チャイムが鳴ると、タキオンは慌てて研究室を飛び出したが、同時にトレーナーに時刻を指定していないことを思い出した。普段であれば、主にタキオンの都合でトレーニングの開始時間を指定する。ただ、今日は目的が遂行できたため少し浮かれていた。面倒だなと思いつつも、認識が違っていてすれ違うのが一番面倒くさいことなので、タキオンは、着替えの前にトレーナー室に寄った。
扉を開けると、田上が暇そうに天井を見つめて、椅子を左右に揺らしていた。それにタキオンは声をかけた。
「トレーナー君、もう時間だ。行くぞ」
すると、田上はタキオンに気が付いたようだ。「ああ」と夢から覚めた様な声を出した。
「今、どうしようか考えていたところなんだよ。タキオンが、時間のことについて何も言わなかったから」
「すまない、すっかり忘れていたよ。では、私は今から着替えてくるから、君は運動場で待っていたまえ」
そう言うと、タキオンはドアを閉めて、見えなくなった。田上もジャージに着替え始めた。冬だったから、太ももが寒くて寒くて堪らなかった。それなら、初めからジャージでくればいいじゃないかと思う人もいるだろうが、それだと田上の朝のスイッチが入らない。ジャージで行ってしまうと、なんだかだらけている気分になってしまうようだ。これは、トレセン学園でのトレーナーの多くがそう思っているかもしれない。別に服装の指定は、学校の方からされているわけではないのだが、ぴっちりとした服装をしてくる人が多かった。その癖トレーニングの時間になると皆揃いも揃って、ジャージに着替えてくるのだから、この学園には何か伝染病でも蔓延しているものじゃないかと思う。
田上は、すぐに着替え終わり、運動場へと向かった。今日は、久々のトレーニングの様な気がした。それもそのはず、昨日は田上が風邪で寝ていて、一昨日はタキオンが風邪で寝ていたのだ。そして、その前はタキオンが普通にトレーニングをサボった。有馬記念を優勝したカフェに聞きたいことがあったらしい。この時は、突然のことだったので、田上は寒空の下で待たされ損だった。だが、今日は違うだろう。タキオンは、先に行っていた。
田上は、久々の運動場に少し喜びを覚えて、足取りを少し軽くさせた。
田上が、――もう冬だなぁ、と感慨に耽って、枯草や枯れ木をのんびりと見つめながら歩いて行ったら、タキオンはもう運動場についていた。
「遅いじゃないか、君!」
タキオンは少し怒っていた。田上は、「ごめん」と軽く謝ると、「じゃあ、トレーニングをしようか」と言った。田上が、指導をするときは、まず初めに今日やることをタキオンに全て言ってから始める。田上は、持ってきたクリップボードに挟んである紙を見せながら言った。
「今日は、しばらくトレーニングをしていなくて、体も鈍っているだろうからウォーミングアップを少し長めに取ろう。そして、この紙に書いてあることを少しだけする。今日は、絶対に無理をしない。いいね?」
タキオンは、クリップボードごと紙を受け取り、ふむふむと見つめながら、「ああ、了解だ」と頷いた。これに不満点でもあれば、タキオンはすぐに何か言うので、今日のところは何もなかったようだ。
田上は、走っているタキオンの背じっと見つめ続けた。人がたくさんいたが、そこから離れてタキオンを見た。ちらほら友人の姿も見えたが、そのどれもが田上に気が付かなかったようだ。時折、タキオンと目が合うことがあって、そのたびに田上の心臓は喜びに震えたが、タキオンは目が合ったとしても手を振ったり、微笑んだりはしなかった。ひたすら真面目に走っていた。
やがて、日も暮れる。走り続けるタキオンを、夕日の最後のひと踏ん張りが照らしに照らした。人の声がさざめく。田上は、夕日の陰になっているタキオンの背を見つめた。その足元から伸びる影は、人込みに紛れて見えなくなる。田上は、ため息をついた。――これからどうなっていくんだろう。そう思った。
そして、日が落ちて、ほとんどのウマ娘とトレーナーが帰ったころ、タキオンと田上は、寄り集まってごにょごにょ言っていた。すんでのところで田上が、父に電話をかけるのを躊躇ったのだ。
「やっぱり、俺の家に来なくてもいいんじゃないか?その…、俺も残って研究の手伝いとかするから」
「えー、今更それはないだろう!それにまだ、研究のアイディアはまとまっていない。君の家でゆっくりとまとめようかなと思っていたところなんだ」
当然の如くタキオンは怒った。
「君、一度言ったことを後から取り消すというのは、日本男児にしてあるまじきことだぞ」
「俺は、最初から日本男児の一員になったつもりはない。取り消したい時は、いつでも取り消す。…けど、…ねぇ?いいんじゃない?今回は俺が悪かった、ということで」
「いいわけないだろ!早く君のスマホを出したまえ。私が電話してやるから」
そう言うと、タキオンは詰め寄ってきて田上の体をまさぐろうとしたから、田上は慌てた。
「分かった!出すから!出す!」
悲鳴を上げるように言った後、尻ポケットから田上は、スマホを取り出した。なんだか、自分の尻に触っていたものがタキオンに触れると思うと恥ずかしくなって、少しの間、モタモタしているふりをして時間を稼いだ。タキオンには、田上がまだ躊躇っているように見えたから、少し鼻を鳴らした。田上は、それを聞くとすぐに電話できるようにして、タキオンに渡した。
「この電話番号でいいんだね?」
タキオンがそう聞いた。田上は、タキオンから付かず離れずの距離にいて、その番号を確認した。そして、「うん」と頷いた。なんだか、気分が悪かった。吐き気という吐き気はないが、胃から何かを吐き出したかった。けれども、何も出てくることはなく、ただ、タキオンが自分の父に電話をして、その父が電話に出るのを待っているだけだった。
田上は、自分たちを除いた最後の一人が寮に帰るのを見た。これは、前にもあったような気がした。――確か、秋頃だった。田上は、そう思った。あの頃は、タキオンへの想いが燃え上がるようだった。田上は、しゃがみこんで運動場のライトに照らされた地面を見た。自分の影が映っている。――今はどうだろうか?あの頃よりも少し気持ちは落ち着いたような気がする。しかし、好きという気持ちは変わらない。ただ、何と言うか、心にあるドロッとしたぬめりのある物が、消えたような感覚がするだけだ。確かに、あの頃よりかはタキオンへの想いの何かが違っていた。それが、田上には、分からなかった。ただ、最後に確認できた自分の思いは、少し肩の荷が減った、ということだけだった。そのことにもっと思いを巡らそうとしているときに、タキオンが「えー!」という声が聞こえた。
田上は、顔を上げた。すると、タキオンと目が合った。タキオンは、もう父と電話をしているようだった。面倒臭そうな顔でこちらを見ていた。だから、田上は何かあったのかと思って、タキオンの方に近寄った。田上が近寄ってくると、タキオンは田上から目をそらして「ああ、はい」と言った後、田上にスマホを渡してきた。
「君のお父さんが、君からの話も聞かせてほしいって。私が説明したんだけど、とにかく双方の意見を聞かないことには決められないって。君のお父さん、まるで君みたいだ。私が説明したっていうのに、聞こうとしないんだから」
田上は、タキオンの話を軽く流しつつ、電話に出た。
「もしもし、父さん?俺の担当のタキオンが、家に来たいって」
『その話は聞いたよ。お前は良いのか?その…、家に人を連れてきても』
田上は、躊躇いを覚えて言葉に詰まりつつも頷いた。
「しょうがないよ。タキオンが来たいって言うから。俺は、それよりも父さんの方が心配だけど、どうなの?」
田上の父の方も、少し躊躇いながらも話した。
『うーん、…いいよ。お前がいいのなら、正月くらい我慢するよ。…どのくらいいるんだ?』
「えっと、二十九日の昼にそっちに着く。で、五日の昼に帰る」
『つまり、…七泊八日?』
「多分」
『…長いな。…全然問題はないけど』
「じゃあ、決定で?」
そういう時、田上はチラとタキオンの方を見た。タキオンは、その聞こえのいいウマ耳で大体の会話の内容が分かっているらしく、ニヤリとして頷いた。
『ああ、決定でいいけど…。何か一つ忘れてるな。なんだったかな…?……。ああ、そうだ。お前、幸助も帰ってくるから家もだいぶ狭くなるぞ。大丈夫か?アグネスさんの方にも聞いといてくれ』
田上は、幸助と聞いて顔をしかめた。幸助は、田上の弟だ。悪い奴ではないのだが、田上はどうもあいつのことが好きになれなかった。正直に言ってしまえば、嫌いまであった。だから、聞き間違いであってくれと頼むように父にもう一度聞いた。
「え、本当に幸助が帰ってくるの?」
『ああ、あいつからもメールがあってね。二十九日から三日の昼までいるらしい。今年は賑やかになるな』
そう言った父の声は、少し嬉しそうだった。田上は、去年も一昨年も正月には父の家には帰っていなかったのだ。それは、どうせ年度末になったら、母にお香を上げに帰ることが分かっていたからだ。今回の帰省は、思い立ったがためでしかなかった。なんとなく、父の家に行きたかったからでしかなかった。
父の声を聴くと田上は、申し訳なく思った。お正月というのは、父にとって少し特別感のある催し物なのだろう。それを父と弟二人、悪ければ、一人で過ごした年もあっただろう。別に弟と二人だけでも嬉しくないことはないのだけれど、やっぱり兄の方もいたほうがいいのだろう。そう考えると、少し不安そうにタキオンの顔を見た。タキオンは、不思議そうに見つめ返した。
「うーん、……ちょっとタキオンの方に聞いてみるね」
『ああ』
そう言うと、田上はスマホを顔から離した。
「タキオン、俺の弟も来るって言ってたけど、そしたら家狭くなるって。今からでも断ったほうがいいんじゃない?」
「私は、別に構わないさ。…ただ、君に弟がいたんだな。話してくれたことあったか?」
タキオンがそう言うと、田上がしかめっ面をした。
「俺は、あいつのこと嫌いだから、それ程話したことはない。…それでも、話題に上ることはたまにあったと思うけどな」
「…そうか、それじゃあ、私が聞いていなかっただけか。……いいよ、君の父さんに電話をしても」
「はい」
田上は、タキオンに促されたので、苦笑しながら返事をした。
「もしもし、父さん」
『はい』
「タキオンも大丈夫らしいので、こちらは全く問題ありません」
『オッケー。じゃあ、二十九日だな?何か食べたいものでもあるか?』
田上は、タキオンを見た。タキオンが、「人参ハンバーグ」と口の形だけで伝えてきた。田上は、また苦笑した。
「タキオンが、人参ハンバーグを食べたいらしいです」
『アグネスさんが?参ったな。確かお嬢様だっただろ?俺には、大したもんは作れんぞ』
田上は、またタキオンを見た。ニヤリとして、「問題ない」と伝えてきた。
「問題ないそうです。材料はあるの?」
『買い足せば、問題ない』
「無理して高い肉とか買うなよ。タキオンは、基本ミキサーにかけても十分食えるものでいいんだから」
『…は?』
「こっちの話です。…それじゃあ、もう注意事項とかないね?」
『あー…っと、お前、今年も命日には香をあげに来るんだよな?』
「もちろん」
『じゃあよかった。電話を切ります。…ばいばい』
「ばいばい」
田上が、最後にそう告げると電話は切れた。田上は、疲れた様にふーとため息をついた。そして言った。
「もう帰ろう。そろそろフジさんが来るぞ」
タキオンは、ニコッとして頷いた。
「任務完了だな。いよいよ明後日に君の家に行くだけだね」
田上は、苦笑しつつも頷いた。
帰る途中で、寮長のフジキセキにあった。フジキセキは、二人を見つけるとニコニコしながら、近づいてきて言った。
「確か、秋頃にもこんなことがなかったかい?」
それを聞くとタキオンは、あまり良さそうな顔をしなかった。だから、こう言った。
「何の用だい?」
「おや!君が全然帰ってこないから、探しに行っていたところだよ。運動場から帰ってきたところかい?」
タキオンと田上は揃って、「ああ」と頷いた。フジキセキは、そのことにもっと顔をにんまり笑顔にさせたが、タキオンが睨んできているのを見ると、少し顔を落ち着かせてこう言った。
「運動場には誰もいなかったかい?あと二、三人帰ってきていない子たちがいるんだけど」
「誰も…いなかったよなぁ?」
田上が、タキオンにそう聞いた。タキオンは、顎に手を当てしばらく考えた後、自信がなさそうに「ああ」と頷いた。すると、フジキセキが苦笑して言った。
「なら、運動場も見に行くしかないね」
「俺も一緒に行こうか?」
出し抜けに田上がそう言った。
「一緒に?」
フジキセキは、驚いてオウム返しにそう聞いた。そうなると、田上は少し申し訳なさそうに言った。
「…いや、一人じゃ心細いかなって思って」
「うーん…、じゃあ、せっかくの申し出を断るのも野暮なことだし、少しだけ付き合ってもらおうかな。あと三人が確認できていないから、ちょっと怪しそうなところを一周してみよう。…タキオンはどうするんだい?」
「私?うーん、私は…」
タキオンが、少し眠そうに呆けた様に言った。そして、田上の顔を見つめた。田上も見つめ返したが、分かったことと言ったら、タキオンのまつ毛が長いことだけだった。
フジキセキには、少しだけ長く感じれるほど二人は見つめ合った。そして、不意にタキオンが視線を外すと言った。
「私もトレーナー君について行くとするよ」
その後に、「ふぁ~~あ」と大きな欠伸をした。それを見て、田上とフジキセキは苦笑をしたが、タキオンは「何があったんだい?」という顔で見つめ返した。
それから、三人は十分後に一人、もう十分後に一人を見つけた。そのうち一人は、タキオンの知り合いだったらしく、頭に魔女の帽子をつけていて、手にはきらきら光る本を持っていた。恐らく蓄光するもので書かれたものだと思う。その子は、タキオンに興奮しながら何か言っていたが、タキオンの眠い頭には厳しかったらしく、瞬きを繰り返して必死に眠らないようにしながら、その子の話を聞いていた。その様子が可笑しくて、田上とフジキセキは二人して顔を歪ませて笑いをこらえていた。
三人目は、結局見つからなかった。その頃には、タキオンも眠気に限界が来ていて、度々何もない所で何かに蹴っ躓いて、その度にあっと声を上げるのだった。
そして、帰ってみると、三人目はいた。フジキセキは、「良かった良かった」と頷いて、タキオンは寮に着くや否や田上に別れの言葉も言わないで急いで自室の方に去っていった。
フジキセキは、「ありがとう」と言うと、田上を帰した。
夜風が冷たかった。さっきまでは賑やかな一行になっていたから忘れていた。頬に冷たく当たる風を。田上は、自分の寮までの少しの道を、体を震わせながら歩いていた。まだ、あの時、タキオンの夕日に伸ばされた影を見た時の不安感は消えていなかった。――これからどうなるのだろう。それは、田上に付き纏う影のようなものだった。ふと見れば、そこにいるもの。普段を共にしながらも、気づかないもの。それに苛まれるのは、常日頃からであるのだが、田上は気づかない。ただ、夜風が肌に染みて、それを寒いと感じるだけだった。
田上は、一人街灯の下、暗い道をひたすらに歩み続けた。そして、寮の団欒の中へと足を踏み入れた。
寮の中は、明かりでいっぱいになっていて、田上は、あまり馴染めなかった。だから、傍が空いても寮にあるカフェテリアとは別の少し小さめの食堂には足を踏み入れず、自室にある小さな冷蔵庫にあるもので空いた腹を満たそうとした。自分の部屋に行く途中で友人を見かけたが、そいつらに声をかけることはしなかった。その人たちはやっぱり、明るい電灯の下楽しげに話していて、今の田上には馴染めそうにはなかったからだ。
田上は、自室のドアを開けた。自分の色々なものが入っている小さなバッグを床に置くと、これまた疲れた様に大きなため息をはいた。――今日という一日は、病み上がりには少し大変だったかもしれない。田上は、そう思うと夕食を食べる気もなく、ベッドに寝転がった。その後に、せめてシャワーだけは浴びようと思った。
シャワーを浴びれば少しは気分が晴れたが、疲れは取れなかった。また一つ大きなため息をはいた。明後日の帰省のことを考えると少し胸が痛くて憂鬱だったが、もう引き返せはしない。――頑張れ、圭一。皆が渇望するGⅠを取ったウマ娘の一番近くにいるトレーナー。お前は幸せ者だ。金もある。仕事もある。住む場所もある。これ以上に何を望む?頑張れ、圭一。田上は、自身の憂鬱な心に向かってそう唱えた。そうすると、なんだか逆に悲しくなった。だが、もう考える事はしたくなかった。――頑張れ。もう一度そう唱えると、布団の中に入り込み、落ち着かない眠りについた。
朝起きたのは、寒さを感じたからだった。まだ、タキオンのご飯を作るのにも及ばない早い時間だった。窓の外を見てみると、真っ暗闇だったので真夜中に起きてしまったのかと思った。しかし、時計を見てみると、朝の四時だったので少なくとも真夜中ではなかった。
田上は、布団をかぶり直した。体が半分出ていた。また風邪をひくのは不味いと思ったので、手でも寒い肩などの部位を擦って温めた。――タキオンは、ちゃんと寝たのかな?手の方もしきりに息をかけて温めながらそう思った。
昨日眠たそうな顔は見たが、それ以外は見ていないのでちゃんと寝たか心配だった。タキオンは、寝たと思ったら寝てないときがあるし、寝てないと思ったらいつの間にか寝ているときがあるので、タキオンの心配は一人の男としてだけでなくトレーナーとしても心配だった。ただ、さすがに今夜は寝ただろうと思った。昨日のタキオンの顔を思い出してみれば、まだ笑いがこみあげてくるくらい面白かった。人が眠気と格闘している顔というのは面白いものだ。それも、普段はあんまり物怖じしない人がしているというのなら、猶更面白い。田上は、布団の中でニヤニヤした後、不図思い出したかのように大きく息を鼻から出した。――明日の準備をしなければ…。そう思ったのだ。
まだ、四時だった。起きる必要はないと分かっていても、明日のこと、果ては今日のことまでもが憂鬱になる。だから、田上はベッドの上で全身に力を入れて息を止めた。目も力一杯瞑った。そして、このまま消え去るのを待った。自分の中にある黒いものを押し込めて押し込めて、封をして封をして、さらに小さくなるようにぎゅっと手の平で包み込んで、そして、いつの間にか意識が眠りに引きずり込まれそうになった時、タキオンの顔が出てきた。そのタキオンはこう言っていた。
「とれーなーくーん。ごはんごはんー。まだ作っていないのかい?はやくしてよー」
その瞬間にハッと目が覚めた。タキオンがたまに見せるあざとい顔が見えた。本人はそのつもりではやっていないのだろうが、田上はこの顔に何度騙されただろうか。…しかし、最近はあまり見ていないような気がした。いつからぐらいかは忘れたが、確か…、最後に見たのは、今年の冬から春に変わることだっただろうか?田上は、少しの間そのことに頭を悩ませたが、またもハッとした。――タキオンの弁当を作らねば。
重い体を無理にでも動かした。タキオンが待っていると思うと、少しだけ力が湧いて出た。それでも、体が重いことは変わらなかったが、眠たい目を擦りながら田上は、自分の寮の食堂のキッチンに足を運んだ。