ケロイド   作:石花漱一

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十七、二回目の選抜レース④

 タキオンのトレーニングは、まだまだ続いていたが、それをここで話すことはなく、トレーニングも終了し、マテリアルも帰ってしまってタキオンと田上の二人だけになってしまった時に移る。

 春の夕日は、もうとうの昔に沈んでいて、寒く暗い夜空が二人の上に広がっていた。二人は、土手の上の方に座って寒々と広がる空を見つめていた。二人が、トレーニングが終わったにも関わらず、なぜ帰らないのかというと、タキオンが田上に「少し話をしよう」と呼び掛けたからだ。しかし、二人は暫くの間話さなかった。田上は少しそわそわとしつつもタキオンが話し出すのを待っていたのだが、タキオンは一向に話し出す気配がないので、田上も同じように空を見上げていた。

 タキオンが話し出したのは、田上が大きな欠伸をした時だった。隣にいるトレーナーを見つめ言った。

「……君は、私の言った事を少しは考えてくれたかい?」

「…?言った事?」

 田上には全く見当もつかず、その様子を見たタキオンは呆れた様に鼻から息を吐いた後、再び星空を見つめながら言った。

「もう少し私に打ち解けてほしいってことだよ。……ほら、今朝言ったろ?」

「…ああ、朝の事ね。……タキオンは分からないって言っただろ?」

「うん」

「……なんか、……こう、トレーナーとしてこう言うのはどういう物かと思うんだけど、……俺だって分からないんだ。…分からないことだらけだよ。前に進むったって、どういう風に前に進めばいいのか分からない。這いつくばればいい?マンガの主人公みたいに、ただひたすらに突き進めばいい?それとも、気でも狂えば少しはマシに前に進めるのか?……俺が今前に進んでいるのかだって分からない。今はたったの二十五歳だ。世の中を完璧に知るにはまだ少し若すぎる。六十になったって世の中を知っているのかどうかすら怪しい。そんな中でお前の気持ちをどうして知れる?どうして窺える?俺は自分の事をトレーナーって言ってるけど、人の上に立てたもんじゃないって言うのは、お前が一番知っているだろ?」

 田上がそう言うと、そこでタキオンがふふふと田上の顔を見ながら笑い出した。田上は少しむっとしてタキオンの顔を見つめていたが、タキオンが笑ったまま何も言わないので遂には田上の方から口を開いた。

「何が可笑しいんだ」

「ふふふ。…いやいや、いつもの事じゃないか。君はそうやって悩んでいるんだろ?それなのに今更畏まって言っているのが何だか可笑しくって」

「悪かったね。滑稽で」と田上が言うと、タキオンも少しは真面な顔をして言った。

「滑稽だから笑ったんじゃないさ。和んだから笑ったんだよ。そのくらい分かるだろ?」

「…分かりますよ」と田上が不機嫌そうに言った。

「おいおい、拗ねないでくれよ。ちょっとしたお遊びじゃないか。こんなことより話したい事はもっとあるんだ」

「…例えば?」

「例えば?…だから、さっきの続きで言うと、私は君が悩んでいるのを承知で君と付き合ってるんだ。私が世に言うマッドサイエンティストであれば、とっくに君の事は見放しているさ」

「…つまり、同情って事か?」

「…う~ん、…違うだろ。…これも君は分かっているだろう?要は、私は君と対等な立場にあると思っている。対等な立場にあると言う事は、別に同情なんて感情はなくても簡単に君を助けてやれるものさ。…分かるかい?」

 田上は、タキオンの言葉の意味を考えながらも頷き、そして言った。

「……立場が逆転してるな。…俺がタキオンに指導してもらっているのか?」

「それも不正解。立場なんて初めから、君はモルモット君で今もモルモット君だ。…今日もモルモット君だったね?あの時の君の驚いてる顔と来たら傑作だったよ」

 タキオンがそう言って、思い出し笑いでクスクス笑うと、田上も少し苦笑した。

「あれは本当に驚いたんだよ。…だって、あれは…突然だっただろ?もう少し大人しい子かと思っていたんだけど、急にあんなこと言うから反応のしようがなくて…」

「反応の仕様がない君ってのもまた面白いもんだ」

 そう言って、タキオンは空を見上げた。そして、何か言おうとしたのだが、それを躊躇うように唾を飲んだ。それから、涙が出そうなのか、見上げたまま顔をしかめて黙りこくった。田上は、その様子を横から見ていたから言った。

「…どうかしたのか?」

「………君は星が好きなんだろ?……また、あの時の様にどんな星がどこにあるのか教えておくれよ。夜空の様相も時が移り変わって大分変っただろ?」

 すると、田上はいつかの寮で夜空を見た時を思い出して、嫌な思いをした。だから、それを押さえつけるように舌先を前歯で軽く噛んだ。そして、一度目を閉じて心を落ち着けると言った。

「北極星は変わらないよ。ずっとそこにある」

「……そうか。…そうだよね」

 タキオンもまた心を静めるようにそう頷いた。それから、二人は暫くの間星を見つめ続けたが、タキオンにはどれがどの星なのかさっぱり分からなかった。田上は、薄ぼんやりとした頭でかつかつと星を数えていた。それで、北風が吹いて身震いをすると、我に返ってタキオンに言った。

「もう帰ろう。やっぱり寒い」

「……ああ、そうだね」

 タキオンは、田上の方を見ないままそう答えた。それを見ると、田上も心配になってタキオンの肩を叩いた。

「帰ろう」

 そこでタキオンが振り向いて悲しげに言った。

「……いつか意味の分かる日が来るのかな?」

「意味?」

「私たちが生きている意味だよ。こんなにどったんばったん暴れて必死に生きているというのに、意味は私に語り掛けてくれたことはない。……いつか人は報われるのかな?」

「報われ…るなんて俺の知る事じゃない。努力だって泥を浴びるんだよ。何にも成し遂げないで死んでいく人たちがいる。…そんな中の一人に俺がいるかもしれない」

 田上がそう言うと、タキオンはこちらを向いてこう返した。

「…そうだよね。ウマ娘なんて案外そんなものかもしれない」

 そう言ってからタキオンは立ち上がったので、田上も一緒に立ち上がった。再び冷たい風が吹いた。その風に揺られるようにタキオンは田上から少し離れた。それを見ると、田上は少しだけ寂しくなったが、タキオンが田上よりちょっと前の方を歩いていたのでその横顔さえ見る事はできなかった。

 そうやって二人は帰っていった。二人が去った運動場にはまだ人がちらほらいた。

 

 次の日は、タキオンの最後の大阪杯のウイニングライブ練習のため、トレーニングはなかった。だから、その日にタキオンに会うことはなかった。思えば、これが普通のトレーナーとウマ娘の関係なのかもしれない。

 田上は頬杖を突きながら、指先で机をこつこつと叩いた。

 トレーニングがなければ、別になんともない男と顔を突き合わせることなんてしないだろう。今までが異常だっただけだ。トレーニングでもないのにこの部屋に入り浸って、仲良く話をする。そんなのトレーナーのする事じゃない。何より好意なんて自分より年若い女の子に寄せてはいけないのだ。田上はそう考えると、座っていた自分のデスクから立ち上がった。そして、トレーナー室の窓の外から中庭を眺めた。芝生が青々茂っているのが見えた。だが、これは特に田上に感慨を抱かせなかった。それよりも田上の目に留まったのは、窓の前の出っ張りに置いておいた数々のタキオンを模した人形だったり、思い出の品々だった。しかし、それも感慨という物までにはいかなかった。

 田上は、その中の一つである、今年の正月の時の帰省に訳の分からない店員から貰ったウマ娘と男の人形を手に取った。ピンクの服を着たウマ娘は、タキオンを模して作ったのかと思うくらいタキオンに似ていたが、男の方は田上には似ておらず、色白で髭も濃くなく、目元がすっきりとしていた。それを見て、田上はいつの間にか止めていた自分の息を吐いた。そして、元の場所に戻した。それから、部屋を出て行き、トレーナー室替えの申請をしに行った。

 

 その申請は淡々と行われ、田上は眉一つ動かさずに書類に文字を書いた。それは、事務室の方で行われたのだが、その担当をしていた老人は優しいおじいちゃんで、瞬きすらしなさそうに見える田上を心配そうに見つめていた。だから、書類に文字を書き終えた後、礼を告げると共に親切に「ここがこれこれで…」と教えてくれたお爺ちゃんに報いるために、口元を少し緩ませて笑いのようなものを作ろうとした。しかし、それは笑いにはならずに口元も本当に緩んで見えているのかどうかは田上には分からなかった。分からなかったが、どうしようもないのでそのまま事務室から去って行った。

 その後に今日はやることがないのでこのままトレーナー室に帰ってもどうしようもないだろうという事に気が付いた。今は放課後だ。タキオンもダンスの練習をしている頃だろう。ならば、トレーナー室にタキオンが今後訪れる事もなかった。だから、田上はトレーナー室には向かわずにいつものトレーニング場へと向かった。足が自然とそちらの方に向いたからだ。トレーニングもしないのにそちらの方に向かってしまった。田上は、その事に少し後悔もした。このままトレーナー室に行って荷物を取って寮の部屋に帰れば、趣味のゲームもできて楽に過ごせただろうと思った。しかし、向かってしまったものは仕方がないと思うと、何もすることのないトレーニング場へ田上は向かった。

 

 何を期待していたのかは知らないが、案の定トレーニング場に指導する相手はいなかった。だから、少しため息を吐くと田上は土手に座り、そのまま体を草の上に寝そべらせた。トレーニング場には、霧島などの見知った顔を見かけたが、そいつらに話しかけようとは思わなかった。あちらの方から話しかけてくるなら別だが、今の田上には陽気に他人に話しかけていく元気はなかった。

 ここの土手には昨日の様に気持ちの良い風が吹いていたから、そこで田上は安らかに気持ち良く過ごした。時折聞こえてくる大きな呼び掛け声に耳を傾け、おっさんのでかいくしゃみを鼻で笑い、土手の上の方を通るウマ娘たちに変な目を向けられながら、田上はそれでも草の上で優雅に過ごした。時の流れは、とろとろと蕩けるように過ぎて行き、遅々として進まず、やる気を失くした蟻のように動かなかった。田上は、その中で生きていた。そのとろとろと流れる時を楽しんでいた。終始目を瞑ったままニヤニヤとその時を過ごしていた。一秒一秒をその肌で感じて、その心地良さに酔いしれていた。しかし、そういう時には必ず終わりが来る。その事を考えずに田上は過ごしていたので、土手の上の方から自分の名前を呼ばれた時は大層驚いた。

「田上トレーナー!」

 リリックの声だった。これが知らない人の声だったら、田上も一言目では気が付かなかったかもしれない。二言、三言言っても気が付かなかったかもしれない。しかし、唐突の知っている声だったので、急激に現実の時の流れへと引き戻され、「うぉん!?」という変な声を出してしまった。

 そして、体の半分を起こして土手の上の方を見上げると言った。

「ファ、ファーストさん!?…用事?」

「そうです、用事です。…私をスカウトしてください。覚悟を決めてきました。……タキオンさんは?」

「タキオン…さんは、今日はダンスレッスンですけど…」

 そう言って、田上もいい加減腰を捻ってリリックを見るのが辛くなったので、体勢を変えて四つん這いになってリリックを見上げた。これはこれで今度は首が痛くなった。

 リリックは、田上の返答を聞くと「そうですか…」と少し残念そうに言ったが、気を取り直すと田上に言った。

「ファーストさんじゃなく、リリーって呼んでください。そっちの方が馴染みがあります。…そして、…何をすればいいですか?」

「何?」

「スカウトの条件です。二千メートル走ったタイムですか?それとも、…何か、……スクワット何回できるとか?」

 そう聞かれると、田上も少し慌てた。こんなことをするのは予定になかったからだ。そもそもリリックについてもほとんど考えていなかったので、どのような選考基準を示すのかも何も考えていなかった。だから、咄嗟に出てきたのはこうだった。

「三十メートルシャトルラン、……どのくらいできるか…」

「んん?それでいいんですか?」

「…えっと、…じゃあ、タキオンと模擬レース?」

「タキオンさんと!?それじゃあ、敵いっこないですよ。シャトルランでいいです。…どこでするんですか?」

「えっと、…じゃあ、ここの端っこでしよう。あそこでするからついてきて」

 田上は、迷いながらもトレーニング場の隅の方を指差した。リリックは、なんだか頼りない田上に不満げだったが、黙ってその後ろをついてきた。リリックのその髪型は今日は後ろで結ってきていた。一つの束にして、長い黒髪を後ろに垂らしていた。彼女なりの覚悟の表れなのだろう。黒髪が縛られているとなると、彼女の顔も晴れやかに見えた。しかし、田上にはそんな事は関係なく、緩やかな午後の一時を邪魔された不満だけが胸の中に少し残っていた。

 

 田上は、自分が指差した端の方に来ると、三十メートルを自分の歩幅で測って、リリックに示した。

「ここからあっちだ。ファー、…リリーさん」

 その呼び方にリリックは、多少不満そうな顔を見せたが、それはやがて頷きへと変わって田上に言った。

「走ればいいんですよね。…目標は?」

「………自由でいいよ。結局、ウマ娘は走ってみるまで分からないし。……リリーさんの場合は特にそうなんだろ?」

 田上がそう言うと、リリックは不意に目を落とした。そして、何かを求めるように地面を見つめたが、やがて田上に言った。

「……走るのは好きです。これは、自分の中にずっと存在します。……しかし、同時に訳の分からない自分も居ます。…田上トレーナーにはこれが分かりますか?これを解決へと導くことはできますか?」

「解決は……」

 田上は自分の状況を思い、言葉を続けるのを躊躇した。しかし、結局は言わねば話は進まないと思い、言った。

「解決できる保証はない。…俺もそんなもの分かろうと思わないし、また、分かりたくないからだ。…だけど、その分からない自分で人が苦しんでいるんだったら、俺はそれを救うために尽力する。それは、約束する。絶対に苦しさにもがいているまま放置したりなんてしない。もうあんな事はしない」

 すると、リリックは不思議そうな顔をして聞いた。

「あんな事?」

「……一人で戦地へ赴くことだよ」

「…タキオンさんの事ですか?」

「……走れ」

 リリックの面倒くさい質問に田上はしかめっ面で凄んだ。しかし、その効果にあまり大したものはなかったようだ。リリックは、スタート地点についたものの田上の凄みなんて気にせずに可笑しそうに笑っていた。

 それから二人は、シャトルランを始めた。と言っても、この場にカウントをできるものがなかったので、田上が一旦トレーナー室にカウント計を取りに戻った。それからようやくリリックは走り始めた。事は淡々と進んでいった。リリックは、田上の予想外に粘った。リリックの走りを見た時は、――この子はマイルから中距離向きかな?と思ったが、それ以上にリリックは走り続けた。その様子を見ていると、自分の限界をも超えて走り続けているようで心配になったが、ちょうど百五十を超えたあたりで音を上げてへたへたと座り込んだ。そして、息も切れ切れに田上に言った。

「…ス、スカウトできそうですか?……これが私の全てです」

 そう言われると、田上も何かを迷うように眉を寄せたが、結局は頷いて言った。

「スカウトさせてくれ。持久力は申し分ないよ」

 それでリリックは疲れた様にへへへと笑った。

「……一回で済んでよかった。……もし、これでもダメだったら、あの手この手でどうにかして認めさせるつもり…でした。…ありがとうございます…」

 そして、リリックは疲れた頭で羞恥心なんて忘れ果てて、足を畳み頭を地面に擦りつけて感謝を告げた。それをされると田上も慌てて「いいからいいから!」声を上げて、土下座を止めるように頼んだ。すると、リリックはまたへへへと笑って言った。

「タキオンさんと一緒にトレーニングするのが楽しみです」

「……そんなにタキオン…さんの事が好きなの?」

「ええ、憧れの人ですよ。ウマ娘は皆あの人の様に走ってみたい」

「…でも、クラシック期のどこかの雑誌を見れば、タキオンは俺を実験動物として扱っているみたいに悪く書かれている記事が出てくるぞ」

「…そんなことは承知ですよ。…でも、田上トレーナーとタキオンさんの様子を見てみれば、そんな関係じゃないってことは丸わかりじゃないですか。ただのトレーナーとウマ娘じゃありませんよ。……まるで、対等な友達ですよ」

 リリックは、そう言うと田上の返答を待たずにふーっと疲れを抜くように大きく息を吐いて立ち上がった。そして、ニコニコ笑いながら言った。

「トレーニングはいつからですか?デビューは?」

「…デビューは、六月からが決まりだ。そこから、デビュー戦が始まる。…だから、無闇に焦ってスカウト先を探さなくても良かったんだぞ」

「…別に大丈夫です。タキオンさんと一緒にトレーニングができるなら」

「…そうか…」

 田上は、そう言って目を落とした。そして、再び目を上げると言った。

「俺がリリーさんのトレーナーで、デビューさせるには契約が必要だから、近々、親御さんの方とも話をしないといけなくなる。勿論、直接でもただの電話でもいい。…でも、保護者の許可が必要だからな。色々と書かないといけない。…大丈夫?」

「...大丈夫です。久々に母さんと話がしたいと思っていた所です」

「…最後に会ったのは?」

「親の事ですか?……えっと、…ここに越してきてからだから…、二月の三連休?です…。その後も電話とかで話はしたけど…」

 田上は、「ふぅん」とあまり興味がなさそうに頷くと、その後に何を言おうか迷って、こう言った。

「とりあえず、トレーナー室の場所を教えるから明日来てくれ。そこで、書類やらなにやらを渡す。マテリアルさんとタキオンにも紹介するから放課後には必ず居てくれ」

「今日じゃダメなんですか?」

「今日はダメだ。トレーナー室に行っても誰もいない。誰も来ないからな。…今日はもう休憩だ。じゃあ、トレーナー室の場所を言うからな。良く聞けよ」

 そして、田上は自分のトレーナー室の場所を口頭で伝えた。その後に、分からなかったら事務室で聞け、とも伝えた。それから、口早に「さようなら」と言うと、田上はそそくさと自分の寮へと帰っていった。リリックは、まだ自分の寮に帰る気にはなれなかった。体が疲れて軋んでいるようだったが、その軋みはまだ帰りたくないと自分の脳に告げていた。だけども、体は疲れ果てていてこれ以上運動をする気にもなれなかったから、リリックは田上が寝転がっていた土手に自分も寝転がった。すると、草の間をするすると抜けて心地良い風がリリックの首筋をくすぐった。そのくすぐったさを暫くは我慢していたのだが、やがては大きな笑い声に変わった。人目もはばからず、リリックは気の赴くままに笑い声を大きくしたり小さくしたりして、笑い転げた。それくらいに自分の覚悟が報われたことが嬉しかった。田上に認められたことが嬉しかった。タキオンと同じ師を仰ぐことが嬉しかった。

 リリックは笑いに笑い転げた。その笑いは、今の所陽が落ちるまで止まりそうになかった。しかし、リリックに声をかけられた田上の様に、リリックにも笑いの終わる時が訪れた。

 突然、土手の上の方から「リリックちゃん?」と声をかけられて、リリックの頭は一気に冷めやった。むしろ、一気に冷え切り、凍えるように――不味い、という後悔の念が押し寄せた。ただ、土手の上から声をかけてきたリリックの同室の子は、リリックが考えたような事は言わずにこう言った。

「リリックちゃんってそんな風に笑うんだね。…そこに寝転がるとそんな風になるの?…それとも、リリックちゃんは元々そうなの?」

 決して意地悪なからかいのような物言いではなく、リリックはほっと安心したのだが、その質問には困り切ってしまった。どちらも答えとして当てはまっているように感じたからだ。別にどちらか選べと言われたわけではないのだが、選択肢を提示されるとどうにも迷ってしまった。それを感じたのだろうか。リリックの友達はこう言った。

「私もそこに寝転がって見ていい?」

 それには、リリックも「どうぞどうぞ」と答えて、場所はいくらでもあるにもかかわらず、自分が寝ていた位置から少し移動した。そこにリリックの同室の子と、その子が連れていたリリックの知らない友達が寝転がった。

 それから、リリックの同室のオータムはニコニコしながら言った。

「リリックちゃんの気持ちが分かる。……ここに寝転がると、笑い出したくなるね」

 そう言うと、オータムの友達が突然に笑い出した。それをリリックが驚いて見ていると、少し間を空けてからオータムも笑い出した。先程リリックがしていたように人目もはばからずに大口を開けて笑い転げていた。リリックには、それが理解できずに呆然と眺めていた。リリックは寝転がらずに、ただ二人を見つめていたが、オータムがそれに気が付くと言った。

「リリックちゃんもとりあえず寝転がりなよ。じゃないと、始まらないよ?この笑いは」

 そう言われたから、リリックはオータムの言う通りなんとなく寝転がった。その時は少し緊張していた。オータムと知らないウマ娘の笑い声が、リリックの頭に鳴り響いていた。しかし、ようやって草の上に寝転んでいるうちに、今度は風ではなく何かの匂いが鼻を突いた。――何の匂いだろう?…そうやって鼻をすんすんとさせて匂いを嗅いでいるうちに、なんだか口角が上がってきた。けれど、笑いまでに立ち上がろうとはしなかった。横の二人は尚も笑い続けていた。その内、寝転がっているのに自分だけ笑っていないのが、なんだか気まずくなった。だから、居心地が悪そうに体をモジモジさせた。春風が、リリックの体に吹きつけたが、到底笑う気にはなれなかった。それでも、二人は笑い続けている。いい加減、リリックはこの場を抜け出したくなって言った。

「…帰っていいですか?」

 途端に二人の笑いが収まって、両方の顔がリリックの方を見つめてきたので、リリックは怯えた。しかし、オータムはリリックの怯えなど関係なしにこう言った。

「帰りたいんだったら、いつでも帰っていいよ。私たち、まだここで笑っていたいし。…ね?」

 そう言って、オータムは自分の友達の方を向いた。その友達は、「いいよ」と答えたが、体の半身を起こして、リリックをよく見ると言った。

「名前、何て言うんですか?」

「……ファーストリリックです…」

 そう答えると、青白い髪の子はふふっと笑って言った。

「私の名前は、イツモ。イツモちゃんって、オーたんは呼んでる」

 オーたんと呼ばれたオータムが、二人の間に挟まれて寝転がったままニコッと笑った。それから、イツモは続けて言った。

「リリーって呼んでいい?私の事も渾名で呼んでいいし、普通にイツモって呼んでいいから」

 それから、返答を誘うように首を傾げた。だから、リリックも言った。リリックは、実の所びっくりしていた。小学校の頃と同じ呼び方を、この子もしてくれるというのだから。そのためか、少しその子の事を警戒していたリリックの口からも簡単に言葉が出てきた。

「リリー…でいいです。…教室ってどこですか?」

「教室?…私は、Aの1だけど」

「よかった!…私もそうなんです。オータムさんもそうでしたよね?」

「…私もそうだけど…」

 そう言ったオータムの顔は少し怒ったように頬を膨らませていた。

「…私抜きで仲良くなろうだなんて、少し傲慢じゃなくって?…真ん中に私が居るんだから、私こそ真っ先に仲良くなるはずでしょ?…それなのに…オータムさん?ほらっ」

 そう掛け声を発すると、オータムはリリックの脇をくすぐり始めた。すると、突然のくすぐりに抵抗できず、かと言って抵抗しようにもそれ程仲が良くないので気が引けて、リリックはただくすぐられるのみとなった。イツモもオータムと一緒になってリリックの脇をくすぐっていた。だから、リリックはせめてイツモだけでもと思うと、笑いながらもその脇に手を伸ばして、くすぐるように突っついた。すると、「ひゃん!」と声が上がって、オータムが手を止めた。イツモは女性にしては声が低い方だったので、こんな声を出すとは思えなかった。

 イツモは、自身も信じられないという風に口に手を当てて黙っていた。それから、二人の視線に気が付くと、顔を赤くさせて「私~、脇が弱くって」と言った。途端に、オータムとリリックはにやりと笑った。そして、二人して一斉にイツモにとびかかった。今度は、イツモの甲高い笑い声が周囲に響き渡った。トレーニング場で、自分のウマ娘を指導していたトレーナーが思わず振り向いて、「元気なウマ娘がいるなぁ」と呟くくらいには、笑い転げていた。イツモをくすぐっていた二人もいつしか笑い転げていた。いつの間にか脇から手を放したのかは分からない。しかし、三人とももうすでに脇をくすぐられていないというのに、未だに笑い転げていた。

 すると、リリックには分かった。これが笑うと言う事だ。なぜ二人が笑っていたのか。それは、心底楽しいからだ。その事に考えが至ると、尚の事笑いが込み上げてきた。でも、何か叫びたくなって、三人で笑い転げている最中、こう叫んだ。

「楽しい!!」

 それはどこまで届いただろうか。大分、遠くまで聞こえたようにも感じたが、リリック一人だけにしか聞こえていないようにも感じた。実際に、他の二人はリリックの叫びなんてお構いなしに笑い転げていた。聞こえたか聞こえていないのか分からない叫びも、リリックの笑いに吸収されていった。それから、三人は、イツモが笑い疲れて、ぜぇぜぇ言って「もう帰ろう」というまで、笑い転げた。リリックはとっても楽しかった。

 その土手には、明るい夕日が差していた。その夕日を見て、リリックはその陽に自分の手をかざし、自分の手の血の赤さを眺めた。

 同じ時刻に田上は、自室の窓から校舎に隠れゆく夕日を眺めた。眉間に皺が寄っていた。それも、暫くするとため息をついて部屋のカーテンを閉めた。そして、部屋に明かりを灯した。

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