それから、その日は過ぎていった。タキオンは、一時間目の授業をかっ飛ばし、二時間目の授業を蹴っ飛ばしながらも、リリックとマテリアルと楽しく会話を弾ませて、時折、大きな声を立てて騒いだ。それも三時間目の授業になると、タキオンは出て行った。
タキオンは、出て行くときに今まで全く話していなかった田上に目を向けた。そして、何も話さないまま、口角を少し上げ、ちょこちょこっと手を振った。田上も同じようにして手を振り、そして、二人は笑い合い、別れた。タキオンは、ドアを閉めて出て行った。その後を田上は暫く見つめた後、はぁとため息を吐いた。
その様子をリリックもマテリアルも見つめていた。田上が、タキオンと手を振り合って、笑い合って本当に嬉しそうなのを見ていた。すると、リリックは思わず言った。
「タキオン先輩って、本当に可愛い人ですよね」
「ん?…ああ、可愛い奴だよ…」
田上はそう言うと、眠くなったのか眼鏡を外して、腕を枕にして机の上で寝始めてしまった。それだから、リリックは続けて質問できずに、マテリアルの方に向き直った。そして、マテリアルと目が合うと、マテリアルが悪戯っぽく目を輝かせて、口元に人差し指を当てて「しー」と言った。これは、田上が寝ているからなのか、タキオンと田上の関係にあんまり茶々入れをしないように促しているのか、リリックには分からなかった。だけども、とりあえず頷くと、静かに言った。
「マテリアルさんって、男の人と付き合った事ってあるんですか?」
すると、マテリアルは、眉を寄せて口の隙間から「しー」と再び言った。それをリリックは、まだ押せると思って「教えてくださいよ」と詰め寄った。けれど、マテリアルは、今度は「止めてください」ときっぱり言ったので、リリックはこれは駄目なんだという事を知った。それなので、話題を変えてタキオンのトレーニングが始まる放課後まで、マテリアルと楽しく話すことに徹した。その甲斐あって、今日は存分に楽しむことができた。
そして、タキオンのトレーニングも終わって、夜ご飯も食べて、布団について、オータムと少し話して、リリックは眠りについた。少し胸がざわざわしている、今後への期待なのか不安なのか分からないものが、リリックについて回ったが、朝起きれば再びオータムと一緒に楽しく話した。
次の日の二十七日になると、タキオンは、いよいよそわそわしだしたが、努めて平静に過ごした。田上もタキオンのその様子を気にかけて、トレーニングには水筒にタキオンの好きな紅茶を入れて持っていってあげた。その計らいは、功を奏したようだ。タキオンは、大変に喜んでくれて、トレーニングも大分落ち着いてしてくれた。
そのトレーニングが終わるころに田上が言った。
「明日は、模擬レースに出るぞ」
「ああ、いつものやつだね。いいとも」
いつものやつとは、タキオンがこれまでに出た幾つものレースの前に田上はいつも模擬レースを計画していたのだ。これは、ウマ娘の闘志をレースに向けて燃え上がらせる役割がある。本番に近いようにレースをすることで、レースの実感を湧かすという物だ。タキオンは、これに大いに賛成だったので、初めに田上が「模擬レースをしよう」と申し出た時から田上の計画した模擬レースには文句も言わず出走していた。今回の模擬レースは、十人立てのレースで、大阪杯のフルゲート十六人とまではいかなかった。しかし、これは良くあることだ。GⅠを優勝したウマ娘と競走をしたって敵いっこないというのが、模擬レースに出るウマ娘たちの本音なのだろう。田上が、模擬レースを予約したころには出走したという人が十四人くらいいたと思うのだが、いつのまにかそれは消えていた。しかし、十人も残っていればまだいい方だろう。少ないときには、六人や七人の時もあった。タキオンもそれは承知で模擬レースを受けた。重要なのは、本番に向けて走るという事なのだ。
田上は、タキオンに模擬レースに出ると言った後にこう続けた。
「一応言っておくけど、大阪杯に出るメンバーも何人か模擬レースに出てたけど、それは避けておいたからな」
「了解了解。初めから結果の分かっているレースなんてつまらないからね。そちらで構わない」
そう言うと、トレーニングは終了した。
そして、次の日となった。
二十八日になれば、今日から大阪杯までの授業免除の日となる。つまり、授業に出なくていいという事だ。これはタキオンには少しつまらなかったようだ。どうやら、トレーナー室に居ると暇なようで、頭の後ろで腕を組みながら鼻歌を歌い、時折、「トレーナー君、面白い話をしてよぉ」と呼び掛けた。その度に田上は、「面白い話なんて知らん」と真面目に返したから、タキオンはもっとつまらなくなった。
そうやって、朝を過ごして昼近くになったときに「あっ、そうだ!」とタキオンは、寝転がっていたソファーから飛び上がった。そして、田上に言った。
「私の新しい勝負服、君はまだ見ていなかったよね。今から着て見せてあげようか?」
「今から?いいよ、別に。大阪杯の時に見れるんだから」
「そんな事言わずに、見たいだろ?結構似合ってると思うんだ。今から着てくるね」
そう言うと、タキオンは田上の返事も聞かずにトレーナー室を飛び出して、恐らく自分の寮へと向かった。タキオンの勝負服はもうデザインを提出していて、先週の初め辺りにもう手元に届いていたが、田上はタキオンに「一度着て、サイズが合ってるか確認してみろ」と丸投げしたばかりで、タキオンのサイズ確認の報告を聞いてからは何も手をつけていなかった。実の所、少し恥ずかしいのもあった。タキオンの考えたデザインは、あまりにもタキオンに似合っていそうで、どんな反応をすればいいのか分からなかったからだ。それでも、タキオンが着て見せてくれると言った時は、少し嬉しくてタキオンが帰って来るのを期待半分不安半分でどきどきして待っていた。
タキオンは割と早く、トレーナー室へと返ってきた。
「少々、着替えるのに手間取ってしまったよ」と言った割には、田上の予想時間より早かったので、タキオンは思っている以上に手際がいいのか、田上がごたごたしていると思った服が思っている以上にシンプルで着やすいのか、田上はそのどちらかだと思って感心した。
そして、タキオンが着てきた服にも感心した。田上の思った通りタキオンによく似合っていた。タキオンの瞳の様に赤いその服は、裾が長くゆったりとしていた。この衣装でもウマ娘は、難なく走れるというのだからすごい物だろう。少なくとも、田上であればあんな裾の長い服を着て走れば、「転びそう」以外の感想は出てこなかった。
タキオンは、この服を『炎』をテーマにしていると言っていた。その言葉の示す通りに、その服は、ゆらゆら揺れる度に見える色の濃さが変わって、まるでタキオンが炎の中に立っているようだった。
タキオンは、田上に見せるために田上の机の前で一回り回って見せた。すると、田上は思わず「おお」と声を出して小さく音を立てないように拍手をした。そして、言った。
「綺麗だ…」
タキオンは、珍しく照れるようににこりと笑った。そして、少々体をモジモジさせながら言った。
「それだけかい?」
言った後でタキオンは自分の顔が火の様に熱くなるのを感じたが、幸か不幸か田上はその事には気づかずに、感動した面持ちで言った。
「…いや、本当に、…タキオンは元々お嬢様だったんだなって」
「それはどういう意味だい?」
なんだか自分が褒められているのか、逆にバカにされているのか分からなくて、少し眉を寄せながら聞いた。すると、田上は真面目に感動しながら言った。
「タキオンの元々の気品と言うか、美麗さと言うか、そんなものが引き出されているように感じる。それでいて、普段のタキオンの真面目に不真面目みたいな感じがあるから凄い。……うん、凄いよ」
「褒めてくれてありがとう」
自分の褒めてほしかった方向性と違いながらも、一応はタキオンの事を褒めてくれていたので感謝の言葉を告げた。
タキオンは、髪型も変えていた。前髪は、ヘアピンで左の方によけて、肩まである少し長い髪は後頭部の下の方で一緒くたにして軽く結んでいた。その結んでいるゴムは、小さな蝶の飾りつけのある赤いキラキラとしたゴムだった。タキオンは、後ろを向いてそれも田上に見せた。残念ながら田上には、蝶は小さすぎてはっきりとは見えなかったが、それでも、後ろから見たタキオンの露になっている小さな肩も綺麗だったので、「綺麗だよ」と頷いた。そう言われると、タキオンは女子高生の様ににへへと笑って、田上の方に向かって言った。
「君にそう言って貰えて嬉しいよ」
あまりに純粋な笑顔で田上は目が眩みそうになったが、それを振り払うように急いで言った。
「こちらこそ、見せて貰えて嬉しいよ」
少し頓珍漢な答えだったかもしれない。あまり話の筋に沿った答えでなかったし、その後に妙な沈黙も流れた。だが、田上が思っているよりも変な答えではなかったようだ。タキオンは、自分のヘアゴムを解くと何事もなかったように言った。
「この蝶の細工、私結構気に入っているんだ。…この渦巻きを見てごらん」
タキオンはそう言うと、手の上に乗せた金色の蝶の細工を田上に良く見えるように近付けてきた。田上は、「ふ~ん」と言いながら、感想を告げた。
「良くできてるね。…これもタキオンがデザインした奴だっけ?」
「いや、これは違うんだ。向こうには、蝶の飾りのヘアゴムをくれと言っただけだよ。私は、こんな代物くれと言った覚えはない」
「すると、こういうデザインを考えた人がいるわけか…」
「凄いよね。私なんかじゃ、こんなものは生み出せそうにないよ」
「なら…」
そう言いかけたところで田上は言うのを止めた。本当の所は、「なら、お前の勝負服もデザイナーに任せた方が良かったんじゃないか?」と聞こうとしたのだが、この質問はあまりに無神経だったし、答えも分かり切っていたものだったから、慌てて口をつぐんだ。タキオンは、それに「何だい?」と反応をしたが、田上が「何でもない」と言うと、それ以上追及することはなく、田上の机の上でその蝶を鑑賞し始めた。
模擬レースは昼からだったから、朝はこうして過ごして行った。しかし、もう昼飯を食べに行くという段になると、田上はタキオンを急いで体育服に着替えさせた。昼飯で汚れてしまうのを防ぐのは勿論だし、昼飯の後からは、模擬レースのためのウォーミングアップが待っていた。昼飯から模擬レースまでは、少し間が開いていた。その時間を有効活用しなくてはならなかった。だから、田上はタキオンを急かしたのだ。
タキオンは、急かされるのを嫌がりつつも田上の言う通り、早く着替えてカフェテリアまで訪れた。田上は、もうタキオンの分の料理までテーブルに持っていって、自分の分の料理を口に運んでいた。その反対に、タキオンは席に座ると、ノロノロとご飯を食べた。どうやら、田上に急かされるのを楽しんでいる様子らしかった。だから、途中でその事に気が付くと、田上はもう急かすのを止めてタキオンの好きにさせた。すると、タキオンはそれなりに早くご飯を食べ終わった。
そうもこうもしていられないと急いでいた田上だったが、昼飯の後にすぐ運動するのはタキオンも苦しいだろうし、ウォーミングアップを始めるには、まだ時間は早過ぎた。それなので、田上とタキオンはいつものトレーニング場所で、二人で語らい合って過ごした。時には、タキオンが田上をからかいもした。すると、田上は決まって不機嫌そうに眉を寄せたが、タキオンが頬をつんつんとつつくと、照れ笑いなのかこそばゆかったのか、途端に口角を上げて恥ずかしそうに顔を背けた。その田上をタキオンは思う存分からかい尽くした。
そして、ウォーミングアップを始める時間となり、二人はそれぞれの場所につき、それも終わりの時間に近づくと二人はまた隣に立った。それから、模擬レースのために選抜レースもあったトレセン学園特設のレース場へと向かった。
二人が、余裕綽々な様子で模擬レース場へと歩んでいくと、やけに真面目な顔をした男が現れた。田上の友達の国近だった。恐らく、こんな真面目な顔をしている理由は、国近の担当のハテキナキソラの出走する大阪杯の事だろう。
田上が観客席の入口の方に居る国近の方に近寄っていくと、あちらの方から話しかけてきた。
「おい、圭一。調子はどうだ?」
「まあまあって所かな。…何か用か?」
「……敵情視察だ。今日、出走するんだろ?」
「ああ、そうだよ。…敵情視察か。俺もしておけば良かったな。全く頭になかった」
そう田上は言った。田上もハテナキソラが、午前中の模擬レースに出走することは知ってはいたのだが、先に述べた通り全く頭に入っていなかった。ハテナキソラが走ったのは、ちょうど田上がタキオンの勝負服を褒めちぎっていた所だろう。
その田上の様子を見ながら国近が言った。
「あんまり余裕にしていられるのも今のうちだけかもしれないぞ。とりあえず、うちのソラは、模擬レースで一着を獲った。レース予想もタキオンさんに続いて二番人気だ。状態は良い。万全でお前らに挑むぞ」
すると、田上がこう返した。
「挑むのはお前だけじゃないぞ。幾ら人気が下だからと言っても、レースは始まってみなけりゃ分からない。去年の大阪杯を優勝した奴もいるし、まだまだウマ娘は大勢いる。タキオンが囲まれて抜け出せなくなるかもしれない。途中で転べば、競走中止になる可能性もある。戦ってるのはお前らだけじゃない」
そう言われると、国近は難しい顔をして押し黙ってしまったが、一度目を瞑って開くと、いつものような陽気な友達に戻って言った。
「それもそうだな。俺もお前らに闘志を燃やしすぎた。ごめん。……でも、お前だけには一度勝っておきたいんだ」
そう一言言った後、国近は観客席の方に一人で歩いて行った。その後ろ姿を見つめながら、田上とタキオンは不思議そうに見つめ合った。それから、タキオンが言った。
「君、国近君と何か因縁があるのかい?」
「…いや、ないはずだけど…」
「…じゃあ、何か一方的な感情をぶつけられたのかな?…例えば、恨みとか…?…いや、君に限ってないか」
「…うん。…恨みを持たれるようなことはした覚えはないし、つい最近も普通に話をしたからな…」
「じゃあ、ただの闘志かな。担当しているウマ娘に影響を受けた可能性もある。…となると、私も彼女にただならぬ闘志を燃やされているかもしれないな」
「え、でも、ソラさんってそんな人かな?」
「いやいや、ああいう温厚そうなのがいざという時怖いんだ。それに、二番人気の実力も伊達じゃない。前走の中山記念を二着で過ごしたというのに、その一着を押しのけて私の下に来たんだ。いつもそうなのに変わりはないが、今回も特別頑張って行こう」
タキオンがそう言うと、模擬レースの出走準備のアナウンスが鳴った。だから、田上は急ごうと言って、タキオンと一緒に観客席に入り、そこからレース場に入れる所でタキオンと別れた。
遠くにタキオンが少し駆け足で行っているのが見えた。すると、途中で田上の方を振り返って手を振ってきた。飛びっきりの笑顔を見せて手を振っていたのだが、それを観客席にいたトレーナー陣がファンサービスだと思ったのか、タキオンに拍手を送り始めた。途端にタキオンは、手を振るのを止めて不機嫌そうに田上の方を見た。この田上の方を見たというのは、田上からはそう見えただけであって、本当にタキオンが田上を見ていたかは分からない。だけど、田上にはタキオンが「この拍手を止めてくれ」と不機嫌そうな顔で訴えているように思えた。それでも、田上はこの拍手をどうこうできる人間ではないので、ただ黙って周りに合わせて拍手をすることもせず遠くのタキオンを見ていた。すると、タキオンはもう拍手が収まるのを待つのを諦めたのか、振り向いて自分の入るゲートの方へ入って行った。そうなると、拍手も段々とまばらになって終わっていった。田上は、少し可笑しくもあったが、同時に、先行きが怖くもあった。GⅠという舞台で何度も聞いてきた轟くような拍手よりも今回の拍手は小さかったが、それでも、このような舞台に居て拍手を聞くと、その音の大きさに不安になった。それが、先行きへの不安へと繋がった。ちょっぴり涙も出てきそうだったが、ぐっと堪えると、タキオンの競走を見守った。
そんなに人も居ないため、競走は音もなく始まったように感じた。最後に来たウマ娘がゲートに入れば、粛々とゲートは開いた。タキオンの出だしは順調と言ったところだろうか。枠は四番だったので少し前に行き過ぎたのか、タキオンは先頭に立っていた。これは、タキオン本来の走りに沿って居なかったし、本番を見据えたレース運びともならなそうだったので、タキオンはすぐに走る速度を調整した。すると、二番手にいた子が前の方へと出て行った。二バ身くらい離れた位置でその子は、速度を一定に保った。
この模擬レース場は、全く坂のない整地されたレース場であった。本当のレース場ではないから、適当に済ませたのだろう。田上たちも実戦に限りなく近いものにしろというつもりもなかったので、このレース場はそれなりに利用されている。
このコースは一周二千メートルだ。タキオンたちの一団ももうすぐ最終コーナーへと差しかかる。ここらへんで、二,三人が動き出した。タキオンを囲もうとする素振りを見せたが、タキオンはそれを器用に避けた。そして、最終コーナーと辿り着き段々と曲がっていった。タキオンは、そこで外の方に飛び出し、バ群から一人ポツンと離れた。ゴール前の直線に入った。先頭とタキオンの差は、四馬身くらいだ。後ろからもウマ娘たちが詰めてくる。そして、タキオンが仕掛けた。タキオンが、仕掛けるとその後はあっという間だった。ぐんぐんぐんぐんと先頭との差は縮まっていき、最終的に三バ身離してタキオンは一着でゴールした。やはり、この中でただ一人のGⅠウマ娘は圧倒的だった。観客席から拍手が鳴った。タキオンを湛える拍手だ。すぐ近くで誰かが「強ぉ」と言っているのも聞こえた。田上は、得意気にもなりたかったが、拍手が鳴り止むまではそうもできそうになかった。だから、タキオンが帰って来ると、汗拭きタオルを渡して、そそくさと観客席から二人で離れた。
その後に田上はタキオンになんともなかったように聞いた。
「どうだった?歯ごたえはあったか?」
「歯ごたえ?…は、まあまあだったけど、走りごたえはあったよ。やはり、私は二千メートルが一番好きだね」
「それは良かった」と田上はあまり切れのない返事を返した。すると、タキオンが先程の田上のそわそわとした様子を思い出したのか、こう質問してきた。
「君、観客席で何かあったのかい?あんまりあそこには居たくなさそうだったけど」
「そう?別にそんな事はなかったと思うけどね」と田上は本心を隠した。だが、タキオンは何か見抜いているような無表情で田上を見てきた。そして、言った。
「トレーナー君、手を出して」
言われるがままに手を出すと、タキオンはその手に自分の手を繋いで固く握手をし、そのまま田上の目を見つめ言った。
「タキオン?」
田上は、タキオンの言いたいことがすぐに分かった。助けが欲しいなら自分に求めろという事なのだろう。握手をして「タキオン」と呼べという事なのだろう。しかし、今の田上にはそれすらも億劫に思えた。だけども、手はタキオンに固く繋がれたまま離せそうになかったから、仕方なくぼそっと言った。
「タキオン」
「…いいだろう。別に今じゃなくてもいいんだよ。いつか君が私を頼れる日が来たら、私が存分に力になってあげるから」
そして、その後に一呼吸空けて言った。
「それじゃあ、今日はこれで終わり。明日は、午前中にトレーニングだね?あまり大したことはやらないと言っていたが、具体的にどんなことをするんだい?」
「あっ、それをタキオンに聞こうと思ってた。…明日は、大したことをしないって言ったけど、タキオンの気分次第ではきつめのトレーニングをしていいよ」
「私の気分?…う~ん、…明日。…私のメンタルケアとして君と話す時間が多々ほしいな。勿論、トレーニングもするよ?だけど、君と話す時間もその合間に取りたいな」
「例えば、いつもの場所で走るんだったら、その休憩に一緒に話すって事?」
そう田上が聞くと、タキオンは「うん」と頷いて言った。
「それなら、トレーニングもできて君と話もできて一石二鳥だろ?」
「…でも、お前に話せることなんてあんまりないぞ。面白い話なんて知らないし、為になる話も俺が言うんじゃあんまり説得力がない」
「別に君に話せって言ってるわけじゃないし、話さないなら話さないで、黙って二人で居るのもいい」
「なら、トレーナー室に居た時とあんまり変わらない感じか?」
「そうだね。…そうなるけど、最近はマテリアル君がいるからあの時のようとはいかないねぇ。…明日のトレーニングには、マテリアル君は来るのかい?」
「え?いつもと同じように来ると思うけど」
「ふむ」
そう言って、タキオンは顎に手を当て考えた。それから言った。
「…マテリアル君。…マテリアル君は、明日は欠席願えるかな?…そう言えば、今日は何で居なかったんだい?」
「熱があったらしい。微熱だけど、タキオンの大阪杯もあるし大事を取って、休ませた」
「そうか、季節の変わり目だものね。…という事は、明日は?」
「明日は、どうだろう。熱が下がってれば来ると思う。…多分、熱は下がってそうだけどね」
田上がそう言うと、タキオンは不満そうに眉を寄せて、もう一度言った。
「マテリアル君に明日欠席願うことはできないかな?」
あんまりにもタキオンがマテリアルの事を邪魔者扱いするので、田上は苦笑しながら言った。
「そんなにマテリアルさんが来るのが嫌なのか?」
「嫌?…別に嫌じゃないが、君と二人で話せたらなぁって」
「俺とそんなに話したいの?マテリアルさんと三人じゃダメなのか?」
「あんまり何度も言わせないでくれ。とにかく、マテリアル君は明日来るのか来ないのか、どっちなんだい!」
「…じゃあ、連絡してみるよ。マテリアルさんの事が嫌いなわけじゃないんだろ?」
「ああ、それは違うよ。ただ、ちょっぴり邪魔なだけさ」
「じゃあ、そのように連絡します」
そう言うと、田上はタキオンと別れて自分の寮の方へと行こうとした。しかし、そうすると、タキオンは去ろうとしている田上の背中に不満そうな声を上げて、呼び止めた。
「トレーナー君、やっぱり今日ももう少し君と話してたいのだけれど!」
少し面倒臭そうに田上は振り返った。そして、タキオンの顔が不満満々であることを確認した。すると、はぁとため息を吐いて言った。
「散歩でもするのか?」
「散歩?…いや、あの土手に寝転がって寝よう?」
これは、田上にとって一番良策な申し出だった。無理にタキオンと話をしなくていいし、眠るんだったらいつでもできた。
二人は、とつとつと歩いて土手の方に行った。そして、そこで田上は目を瞑って過ごした。タキオンは、田上に話したそうに隣でもぞもぞしていたが、田上がいつまでもいつまでも目を瞑っていたので、ついに話すことを諦めて自分も草の上で目を瞑った。隣の田上の方から風が吹いて、その嗅ぎ慣れた田上らしい匂いが草の匂いと混じり合い、タキオンの鼻をくすぐった。そしてまた風が吹き、それはどこかへと洗い流され、草の匂いだけになった。その中でタキオンは、目を瞑ったまま眠らずに落ち着いて過ごした。田上は寝たのだろうか?それはタキオンには分からなかった。隣から聞こえてくる息は落ち着いているようには感じたが、どうにも眠っているという雰囲気ではなかった。しかし、田上はタキオンに背を向けて横向きに寝たまま、次に起きるまで身動き一つ取らなかった。これもタキオンには田上が寝ているのか起きているのか分からない要因だった。普通の人ならば、寝ている時であれば身動きの一つや二つや三つ取るだろう。だが、田上ならば身動き一つしないで寝ていてもおかしくないように感じた。根拠なんて一つもないが、タキオンにはどうにも田上の事が気がかりだった。
そして、先に起きたのは田上の方だった。寝転がってから、何分経ったのかは分からなかったが、長い時間を草の上で過ごしたような気がした。しかし、目を開けてみれば日はそれほど落ちておらず、田上は時間が経ったというよりも飽きたから起きた様だった。
田上は、目を瞑って起きているタキオンの肩を揺すりながら言った。
「俺は、もう帰るぞ」
そう言うと、タキオンが聞こえていなくても帰るつもりだったのだろうか、タキオンが何も答えず目も瞑ったままでいるというのに、隣で立ち上がる音が聞こえた。それだからいけないと思って、タキオンはパチリと目を開けて言った。
「もう帰るのかい?」
「ああ、タキオンはここに居るのか?」
「…私も帰ろうかねぇ」
そう言ってタキオンは、よっこらしょと立ち上がった。その時に田上が手を差し出してきたから、有難くその手を取ってタキオンは立ち上がった。そして、そのまま手を放すつもりでいたのだが、急に気が変わって田上の手を握ったままタキオンは、田上の顔を見つめた。やはり寝ていなかったのだろう。顔からは、あまり疲れが取れていないように見えた。だから、田上と見つめ合ったまま何も話さなかったタキオンは、口を開いた。
「君、マテリアル君を休ませるのはいいけど、君も休まないと駄目だよ。何せ私はマテリアル君より君の方に大阪杯に来てほしいからね。だから、今日は早く寝たまえよ。そして、それでも疲れが取れないって言うんなら、明日は現場監督はマテリアル君に任せて君は部屋でゆっくりしていたまえ。邪魔なんてしに行かないから」
そのタキオンの言葉を受けても田上は、タキオンの顔を見つめたまま、黙りこくっていたが、タキオンが「大丈夫かい?」と聞くと、「大丈夫」と言って話し出した。
「お前の言う通り、今日は早く寝るとするよ」
「じゃあ、その際は私に――おやすみとLEANでメッセージを寄こしたまえ」
「なんで?」
「一人で寝るより二人で寝たほうがいいだろう?…何時頃に寝るつもりなんだい?」
「…今から、部屋帰ってシャワー浴びて、寝てみるのもいいかもしれない」
「ふむ…、ご飯は?」
「ご飯…?」
田上はあまり乗り気じゃないというような声を出した。それでタキオンが少し怒った調子で言った。
「君、結構ご飯を抜く癖があるだろ。その癖は直したまえ。人の食事を管理するものとして、自分の食事を管理できていないとは何事かと私は言うぞ。…少なくとも今日は私とカフェテリアで食って行こう。君が寝るのはその後だ」
タキオンは、そう言うと田上の手をがしりと握り直した。しかし、まだ夜ご飯というような時間ではないことが、まだ高いところにある陽を見れば分かった。だから、タキオンはそうやって手を握ったまま暫く迷った後、田上にこう言った。
「…もう少しここに居るかい?」
トレーニング場には、もう授業が終わった人たちがちらほらと来ようとしているのが見えた。田上は、それを静かに見つめた後言った。
「寮に帰ろうかな」
すると、タキオンが即座に返した。
「ダメだ。それは許さない」
「どうして?」
田上が、疲れた様に面倒臭そうに言った。それにタキオンが返した。
「さっきも言ったろ?ご飯を抜くなって。今帰らせたら、それこそ君の思う壺じゃないか」
「ちゃんと食べるから…」
「本当かい?どうせ、食べなかったら、私に嘘でもつくんだろうねぇ」
「嘘はつかないから」
「その言葉は私には信じられない。君は、面倒事を避けるためだったら平気で嘘をつく人間だ」
「人聞きが悪いなぁ」
「だって、その通りじゃないか!今の――ちゃんと食べるから、も私の誘いを断るための体のいい嘘に違いない!」
そう言うとタキオンは、もっと強く田上の手を握り締めた。それをされると、田上の反逆心が燃えたのか、静かな怒りを含んだ声で「痛いんだけど」とタキオンに言った。タキオンは、「すまない。君の為に少々力が入ってしまってね」と言いながらも手の力は全く緩めなかった。いつの間にか二人は喧嘩の様になってしまっていた。田上には、この喧嘩で、腕力でも口論でも勝ち目はなかったのだが、それでも、なんだかタキオンの事が嫌になってしまって、何が何でもタキオンに抵抗するためにタキオンの顔をじっと見つめたまま、押し黙るという事をした。それでタキオンが何を話しても田上は口を開きそうになかったため、タキオンも田上と同じように顔を黙って顔を見つめるという事をし始めた。これを道端でしているので二人のただならぬ雰囲気に、行く人行く人が――なんだろう?と振り返るのだが、それでも田上はタキオンが根負けするまで諦めるつもりはなかった。
しかし、田上とタキオンが握手をしながら睨み合い始めて、三十分ばかり経った頃に田上に最大の邪魔が入った。友達の霧島が、土手の下の方からやってきて、田上に話しかけてきたのだ。霧島は、この場の雰囲気が読めていないのか、友達だから大丈夫だと思っているのか、平然としながら田上に話しかけた。
「よう、田上。お前、何してんの?永遠にそうしてるな」
田上は、ようやくタキオンの顔から目を背けて、煩わしそうに霧島を見た。――面倒臭い奴め。そう思ったが、思った瞬間には霧島が「じゃあ、俺はもうトレーニングの指導をしないといけないから」と言って土手を下っていった。わざわざこの場をぶち壊しに来ただけのようだった。そうして、下りていく霧島の背を見送ると、タキオンが口を開いた。
「私と三十分くらい見つめ合って、気は変わったかな?私と一緒に食事はとるかい?」
「……はぁ」
田上は、重苦しい疲れたため息を吐いて、握りしめていたタキオンの手を緩めた。そうすると、タキオンも田上が諦めたのを感じ取ったのか、握手していた手を自ら解いてくれた。そして、田上は土手の上の道端に体育座りの格好で座り込んで、がっくりと項垂れた。タキオンもその横についた。まだ、陽は高い。一日は終わりそうにないし、タキオンからは逃げれそうにない。そう思うと、食欲なんて湧きそうになかった。だから、項垂れながらタキオンに懇願した。
「俺は、あんまり体力を使わないから腹は減らないんだよ。…だから、カフェテリアについて行ってやるから、俺は何も食べなくていいだろ?」
その様子があまりにも憐れでタキオンは、悲しげに眉を寄せたが、こう言った。
「無理に食べさせるのもあれなんだろうけど、今の君は体力を使ってないから食べないんじゃなくて、落ち込んでいるから食べないんだろ?食欲がないのは気分の問題だろ?…大丈夫さ。食べればきっと元気が出るよ。…別に君の料理を頼まなくていいから、私のを一口二口分けてあげようか?…いや、分けてあげよう。君についてきてもらうんだ。そのくらいのことはしなくっちゃ」
それには、もう田上は何も返さなかった。ただ、俯いて地面を見つめたまま、カフェテリアに行く時間を今か今かと待ち続けた。隣に座っていたタキオンの顔も見ていないし、声も聞いていないので、タキオンが何を考えているのか分からなかった。怒っているのだろうか?軽蔑しているのだろうか?そう思うと、堪らなく胸が苦しくなったが、その時に隣から微かに鼻歌が聞こえてきたような気がした。悲しいのか楽しいのか分からない調子だった。それに、あんまりにも微かで朧げな鼻歌だったから、その内に田上は――本当にタキオンが歌っているのか?自分の幻聴じゃないのか?と思い始めた。そうすると、どうにもその事が気になって仕方がなかったから、俯いていた顔をチラと上げてタキオンの方を見た。顔を上げると、タキオンと目が合った。最初からこちらを見ていたのかは分からなかったが、目が合うとタキオンが首をかしげて言った。
「どうかしたのかい?」
いつものタキオンだった。その事を感じると、今度は泣きそうになって、それを堪えるために一度目を瞑った。そして、開くとこう返した。
「いや、なんでもないよ」
その後は、顔を少し上げて、カフェテリアが開く時間まで動いている人々を見つめた。タキオンも同じようにしていたが、こちらは時々首を右に向けて田上の顔をチラと見たり、少し田上の裾を引っ張ったりした。勿論田上は、そちらの方を向こうともしなかった。タキオンがこちらをチラチラ見ているのは、なんとなく感じ取ってはいたが、今更何か言う事もなかったし、先程までタキオンに怒りを覚えていたのだから合わせる顔がなかった。