タキオンは、朝来た時にはもうすでに体操服に着替えて、田上と話していた。だから、今回は寮に着替えに戻らずに、そのまま、トレーニング場へと行った。その道すがら、タキオンはマテリアルと話していたのだが、本当の所、タキオンは田上と話したがっていた。だから、タキオンはしょっちゅう田上の方を向いていたが、マテリアルはそれに気付かずにタキオンに嬉しそうに話しかけていた。タキオンと走れることが、マテリアルには相当嬉しかったようだ。タキオンの様子には全く気付かずに、延々と話し続けていた。
そして、トレーニング場へと着いた。マテリアルも今日は午前だからと言って、ジャージできていた。田上は勿論いつもの白いワイシャツだった。そして、今日は大したトレーニングはしないというので、着替える気もなくそのまま来た。
マテリアルは、早速タキオンを追いかけ始めていた。タキオンも最初は不満そうだったが、走り始めれば調子が乗ってきたようだった。マテリアルと楽しそうに追いかけっこをしていた。それを田上は、土手の上の方に座って眺めていた。マテリアルを寸前まで追いかけさせ、それを器用に身をよじって避け、走って離れる。そして、またマテリアルを挑発する。どこかで見たような光景だった。あの時は、寒い秋の夜だった。
すると、田上は、――俺はなんでここに居るんだろう…、と思い始めた。別にあちらの方に行きたいわけではないのだが、自分がここに居る必要性が皆無のように思えた。今更、田上が混ざりに行ったって、ウマ娘の圧倒的な力の前に敗北を喫するだけだった。タキオンなんて足が速いんだから、尚の事そうだろう。田上は、一つため息を吐いた。すると、タキオンが田上の様子を見てたのかどうなのか、「お~い」と言って、マテリアルの猛攻を避けながら手を振ってきた。最上の笑顔だった。その笑顔を見ると田上は微かに笑ったが、手を振り返す事はせずにただタキオンを見つめていた。タキオンの笑顔を見るとちょっぴり元気が出たが、やはり――なんでここに居るんだろう、という思いは拭い切れなかった。
タキオンは、尚も田上の事を度々見やりながら、マテリアルと追いかけっこをした。しかし、タキオンが飽きたらしい。急に立ち止まると、マテリアルに「君の負けだ」と言って、走って田上の方にやってきてその隣に座った。そして、楽しそうに息を整えながら田上に言った。
「浮かない顔をしているね。つまらないかい?」
「いや、…最高の気分だよ…」
到底最高の気分とは言えない調子の声でタキオンにそう返すと、タキオンはハハハと笑った。
「冗談が言えるだけの元気はあるみたいだね。…君を放っておいて悪いね…」
タキオンが静かにそう言うと、土手の下からへろへろになってマテリアルが上ってくるのが見えた。それを見ながら田上は言った。
「むしろ、放っておいてくれた方が俺の体には良い」
「…また、君の孤独理論かい?…いいかい?君には、私という君の身を案じてくれる友がいるんだから、君はそれに甘んじるべきなんだ」
「身を案じる?」
田上がそう聞いたらマテリアルが、田上のタキオンと反対の方の右隣に座ってはあはあぜえぜえ言っていた。
そして、タキオンが田上に返した。
「そう。何度も言ったはずだけどね。君には死んでほしくないって。去って行ってほしくないって。これを身を案じていると言わないで、何て言うんだい?」
「……我儘?」
「バカ言え。我儘なのは君の方だ。別に永遠にとは言わないが、せめて私の契約期間中からだけでも、私の下から去って行こうとしないでくれ」
タキオンがそう言うと、マテリアルが意味ありげにふふふと笑った。田上には、マテリアルが普通に何かが可笑しくて笑ったように思えたので、それを無視した。タキオンは、さすがに無視はできなかったようで、チラと田上越しにマテリアルを睨んでいた。
「…お前は、契約が終わってからも俺と付き合いたいのか?」
「当たり前じゃないか!友情ってのは、君は契約でできていると思っているのかい?」
「…俺は、そもそもお前と友達ってのもあやふやなんだ。…最初は、ただのモルモットだっただろ?」
「ふむ。…そうすると、君は私との関係は最初の頃から何も変わっていないと言いたいのかい?」
「…いや、そうじゃない。…ただ、俺の頭の中身を更新できていないんだ。確かに…、確かに、お前は……友達、なのか?」
「ああ、そうさ」
タキオンは田上に優しく言った。そうすると、田上も複雑そうな顔をしてタキオンに打ち明けた。
「俺は、担当しているウマ娘と友達になるって言うのに少し抵抗があるんだよな。…勿論、タキオンが悪いって言うんじゃないけど、友達って…友達ってどうなの?」
「…君が悩んでいるのはつまりこう言う事かな?…まず、君は私と仲が良い。これがあるね?…そして、次に君は私との関係をどう言い表せばいいか分からない。なぜなら、友達というのは君と私との関係を言い表す言葉ではないからだ。…そうすると、私は君にこう言おう。それは偏見である、と。友達とは、対等で気軽な関係を指す言葉であって、決して、女同士だから友達であるというわけでもなく、男女だから友達でないというのでもなく、ましてや、年の差があるから対等ではなく、友達ではないというのでもない。君の悩みどころは、私はここだと思う。年下に果たして友達と言ってもいい物なのかどうなのか。…世間一般では年下の人は、大体の所、部下と呼ばれていたり、後輩と呼ばれていたり、担当ウマ娘と呼ばれていたりする。それなのに、君と私はその枠組みから外れてしまっているんだ。…考えるなら、先輩後輩の関係が分かりやすいだろう。そこは、学校という場で言うと、年が二つ三つしか離れていないから、話題も合いやすく友達という対等な関係になりやすい。君も学生時代に見たことはないかい?部活動の先輩と後輩という関係であるにも関わらず、楽しそうにサッカーをしているのを。私たちは、それの延長線上だよ。年が離れているからなんだい!男だから!女だからなんだい!私たちの関係には、そういう物はあんまり関わってこないんだよ。友達。そう一言で呼べれば、それでいいんだよ」
そう長ったらしくタキオンが説くと、その話し終わらせて田上の方を見てきた。田上は、あんまりにも長すぎて話の半分程も理解できていなかったが、とりあえず「なるほど」と言った。すると、その適当さがタキオンに見破られて、こう言われた。
「さては、君、あんまり良く分からなかったね?……これは、もう一度言うのは骨が折れるから言わないけど、君は友達という言葉に対してあんまり疑問を持たなくてもいいと思うよ?…ただ、君の思うままに私を友達かそうでないか言ってごらん?」
「俺は…、お前と友達で居たくはない」
「それはどうしてだい?」
タキオンは少しショックを受けた様子なのが、田上にも分かったので慌てて訂正した。
「タキオンが嫌とかじゃなくて、人全般が友達になりたくないんだ。…ただの俺のダメなところだよ。タキオンが、俺に幾ら説教を垂れたって、治らないところだよ。もう、何もかも嫌なんだ。……生きるよ。精一杯生きる努力はするから、そんな顔はしないでくれ」
タキオンの顔は、怒っているようであり、悲しんでいるようでもあった。そこで、マテリアルが口を挟んできた。
「友達と言えば、夢を語らい合いますよね?お二人は、この先したい事とかあるんですか?…ちなみに私は、絶対に担当したウマ娘にGⅠを取らせますけどね」
マテリアルが、そう言うと、まずタキオンが言った。
「私はね。結婚して、子供たちに囲まれて死ぬのが夢かな。それに、一発、私の力でトレーナー君を心の底から笑わせるのも夢に追加しておこう」
そして、タキオンが言い終わると、田上の順番がやってきて、迷惑そうな顔をしながらも田上は言った。
「…俺は、……」
中々言い出せなかった。さっき、「精一杯生きる」と言った手前、「いつか死ぬのが夢かな」何て言ってしまえば、タキオンが怒るか悲しむか説教が始まるかするだろう。それだから、田上は考えに考えて言った。
「俺は、いつかここから遠く離れた田舎の町で、古くて汚い誰も管理していない神社にお参りするのが夢かな」
あんまりにも触れづらい変な夢でマテリアルの「へ~」と感心したふりの声しか聞こえてこなかった。田上はそう思ったのだが、タキオンは、触れづらいから黙っていたわけではないようだった。無表情で田上を見つめた後言った。
「君、本当にそんな夢でいいのかい?…それなら、大阪杯終わった後くらいに行ってきてもいいよ。誰も管理していない神社くらい、ネットで探せば見つかるだろ?」
「…今は無理だな」
田上がそう言うと、タキオンは眉をピクリと動かした。
「なぜ、今は無理なんだい?大阪杯の後なら暫くは時間があるだろ?それとも、私を天皇賞・春にも出させるつもりなのかな?」
「いや、それはしないけど。今は色々忙しいから…」
「だから、大阪杯の後に行っておけばいいと言っているじゃないか!忙しいというのは言い訳だぞ!…君は、本当は夢なんて何一つないんじゃないのかい?」
最後の方は、タキオンも優しく言った。それでも、その前に少し声を荒げたことに不快感を覚えて、タキオンを睨みながら田上は言った。
「その通りだよ。俺は、夢なんて何一つ持っちゃいない。ただの惰性で生きてきた人間だ。意味のない人生にただ疲れる事をひたすらに繰り返しているだけだよ!」
田上がそう言うと、タキオンが今度は悲しそうな顔をして言った。
「君には、所帯を持つとか、家を建てるとか、そんな夢はないのかい?」
「ない!所帯なんて持ったって何になる?家なんて持ったって何になる?人間、最後は死んで骨だけだ!夢を持って生きたって、叶えることができない者の中に俺がいる!所詮、夢なんてそんなもんだよ。夢を掴んだ奴だけが、可笑しそうに笑うんだ!」
「…でも、…でも、それじゃあ、死人と同じじゃないか。夢は人の原動力だよ。あれがしたい。これがしたい。君もそれがあったからトレーナーになったんだろ?」
「それもお前のトレーナーになって、一瞬で叶えられたよ。だけど、俺の心は満たされなかった。なぜだか分かるか?お前が一人で進んでいったからだ。それで、俺は分かったね。――俺にトレーナーは無理なんだって。……生きるためだけだよ。…今も続けるのは」
田上は、そう言うと立ち上がって「今日は、トレーニングじゃないし俺がいなくてもいいよな」と言って、立ち去って行った。あまりにも、急な展開にマテリアルは「え?…え!?」と状況を把握しきれていなかった。
そうして、タキオンとマテリアルは土手の方に置いて行かれた。タキオンは、足がすくんで追いかける事も立ち上がることもできなかった。ただ、田上の過ぎ去って行く後ろ姿を見つめてこう言った。
「逃げられることはできないぞ!」
田上は、足を止める素振りも見せずにその後ろ姿を段々と遠ざからせた。タキオンは、その後ろ姿がもう振り返りそうにない事を知ると、手をどうしようもなさそうに振り上げた後、力無く下ろして、その後は体育座りで土手の下の方を気の抜けた様に見つめた。その様子を心配しながらマテリアルはタキオンに言った。
「タ、タキオンさん?」
「………なんだい?」
「私が、田上トレーナーを呼び戻して来ましょうか?最近のあの人は目に余りますよ。あまりにもタキオンさんの事を考えていません。お二人を見たいと言って補佐になった私ですけど、この際だから言わせてもらいます。…あの人は絶対に反省なんかしませんよ」
すると、タキオンが相変わらず気の抜けた様だったが、しっかりと反論した。
「トレーナー君は、反省しかしてないよ。絶えず反省をして自分の心を苛め続けてる。あの人の心はもう限界なのかもしれない。きっと幼少の頃からそうなんだ。自分の心を消して母親の言う事を聞こうとしたんだ。私は、母親が聞かん坊だったって言う事を聞いた。その母の下で暮らせば、ああなるのだろうか?…ああ、きっと彼には誰も味方がいなかったんだ。父親の話も聞いたけど、トレーナー君が音を上げてやっと父親が止めに入った。でも、音を上げてからでは遅いんだよ。…トレーナー君は、そうやって苦しんで生きてきたんだ。私の苦しみに比べたら、彼の苦しみは年月とともに成長して計り知れないものになっているはずなんだよ。…私にも理解できないくらい…」
「でも、あなたが傷ついてたら元も子もないじゃないですか!」
「…それは、リリー君にも言われたよ。…だけど、…だけど、……辛いなぁ…。GⅠを優勝したって愛する人一人救えやしない。……トレーナー君は、もう救えないのかなぁ…?」
「残念ですが、あの人の言う通り、精神科に受診させた方が良かったです。このままあの人と付き合いを続ければ、タキオンさんの方まで身も心もボロボロになりますよ」
タキオンは、そう言われると一つため息を吐いた。
「できうる限りの抵抗はしてみるよ。大阪杯。…せめて大阪杯まで待ってみよう。それから、彼を、あの聞かん坊二世をどうやったら勇気づけられるか考えてみるんだ。…その時は一緒に考えてくれるかい?」
「…勿論ですけど…、それができなければどうするんですか?」
「どうもこうもそれができなければ、トレーナー君と徹底抗戦するしかないよ。もう、出しうる限りの全てで彼に挑んで、それでも心を揺さぶることができなければ、私は…、私は、……それでも彼と共にいたい。……マテリアル君、…これは依存だと思うかい?…私は、彼の存在に依存して彼の横に立っていると思うかい?」
「……私には、あんまり良く分かりませんけど、私には無い物をあなたたちは持っていますよ。田上トレーナーもそうですし…。…田上トレーナーも女泣かせな人ですよ。こんなに美人で心底想ってくれている子がいるって言うのに、その子を放っておくばかりか、あまつさえ悪口を言って傷つけて…。…本当にどうなってるんでしょう…」
「…言える事と言えば、彼は苦しんでいるってことくらいだよ。…ああ、辛い。トレーナー君をどうしてあげられるだろう」
すると、マテリアルがこの場の重い雰囲気を感じながらも、ついつい言ってみたくなり、こう言った。
「……気持ちを伝えてみては?…君の事が好きだって」
マテリアルは、少し気持ち悪いニヤニヤ顔をしていた。これは、重い雰囲気に抗えなかった結果だろう。そして、タキオンは、その顔を見てしかめっ面をして返した。
「そうしたら、今の彼は逃げるだけさ。それこそ、今度こそ本当にどっかに行ってしまうかもしれない。マテリアル君は気付いていないかもしれないが、こんなに相手を想う人ってのはそうそう居ないもんだよ」
「でも、一度伝えてみたら、トレーナーの気持ちも変わるかもしれませんよ」
「…それはないだろう。私には分かる。あの人は、気持ちっていう物を変えようとしないんだ。さっきも言ったように、母親に虐げられてきた事実があるからね。一見虐待のように見えない物でも、心を虐げている事実がある。それは、法では裁けないし、また、見えないわけだから、本人たちですら分からない。よくよく観察する目を持った冷静な大人のような人でしか、それは見抜けないんだよ。…そして、決して母親が悪というわけでもないんだ。母親の方もトレーナー君と同じように親に虐げられてきたかもしれないからね。今となっては、それはトレーナー君の母方の祖父母しか分からないだろう。どんな育て方をしたのか?それを聞いてみれば、答えてくれるかもしれないが、あんまり大した返事は得られないだろう。あの人たちは老人だし、私は老人には優しくすると決めているんだ。それに、原因は分かっているんだから、今更老人たちを問い詰める必要はないね。…あの人たちは面倒臭かった思い出があるけど」
タキオンがそう言うと、マテリアルは驚いて聞いた。
「え?田上トレーナーの祖父母と会った事があるんですか?」
「トレーナー君との帰省の時でね。あのご老人たちも一緒にやって来たのさ」
「そう言えば時々私の分からない話をしている時がありましたが、それってその帰省の事ですか?」
「そうだよ」とタキオンが答えると、マテリアルが今度は普通のニヤニヤ顔で言った。
「それで付き合っていないんですか?」
「うるさいなぁ。仲が良いんだよ。…仲が」
そう言うと、途端にタキオンの声の調子が下がったから、マテリアルは慌てた。
「きっと、またトレーナーと楽しく話せますよ。田上トレーナーが、まるでタキオンさんを責めるような物言いで言ったのは、きっと何かの気の迷いですよ」
「……でも、あの事に心当たりがないわけじゃないんだよな」
「え?」
「……菊花賞の時だよ。…あの時もそれなりに仲は良かったんだけどね。私は、足の異常の事を隠してあそこまで来たんだ。…あれが、余程彼に堪えたみたいだね。…それとも、とっさに私を突き放すための嘘だろうか…」
タキオンが静かに言っている横で、マテリアルも一緒に考えながら言った。
「う~ん、…でも、咄嗟に出た嘘であってもそれが気になっていないって事はないんじゃないでしょうか?咄嗟に出るわけだから、それなりに引っ掛かっているので口から出たのでは?」
「…まぁ、そうかもしれない。……これは、謝らないといけないかなぁ…。…それにしても、あそこまで根に持っているとは思わなかったね。私としては、もうとっくに過去の出来事だと思っていたんだけど」
その後に暫く間が空いてからマテリアルが言った。
「…私がお二人をテレビで見ていた時から、徐々にずれはあったんですね。てっきり仲のいいお二人だと思っていました」
「私もそう思っていたよ。……辛い」
タキオンはそう言って、体育座りの自分の膝の間に顔を埋めた。必死に息を落ち着けようとしていたから、肩が大きく動いていた。走った後に息を切らしていた時よりも苦しそうに肩を動かして息をしていた。その背中をマテリアルは優しく叩いてあげた。すると、すぐにではないにしても、徐々に徐々にその息を落ち着けて、最後にタキオンは顔を上げてマテリアルに言った。
「ありがとう、マテリアル君。もういいよ。今日は解散しよう。後の愚痴はデジタル君にでも聞かせるさ」
マテリアルは少し顔を曇らせてその顔を見たが、タキオンは悲しげな表情のまま口角をにこっと上げてみせた。それを見ると、マテリアルも戸惑いながらにこっと笑い返した。そうすると、タキオンは立ち上がって再びマテリアルにお礼を言い、すぐに立ち去って行った。その遠ざかっていく背中は、普通に歩いているように見えたのだが、ぐんぐんぐんぐんと遠ざかっていった。
マテリアルは、最後の人となった。やりきれない沈黙がマテリアルを襲った。そして、胸がなぜだかドキドキした。――明日への期待だろうか?マテリアルはそう考えたが、それ以上は考えないで、沈黙を打ち破るためにこう言った。
「ああ~~!…疲れた…」
そして、暫く土手の上に寝転がって目を瞑った。
田上は、自分の寮の部屋に戻ると、自分の情けなさにため息を吐いて、閉じたドアに背中で寄り掛かった。そして、軽く上を見上げるともう一つため息を吐いた。まだ、寝るような時間ではないから、このまま寝るわけにもいかない。けれども、今日は何も考えることができない。頭の中が後悔とか不安とか恐怖とかそんなものでぐちゃぐちゃになっていた。だから、田上はまず部屋の窓を開けに行った。すると、空気が流れてまだマシになった。田上の部屋からは、角度からしてタキオンたちのいる方向は見えそうになかったが、田上としては、視界に入らない方が好都合だったので、タキオンたちとは反対の方向を部屋から見た。奥の方には、灰色のビルが立ち並んでいたが、トレセン学園は緑に囲まれていた。方々に植えられた木は、春を迎え、葉を茂らせていた。桜ももうほろほろと咲いてきているのがあった。きっと満開になるのは、大阪杯と同じ頃だろう。例年、東京の方が三,四日早いのだが、気温の都合かあまり差はなかった。そんな事を考えていると、田上の頭には不図こんな考えが浮かんできた。――タキオンと満開の桜並木を散歩したかったな…。すると、どうしようもなく胸が苦しくなって、指が落ち着かなくなって、田上は喉のあたりをがりがりと掻きむしった。まるで、自分を殺そうとするかのように深々と爪を刺しこもうとしたが、幸か不幸かそれは叶わなかった。田上は、またため息を吐いてがっくりと項垂れた。そして、窓の傍から離れた。
その後は、専らゲームなんかをして過ごした。夢中でゲームをしていれば、今までの嫌なことなど全て忘れることができた。しかし、それには今回は大きな時間を要すことにはなった。それに、途中でタキオンからLEANでメッセージが来たのも田上の心を乱す原因となった。せっかく、やっと精神を落ち着かせてゲームにのめりこめるようになったというのに、それのせいでもう一度ざわつく胸でゲームのコントローラーを手にしなければならなかった。
タキオンは、こんなメッセージを送ってきていた。
『ちゃんと昼食も夜食も食べて、就寝も早めにして元気に過ごすんだよ。そして、就寝前にはおやすみをよろしくね。…もし私が寝ようと思っても、メッセージが全然来なかったら、今度はこっちから送るからね』
まるで、マンガに出てくる母親のようだった。――お節介め。そう思いつつ、嬉しくなった自分に気が付くと、すぐに自分を律した。いつものように、端的に言えば、――不釣り合いだ、と。
ただ、少々機嫌が戻りつつもあったから、一言だけ『了解』と返した。すると、そのメッセージの横に既読の文字がすぐにぴっと浮かび上がって、その後にタキオンのメッセージが返ってきた。
『元気にね』
田上は、また胸が苦しくなった。そして、どうしていいのか分からなくなって、とりあえず、自分の首を掻いた。掻いていくうちに、心は段々と落ち着いてきたが、やはり、先程も言ったようにゲームには暫く動揺が走った。
田上は、タキオンに言われたとおりに、せめて昼食だけでもとりに行った。夜食は、もう無理だったので、部屋の冷蔵庫にあった古びたサンドイッチで我慢した。
昼食を食べに行った時には絶対に顔を合わせばならない人が一人、いや、二人いた。例の食堂の老夫婦だ。相変わらず、人の状態を見抜くのが上手かった。田上がどれだけ目を見開いて口角を上げて、元気そうにしていても「大丈夫け?」と聞いてきた。それだから、田上は尚の事無理に口角を上げて、「大丈夫ですよ」と返した。ただ、声だけはどうにもならなかったから、料理を受け取るとそそくさとその場から離れた。
そして、昼食を食べ終わり、夜食はハムの挟まれたサンドイッチを美味い美味いと思いながら食い、タキオンの言う通り、早く寝た。今日は、タキオンの言った事を寝る前に覚えていたから、メッセージを送ろうかと思ったが、どうにも照れと罪悪感があって、メッセージを送る画面の所で止まって思い悩んでいた。すると、向こうの方からメッセージが送られてきた。
『おやすみ』
田上には、目の前で起こった出来事が処理できなくて、スマホの画面を見つめたまま、ベッドの上で固まっていた。すると、暫く間が空いた後、またスマホが鳴って、画面にメッセージが現れた。
『あ』
――何なんだろうか?このメッセージに田上が訝しく思っていると、次は少しだけ間が空いた後にこうメッセージが来た。
『もしかして、君、私にどうメッセージを送ろうか悩んでいたりするかい?違うんだったらいいが、そうであれば何か言ってほしい』
その後に『違うのであれば、おやすみとだけ送ってくれ』という言葉が添えられた。田上は、益々罪悪感が募って、どうしようかと考えた。画面の向こうではタキオンが待っているのだろう。そう思うと忍びない。しかし、自分だって罪悪感で胸が一杯だ。その二つの想いに苛まれながら、田上は目を瞑って眉を寄せて唇をきゅっと結びながら『あ』とだけ入力して、送った。
すると、次に急に電話の音が鳴った。スマホからだ。掛けてきたのは、タキオンからだった。田上は、急な電話の音に動揺した。田上は、こういう職に就きながら、電話というものはからきし苦手だった。だから、動揺と言ってもそれはとてもな動揺で、思わずその電話を切ってしまった。すると、次がまた掛かってきて、ようやく田上はその電話に出た。
『なんで一回切ったんだい?』
タキオンが開口一番に聞いてきたのはその事だった。田上は、少し怯えながら返した。
「ちょっとびっくりしたから、咄嗟に切った。…ごめん」
『ははは!なんだ、君らしいや。…別に謝ることはないさ。電話に出てくれたんだし』
タキオンがそう言った後に、誰も何も言い出せない沈黙が流れた。一度、田上はこの電話を切って、スマホの電源を消して逃げ出してしまおうかと思ったくらいだった。しかし、そうは問屋が卸さない。明日は必ず会わなければならないのだ。責任ある立場として、タキオンと付き添って行かねばならないのだ。そう思うと、――こなくそといきり立って、思わず言葉が出てきた。しかし、それはいきり立っている口調とは真逆の物だった。
「タキオン…、ごめん。…ごめん。俺なんかいない方がお前にも良かったんじゃないのか?」
『う~ん、…客観的に見ればそうかもしれないね。自分に自信がないからって、他人を傷つけて逃げようとする卑怯者の下で指導を受けるなんて、一流のスポーツ選手からしたら狂気の沙汰だ』
田上は、この言葉で大いに傷付いた。ただ、尚もタキオンは続けた。
『しかしね、私は、そうは思わないよ。君とは居るだけで楽しい友達なんだ。…だった、とでも言っておこうかな?君は、友達と言うのがあまり気に入らないようだし、それに私も今はちょっぴり君に対して怒っているからね。今、君と居ても楽しくはなれそうにない。…それでも、私が今こうして君と話しているというのは、……やっぱりあの時の様にまた君と楽しく語らい合いたいからなんだよ。…分かるかい?』
タキオンの問いに田上は答えきれず、沈黙を貫いた。
『…まぁ、暫くこうして聞いててくれよ。…今、デジタル君に代わってみようかな』
そう言うと、電話の向こうでタキオンがデジタルと少し揉めているのが聞こえた。デジタルは、電話に出たくないようだった。しかし、それもタキオンに言いくるめられて仕方なく、電話に出てきた。
『もしもし、田上トレーナーですか?』
田上は、デジタルの手前渋々答えた。
「そうです。タキオンが迷惑かけてごめんね」
『いえいえ、滅相もない。……頑張ってくださいね』
「え?」
『タキオンさんとの喧嘩の事です。喧嘩するほど仲が良いって言いますが、喧嘩も程々にしてくださいね。デジたんの身が持ちませんから』
デジタルがそう言うと、田上の心も少し和み、はははと笑った。すると、声は唐突にタキオンの物へと変わった。
『デジタル君を介して話してみる事をしてみよう。久々の実験だ。こっちの方が君の方が話しやすいんじゃないかと思ってね』
『あの~、デジたんも少ししたいことがあるのですが...』
デジタルがそう言うと、タキオンの『ええ~?』という残念そうな声が聞こえてきた。それでもタキオンは引き下がろうとはしなかったから、諭すように田上が言った。
「タキオン、あんまりデジタル君を巻き込むんじゃないよ。...話してあげるから」
『...じゃあ、いいか。ありがとう、デジタル君』
すると、『どういたしまして』という声が聞こえて、スマホの動かされる音が聞こえた。それから、タキオンがまた出てきて言った。
『話って言っても、それ程大した話題もないんだけどね。…何か話したい事はあるかい?…大阪杯?』
田上にはそれは答えることができなかった。だから、タキオンが田上の返答を待ち続けて暫くの沈黙が流れたが、不意にタキオンがこう切り出した。
『……大阪杯の後の予定はあるかい?』
何か物憂げな口調だったが、田上はそんな事は気にせずに言った。
「宝塚記念あたりに出たいと思っているんだけど、どうかな?」
『また、今まで程ではないにしても期間が空くね。…別に、全然かまわないよ。順当に行くとそうだろう。…また、のんびりとするのが楽しみだ』
田上は、特に適当な文句が思い浮かび上がらなかったので、「のんびりね…」と呟くように返しただけだった。すると、再び沈黙が続き今度は、田上が唐突に言った。
「タキオン、ごめん」
そこでたまたまタキオンが話し出そうとしたから、言葉が混ざってあっちゃこっちゃなってしまった。タキオンは、『トレーナー君は…』と話し出そうとしていたのだが、『自分の話はいいから』と言うと、田上に話させた。
田上もタキオンに話させたかったのだが、どうにもタキオンに口では勝てない。だから、仕方なく言った。
「俺は、トレーナーの資格がないよ…。人としてダメなんだよ。お前が大阪杯に勝てなかったら俺のせいだ。…お前に何もかもなすりつけようとして逃げて、一番ダメだったのはお前の足の事を見抜けなかった俺なんだ…」
『そんな事はないさ。君の言葉が私の役に立ったと前に言わなかったかな?』
「でも、それはお前の為に言った事じゃないんだ、多分…。だから、俺はお前の為に何もしてやれなかったんだよ。つまらない感情をタキオンにぶつけて、逃げて…。…お前は、逃げられないぞって言っただろ。…その通りなんだ。俺はいつまで経っても変わらない自分から逃げる事はできないんだよ…」
『…まぁ、落ち込んでいるところ悪いけどね。私も少し謝りたい事がある。私の足の事だ。…菊花賞の後あたりに打ち明けただろ?…まぁ、君にひた隠しにしていたわけだ。ぼんやりとぼやかして君の踏み入れないようにして、モルモット君ごっこに興じていたわけだ。…君に話してしまうと面倒だったんだよ。君は、必ず心配して、自分も一緒になって私の事を助けようとするだろう。…私は一人でそれをしたかったんだよ。……今になってみればそれは間違いだったと感じる。マテリアル君が言うには、私たちは他のトレーナー陣より仲良く見えたらしい。しかし、それは…少し表面的とも言えるもの何だったんだよ。今は勿論違うよ。今は、心底君が大切だから、こうして打ち明けている。……今までは、研究者ごっこに君を巻き込んでしまっていた。…すまない。謝ったくらいで償えるものとは思っていない。必ず、君が幸せになるまで私が傍に居るから』
「そんな事はしなくたっていいよ…。…そう言ってくれただけでもありがたい」
田上がそう言うと、タキオンが何かを言おうとその口を開いたが、田上はその言葉敢えてを遮って言った。
「誰がどう言おうと、俺は大した奴じゃないから…。だから、タキオンが俺の為に躍起になったって結局意味はないんだよ。俺は、元からこうだから」
『なら、私はこう言おう。――君は優しくて、かっこよくて、時々ぶっきらぼうで、それでいて、私の事は常に気にかけてくれていて、今は不安に苛まれているけど、その不安さえ取り除いてやれば、一人前の、世界で一番大したいい男になれる、と』
タキオンの言葉に田上がはははと力なく笑った。そして、言った。
「あんまり意味はないんだよ。全部が全部。生きる事も死ぬ事も。愛する事も殺す事も。生ある者には、生が宿り、死にゆく者には、死神とお近づきになれる。何回も言っただろ?人間ってのにはさして意味はないんだ。…結局は死が訪れる」
『私はそうは思わない。人間というものには、歴史がある。感情がある。夢がある。君は紡がれてきた想いというものを感じたことはないかい?遠い遠いご先祖様に想いを馳せたことはないのかい?私たちは数々の命の中に立っている。遠い遠い昔には、私にも髭が生えたご先祖様がいただろう。その人が妻を持ち、子を産み、育て、次の世代へと伝えたことで私たちは今ここで生きているんだ。もしかしたら、君とも遠い遠い遠い親戚かもしれない。そもそも人間である時点で私たちは繋がっているんだ。言葉を介し、交流を重ね、愛を育んで、できたこの世界は、私たちにとって最も尊い物なんだ。その中で私たちはどう生きるか。答えは人それぞれだけど、一人一人にできる事がある。それは、次の世代へと想いを繋ぐことだ。私たちはそうやって生きてきた。今は混乱の時代だ。目まぐるしく行き交う価値観に自分自身を見失いそうになる時があるけど、これだけは忘れちゃいけないんだよ。私たちは、人類、いや、生命というものが誕生してから今まで育まれてきた命というものなんだよ。…結局は死が訪れる。そうさ、その通りさ。君の言う事は何も間違っちゃいない。けれども、今までの満足に生まれてくることもできない過酷な時代を生き残ってきたご先祖様を思ってみれば、……何か胸に来るものはないかい?』
田上は、この質問にも答えることはできなかった。これついては、考える事に妙な抵抗があった。まるで、止めろ止めろともう一人の自分が語り掛けてくるようだった。だから、田上は、暫くの間沈黙を貫いた。それでも、タキオンは一向に話そうとして来ないから、田上は、羽虫のような靄が掛かって見えづらい頭の中で必死に考えて言った。
「………お前の言う事も分かる。確かにそうだ。凄いと思う。…だけど、お前は俺に結婚して幸せになれと言うつもりだろ?…残念ながら、俺は結婚ができる程器量良しじゃない。お前が今まで俺を見た様に、俺は性格が悪いんだ」
『そんな事はないさ』とタキオンが優しく言った。
『さっきも言ったじゃないか。私は、君の事を優しいし、かっこいいと思ってるよ』
「お世辞は聞きたくない」
『お世辞なんかじゃないさ。本当の事だよ。…君は優しくて、かっこいい』
「タキオン、……お前いつからそんな事を言うようになったんだ」
『う~ん…、いつからだろうねぇ。……あんまり遠い昔ではないと思うよ』
「……そうか…」
田上がそう言って、暫くの沈黙が流れた。今度は、二人とも若干の照れがあるような沈黙だった。だから、タキオンがその状況を打破すべく、話題を変えるためにこう言った。
『君、明日の準備はもう済ませたかな?』
「ああ。今から寝る所だった」
『そりゃあ、すまないね。電話を掛けてしまって。…だけど、一回だけ君と話しておきたかったんだ』
「俺もお前と話せてよかったよ。…ごめん」
『いつまでくよくよしてるんだい!』
そうタキオンが笑いながら言った。
『多分、この先何回もこういうことがあるかもしれない。私を傷付けて君が逃げる日があるかもしれない。だけど、私は君の事は信頼しているんだ。君は、いい男だからね。きっと上手くやれるさ。逃げたって恨みはしないから。もう限界で、死ぬ以外に道がないって時は私を置いて逃げたまえ』
「そんな事はしたくないよ…」
『まぁ、したくないならしなくてもいいけど、一番私を傷つける行為は死ぬ事だからね。自ら死ぬ道を選んだ事が私を一番傷つけるんだからね。…だから、元気にね』
真剣な声でそう言った後、タキオンは快活な口調に戻し言った。
『関西に行ったら、少し暇ができるだろ?一緒に花見散歩でもしないかい?…いや、しよう?君も一緒に散歩するんだ。そうする方が、ホテルに籠っているよりはいいだろ?…それとも、土曜はレースを見に行ったりするのかい?』
「いや、見に行ってもいいけど、あんまりその気にはなれないな」
『なら、交渉成立だ』とタキオンは、田上の返事を聞きもしないで言ったのだが、田上も一度望んだことでもあったし、悪い気もしなかったので、そのタキオン言葉に「いいよ」と言った。すると、タキオンが嬉しそうにへへへと笑った。
『じゃあ、話はこのくらいかな。…何かまだ話したい事とかあるかい?あんまり寝るのが遅くならない程度には付き合うよ?』
「いや、いいよ。おやすみ」
『ああ、おやすみ』とタキオンの声が聞こえると、田上は電話を切って、スマホの画面の光を消した。そして、ごろんと仰向けにベッドに横になった。寝る前にタキオンと話すのは健康にいい、と言えるくらいには、心が充実していた。そして、安心もしていた。いつもと変わらないタキオンがいて、田上には凄く有難かった。勿論、タキオンに対しての複雑な気持ちは今も健在ではあったが、今はその優しさに甘える事しかできなかったし、また、甘えられることが嬉しかった。――これでは、益々タキオンから離れられないだろう。田上は、ぼんやりとそう思ったが、急激に眠気がやってきて田上はその考えを頭から吹き飛ばした。そして、立ち上がって部屋の電気を消すと眠りについた。