憧れの先輩の背中は、廊下の左の遠くの方に見えた。もう遠くに離れていたが、自分の教室に向かうような素振りは見せていなかった。ただ真っ直ぐに、校舎の外の光の射す方へと向かっていた。リリックは、それを後ろから見つめながら懸命に追いかけた。それには、一生かかっても追い付けないように思えたが、案外簡単にその背中は自分に近づいてきた。その事に少し驚きつつも、リリックはその背中に近づいて「タキオン先輩」と声をかけた。
「君に先輩と呼ばれる筋合いはないよ」と答えたタキオンの口調は気落ちしていたものの、いくらか平然としているように聞こえた。そうすると、リリックも少し戸惑ったが、次にこう聞いた。
「先輩って、...トレーナーの事が好きなんですか?」
「...さっきも言ったはずだよ。嫌いじゃないって...」
「そういうことじゃなくて、異性として好きか?ってことです」
「...なら、私は再び同じように言うだろう。嫌いじゃないって」
「それは、好きって事なんですか?」
人気のない廊下にリリックの声が響いたように感じた。だから、タキオンは鬱陶しそうに振り向いて言った。
「あんまり大きな声で話すな。...外に行って話をしよう」
リリックは、静かに頷いてタキオンの隣に進んだ。そして、すぐそこの開いた扉から春の朝の陽光の下にタキオンたちは足を踏みいれた。
扉からは草の生えていない石畳が右の方に続いていたが、タキオンはそちらの方には進まず、左手の校庭の端の方へと足を進めた。タキオンは、校庭の端にあるベンチに座ってから話を始めようと思っていたのだが、リリックが待ちきれなかったのか口を開いて聞いてきた。
「トレーナーのどんな所が好きなんですか?」
その言葉にタキオンは眉を寄せて見やることで返答をしたつもりだったが、リリックはタキオンが返答に悩んでいると思っているのか、一向に目を逸らそうとしなかった。だから、タキオンは仕方なく話を始めた。
「君に一つ言いたいことは、トレーナーと言うのは止めてほしいということだ。これからは、あの人この人と曖昧にして話してほしい」
リリックは、素直に「はい」と頷いた。それから、タキオンは話を続けた。
「...まぁ、あの人のどんな所が好きか考えた事はあるけど、君に話したってしょうがないからなぁ」
「...じゃあ、それについては答えなくていいです。...なら、あの人って物凄く屑じゃないですか?仲のいい人にーーお前といると気が狂いそうになる、だなんて大の男が言うことじゃないですよね」
「それを好きと言っている相手に賛同を求めるのかい」
タキオンが、少し責めるように言ったが、リリックは意に介さず「どうなんですか?」と聞いてきた。すると、タキオンの怒る気も失せて、困った顔をして言った。
「君もつい先日までは、トレーナー君みたいにおどおどしてたのにいつの間にそんなに物を言うようになったんだい?」
「これが、元々の私です。年上だろうと年下だろうと、間違った事や疑問があれば私は地の果てまでもそれを追求します」
すると、タキオンは「若いねぇ...」と呟いてから言った。
「あの人は屑じゃないってさっきも言っただろ?」
「でも、先輩は傷ついていませんでしたか?傷付くってのは不幸な事じゃないんですか?」
「ええ?まったく、君も面倒臭いね。もう少し大人しければ、こっちもやり易いんだが...。...私が傷付いている以上に向こうは傷付いていると思うよ」
「何でですか?」
「何で?たまには、君も考えてみてごらん。何で、向こうの方が傷付いているか」
「いえ、私が言いたいのは、何で先輩は傷付いているのにそんなにあの人の事を気にするんですか?」
ここで、ようやくタキオンの目指していたベンチに到着したので、リリックにも座るよう促しつつ自分も座った。ベンチは、春の朝の冷たさを孕んでいて、初めに座った時に濡れているのかと思って、思わず立ち上がってしまった。その様子を見てリリックが笑いながら、「大丈夫ですよ」と言った。
それから、また話は続いた。
まず、タキオンが言った。
「で、何の話だったかな?」
「とぼけないでください。何であの人の事を気にかけるのか?ですよ。私には、あの人を好いたって不幸になる未来しか見えません。大阪杯なんて、動揺して勝てる物なんですか?」
「大阪杯は心配要らないよ。トレーニングもしたし、何とかするさ。これで、私が負けたとあっちゃ、あの人は自分の事を責め立てるだろうしね。私は負けられないよ」
「それです!それですよ!先輩優しすぎるんです!あの人の事なんて簡単に見捨ててくださいよ。そっちの方が絶対にタキオンさんにとって幸せですよ」
「何が幸せかは、私の決める事だ」
タキオンが反論すると、すぐさまリリックが返した。
「じゃあ、タキオンさんは今は幸せなんですか?はっきりと私は今幸せで幸せで堪りませんって言えるんですか?」
「そりゃあ…、言えないさ」
「ほら、言えないじゃないですか!」
「でもね、話を最後まで聞きたまえ。…でもね、私は、彼を見てしまったんだよ。一度、彼と仲良くなってしまったんだよ。すると、君は、仲の良い親友とも呼べる友達の事を見捨てるというのかい?」
「時にはそうした方が幸せな時があるんじゃないですか?」
「時には?君は当事者じゃないからそんな事が言えるんだ。いいかい?親友だよ。心の底から大切にしている友達だよ。その友達を君は、面倒臭いから捨てて逃げるって言うんだ。分からないのかい?」
「分かりません。それは、自分の幸せを捨ててまでも成すべきことなんでしょうか?」
「大概の人は、幸せなんて目の当たりにしたことがないよ。トレーナー君もそうだ。君もそうだ。恐らく、幸せが何たるかを分かっていないから、そんな事を言うんだろう。…いいかい?幸せって言うのは、ちょっとやそっとじゃ手に入らない物なんだ。幸せがそこらへんに転がっていると思うかい?幸せが簡単に手に入ると思うかい?道端の石が不図した瞬間に気が付いたら、幸せに変わっていました、何て歌を聞いた事があるけどね。私に言わせてみりゃ、そんな舐めた態度で幸せをつかもうっていうんなら出直してきたほうが良いね。 幸せっていう物を手に入れるには、惜しみない努力と愛が必要不可欠なんだよ。道端の石ころが幸せに変わってるんだったら、今頃世界中は幸せだらけだよ。…なのに、なんで世界中の人が幸せじゃないのか分かるかい?今も、世界のどこかで戦争だったり喧嘩だったり殺人だったりが起きてるよ?その人たちに君はわざわざ――幸せですか?と聞きに行くのかい?いかないだろう?それは、目に見えて幸せじゃないことが分かっているからだ。そして、この世の浅い所には、幸せそうに見えて幸せじゃない人たちがいっぱい転がっている。私もそうかもしれない。彼と居れればそれでいいんだと願い続けているけど、一向にそれは叶いそうにない。彼は私を拒絶し続ける。しかしね、私はそれでも進み続けなくちゃならないんだ。自らの幸せを掴むため、見捨てていった友を後悔しないため、私は進み続けるんだよ!」
タキオンの熱弁にリリックは圧倒されて、暫く口を開いても言葉が出てこなかった。そして、ようやっと絞り出した言葉はこうだった。
「......すみませんでした」
「分かったならいい。…それに私も言葉にしてみて分かったことがあるよ」
「何ですか?」
「ん?…私は、愛とか恋とかそれ以前に、後悔したくなかったんだ。彼を見捨ててしまえば、絶対にそれ以後の私の人生に後悔が付きまとうだろう。それは、もしかしたら時が経てば薄れていくものかもしれないが、私は今を生きているんだ。今、想像しうる未来があって、それがもし後悔だというのならば、私はそれを避けたい。後悔が嫌というわけではないんだ。ただ、それには愛も絡んできて、あの時こうしていれば…なんて苦痛に私は抗うことができない」
そう言うと、タキオンはバカみたいに広いトレセン学園の校庭を眺めた。校舎もバカみたいにでかいのだ。校庭もバカみたいに広いだろう。その校庭に少し冷たいが、心地の良い風が吹いた。そして、二人は暫く黙って校庭を眺めていた。景色は、青空に伸びる雲以外は何も変わらなった。すると、突然リリックが「ん~」と考え込むように言った。
「タキオンさんは、これからどこに行くんですか?」
「んん?…そうだなぁ、トレーナー君の所に戻ってみるかなぁ…」
「……怖いですか?」
「んん?怖くは…ないさ。…ちょっと戻りづらいかな?ってくらいで」
「それを怖いって言うんじゃないですか?」
「怖くても進まねばならないときがあるさ。…今が、その時だ。さぁ、立とう!」
タキオンはそう言って、えいえいと立ち上がった。そして、一緒に立ち上がったリリックの方を向くと言った。
「私の事を追いかけてきてくれてありがとうねぇ。…君も私のモルモット君になるかい?」
「嫌です」とリリックがはっきり答えると、ハハハとタキオンが笑った。
「本当は、彼の方が追いかけてきてくれるべきだったんだ。それなのに、君はなぜ私の事を追いかけてくれたんだい?大して仲は良くないだろう?」
「それは…、私がタキオンさんが心配だっただけです。凄く悲しそうな顔をしていたから」
「ふむ…。となると君もトレーナー君に似て相当なお人よしのようだね」
「似てるんですか?」
「ああ、似てるとも。危ういところも似ているように感じたんだけどね。今はそうでもないようだ。…それとも、レースになると安定さを欠くのかな?」
すると、タキオンの言葉に動揺して、リリックが「あ、ああ、…はい」としどろもどろになりながら答えた。その様子を見てタキオンが、ハッハッハと笑った。
「君、トレーナー君の下につくのだろう?」
「……はい」
「なら、心配はいらないさ。やるときはやる男だよ、トレーナー君は」
すると、リリックが恐る恐るながらもニヤリと笑って言った。
「そんな所が好きなんですか?」
「あ!その顔!カフェにも似てるよ!く~、憎たらしい奴だな!たった十歳ちょっとにこんな美味しいネタ持たせるんじゃなかった。…いいかい。絶対に、絶対に私以外に他言するんじゃないぞ。もし他の人に言ったら、君の足の骨を再起不能なまでに叩き折ってやるからな!ホントだぞ!」
タキオンが、言ってしまえば本当に足を折ってきそうな必死の形相でリリックにそう言ったから、リリックも思わず「はい」と頷いて、――絶対に言わないと心に誓った。
そして、二人はトレーナー室の方へと向かった。
廊下は、静寂に包まれていてタツタツと歩くタキオンたちの足音が妙に響いて聞こえた。そんな中をタキオンたちは進みトレーナー室のドアを開けた。
開口一番にタキオンはこう言った。
「トレーナー君、しっかりと気は保っているかい?」
タキオンは、田上が落ち込んだりして、もしかしたら、出て行った時と変わらないままに過ごしているかとも思っていたが、案外、田上は自分の机に座っていた。ただ、やっぱりタキオンが入ってくると動揺したのか、背筋を伸ばして不安そうな目付きでタキオンの方を見た。
田上と目が合うと、タキオンは次にこう言った。
「私が、助けに来た!」
リリックも入ってきて、トレーナー室のドアを閉めてソファーに座った。そして、タキオンと田上のやり取りを観戦し始めた。
田上は、助けに来たと言ったタキオンに、眉を寄せて言った。
「助けてほしいなんて言ってない」
「いや、言ってた。君の心が」
「言ってたとしても助けなんて欲しくない」
「じゃあ、私が出て行く前に言ったように、気が狂いそうになって仕方がないのかい?」
この質問には、田上は目を伏せながら「ああ」と答えた。
「それは、少し悲しいけど、私と居て気が狂いそうになるからそれから逃げるだなんてこと、私は見逃せないな。徹底的に原因究明をしないと」
「それが嫌なんだ」
「でも、そうでもしないと、君の気が狂うよ?」
「原因究明くらい自分でできる…」
「お!大きく出たね。…それじゃあ、私の協力は必要ないと?」
マテリアルが、リリックの向かいのソファーで紅茶を啜る音が聞こえた。しかし、その音は二人には聞こえず、議論は続いた。
「ああ、お前の協力は必要ない」
「う~ん、そう言われると困ったね。私の出る幕がない。…本当に自分で解決できるのかい?決して、自分の心から目を背けないと誓えるかい?」
田上は、少し躊躇ってから「ああ」と頷いた。
「…う~ん、…少しだけでも私を頼ってくれないかな?君には、荷が重すぎると思うんだ」
「バカにしてるのか」
「いやいや、バカになんてしてないさ。…ただ、私を遠ざけたいばかりに自分から孤独に飛び込もうとしている憐れな男を見逃せなくてね」
「やっぱりバカにしてるだろ」
「いや、私は君を放っておけなくてね。居るだろ?世の中には可愛くて可愛くて放っておけない男という物が。そして、それが私にとっては君なんだよ」
「俺は可愛くなんかない」
「私にとっては可愛い坊やさ。それとも、かっこいい坊や、と言った方がいいのかい?どっちなんだい?圭一坊や」
「バカにするな」
すると、タキオンがハハハと笑った。
「すまない。今のは少しバカにした。でも、私にとっての可愛い坊やってのは本当だよ。…可愛い坊やは、何でも嫌々言う時期に入ったのかな?」
「入ってない」
「なら、お母さんに甘えたりはしないのかい?」
「お前は、母さんじゃない」
「そう、それだ。なら、私は君にとって何なんだい?」
「教え子」と田上。
「もう一声」とタキオン。
そして、「ない」と田上。
途端にリリックがハハハハと笑った。そして、二人がこちらを見ているのに気が付くと、慌てて口をつぐんで「続けてどうぞ」と言った。
「リリー君もこう言っているんだ。もっと、議論を重ねよう」
「…お前、授業は」
「そんなものとっくに念頭にないね。今は君だ。…君が、私の助けに素直にはいと頷けば、私はもっと早く授業に出れるのになぁ」
そう言うと、田上の心が動かされたのか何なのか、今日、初めて心の内を明かした。
「……どうすればいいか分からないんだ」
「何がだい?」
「助けを受け取ると言ったって、そんな簡単なものじゃないんだ。ただ、手を取るだけだったら俺もそうするさ。…だけど、俺はこんな時にどう助けを借りたらいいか分からない。方法が分からないんだ」
「その方法を教えたら、君は私の助けを受け取るのかい?」
「…分からない」
田上が俯いて答えると、タキオンも「ふぅん」と言って少し考えてから言った。
「とりあえず、私の手を取ってみようよ。私の手を取るだけでいい。それから、一言言うんだ。――タキオン、って。それ以外は言わなくていい。…やってみるかい?」
田上は、恐る恐る頷いた。
「よし、じゃあ私の手を取ってみてくれ」
タキオンは、座っている田上の前に寄ると、手の平を差し出した。田上は、その手を見つめたまま、その手を取るか迷った。細く白く綺麗で、母以外で初めて田上の印象に強く残ろうとしている女性の手だった。――女性の手。そう思うと、田上は自分の事が気持ち悪く感じられた。まるで、心底いやらしい小汚い男のように感じた。次に田上は、タキオンの顔を見た。「どうしたの?」と言うようにタキオンは顔を傾げた。それを見ると、田上は笑いそうになったのだが、笑っていいのかも分からなくなって、微かに上げた口角をすぐに下げた。
すると、タキオンが言った。
「怖いかい?」
「…ああ」
タキオンは、にやっと笑った。
「正直でいいね。…実は私も少し怖いんだ」
「…何で?」
「…君の手を握ってしまえば、私は君を絶対に助けないといけないだろう?別に、それが嫌なわけじゃないんだ。ただ、本当に君を助け出せるかどうかが不安なんだ」
タキオンがそう言うと、田上は再びその手を見つめた。今度は、少し震えているように見えた。そこで、タキオンの声が聞こえた。
「さあ」
その声を聞くと、田上も意を決してタキオンの手を掴み立ち上がった。二人は、机越しに固い握手を交わした。そして、田上は一言「タキオン」と呼び掛け、二言目に「タキオン」と呼びかけ、三言目に「タキオン」と呼び掛けた。タキオンは、その度に「ああ…ああ!…ああ!!」と返事をした。それから、感極まってしまったのかタキオンは田上と手を繋いだまま机を回り込んでその傍に寄ろうとした。しかし、そうすると田上は急いでタキオンの手を振り払って、タキオンと反対の方に机の周りを回った。
タキオンが言った。
「なんで逃げるんだい!」
田上が答えた。
「人が怖いからだよ。助けろ!」
また、タキオンが言った。
「逃げられちゃ助けられないじゃないか!」
すると、また、田上が答えた。
「逃げても男くらい捕まえられるだろ?ウマ娘なんだし。さぁ、俺を助けろ!」
「じゃあ、そこで待っててよ」とタキオンが言いながら、机を右に回ると田上も右に回って距離を取った。タキオンは、口を笑いに歪ませながら言った。
「ちょ、ちょっと君、助けろと言っておきながら逃げるなんてどういうつもりだい?」
「いやいや、逃げるのが俺の性なんだ。そのくらい捕まえられないでどうする!さぁ、俺を助けろ!机の上の物は落とさずにな」
すると、そこで小さな追いかけっこが始まった。タキオンが右に行こうとして、左に行く騙し打ちをしたり、純粋に後ろからひたすら追いかけたり、机の上から手を伸ばして田上を掴もうとしたり。色んな事をタキオンは試したが、田上はよくよく逃げた。まるで、子供の様に笑いながら、息を切らして逃げていた。しかし、事はあっけなく終わった。
机の上には、割れた陶器の欠片があった。タキオンは、田上を追いかけるのに夢中でそれの事をすっかり忘れていた。だから、田上に騙し打ちを再び仕掛けようと、机の端を掴んだ瞬間、陶器の欠片ごと掴んでしまって「痛っ」と声を上げた。田上は、「大丈夫か?」と駆け寄って行ったのだが、その心配をよそにタキオンは田上のシャツを掴み「捕まえた」とニヤリと笑った。それに田上は苦笑しながらも言った。
「お前、手から血が出てるぞ」
「手当したまえ。君が、無意味に逃げたせいでこうなった」
「そりゃあ、すまん」
タキオンの言葉で田上が、予想外に落ち込んでしまったので、タキオンが慌てて言った。
「別に君を責めるつもりはないさ。ちょっとした冗談だよ。全部自分でするから」
タキオンはそう言ったが、そうするまえに田上が棚から絆創膏を持って来て、タキオンに渡してきた。
「あ、ああ…、ありがとう」
タキオンは、戸惑いながらもそれを受け取った。すると、田上が言った。
「絆創膏も貼ってあげようか?」
もう渡してきた後だったし、いつもの田上にしては珍しい子供のような口調だったから、タキオンはさらに戸惑った。しかし、「ああ、よろしく頼むよ」とだけは答えた。田上は、少し笑いを我慢するような変な口の形をしながら、タキオンに絆創膏を貼った。リリックも隣に来てそれを見ていた。マテリアルは、相変わらず紅茶を飲んでいたが、その顔はニコニコとしていた。
血が垂れていたので、絆創膏を貼る前にその血をティッシュで拭きとった。その時の田上の頭は、タキオンの手を握っているドキドキで満たされていた。タキオンも田上程のドキドキではないが、同様に好きな相手に手を握られてドキドキしていた。すると、リリックがその顔を見てニヤニヤしていたから、タキオンは「なんだい!」と噛みつくように言った。
田上は、丁寧に血を拭いた後、これまた丁寧に絆創膏を貼った。それが、なんだかくすぐったくてタキオンは笑いを堪え切れずに「ふふっ」と口の端から笑いを漏らしてしまった。すると、またリリックがニヤニヤしていたから、今度は「足の骨折るぞ!」と脅した。リリックは、少し怯えた様に眉を寄せて、「折らないでほしいです」と言った。その言葉に田上も言った。
「そうだ。リリーさんは、俺の担当なんだから足を折らないでくれ」
「…ふむ。ありがとう」
ここで田上が絆創膏を貼り終えた。そして、そのまま続けてリリックに言った。
「今一度聞きたいが、君は本当にトレーナー君でいいんだね?あの時はトレーナー君が封筒の事を勝手に説明していたが、君の答えは聞いていなかった」
「私は、面白そうだからいいですよ。全然、大丈夫ですし、タキオンさんが――トレーナー君はやる時はやる男だからって言ってたから」
これは、明らかにからかいが含まれていたが、田上はそれに気が付かず変に照れた口調でタキオンに「ありがとう」と言った。すると、タキオンは顔を赤くさせてリリックを睨みつけてから、田上に「別に本当の事を言ったまでさ」と返した。リリックは、――いつか本当に足の骨を折られそうだなぁ…と思いながらも、ニコニコとニヤニヤと二人の様子を見ていた。
そこで遠くで紅茶のカップを空にしたマテリアルがリリックに向かって言った。
「この二人って面白いでしょう?面白いから、この人の補佐を止められないんですよ。…どこまで突き進んでいくのか、見てみたいですよね」
リリックは、その言葉に嬉しそうに「はい」と頷いた。この場面では影の薄かったマテリアルだったが、その座っているだけの存在は、田上とタキオンに置いてけぼりにされそうになっているリリックにとって、大きな支えとなった。これからもそうなるだろう。マテリアルは、田上トレーナーの補佐として十分すぎる程優秀だった。