ケロイド   作:石花漱一

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三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら(前編)

三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら

 

 翌朝、田上は目を覚ました。一度、保健室から明かりが消えようとする頃、田上が起きて、水を所望したが、それを抜きにすると、朝まで眠り続けた。そして、朝を迎えると風邪の後の倦怠感もあったが、それよりも食欲がいつにも増してあり、ぐうぐうとお腹が鳴った。風邪は完全に治っていた。田上は、朝のカフェテリアに小走りになって行った。着替えていなかったので、少し汗臭かった。

 途中でタキオンにもあった。田上は、「今日は昼ご飯作れそうにない」というと、タキオンは残念そうにして、「ま、仕方がないか」と言った。田上が、あまりに平気そうにしていたので、昨日の話がまるで嘘のようだった。母を思って泣いた影などどこにも見当たらなかった。だから、タキオンは思わず、「昨日のことを覚えていないのかい?」と質問しそうになったが、覚えているとまずいので、その質問はやめた。代わりに、不思議そうに田上を見た後言った。

「もう風邪は完治したんだね?」

「ああ」と風邪の前の時よりも元気よく田上は返事をした。そして、少し暗い表情になった後言った。

「昨日、タキオンに…その、酷いことをしたろ?」

「酷いこと?…ああ、気にしてないよ。ただ、首を横に振られただけさ。風邪の時なら誰でもそうなる」

 これは、田上の心を慰める嘘だったが、田上はその言葉を聞くと安心した。タキオンが、傷ついていないことはなかった。なぜなら、田上があの時見せた表情は、憎しみに近いまであったからだ。それは、タキオンに向けられている感情ではなかった。しかし、その顔で見られてしまうと心が痛まないわけにはいかなかった。やはり、トレーナー君の中には何かが渦巻いているのだろうか?そうタキオンは思った。

 カフェテリアまでは他愛のない話をしていった。研究がどうとかあの本がどうとか、主にタキオンから話しかけていった。それを田上は、幸せそうに聞いていた。本当に全く何事もないようだった。

 カフェテリアに着けば、彼らは普通に座り普通に食べた。ただ、スプーンを一度落としただけだった。その時は、田上が「三秒ルール」と頷いて、スプーンのゴミでも落とすようにふっと吹くと、タキオンの顔を見て「どうかした?」と挑発するように眉を上げた。タキオンは、その様子を見て、ふふふと笑った。

 幸せは長く続くのだろうか?それとも、ひと時の休息だろうか?それは、本人の気概次第だろう。何が幸せかだなんて、人それぞれだ。例え、幾多の困難に見舞われても家族を守ることさえできれば、幸せだという人がいる。幾多の困難に目の前を覆われて、不幸せになる人もいる。気概次第で幸せになれるのなら、田上もそうしたいだろう。しかし、田上にはその方法が分からなかった。

 タキオンと軽く話せているこの幸せ。これこそが、永遠のものだと信じ、本当の幸せであると信じた。それ以外は、幸せでなかった。恋することも食べることも仕事をすることも、さらには、生きることも、タキオンと話せていないのでは幸せではない。タキオンを近くに感じ、真正面から向き合えるこの時こそが幸せなのだ。それを感じることができないときは、何かに縛られているときだろう。見えないものに、がんじがらめにされて動けないときだろう。もういいや、と投げ出せないものを持っているときだろう。

 田上の幸せは、長くは続かない。常に何かに遮られる。それは、表面的には何かの物事のせいに見えるが、幸せを断ち切っているのは自分自身の感情。制御しがたいものだ。我々はそれを何と呼ぶのだろうか?それは、この物語の終わりに分かる。

 

 カフェテリアで朝食をとった後、二人は当然のようにトレーナー室へと向かった。タキオンが、午前の授業をどうするかなど、田上は聞こうとすら思わなかった。当たり前のように話し、当たり前のように歩いた。しかし、ふと思ったことがあったので、田上はタキオンに質問した。

「タキオン、今年の年末は帰るのか?」

 タキオンは、顎に手を当てて、う~んと考え込んだ。それから言った。

「トレーナー君は?」

「俺は、…帰ると思う。今日が、確か二十七日でしょ?すると、明後日から行って、…一月五日の昼辺りに帰ってくるのがいいのかな。タキオンはどうなんだ?」

「私は…」とタキオンは考え込んだ。タキオンは、自身のトレーナーの家に行ってみたい気持ちがあった。半分はただの興味で、半分は田上の情報収集だった。なぜ情報収集をするのかというと、田上がどうして母を思って泣いたのかが気になったからだ。ただ、こんなに早くチャンスが訪れるとは思わなかった。あんまり心の中で正確さも増していない疑問だったし、タキオンはどう答えるのか迷った。――そもそも行きたいと言えば、連れて行ってくれるのだろうか?タキオンは、そう思うと、田上に聞いてみた。

「君の家に行きたい、と言ったら、君はどうするんだい?」

「え?俺の家?……嫌だよ。連れていくのはさすがに、…ねぇ?絶対俺の父さんも嫌がると思うし、寝る場所もないんじゃないか?」

「どういう所に住んでいるんだい?」

「田舎のアパートだよ。二部屋しかない」

「そこにお父さんは住んでいるのかい?」

 田上は、コクリと頷いた。そして、その後にやっぱり訝しんで聞いてきた。

「…え、本当に行きたいの?」

「いや、正直私も迷っているんだよ。別に私の家の方にね、帰らなくたって、あの親二人は文句は言わないだろうけど、どうもまだ、私の方向性が定まらなくてね…」

 タキオンは、難しい顔をした。田上は、それを不思議そうに見つめたが、言った。

「あんまり俺としても来てほしくない」

 すると、きょとんとしてタキオンが田上を見た。それから、ハハハと笑った。

「えー、私が行きたいと言ったら意地でもついていくからね。最悪、君の寮に泊り込んで無理矢理にでも」

「それだけはやめてくれ」

 田上が、顔をしかめて言った。

 そして、二人はトレーナー室に着いた。

 

 トレーナー室に着くと、タキオンは紅茶の準備をし、田上は自身のパソコンの前にいった。パソコンの前につくとタキオンが話しかけてきた。

「…とりあえず、いつまでに決めればいい?明日でいいかい?」

 途端に田上は、またしかめっ面をした。

「えー、…本当に来てほしくない。それに、ちょっと世間体としてもまずいだろ。二冠ウマ娘としては、男の人の家に止まるのはまずい」

「…という来てほしくない言い訳だろ?大丈夫、私は世間体なんて気にしないよ。…それに本当に決まっていないんだから、そう邪険に扱わないでくれ」

 タキオンの言葉に、田上は、不服そうな顔をした。しかし、またパソコンに向き直ると、今度は真剣な表情をして熱心に画面を見続けた。タキオンは、その様子を見ていたが、ふっと微笑むと自分の年末・年越しの予定に想いを馳せた。

 果たしてどうしたものか…。タキオンにとってトレーナーの泣いた理由が、年末の予定を慌ただしく変える程に興味のあるものなのかが分からない。勿論、今は普段している研究や薬作りもアイディアがないので、暇であることには間違いがない、だが、緩く過ごせるなら別にトレーナーについていく必要もなかった。――熟考する必要があった。そのためにタキオンは、紅茶を用意した。廊下に行って水道から水を汲み、戻ってくると、一、二分ほどでお湯を沸かす。そのお湯をカップに注ぎティーバッグを入れる。それからまた、しばらくすると紅茶の良い香りが部屋中に広がった。

 田上は、その香りの強さに一瞬鼻の皺を寄せたが、何も言わないでただキーボードを少し強目に叩いた。そのことにタキオンは気が付いていないことはなかった。タキオンが、今淹れた種類の紅茶が特に田上のお気に召さないようだ。この紅茶を淹れると少しだけ主張するようにキーボードを叩く。毎度のことだ。タキオンは、気にせずに紅茶を一口啜った。

 いろいろなことを考えた。時に考えが脱線したりもしたが、自分の中の様々に思いを巡らし、気持ちに整理をつけようとした。しかし、未だ納得できない要素が心の中にあるような気がして、タキオンは思い悩んだ。紅茶をもう一杯飲んだ。それでもその謎は解けない。遂には、考える事を止め、トレーナー室の本棚の前に歩み寄るとその中から適当に一冊を取り出して、ソファーに座るとそれを読み始めた。田上は、それを何の気なしに見ていたのだが、突然いいことを思いついてタキオンに言った。

「タキオン、別に俺の家じゃなくても、スカーレット君とかカフェさんの家に行ってみたらどうなんだ?スカーレット君とか喜んで迎え入れそうじゃないか」

「ああ…」

 本を読んでいたタキオンは振り返っても田上を見ておらず、生返事をした後で、また本を読み始めた。田上には、タキオンの耳にちゃんと自分の言葉が聞こえていたのかいなかったのか分からず不安になったが、今のところは再度呼んでもタキオンは、生返事しかしなさそうなので呼ぶのはやめた。

 

 それから、また時が経った。昼になると、タキオンは「昼食はいい」と言って、研究室の方に歩いて行った。田上は、それを心配に思ったが、大した言葉をかけてやれず、結局はタキオンのなすがままに任せた。そして、自分は昼食を食べにカフェテリアへと向かった。

 その途中で自分の寮へと寄った。汗臭い衣服を着替えようと思ったからだ。寮に着くとそれなりに人がいて、わいわいがやがやとしていた。しかし、その中には田上の友人たちの姿は見えず、田上は黙ってわいわいがやがやの脇を通り過ぎていった。

 

 服を着替えると寮を出たのだが、その途中で楽しそうに自分の担当の子と話している友人を見つけた。これは、霧島ではない。国近(くにちか)という男の方だ。カフェテリアに続く渡り廊下を歩いていた。

 田上が、声をかけるかかけまいか迷っていると、向こうの方がこちらに気が付いて呼びかけてきた。

「よう、圭一。風邪治ったのか?」

「ああ」

 田上は、そう返した。そして、少し早足になると国近の方に歩いて行った。国近の隣には、黒髪のおさげの子が歩いていた。国近の担当で、名前は、ハテナキソラという。容姿は、少し赤坂先生に似ているだろう。しかし、大きく異なる部分もある。それは、ハテナキソラは、その名の通り青く澄んだ空色の瞳を持っていて、おさげは赤坂先生の方は三つ編みだが、ハテナキソラはただ結ってあるだけだ。

「ソラさん、こんにちは」

 田上は、ハテナキソラにそう呼びかけた。しかし、ソラの方はというと、ただ頭を少し下げて微笑んだだけだった。これが、ソラの普段の様子だったので、田上は何にも構うことはなく、自分も少し頭を下げて国近の方を見た。

「俺が風邪ひいてたの知ってたんだな」

「ああ、霧島から聞いたよ。お前、寮の部屋でぶっ倒れてたって?ちょっとした騒ぎになってたよ」

「へー、全然気が付かなかった」

「の割に回復早いんだな。一週間くらい寝込んでてよかったんだぞ。飼い主の面倒だったら、俺達でも見れるし」

 この飼い主という呼び方は、タキオンに対する呼び方で、主に田上と国近の間で使われる、タキオンの「モルモット君」呼びに対するからかいだ。

 国近の話を聞くと、田上は首を傾げた。

「…俺が倒れてた時はタキオンもまだ風邪ひいて寝てたぞ?」

「え!?その情報初耳だぞ!?お前、それ誰かに言ったのか?」

 田上は、顎に手を当てて考えた。そして、言った。

「……言ってないわ」

「ほらな、俺も知らねえわ。…で、タキオンちゃんはもう大丈夫なのか?」

「ああ、俺が保健室に運ばれて気が付いた時だったかな?…どうだったかな?…少なくとも朝にはもう平気そうだった気がするな」

「ふーん、…タキオンちゃんは次走どうするんだ?聞いてなかったけど」

「次走は大阪杯に出るよ」

「大阪杯ねぇ」

 国近は少し残念そうに言った。すると、隣の方で黙って話を聞いていたソラが、国近と同じように残念そうにした。その様子を国近は見とめていた。田上もそれに倣って、ソラの方を見た。国近はしばらく無表情でソラの方を見ていたが、しばらくすると言った。

「お腹減ったなぁ…」

 カフェテリアの扉はすぐ前だった。田上と国近とソラは、一緒に中に入ったが、料理を受け取ったところで田上は分かれた。自分がいたままでは、ソラの方が会話ができずに可哀想だと思ったからだ。実際、そちらの方がソラも嬉しかったらしい。田上が席について、遠目から二人を見た時、また楽しそうに話をしているのを見た。田上は、一人寂しく昼食を食べた。相変わらず、昼のカフェテリアは喧騒に満ちていた。

 

 タキオンは、昼も食べずに研究室に籠っていた。食欲がないというよりも、他に集中することがあったからだ。それは、トレーナー君の家に行くのかという問題で、朝から今までずっっと悩み続けていた。だが、それも終わりに近づいてくるようだ。それは、廊下の足音と共にやってきた。

 その足音は、薄暗い研究室に入ると本を読んでいるタキオンを見つけて言った。

「タキオンさん、お暇でしたら一緒にお昼を食べに行きませんか?…それとも、もうトレーナーさんのお弁当食べちゃいましたか?」

 それは、タキオンの良き後輩、ダイワスカーレットの声だった。

 タキオンは、チラリと本から目を上げると言った。

「暇かそうじゃないかで問われるなら、暇と言うが、実際のところは、私は今、本を読んでいて忙しいとも言える。残念だが、今日のところは…」

 そこまで言いかけたところでタキオンは、言葉を切った。断ろうと思ったのだがスカーレットの残念がっている顔を見たからだ。だから、代わりにこう聞いた。

「…君、なんでここに来たんだい?昼食時には珍しいと言えるが…」

「今日は、私の友人たち皆が皆、用事があると言って、一緒に昼食は取れないそうなんです」

「なるほど、私は代用品か」

 タキオンは、やれやれといった風に首を振った。すると、スカーレットは、首を横に振って慌てて言った。

「タキオンさんが代用品ということではないです!ただ、普段研究室やトレーナー室でご飯を食べているようなので、中々声をかけても通らないのかなって思って、それで、少しタキオンさんを敬遠してただけなんです!決して、タキオンさんが嫌いとかそういうわけではないんです!」

 タキオンは、スカーレットの慌て具合に苦笑して言った。

「分かった、分かったよ。私も少し意地悪な言い方だった。君がそういうことを考えているのは分かっているし、無論その考えが当たっていることは言わずもがなだ。確かに普段であれば、断るつもりでいる。…しかし、今日はどうかな?なんだか行ってもいいような気がしてきたが…。…うん、スカーレット君。少し話をしてからカフェテリアに行かないか?」

「話…ですか?」

 スカーレットが不思議そうに言った。

「そうだ、話だ。…少し悩んでいることがあってね。それが、中々決定できないんだよ」

「タキオンさんが悩んでいること?研究のことですか?」

「……まあ、似たようなものだが、少し違う。トレーナー君の実家に私は行ってみるか否か、だよ」

「え!あの、...タキオンさんのトレーナーさんの実家ですか!どうして!?」

 すると、タキオンは、スカーレットの大声に面倒くさそうに眉を寄せて言った。

「この際、トレーナー君の家に行く行かないということは問題ではないんだよ。私が、行くと決めたら無理矢理にでもついて行く。問題は、トレーナー君の家に行っておく方がいいか良くないか、だ。どう思う?スカーレット君」

「……あの、まず、なんで行きたいのか教えてほしいんです。タキオンさん」

「ああ……。参ったな、赤坂先生の気持ちが分かった。どうやって話せばいいかな。…いいかい、これはトレーナー君ののっぴきならない事情による出来事なんだ。それは、まだのっぴきならないとまではいってないんだが、私には何かが裏に潜んでいそうで興味がある。裏に何かがあるというのは、のっぴきならない事だ。大変なことだ。だから、少しトレーナー君が心配でもある。…あんまり詳しく話したらトレーナー君の尊厳を傷つけてしまうから言いたくないのだから言わない。だけど、ほんの少し掻い摘んで話すとすれば、さっき言ったように、のっぴきならない事情が潜んでいて、トレーナー君が心配だ。それを探るためには、トレーナー君の実家に行って父親やら何やらに聞くしかできないんだよ。分かるかい?スカーレット君」

「は、はぁ…」

 あんまり分かっていなさそうにスカーレットは頷いた。タキオンは、もう少し何か話せることはあるかと口を開けてみたが、何も言葉は出てこず、口を閉じた。そして、話を続けた。

「まあ……、本当にこれ以上は言いようがないから仕方がないが、私がトレーナー君の家に行くのを躊躇っている理由はなんだと思う?」

「何?…うーん、そうですね。あんまり事情が分からないので、踏み込んだことは言えないから何を話せばいいか分からないんですけど…、私が、単純に考えてみると、…男の人の家が恥ずかしいから…とか?」

 そう言うと、スカーレットは「間違っているかもしれないんですけど…」と付け足した。そして、タキオンの方を見た。タキオンは、今言われた言葉を反芻していた。だが、言葉は上手くまとまらなかった。

「他にはないかい?」

 タキオンは、うつむいて床を見つめながら言った。スカーレットは、うーんと頭を悩ませたが何も出てこなかった。タキオンは、相変わらず床を見つめている。遂には、スカーレットもいたたまれなくなった。だから、タキオンに少し慌て気味に言った。

「タ、タキオンさん、こんな暗い所で考え事しているから、何も浮かんでこないんですよ。たまには環境を変えて、私とお昼を食べながら考え事をしませんか?」

 そう言うと、スカーレットのお腹がキュルキュルと鳴った。それでタキオンは、床を見つめるのをやめた。

「そうだね。どうせタイムリミットは明日だ。もう少し先延ばしにしたってかまわないだろう」

 そうタキオンは言うと、スカーレットに「行こう!」と言って、歩き始めた。お腹が大変減っていたので、タキオンが先頭に立って歩いた。もう午後の授業も近かったので二人は急がなくてはならなかった。二人は、小走りになってカフェテリアまで急いだ。

 

 カフェテリアに着くとちょうど出入口のところで田上とタキオンが鉢合わせた。田上が、カフェテリアの入り口の影から急に出てきたので、タキオンはぶつかりそうになって慌てて避けた。すると、今度は別の人にぶつかって、タキオンは慌てて謝った。その人は、快く「いいですよ」と微笑んで許してくれた。ウマ娘の重いタックルをもろに食らったにも関わらず、その人は優しかった。

 タキオンは、その人に申し訳なくなって、だけど何も言えなくて、代わりにトレーナーの方に八つ当たりした。

「君のせいだぞ!急に影から出てくるから!」

 その人は、まだそこにいたのだが、自分のぶつかった相手が急に怒り出して驚いた。しかし、怒られた男の方を見ると、ああと納得したように頷いた。その人は、アグネスタキオンとそのトレーナーのことを知っていた。そして、その仲の良さも。だから、ああと頷くと、ニコニコ笑ってその場を後にした。

 タキオンは、その人には構わずぶつくさ言った。勿論、スカーレットも後ろにいたのだが、それにも構わずぶつくさ言った。「トレーナー君が…」とか、「もう少し壁から出てくるのが遅ければ…」とか、子供のようにぶつくさ言った。

 それをスカーレットは、心配そうに見つめた。田上は、「あー、ごめんごめん」と言って、タキオンの肩を慰めるように軽く手を置いた。タキオンは、それを乱暴に振り払って言った。

「もう君は昼食を済ませたのかい!」

 まだ、怒っているようだった。田上は、苦笑して言った。

「もうとっくに食べ終わって、今帰るとこだよ。タキオンは食べに来たのか?」

「当たり前じゃないか!スカーレット君と一緒だよ!…おや、スカーレット君?」

 そこでタキオンは自分の気をとり戻したようだ。

「すまない、スカーレット君。君のことをすっかり忘れていたよ」

 そう言って、頭を垂れた。スカーレットは、「いえいえ、全然」と笑って言った。それから、一つ間を置いて、不思議そうな顔をしてトレーナーを見た。スカーレットは、――この人にどんなのっぴきならない事情がおこっているんだろう、と思ったが、田上はそれが分からず、困惑しながら笑い返すだけだった。タキオンは、それを見つめた。タキオンには、大体の事情が読み取れたが、そのことには何も触れないで言った。

「スカーレット君、行こう!昼食が私たちを待っている!」

 スカーレットは、嬉しそうに返事をして頷いた。そして、行こうとして、ちょっと待ってからやっぱり田上の方を戸惑うように見つめた。今度は、田上にも考えていることが分かった。だから、言った。

「俺も行こうかな?スカーレット君が良かったらだけど」

 すると、タキオンが口を挟んだ。

「君は…来なくてもいいだろう。なあ、スカーレット君」

 まだ、さっきの出来事をタキオンは根に持っているようだ。スカーレットは、二人の間に挟まり迷ったが、言った。

「私、タキオンさんのトレーナーさんに聞いてみたいことがあるんです。ご一緒してもいいですか?…タキオンさん」

 スカーレットがそう言って、申し訳なさそうな顔をしたので、タキオンも了承せざるを得なかった。タキオンは、この子には何かと弱いのだ。色々な理由があるが、この子には後輩ということだけでなく、それ以外の何かを感じて、できるだけこの子には優しくしてやろうと思っていたのだ。だから、タキオンは不満そうに田上を見つめた後、「腹が減った」と呟いて、注文口の方へ歩き出した。

 

 二人は、注文口でウマ娘としてそれなりの量を頼み、もう一人はその後ろをのこのことついて行った。

 席に着いた時、スカーレットがタキオンに言った。

「すみません、タキオンさん。私のわがまま聞いてもらって。私から気分転換に昼食を食べに行こうって言いだしたのに…」

「いや、構わないよ。私はどちらにしろ、ここでは考える気などなかったから。…それで、うちの不甲斐ないトレーナー君に聞きたいこととは一体どんなことなんだい?」

 タキオンがそう聞くと、スカーレットは言いにくそうにチラと田上の方を見た。田上は、できるだけ怖がらせることのないような声にはして、スカーレットに聞いた。

「スカーレット君の話しやすい順序からでいいよ」

 そう言うと、スカーレットはしばらく間を開けた後、ぽつりと言った。

「トレーナーさんは、タキオンさんと呼び方が同じなんですね」

 これは、田上の予想だにしていない質問だったので驚いた。驚いたから思わず、「え?」と聞き返してしまった。すると、スカーレットがまた同じことを繰り返し言った。田上は、思いもかけない質問に戸惑いながらも答えた。

「…うーんとそうだなぁ。同じだねぇ。もしかしたら、タキオンの呼び方がうつったのかもしれないね。俺は、普段人を君付けで呼んだりしないし、女の子だったら以ての外だからねぇ。…うん」

 田上は、この答え方でよかったのか不安になったが、とりあえずスカーレットがこれ以上そのことについて聞いてくることはなかった。

 それからしばらくして、タキオンの食事の様子を田上が見ていると、スカーレットが言った。

「私は、…まだウマ娘としての本格化(自身の能力が開花すること)を迎えているようではないんですけど、…トレーナーさんから見たらどうですか?」

「俺?……うーん、多分迎えていないんじゃないのかなぁ?ねぇタキオン。感覚…とかがあるんだろ?」

「ああ。落ち着かないような気持になってしまうが、慣れてしまえばそれは生活の一部さ。すぐに良くなる。…そのような感覚があるのかい?」

 すると、スカーレットは顔を思いに悩ませた。

「…ある、と言えばあるような気がするんですけど、ない、と言えばそのような気も…。私が、どのような状態にあるのかが分からなくて…」

「ふむ、それでトレーナー君と話したくなった、と。…それは、うちのトレーナー君じゃなくても、良かったような気もするが、…まあ、どうだろうね?」

 そう言って、タキオンは田上を見た。田上は、少し考えながら言った。

「まあ、俺でなくてもいいけど、俺に聞きたいのであればそれは嬉しいことだよ。…で、自分が本格化を迎えているのかが不安で、何か答えが欲しいんだろ?」

 スカーレットは、黙って頷いた。

「じゃあ、まあ、今のところは心配しなくてもいいんじゃないか?本格化の期間が個人で差があると言っても、三か月とかそこいらで終わるものじゃない。…多分、本格化の時期は思春期とも被っているから、そこのところで多少の違和感が出たりもするんだろうな。…ま、今のところは大丈夫。年明けからの選抜レースで結果を残しさえすれば、トレーナーもついてデビューもできる。なんなら、スカーレット君の担当に俺がなってもいい」

 田上の言葉にタキオンもこぞって賛同した。

「それがいい!有象無象がトレーナー君の傍に来るより、君が来てくれた方が楽だ」

「あれ?トレーナーさんは、まだタキオンさんとの三年間を終えて…?」

「ああ、もうタキオンの扱いにも慣れたから、新しい子とのトレーニングを並行しつつ、残りの一年を頑張ろうかなって思って」

「へ~」とスカーレットは、頷いた。タキオンは、「扱いに慣れた」と言われて少し心外そうだったが、残りのご飯を口にかきこみ始めた。スカーレットの皿には、まだ料理が多く残っていた。それをスカーレットは、ぽつぽつと食べた。お昼の時間はぎりぎりとなった。タキオンは、スカーレット君と自分が同じ環境でトレーニングをできるかもしれないということに活気づいて、田上のことをすっかり許した。それから、二人は談笑しつつスカーレットが食べ終わるのを待った。スカーレットは、終始ぼーっとして心ここにあらずだった。

 お昼が終わり、午後の授業を告げるチャイムが鳴る間際となっても、その様子は変わらなかった。ただ、田上の申し出には、「また後日考えさせていただきます」と告げ、その場を立ち去っていった。

 スカーレットが立ち去った後、タキオンが言った。

「スカーレット君は、本格化を迎えていると思うかい?」

「うーん…、どうだろうな。…選抜レースに出てみれば分かるんじゃないか?確か、選抜レースは年明けからだったよな?」

「ああ、えっと…、確か、一月に一回、三月に一回、五月に一回、で、六月が最後だったな。最初以外私は行っていないけど」

 タキオンが、そう言うと田上はハハハと笑った。

「そういえば、そうだったな。有象無象に邪魔されるのはごめんだよ、って言ってたよ。さっきみたいに」

「だってそうじゃないか」とタキオンは唇を尖らせて言った。

「それはその時話したろ?邪魔なんだよ。私の前に立ってあれこれいう人が。…その点、君は恐ろしくバカだった。御しやすいと思ったよ。…だけど、それに加えて、君の瞳が面白かった。何か、私であって私でないものを見ていた。…あれは何だい?どういうことを考えていたんだい?」

 田上は、そう聞かれて困った。

「別にただ、お前の走りが凄いって思っただけだよ」

 そう答えたが、胸の内で別のことを考えた。それは、――もしかしたら、あの時から俺はタキオンは好きだったのかもしれない、ということだった。だが、これはあんまり納得がいかなかった。だから、その後に、やっぱり別のタイミングだったのかな、と考え直した。

 タキオンは、その田上の様子を不思議そうに見ていたが、やがて言った。

「やっぱり君の家に行ってみよう。私は決めたぞ。絶対に行くんだからな」

 勿論、田上は嫌そうな顔をした。

「あのな、本当にお前が来るとせっかくの休暇がなくなるんだよ。ずっと気を張り詰めていなくちゃならない」

 すると、タキオンは信じられないという顔をした。

「おや!?私といるときはいつも気を張っていたというのかい?」

「いやいや、そういう訳じゃないんだけど…、あるだろ?父親といるときの自分と、仕事場にいるときの自分。それが俺にはあるから、お前が俺の家に来ると、本当に面倒くさいんだよ。調整が大変なの!」

 タキオンは不満そうな顔をした。

「でも、君に俄然興味が湧いたんだよ」

「俺に興味を持ってくれるのは嬉しいけど、家にくるのは別だ。そういうことは他所でやってくれ」

 タキオンの不満そうな顔は続いた。ただ、タキオンは知っていた。タキオンがスカーレットに弱いように、田上もタキオンに弱いことを。なぜかは知らないが、経験則から元づくとこのまま押していけば、いつかは田上も押し切れることを。

 タキオンは、言葉を続けた。

「君も今のところ薬がなくて暇をしているじゃないか。それじゃあ、私のモルモット君としての役割が半減している。君は、私のモルモット君なんだ!私の実験動物なんだよ!私の研究を阻害するというのなら、……いや、これはダメだ。君にはまだまだ役目が残っている」

 タキオンは、何かを言おうとして慌ててやめた。代わりにもっと、田上に詰め寄った。

「とにかく、私は行くと決めたからには絶対に行くと言ったんだからね。君が何を言おうが、知ったことではない!……異論は?」

 タキオンは、知ったことではないと言った割に、自身のトレーナーに意見を求めた。そのタキオンの心ばかりの優しさに田上は少し可笑しく思ったが言った。

「ある!…まだ、俺の父さんがいる。可哀想だ。俺の父さんまで実験動物として巻き込むことになるぞ。これには、断固抗議する」

 こう言うと、タキオンも頭を悩ませた。そして、少し考えた後、言った。

「じゃあ、今から君のお父上に電話をしようじゃないか」

「ダメだ。仕事中の可能性がある。邪魔はできない」

 田上は、即座にこう答えた。すると、タキオンが返した。

「じゃあ、いつ頃に電話できる?」

「夜…九時以降。お前の寮の門限が終わってから」

 田上は、嘘をついた。父は、午後五時には終わる仕事についているので、タキオンは余裕で電話することができた。タキオンは、田上の発言を訝しく思った。その発言に不自然な間があったからだ。

 タキオンは、赤い瞳から放たれる視線をじっと田上に注ぎ込んだ。すると、田上もちょっとたじろいで「な、何だよ」と言った。

「…君、私に嘘をついていないかい?」

 タキオンは、そう言った。田上は、勿論、噓がばれたくなくて「いいや」と答えた。タキオンは、「ふ~ん」とまだ少し疑心に満ちた声で言った。そして、落ち込んだように「そうか…」と呟いた。

 タキオンは、田上の言ったことを信じていた。疑わしくはあったが、ここで「君は嘘をついただろ!」と問いただしても、余計もつれるということは分かっていた。だから、嘘をつかれたらタキオンは引き下がることしかできなかった。少しがっかりした。田上の心意気と自分の予定の狂いに。押し通せばいけるものと思っていたが、そうでもなかったようだ。

 タキオンは、一つため息をついた。それから言った。

「じゃあ、君の父さんには、連絡は取れないんだね?」

 田上は、メールの存在をできるだけタキオンに知らせないようにして話していたのだが、嘘をついた後ろめたさからか思わず言った。

「メールとかで一応できないことはないけど…」

「いや、いいよ。君に嘘をつかれでもしたら困る。君は誠実さが取り柄なんだから」

 そう言うと、タキオンは話を変えた。ちょうど、分かれ道のところだった。

「私は、もう研究室に行くよ。しばらく、また考え事をする。今日の放課後は、…トレーニングには行かない。…いや、もしかしたら行くかもしれない。君は待機していてくれ。私が来ても来なくても居るんだよ。もし、行ったときにいなかったら、君の寮に殴りこみに行く」

 タキオンはそう言って、研究室に続く薄暗い道に歩いて行った。田上は、タキオンの顔を見てどうしようもなくなっていた。少し落ち込んでいるのが見ていられなかった。何より、さっきの「君は誠実さが取り柄なんだから」という言葉が、胸に刺さった。タキオンは、暗い廊下をすたすたと歩いていた。

 田上は、話しかけたかったが、どう話せばいいのか分からずしばらく躊躇った。それから、突然、遮二無二タキオンの背を追いかけ「ごめん!」と叫んだ。

 タキオンは、少し顔に喜びを浮かべ、「何がだい?」と振り返って聞いた。その顔を見ると、田上はやっぱり躊躇いを覚えた。「あの」とか「その」とか言って、最後にはじれったいように頭を掻きむしった。しかし、しっかりと言いたいことを言った。

「ごめん、嘘ついてた。タキオンだったら、俺の父さんと電話できる。確か、今の仕事は五時に終わるから、それ以降だったら電話しても問題ないんだよ。…タキオンが、君は誠実さが取り柄なんだから、とか言うから、どうしようもなくなっただろ!」

 田上は、最後にタキオンに八つ当たりした。すると、タキオンはハハハと笑った。

「やっぱり嘘をついていたか。君の心に揺さぶりをかける言葉も成功したようだ。…それにしても、幾ら嫌だからって嘘をつくのは酷いんじゃないか?」

「いや、むしろ、誠実さが取り柄の人間が嘘をつくくらい嫌なことだって思ってほしいね」

 タキオンは、面白くなさそうに田上を睨んだ。そして、ふぅとため息をつくと言った。

「…どうしてもダメなのかい?」

 タキオンは、悲しそうな顔をしていた。田上には、その顔がダメだった。

 田上は、少し後ずさった。

「嫌なもんは嫌なんだよ。お前だって、俺が家に来たら落ち着かないだろ?」

「いや、私はトレーナー君くらいだったらどうってことはないよ。さすがに赤の他人だったら嫌だけど…。まさか!トレーナー君は私のことを赤の他人だと!?」

「そういう良心に訴えかけるようなことはしないでくれ。今の嘘で俺は疲れたんだよ」

 タキオンは、ふふっと笑った。

「でも、本当の本当にダメなのかい。私が、何と言ってもこうと言っても、君は動いちゃくれないのかい?」

 田上は、眉をひそめた。田上の心に何だか知らない別の心が芽生え始めた。その心はこう言っていた。――別にタキオンだろ?いいじゃないか。やっぱり父さんの配慮はした方がいいけど、お前はいいんじゃないか?好きなんだろ?急接近できるチャンスだろ?

 そうは言っても、田上は迷った。タキオンのことは好きだったが、家について来させるとなるとどうにも受け入れがたい。しばらくの間、田上はむっつりと悩みこんでしまった。それから、静かに言った。

「…いい」

 自分の中の何かを抑え込んでいるかのような言い方だった。田上は、この言葉を言うのにどれだけ苦労したのか計り知れないが、とにかく言うことは言った。

「俺の家に来てもいい。…だけど、まずは父さんに電話からだ。それをしないことにはこの話はまとまらない」

 タキオンは、嬉しそうに口角を上げた。

「やっぱり君はそう言うと思ったよ。……本当にいいんだね?」

 田上は、コクリと頷いた。

「じゃあ、今日のトレーニングは絶対に行くよ。それで、トレーニングが終わったら、君の父さんに電話をしよう。私が、君のスマホから話そう。話はそれからだね」

 タキオンがそう言うと、田上はまた頷いた。そして、二人は別々の道を取った。片方は、研究室へ。もう片方はトレーナー室へ。二人とも良く見慣れた廊下を歩いた。人は、誰一人いなかった。整然としていて、田上には少し不気味に見えたとも言えよう。しかし、タキオンには足取り軽く、アイディアの浮かんできそうな廊下だった。

 二人は、部屋のドアを開いた。田上は、少し考えに苛まれていたが、それも仕事をしていけば次第に薄れた。タキオンは、相変わらず元気そうで、昼食を食べる前にここに訪れた時とは打って変わって、試験管に入れてある薬品を見つめてはニヤリと頷いて、ノートに色々なことを書き込み始めた。

 それは、三時十五分の午後の授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いていた。

 


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