ケロイド   作:石花漱一

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十五、命日②

 その後は、ゲームなんかをして時間を潰した。あまり集中できなくて、ゲームの成績を上げることはできなかったが、少なくとも暇つぶしにはなった。二時半になると田上は、立ち上がって父親を起こした。賢助は、すんなりと起きこそしてくれたが、あまり芳しい状態とは言えなかったようだ。田上は、それを心配しつつも、後の事は幸助に預け、自分は帰りの道を辿った。

 陽は、まだ差してきてはいたが、朝より風が強くなっていた。だから、とても寒かった。その内、雲も流れてきて、日を遮ってきたのでもっと寒くなった。しかし、その頃には田上は駅に着いたので、そのまま電車に乗った。乗る電車を間違えないように何回も何回も確認しないと、間違えそうで不安だった。

 電車に乗ると、今度は人の視線が不安だった。自分はきっと物凄く酒臭いんだろうと思った。なんだかよく分からない眠気にとも格闘した。ここで瞼を閉じてしまえば、もう二度と起き上がれないと思って、必死に瞼を上げようとして白目にもなった。

 そんなこんなして、やっとこさ東京の駅に着いた。午後六時だった。田舎の駅と違って、人の多さが半端ではなかった。田上は、改札を出るとタキオンを探した。スマホで連絡すればいいのだが、まだ酒が残っている田上の頭だと、それは考えられなかった。キョロと右を見回した。タキオンの栗毛頭は見えない。キョロと左を見渡した。ここにもタキオンの栗毛頭は見えない。どうしたものかと思って、田上は駅の中をぽつぽつと歩いた。実は、この時にタキオンから連絡が来ていたのだが、バッグの奥深くにスマホをしまっていたため、それを通知する音も振動も田上には伝わってこなかった。タキオンは、駅の横の道で待っていた。朝、田上を見送った場所だ。ただ、連絡をしても田上から返事が返ってこないので、その内そわそわし始めた。周りには、人がちらほらいたが、そのどれもが田上のようではない。それを確認すると、タキオンは駅の中に足を踏み入れた。

 

 タキオンもやはり、田上の居場所なんて見当もつかない。何にしろ人が多すぎた。その人の波を見ると、探す前から諦めて、タキオンはもう一度スマホから田上に連絡を送った。暫く、入り口近くの壁に寄り掛かってスマホを眺めていたが、田上からの返事は一向に来なかった。別に、心配はしていなかった。昼前に田上にメッセージを送った時の様に、二,三時間してからメッセージを読まれることは多々あったからだ。だが、メッセージが読まれないとなると、どうにも手が付けられない。一度電話もかけてみたが、これにも田上は出なかった。タキオンは、入り口で人の波を見つめながら、じっと田上を待つことに決めた。そこで、一つため息を吐いた。

 田上は、十分後にようやく来た。田上の方から入り口を見つめているタキオンを見つけたのだ。田上は、タキオンに会うと、申し訳なさそうに「ごめん」と言った。あまりにしょんぼりしていたので、タキオンは文句の一つも吐かずに「いいんだよ。君が見つけてくれたんだから」と言った。そうして、タキオンは田上と一緒に帰ろうとしたのだが、田上は立ち止まったままついて来なかった。タキオンの顔を見ると、何か思うところがあったようだった。悲しそうな顔をしてタキオンを見つめていた。ここで、タキオンは田上が酒の匂いを漂わせていることに気が付いたから言った。

「…君、酒を飲んできたのかい?」

 田上はゆっくりと頷いた。後ろで人の波が移動していた。外は、もう真っ暗だったが、駅構内はまだ明るかった。

「まだ、酒が残っているようだね。…ここまで帰って来るのは少し苦労があったんじゃないのかい?」

 また、田上はゆっくりと頷いた。そして、次には涙をぽた、ぽた、と一粒二粒流した。すると、タキオンが慌てた。

「え、君!私が何かしたかい?君を探しに行けばよかったのかい?」

 今度は、首を横に振って、田上が言った。

「いや、…少し酒で涙もろくなってるだけだよ。…この所、涙腺が弱いな…」

 それで、自分の涙を袖で吹くと、田上は無理に明るい声を出して言った。

「帰ろう。門限に遅れる」

 少し涙声で掠れていた。だから、タキオンが心配して言った。

「ちょっとくらい私に頼っていいんだよ?」

「……じゃあ、少し、…少しだけ手を繋いでくれ」

 そう言われると、タキオンは嬉しそうに笑って、田上の手を取った。少しだけと言われたので、指の方を軽く握った。そして、二人は帰り道を急いだ。街灯の下を通る度通る度、タキオンは田上の方を向いて話しかけた。だが、田上は頑としてタキオンの方は見ようとせずに、ただ、まっすぐに前を向いてタキオンと話していた。その様子は、どこか緊張しているようで面白かった。いつもの田上の疲れた顔ではなかった。それが、なんだか嬉しくもあった。タキオンは、ニコニコしながら田上に話しかけ、その返答を聞いた。そして、話しつつも早々にトレセン学園へと着いた。それから、寮の前でタキオンと田上は別れた。田上の酔いは、夜風に当たって完全に冷めた様だった。タキオンに手を繋いでほしいと頼んだことを何だか恥ずかしがっていたみたいで、手を放したときにぼそりと「ごめん」と謝っていた。タキオンに伝える気が合ったのか分からない声量だったが、それにタキオンは「どういたしまして」と返した。すると、田上は不思議そうな顔をして、次いで少し口角を上げた。

 そうやって二人は別れた。田上は、ここに帰ってこれて何だかほっとした。父の家の方でなれない飲酒をして疲弊したからだろうか?それは、分からなかったが、今日の田上はぐっすりと眠ることができた。星降る綺麗な夜だった。もう冬も終わるだろう。その星空には、どこか暖かさがあった。

 

 タキオンの方も今日は概ね楽しい一日と言えたのではないだろうか。特に、最後の方には、恋をしている男の人と手を繋ぐことができたのだから良かっただろう。それも、本人から求められたのだ。田上の方が、タキオンに恋しているのか、それとも、ただ単に他人に甘えたくなっただけなのかは分からなかったが、タキオンにはこれが大きな進歩だと思えた。ただ、その後に、酒を飲んでいたことも思い出したので、そうそう素直には喜べなかった。酒で田上がちょっと揺れてしまえば、こうなることも十分にあり得るのだ。タキオンは、田上に心からそうなってほしかった。酒で一時的にそうなってしまえば、全くの無意味なのだ。しかし、今日の所はどうしようもなかったので、寝るときになれば時折、あの時の田上の温もりを思い出した。正月の時などもベタベタしてはいたのだが、それは、思い出すのには少し恥ずかしかったので、今日タキオンにとっては良い思い出ができた。こちらもぐっすりと眠った。とても安らかな眠りだった。同室のデジタルも眠っているし、部屋はとても静かだった。

 タキオンの今日の一日は、ほとんどを友達と過ごした。前日には、マテリアルとトレーニングか、休暇かの選択を迫られたが、マテリアルとトレーニングをする気にもなれなかったので、休暇の選択肢を取った。その考えをそっくりそのまま、マテリアルも聞いている場で田上に伝えたら、マテリアルは「まだまだ私も精進しないといけませんね」と悲しそうに言ったから、タキオンは少しだけ嫌な気分になった。

 田上を見送ってからは、特に予定を立てていなかったのだが、昼食後にハナミとアルトに会うと「一緒に散歩しながら話している」と言ってきたので、タキオンもそれに混ぜてもらうことにした。と言っても、タキオンは二人が話している横に付いて、黙って二人の話を聞き、綺麗な花や小さな虫なんかを見つけては立ち止まって見つめていた。二人もタキオンが話をじっくり聞きたいのだろうと言う事を察すると、無理にタキオンに話しかける事はせずに、タキオンが立ち止まれば自分たちも立ち止まり、タキオンが「歩こう」と言えば前の方を先導して歩いた。

 それでも、色恋の話題となるとタキオンを放っておくことはできなかったようだ。ハナミとアルトは、それぞれアルトが右、ハナミが左に陣取ると、タキオンを挟むようにして話をした。

 まず初めは、二人の会話からだった。ハナミが言った。

「アルトはさ~、今来てるなって思う芸能人だれ?特に、男男、好きな男」 

「男ぉ?……う~ん、近藤大地?」

「あ~、近藤大地ね。あのドラマに出てたよね。恋してなんぼの辰太郎。あれ、結構面白かったよね。それこそ、近藤大地の演技が良かったわ~。…え?アルトはああいう人が好みなの?」

「私は、ああいうむさ苦しい人よりは…、芸人の方が好きかな?あの、顔の良い芸人いたよね?…あれ、…あいつ、…名前が出てこない」

「…腹巻きサメ肌の小さい方?」

 ハナミがそう雑な感じでそう言うと、タキオンは少しだけ笑った。

「いや、違う。…あれよ、あれあれ」

「あれじゃ分からないって」

「あの~、…あれ。…あの、あれって何て言ったっけ?…ビッグ佐藤スモール佐藤だっけ?」

「え~……あの、なんか二人とも言うほど大きくも小さくもない田中だよね」

「そうそう、それ!」

「でも、あの二人って漫才微妙だし、顔も特徴ないし、大会優勝したのにテレビにあんまりでないし、微妙じゃない?」

「聞き捨てなりませんね」

 アルトの芝居がかった声が聞こえた。そして、まるで眼鏡をかけているように、くいっと目の所で眼鏡を上げる仕草をした。

「あなた、ビッグ砂糖スモール砂糖の事を貶しましたね?あの二人がどれ程に素晴らしいか教えて差し上げましょう。…まずですね、漫才は微妙じゃありません!大会優勝したんです!そして、顔もかっこいい!」

 それから、「あの人たちは云々かんぬん」と早口で捲し立てて、こう言った。

「ちなみに、私はあのよく髪の毛の色を変えてくる方は好きじゃありません」

「なんで?」

「あの人がピンでやってるラジオ聞いたけど、なんか意味の分からんこと言って笑ってて、しかもその笑い方も気持ち悪いんだよね。ぎゃははって笑ってて、――もうこいつのラジオは聞かねーなって思った」

「そりゃあ、ご愁傷さまで」

 こう言ったのは、他に言う言葉が見つからなかったからのようだ。そして、そう言った後、話が続かずに二人とも空中に目を泳がせた。何か話題を探しいるようでもあったし、ただ単にぼーっとしているようにも見えたが、次にハナミが思いつくと後ろを振り向いて、道横の少し大きめの石を見ていたタキオンに言った。

「タキオンって、好きな芸能人いる?…好きな人でもいいよ?」

 これは、ハナミが、タキオンが田上の事を話すのを期待していたのが見え見えだった。だから、タキオンは少しむっとした顔になったが、それでもこう言った。

「私が知っている芸能人はね…。あんまりドラマは見ないからね。…う~ん、斎藤成吉とか?…ただ、あの人は顔が好みじゃないね」

 タキオンがそう言うと、アルトが不思議そうな顔をして聞いた。

「タキオンに顔の好みってあるの?」

「…まぁ、あってもなくてもどっちでもいい物ではあるね。私は、好きになった人を好きになるから」

 途端にすぐさまハナミが口を挟んできた。

「例えば、どんな人?」

 タキオンはまた顔をしかめて言った。

「君、面倒臭いね。…君の魂胆は分かっているんだからね。どうせ、私にトレーナー君の事が好きとか言わせたいんだろ。…残念ながら、私はそんな風には思っていない。これ以上、そういう面倒臭い質問はするな」

 しっかりと嘘をついて誤魔化したが、ハナミはあまり信じていないようで、まだニヤニヤしていた。それでも、タキオンの言う面倒臭い質問はそれ以上しなかった。それから、またアルトが聞いた。

「強いて言うなら、タキオンの顔の好みって何?」

「好みぃ?……髭?…いや、違うな。…鼻?…それでもないな。目…。……やっぱり、私は好きになった人を好きになるよ。そりゃあ、目鼻立ちがいいのは分かるけどさ。それは、今時の流行であって、そんなものは時代と共に移り変わっていくわけだろ?眉が濃いとか、肌が白いとか、二重とか、そんなものを好きになったって、あんまり意味がないじゃないか。それじゃあ、爺さん婆さんになったとき、肌が白くなくなったからその人を嫌いになるのかい?私は、そうじゃないと思いたいね」

 そうやって、偉そうにタキオンが論じると、アルトが苦笑しながら言った。

「じゃあ、好みはないんだ。本当に、好きになれば、その人を好きになるんだ」

「そうだね。むしろ、男の人と縁がなかったら、好きにならないから、アプローチもしないだろう。すると、この中で一番最後まで売れ残るのは私かもしれないな」

 ここで、タキオンの尻ポケットからスマホが音を出して知らせてきた。タキオンは、おもむろにそれを取り出して見ると、二人に知らせるつもりはなかったのだが、思わず口から言葉がでてきた。

「あ、トレーナー君からだ」

 すると、横から二人がスマホを覗き込んできたので、鬱陶しそうに「散れ!」と言った。

「君らに見せる義理はないんだよ」

 そう言うと、二人に見えないようにスマホに手をかざしたが、アルトが器用にその隙間から覗き込んで声に出して言った。

「三…時の…電車に?……乗って帰る。……駅で……んん?…待っててくれ…」

「分かったよ。もう好きに見ればいい。君たちもしつこいね」

 タキオンが、やれやれと言った口調で話すと、ハナミが「しつこい私たちの友達で居てくれてありがとう」と返された。これには、少し対応が面倒臭く、真面目に返すと恥ずかしさがあったが、「私こそ君たちが友達で居てくれて感謝しかないよ」と言い切った。しかし、これは二人とも聞いておらず、タキオンのスマホを見るのに夢中になっていた。一度アルトが、「え?」と聞き返したが、タキオンは「二度も言うつもりはないね」とつっけんどんに言って、アルトを苦笑させた。

「タキオンは何て返すの?」

 タキオンとアルトの会話なんて聞いてもいないで、タキオンのスマホを一生懸命見ていたハナミが言った。すると、何を返そうにもこの二人に田上との会話を見られてしまえば、恥ずかしいような気がして、タキオンはこう言った。

「それは、君たちには見せるわけにはいかないな。ちょっと私のスマホから離れてくれ」

「なんで?」

 これは、思いがけず面倒臭い質問だった。勿論、ハナミも先程タキオンを面倒臭がらせた時のようなつもりではなく、純粋に疑問が湧いたから聞いただけだった。それが、猶更面倒臭くタキオンはどう説明しようか迷った。しかし、何の説明の文句も出てこなかったので、強気にごまかそうとして言った。

「なんでもどうしても、君たちには見せたくない物さ。だから、理解してもしてなくても少し避けたまえ。邪魔だ」

「ふ~ん」とまだ不思議そうにタキオンを見つめながら、ハナミはタキオンの言う事を素直に聞いて、スマホを見ないようにタキオンの顔だけを見つめた。妙な所で鈍感なハナミだった。この事の真相、つまり、タキオンが仲のいい二人に見せたくない恥ずかしさが、自身のトレーナーとの間にあるという事に気が付けば、ハナミもニヤニヤ顔が止められなかっただろうに、残念ながらそれはできなかった。アルトは、タキオンの事はなんとなく察せたが、ハナミが気付いてないのなら、敢えてそれを言うということはしなかった。また、後からハナミに「実はどうどうこうこうなんだよ」と教えることもしなかった。それは、全てハナミが気付くに任せた。だから、今のアルトは、二人の様子を見つめてただ微笑むことしかしなかった。

 タキオンは、嬉しそうに文を田上に送った後、顔を上げると横の二人が揃ってこちらの顔を眺めていたので「何見ているんだよ」と不機嫌そうに言った。アルトは、「別に」ニコニコして言って、その後にハナミも不思議そうにタキオンの顔を見ながら「別に…」と続けた。それから、ハナミが自分の気を取り戻して言った。

「どこまで話したっけ?」

「…えーっと、…芸能人の話をして…」とアルトが返した。

「芸人の話をしてたね」とタキオンが言った。「ビックの佐藤がスモールとかなんとか」

「ああ、そうそう。それで、タキオンの方に話が行ったんだ。好みはないって言ってた。…で?」

 アルトがそう言うと、ハナミがその後を続けた。

「それで、…タキオンが――売れ残るのは私かもしれないなって言ったんだ」

「そうだそうだ。そうだった」とアルトが声を上げた。そして、またハナミが言った。

「そこで、田上トレーナーからLANEが来て、タキオンがそれに返事を返したんだった。…それで、タキオンは田上トレーナーに何て返したの?」

「迎えに行く、とだけさ」

 タキオンは、別に、送ったメッセージの内容を、そっくりそのまま言っても良さそうなものだったが、嘘をついてごまかした。ハナミは、尚も不思議そうな顔をしていたが、それもここでやっと終わった。

「それでさ、私、反論があるんだけど、タキオンが売れ残るって言うのは聞き捨てならないね」とハナミがいつもの通りに戻って言った。

「何でなんだい?」と今度はタキオンが不思議そうな顔をして聞いた。

「だって、タキオンに言い寄ってくる男の人は絶対いるよぉ?…それだったら、男の人と縁がないなんて事絶対ないと思うんだけどなぁ」

「私もそう思う」とアルトが右の方で同意した。すると、タキオンは眉を寄せて暫く考えた後、言った。

「…私は、…私自体が、あんまり男の人と付き合うつもりがないからなぁ。勿論、もし職場で一緒になったりしたら、話すことには話すと思うが、気に入ったのじゃなければそんなに濃い関係にもならないね」

「じゃあ、田上トレーナーは気に入ったんだ」とアルトが質問してきた。これには、タキオンも少し心臓が高鳴ってしまって、急いでアルトの方を見やった。すると、ニヤニヤ笑いの影がうっすらその穏やかな顔の中に見えた。だけども、ハナミの方はアルトの言葉の真意に気付いていないようだったから、そんなに強くは言えなかった。だから、タキオンはアルトを少し牽制するように睨みながら言った。

「勿論、トレーナー君の事は気に入ってるさ。何せ、従順で大事なモルモット君だからね」

 それから、こうも言った。

「あんまり私を話に巻き込まないでくれ。私は、今、静かに過ごしたいんだから、君たちが話しているのを後ろで聞いているのでいいんだよ」

 それを言われると、アルトも少しバツの悪そうな声で「はーい」と返事をして、後は二人で話を続けた。二人は、ありがたいことに暗くなるまで夢中で話してくれた。そうしてくれた方が、タキオンにとって暇潰しができて都合がよかった。タキオンは、研究をしなくなってからというもの、それ以外の趣味が今までなかったので、暇で暇で仕方がなかった。最近は、スマホなどを見て暇を潰すが、スマホで暇を潰すのは何だか癪だった。どうせだったら、ただ怠惰にスマホを眺めるよりも外で木や花や虫を見つめながら、ゆったりとした一時を過ごしたかった。それが、二人のおかげで叶えられた。それに、二人もタキオンの願いを叶えようと思って、願いを叶えたわけではないようだった。その証拠に、二人が話を止めた時に出てきた言葉は、「あれ?もう陽が落ちそうなんだけど…」という物だった。その頃になれば、タキオンも田上を迎えに行かなければならなかったので、二人と別れた。ここでは、アルトもハナミも少しニヤニヤしているようだったが、それは口調にはおくびにも出さなかったので、タキオンは怒るに怒れず、少し表情を曇らせたまま田上を迎えに行った。

 そうして、タキオンはずんずんと歩いていき、田上を見送ったときと同じところで、帰って来る田上を動く電車の中に見つけようと待機していた。しかし、それは叶わず、田上とは人混みの中で再会したのだった。

 

 タキオンは、今やぐっすりと眠り込んでいた。暗い夜が、和やかにトレセン学園を包み込んでいた。タキオンが、今見ている夢は何だろうか?本人の寝顔を見てみれば、不安な物を伴った夢でないことは確かだろう。もしかしたら、今日田上と手を繋いだことを思い出しているのかもしれない。もしかしたら、田上が自分からタキオンに手を繋ぐことを求めてきたことを思い出しているかもしれない。もしかしたら、手を繋いでいた時の田上の少し緊張した顔を思い出しているのかもしれない。そんなタキオンの寝顔だった。

 

 この三月十日は、タキオンと田上に焦点を当てて話していたが、その裏でもう一つ起こっている事があった。中山記念、GⅡだ。今回の中山記念には、タキオンと同じ世代で、田上の友達である国近の担当、ハテナキソラが出走していた。ハテナキソラは、大阪杯にもすでに出走登録していて、今回は、その前哨戦だった。本番を迎えるために、状況に慣れを加えようという物だった。残念ながら、ハテナキソラはこのレースでは、二着と敗れてしまったが、今や、国近とハテナキソラの二人の闘志は、燃え上がらんばかりに強まっていた。今の所、一番期待されているであろうアグネスタキオン。そのウマ娘を射殺さんと、ハテナキソラは、その瞳を鈍く輝かせていた。

 勿論、田上もタキオンもハテナキソラを軽視しているわけではなく、後日、このレースをじっくりと見て、ソラの出方などを調べた。それに、父の家に行った時も、実はハテナキソラの話題が出ていた。それは、父がハテナキソラの勝負服をデザインしたという話だった。賢助の仕事はデザイナーだったそうだから、会社にハテナキソラの勝負服をデザインするという話が来たら、賢助がその仕事を引き受けた。しっかりと相手の要望も聞いて、綿密な談議の末、ソラの納得の衣装が仕上がったと賢助は語っていた。これは、昼食時に唐揚げを頬張っていた時の話だった。田上は、試合の敵の話なので、その話にどう反応すればいいのか分からずに困ったが、賢助の言葉を聞くとニヤリと笑った。

「俺は、ソラさんの服をデザインしてしまったからな。今回ばかりは、お前たちじゃなくて、ソラさんの方を応援するわ」

 田上は、それの後にニヤリと笑ってから、「応とも」と答えた。賢助もそれに答えるようにニヤリと笑った。


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