バドミントンをしていた夫婦は、もう疲れてしまったのか、手を支えにして地面に腰をついていた。幼い男の子は、父親たちに「もっとしてよ!」とか「今度は僕と一緒にしようよ!」とかそんな様子で話しかけていたが、父親たちは疲れていてそれどころではなかったようだ。遠目から、「ダメダメ」という口の動きと、左右に手を振るのが見えた。タキオンも同じ人を見ていたのか、「遊んであげればいいのに…」と呟くのが田上の頭上から聞こえた。しかし、田上はその言葉には反応を示さないで、男の子を見続けた。男の子は、駄々をこねたり叫んだりバドミントンのラケットで父親の頭を叩こうとしたりして、必死に訴えかけ続けていたが、父親は全く取り合おうとはしなかった。すると、どこからともなく男の子の方に気の良さそうな男の青年二人がやってきた。どうやら、男の子とバドミントンをやってあげようという様子だった。男の子は、その二人組がぞろぞろとやってくると、初めは怖がっていたが、青年らが明るく陽気な人だと知るとバドミントンを恐る恐る手渡した。二人でバドミントンをしてくれ、との事だった。青年らは、笑いながら男の子に話しかけながら、二人でバドミントンの羽をぽーんぽんと飛ばし続けた。その内、男の子もバドミントンをしたくなったようだ。青年二人組の片方と代わると、ラケットを持って一生懸命降り始めた。当然、男の子は幼いので上手く羽を飛ばすことができなかった。何度も何度も失敗を繰り返し、その度に青年たちは大袈裟なリアクションを取って男の子を楽しませた。父親と母親は、その様子を見こそしていたが口出しなんてしようとせずに二人で静かに何かを話していた。
やっとのことで男の子が羽を打ち出すことができた。しかし、その羽は青年の方まで飛んでゆくことはできずに、すぐそこにポトリと落ちた。男の子は、残念そうな顔をした。青年たちは、一生懸命「よくできたねぇ!」といった様子で褒めていたが、何が男の子の気分を悪くさせたのか、そのままラケットを放ると母親の方へと駆けて行った。青年たちは戸惑った。それは、母親の方に駆けて行った男の子が、一番初めに出会った時のような怯えた目付きに変わっていたからだ。そして、男の子に何か言われて、青年たちは困ったように頭をポリポリ掻きながら、親子に一礼してその場を去って行った。やはり、その様子を見ていたタキオンが呟いた。
「優し人たちだったのに…」
その言葉が、なぜだか田上の心の中で木霊した。――優し人たちだったのに。この言葉で何か見知らぬようで見知った開かずの扉が開こうとするのを感じた。だから、慌てて田上はその扉を閉め直した。そして、タキオンに言った。
「あの男の子だって悪くはなかった」
「……いや、今まで楽しそうにラケットを振り回していたじゃないか」
「振り回してただけだ。それ以下でもそれ以上でもない」
田上が意地を張ってそう言い返すと、タキオンも何か言おうとしたがそれはため息に押し込めてこう言った。
「今君と口論してもしょうがない。もう少しゆったりといこう?君と仲違いはしたくない」
それには田上は何も言わなかった。田上も同じようにタキオンとは仲違いをしたくなくて、今反論していってしまった事をちょっぴり後悔していた。だから、暫くの沈黙でごまかした後にこう言った。
「ごめん」
今度は、タキオンが何も返さなかった。ただ、悠然と芝生の方を見ているのが、田上の上の方に見えた。そして、ある時タキオンがチラとこちらに目をやった。田上は、タキオンの顔を下の方からじっと見つめ続けていたので、すぐに目が合った。そうすると、タキオンが笑みを堪え切れなくなったのか、田上の顔を見てにこりと困ったように笑った。
「そんなに見つめないでくれよ。恥ずかしいだろ?…私の顔が可愛くて可愛くて堪らないのは分かるが、そんな風に見つめられるとドキドキしちゃうだろ?」
それでも田上は何も言わずにタキオンの顔を見つめ続けた。タキオンは、相変わらず困ったように笑っている。先程の冗談もあながち嘘ではないようだった。その事が田上に分かると、不意に目を逸らして芝生の方を見た。もうあの親子はどこかへ行ってしまっていた。そして、代わりにその場所には男女の仲の良い小学生たちが鬼ごっこをしている様子が見て取れた。春の陽気の下で走り回っているのが愉快で愉快で堪らないようで、小学生たちはこれでもかとくらいに笑って転んで走り回っていた。
今度は、その子たちを暫く二人は見つめ続けていた。そして、先に口を開いたのはタキオンだった。タキオンは、「なあなあ、トレーナー君」と呼び掛けてから言葉を続けた。
「あの『Don't stop!』って書かれた青色の服を着てる男の子は、ツインテールの女の子の事が好きなのかな?」
タキオンにそう言われて、田上はその二人に焦点を当ててよくよく見始めた。今は、男の子が鬼のようだった。なるほど、確かに青い服の男の子が鬼の番になると執拗にツインテールの女の子を追いかけているように見えた。他の子もたまに狙うような素振りを見せるが、結局、追いかけているのは女の子の方だった。しかし、女の子はウマ娘だった。これでは、自分より足の速い奴を追いかけて挑戦しているのか、好きな女の子だから追いかけているのかは分からなかった。その事をタキオンに言ってみると、タキオンはこう返した。
「どうかな?…私は、挑戦も確かにあるかもしれないけど、…純粋にあの男の子が女の子の事を好きなように見えるね」
「なんで?」
「…見れば分かる。あの子の顔を見てごらんよ。私には、あの女の子を追いかけている時だけ、殊更に輝いているように見えるね。…絶対に捕まえられないのに」
「捕まえられないことはないだろ。…ほら、鬼は二人いるんだから」
田上がそう言っているうちに、ウマ娘の子が、前の方から迫ってくる子を避けようとして派手に転んでしまった。
「あらあら、大丈夫かな?」
タキオンがそう軽く言った。
ウマ娘の子は、地面に転んだ後、泣かずに芝生の上に座り込んだが、自分の膝から血が出始めていることに気が付くと、えんえんと泣き始めた。すぐさま青い服の男の子は駆け寄って行ってその子の背を安心させるように叩き始めた。しかし、それでも女の子は泣き止まず、少しするとその子の父親らしき人が出しゃばってきて、女の子は桜の木の下に父親と共に歩いて行った。青い服の男の子は、その様子を惜しそうに眺めていたが、ウマ娘の子の容体を確かめるために集まっていた小学生たちが一斉に散らばると男の子は走り始めた。ウマ娘の子ばかりを追いかけていたので男の子の足は遅いように見えたが、存外、ウマ娘を除きさえすればその集まりの中で一番速いようだった。すぐに別の男の子に触れて鬼を交代した。鬼を交代すると、一目散に青い服の男の子は桜の木の下で休んでいるウマ娘の子の方に駆けて行った。そこには、もうすでに一人二人の女の子がウマ娘の事ともにいた。鬼ごっこでよくある、休憩したい人が集まる寄合所のようなものだった。男の子が来ると、女の子たちは鬼の注意がこちらに向くかもしれないので嫌がったが、ウマ娘の子だけは男の子を優しく迎え入れて、自分の隣に座らせた。遠目からだったが、男の子は嬉しかったのだろうな、という雰囲気が伝わってきた。すると、田上は言った。
「……やっぱりあの男の子はあの女の子の事が好きかもしれないな」
「言ったろ?あの女の子がどうかは知らないが、男の子は絶対にクロだ」
タキオンの自信満々な様子に田上はふふふと笑って再び、男の子の観察をタキオンの膝枕の上で続けた。初めの方から足はベンチからはみ出して宙に浮いていたが、それは気にはならなかった。
男の子は、ウマ娘の子と楽しそうに話していた。他の二人の事なんてそっちのけで楽しくおしゃべりをしていたが、だからと言って、他の二人が気を悪くすることはなかった。それどころか微笑ましそうに二人を眺めていた。この男の子がウマ娘の子の事を好きなのは、どうやらウマ娘の子以外の周知の事実のようだった。――可哀想に、と田上は思ったが、口には出さなかった。尚も男の子は、ウマ娘に話しかけ続けている。しかし、終わりの時は突然に訪れた。男の子に近づいて行った一つの影が、その子に触れた。そして、何やら言っているのが見えた。きっと、「捕まえた。お前の鬼だよ」と言っているのだろう。青い服の男の子は、その場にいた他の女の子ら二人を見据えたが、見据えた頃にはもうどこか遠くに走り去ってしまっていた。その男の子は仕方なく、ウマ娘の子に別れを告げると誰かを捕まえに芝生の方に走っていった。田上は、その男の子を目で追おうとしたのだが、その前に青い服の男の子を捕まえに来た、黒い服を着た男の子が気になって、桜の木の下に目を留めた。すると、青い服の子よりも断然身長が高く、比較的女の子の中でも身長の高いウマ娘の子と釣り合った黒い服の男の子が、その隣に座って話し始めた。そして、その子が隣に来ると、途端にウマ娘の子の表情が変わった。例えるならば、恋する乙女の表情と言えばいいのだろうか?それにしては、あまりにも残酷すぎる表情の変わりようだった。これでは、青い服の男の子に勝ち目がないのは火を見るよりも明らかだった。折角足が速かったのに、背が低いだけでこんなにも差が生まれるとは。田上は青空の下を一生懸命走っている男の子が憐れで悲しくて、今度は思わず口に出して言ってしまった。
「…可哀想に…」
そう言ってから、この言葉をタキオンに聞かせてしまった事を悔やんだが、悔やんだところでもう遅い。タキオンが、田上の言葉に反応して言った。
「あの青い服の男の子の事かい?」
「ああ…」
仕方がないので田上は答えた。それで、次にタキオンが続けた。
「あの青い服の子がなんで可哀想なんだい?」
「……だって、タキオンが恋しているだろうって言っていた女の子を見てみろよ」
そして、少しの沈黙の後にタキオンが「ああ…」と言った。
「残念だな。私には、あの子の恋が実ってほしかった」
「なんで?」
「…今日はよくその質問を繰り返すね。…なんで?そりゃあ、恋なんて実らないより実った方が良いに決まっているじゃないか」
「でも、女の子も黒い服の子に恋をしていそうじゃなかったか?あの子の恋はどうなるんだ?」
「それは、あの子がそもそも青い服の子に恋をしていれば良かったわけだよ。……ただ、あの青い服の子は私は好きだね。ひたむきなところが好きだ」
「なら、タキオンがその想いを伝えに行ったらいいんじゃない?」
田上がからかうように言った。
「それはできない相談。私には、心に決めた人がいるんだ」
途端に田上は驚いて固まった。前に、タキオンが恋をしたことのある話は聞いていたが、まさか今そうなるとは思っていなかった。一瞬のうちに様々な考えが脳裏に閃いたが、口からできた言葉はこんなものだった。
「あんまり本気にならないようにな。…お前は、まだ当分のうちは走らないといけないから、俺は男女間のいざこざなんて嫌いだ」
「…?どういう事だい?」
「…お前が交際を始めでもしたら、俺とお前の間には必ず変化が起きるだろ?それが悪い方に働くかもしれないから、せめて、走るつもりがあるうちは交際はやめておいてほしいんだ」
なんだか、子供のような言い草にタキオンは少し可笑しく思ったが、それは表には出さずに田上と同じように真面目に答えた。
「まぁ、君の言うようにはするつもりさ。…少なくとも、君を膝の上に寝かせている間はね。…ただ、今後どうなるかも分からない。私の愛が燃え上がってしまう可能性も否めなくはないからね」
「…そうか」と田上の気落ちした声が聞こえた。だから、タキオンは田上を励ますために、その芝生を向いている顔を覗き込んで頬を突いて言った。
「当分は大丈夫だよ。相手方も大変そうだから、私も気を遣って簡単には想いを伝えないようにしているから」
田上は、覗き込んできたタキオンの目をチラリと見返して、それから静かに言った。
「実は、…少し…寂しかったりもする」
「ははは、そんなことは、君の様子を見れば分かるよ。…それに、言ったろ?君が幸せになるまで傍にいるって」
「…でも、それでお前が幸せになれないんだったら俺は嫌だ」
「おやぁ?それではさっきの言葉と矛盾しているじゃないか。いいかい?もし、私が幸せになって君の知らない誰かとくっついたとしよう。すると、君は寂しくなるんじゃないのかな?」
「それとこれとは別だよ。…お前が幸せなら俺はそれでいいけど…。…見切りをつけるんだったら、お前の幸せが手遅れになる前に見切りをつけてほしい」
「じゃあ、今すぐ見切りをつけるしかないかな。さようなら、トレーナー君」
勿論、これは冗談でさよならと言ったわけで、そう言ってもタキオンは微動だにしなかった。しかし、田上は少し真に受けてしまったようで、何も喋りこそしないものの、左腕を移動させてタキオンの太ももに手を置いた。そして、ようやっとようやっと絞り出すようにこう言った。
「行かないでほしい。…タキオンが行ってしまうと、…俺はいよいよ一人になる」
「君にも、マテリアル君や国近君とか友達はそれなりにいるだろ?それに、家族も二人いる」
それを言われると、田上は何も答えられなかった。それに、言った後の後悔がじわじわと染み込んできて、心臓が奇妙に唸りを上げ始めた。しかし、田上がその唸りに耐え切れなくなる前にタキオンが再び口を開いた。
「…君も随分私に依存しているな。私なんていなくたって君はたくさんの人に囲まれているんだよ。……何がこうさせてしまったのかな?…私かなぁ?……確かに、トレーナー君に色々言って聞かせているのは私だけど、何も私に依存してほしいつもりで言っているんじゃない。…こっちを向いて、トレーナー君」
タキオンの呼び掛けに田上は渋々体の向きを変えて、膝枕の上で仰向けになった。仰向けになると、タキオンがその顔を覗きこんだ。髪の毛がさらりと垂れて、田上の顎をくすぐった。奇妙なことに田上の感覚として、時間が動きを止め、全ての音が一斉に鳴り止んだような気がした。その異質な静寂の中でタキオンは、接吻でもするかの如く顔を近付け田上の黒い目を見つめた。田上の目には、綺麗な赤色の瞳が映りこんだ。
タキオンは呟くように言った。
「どうにかして幸せになる道を探してあげたい。君の行く末をできうる限り照らしてあげたい。君の不安を取り除いてあげたい。…私にそれができるだろうか?私より他に適任な人はいるのだろうか?それとも君自身の手で簡単に掴めるのだろうか?」
タキオンがそう言って、沈黙を続けると、段々と人々のさざめきが戻ってくるような気がした。田上は、それを恐れて、静かな一時を一秒でも伸ばすために言った。
「傍に居てほしい。行かないでほしい。俺の他に大事な人を作らないでほしい」
田上は、それを言ってタキオンが喜んでくれるとは思わなかったが、まさか悲しむとも思っていなかったので、タキオンの顔を見ると傷付けてしまったのではないかと思った。
田上を覗き込んでくるタキオンの顔は、悲しげに儚げに笑っていた。
「君の他に大事な人なんていないよ」
そう言って唐突に田上の唇に自分の唇を重ねた。それは、栗毛の髪のベールに邪魔されて周りの人からは見えなかった。そして、田上が理解できるかできないかのうちに唇は離れていった。周囲の音は、奇妙に唸って高く伸びたり、低く縮んだりした。まるで、何も感じられない。タキオンの顔は、今は、にこりと笑いかけていたが、それが何なのかさえ分からない。仕舞いには、タキオンの頬に手を伸ばしたのが自分の手なのかさえ分からなかった。
世界が奇妙に唸りを上げている。時間が進んでいるのか逆行しているのかも分からない。葉は茂り、落ち葉となって地面に儚く消えていく。都市は、年月を過ごすたびに人が減り、古びていき、ビルの倒壊する物音が聞こえる。かと思えば、夕日が昇って、朝日が沈んだ。人は若返ってゆき、死は意味をなさなくなった。虫は、卵に戻り、年寄りは次々と母親の腹の中へと戻っていく。田上の頭が、ガンガンとうるさく鳴った。――まだ、戻りたくない。まだ戻りたくない。田上は頭の中で必死に唱えて、奇妙な世界の中に居続けた。
倒壊したビルの中を田上は知らない女の人と歩いていた。知らない女の人の顔は見えない。ただ、女の人ということが分かるだけだ。ビルは、まだ音を立てて崩れている。何時間そうやって崩れているのかは分からないが、田上の耳には轟音ばかりが響いていた。人の住むことのなくなった都市なので、当然の如く倒壊したビルの間に人の死体などなかった。しかし、田上が歩いていくとある時、猫が一匹死んでいるのに出会った。押し潰された様子ではなかったが、頭から血を流して倒れていた。それを見ると、田上は握っていた知らない女の人の手をぎゅっと握りしめた。怖さは感じたが、それに悲しみや怒りなどは感じなかった。すぐに引き返したかったが、こうも轟音だと次の行動に移る判断ができない。田上は、次第に手の力を強めながら、猫を見つめ続けていた。そして、ある時、不意にもう轟音が止んでいるのに気が付いた。とっくの昔にビルの倒壊は止まっていたのだ。田上は、きょろきょろと辺りを見回した。まだ、少し漂っている土煙の上に夕日が昇っているのに気が付いた。その後で――いや、朝日かもしれない、と思い直した。ともかく、陽が昇っていて、次へと進めそうな気配が出てきた。猫の死体にもう用などなかった。しかし、歩き出そうとすると、今まで田上について歩いてきていた知らない女性が、急に田上について来なくなった。田上は、一生懸命手を引いて先へ行こうと促した。しかし、それでもダメだった。女の人は梃子でも動かない。遂に田上が、「なんで?先に行きましょうよ?」と言うと、女の人が口を開いた。
「この猫を見なさい。あなたが殺したのよ。覚えていないでしょうけど、あなたが殺したの」
「いや、俺は殺してないよ。あなたも見たはずですよ。一緒に歩いて来たでしょう?歩いてきたときにはもう死んでいた」
「いえ、あなたが殺しました。あなたにはこれを朽ち果てて土に還るまで見届ける責任があります」
「嫌ですよ。なんでそんな事をしないといけないんですか。猫なんて死んでるのか寝てるのか分からないもんだから、生きていたって死んでいたって全然俺には関係がありません。そんなに見たいならあなたが存分に見てていいですから、それならこの手を放してください」
田上がそう言うと、女の人がニヤリと笑ったのが分かった。
「私は手を繋いでいませんよ。あなたが私をここに連れてきたんじゃありませんか。殺した猫を私に見せたかったんでしょう?どうなの?圭一君」
「殺してないって言ってるじゃないですか。…それに、…それに、手だってあなたが繋いでいるから離れないんでしょう?俺は、力を込めていませんよ?」
「しっかりと見なさい。あなたが私の手を繋いでいるんです。私だって力を込めていません」
そう言われて田上は自分の手の方を見つめた。そこは、なぜだか焦点が合わせづらくて、ぼやけたようになっていた。だから、田上は一生懸命目を凝らしてそこを見つめ続けた。すると、段々と薄く自分の手が見えてきた。自分の手、というよりそれは肉と肉が融合した何かだった。田上の手は手首から先が肉の塊となっていて、そこが女の人と繋がっているだけだった。それが分かった途端に田上は叫び声を上げて腰を抜かした。それは案外簡単に千切れたが、田上の手は肉の塊のままだった。
「俺の手じゃない!俺の手じゃない!」
田上は腰を抜かしたまま、あたふたと女の人から逃げようとした。しかし、悠然と迫ってくる女の人が自分の手についている肉の塊を田上に差し出すと、田上の肉の塊は制御することもできずに再び女の人と繋がった。そして、女の人は可笑しそうにふふふと笑いながらこう言った。
「何人も逃げられることはできないのです。圭一君、自分の手を見たでしょう?最早、それはあなたの手ではない。猫を殺したのなら罪を受け入れなさい。猫はあなたが殺したのです」
それから、女の人は田上を無理矢理立たせて、猫の下へと引っ張って行った。田上は、泣きながらそれについて行ったが、到底許してもらえるものでもない。自分の罪は自分で償わなければならないのだ。猫を殺した記憶なんて欠片もなかったが、もう田上は許しを請うあまり自分が猫を殺したと思い込んでしまっていた。田上は、再び猫の死体の前へと連れて行かれて、それを眺めた。確かに、息絶えている様子が見えた。体はピクリとも動かさない。そこで、女の人が言った。
「あなたの罪は何?」
それを言われると、田上の心には後悔の念が流れ込み、それはそれは丁寧に涙を流し始めた。鼻からは鼻水も出てき始め、それを子供の様にずるりずるりと地面に垂れないようにしながら泣いた。それで女の人は満足したようだった。幸福な笑みで田上を見つめた。しかし、その場からは逃がそうとはしない力がその笑みの中に隠されていた。田上は、その笑みに逆らうまでもなく、猫を見つめて涙を流し続ける事しかできなかった。例えそれが、心の芯から出た涙でなくとも。
何が起こったのか分からない。一瞬の間に幻覚や夢を見たのか、それとも、頭の中がこれまでになく働いたのか。そのどちらかではあったのだが、肝心の内容はすぐに忘れて、目の前にある悲し気なタキオンの顔に意識は移されていった。いつの間にか、奇妙な唸りは止まっていて、人のざわめきが鬱陶しいくらいに聞こえていた。そして、これまたいつの間にか、田上はタキオンの頬を撫でていた。タキオンは、田上の顔を見つめたままではあったが、自分の頬を撫でているその手に自分の手を添えて、しっかりと田上の手の感触を楽しんでいた。田上には、これからどうすればいいのか分からなかった。田上の手はしっかりと握られているし、体を起こそうにも今は上手く力が入りそうになかった。だから、田上は逃げ場を探して、再び芝生の方を眺めた。やはり、唇を重ねる前と変わらず陽は燦燦と降り注いでいる。もう、あの桜の木の下にはウマ娘の子しかいない。青い服の男の子を田上は探したが、どこに潜伏しているのか全く姿は見当たらなかった。すると、田上が目を逸らしたタキオンの方から声が聞こえた。いつものタキオンとは違い、少しか細い声だった。
「トレーナー君」と蚊の鳴くような声で呼びかけられた。それに田上はいつもと変わらない様子で「なんだ?」と振り返って答えた。これは、あまり大した返事ではなかったようだ。それどころか、悪いと言えるような代物で、そう答えた後にはタキオンは少し泣きそうな顔になっていた。もう、顔を覗き込まれはしなかったから、田上には安心感があった。
タキオンは、泣きそうな顔になった後、泣くのをぐっと堪えて言った。
「トレーナー君は…、…トレーナー君は、桜の…。トレーナー君は、ここから…。トレーナー君は」
タキオンは言うのを躊躇ってばかりで、一向に話を進ませようとはしなかった。言葉を捻り出すには大きな時間が必要なようだった。だから、その時間を短縮させつつ、自分で話を終わらせようと思って、タキオンの顔を見てこう言った。
「……もうあんなことはするなよ。お前には好きな人もいるんだし、今後もあるんだ。軽率に人にキスするもんじゃない。もし、報道されでもしたらどうするんだ。お前の好きな人にも俺とお前が付き合ってるって勘違いされるぞ」
タキオンは、その言葉にもどかしそうな様子を見せたが、それには構わずにこう提案した。
「もう帰ろう。…少なくとも膝枕はやめないといけない。…すまなかった。俺が弱音を吐いたばっかりにタキオンに迷惑をかけた」
そして、田上は起き上がった。タキオンにはそれを引き留める事はできず、田上に「帰るか?」と聞かれれば素直に頷いた。それから、二人は手を繋いで帰った。田上もなぜなのか自分の考えは分からなかったが、手を繋ぐことは許していた。タキオンの手はやっぱり湿っぽかったが、自分の手も湿っぽかった。きっと春の陽気のせいだろう。手に滲む汗は、タキオンと田上の手の中で混ざって二人の間を密接に繋ぐ橋となっていた。