十八、大阪杯まで
次の日、三月二十六日の火曜日となった。大阪杯までは、あと五回寝るばかりだ。リリックの学校生活はまだ始まっていない。授業を受けるどころか、教室で顔を合わせる事すらしていないのだ。勿論、寮の中で歩けば、同じ学年の子や同じクラスの子が見つかるだろう。しかし、この先どうやっていけるのかも分からないまま、友達を作ろうというのはリリックには困難だった。だから、昨日、今後付き合いの長くなりそうな友達を作れたことはリリックには幸運だった。同室のオータムとは、以前よりもっと打ち解けて話しやすくなり、リリックにとっての日々のストレスが解消された。
それは、リリックにとってストレスだったのだ。その事をオータムと仲良くなってから、リリックは気が付いた。これが他人との付き合い方だとリリックは思っていたが、そんな事はなく、ただの人見知りだった。これが、あと一月二月も立てば自然と仲良くなり、人見知りも気付かぬままに通り過ぎて行ったのだろう。――そうじゃなくてよかった、とリリックは思った。こうやって劇的に環境が変化してくれたおかげで自分を見つめ直すことができた。このまま、人見知りとしての自分に気づかぬうちに知らない人と関わって苦労するのなら、人見知りとしての自分に気が付いてそれに対処法を見つけたほうがやりやすかったのだろうと思った。
今朝も寮の共有スペースでイツモを見つけることができた。短い髪を後ろで縛っている彼女に手を振ると、そちらの方も笑って手を振り返してくれた。それを見ると、リリックももっとにこやかになって、るんるんで朝の食事へと急いだ。イツモと食事をしようという考えは、初めから頭になかったが、食べている最中で誘っておけばよかったと思った。しかし、朝に共有スペースに居たイツモの様子を思い出すと、なんだか忙しそうに見えた。オータムもそのような感じだった。二人とも走れる人らしかったから、きっとトレーナーからの勧誘などで忙しいのだろう。そう思うと、また一口ご飯を食べた。
リリックの今日の行き先は、トレーナー室と決まっていた。あそこで一日を過ごしてしまおうと決めた。寮の部屋に居たってスマホを見るばかりで特にすることもないし、トレーナーがいるのなら話し相手になってくれるだろうと思った。オータムは、そういう意味では役に立たない相手だった。部屋に居るときは専ら勉強をしている、優等生気質だった。――何が好きで勉強をしているんだか…。特に勉強が好きでないリリックは、オータムの事を少しバカにしていた。別にオータムの事を、真面目気取っているというような否定はしないのだが、熱心に勉強をしたって得られない物はたくさんある。というのがリリックの考えだった。仲良くなった今、この事について議論を持ち掛けてみてはどうか?とも思ったが、――熱心に勉強しているのなら、その邪魔はしないであげよう、と思い、わざわざ喧嘩を吹っ掛けるような真似は止めた。
リリックは、トレーナー室の前に着いた。あんまりこの学園にも詳しくないので不安ではあったが、恐る恐るながらもそのドアをノックした。すると、中から田上であろう声が「どうぞ」と言ってきたので、ほっと一安心してドアを開けた。中には、金髪の綺麗なお姉さんと田上が椅子に座って待っていた。綺麗なお姉さんは、入って右側にあるソファーの近くに突っ立って、入ってきたリリックを見ていた。だから、リリックとマテリアルの目が合うと、マテリアルがニコッと笑いかけて「おはよう」と言ってきた。それにリリックも「おはようございます」と返した。
それから、部屋の中に入って行くと、田上が言った。
「おはよう。…早かったな。……えっと、…何から話せばいいかな…」
「じゃあ、私からいいですか?」
マテリアルが手を上げて意気揚々と言った。それに田上は「じゃあ、どうぞ」と返すとマテリアルがリリックに向かって言った。
「初めまして…ではないですが、私の名前は、ナツノマテリアルです。ファーストリリックさんですよね?名前は存じていますよ。…よろしくお願いします」
そう言ってマテリアルが白く綺麗な手を差し出してきたから、リリックもその手を躊躇いながらも握り返した。すると、予想以上に肌がすべすべで驚いた。リリックは、暫くの間、マテリアルの手を放さずに、その手を見つめながら呆然と握っている方の手の親指でマテリアルの手の甲を擦り続けた。それにマテリアルは苦笑して言った。
「私の手がそんなに好きですか?」
そう言われた途端に我に返って、こう返した。
「…いえ、…私の母の手ってもう少しごつごつして、汚かったんです。…だから、女の人の手って大体あんなものだと思っていたんですけど、…こんな手もあるんですね…」
そう言いながら、またマテリアルの手を擦った。今度は、何を許されたのかと思ったのか、左手でマテリアルの右手を掴み、右手でマテリアルの手の平を丹念に触っていた。その二人の様子を見ていた田上は、何を見せられているのかと呆れて、そこから目を逸らした。その目を逸らした先は、回転する椅子をぐるりと巡らした窓の方で、窓の方を向けば色々なタキオンのグッズが目に映った。――これも片づけないとな…。窓から差す陽の光が、タキオンを模した大きい人形に影を落とし、それが田上の目に移りこんだ。しかし、田上は何の感慨も抱かずに、その目をまた部屋の方へと向けた。向けたところで、時間は十数秒しか経っていなかったので、状況は何ら変わっていなかった。だから、田上が言った。
「マテリアルさんの手もいいけど、俺が話もしてもいい?」
そこでようやくリリックが慌てて手を放し、言った。
「タっ、タキオンさんは?」
「タキオンは、来るか来ないかは分からないけど、放課後にトレーナー室に来るようには連絡はつけた。…昨日は来なかったから、今日も来ないかもしれない」
田上はそう言うと、一つ間を残してから言った。
「今は大阪杯間近だから、本人も戦意が高ぶってるのかもしれない。…集中したいんだったら、タキオンの好きなようにしてやるさ。…で、リリーさんの書類だ。ちょっと待っててくれ」
そう言って田上は、自分のデスクの引き出しを開けて、がさごそと書類を探し始めた。そして、二、三枚の書類を取り出すと自分の席を立ってソファーの方に行き、リリーにもそこに座るように合図した。すると、マテリアルは、当然の様に田上のデスクの方に行き、田上の椅子にドカッと座って足を組んで、ソファーにいる二人の様子を眺め始めた。
そのマテリアルの様子を見て、田上はふっと笑ってから、リリックに言った。
「これが契約の要項の紙で、これが色々書くやつ。それに、これが親御さんが書く用のだ。リリーさんがこんなに早く来ると思わなかったから、これの見本用のコピーをまだ印刷していない」
リリックが、うんうんと頷いたのを見ると、田上がまた続けた。
「俺がこれから、見本用の奴をリリーさんとその親御さんの分を印刷してくるから、ここで何かして待っててくれ。…何かあれば、マテリアルさんにな」
そう言うと、田上はソファーの前の低い机に広げた書類を集め直して、立ち上がって出て行った。すると、部屋は一気に静かになって、リリックにとっては気まずい沈黙が流れた。しかし、マテリアルにとっては違ったようだ。田上が出て行ってから少し黙った後、軽くこう聞いてきた。
「ファーストさん。私もリリーって呼んでいい?凄くおしゃれなあだ名だから、私も使ってみたい」
リリックは、マテリアルが座っている田上の椅子に背を向ける形で、ソファーに座っていたのでマテリアルを見ようにも少しばかりの緊張であまり体を捻らせることができず、中途半端に後ろを向きながら「は、はあ…」と曖昧な返事をした。
マテリアルにリリックが緊張しているのは、決して人見知りだから、という理由だけではなかった。あんまりにも綺麗なお姉さんだから、自分が酷くちっぽけに見えて、このぼさぼさの髪が情けなく思えたからだ。ただ、リリックには、美容の事なんて母に教えられたこともなく、友達からも聞いた事がなかったから、今更どうしていいのか分からずに手の出しようがなかった。その考えを知ってか知らずか。マテリアルは、立ち上がってリリックの向かいのソファーに座ると言った。
「リリーちゃんは、…髪とか、整えないの?せめて、櫛だけでもしたら綺麗な黒髪だと思うよ」
「えっ、…えっと…、ナツノさんは化粧ってどのくらいしているんですか?」
「私?私は、自慢じゃないけど、元の顔が良いから化粧なんてほとんどしてないよ」
そう言いながら、マテリアルがにやっと笑った。どうやら、冗談のつもりのようだったが、それに反応するようなことはリリックにはできずに次の質問をした。
「……私って、化粧とかした方がいいですか?」
「化粧は、…してもしなくてもいいんじゃない?結局人それぞれなんだし、リリーちゃんは十分綺麗な顔をしていると思うよ?」
そう言われると、リリックは小さく「ありがとうございます」とお礼をした。すると、次はマテリアルの方から聞いてきた。これは、リリックには少し鬱陶しかった。
「リリーちゃんは、好きな男の子が小学校に居たりした?それとも、この学園でかっこいいトレーナー見つけた?田上トレーナーとかどう?あの人独身だよ?」
「田上トレーナー?」
少し嫌な顔をしながらも律儀に話に乗った。
「…田上トレーナーって、何歳ですか?」
「二十五だね。もっと年が近い方が好み?」
「いや、……あの人、四十くらいの顔してませんか?」
「え?…つまり、老け顔って事?」
リリックの言葉を聞いて、マテリアルが一気にニヤニヤしだした。その様子にリリックは気が付いていたし、言ってる事も本人に聞かれたら不味い駄目な事だと分かっていたが、マテリアルの顔に流されてリリックはそれに「はい」と答えた。すると、マテリアルがハハハハと笑い出した。リリックは、他人の悪口を言って人を笑わせたのが良い事なのかどうか判別に迷って、とりあえず、マテリアルに合わせて自分も口の端を上げた。
そこでガチャとトレーナー室のドアが開いて、リリックは飛び上がって驚いた。今のを聞かれていたら、どう弁明しようかと焦る頭で瞬時に考えた。しかし、入ってきたのはタキオンで、部屋に入ってくると不思議そうな顔をしながらこう尋ねた。
「何か可笑しい事でもあったのかい?」
リリックに目を向け、マテリアルに目を向けて、タキオンはそう聞いていた。リリックは、当然、自分の失言とも言える代物を広めたくはなかったので、それには答えなかったが、代わりにマテリアルがタキオンに答えてしまって、その話を聞いている間冷や汗が止まらなかった。
マテリアルは、こう言った。
「あのね。リリーちゃんが、…いや、タキオンさんは田上トレーナーの顔をどう思います?」
タキオンが田上の事を好きだと知っているマテリアルがそう聞いてきたのだから、タキオンは喧嘩を売ってきているのかと思って、少し苛ついたがリリックの手前平然としてこう答えた。
「…まぁ、良からず悪しからずと言ったところだろうね。…まさか、君たち私のモルモット君の顔に点数つけて遊んでいたんじゃないだろうね?」
タキオンが眉を寄せながらそう言うと、マテリアルも不味いと思ったのかリリックを庇いながら弁明した。
「いや、別に点数をつけてバカにしてたんじゃありませんよ。…ただ、リリーちゃんに――田上トレーナーが何歳くらいに見えるか?って聞いたら、――四十歳くらいに見えるって答えたから、笑ってたんです。事故ですよ、事故」
「ふぅん」とまだ怪しんでいるような声を出して、二人の顔を眺めたが、その顔から眼を話すと田上の椅子の方に歩いて行き、そこにドカッと座って言った。
「まぁ、ファースト君の言う事も分かるよ。確かに、彼、四十に見えるくらいに疲れた顔して、突っ立ってるんだから」
すると、またドアがガチャと開いた。今度は、田上が入ってきた。タキオンの言葉の最後の方で入ってきたから、何か話してたまでは聞こえていても、何を話していのかまでは聞こえなかったようだ。だから、田上の椅子に座っているタキオンに聞いた。
「何か話してたのか?」
「…いや、君が四十歳に見えるってマテリアル君が…」
「えっ?」と田上が、まあまあ大きなショックを受けてマテリアルの方を見た。すると、マテリアルも何か言おうとしたのだが、それはぐっと堪えた。本当は、「私じゃなくて、リリーちゃんですよ!」と言いたかった所なのだが、こんな所で中学一年生を生贄にするのは、大人の立場として見過ごせなかったので、代わりにこう答えた。
「よ、四十って良いと思いますよ!男が出来上がる年齢です!ハリウッドの俳優だって、四十くらいのおじさんが一番かっこいいじゃないですか!」
これは、上手く田上を黙らせることができたようだ。納得が行くには至らなかったが、有無を言わせない言葉選びだった。さすがの田上もハリウッド俳優を差し合いに出されたら、自分がその器でないと分かっていながらも黙る他はないだろう。だから、複雑そうな顔をしながらもソファーの前の低い机の前に行くと、膝をパキパキ言わせながらしゃがみこんだ。そして、リリックの方を見ながら二つの封筒を差し出した。二つとも油性ペンで文字が書かれていた。一つは、封筒に直に『ファーストリリック』と書いてあり、もう片方には封筒に養生テープで『保護者』と書かれていた。
それを手に持ちながら田上は言った。
「これがリリーさんのだ」
すると、突然にタキオンが口を挟んできた。
「リリーさん?君、いつの間に仲良くなったんだい?」
それを言われると田上は鬱陶しそうに眉を寄せたが、事のあらましをタキオンに言っていなかったことに気が付くと今度は立ち上がってタキオンの方を向いて言った。
「そう言えば、タキオンさんには言ってなかったな。…リリーさんをスカウトした。今、トレーナー契約の準備をしてるところだ」
「んん?…私、君を怒らせるようなことをしたかい?君、いつもタキオンって私の事を呼んでただろ?」
「してない。俺が決めた。今までの距離が近すぎたから、今日からはお前と適切な距離を取っていこうと思う。以上だ」
そうして、田上がまたリリックの方を向こうとしたから、タキオンが慌てて言った。
「ちょっと待った。…益々分からない。今までそんなこと気にして無かったろ?何で今頃?」
「気が変わったからだ。振り回してすまない。だけど、適切な距離を取らないと、今のままでは駄目だと感じた」
「何でダメなんだい?別に、これまで私が君を実験体として扱ってきて批判されたことはあったけど、距離の近さで批判されたことなんて一度もないよ?…それとも、いよいよ人が怖くなりだしたのかい?私でさえ怖いと?」
「………お前だから怖いんだ。これ以上、近づかないでほしいんだ。…これまで通り、お前のサポートは全力でするから、俺の事は放っておいてくれ」
「なら、そのサポートの一環として私の名前を従来の通りに呼びたまえ」
「なんで?」
「なんで?私がそう呼んでほしいからだよ。今まで通りの呼び方をして、私の名前を呼ぶ度に変な緊張が走らない方がいいだろ?少なくとも、君が今後その呼び方をするのなら、その度に私は君の事を睨みつけるよ」
そう言われると、田上も何か反論しようと口を少し開けたが、それはすぐに閉じてしまった。そして、代わりに「分かったよ…」と消沈した声で言った。タキオンは、ふーっとため息を吐いて、田上から顔をそらして、田上の机の方に向かった。そして、暫く黙った後、田上の説明を受けているリリックに言った。
「リリー君」
リリックは、話している田上とタキオンの呼びかけ、どちらに反応すればいいのか分からずに、首を中途半端に向きたいほうに動かしていたが、田上がタキオンの方を見たのを確認すると、自分もタキオンの方を向いた。リリックがタキオンの方を振り向くと、そのまま言った。
「君、今のを見ていただろ?このトレーナー、腕はそこそこに立つけど、このトレーナー程に不安定なトレーナーは居ないよ。それでも、君はこのトレーナーに教わりたいのかい?」
その事にはリリックもちょうど迷っていた時だった。田上の話を聞きながら、自分がこの場に馴染めるのか不安になっていた。そこに助け舟なのか、ただの泥舟なのか分からない質問が飛び込んできた。ただ、この質問に答えようにも、自分の不安な心境を話してしまえば、田上の失礼になってしまう事極まりないのでリリックは答えられなかった。だから、苦し紛れに田上をチラッと見た。すると、田上と目が合い、聞いてきた。
「俺は、リリーさんを精一杯指導するつもりだけど、こうなってしまう可能性もあるかもしれない。また、このチームにいる以上、タキオンと俺がこうなってしまう場面が多々あるかもしれない。…俺もできるだけこうならないようには努めるが、避けられないものは避けられないだろう。別に、もうここを立ち去ってもいいけど、決めるのは、俺じゃなくてリリーさんだから煮るなり焼くなり、何でも言っていいよ」
そう言われると、少し考え込んでから、今度はタキオンの方に体を向けると言った。
「タキオンさんは、なんで田上トレーナーと契約をしたんですか?」
「契約?…別になんら普通の人と変わらない、――モルモットとして使う代わりにトレーナーとして契約をしてあげるよ、という物だよ」
普通の人と何ら変わらない、という大嘘を吐きながらもタキオンは、平然と自分の手の爪を見つめていた。
それに、リリックは言った。
「じゃあ、今は研究をしていないと聞きましたが、それでも、田上トレーナーを師として仰いでいる理由は何ですか?」
「師ぃ…。ん~、そうだな。……そりゃあ、友達だからだ。と言ってもいいけど、それに特に意味はないね。今、トレーナーを探さねばならないとなったら、全然別のトレーナーを見つけてくるかもしれない」
「…そうですか…。じゃあ、田上トレーナーにタキオンって呼んでほしい理由って何ですか?」
「んん?面倒臭い質問ばかりするなぁ、君は。…そうだねぇ。…そりゃあ、トレーナー君に離れてってほしくないからだ。せっかく仲が良くなったのに、それをわざわざ故意に壊しに行くなんて勿体ないだろ?…そうだろ?トレーナー君」
すると、田上は眉を寄せて「そうかもしれません」と答えた。その次にタキオンが言った。
「ほら、こんな調子だ。トレーナー君の下についたって意味がないかもしれないよ?」
「…そうかもしれません…。そうかもしれないんですけど…、分からないんです。…私の質問が悪いのかもしれません…。……じゃあ、タキオンさんは田上トレーナーの事が好きで田上トレーナーの下に居るんですか?」
「好き!?」
リリックの言葉にタキオンの心臓と田上の心臓が一緒になって飛び上がったが、二人ともリリックの言葉に夢中になって、お互いの様子を観察する暇などなく、敢え無くお互いの好意に気付けそうな場面を見過ごしてしまった。その様子を見ていたマテリアルだけがクスクス笑って、大きな笑いを堪えていた。
タキオンは、少々早口で言った。
「…まぁ、嫌いなことはないし、人として好きだから傍に居るわけだけど…」
「なんで、田上トレーナーの事が好きなんですか?――振り回して済まない、ってさっきトレーナーが言っていましたが、これまでもこういうことがあったんじゃないですか?すると、田上トレーナーはタキオンさんを振り回している屑男と言う事になりますよ?」
「屑男ぉ?」
リリックから好きなのかと聞かれた時よりも素っ頓狂な声をタキオンは出した。それから、渋い顔をしながら言った。
「いや、トレーナー君は別に屑じゃないんだよ。金銭とかそういう物をせびったりしないし、私に頼って自堕落な生活を送っているわけでもないし…」
「でも、タキオンさんを振り回しているというのなら、それは浮気ばかりをして結婚しないで、――お前が本命だよ、ってずっと言っている屑彼氏と同じ物なんじゃないですか?」
「君も踏み込んだ物言いをするね。すぐそこにトレーナー君がいるんだよ?」
田上は、リリックの心ない言葉の数々が、冗談事ではなく心に突き刺さってしまって、大分落ち込んでいたが、表面上は平然そうに取り繕って、リリックに次の言葉を促した。
「タキオンさん、答えてください。なぜ、屑彼氏をそれでも愛し続けるんですか?」
「屑彼氏屑彼氏って。…そりゃあ、トレーナー君は屑彼氏じゃないからね。少なくとも、自分からそうなりたくてなっているわけじゃない」
「無自覚にタキオンさんを傷つけているというわけですか?」
「傷付けて?……やっと分かった。君がなぜ分からないのかが。言葉という物には自分では気が付けない齟齬という物があるからね。君は、それが何なのか必死になって探していたんだよ。…つまり、こういうことだ。私は、トレーナー君に振り回されて傷付いていたりなんてしていない。その理由は後で話すが、先に君のことを言うと、君は私がてっきりトレーナー君に振り回されて傷ついていると思っていたのだが、様子を見てみるとどうも違う。平気そうだ。そう思ったわけだね?…すると、どうにも自分の認識と食い違っていて気になる。言葉にできない。本当は違うはずなのに、それが無意識下での出来事だから、それに気が付けない。だから、君は私に聞いて確認したかったはずだ。自分がてっきりこうなんだと思い込んでいたものが、実は違う可能性も秘めているんだ、という事を。そして、言葉を変えて議論を重ねて行くうちに、その言葉とあの言葉、つまり、屑彼氏と人を傷つけるという言葉が必ずしも繋がってはいない事に気が付いた。私がだけどね。…まぁ、私が説明せずとも君の中でも今の私の回答で決着がついただろう。あと二、三質問を重ねれば、君も議論を終えたはずだ。…今の話は、君に理解できたかな?」
「…ええっと、…あんまり…」
「じゃあ、簡潔に言おう。…要するに、君は屑彼氏の事を人を傷つける人の事だと思っていた。しかし、私を見ても分かるだろうし、トレーナー君を見ても分かるだろう。君の言う屑彼氏という物は、絶対に人を傷つける人ではなく、また、人を振り回す人は全員屑彼氏というのも間違いで、君の中に存在する偏見と差別によって、可哀想にトレーナー君は屑彼氏呼ばわりされてしまったわけだ。…トレーナー君を見てごらん。あんな風に平然としているわけだが、心の内では相当に傷付いているはずだ。自分の偏見と差別によって田上トレーナーの事を傷付けてしまいました。ごめんなさい。と謝りたまえ。無礼な餓鬼は嫌いだよ」
タキオンは、そう言い切ると、リリックから目を背け再び自分の爪を見つめ始めた。だから、リリックは田上の方を怯えながらも向いて、「ごめんなさい」と頭を下げた。それで田上が何も言わなかったので、リリックも頭を上げるに上げれず、小刻みに揺らしながら恐る恐るその顔を窺った。そして、田上と目が合うと、田上が「いいよ」と返したので、今度は「ありがとうございます」と返した。
実は、タキオンが話している最中に朝の集いのチャイムが鳴っていたのだが、タキオンがチャイムを流して話し続けたので、それは何だか有耶無耶になっていた。タキオンは、自分が遅れていることに気が付いていはいたが、元々、授業の事を気にしていない性質だったし、最悪、朝の集いなど遅れても問題はないと思っていたから、余裕綽々と田上の椅子に座ってリリックと田上を眺めていた。
タキオンは、そこで話は終わりと思っていたのだが、なぜ傷付いていないのか?という事について話すことをすっかり忘れていた。だから、田上とのやり取りを終えて気を取り直したリリックが言った。
「…タキオンさんは、なぜ傷付かないんですか?」
「おや!それの事について話すのを忘れていたねぇ。…まぁ、ホントの事言うと、少しは傷ついてるさ。少しは」
そう言って、タキオンはからかっているのか責めているのか分からない目付きで田上を見つめた。
「バレンタインの時なんかは酷かったねぇ。…君は私の事をないがしろにして、あたかも友達でも何でもないというような口をきいたね。…まるで、ついさっきの君のようだ」
「…ごめん」と田上が口を挟んだが、タキオンはそれを無視して続けた。
「そして、死んでもいいと言ったね。…まぁ、あの時の様子じゃ、死にたいと同じ意味だろう。…これも十分傷付いたな。…リリー君、君には私が何で傷付いたか分かるかな?」
「え?…えっと、…死んでほしくないから?」
「まぁ、半分正解だ。もう半分はね…。トレーナー君、君には分かるかな?」
「……いや、分からない」
「分からないだろう。君は今も変わっていないようだから。…正解は、目の前に居るであろう私の事をちっとも気にかけていないからだよ。…トレーナー君、私の事が見えてるかい?」
「…見えてないことはないよ」
「なら、私の努力はちっとも報われそうにないね。……君、立って」
突然、タキオンはそう言うと、自分も立ち上がり田上の所に歩み寄った。田上は、ずっとしゃがませていて強張った足を少しフラフラさせながら立ち上がった。そして、タキオンと向き合った。
タキオンの方に向き合った後も、タキオンは歩みを止める気配がなかったから、――もしかしたら抱きついてくるのかも、と少し身構えたが、そんな事はなく、ただ田上の両手を取って、その手を持ち上げて親指で円を描くように擦りながら言った。
「どうやったら、君は落ち着くんだろう。…頭を撫でてあげようか?」
「いやだ」と田上が即座に答えると、タキオンは口角をニヤリと上げて言った。
「今の言葉は、本気じゃなかったんだが、君の答えを聞くと俄然やる気が上がったね。ほら、頭を下げたまえ。もう少し撫でやすい位置に頭を置くんだ」
タキオンがそう言うと、田上が頭を下げる前より先に、その首根っこを掴んでタキオンの肩まで頭を下げさせたので、田上は膝は半端に曲げて変な体勢になった。これをマテリアルやリリックに見られていると思うと、田上は恥ずかしくなって一つもがいてみたが、これはものの見事にウマ娘の腕力に封じ込められてしまった。だから、田上は首根っこを掴まれて恥ずかしい体勢ながらも、大人しく頭を撫でられることになった。
タキオンの肩に頭を抱えられていたので、その髪の毛が田上の顔をくすぐった。タキオンの跳ねた髪が顔に刺さってチクチクと痛かった。そのせいがあってかなくてか、タキオンの頭撫でが下手なのか、田上は到底落ち着きそうにはなかった。少なくとも、寮の部屋に帰って布団で寝たほうが、まだ落ち着いた。
タキオンの方こそ、自分は頭を撫でられていないというのに目を瞑ってうっとりしているようだった。時折、鼻を鳴らして田上のうなじの匂いを嗅いでいるようだった。それを田上は不快に思って、もう一度もがいた。すると、タキオンが優しく言った。
「あんまり抵抗するんじゃないよ。気持ちいいかい?君の頭を今撫でているんだよ」
その猫を撫でるときのような声を聞くと、田上の不快感は増し、段々と怒りに変わっていった。しかし、ここで怒鳴るわけにもいかないので、低く呟いた。
「自分が中心で世界はできてるのか?」
「え?」
聞き取れなかったのか、タキオンが聞き返してきた。すると、隙ができて腕が緩んだので、するりと田上はタキオンの手から頭を抜け出した。
「あっ」とタキオンは、縋るように田上の頭に手を伸ばしたが、田上はその手を掴み無理矢理下ろさせた。タキオンは、田上のいつもの様子と違うのを感じ取ったのか、無理矢理下ろされたのに抵抗しなかった。
田上は、下ろしたタキオンの手を放すと、何かを言いたそうに暫くタキオンの顔を見つめていたが、やがて目を逸らすとリリックの方に向き直って、しゃがみこんだ。そして、淡々と「封筒がこれでこう」と説明を始めた。この部屋には、息の吐けない空気が流れた。誰もが息を飲み、田上をタキオンを見守っていた。タキオンは、自分を無視して話を始めたこの冴えない男の後頭部を蹴り飛ばしたくなったが、それは手を握ったり開いたりを何回も繰り返して我慢した。そして、代わりに暇そうなマテリアルに言った。
「紅茶はいるかい?」
すると、マテリアルが「…タキオンさんは、教室の方には行かないんですか?」と母親のような事を言ってきたので、鬱陶しそうにしかめっ面をして言った。
「行く気にはなれないね」
「……じゃあ、頂きます」
マテリアルは、不思議そうな顔をしながら言った。――私が怒っていることも、トレーナー君が怒っていることも全部わかっているくせに、飄々としやがって。タキオンは、紅茶を淹れる支度をしながらそう思った。そして、そうやって苛ついて注意を疎かにしたせいか、カップを一つ落としてしまった。
パリン
陶器の白いカップの砕け散る音が聞こえた。後ろで全員が振り向いたであろうことが、タキオンには感じ取れた。タキオンは、無表情で下に落ちてしまったカップを見やった。――元々、ひびの入っていたカップだった。そう思うと、タキオンは自分の心を静めようとしたが、どうにもしゃがみこんでそれを拾う気にはなれなかった。だから、下を向いたまま、何かが動くのを待った。
カップが割れてから一番初めに動いたのは田上だった。ふーっとため息を吐くと、膝を鳴らしながら立ち上がってタキオンの方に行った。そして、「どいてろ」と言うとタキオンを横に押しのけて床に落ちた陶器の破片を拾い始めた。タキオンは、魂の抜けた人形のようになってそこに突っ立って窓の方を見ていた。すると、窓の下の所に自分のグッズが並べられてあるのに気が付いた。無性に叩き潰したくなった。――可笑しくもないのに笑いやがって。行き場のない憎しみが人形たちに沸々と湧いて出た。すると、陶器を拾い終わった田上がタキオンの方から腕を伸ばして、その中でも一際小さく不細工な人形の前に、その人形に見合った大きさの陶器の欠片を置いた。何を入れるでもない、カップなんて原形も留めていないただの欠片だった。だが、それを見ると、なんだか心のわだかまりが解けて、タキオンの顔に生気が戻った。それで、急いで田上の方を見やった。田上は、集めた陶器を机の上に並べて、どう処分しようかと思案しているようだった。その時の田上は、なんだか話しかけやすそうに見えたので、タキオンは聞いた。
「それはどうするんだい?」
少し怯えが混じってしまったのはどうしようもなかった。だが、その怯えには気が付いていない様子で田上は言った。
「これを紙に包んで不燃ごみの所に持っていくかな…。……うん」
「それを持っていくときは私が同行してもいいかな?」
「タキオンが?…何でお前が来るんだよ」
「別にいいだろ?ついて行って何かあるわけでもないし」
「じゃあ、ここに取っておくから、お前が持っていけよ」
「えーー?一緒に行かないのかい?」
「お前が行くんだったら俺はいかなくていいだろ。これは業務外だ。一々、お前の言う事に付き合う義理はない」
「でも、お弁当は作っていたじゃないか」
「それとこれとは別だ!…うるさいからもう黙っててくれ!」
リリックとマテリアルは、田上たちを迷いながらも静かに見つめていた。
田上が噛みつくように言うと、それでもタキオンは意に介さないように言った。
「君、また私を拒絶したがっているだろ?また同じ過ちを繰り返すのかい?」
「うるさいなぁ!そもそも、元々は薬を飲む飲ませるくらいの関係だったはずだ!なのにお前は何だ!君を助けたいだの、救いたいだのと抜かして、あたかも俺が間違っているかのように仕向けてくる!違う!違うんだ!元々は違ったんだ!ああ、嫌だ!あれからだ!あの時から駄目だったんだ!…お前と居ると気が狂いそうになる…」
この言葉に唾を飲んでマテリアルがタキオンを見つめた。タキオンは、焦点のあっていない目で田上を見つめていた。そして、「私か…」と一言呟くと、ドアを開けて部屋から出て行った。その様子を珍しく眉間に皺を寄せてマテリアルが見ていた。それは、悲しみを堪えるようにして出た表情だった。田上の心はあまりに重く救いようがなさそうだという事がマテリアルには感じ取れた。同様に、いや、それ以上にタキオンも感じ取っただろう。今初めて、救いようのない田上の心に打ちのめされた。田上は、突っ立ったまま動かずマテリアルたちからは顔が見えなかった。ただ、田上の向こうの窓から見える外の光が、春陽々としていて眩しい事だけが分かった。
リリックは、部屋を出て行くときのタキオンの表情が気がかりで居ても立ってもいらなかった。しかし、立ちあがろうにも雰囲気がそれを許さず、マテリアルが何かを言ってくれるように必死にキョロキョロしながら見つめていた。マテリアルは、じっと動かずに眉を寄せて田上の背を見つめていた。しかし、リリックが助けを求めるようにキョロキョロしているのを見ると言った。
「トイレ?」
「そうですトイレです!行ってきます!」
マテリアルから格好の口実を貰うと、リリックはすぐさま部屋を飛び出し、憧れの先輩を追いかけに行った。