ケロイド   作:石花漱一

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十六、ホワイトデー①

十六、ホワイトデー

 

 母の田上美花の命日から四日後、タキオンには少し期待していたことがあった。だが、それはどうにも難しそうだという事がその胸中でもあった。その内容とは、勿論、三月十四日のホワイトデーの事だった。バレンタインデーのお返しを貰えるかどうかだった。別に、貰えないことで悲しくなるということはないのだが、あればタキオンにはそれが嬉しかった。去年のバレンタインデーのお返しはタキオンは貰っていなかった。これは、渡した時の雰囲気が実験なのかバレンタインデーだったのか曖昧だったからかもしれない。しかし、今年こそは正面切って渡してやったのだ。口に運ばせてもやった。それならば、いくらトレーナー君でも返してくれるのが筋だろう、というのがタキオンの考えだった。ただ、それにはやはり問題があって、これがタキオンの期待を少量の物にさせていた。それは、田上があまりにもイベント事に疎いと言う事だった。疎いという事であれば、それを忘れている可能性があるという事。それに、最近は大阪杯のトレーニングで忙しい。普通の人でも忘れているのは無理がないかもしれなかった。ただ、見たところ、大阪杯で一緒に走る予定のウマ娘の子は、手に小包を持っていて、それがなんだか羨ましかった。

 タキオンは、二時間目の休み時間と三時間目の休み時間に田上の下を訪ねた。幾つか話をしたが、ホワイトデーの話題は全く出てこなかった。それで、タキオンが半分諦めて、四時間目が終わり、次は昼食を一緒に食べるためにトレーナー室に誘いに行ったところ、一緒に居たマテリアルが田上に聞いていた。丁度、カフェテリアに行く渡り廊下に差し掛かったところだった。

「あれ?そう言えば、田上トレーナー」

「ん?」

「トレーナーって、バレンタインのお返しはどうしました?」

 マテリアルがそう言うと、田上は少し固まって、マテリアルの顔を見つめた。そして、マテリアルを挟んだ向かい側に居るタキオンをチラッと見た。

「…あれ…って、絶対に返さないといけないんだったっけ?」

「絶対ですよ!女の子の誠意を無下にするつもりですか?」

「……いや、少なくとも、マテリアルさんの物は誠意じゃなかった。あんなもん勝手に買ってきて渡してくるとか、誠意なんかじゃないだろ」

 田上が、そう決めつけるように言うと、マテリアルも対抗するために強く返した。

「誠意ですよ!これからよろしくお願いしますね、っていう誠意ですよ」

「もし、その気持ちであんな不味いもんを買ってきたんだったら、喧嘩を売っているとしか思えないね。今から戦いの鐘が鳴る気しかしない」

 田上のこの言葉にタキオンが、ふっと笑った。マテリアルは、それを少し見た後に、田上に言った。

「別に私のはいいですが、少なくとも、タキオンさんには買ってきてやるべきじゃなかったんですか?彼女のは、誠意ですよ」

 それを言われると、田上も困ってしまったが、そうするとタキオンが横から口を挟んだ。

「私のは、別に構わないさ。バレンタインが、誠意の押し売り販売日というのなら、トレーナー君は返さなくちゃならないが、私はそんな事を望んでしたんじゃない。ただ、トレーナー君に喜んでほしかっただけさ」

 その言葉に田上は、もっと困ってしまった。それに追い打ちをかけるように、マテリアルもニヤニヤしながら、「だそうですよ」と言った。田上は、暫く変に唇と眉を歪ませた顔で悩んでいたが、やがて、三人で昼食を食べているときに言った。

「……じゃあ、正月の時にタキオンがクレープを食べたがっていたから、それでそうだ?」

 田上が突然口を開いたから、タキオンは聞き取れずに「え?」と聞き返し、田上に同じことを二回言わせた。すると、「ああ」と頷いて言った。

「そうだね。それがいい。一番のお返しだよ。ありがとう」

 タキオンは、嬉しそうににこりと笑った後、ウマ耳をピクリと動かした。そう言われると、田上はなんだか恥ずかしくなって、逃げ場を求めるようにマテリアルにも話しかけた。

「マテリアルさんも来ます?僕が奢りますよ?」

 途端にマテリアルが、目を丸くさせてタキオンを見た。タキオンも少し、「ん?」と疑問に思っているような顔だった。マテリアルは、その様子を確認すると慌てて言った。

「私は、クレープは食べませんよ。お二人で行った方がよろしいんじゃないでしょうか?私なんて、居たって邪魔なだけです」

「…そんな事は、ないと思うけど…、ねぇ?タキオン。別に、マテリアルさんが居たって構わないだろ?」

 タキオンは、困ったように眉を寄せながら、半分頷きかけた。しかし、それを途中で止めると、田上にこう言った。

「やっぱり私は、君とがいい。マテリアル君が来たくないのなら、それでいいだろ?なんでそこで引き留める必要があるんだ」

「ま、まぁ、そうか…。…本当にクレープはいいんですか?」

 田上は、少し考えた後、そう言った。

「はい。私は、後日適当に行っておきます。たまには、二人もいいんじゃないでしょうか?特に、最近は私が居て、二人になれる機会もなかったでしょうから、この機会に、菊花賞の頃を思い出して熱意を高めてみては?」

 マテリアルの論は、少し強引とも思えたが、田上は、タキオンがそれでいいというのなら、自分も同意した。ただ、少し不安だったから、もう一度マテリアルの方を問うように見た。すると、マテリアルは、「どうぞ、頑張ってください」と言うように真剣な顔でコクリと頷いた。そうされると、田上もなんだか自信のようなものが湧いてきたような気がしたが、さらに再びタキオンの顔を見つめれば、それも心許ない物のような気がした。タキオンは、田上の気持ちには気が付かなかったが、マテリアルが自分を応援してくれているのだろうという事に気が付くと、少し嬉しくなった。それで、ご飯を一口食べた。

 

 クレープをお店に食べに行くのは、次の日曜という事になった。今が、十四日の木曜だから、次の日曜は十七日だ。タキオンが、それが楽しみで楽しみで、デジタルに少し自慢をするために言ったりもした。すると、デジタルの反応が素晴らしいもので、「ひょえ!」と声を上げるとタキオンを拝み始めた。タキオンは、それでもっと嬉しくなって、カフェにもこの事を告げた。だが、カフェの反応は今一で、「あなた、その店で告白をすればいいのに…」と嫌味を言われた。当然、タキオンにはまだ告白をするつもりがなかったから、これは分が悪いと思うと、カフェの下からそそくさと離れた。

 もう二人の友達、アルトとハナミには何も言わなかった。少しだけ、自慢してみてもいいのかな?と思いもしたが、これで本格的にからかわれてしまっては元も子もないので、その気持ちが少し動く度にしっかりと抑えて、二人の前では平静に努めた。そのため、アルトもハナミも何も気付かずに、金曜日を終え、土曜日を終え、日曜を迎えた。その前に少しだけ話すことがあった。

 田上からタキオンが借りていた本の事だ。それは、土曜の朝にタキオンと田上が親しげにに話をしていた時だった。本棚を見ていた田上が不図気がついて言った。それは、本と本の間にあるはずの本がなく、空間ができていたから気が付いた事だった。

「タキオン、お前、あの本は読み終わったのか?」

「本?」とタキオンが聞き返した。どうやら、本を借りていたことはすっかり忘れていたようだった。だから、田上は少しだけ自分の認識が定かであるのか不安になった。そうなりつつも、タキオンに言った。

「お前、……確か、二月の初めくらいに本をここから取っていっただろ?あの本は読み終わったのか?」

 その言葉で、タキオンはようやく思い出したようだった。少し大きな「ああ」という声を上げると、言った。

「読み終わったよ。読み終わった。あれは、面白かった。特にあそこがよかったよね。…あの屋敷のメイドが、主人の為に自分の命を捨てて、敵を切り刻むところ。隻眼で剣の扱いが上手いメイドなんて聞いた事がないけど、あれは、…良いね。トレーナー君もあの本が好きなんだろ?あれで、どんなシーンが好きだったんだい?」

「『閉じられた物語』の中でどんなシーンが好きかって?…う~ん、…。…う~ん、……そうだなぁ。少し曖昧だけど、あの主人公のサムが竜の背に飛び乗るところがあっただろ?」

「ふむ。…あったね。そこが好きなのかい?」

「いや、そこで竜を殺した後に、その竜の最後の一吹きで腕を火傷するシーン。そして、竜の死骸が見る見る変貌を遂げて、闇の王に成ろうとするところ」

「そこで、古の王と仲間たちが助けに来たね」とタキオンが口を挟んだ。

「そう。その一連の流れが好きだね。中々に闇が深いけど、それでも希望を見失わずに前に進もうとするのが、あの作者らしくて良い」

「私もそう思うよ。思いがけず、いい話を読んだよ。あの本は、明日、君と会う時に返そう。私が君の寮まで訪ねるから、君は部屋で待っていたまえ」

「え、でも、俺に直接渡さなくても、お前がこの部屋に持って来てくれた方が俺には楽なんだが…」

「いや、忘れてしまうと困るから、君の部屋まで持っていくよ。君は待っていたまえ」

 タキオンは、「どんな言葉も受け付けませんよ」といった口調で田上に言ったから、田上は仕方なく「まぁ、それでいいです」と答えた。すると、タキオンは満足げに笑ってから言った。

「見た所、君、本も結構読んでいるようだから、何か私にお勧めできる面白い本などはあるかい?私も、賞を取ったものはたまに読んだりはしているが、どうもそういう物語のような本には疎くてね」

「面白い物…?…う~ん、……俺がお勧めするのであれば、最近読みたいな~って思っている『人斬り』?」

「お、待ってくれ。それ、どこかで聞いた事があるような気がするぞ」

「ああ、」

「待ってくれ!あと少しで思い出せそうなんだ!…えっと、何だったかな?…確か、確か、何かの教科書で見たような気がする。ああ!こんな時に度忘れするなんて!…なんだったかな…」

 そう思い出そうと悶絶しているタキオンを見ながら、田上はニコニコしていた。それで、タキオンが幾ら待っても思い出せなさそうだったから言った。

「俺が正解を言おうか?」

「……うむ、さすがにここまで来たら降参だ。ぜひ、答えを言ってくれたまえ」

「正解は、明治から大正にかけてに活躍した文豪の高松信夫(たかまつのぶお)でした」

「ああ~!それだそれだ!なんで思い出せなかったんだろう!代表作はあれだね。『人斬り』に『飛行機』、それに『パリ旅行記』、『嫁』、『礎』、『沢下り』。いや~、何で思い出せなかったんだろう。…それで、『人斬り』だね?…私は、信夫作品は『パリ旅行記』と『飛行機』しか読んだことはなかったんだ。『人斬り』ね…。確か、信夫作品の中では一番人気があるものだよね?」

「ああ、そうだね。勿論、全部素晴らしいっちゃ素晴らしいんだけど、人斬りが一番大衆受けしたんだろう。そして、一番暗い世界観でもあるしな。どこか、合致したんだろうけど、俺も人斬りが一番好きだね」

「それは、どうしてなんだい?」

「あんまり言うとネタばらしになってしまうから言えないんだけど、人斬りと一人称での語りがとても面白いから、読めるならぜひ読んでほしい」

 田上は、熱意高々にそう語った。

「なら、それはどこにあるんだい?その本棚の中にあるのかい?」

 田上が、一向にその本を棚から取り出そうとしないから、疑問に思ってタキオンがそう聞いた。すると、田上が返した。

「残念ながら、人斬りはこの本棚にはないんだな。図書室にあるのは確認したから、そこで借りてくれば?」

 田上がそう言うと、タキオンが「えー」と面倒臭そうに声を上げた。

「君、この部屋に信夫作品ぐらい全部置いておきたまえよ」

「一つは置いてるよ」

「…なんだい?」

「沢下り」

 タキオンは、田上の言葉に大きなため息で返した。それから、独り言のように呟いた。

「図書室……借りに行ってみるかなぁ…」

「行ってみれば?」

 田上が、タキオンの独り言に口を挟んできたので、タキオンは「うるさい」と一喝した。それから、土曜のトレーニングの時間となった。タキオンは、とりあえず、後日、図書室に行っていることに決め、トレーニングに臨んだ。調子は、順調だった。足取りは軽く、気分も良好。タイムも自分の記録に限界まで近づくことができた。しかし、超える事はできなかった。それが、タキオンに悪い気持ちをもたらしたのかと言えばそうではなく、今日は、いい記録が出せたという前向きな気持ちでトレーニングも終われた。タキオンは、今や今日のトレーニングの疲れさえ吹き飛ぶくらいの楽しみに体を震わせて明日を待ち焦がれていた。よく、明日が楽しみだと眠れないというのを聞いた事があるが、今日のタキオンはむしろ早く眠ることができた。トレーニングの疲れは、良い塩梅にタキオンを眠りにつかせたのだ。そのせいかタキオンは早く起きることができたので、何だか得をしたような気分になった。田上との約束の時間はまではまだまだあったが、そんな事はどうでもよくなった。寮の扉が開く時間になると、一目散にタキオンは駆け出して田上の部屋へと目指した。勿論、片手に赤い表紙の本も持っていた。

 

 田上は、タキオンとの約束を半分忘れたまま、眠りについた。これは、田上らしからぬ事だったが、その日だけはたまたま明日の予定のカレンダーを見ていなかったのだ。田上の疲れた脳みその中にあったのは、早く寝る事だけで、布団に入れば瞬く間に眠りについてしまった。

 朝起きたのは、どこかで扉をノックしている音が聞こえたからだった。最初は、夢か何かかとも思って、放置していたのだが、それが段々と大きくなってくると、不意にタキオンとの約束の事が頭の中に映し出され、飛び起きた。扉を叩いている人は、タキオンだろうということが分かっていたから、田上は寝過ごしてしまったと勘違いして、時計も見ずに慌てて謝るために扉の方に駆けよった。そして、開口一番「ごめん!」というと、不思議そうな顔をしたタキオンが見上げて「何を言っているんだい?」と言ってきた。

 タキオンも最初、田上が何で謝ったのかが理解できなかったが、それ以上に、状況を理解できていない田上の顔を見つめていると、徐々に状況が理解でき始めた。だから、田上をからかうようにこう言った。

「ははあ、分かったぞ。君、私が来たというのに眠っていたから、寝過ごしたと思ってびっくりしたんだ。…それにしても、もう寮が開く時間で私との約束がある日なんだから起きてても良さそうなものだったけどな。もう少し後に起きるつもりだったのかい?」

 タキオンがそう聞くと、田上も状況が理解できたようだ。その途端に顔を赤くさせて、タキオンに白状した。

「…実は、すっかり忘れていたんだよ。…タキオンとの約束を」

「えー!君、自分からクレープ屋に連れて行くとか何とか言っておきながら、忘れてたって!?そりゃないよ、トレーナー君!」

「俺だって忘れたくて忘れたんじゃなくて、昨日はたまたまカレンダーを見るのを忘れてたんだよ」

「私は、カレンダーなんて見ずとも覚えていたけどね」

 タキオンが責めるように言うと、田上も困ったように頭を掻いた。

「それは、本当にごめんなさい。…けど、タキオンが朝早く来たおかげで約束の時間には間に合えたんだから、結果良ければ全ていいだろ?機嫌を直してくれなきゃ、俺もやってられないよ」

「私は最初から怒ってなんかいないし、怒っていたとしても、君と出掛けることができさえすれば、機嫌なんてすぐに直る。…でも、少し虫の居所が悪いから、君の部屋に上がらせてもらおう。そうすれば、虫もちょっとは落ち着くだろう」

 タキオンがそう言って、田上に部屋に入っていいか聞こうともせずに、その脇を通って無理矢理入ろうとしてきたから、田上がタキオンの肩を掴んで、なんとか押し止めた。今日のタキオンの服装は、肩の露出した袖が親指の付け根まで長い紫色の服だった。これは、前に購入したサイズの大きい物から調整した、新しく買った服だった。タキオンにしては珍しく、あのサイズの大きいものが中々に気に入ったので、サイズも調整して袖の長さも長いくらいの物を買ったのだ。田上には、これが中々にやりにくく、押し止めるときもできるだけ手が触れる肩の面積が少ないようにして押し止めた。それにタキオンが気が付いたのだろうか?一度押し止められはしたものの、ニヤリと笑うと田上の手に自分の肩を押し付けるようにして、再び田上の部屋を目指した。今度は、田上にも押し止める事はできずに、これはダメそうだと思うと、すぐに手を肩から放してタキオンに言った。

「俺の部屋に入ったってしょうがないだろ?お前が、引っ越しを手伝って入れてくれた時から何も変わってないよ」

 だが、タキオンは人の話も聞かずに、人のベッドに寝ると言った。

「ご自由に準備してくれて構わないよ。…何、少しの間だけさ。別に約束の時間と言わず、準備ができたら行ってもいいだろう?」

「行ってもいいけど、クレープ屋が開くのはまだ先だぞ」

「構わない」

 タキオンは、そう言うと、手に持っていた『閉じられた物語』を開くと、仰向けに寝転がりながら読み始めた。

 

 田上は、洗面台の方で、顔を洗って髭を剃って服を着替えた。その間に、タキオンは一度洗面台の方を訪れた。丁度、田上が髭を剃っていた時だった。

「君、髭以外のムダ毛はどうしているんだい?見た所、すね毛は剃っていないのを確認したことがあるが」

「髭以外は何もしてないよ。…あっち行っててくれ」

 迷惑そうに田上に言われると、タキオンもぺろりと舌を出して「すまないね」と言うと、素直にまたベッドの方に戻っていった。タキオンが、一度来てしまうと、二度目も来てしまうのではないかと思って、田上はやりにくかった。しかし、結局は来なかったので、朝の気分としては今一と言えるくらいに釈然としなかった。

 タキオンは、『閉じられた物語』を読み返していると、気になったことがあったので、着替え終わって出てきた田上に聞いた。

「トレーナー君、…この主人公のサムは、閉じられた物語をまた開くために冒険の旅に出るんだよね?…それで、竜を殺すんだよね?そして、この竜を殺せば、闇の王が新たに出てくるわけだが、…すると、竜の中に居た闇の王ってものは一体何なんだい?古の王たちは、その存在を知っていたようだから、昔にも居たんだろうけど」

「それは、…俺にも分からないけど、闇の王ってのは実は概念的な物なんじゃないか?っていうのが、俺が読んだことのある考察だね。――どんな人の中にも闇の王が潜んでいる。…確か、そんな言葉が作中にあっただろ?」

「あー!あったあった。確かにあったよ。…それだね。ふむふむ、そうすると、私も読解力がまだまだ足りないね。…さあ、もう行こうか。君の本はベッドの上に置いておくよ。貸してくれてありがとうね」

 タキオンはそう言って立ち上がり、赤い表紙の本をぽんとベッドの上に置いた。それを見ると、田上が「ベッドの上に置かれてもなぁ…」と苦言を呈したが、タキオンが反論するために口を開こうとすると「やっぱりなんでもないです」と言って、その開いた口を閉じさせた。それから、二人は廊下に出て行った。田上は、Kの文字が付いた黒い帽子を被っていこうとしたのだが、それはタキオンに外された。タキオンによると「どこかに移動するならその帽子はいいが、二人でクレープ屋さんに出掛けるというのにその帽子はどうなのか?」という事だった。田上としては、帽子があった方が頭が落ち着いて良かったのだが、タキオンにそう言われると、仕方なしというより半ば強制的にその帽子を部屋に置いてこさせられた。タキオンは、それで満足だったようで、にこりと笑うと自然と田上と腕を組んで歩きだそうとした。だが、田上にとってはまだ誰かの目が光っているであろう学校の中だったし、何をするのか分かったものではない女子高生と腕を組みたくなかったから慌てて振り解いた。その訳を説明すると、タキオンも一応は納得して、自分の行いを悔いてくれた。だが、表情が少し曇ってしまった。それに、田上はしっかりと気が付いてはいたが、――どうせ歩いて行けばそのうち機嫌は回復するだろう。また、回復するくらいの落ち込みようだろう、と思って、何も言わなかった。暫くは、タキオンも田上と手を繋ぎたそうにその手に少し触れていた。それが少しくすぐったくもあって、一度、タキオンの方を無言で睨むように見れば、タキオンも止めてくれた。そして、二人は電車で二駅乗り、大きなショッピングモールへと到着した。


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