田上が、目を覚ましたのは、タキオンとのトレーニングが始まる三十分前だった。自分のセットした目覚ましが音を鳴らして起こしてくれた。眠たい目を擦りつつ、体を起こした。そして、一つ欠伸をした。念のための三十分前だったので、まだ暇だったが、やることもないのでもうジャージに着替えてトレーニングの場所へ行くことにした。急ぐ必要はないのでできるだけノロノロと着替えた。この頃になると、暖かくなってきているので、真冬の時よりかは着替えるのが楽だった。
田上は、少し鼻歌を歌った。タキオンが、大阪杯のウイニングライブで踊る曲だ。これもこの頃、タキオンが鼻歌を歌っているので、それが田上にうつってしまった。『走れウイニングライブ』という曲の題名が指す通り、ウマ娘としての『走り』ではなく、『ウイニングライブ』に焦点を当てた曲だった。レースの後のライブで、勝っても負けても皆でしなくちゃならないウイニングライブに、『大きな蛇』のボーカル木下一抹は何か感じる所があったのだろう。これまでにウマ娘が歌って踊ってきたウイニングライブの楽曲とは、大きく感じ方も変わったが、それでも万人が万人「これをウイニングライブで選曲してくれて良かった」と言える代物だった。田上としては、これをタキオンがセンターで歌ってくれれば尚の事良いだろう。
ぼちぼちと田上はトレーニング場に歩いて行き、いつもの土手に着くと、そこにどさっと寝転んだ。他のトレーナーもぽつぽつと散らばって自分の担当しているウマ娘を待っているのが見えた、田上は、それよりも空の方を眺めた。青い空に所々雲があった。――こうしてゆったりと雲を眺めたのはいつ頃が最後だろうか…。田上は、深く呼吸をしながら思った。すると、また眠気が訪れた。と言っても、空が眩しく目を開けていられなかったせいかもしれない。田上は、ゆっくりと目を閉じて、少し口角を上げた。そして、そのまま風に吹かれて、とろとろとした微睡みに溶けていった。
浅い眠りの中で夢を見た。食べ物の匂いがしたかと思ったら、今度は、雪の匂いがした。次に、海の香りがした。その時に田上は、海に行きたいと思った。そして今度は、暑い夏の匂いがした。嗅ぎ慣れたコンクリートの匂いがする。と思ったら、今度は、コンクリートを雨が打つ匂いがした。――もうそろそろ雨が降りそうだ。田上はそう思った。すると、本当に雨が降ってきた。これは、楽しかった。雨に濡れた洋服の匂いがする。寝ているはずの田上の寝顔も自然と笑みを浮かべた。それから、泥の匂いがした。きっとべちゃべちゃに汚れたのだろう。さぞ楽しかったろう。ここで、春の陽気の匂いがして、田上は目を覚ました。目を開けると、また眩しい空が目の前に広がっていて、とんと目を閉じてしまった。そして、大きく息を吹いた。すると、横から声が聞こえた。
「トレーナー君、…起きたのかい?」
その声がタキオンの声だったから、田上は慌てて身を起こして言った。
「今何時だ!?…ごめん、寝てた!」
タキオンは、田上の横で田上と同じように寝転がって、微笑んでいた。
「安心したまえ。まだ、時間はそれ程経っていないよ。…つい、十分くらい前に私も来た所さ。…もう少し寝転がったらどうなんだい?こうして、空を見るのも気持ちが良い…」
タキオンはそう言って、田上から視線を外して空を見上げた。そして、嬉しそうにふふふと笑っていたから、田上も迷いながらも寝転がって空を見上げた。すると、また、先程と同じような心地良さが田上に吹いた。田上も思わずふふふと笑った。低く小さく笑ったつもりだったが、タキオンには聞こえていたようで、「今笑ったね?」と彼女らしい好奇的な目に光を宿して田上に近寄ってきた。田上は、それから身をよじって逃げようとしたが、タキオンに「待って」と少し強く言われるとぴたりと体を止めた。そして、タキオンは田上の横にぴたりと貼り付いた。田上は、いつもそうされるのと同じように、居心地悪そうにした。タキオンは、ニコニコとしていた。それから、言った。
「青い空はいいね。穏やかな気分にさせてくれる」
田上は、居心地悪そうにしながらもタキオンと同じように空を見ていた。先程のような心地良さはやってこなかった。だが、穏やかに続く青い空を見ていると、不図、さっきの夢の事が口をついて出た。
「……海の夢を見た…」
「ん?…海の夢?……それは、夏合宿の時の夢かい?」
「……そうかもしれない…」と田上はぼそぼそと返事をした。
この学園では、毎年、希望者は納涼地である東北の方の学園所有地に夏の間滞在する。その近くには海があって、そこでトレーニングを行うこともあった。タキオンも研究やら資料やらは学園の研究室にあるので、あまり行きたがらなかったが、田上の説得もあって去年は行くことになった。一昨年は、出会って日も浅かったため、田上はそもそも行こうと説得する気すら起こさず、タキオンが行かないなら行かないで打ち解けるために苦心していた。
田上も海は好きだった。小学生の頃などは、両親に連れられてよく海などに行っていた。泳ぐのは苦手だったのであまり潜ることはしなかったが、丁度行った時が干潮であればその干潟で蟹やヤドカリや濡れた砂の上を流れる海水の筋を眺めたりもした。時々、水たまりに魚が見つかれば、声を上げて喜んだりもした。しかし、タキオンと行った時の海は違った。仕事であったのと、大人になってはしゃいでしまうのは少しみっともないと感じたから、蟹など見つけたとしても大抵は見て見ぬふりをした。
田上の見た夢は、もしかしたらタキオンと行った海の夢だったかもしれないし、家族と行った時の夢かもしれなかった。だが、それを正面切って「分からない」と答えてしまうと、話が伸びてしまいそうで面倒だったのでそのように答えるのは止めた。本当は、家族と行った時のような気もしたが、それをそうだと断定するのは尚の事面倒だった。だから、田上が返事をした後には何とも言えない沈黙が流れた。タキオンも田上がこの話をあまりしたがらなさそうに見えたので、この話を他の質問をして広げる事に迷いを持ったのかもしれない。しかし、それは結局、田上とのんびりと話したい欲求と単純な好奇心には勝てず、タキオンによって沈黙は破られた。
「……海に行きたいのかい?」
こうタキオンは言った。その時に、心地良い風がさーっと二人の顔を撫でて通り過ぎて行った。
暫くして、田上が返した。
「……そうかもね」
「…なら、大阪杯が終わって暇ができたら一緒に行くかい?」
「……なんで?」
タキオンが少し微笑んだ。
「君が行きたいかも、と言ったからじゃないか。…本当は行きたくないのかい?」
これには、田上がさっき空けた言葉の間よりももっと間を空けて、田上が返した。
「……行きたい、と思うけど、もうあの時の様に楽しめないような気がするな…」
「別にあの時のように楽しまなくたっていいじゃないか。君が、どの『あの時』を指しているのかは分からないけど、どうせその時からは良くも悪くも変わっているんだ。同じように楽しむなんて不可能だよ。…その理想を目指すよりも、今の君が存分に楽しむ方法を見出す方が、幾らか得だったりするんじゃないか?」
タキオンがそう言うと、田上は一度タキオンの方を向いてその顔を見た後、ゆっくりと体を起こした。
「トレーニングをしないとな」
いかにも今から嫌なことをしますよ、という低い声だったから、タキオンは少し心配の入り混じった声で怒った。
「君、そんなに嫌そうな声を出すんならもう少しここで寝ていたまえ。そして、もっとゆっくりとのんびりと話そうじゃないか。GⅠも所詮一つのタイトルさ。ここを逃しても来年があるし、なんなら一生逃したって死にはしない。私の心意気はそんなものさ。…だから、ね?もう少しのんびりと行こうじゃないか。寝転がって」
タキオンはそう言って、草地をぽんぽんと叩いた。しかし、それで田上がタキオンの言う事を聞いて寝転がる前にマテリアルがのそのそと土手の上の方からやってきた。
「あなたたち、いつまでそうして話しているんですか?トレーニングは?あなたたちが、二人で楽しそうに話をしているから、私入らないでおいたんですが、さすがに少し長いんじゃありませんか?」
やる気は満々と言った様子だった。ジャージに着替えて、手にはクリップボードも持って、それでも待ってくれていたというのだから、大いに気を遣ってくれたのだろう。田上は、そう考えると、急いで立ち上がろうとしたが、それはタキオンに袖を握られていてできなかった。
タキオンは、マテリアルに向かって言った。
「トレーナー君がね。私ともう少しこうやってのんびりしていたいって言うんだよ。…せっかくだから君も寝転がるかい?案外気持ちいいよ」
このタキオンの言葉の途中で田上は心外だと反論しようとしたが、そのまま遮るように話を続けられてしまい、遂に反論はできずにタキオンの話は終わってしまった。すると、タキオンが返答を求めるようにマテリアルを見たので田上も釣られてみてしまった。タキオンは、尚も田上の袖を握っていた。マテリアルは、その様子を見てタキオンの嘘も田上の疲れ具合も察したようだ。こう言った。
「…たまには寝転がるのも良いかもしれませんね」
そういうが早いか、さっきまでのやる気はどこへやら、マテリアルはぐてんと大きく土手の草地に寝転がった。そして、笑いながら言った。
「田上トレーナーも寝転がったらどうです?のんびりしていたいんでしょう?」
この言い方で田上もマテリアルが、タキオンの言った事が嘘であることを見抜いているのが伝わったが、それで気分がよくなるという物でもなく、むしろ、それをからかってきているように感じた。しかし、その言葉には迷いながらも従った。マテリアルは、田上の右隣の方に寝転がっていたから、田上は女性二人に挟まれることになり、少しぎこちないながらも草地に寝転がった。再び、心地良い風が吹いた。タキオンは、田上が寝転がるとそっと袖から手を放し、横に寄り添った。
「君は、何をするときが楽しいんだい?…やっぱり趣味のゲームかい?」
「……ゲームもやっぱり楽しいけど…」
ここで田上が言い淀んだからタキオンが促すように言った。
「けど?」
「……あんまり人に言う事でもないな…」
本当は「タキオンと居るのがなんだか楽しい」とでも言おうとしたのだが、さすがにこれは、照れも激しいし、(正確には勘違いではないのだが)タキオンに勘違いさせてしまいそうで怖かった。タキオンは田上の答えに「えー」と残念そうな声を上げた。しかし、それでも田上は話そうとしなかったから、少し赤くなっているその耳にふぅ!と勢いよく息を吹いた。途端に田上は起き上がって鬱陶しそうに「うわぁ!」と声を上げた。タキオンは、その様子を見てハハハと笑ったし、ついでにマテリアルもハハハと笑っていた。起き上がった田上は、笑っているタキオンを恨めしそうに見つめて言った。
「トレーニングをするぞ…」
「ああ!待ってくれ!すまない。今のはほんの出来心なんだ。君の気を悪くするつもりはなかったから、どうか怒らないでもう少し一緒にのんびりしよう?」
別に脅すつもりで言ったわけじゃなく、もう切りが良いのでトレーニングを始めたかったのだが、タキオンが慌ててそう懇願するものだから、田上もなんだか申し訳なくなって再び寝転がった。すると、マテリアルの隠し笑いが田上の耳に入ってきて、田上はマテリアルの方を向いた。マテリアルも田上の方を向いていて、暫くにやにやしているマテリアルと目が合った後、言った。
「髪の毛に草が付いてますよ」
「んん?草?…付きますよ。そりゃ、寝転がっているんですもの」
そこでタキオンが横で体を起こす音が聞こえたから、田上がマテリアルと反対の方に居るタキオンを見上げた。タキオンは、土手の上の方を見上げて言った。
「昨日の子だ…」
その言葉が聞こえると、田上も寝転がったまま土手の方を見た。ふらふらと不安そうな足取りでリリックが来ていた。田上たちの方にはまだ気が付いていないようだった。それを見ても田上は「こっちだよ」と呼び掛ける気にはなれなかったが、タキオンが田上の代わりに手を上げて呼びかけた。
「そこの子!用があるのはこっちだろ?」
リリックは、タキオンを見ると嬉しそうに目を見開いたが、すぐにその目は不安に淀んだ。しかし、タキオンの呼びかけには応じて、土手を下ってタキオンの所にやってきて言った。
「何をしているんですか?」
すると、タキオンは「昼寝をしていた所さ」と陽気に答えた。リリックは怪訝な顔をして「昼寝…?」と言ったから、誤解されては不味いと思って田上が口を挟んだ。
「今からトレーニングをするところだったんだよ。…たまには、こうして休憩してみるのもいいから」
その言葉にタキオンとマテリアルがクスクス笑ったので、せめてタキオンだけでも黙らせるように少し眉を寄せて睨んだ。タキオンは、顔をニコニコさせたままくすくす笑いを止めた。リリックはまだ怪しんでいるようだったが、とりあえずは田上の事を信用して、その顔をじっと見つめた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。田上もそうやってじっと見つめられると、何を話していいのか分からなくなり、助けを求めるようにタキオンを見た。すると、タキオンも田上の様子を察して、リリックの方を向いて言った。
「君、名前は?」
「あっ、ファーストリリックです。友達とかには、リリーとかリリとか呼ばれてたこともありました」
「ふ~ん」とタキオンは、あまり興味がないように頷いた。だから、こちらも話が弾みそうにないので、タキオンが田上の方を見つめ返した。それで、田上も心の準備ができて、リリックに聞いた。
「ファーストさんは、走るのは好き?」
「は、い…」とリリックは考えながらも頷いた。田上は、その返答を聞いて少しリリックを見つめたが、次の質問をした。
「じゃあ、競走をしたときに勝ちたいとは思わないの?」
「勝ち、たいとは思います。…はい」
ここで田上は次に質問をするのを躊躇った。このまま矢継ぎ早に質問を重ねてしまうと、この子がまた話さなくなってしまうのではないかと考えたからだ。だから、躊躇ったのだが、次はタキオンの方から質問をしたい事があったようで、リリックを見上げながらこう言った。
「君、適正はどのくらいだい?…どのレースに出てたっけ?トレーナー君」
「えっと、確か2000メートルだったよね?」
リリックにそう聞くと、リリックは黙って頷いた。だから、田上が代わりに話を引き継いでタキオンに「だそうだけど」と言った。
「なら、私と同じ距離を走ったんだね?…走ってみるかい?私と並走してみるかい?」
タキオンがリリックに言うと、リリックは慌てて首を振った。
「そんな!勝てるわけないじゃないですか!無理です!」
「無理とは限らないじゃないか。聞けば、君は選抜レースで七着だったらしいが、仕掛けなかったんだろ?なら、まだ私にも追いつけるチャンスがあるんじゃないか?」
タキオンが煽るように言うと、リリックは言葉を詰まらせて、きょろきょろと辺りを見回した。まるで、逃げ道を探しているかのようだった。だから、田上にはそれが憐れに見えて助け舟を出すためにこう言った。
「君は、あれ以降に誰かトレーナーから声をかけられたりした?」
リリックは、首を横に振った。
「スカウトされなくて不安なんだよね?」
リリックは、今度は首を縦に振った。すると、その質問に反応して田上の振り向いて、タキオンがその目で田上の顔を睨んできた。――君、昨日の事は覚えているだろうね、といった目で田上に語り掛けてきた。田上もタキオンがそのような反応をするだろうということが分かっていたから、少し眉を寄せて――黙ってて、と目で語り掛けた。タキオンは、何も言わなかったが、その目は静かに田上を見据えていた。それを無視して田上は、う~んと唸った。タキオンの言いたいことは分かっていた。――同情なんかで動いちゃだめだ。 この言葉に偽りなんてないだろうと思うのだが、田上の心は今一つ決めきれずにいた。やっぱりこの子はなんだか可哀想だった。見てみると、長い黒い髪をあまり整えていないのだろう。少しぼさっとしているのが、田上から見えた。雰囲気はカフェと似ていた。そのこの周りに漂っているであろう不安さえ取り除けば、カフェの様に落ち着いた子になるだろうと思った。そこで、田上はまたタキオンを見つめた。タキオンは、尚も田上を見つめている。その顔を見てどうしようかと考えたが、とりあえず何か話さねばならないと考えて、田上はタキオンに向かって口を開いた。
「…ファーストさんは、カフェに似てるよね?…髪が長いところとか」
「…カフェ?…う~ん…」
そう言って、タキオンはリリックの顔を見つめて、それから言った。
「…うん、…目の色も一緒だし、髪も整えればそれなりに似ているんじゃないか?…ただ、カフェは死人みたいに色白だからね。そこらへんかな。似ていないところは」
それでリリックの方が口を挟んできた。
「カフェ?…もしかして、今年の有馬記念を優勝したマンハッタンカフェさんですか?」
それにタキオンが少し得意になって「ああ、そうとも」と答えた。タキオンが得意になったのは、リリックの方が興奮した面持ちだったからだ。
リリックは尚も興奮した面持ちで言った。
「じゃ、じゃあ、お二人は知り合いなんですか?いつから?…菊花賞の頃からでしょうか?」
「私が中学の時にここに入って、研究室を持ちたいと言った時からさ」
タキオンがそう答えると、リリックは嬉しそうに「へー!」と頷いた。
「…それじゃあ、…その、…田上?トレーナーの方も…光ったりするんですか?…テレビで少し拝見したことがあるような…。その時は、指先が光っていたんですけども」
これをいう時は少したどたどしかった。きっとリリックには、昨日、田上の事を邪険に扱ってしまった事が気がかりなのだろう。だから、話の流れとしてはタキオンが次に返答する番のように思えたが、田上がリリックの不安を和らげてあげようと口を開いた。
「最近は、タキオンが研究を止めたからなんともないけど、やってた頃は、指先だけじゃなくて髪の毛が青く縮み上がったり、ほくろが真っ赤に変色したり、目が光ったりもしたよ」
田上が急に口を開くと、リリックは少し怯えもしたがその話を聞いて行くうちに可笑しそうに口角を上げた。そして、クスクスと笑って、田上に言った。
「じゃあ、本当にモルモット君なんですね」
そう言われるとタキオンも田上も顔を見合わせた。こんな風にこの呼び方をされてみるとは思わなかったからだ。だから、最初に田上が若干苦笑をするように口角を上げると、タキオンも同じように口角を上げた。それから、二人の口角はぴくぴくと浮かび上がって、やがては、声に出すような笑いに変わった。ただ、田上は顔を背けて口を変な形に歪めたまま目を瞑って笑いを堪えた。タキオンは、クククと笑って、それからリリックの方を振り向いて言った。
「そうさ。モルモット君だよ。…今でもモルモット君だ。言えば何でも聞くからね。……君は、モルモット君に指導をしてほしいのかい?」
そう質問した時には、少し真面目な顔に変わっていた。だから、リリックもそれに釣られて口元の笑みを消して真面目、または少し怯えた顔になって頷いた。それを見ると、タキオンは田上の方を見つめて言った。
「君に指導してほしいそうだよ。……君はどうしたいんだい?」
そう言われると、田上は迷った。しかし、昨日のタキオンの言った事を思い出せばこう言う他なかった。
「……俺は、ファーストさんが仕掛けなかった理由とファーストさんの出しうる限りを知りたい。……面倒じゃなければ……うん…」
ここで田上が何かを言うのを躊躇ったから、タキオンが聞いた。
「何か言いたい事があるのかい?」
「ん?……いや、…今、どうしようか迷って…」
「迷って恥ずかしがったんだろ?……聞いてくれ、ファースト君。この人照れ屋なんだ。ただ話を聞くだけでも恥ずかしがる時がある。困ったものだよね。…君からも言ってみてくれ。…ぜひ、アグネスタキオンの飼いモルモット君に」
上手く助け舟を出されたのか、単純にバカにされたのか分からず、田上は少しもやもやとしたが、とりあえず、タキオンの言葉で救われた節もあったのでそれについては心の中で感謝を告げた。リリックもまた、そのような雰囲気をなんとなく察して、少し様子を窺うために黙っていたが、つい悪戯心が働いてしまったのだろう。こう言った。
「こ、この照れ屋モルモット君!」
途端にタキオンがハハハハと笑い出して、リリックはそれを見て顔を真っ赤にさせた。言った後で不味いと気が付いたのだろう。田上の顔を恐る恐る見つめていた。しかし、今度は怯えているリリックに優しくするどころではなく、自分自身もリリックの言動に驚いて少しの間固まってしまった。それでタキオンが田上の代わりに何か言ってあげるわけでもなく笑っているので、今まで話を黙って聞いていたマテリアルが初めて口を開いた。
「ファーストさん」
そう呼びかけると、リリックはマテリアルの方を向いた。そして、マテリアルが続けた。
「今のは、ちょっと不味かったかもしれませんね」
そんな事は百も承知だったが、そう言われると、リリックはこれにどう収集をつけないといけないかが分かったから、マテリアルに微かに頭を下げると田上の方を向いて言った。
「ごめんなさい、田上トレーナー。モルモット君は早過ぎました」
すると、やっと収まりそうだったタキオンの笑い声が再び盛り返してきた。田上は、リリックのその言葉で我に返って言った。
「…いや、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」
「ハハハ!…じゃ、じゃあ、ファースト君は、今後も君の事をモルモット君と呼んでいいわけだね?…大丈夫と言う事は」とタキオンが横から口を挟んできたが、それの答えは分かり切っているバカバカしい質問だったので、田上はタキオンの言葉を無視してリリックに言った。
「ファーストさんは、…あれは何か理由があって仕掛けられなかったの?それとも、ただ単にあれ以上は走れなかったの?」
田上がそう言うと、リリックは途端に目を泳がせ始めて動揺したが、田上はその顔をしっかりと見据えた。すると、リリックの視線は段々と定まってきて、やがては田上と目を合わせた。すると、また少しの間だけ、リリックは田上から目を逸らしたが、それもようやっと治まって田上に言った。
「………あ、あんまり分からないし、どう言えばいいのかも分からないんですけど、……前に進もうと思うと、足が思うように動かないんです。…まるで、誰かが引っ張ってるみたいに、…纏わりついてるみたいに重くなって走りにくいんです…。タ、タキオンさんを指導してきた田上トレーナーには、原因が分かったりしますか?…なんだか、あの時はいつも以上に酷かったんです」
そこで少し冷たい風が、リリックの黒髪を揺らして田上の方にびゅうと吹いた。田上は、乾いた風に吹かれて瞬きをした。そして、タキオンの方を見た。タキオンは、もう笑うのは止めていて、今は田上が話すのを静かに見つめて待っていた。今、この場にいる全ての人が田上の発言を待っていた。後ろに居て表情が見えないマテリアルでさえも待っているであろうという事が田上には分かった。
田上には、昨日、トレーナー室でタキオンと話し合った事が再び頭に浮かんできそうになったが、その考えは頭の中のゴミ箱に捨てて、簡単に思い浮かんだことを言った。
「……う~ん、…多分、緊張が主な理由だと思うよ。あんまり人に見られてした事もなかったんじゃないか?…そういうのが仕掛けられない理由だったのなら、これから経験を積めばそれは解消されていくと思うよ」
そう言うと、すぐさまリリックが言った。
「でも、いつも苦しいんです。小学校の運動会でも同じ苦しさはありました」
「…でも、足が速いからこの学園に来たんでしょ?」
田上がそう返すと、リリックは言葉に詰まりながらももどかしそうに言った。
「足が速い事には速いです!……でも、この学園には小学校で一番足の速い人がたくさんいるんじゃないですか!…そしたら、私なんてただのごみくずで、ただの傍観者なんです!……あんまり人の役には立てません…」
それを言われると田上はタキオンと顔を見合わせた。これにどのような声をかけてあげればいいのか分からなかった。タキオンには、同情するなと言われているのだ。田上には、これに同情せずに声をかけるなんてことができなかった。だから、タキオンも立ち上がって、手を握り締めて地面を見つめているリリックの傍に寄って言った。
「ファースト君。…こっちを見てくれ」
その声にリリックは反応しなかったので、タキオンはため息を一つ吐いた後言った。
「…私は君に興味はないんだけどね。…私のトレーナー君が、君の事について迷っているらしいから、助言してあげよう。……それじゃあ言うけどね。…半端な気持ちでここに来るのは止めたまえ。私たちも君の悩みを真摯に聞いてあげる程暇じゃないんだ。今からトレーニングもあるんだ。覚悟を持たない君にここに居る意味はないよ」
そして、ここで一息空けると今度は田上の方を向いて言った。
「君もだよ、トレーナー君。君だって、半端な気持ちでこの子を呼んだんだ。スカウトするのかしないのか、それを今この場で決められないのなら、この子には帰ってもらうしかないよ」
タキオンの矛先が、急に田上の方に向いたから、田上はしどろもどろとして頭を掻いた。そして、胃液を吐くような思いをしながら言った。
「……今は決められない…」
そう言うと、喉が痒くなりだして、田上は摘まむように自分の首の皮を引っ張って、痒みを和らげようとした。タキオンは、田上の言葉を聞くとリリックに優しく言った。
「だ、そうだ。……話をしたいんだったら、いつでもここにおいで、話し相手ぐらいはしてあげよう。…でも、自分の道は自分で掴むんだよ。いつまでも話してたって、道は開けないからね。君自身が開拓者になる必要がある。なぁ、トレーナー君」
タキオンが田上にそう呼び掛けると、田上は動揺しながらも「ああ」と頷いた。それにニコッと笑いかけると、タキオンはリリックに言った。
「君はどうするんだい?今から帰るのかい?それとも、少し私のトレーニングを見ていくかい?」
その選択肢を提示されると、もう帰ろうと思っていたリリックの心が僅かに揺らいで、傍に居るタキオンに恐る恐る言った。
「見ていってもいいですか?」
そう言われるとタキオンは田上に「見てってもいいだろ?」と聞いた。田上は、神妙な顔こそしていたが、はっきりと分かるように頷くと、自分も立ち上がった。すると、マテリアルもそれに続いて立ち上がった。何とも言えない生温い風が田上たちの顔を撫でた。田上は、その風を感じるとなんだか物悲しくなったが、反対にタキオンはニヤリと笑うと急かすように田上に言った。
「早く土手から下りろ。そして、今日のメニューを言え。…大分、時間を食ってしまったぞ。巻き返さないといけない」
田上は、「はいはい」と頷きながら、背中をタキオンに押されつつ土手を下った。そして、マテリアルもそれに追従した。その後ろ姿を見ながら、リリックは土手の一番上の方に腰を下ろした。その時に不図、――あの中の一員になりたい、という思いが、リリックの胸に宿った。ただ、今は手が届きそうになかった。三人の後ろ姿が、去って行くのを見るだけだった。すると、タキオンが後ろを振り向いてリリックの方を見た。――君、見たいんじゃないのかい?と聞いているような目つきだった。だから、リリックは――自分はここでいい、という気持ちを表明するために、心ばかりの笑顔を作り右手を上げて小さく手を振った。すると、その気持ちが伝わったのか、タキオンがにやりと笑うと右手を軽く上げて、――分かった、というような合図をした。その様子にリリックはふふふと笑った。
それから、三人の様子を一時間ばかり見て、リリックはタキオンに手を振って、そして、他の二人に手を振って寮に帰った。