ケロイド   作:石花漱一

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十九、大阪杯②

 四人は、一緒になって昼食を取ったので、タキオンとしては物凄くつまらない事であった。田上と国近は相も変わらず、二人だけで楽しそうに話をしている。マテリアルは、どこかの知らない誰かと仲良くなって、田上に断って別の席で昼食を取っている。それだから、タキオンがつまらなさそうにため息を吐きながら昼食を食べていると、向かいの席に座っていたソラが唐突にタキオンに話しかけてきた。

「…タキオンさん、私、偶然聞いてしまっていたんですけど、…バスの中であの補佐の方と『あの事』と話していらしてたじゃないですか?」

 そこでソラが、恋愛話をするときのハナミやマテリアルのようなニヤニヤ顔になったので、慌ててタキオンが言った。

「ちょっと待った。君が『あの事』についてどんな見当違いな考えを抱いているのかは知らないが、それを今ここで言うのは止めたまえ」

「そうですよね。あの人がいますものね」

 そう言ってからソラが、意味有りげに田上の方をチラッと見たから、――ああ、もうダメだとタキオンは思った。きっと、あのバスの中のマテリアルとの会話だけでソラには、十分察することができたのだろう。タキオンは、あんな場所であんな話を持ち掛けてきたマテリアルを恨んで、――部屋で一緒になったらどう責め立ててやろうかと箸を乱暴にカチカチ言わせながらご飯を口に運んだ。このやり取りでさえも見る人が見れば勘付くだろうし、それが田上ならば、タキオンにとっては本当に不味かった。できるなら自分の口から伝えたかった。ただ、田上はやっぱりタキオンをつまらないと思わせた様に、国近と手をウマ娘に見立てて夢中でレース談議をしながら、ご飯を口に運んでいた。

 すると、ご飯を食べ終わったくらいの時にソラがまた話しかけてきた。

「タキオンさんは、昼食の後何かなさるおつもりですか?」

 これまたタキオンには都合の悪い話だったので、タキオンは嘘をつく他なかった。

「まぁ…、トレーナー君と作戦会議かな」

「作戦会議ですか?…今頃?」

「今頃でも何でもいいだろ!失礼にも程があるぞ」

 タキオンが怒ってそう言うと、隣で食後のゲーム談議をしていた田上と国近が驚いて、タキオンの方を見た。そして、田上が言った。

「何かあったのか?」

 これは聞かれちゃ不味い。タキオンはそう考えて、「いや…」と今の話を隠そうとしたが、それはまんまとソラに遮られた。

「タキオンさんが、昼食を食べ終わったら作戦会議をするって言っていましたが本当ですか?」

 それに田上が答えた。

「え?…いや、別にそんな事はしないけど…」

 そう言ってから、田上は問うようにタキオンを見つめた。――なんかあるのか?とその目が語り掛けていたからタキオンは、困った顔をして言った。

「ちょっと言いづらいじゃないか」

「散歩に行くことが?」

「そうそれだよ…」

 まさか田上の口から昼の後の予定を披露されるとは思わなかったので、タキオンは肩を落としてもう手遅れになったことを嘆いた。きっと、これでソラはいよいよ確信を深めただろう。タキオンがチラとソラの方を見ると、ソラの顔は――ああ、そういう事ですか、と言う風に眉が上がっていた。妙に憎たらしかった。すると、ソラはタキオンの方を向いて言った。

「タキオンさんもいけずですね。散歩をすることくらい、私に言ってくれても良かったと思いますけど」

「私は、君のことはあまり好かないね!」

 田上からしてみれば、なぜタキオンがこんなにも苛々しているのか分からなかったので、ただ嗜めようとタキオンの方を見たのだが、タキオンにキッと睨まれるとその口を閉じて、代わりにソラの方に言った。

「タキオンが大きな声出してごめんね」

「いえ、全然大丈夫ですよ。散歩なんて誰でもしますからね」

 ソラが丁寧にそう返すと、その横にいた国近が、はははと笑った。

「ソラがそんな感じで田上と話してると調子狂うなぁ。田上相手だったら、俺の時みたいに砕けて話してもいいんだぞ?なぁ?」

「ああ、いいよ。…そう言えば、恵さんって呼ばれてるんだな」

「え?…ああ、呼び方の事?そっちはモルモット君だろ?モルモット君に比べたら、こっちの呼び方なんて些細な事だと思うけどな」

 その言葉にタキオンがむっと眉を寄せたが、田上は気付きもしないでこう言った。

「恵さんは、俺にとっちゃ違和感しかないね。お前の名前は国近だよ」

「あら~、あたすにもれっきとした恵介(けいすけ)っていう名前があるんですけどね~。一歩間違えば、お前の名前とほとんど被ってたんですけどね~」

 そう国近が挑発するように言うと、田上もその口調を真似て言った。

「あら、恵さん。あたすの弟は幸助だし、父親は賢助ざんすよ。つまり、恵さんは、ほとんどうちの家族のようなものざんすよ」

「お宅の家族~?あたすは、国近家の者でございまして…」と飽きる事を知らずに続く茶番劇にタキオンは呆れて、ソラの方を見た。ソラもまた、タキオンの方を見ていて、その目と目が合うとソラがにっこり笑って言った。

「お散歩は楽しみですか?」

 タキオンは、返答をする気にもなれずにまた目を田上の方に戻した。田上は、タキオンの前では見せたがらないであろう顔で国近と話していた。それを感じると少し寂しくなって、タキオンは急に席から立ち上がった。昼食は、食べ終われば自由に行動していいとの事だったから、タキオンは立ち上がるとそのまま部屋に帰ろうとした。すると、田上が帰ろうとするタキオンに気が付いて国近にこう言った。

「あ、タキオンが帰るみたいだから、俺も行くわ。じゃあ」

 そして、タキオンの横に立って歩き始めたから、今度はタキオンが田上に言った。

「別に国近君と話しててもいいんだよ?」

「いや、俺はお前と居なきゃいけないし、それに散歩にもいくんだろ?」

「散歩に行くことには行くが、別に今じゃなくたっていい。そして、別に私と居るのも義務じゃない。いつも我儘を言っているが、今回ばかりは許してあげるよ。どうぞ、国近君と楽しく話してきたまえ」

 タキオンにそう言われると、先程まで国近と話していた余韻で口元に笑みを浮かべていた田上は、急に笑顔を引っ込めて立ち止まり、戸惑うような怯えるような表情を見せた。それから、タキオンに言った。

「俺は、お前との方が楽しいよ」

 この言葉にタキオンの心臓はドキリと高鳴ったが、立ち止まった田上を少し置いて行った後、振り返ってこう返した。

「なら、普段から楽しい素振りを見せてほしいね。私には君の気持ちはちっとも分からないよ」

「いや…、俺は…俺は…」

 そこで田上はいつものタキオンの前で見せる疲れた顔に戻り、はぁとため息を吐いた。

「俺は、ダメな奴だった。…ごめん、タキオン」

「謝ることはないさ。君の気持ちを分かってやれない私が悪い」

 タキオンは、つっけんどんに言い返し、ホテルの中の道を突き進んだ。敢えてエレベーターを使おうとはしなかった。追いかけてきた田上とエレベーターの中で二人きりなんて御免だったからだ。だから、タキオンは階段を使い、三階の方にある自分の部屋まで歩いて行った。後から田上が追いかけてくる気配はなかった。タキオンは、自分自身が追いかけてきてほしかったと考えていたのかそうでないのか、あまり心の整理はつかなかったが、自分の部屋の隣の田上の部屋を見ると、無性にその部屋に入って田上を待ちたくなった。しかし、勿論の事、田上の部屋には鍵が掛けてあって、鍵を持っていないタキオンには入ることはできなかった。その上、自分の部屋にも入ることができなかった。こちらは、マテリアルが鍵をかけて出て行ったからだろう。タキオンは苛立たしげに舌打ちをして、田上の部屋のドアの前に座り込んだ。先に来るなら田上の方だろうと考えたからだ。そして、実際に田上の方が先にやってきた。マテリアルは、まだどこかで誰かと話をしているらしかった。

 田上が、角をやってくると、部屋の前に座っているタキオンを見つけて立ち止まった。これは、立ち止まったと言うよりも固まってしまったと言った方が表現として適切だろう。固まった田上は、暫く曲がり角でタキオンを見つめていた。タキオンもまた曲がってきた田上の存在に気が付いて見つめ返していたが、双方とも何も言わなかったし、身動きもしそうになかった。

 田上が動き出したのは、どこからか人の話し声のようなものが聞こえたからだ。それが聞こえると田上は、ここに居てはどうしようもないだろう、と思い固まるのをやめた。だからと言って、タキオンに話しかけるのは少し難しかった。二,三歩歩いた後、再び立ち止まると、またタキオンを見つめ始めた。今度は、暫くの沈黙の後に話し出せるまでには至れた。

 田上は言った。

「……タキオンは、…散歩するのか?」

 タキオンは、体育座りでドアの前に座ったまま首を横に振った。すると、また廊下の奥の方で話し声が聞こえたから田上は言った。

「部屋に入って、一度昼食を腹の中で落ち着かせるか」

 今度は、タキオンは首を縦に振った。だから、田上はドアの鍵を開けてタキオンを部屋の中へと招き入れた。

 

 二人はあまり話さなかった。話すこともないし、話す雰囲気でもない。そんな中で田上は二言三言タキオンにあれするかこれするか聞いて、結局は、ベッドの上に二人で座った。田上は、この雰囲気に鬱々とした気分を感じて落ち込みそうになったが、何も話すことはできなかった。タキオンは、なぜか何も言わなかった。どんな場面でもタキオンという生物は、空気を読まずに異質な発言をしたりするものだったが、この時ばかりは、タキオン自身がこのような雰囲気を作っていることもあって何も言わなかった。だから、田上は体を起こしていることも疲れてしまって、ベッドに体を預けた。すると、隣に座っていたタキオンも同じようにベッドに体を預けた。田上が、戸惑って横のタキオンを見ると、タキオンもまたこちらを見返した。その顔は、ニヤリと笑っていた。

 タキオンは、口を開いて言った。

「トレーナー君、手を貸して」

 田上は言われるがままに、タキオンに右手を差し出した。すると、タキオンは自分の左手を田上の指に絡ませた。俗に恋人繋ぎとよばれる手の繋ぎ方だったが、タキオンはそれを顔色一つにやってのけた。田上は、緊張によって目が見開かれた。そして、タキオンが田上の手をぎゅっと握りしめた時、言った。

「散歩に行こう」

 そう言われると田上は、急いでタキオンの手を解いて立ち上がった。タキオンは、田上が手を解くことに抵抗しなかった。初めから抵抗する気などなかったのだろう。田上が立ち上がっても尚タキオンはベッドに寝そべったまま、じっと田上を先程から変わらない表情のまま見つめていた。田上は、その様子を薄気味悪く思ったが、手を差し出すとタキオンに言った。

「散歩に行くんだろ」

「…ああ」

 タキオンは静かにそう言った後、田上の手を取り体を起こした。しかし、未だ立ち上がろうとはせずに座ったままタキオンは言った。

「トレーナー君には私の気持ちは分かるかい?」

「…いや、…分からない…」

 田上の言葉が静かな部屋に吸い込まれて消えて言った。その空しさを感じると、タキオンはため息を吐いて自分で「よっこいしょ」と立ち上がった。

「私にだって君の事は完璧には分からないよ。ある一部分だけなら分かるかもしれないけど、君の全てと言われたら、未だ分かりそうにない」

「……俺は、誰だって何考えて生きてるのか分からない」

「なら、二人で分かって行かなくちゃね。……散歩に行こう?」

 今度は、タキオンが手を差し出した。きっと、これは手を繋いで歩いてほしいという意味なのだろう。ホテルの中なんて知り合いがたくさんいるだろうから、嫌で嫌で仕方がなかった。しかし、この差し出した手を取らないとタキオンは動きそうになかった。だから、田上は暫く迷ったように手をもじもじと動かしていたが、心が決まると渋々その手をタキオンの手と繋いだ。それから、二人は部屋から出て行った。

 

 廊下に知り合いがいて、ホテルの同じ部屋からタキオンと一緒に出てくるのを見られると誤解を招きそうだったから、田上がまず廊下の様子を確認してからタキオンを外に出した。恋人繋ぎでないにしても緊張で今すぐ手を放したかった。しかし、手に力を込めて――手を放したいですよ、と主張をしてもタキオンは知らん顔で、少し歩みの遅い田上を先導して歩いていた。

 幸いなことに、国近やマテリアルなどに見つからずに済んだと思って、田上はホテルを出ることができた。だが、マテリアルはホテルを出て行く後ろ姿をしっかりと見ていて、タキオンが帰ってきたら問い詰めてやろうとニヤリと笑って画策していた。タキオンにとっては迷惑千万極まりなかったが、今の所は、春の陽気と田上の手の温もりを感じていて幸せだった。

 田上は、背を丸めて顔を俯かせてタキオンに手を引かれるがままに歩いていた。初めは、固いコンクリートの地面ばかりが田上の視界に映っていたが、暫くタキオンの楽しそうな鼻歌を聞きながら歩いて行くと、桜の花びらがぽつぽつと地面に敷かれ始めて、もう少し歩けば、地面は桜色の花びらで一杯になった。そこでようやく田上は顔を上げた。いつの間にか公園に来ていた、土日だからか親子連れが多く、桜のない真ん中のだだっ広い芝生の方ではサッカーやバドミントンをして遊ぶ親子が見えた。その中でも、黄色いシャツを着たお父さんらしき人と青いシャツを着たお母さんらしき人が楽しそうにバドミントンをしているのを田上は見つめた。子供は、座って二人を応援していた。

 その様子を見ていると、タキオンが話しかけてきた。

「トレーナー君は、……桜は好きかい?」

「…桜?」

「そうさ、桜さ。綺麗だろう?良い陽気に桜の花が良く映える」

 タキオンはそう言って、上に咲いている桜を見上げた。それにつられて田上も上の桜を見上げた。陽光が木漏れ日となって田上たちに降り注ぎ、桜の花はひらひらと舞って田上の顔についた。右の眼の下あたりに付いたから、田上はそれを摘まんで捨てた。すると、その様子を見ていたタキオンが言った。

「君、頭に花びらが付いてるよ。前髪のあたりだ」

 そう言われると田上は、前髪を手で探り始めたが、一向に花びららしきものは取れなかった。そうするとタキオンももどかしくなってこう言った。

「花びら取ってあげようか?」

「いや、いい」と田上は断った。だが、タキオンは「遠慮しないで」と言うと、田上の頭に手を伸ばして花びらを取ってあげた。

「ほら」と見せてきたタキオンの手には、やはり花びらが摘ままれていた。それを持ったままタキオンはにこりと田上に笑いかけた。そうされると、そのタキオンの元気に反比例して田上の元気は減っていった。他人の笑顔は、今の田上には元気を誘うものではなかった。だから、あまりその様子をタキオンに見せたくはなかったのだが、タキオンの笑顔を見ると思わず疲れたため息が出た。そのため息にタキオンは少々ショックを受けて言った。

「そんなに花びらを取られるのが嫌だったかい?」

「嫌」と一言で答えたかった。だが、その言葉がなかなか出てこない。出そうにも、喉には何かがつっかえていた。だから、代わりに別の言葉で済ませた。

「……疲れただけだよ」

 田上がそう言うと、憐れむような目でタキオンは見つめてきた。その目は田上にとって屈辱そのものだったが、タキオンが「あそこのベンチで休もう」と言うと大人しくその誘いに応じた。

 勿論の事ながら、田上の疲れはベンチに座ったくらいで取れるものではない。本当ならば、ベンチに寝転がりたい気持ちでもあったが、タキオンが隣に座っていてはそれはできない。――とにかく全身の力を抜きたい。そんな思いが田上の中にあった。けれども、何と言ってもどうと言っても、それはできそうになかったので、田上は背もたれに寄り掛かることはせずに、体を前に折り曲げて手を足の上で組みながら再び疲れた様にため息を吐いた。すると、タキオンが言った。

「君、休みたいんなら私の太ももを枕にしてもいいんだよ?」

 女子高生とは思えないあまりにも狂気じみた発言に田上は思わず振り返って、背もたれに寄り掛かっているタキオンを見たが、すぐに目を逸らして公園の芝生を見ながら言葉を返した。

「頭のネジが外れてるのか?」

 途端にタキオンがハハハと笑いながら言った。

「き、君、ちょっと口が悪いなぁ。よし、君がそういう態度を取るって言うんなら私も強硬手段に出るしかないな。…それ!」

 そう言うとタキオンは田上の体を掴んで、簡単に赤子の手でも捻るように田上の体をタキオンの方に倒させた。あんまりにもさらりと素早くやってのけたので、田上は抵抗もする事も敵わず、タキオンの顔を見上げる事となった。タキオンは、無事田上を膝の上に落ち着かせると言った。

「案外こう言うのも恥ずかしいものだな。大衆の面前でやる事じゃない。ただ…」

 そこで、タキオンは田上の顔を見て優しく笑みを浮かべた。

「ただ、君のその様子を見てると、正解ではあるんだろうな、と思う。…どうだい?私の膝枕は君にとって落ち着ける場所かい?」

 田上は、まだあんまりタキオンの膝に寝ているという実感が湧いていなかった。ただ、無心になってタキオンの話を聞いていたから、質問されたことには気付かずに黙ってタキオンの顔を見つめていた。すると、タキオンは今度はふふふと笑った。

「まだ戸惑ってるね?面白い顔だよ。世界で一番かっこいい男の顔だ」

 田上は、そう言われると照れたのか、奇妙に顔を歪めて笑った。タキオンもそれに微笑み返した。そして、今度は田上の頭を撫でながら、子守歌を歌い始めた。それはそれは愛おしそうに田上の顔を覗き込んでくるものだから、田上も困ってしまって少し首を動かして、そっぽを向いた。向いた方向は、芝生の方だった。まだまだ、陽は照っていて、芝生の上に寝転がっている人々を暖かく照らしている。バドミントンをしている夫婦もまだいる。すると、突然に田上の手前の方を通り過ぎようとしている親子が視界の端から現れた。女の子と母親の組み合わせだった。その女の子は、とても仲のいい男女の二人組を――何をしているんだろう?と言った目付きで見つめながら、去って行こうとしていた。そして、タキオンに目を留めた時に「あ」と言った。

「アグネスタキオンだ」

 女の子が呟くように言った。そこで、――正体がばれたのならこうしているのは不味いと思って、起き上がろうとしたのだが、それはタキオンに封じられた。手で田上の目隠しをして、頭を押さえつけて、田上は見事に身動きができなかった。そして、タキオンは自分の正体に気が付いたであろう女の子をちょいちょいちょいちょいと急いで手招きをして言った。

「そこの君、ちょっとこっちに来てくれ」

 女の子も母親もタキオンの方へ、――何をされるのかな?と好奇心の籠った面持ちでやってきた。勿論、田上の存在に気が付いてはいたのだが、タキオンに敢えて目隠しをされて存在を隠されていそうだったので、その事について親子の方から訪ねる事はしなかった。この事はタキオンにとって大分好都合だった。

 タキオンはこう言った。

「私は、少し羽を伸ばしにここに来たんだ。あんまり騒がれてもらっては困るからね。黙っててくれよ?」

 タキオンは、女の子の方に向かって言ってから、母親の方にも顔を向けて頷いて念押しをした。親子は、二人ともうんと頷いたから、タキオンは「ありがとう」と言って二人を解放した。そして、去り際に母親の方が言った。

「明日の大阪杯、応援してます」

 それに、タキオンはまた「ありがとう」と言って手を振った。

 親子が帰ってもタキオンは田上から目隠しを取らなかった。子守歌を再び歌い始める気配もないので、きっと田上から何でもいいから言われるのを待っているのだろう。田上もその事を感じ取って、目隠しをされたままこう口を開いた。

「お前は、…ファンに対して結構優しいよな。…なんで?」

「なんで?……別にこれと言った理由はないけどね。だって、ファンであってもうるさい子供は嫌いだよ?」

「そうだよな…。でも、俺に対してそんな優しい口調をしたことあったか?」

 すると、タキオンは少し声高になって言った。

「なんで君にあんな口調で話しかけないといけないんだよ。もう友達じゃないか。……それに、あの子は子供だったからあんな風に話したんだ。もし、母親の方に話しかけたのであれば、もう少しマシな話し方をしたさ」

「そうか…」

 そう言うと、田上は話すのを止めて、自分の目を覆っているタキオンの手の平を感じた。汗をかいてきたのか少し湿っぽかった。けれど、その湿り気が田上にとって心地良く、なんだか母のいた頃に戻っていくような気がした。だから、次にタキオンに話しかける時には思わずこう言ってしまった。

「母さん」

 そう言ってから慌てて取り繕うように「タキオン」と言い直したが、時すでに遅くタキオンはケラケラと笑っていた。

「私が君の母さんか。それも存外悪い事じゃない。…どれどれ坊や?おねんねできまちゅか?」

「やめろよ…」

 興奮し始めたタキオンに田上がうんざりして言った。しかし、タキオンはやめろと言ったくらいで止まる女ではない。最終的に「ママのおっぱいを飲みまちゅか?」とまで言い始めたので、そこで田上は本気で嫌がってタキオンの暴走を止めた。田上が、自分の膝から起き上がろうとしたからタキオンは慌てて「もうやめるよ」と言って、自分の膝に寝るように田上を諭した。田上ももう起き上がりたい頃だったが、タキオンはまだまだこのベンチに座って田上を膝に寝かせてのんびりとしていたいようだった。それだけども、田上は女子高生の膝枕で妙に落ち着かないので、再び芝生の方を見始める。

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