ケロイド   作:石花漱一

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十七、二回目の選抜レース①

十七、二回目の選抜レース

 

 大阪杯の前の週まで来た。ここに来ると、選抜レースの日もやってきた。今回の選抜レースも日曜日に開催だった。そこに田上は、トレーニングの休暇日を置くと、「今回こそは!」と意気込んでスカウトをするためにレース場に向かった。タキオンは、今回はついて来ず、田上はマテリアルと二人で行った。タキオンは、土曜の時にその話を聞かされて、行くか行かないか迷っているような素振りを見せたから、「迷っているくらいなら、体の疲れを取るために休め」と田上が助言した。そして、タキオンはその助言通り、今日は、部屋にある本を読んで暇を過ごした。そこで丁度、信夫作品の『人斬り』の事を思い出したが、残念ながらトレセン学園の図書室は日曜は閉まっていて、今更思い出しても借りることはできなかった。――まぁ、大阪杯が終わるまでは、ゆっくりもできないだろう。タキオンはそう思うと、デジタルと軽く話しながら、本をぺらぺらと捲った。

 だが、一度、少し外が気になって、様子を見ようと靴を履いて出た。賑わいはいつもより激しかったが、一回目の時よりかは落ち着いていたような気がした。いくらかのウマ娘が、スカウトされたからなのだろうか?詳しい事はタキオンには分からなかったが、外のひんやりとした空気を吸ってみれば、美味い事は分かった。

 田上の下に行ってみようかと思った。別に一日中いる事はないが、田上と話をするためにレース場に行ってみるのもいいかと思った。ただ、たくさんのトレーナーの中から田上を探すのが面倒臭そうなので、部屋に戻って連絡するためにスマホを取りに行った。それから、レース場に向かいながらタキオンは、田上にスマホで電話をした。

 タキオンは、田上が電話に出てくるのを少し待った後、出てきた田上に言った。

「君、どこにいるんだい?探すの面倒臭いから場所を言っておくれよ。そこに向かうから」

 すると、電話の向こうからいつも通りの低い声で『客席の右前の方。レース終わったら、終わった子にスカウトしに行くかもしれないから、違う場所にいるかも』と返ってきた。それにタキオンは少し笑った後、こう言った。

「なら、とりあえず、そこに行ってみるよ。もう出走するのかい?」

 すると、『イエス』と聞こえた後にぷっつりと電話が切れた。どうやら、田上はレースを見たいらしいということが分かって、タキオンは少しむっとしながらも口角を上げた。

 タキオンは、草木を見ながらぼちぼちに歩いた。レース場からどよどよと大勢の声が聞こえたが、そんな事はお構いなしに、立ち止まっては花を撫でて朝露を落とし、上を見上げては鳴いている鳥を眺めた。少しの寒さが、タキオンの体を心地よい緊張で満たし、少し足を速めた。声は段々と大きくなって、ざわざわと聞き分けられるものが増えてきた。そうすると、タキオンも田上の事を探し始めた。

 

 田上の姿はすぐに見つかった。綺麗な金髪と共にレースを眺めていた。どうにも難しい顔をしているようだった。

「調子はどうだい?」

 そう声をかけながらタキオンは近づいたが、田上はあんまり芳しくない調子で「んん…」と唸った。だから、タキオンは「悪いのかい?」と聞くと、また「んん…」と返ってきた。レースが終わった後のようだった。大勢のトレーナーが、コース脇の芝に集まって、各々、気に入ったウマ娘をスカウトしようとしていて、幾つかの群れが出ていた。残念ながら、その群れに加われていないウマ娘も幾つか居た。レースに負けた子達だろう。遠くの方に小さく見えた。

 タキオンがそれを無心になって見ていると、唐突に田上が口を開いて独り言のように言った。

「あの黒い髪の子は…、どうなんだろう?」

 タキオンが聞くより早く、マテリアルが「どの子ですか?」と聞いた。さすがに、タキオンより熱心なだけはあった。

「…ほら、あの子だよ。髪が長くて、人混みから外れてる子」

「…んん?確かあの子、七着でレース中もずっと仕掛けようとしなくて、そのまま垂れていった子ですよね?」

 マテリアルが言うと、田上が予想外に驚いた顔をして、言った。

「お前、…よく見てるなぁ…。他の子も全部そうやって見ているのか?」

「ええ、そうですよ。あのオレンジの髪の子は、十一着で最後のカーブに差し掛かったところで前を塞がれて、そのまま抜け出し切れませんでした。あの黒髪の短髪の子は、カーブでは上から三番目のところ居ましたが、スタミナが切れたのかそのままバ群に飲まれていきました。中距離は難しかったというところでしょうか?…それで、あの長い黒髪の子が気になるんですか?」

「…いや、なんで仕掛けなかったんだろうな、って思って。少し話を聞いてみたいんだけど…」

 田上がここで言葉を終わらせたから、タキオンが口を挟んだ。

「話を聞いてみたいんだけど…?なんだい?聞きたいなら、聞きに行けばいいじゃないか。早くしないと、あの子どんどん向こうの方に行って帰ろうとしてるよ。ほら、少し期待しているように振り向いた。今がチャンスだよ。早く行きたまえよ」

「…でも、…恥ずかしいじゃん」

「恥ずかしい!!?」

 タキオンは驚いた後に、すぐさま笑い出した。

「君、恥ずかしいからって理由でトレーナーが務まるかい?それなら、私の時はどうだったんだ。私の時は恥ずかしくなかったとでも言うのかい?」

「お前の時は、退学しそうで少し心配だったのもあるし、お前の走りが凄かったのもあるんだよ。…ただ、今回は、話を聞きに行くだけで、スカウトはどうもこうもやるかやらないかは相手の返答次第なんだよ。それで、こっちの方から話しかけて、やっぱりいいやって断ってみろ。絶対に恨まれるじゃないか」

「見ず知らずの赤の他人に嫌われたって別に問題ないだろ。それよりも君が、恥ずかしがって話しかけに行けない事に問題がある。…どうする?私が引率者として一緒に話しかけに行ってあげようか?」

 田上には、明らかにタキオンが自分の事を焚き付けようとしているのが分かったが、自分にとっても焚き付けてもらった方が都合が良いので、しかめっ面をした後こう反論した。

「お前が引率者になるって言うんなら、俺はこの学校の理事長にでもなってやるよ。…仕方がないから行ってくる。ちょっと話しかけるだけだからな」

 田上は、観客席を駆け下りて行って、暫くの間建物の陰に隠れて見えなくなった。その影を追うように田上が消えた曲がり角をタキオンが見つめていると、マテリアルが聞いてきた。

「お二人の馴れ初めってどういう物だったんですか?状況として」

「馴れ初め?…んん、…まぁ、…生徒会長のご慧眼があってね。私が、適当なモルモットもいないしここを退学して別の所で活躍の場を広げようと思っていたら、生徒会長が彼を連れてきたんだ。そして、会長の思い通り、まんまとくっつけられたというわけさ。…見破る人ってのは居るもんだね。しっかりと私好みの男を捉まえてきたよ」

 タキオンがそう言うと、マテリアルがニヤリとからかうように笑った。きっと「私好み」と言ったのが不味かったのだろう。タキオンとしては、そんなつもりで言ったのではなかったのだが、マテリアルと来たら、そういう話が大好きな女だった。だから、弁明するようにタキオンは言った。

「その時はモルモットとして、だからね。モルモット。これを忘れて貰っちゃ困るよ」

「そして、今はぞっこんですね」

 これは、言い過ぎたのだろう。眉を寄せたタキオンに無言でこめかみを強めに小突かれた。「痛い」とマテリアルは声を上げたが、その声は嬉しそうな物だった。

 やがて、遠くの方に走っていく田上が見えた。ただ、長い黒髪のウマ娘の方は、とっくに先の方に行ってしまっていたので、それは長くかかった。途中で一度、やっぱりいいかと言うかの様に田上が振り返るのが見えた。そして、次にタキオンたちの方を見たように思えた。すると、田上はまた走り出した。遠くから見ると、中々無様な走り方だった。それを見ていると、タキオンがこう提案した。

「ねぇ、私たちも行ってみようよ。どんな話をするのか興味があるし」

「興味……そうですね。私も、もしあそこで話すと言っておきながら勝手にスカウトしてきたら、後学になりませんもん」

 そうすると、二人も観客席を降りて行って、田上の後を早足で追った。途中で、タキオンが競争するように走り出したから、マテリアルは持っていたメモ用紙が吹き飛ばされないようにしながら、それを追いかけなければいけなかった。

 

 田上の方に近づいて行くと、話はまだ始まったばかりだった。タキオンたちが来るまでに少しの押し問答があって、田上が無理矢理ねじ込むようにその話をしたのだろう。黒髪の女の子の声は、低く不機嫌そうだった。

 田上がこう言っているのが聞こえた。

「ほんの少しでも話してくれたら嬉しいんだけど、本当に何であそこで仕掛けなかったんだ?タイミングはいつでもあっただろ?十分出られたはずだ」

「…うるさいですね。スカウトする気もないのに、どこぞの馬の骨とも分からないトレーナーに訳を話したって何にもならないじゃないですか」

 そう言われると、田上は暫く黙って、ごまかすようにキョロキョロと辺りを見回した。それで、近寄ってくるタキオンを見つけて、「丁度よかった」と声をかけた。

「ほら、俺、アグネスタキオンのトレーナーだよ。な、タキオン。そうだろ?」

「…え?そうだけど…急に何だい?」

 タキオンが、訳も分からないまま田上に返事を求められたので、戸惑ってそう言った。すると、黒髪の子がタキオンに言った。

「本当にトレーナー何ですか?こんな冴えない人が?」

「冴えないとは何だい。これでも私のトレーナーだぞ。あんまり貶してもらっちゃ困る」

 この言い方もどうかと思えたが、一応タキオンは田上の為に怒った。それで、黒髪の子も田上の事をアグネスタキオンのトレーナーだと言う事を認めた様だった。しかし、田上に対してというよりも大先輩のGⅠウマ娘に怒られて委縮し、反省しているようだった。

「すいません」と小さく謝った。そして、その後に気を取り直すように聞いた。

「では、タキオンさんは、このトレーナーの事をどう評価しているんですか?」

「どう…?…まず、このトレーナー、という呼び方を止めていただきたいね。君は、形なりとも敬意を示せない無礼者なのかい?先程、私のトレーナーだと言ったはずだ。それなのに君は、呼び方を改善せずにトレーナー君に謝ろうともしない。選ぶ権利は勿論君にもあるが、こちらにもあるわけだからね。君が世界の王様じゃないんだ」

 途中で田上も見かねて「もういいから」と止めに入ろうとしたが、タキオンはそれを遮ってもその子に説教をした。その子は、タキオンにそう言われると、いよいよ委縮して、田上に「ごめんなさい」と謝った。田上は、「別にいいんだよ」と言ったが、どうにもこのピりついた雰囲気は破れずに困ってしまった。それで、田上はタキオンに言った。

「俺も少し強引な話しかけ方をしてしまったんだよ。それでこの子が、どこの馬の骨とも知らないトレーナーに警戒しただけなんだよ」

「それでも、形だけでも敬意は示すべきだった」

 タキオンが睨むと、黒髪の子はまた委縮して「ごめんなさい」と謝った。田上は言った。

「もう謝ってるし、この子は今年入ってくる子なんだから、優しくしてあげて。まだ、小学六年生なんだから」

「嫌だね。私は前にも言ったはずだ。無礼な餓鬼は嫌いだと。それで…」

 ここでもう田上はタキオン言葉を遮って、黒髪の『ファーストリリック』と呼ばれる子に言った。

「ごめんね、このお姉さんちょっと気性が荒いから、あんまり人と話すのには向いていないんだ」

「人と話すのに向いていないとは何だい!」とタキオンが今度は田上に向かって怒ったが、田上はそれを無視して話を続けた。

「僕のただの疑問だったから、答えたくないんだったらもういいんです。ご迷惑おかけしてすいませんでした。…本当にごめんなさい。少し強引過ぎました」

 田上はそう言って、頭を下げてタキオンに「ほら、行くぞ」と言うと、また観客席に戻っていこうとした。リリックは、その後ろ姿をぼーっと突っ立って見ていた。憧れの先輩の後ろ姿があったが、それは気付かぬうちに去って行こうとしていた。

 それを見ていると、なんだか胸に込み上げてくるものがあって、リリックはどうしようもなくなった。どうすればいいのか分からないので、ただおろおろとして、手をもがく様に動かした。午前のターフの上に風が吹いた。すると、マテリアルのメモ用紙が一つだけ風に吹かれてリリックの前の芝生に舞い降りてきた。マテリアルは気が付いていないようだった。メモ用紙はまだ風に吹かれてどこかに飛び去ろうとしている。この時を逃せば、あの三人に話しかける機会はもうないだろう。そう思うと、リリックは地面にあるメモ用紙を掴み取って、三人の後ろまで駆けて行った。

 最初は、タキオンの方に話しかけてメモ用紙を渡そうと思ったが、それは、あまりに頓珍漢なことだと思い直すと、美しい金髪が風に吹かれて輝いているマテリアルの方に声をかけた。トントンとマテリアルの肩を叩いた。すると、その黒い目が振り向いた。

「なんですか?」

 マテリアルがそう聞くと、リリックが言った。

「あの……紙を落としましたよ」

 そう言って紙を差し出すと、マテリアルが飛び切りの笑顔で「ありがとうございます」と返してきたから、リリックは暫くの間見惚れてしまった。そのうちに田上とタキオンはリリックには気づかず、少しの口論をしながら先の方に行っていたので、マテリアルもそれに追いつこうと、「では」と話を切り上げて先に行こうとした。そうすると、リリックは我に返って慌てて言った。

「あの…!…あの…、田上?トレーナーとお話しできる機会ってありますか?今は忙しいでしょうか?」

 マテリアルは不思議そうにリリックの顔を見、そして、歩いている田上の背中を見た。それから、またリリックの方を見返すと言った。

「伺ってみましょうか?」

 リリックは、嬉しそうに頷いた。マテリアルは、その顔ににっこりと笑い返してから、田上の方に走っていった。遠くでマテリアルが笑顔で田上に何か言っているのを見るともなく見つめた。すると、田上がこちらを見てきたので、うしろめたさから慌てて目を逸らした。目を逸らした方には人がたくさんいた。まだ、一着だった子にはたくさんのトレーナーが積極的に話してくれていたようだ。それを見るのは、なんだか嫉妬心が湧いて嫌だったから、リリックは仕方なくまた田上の方を向いた。田上は、もうこちら側に歩いてきていた。それだから、リリックの心臓は悪い方に高鳴った。横には、タキオンも居た。タキオンと目が合うと、まだ少し機嫌が悪いように感じられたので、リリックは少々落ち込んだ。だが、先に駆け寄ってきたマテリアルに話しかけられるとまた元気が出た。

「リリックさん、田上トレーナーは、今からでも話して良いそうですよ」

「そ、そうなんですね」

 マテリアルが、あんまりにも綺麗で返事の返し方が分からなかったが、今はそんな事を気にするよりも目の前の田上の事を気にしなければならなかった。

「何か用でも?」と白々しくも田上が聞いてきたので、リリックの心には何だか知らない敵意が湧いた。しかし、先程の去って行く後ろ姿を思い出すと、一生懸命その敵意を抑えて言った。

「わ、私、怖いんです。……その、東京ってあんまり知らなくて」

 田上が、優しく相槌を打った。

「そ、それで、前回の選抜レースの時も誰にもこ、声をかけられなくて、…それで、入学できたは良いんですけど、このまま私、誰にも声を掛けられなかったら嫌で、…でも、どうすればいいか分からないんです」

 これには、田上も唸ったから、隣に居たタキオンが田上の顔を見た。タキオンのその顔は、少し田上の事を心配していた。田上も似たようなものじゃないかと思ったからだ。だが、その事は口に出さずに田上の次の行動を待った。田上は、暫く唸ってから言った。

「同室の子とか同じ学年の子とか、友達はいないのか?」

「……いる事にはいます」

「…なら、その子たちに相談をしたりしないのか?」

 これは、新中学一年生には少し酷な質問だったようだ。それきり何してもどうしても話さなくなったから田上が言った。

「…今日は帰って休みなさい。明日は、寮の前の方にある練習場でトレーニングしてるから、そこで俺たちを探してみると良い。相談があるなら乗るけど、今日の所は、少し落ち着いた方がいい。…土手の所に座ってると思う。分からなければマテリアルさんの金髪を目印に探してくれ。さぁ、帰りなさい。…ばいばい」

 田上がそう言うと、リリックは小さい肩をさらに小さくさせて、無言で帰っていった。もうすぐ桜が咲くというのに冷たい風が吹いた。

 

 田上たちは、リリックが見えなくなるまでその背を見送った。そして、見えなくなって、もう歩き出そうとしたときにタキオンが言った。

「良かったのかい?あのまま帰して」

 田上は、暫く黙り込んだまま、こちらも肩を小さくして歩いていたが、観客席前に差し掛かると言った。

「トレーナー室に行ってくる」

 どこか塞ぎ込むようだったから、タキオンとマテリアルは顔を見合わせてそれぞれ不思議そうな顔をした。それで、話を聞かないとどうしようもなさそうだったから、タキオンが聞いた。

「急にどうしてそんな風になったんだい?まだまだ、レースはたくさんあるよ?それは見て行かないのかい?」

「見て行かない」と田上が返した。またもタキオンは困ったようにマテリアルと顔を見合わせて、今度はマテリアルの方に田上への質問をバトンタッチした。

「田上トレーナー、午後からはどうするんですか?午後は見るんですか?」

 すると、「それは午後次第」と返事が返ってきた。話して見た所、真面な会話はできるようなので、タキオンとマテリアルはそれ以上の質問をせずに、ただ不安そうに田上の後ろについて行った。途中で、「なんでお前らついてくるんだ」と煙たがられたが、それにはタキオンもこう返した。

「なんでもどうしても、君がトレーナー室に行くと言ったからじゃないか」

 それに田上は何か良い返そうと大きく口を開けて声が出てくるのを待ったが、何も出てこず、思い直したように口を閉じた。それで、田上が「ついてくるな」とは言わなかったので、タキオンとマテリアルは尚もついて行った。

 そして、トレーナー室に着くと田上が扉を開けて中に入って行ったので、タキオンもマテリアルもその中にぞろぞろと入り込んだ。田上は、真っ直ぐ自分のデスクに向かって行ったが、タキオンとマテリアルは田上がどうするのかを窺っていたので、いつも座っているソファーの方には座らずに入り口付近で立って田上を見つめていた。しかし、田上は何をすることも、話すこともしないで、デスクに座るとそのまま眼鏡を外して眠ろうとし始めた。それではついてきた意味もないので、タキオンはとうとう口を開いて再び田上に聞いた。

「君はなんでトレーナー室に来たんだい?」

「考え事があるから」とくぐもった声が返ってきた。

「それなら、私たちにその考え事を一欠け分けてはくれないのかい?」

 今度は、長い沈黙が流れた。誰一人として身動きしないで、誰かが動き出すのを待っているようだった。最初に動いたのは、マテリアルだった。この沈黙が田上の言い淀みだとすると、自分がここに居ると邪魔なんじゃないかと考えたからだ。

「あっ、私、用ができたのでちょっと寮の方戻りますね。昼くらいまで戻らないので、昼になったらまたレース場に行きましょう」

 その場をごまかすために日本各地で散々使われてきた謎の『用』をマテリアルも用いて、阿保らしくも去って行った。しかし、阿保と呼ばれるにはしっかりと雰囲気の読めていた行動だった。マテリアルが考えた通りに、田上は言い淀んでいて、マテリアルが去った途端に田上が話し始めたのがそれを証明していた。勿論、マテリアルはこの事は昼に来た時に察することしかできなかった。こそこそドアの裏で聞いてみるという考えも心のどこかには潜んでいたが、卑怯で狡い事なので当然それをすることはない。人には誠実でいたいというのがマテリアルだった。

 マテリアルが去ると、田上はふーっとため息をつき、目を擦りながら顔を上げた。そして、実際にタキオンしかその場にいない事を確認すると、ゆっくりと躊躇いながら言った。

「……あの子は、…どうだろうね?」

「…走りの事かい?それとも、悩みがあることについてかい?」

「…悩み」と一言だけ言って、田上は机の上に体の半身を預けて、ぐでっと腕を伸ばした。どうやらタキオンに何か言ってほしいようだったから、タキオンは言った。

「…私は君とあの子が似通っているように感じたね。あれのつい前に、君が――恥ずかしい、と言っていたじゃないか。それがあの子にもあるように感じる。…つまり、迷っているんだろうね。だから分からないんだ。君はどう思ったんだ?」

 田上は暫く黙った後言った。

「……俺もそんな感じだよ。…あの子をスカウトしてみて、…どうなるかなぁ?」

「私はあまり賛成しないね。同情だけで人は動いちゃダメだ。それで動くことを癖づけてしまったら、何が自分だか分かったもんじゃない。…それに、あの子はまだ学園に来て日が浅いんだ。単なる故郷恋しさから出た言葉かもしれないよ」

 いつものことながら田上は、タキオンの言葉の後にむっつりと黙り込んだから、タキオンは紅茶を飲もうと支度を始めた。田上の分も作ってあげた。タキオンが出来上がった紅茶を田上の机に置くと、田上は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。その後に紅茶を飲みながらタキオンは言った。

「君は、優しいからあの子の事を気にかけているんだろうけど、物事の本質は見失っちゃいけないよ。君はトレーナーで、あそこは気に入ったウマ娘をスカウトする場だ。速かったり、個性的だったり、気に入る部分は人それぞれあるけど、同情なんかでそれを選んでしまっては本末転倒だ。君はあの子に何かを見出さなくちゃならないんだよ。速さかい?個性的かい?改善の余地はあるかい?」

 タキオンがそう説くと、田上には何か気が付いた事があったようだ。長く紅茶を一啜りしてから言った。

「…何にも分からないんだよな。あの子は、そもそも仕掛けようとしなかったんだ。その事は聞けてない」

「ならどうするんだい?」

「聞くしかない。……明日、俺の所に来ると思うか?」

「んん、…どうだろうねぇ?来なかったら行けばいいんじゃないのかい?」

「そうか…」

 田上は少し躊躇うように頷いたが、次には「そうか」と再び自分を鼓舞するように言った。タキオンはそれを見てにんまりと笑った。それから、紅茶を一口飲むと言った。

「ただ、明日は私のトレーニングもあるんだからね。それを忘れて貰っちゃ困る」

 田上は、少しだけ顔に笑みを浮かべて頷いた。

 昼までにはもう少しあったので、田上とタキオンはトレーナー室で少しだけ過ごしたが、生憎、タキオンは軽装の部屋着だったのでもう少しちゃんとした物に着替えに行った。ただ、着替えたと言ってもただの灰色のパーカーにだった。

 昼になると、どこに行ってたのやらマテリアルが午前の姿のままで再び現れた。もしかしたら、レース場に足を運んでいたのかもしれなかったが、タキオンたちは何も聞かないでカフェテリアへと昼食を食べに行った。タキオンは現在大阪杯のため食事制限中だったが、今日は少しだけ多く食べていた。「たまにくらいいいだろ?」というトレーナーを舐め腐った顔でタキオンが見つめてきたので、田上は仕方なく何も言わないでそれを見過ごしてやった。勝つための食事制限もした方が良かったが、それ以上にストレスを与える方が良くないと判断した。タキオンは、満面の笑みでそれを食べていたので、どうも田上の判断は正しかったようだ。


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