと笑った。ちょうどここで、タキオンが前の方に二人の友達を見つけた様だった。少し目を見開いて、前を見つめて言った。
「見てごらん。前の方に私の友達が見える。君は会ったことがないだろう?」
「はい。…どんな人なんです?前の二人共が友達でいいんですか?」
「ああ、二人とも面白い人たちだよ。私を見ても何とも言わないし、変人扱いしない。一緒に居て気が楽だね」
「タキオンさんの想い人とはどっちが気が楽ですか?」
マテリアルが、そんな意地悪な質問をすると、タキオンがむっと顔をしかめて言った。
「どっちも同じくらいだよ。そんな事に優劣をつけようとするな。…少なくとも、君は、人をからかうのがお好きのようだから、一緒に居て気が楽にはならないね」
「ごめんなさい」とマテリアルは、ふふふと笑いながら言った。そして、続けた。
「でも、私が疑問なのはタキオンさんがなぜあの人を好きになったのか?ですね」
マテリアルはそう言って、タキオンの顔を見たのだが、タキオンは前の二人の方を見ていた。それで、マテリアルの話は聞いていなかったようだ。こう言った。
「ああ、そう言えば、私は、なんでここに来たんだろう?私の教室は、北校舎じゃないじゃないか」
マテリアルの質問は結局聞かれず仕舞いとなって、話は終わった。前の方から引き返した友達たちとタキオンが合流すると、話の中心は、若い子供たちの物となったからだ。だから、マテリアルは、最初の方に質問攻めにされると、もう面倒臭くなりその場を去った。タキオンは、渡り廊下を戻り、階段の方に行くと友達と楽しそうに話した。ハナミとアルトは、そんなタキオンを見て、少しほっとした。いつものタキオンに戻っていた。
マテリアルの耳には、春を迎えた若い子供たちの笑い声が、いつまでも響いていた。