ケロイド   作:石花漱一

43 / 90
十七、二回目の選抜レース②

 昼食が終わり、また田上がレース場に戻ろうとするとタキオンが言った。

「一緒に散歩をしないかい?」

 あまり期待はしていない誘いだったが、田上が思いの外悩んでくれていたので、タキオンは少し嬉しくなった。ただ、それでもやっぱりレースは見たかったようで、こう言った。

「あと二、三レース見させてくれ。それで散歩しよう」

 タキオンは嬉しそうに頷いて、田上の横に立った。その時にマテリアルとも目が合ったのだが、タキオンをからかうように「仲がよろしいですね」と言ってきた。これには、タキオンも少し腹を立ててこう言い返した。

「羨ましいんなら、君も仲のよろしい男の人を探してきたらどうだい?」

 すると、田上がこれに反応した。

「そう言えば、マテリアルさんって交際とかした事があるんですか?顔は、ウマ娘の中でも美人な方だと思いますけど」

「私よりも美人かと思うかい?」

 ここでタキオンが面倒くさい絡み方をしてきたから、田上が面倒臭そうに眉を寄せて、躊躇いながらも言った。

「タキオンだって、ウマ娘って時点で十分綺麗だと思うぞ」

「そうじゃないよ。マテリアル君に劣らず美人かな?ってことだ」

 田上はタキオンとマテリアルの顔を交互に見比べた後に、もう投げ出すように言った。

「なんでそんなこと聞くんだ。別にいいだろ、そんな事は。……で、マテリアルさんは、交際は経験あるんですか?」

 先程はタキオンが口を挟んできたからよかったが、今度は誰も口を挟んでこず、マテリアルは慌てふためいた。それは、タキオンにする話であっても男性にする話ではないのだ。「何人か付き合ったけど全てにフラれてしまいました」なんて自分の株を下げるだけの事だった。それを言って、「この人、何か裏があるんじゃ?」と田上に思われた日には、マテリアルにはどうしようもなかった。裏なんて作ったつもりはないのに、もしも他人に見える形で存在していたら、自分の知らないうちに他人に軽蔑されることになってしまう。今まで、友達に距離を取られたことなどほとんどないマテリアルにとって、この質問をどう答えるかは少し重要だった。マテリアルは、できるだけ嘘は言わないように、誤魔化しながら答えた。

「私は、交際の経験はありますね。…田上さんは?」

「僕は……、ないことにはないですが…」

 マテリアルは、ここが攻め時だと思って、一気に踏み込んだ質問をした。

「では、今気になっている人は?…田上トレーナーは、堅物そうに見えるから誰かを好きになるなんて思えませんけど」

「まあ、その通りです。あんまり人には興味がありません」

 これは、中々に名演技だった。いつもの田上を崩さずに、はっきりと嘘をつくことができた。これを聞いて、田上に想いを寄せているタキオンは、少しショックだったし、マテリアルもこれ程までにはっきりとした答えが返ってきてショックを受けた。てっきり、田上トレーナーならば少しぐらいの動揺を見せて否定するだろうと思っていた。そうなれば、一番近くにいる女性のタキオンにも見込みがあるとなって、その想いの告白の一助になると思っていた。だが、マテリアルがショックを受ける間もなく、田上が再び聞いてきた。

「以前、かなりモテるとか言う事をマテリアルさんから聞いたような気がしますが、…何人くらいから告白されたことがあるとか教えてくれたりしますか?…モテる人って一体、何人から告白されるのか気になるんですけど」

 今日の田上は妙にしつこいながらも面倒臭い質問を重ねてきた。マテリアルは、それに多少苛ついたが、その感情は胸の内に隠して外面は優しく言った。

「それは、あんまりにも酷い質問ですよ。女性にする質問ではないです。田上トレーナーは、少し分を弁えてはいかがですか?」

 田上は、「ごめんなさい」と一言謝った。そこで、話が終わった。何だかやりにくい雰囲気になってしまった。タキオンは、――本当にトレーナー君に好きな人はいないのだろうか?と考え込んでいたし、田上は話を失敗して落ち込んでいたし、マテリアルは、心の中でため息をついていた。他人に図らずも心の中を突かれたように気持ちが悪かった。決して、マテリアルにそんな話を持ち掛けた田上を恨んではいなかったが、たかが恋愛話ごときで動揺している自分に疲れてしまった。しかし、レース場について田上と少し質疑応答や議論を重ねれば、それも次第に忘れて行って自分の気を取り戻すことができた。

 タキオンは、田上の隣に座ってレースを見ながら考えていた。先程の田上の言動を。明らかにタキオンには矛盾した物に思えた。田上は以前にタキオンの事を「大切な人」だと言っていた。これだと人に興味がないというのは嘘だろう。恋愛的な感情を抜きにしても『人』に興味がないという点では嘘だった。そして、このような口調だと、まるで自分を何にも興味のない『堅物』のように見せているような気がした。――何か隠したい事でもあったのだろうか?ただ、それでもタキオンを疑問にさせたのは、田上の名演技だった。タキオンは、あまり見ない田上の名演技に混乱してしまった。田上も碌でもないところで名演技を出してしまったものだ。ここで、動揺して顔を赤くさせてみたら愛嬌などが出た物を、名演技をしてしまったから田上の事を本当に堅物と見紛うほどだった。

 

 そして、そのままタキオンの疑問は結論を迎えないまま、二レースが終わって田上が立ち上がった。どうやらもうレースは見ないようだったので、タキオンも立ち上がり、さあ散歩に行こうとした。だが、マテリアルもそのまま帰る方と思ったら、立ち上がらなかった。だから聞いてみると、まだここに居るようだった。

「分析することが好きなので」

 そう言うと、後ろで結んでいた髪の毛を解き、金髪をさらっと垂らした。タキオンは、少しの間、見惚れてしまった。微かにいい匂いもしたような気がした。タキオンが見惚れていることに気が付くと、マテリアルはにこっと笑った。これが彼女の悪気のない常套手段だ。タキオンは、胸をドキリとさせて、さらに顔も赤くさせてその顔を逸らした。田上圭一という想い人がいるにもかかわらず、こんな女の人に顔を赤くさせている自分が少し情けなくなった。田上は、相変わらず、マテリアルには興味がないようだった。例え、少しいい匂いがしたからと言って、田上がする行動は顔を赤らめるなんて事ではなく、ただ顔をしかめる事だけだった。こんなものでは、益々堅物としか思われないだろう。勿論、田上は自分の気持ちを隠すために堅物のような嘘をついたのだ。その事について疑念の余地はないが、果たして、自分の気持ちを隠すのが良い事なのかどうかには疑念の余地がある。やはり、隠すためには嘘をつくというのだから、知らず知らずのうちに自分の心に負担を課してしまうだろう。外から見て平気そうに見えても、自分から見えて平気そうに見えても心が苦しんでいる事があるのだ。しかし、田上はまだその事を意識して感じる事はできなかった。

 

 二人は、冬の過ぎゆく春の石畳の上を一緒に歩いた。タキオンは、まだ少し考えていた。先程までに深く考えてはいなかったが、田上の方とチラと見ては考えて、もう一度チラと見ては、また考えた。そうしていくうちに田上が、タキオンが何か話したそうにしていることに気が付いて、聞いた。

「何かあるのか?」

「……いや、ね。…君、さっき――人に興味はないって言ったろ?その事が少し気になってね」

「それが?……う~ん、人に興味がないってのは言い過ぎたかもしれないな。…ただ、恋愛事に興味はないからなぁ。それは、本当だ」

 これは、タキオンの予想通りだったが、予想通りでしかなく少し落ち込んでしまった。田上もつくづく妙なところで嘘の上手い人で、自分の気持ちの隠し方が大変上手かった。田上の言葉には真実味しかなかった。それでも、タキオンは藁にも縋る思いで田上に探りを入れてみた。

「じゃあ、君は、本当に好きな人はいないんだね?同僚のトレーナーの中にも、知り合いの中にも」

 田上は「ああ」と頷いた。やはり、嘘偽りないように思えた。タキオンは、田上の黒い瞳を見つめると、少し語気を強めて問いただしたい気持ちになったが、それは束の間の出来事で後は浅くなっていた呼吸を整えて、石畳の上を歩いた。

 暫くすると田上は菜の花の花壇の前で立ち止まり、しゃがみこんだ。そして、菜の花の茎から何かを取る動作をすると、また立ち上がり水を掬い上げるようにした手の平の上を見せてきた。そこに居たのは赤いてんとう虫だった。それを覗き込んで見たタキオンだったが、田上がそれを見せた後何も言わなかったので、再び田上の顔を見上げて言った。

「てんとう虫だね?」

「そうだ。てんとう虫だよ」

 そう言って田上は、得意気に口角を上げた。その様子はまるで、ちっちゃな男の子が、母親に「見て見て!」と声をかけて自分の成し遂げた大それた事を見せびらかしているかのようだった。それにタキオンはどう反応すればいいのか迷って、暫く黙った後言った。

「…赤いね」

「そうだね。…赤くてとっても綺麗な色だ」

 タキオンは、田上と一緒になっててんとう虫を見ていたが、その言葉を聞くと、田上の顔をチラと見やった。すると、田上の方もこちらを見ていたから、タキオンが聞いた。

「なんだい?」

「……いや…、なんだったかな」

 田上がごまかすように言った。だから、タキオンがからかうために少し何か言ってやろうとした時に、田上の声がそれを遮った。

「あっ、てんとう虫が…」

 てんとう虫が羽を広げて飛び去って行こうとしていた。それは、目で追えるような速さだったので、今のタキオンなら叩き落とせそうな気がした。しかし、そんな節操のない事はしないで、てんとう虫が高く高く昇って行くのを見送った。二人して石畳の上に突っ立ったまま空を見上げた。空は快晴だった。綺麗な空色が、二人の目には映った。そして、今は小さく豆のようになったてんとう虫も。それもやがて、空に飲み込まれて見えなくなった。タキオンが空を見上げていると、やがて田上のため息が聞こえた。そして、こう言われた。

【挿絵表示】

 

「タキオン、行こう」

 そこで、やっと地上の方に目を戻した。目の前に田上がいた。すると、それがなんだか感慨深くなって、声を詰まらせてタキオンは言った。

「ああ…、トレーナー君。君が居てくれてよかったよ。私一人じゃ成し得ないことがたくさんあった」

 その言葉を聞くと、田上はまた得意気に口角を上げた。だが、言った事は「行こう」の一言だけだった。それを言うと田上は歩き出した。タキオンは、田上の背を見る事となった。その背の横にはぶらぶらと揺れるごつごつとした手があった。タキオンはその手に自分の手を重ね合わせたくなった。だが、田上は去って行くばかりでタキオンの方を振り返りそうになかった。それが、タキオンにはなんだかやりきれなくて、ため息を一つ吐いた。すると、もう手を繋ごうという気はなくなって、ただ田上の傍に寄って歩き出した。

 二人の後ろ姿は、儚さの入り混じったあどけないものだった。

 

 それから、二人は日の暮れるまで学校の敷地を歩き続けた。何度も行ったり来たりした道だったが、それでも二人は飽きずに歩いた。

 二人が別れたのはちょうどウマ娘寮の前に来た時だった。その時に偶然寮に帰って来るところだったハナミとアルトに出会った。タキオンは、田上と楽しげに話していた所だったから、これは不味いと思った。そして、案の定不味かった。田上の手前、ハナミもそれ程表に出しはしなかったが、それでもにこやかに笑いながらタキオンに言った。

「タキオンさん、今日も仲がよろしそうですなぁ」

 タキオンは思いっ切り顔をしかめて何か文句でもつけてやろうとしたのだが、その前に田上がタキオンだけに「俺はもう帰るから」と言った。これは、益々不味いというよりも、もうすでに時遅く手の施しようがないだろう。見られてしまった時点でタキオンの運命は決まっていた。それが、今田上がさらっと帰る事で早まっただけの事だった。

 田上はタキオンに「バイバイ」と声をかけ、タキオンも田上に「バイバイ」と声をかけた。穏やかな別れだったが、自分の行く方を見やればそれは前途多難だった。ハナミは、田上がいなくなったので顔をにんまりさせて近づいてきた。もうドアを開けて入ろうとしていた所だったが、それを止めてまでタキオンをうりゃうりゃと小突きたかったようだ。――帰ればいいのに…。そう思ったが、今の所、ハナミを黙って帰らす術はないように思えた。

 ハナミは、タキオンに十分近づくと言った。

「タキオンさん、やっぱり仲が良いんですね?どうです?最近は」

「上々だね。ついさっきもトレーナー君と話してたとこだよ」

 社交辞令のようにタキオンも返した。すると、ハナミが尚の事顔をにまにまさせて言った。

「いや~、それでは、田上トレーナーとは仲が良いんでしょうなぁ。…それが、やはりGⅠを勝つ秘訣ですかな?」

「いや、どうかな。自分のトレーナーと仲が良い人なんてざらにいるだろ?それだけじゃあ、GⅠを勝てるとは言えないね」

「いや~、ごもっともなお言葉です。これは一本取られましたな。…ですが、自分のトレーナーと二人きりで一緒に歩いて楽しくおしゃべりするウマ娘は、そうざらにはいませんでしょう。…今日のトレーニングは確か、お休みでしたよね?」

「ああ、そうだけど何か文句でもあるのかい?」

 タキオンは、このやり取りに飽きて少し喧嘩腰になった。それを聞くと、ハナミも少し不味いと思ったのか、頭をへこへこして上辺だけでも丁寧な態度を取った。

「そんな文句なんて…!ただ、少し気になっただけですよ。トレーニングのない日に暗くなるまで田上トレーナーと何をしていたのか」

「散歩をしていただけだよ。彼が、しようって言い出したんだから、私のせいじゃない。大方、トレーニングのない日でも運動はさせたかったんだろう。なにせ、大阪杯の直前だからね」

 タキオンは大嘘をついた。これは、嘘をつく他ハナミを黙らせる手段がなかったからだろう。ここで、バカ正直に「私が散歩をしようと言ったんだ」と言ってしまえば、ハナミが興奮するのは火を見るよりも明らかだった。こんな理屈をこねたのでハナミも何も言い返せずに「左様ですか」とだけ言葉を発した。これでタキオンの作戦は成功だったが、その後にハナミのにやにや顔がぴたりと止まって、真顔でタキオンを見つめ始めたので、先程の嘘もあってかタキオンが動揺した。

「な、なんだい?今のは嘘じゃないからね。本当の事だからね?」

 そう言った時に、寮のガラス扉から漏れる明かりの所で待っているアルトの顔が目に入った。こちらは、微笑ましそうにタキオンたちを眺めていた。そして、再びハナミの方に目を戻すと、こう言われてしまった。

「タキオンって、田上トレーナーの事好きだったりしないの?」

 途端にタキオンの心臓が跳ね上がった。しかし、できるだけ平静を努めようと、一呼吸あけてから言った。

「そ、んな訳ないだろ…。なんで私があの人の事を好きにならなきゃいけないんだ。顔もいいわけじゃないし、性格だってそんな良くはない。これで好きになる要素はないだろ?」

「…でも、タキオンは好きになった人の事を好きになるって言ってたよね?私覚えてるよ。…だとすると、今の言葉はさっき楽しそうに話していた様子と重ならない部分があるんだよね。…性格が良くない?私がこれまでタキオンから聞いた話によると、異常なまでに献身的でタキオンの事を想っているように感じるんだよね。そして、さっきの様子は、どう見ても性格が悪い人と話しているようには見えなかった」

 ハナミは、終始真面目な顔でそれを語っていた。これによって、タキオンの逃げ場は大きく塞がれて、最後の手段である、話を逸らすという戦法に打って出ようとした。

「待った待った。…君はどうしてそんなに私の色恋に興味を持つんだ。別に他人の色恋なんざ腹の足しどころか畑の肥やしにもならないだろう?それなのに君は私の事が気になるというんだ。どうかしてるよ」

「…どうか、…してるかもしれないけど、気になる事ではあるんだよね。人がどう進んでいくのか。人生って、たった一つの事で変わる事があるでしょ?私は、それを見て触って感じてみたいんだよ」

「どうかしてるよ…」とタキオンはもう一度呟いた。そこで、アルトもタキオンたちの方にやってきた。

「中々話が終わりそうにないね」

 穏やかな口調で彼女は、向かい合って話している二人に言った。すると、ハナミが「ちょっと黙ってて、今良いところだから」とアルトの言葉を遮った。それでタキオンはもういよいよだと思って言った。

「私はもう帰らせてもらうよ。今日は、これ以上話しかけないでくれ。私は違うと言っているのに探ってくる君の探偵ごっこにはもう飽き飽きだ」

「ああ、待って」

 ハナミが言った。

「待たない」

 タキオンが返した。

「じゃあ、私が田上トレーナーに告白するって言ったら?タキオンは許す?」

「許す?…許すわけがないだろう。トレーナー君は私の大事なモルモットなんだ。勝手に君に絆されちゃ困るよ」

 待たないと言ったにも関わらず、タキオンは寮に行こうとしていた足を止めてハナミに言った。

「でも、実験はしてないんでしょ?それなら、私が告白しても変わらないよ」

「…それは、…それとして、それじゃあ今度は私の大切なトレーナー君なんだ。トレーナーとして恋愛などというお粗末な事に現を抜かさず、しっかりと私の育成に励んでもらいたいね」

「恋愛がお粗末?本当にそう思っているの?」

「そうとも。それでは私は寮の方に帰らさせてもらう。さようなら」

 タキオンは早口にそう捲し立てると、誰の声も聞かないように寮の方へさっさと歩いて行こうとした。しかし、イライラして耳がそばだっているからか後ろの方で二人の声が聞こえた。

「怒らせちゃったみたいだね」とアルトが言うと、しばらく間が開いた後、「少し詰めすぎたかな…」とハナミの落ち込んだ声が聞こえた。その後は、二人が来るのなんて当然待たずにタキオンは寮の扉を開けて中に入った。そして、一度心を落ち着かせようと、部屋の方に向かった。同室のデジタルにでも愚痴を聞かせてやろうと思った。

 

 タキオンは、部屋のドアを開けるとまず最初に「デジタルくーーん!」と叫んだ。すると、デジタルが「はい、なんでございましょうか?」と椅子を引いてドアの方を首をひねって見やってきた。

「もうあの二人が面倒臭くて面倒臭くて堪らなかったよ。…いや、正確にはハナミ君の方は、か」

「…面倒臭いって一体?」

「それは…面倒臭いって事さ。根掘り葉掘り聞こうとしてきて、私を追い詰めて捕えようとしてきて。…GⅠウマ娘だったらあのくらい逃げるのはわけないさ。...ただ、やっぱり面倒臭かったよ。あんな風に詰められたんじゃ、気持ち悪くってしょうがない。…なんであんなことを聞くんだろうねぇ…」

 タキオンが、面倒臭い事の詳しい内容を何一つ話そうとしなかったから、デジタルは何一つ内容の分からないままタキオンの話を聞いた。タキオンは、自分のベッドに腰かけながら尚も話を続けた。

「君だけだよ。私のあれこれに首を突っ込もうとしない輩は。それとも、本当は私の事に首を突っ込みたくてたまらないのかな?」

「いえ、滅相もない」とデジタルは驚いた様子で答えたが、その内心は先程の言葉とは違ったもので言うなれば「大好きなウマ娘ちゃんの事はたくさん知りたい!」といったタキオンの意向とは沿わないでいるが、極めて彼女らしい望みだった。だが、それを言ってしまえば、勿論、タキオンもそれ以上愚痴が言えなくなってしまうだろうから、それに配慮しても言わないでおいた。

 デジタルがそう言うと、タキオンは「ふ~ん」と言ってデジタルを見つめた。タキオンの目は、あまりデジタルを捉えてはおらず、自分の考えの方に向けられていた。少しの疑心があったし、そんな驚いたような反応をされると出てきそうだった言葉が引っ込んでしまったからだ。だから、暫く間をあけた後タキオンは言った。

「…デジタル君。君はもう夜食は済ませたかな?」

「はい。もう済ませてしまいました。…お望みならば、ご一緒に食堂に行ってもよろしいですが?」

「いや、いいよ。私一人で食べてくる」

 少し気乗りしないようだったが、タキオンはよっこいしょと立ち上がると、部屋を出て食堂の方に歩いて行った。その後ろ姿を見送りながらも、デジタルは何も言わずにまた自分の机の方へと向かった。

 

 その後、タキオンが飯を食べて帰ってくると、今度は二人で大浴場に行くことになった。タキオンが、「一緒に行かないか?」と誘ったのだ。デジタルもまだ風呂には入っていなかったので、ありがたくその誘いを受けて、タキオンの愚痴を聞きにお湯に浸かりに行った。

 タキオンは相変わらず、ハナミとアルトが面倒くさかったことについての内容は言おうとしなかったし、デジタルは部屋での会話以降、それについて深く聞こうとはしなかった。元より、深く聞いてきたことについてのタキオンの愚痴だったから、色々と質問をしてしまうのはその神経を逆撫でする行為でしかなかっただろう。そういう配慮もあってデジタルは何も聞かなかった。しかし、聞かなかったのならば、普通の人であればその内容を聞かずに話を合わせる事は至極困難だろう。少なくともこんな場合の田上などでは困難で、すぐに話を聞くことを面倒臭がったはずだ。だが、デジタルは違った。話が合わないなら合わないで、質問できないならできないで、タキオンの話を一生懸命聞いて、一生懸命頷いた。その努力が実ってか、タキオンの愚痴も大分すんなりと風呂のお湯に溶かされたようだった。

 ちょっとぺちゃくちゃと話してから、次の話題に移った。タキオンと田上との間にあった最近の出来事に関することだった。これは、デジタルにも分かるように説明されて、デジタルは大喜びだった。デジタルは、この手の話が大好物だった。タキオンとしては、トレーナーといちゃいちゃしているようなつもりで言ってはいないのだが、デジタルの頭の中にはありありと嘘か真か定かでない、二人の楽しげないちゃつく姿が見えた。勿論、タキオンの言った話の中には、どう見てもいちゃついているだろうという話もあったし、いちゃついていない話もあったが、デジタルには全部が全部いちゃついているように見えた。最後には、デジタルが興奮しすぎて鼻血を出してしまったので、二人は風呂から上がった。

 そして、着替えて部屋に戻ると、二人はそれぞれ暫く自分のしたい事をして過ごした。タキオンは、暇潰しにスマホでも眺めて、デジタルは自分の趣味に興じていった。夜は段々と更けていき、タキオンが先に寝る事になった。部屋の電気はいったん消され、デジタルは自分の机にある明かりの下で趣味の絵描きをすることになった。ただ、タキオンにとってはいくら部屋の電気を消したと言っても、寝るときになれば少し離れた机の明かりでさえも眩しく感じるので、それからは体ごと背けて寝始めた。いつも通りの眠りだった。あれこれ色々考えながら、タキオンは眠りに落ちていった。

 

 次の日になると、タキオンはいつものように起きていつものように校舎に行く支度をした。カフェテリアで田上から言われた分量を守りつつ、適当に朝食を食うと教室へ向かおうとした。しかし、なんだか今回は気が乗らなかった。特にこれと言った理由はなかったのだが、なんとなく教室に行くのは嫌な気がして足を止めた。朝に蠢く人々の中に一人タキオンはいた。誰もタキオンなんて見ようとしなかった。少し遠くを見知った人が行くのが見えたが、その人もタキオンには気が付いていないようだった。その人が過ぎ去っていくのを見ると、不思議とタキオンの心の中にある考えが浮かんで、次の行動はそれだと決まった。片手には、色々と入ったバッグを持っていたが、タキオンはお構いなしにその行動に乗り出した。それは、トレーナー室に行って、田上と話をすることだった。なんでもいい。昨日の事の愚痴だっていいから、タキオンは田上と話がしたかった。だから、タキオンはまずトレーナー室へと歩き出した。

 トレーナー室に行くと、ちょうど部屋に入ろうとしている田上に会えた。タキオンが、田上の後ろ姿を見つけたので、田上はまだタキオンに気が付いていないようだった。だから、タキオンは少し走って近寄ると、その背に声をかけた。

「おい、トレーナー君」

 そう言うと、田上は振り向いて怪訝な顔でタキオンを見つめた。それから言った。

「朝に来るなんて珍しいな。また、研究でも再開するのか?」

 これは、タキオンが研究をしていた頃、普段からではないにしろ朝一番に昼のお弁当を受け取りに来ることが多々あったので、その事を指した物言いだった。それにタキオンは少し冗談気味に言った。

「君のお弁当を食べられるのなら研究を再開する価値があるかもね」

 それを言うと、田上が物凄く嫌そうな顔をしたので、タキオンはハハハと笑った。

「冗談だよ冗談。…君のお弁当は今も尚食べたいけどね。…私はそんな事を話しに来たんじゃなくて、…もっと…何と言うか…、骨のある話をしに来たんだよ。少し君と話したくなったから、何か話してくれ」

 そう言われると、田上も少しドキリとした。女性に「君と話したい」なんて言われたら、勘違いしてしまうのが男の性だろう。しかし、田上は――タキオンはそんなつもりで言ったんじゃない、と自分の心に言い聞かせると、喜んでいる心臓を落ち着かせて冷静に言った。

「話したいだなんて言われても、俺に話せることなんて何一つないぞ」

「いや、別にトレーニングの事でも構わないんだ。本当に君と少し話がしたくなっただけで、大した話を論じろとは言っていない」

 その言葉で再び田上は、勘違いしそうになってきたが、その想いは飛び切りのしかめっ面に込めて忘れさせた。そして、それをした後は田上はタキオンに何も言わなかったが、言わないなりにトレーナー室のドアを開けてタキオンに中に入るよう催促をした。タキオンは、からかうような目付きで田上を見た後、その前を通って部屋の中に入った。冬の終わりそうな空気がそこにはあった。

「桜の見頃は大阪杯辺りだそうだね」

 タキオンがソファーに自分のバッグを置きながら言った。それに田上が「ああ」と答えつつ、田上も自分のバッグを机の横に置いた。そして、その部屋を見渡しながら、躊躇いがちに言った。

「…この部屋も…狭くなりそうだな…」

「狭く?」

 タキオンがオウム返しに聞いた。田上は、それにすぐに反応はせず、ゆっくりとタキオンに目を合わせて言った。

「ほら……、俺の担当するウマ娘が増えるとなると、この部屋じゃ持て余すだろ?…だから、大阪杯が終わった一週間後辺りに、ここも引っ越したいなぁって思ってるんだけど…」

 タキオンは、そう言われた後に部屋をゆっくりとっ見回して言った。

「…行く当てはあるのかい?」

「いや、ここ最近そう思ってただけで、申請してもどうなるかは知らない。…ただ、…やっぱり大人二人に子供四人?ってなると狭いだろ?そこは何とかしたいんだ」

「ふ~ん」とタキオンは事も無げに頷いた。だが、その実、心の内では少し波風が立っていた。この部屋を離れるのは少し嫌だった。その想いがタキオンの脳裏に浮かび上がったが、その事はおくびにも出さずに言った。

「私はいいと思うよ。引っ越しはどうするんだい?私も手伝った方がいいのかい?」

「ん~、…まぁ、手伝ってくれた方が嬉しいよ」

「じゃあ、私も手伝うとしよう」

「ありがとう」

 田上がそう答えると、話は終わりとばかりに自分の椅子に座った。それをタキオンは見ていたが、田上は自分のパソコンの電源をつけて早速自分の仕事に入ろうとしていた。それは、なんだかタキオンにはいけ好かなく感じたから、田上の机に近寄るとその集中を乱そうとするように言った。

「なぁなぁ、今日のトレーニングはどんなものだい?何か普段と違ったものはするのかい?」

 すると、田上から一言「普段と違ったものはない」と返ってきた。そして、再び自分のパソコンの方を見つめ始めたので、タキオンは益々気を悪くした。だから、突然頭に思い浮かんだことを言った。

「トレーナー君。私、やっぱりここから引っ越すなんて嫌だ」

 そう言うと、田上も面倒臭そうにしながらもタキオンの方を見つめて言った。

「どうして、急にそんな事を言い出したんだ」

「不図、そう思ったんだよ。…だってそうだろ?ここは私たちの思い出が詰まった場所じゃないか。あのソファーで紅茶を飲んだり、君が薬の副作用で輝きながら反射するパソコンで作業をしたり、いろんな話をしたり…。…そうだろ?君は、あんまりそうでもないようだけど」

「俺だって、この部屋を気に入っていたりはしたけど、前に進むって言うんならここには居られないよ」

「…うん、…それは分かってるさ。…分かっているけど、どうしても少し納得できないな」

「何で?」

 田上は、少し距離の近いタキオンから離れようと自分の椅子を引いて離れてタキオンを見上げた。タキオンは、そう言われると、何も言い返せずに渋い顔をして暫く黙ってしまった。そこで、田上は部屋にかけている時計を見やった。時計は、もうすぐ教室に生徒が集まらないといけない時間になっていた。だから、田上は言った。

「…とりあえず、授業に出てきたらどうなんだ?最近は、…というか、研究をやめてからはずっと行ってるんだろ?頑張ってこいよ」

 すると、今度はその言葉が癪に障ったので、向きになって言った。

「嫌だね。別に、サボったって今まで平気だったんだから、一日くらいサボったって平気なのは変わらずさ。そんな事で、私の気を逸らそうとしないでくれ」

 タキオンがそう言うと、田上が「悪かった」と謝った。それから、タキオンが前の言葉の勢いに任せて言った。

「大体、君は考えていることがあんまり分からないんだ。もう少し私に打ち解けて話をしてくれたらどうなんだい?例えば、一言でいいから、この引っ越しについてどう思う?」

 田上は、タキオンの突然の質問に目を泳がせながら言った。

「か、悲しい?」

 それにタキオンはやれやれとため息をついた。

「あんまり君にあれこれと求めるのもダメなんだろうな。私の悪い性だ。…改めよう」

 これでは、タキオン一人で勝手に話が進んでしまって、田上は自身が不当に扱われているように感じた。だから、田上も少し向きになって言った。

「俺だって、悲しい事には悲しいさ。嘘は言っていない。…それなのにどうしてお前はそんなに上から目線な態度を取るんだ」

「あー…、すまない。これもダメだな。…あんまり向きになりすぎた。すまない。……だけどね。……何と言うか…、…ああ!言葉にできない!分かってほしい!君に分かってほしんだけど、どうすれば君に誤解なく言えるかが分からない!………まぁ、少し私の言葉も考えていてくれ。ここを引っ越すというのなら、私はそれに従う他ないさ。じゃあ、行ってくるよ。…バイバイ」

 タキオンは、そう言うと自身が寂しいのか、それとも田上を憐れんでいるのか分からない目付きで田上を見て、それからドアを開けて去って行った。田上は、再び仕事に戻った。自分のキーボードを叩く音が聞こえる。集中へと誘う音だった。いつしかタキオンの言葉など忘れ果てて、自分の仕事だけが目の前にあった。それは、昼になると一度は途切れたが、次には眠りに邪魔されて、タキオンの言葉など考えなかった。田上は、タキオンが思う程暇な男じゃなかった。常に、別の事が気がかりだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。