ホテルの前まで来たら、さすがの田上もタキオンの手を放したくなって、タキオンにそう働きかけると思いの外素直に手を放してくれた。だから、二人はこれといった諍いもなく、ホテルの中に入ることができた。ホテルの中は、奇妙なほど静かだったが、人の気配はちらほらあってそれがなんだか少し恐ろしかった。その田上の様子を感じ取ったのか、タキオンは田上に肩を寄せて小さく言った。
「手を繋いであげようか?」
本当は、手を繋いで欲しい気持ちがどこかにあったのだが、その事には気付かず田上は「遠慮しておく」と返した。それでも、タキオンが田上と手を繋ぎたそうに手と手を触れさせてきたので、田上の手はハエでも払うかのように振って、タキオンの手を追い払った。タキオンは、不満そうではあったがその不満を口に出すことはせずに黙って田上の隣にくっついて歩いた。手は繋いでなくとも恋人同士であると勘違いされるような距離でタキオンは歩いていた。しかし、田上はなぜだかそれを許してタキオンを傍に居させた。
とうとう二人は、自分たちの部屋の前まで来た。部屋に来るまで見たのは二、三人だけだったが、特に好奇の視線を浴びせられるでもなく、可笑しそうに声をかけられるわけでもなく、普通に通り過ぎることができた。これは、田上は大いにほっとした。別にタキオンと恋人同士と勘違いされることは構わなかったが、声をかけられるとなると、途端に動揺して何をしゃべればいいのか分からなくなる自分が容易に想像できたので、声をかけられなかったのは幸いだった。
田上は、タキオンがどちらの部屋に入るのだろうかと思って、隣にいる赤い瞳を見つめた。その赤い瞳は微かに迷うように揺れた後、田上の部屋の扉を選択して、先に中に入って行った。だから、田上もその後に続いて入った。廊下に出てくる人の気配には、殊に集中して気を配っていたので、誰も見ていることは確認済みだった。そして、部屋の中に入ると、ようやく田上は口を開いた。
「……どういうつもりだったんだ?」
これを聞かずにはいられなかった。言うか言うまいか大分悩みこそしたが、その質問を妨げる考えは、聞きたいという欲には勝てなかった。
田上の部屋に入るとすぐにベッドに寝転がったタキオンは、平然として答えた。
「…別に。…君の唇が美味しそうだったから食べようとしただけだよ」
「…どんな味がした?」
「どんな味?」
オウム返しにそう聞いたタキオンの顔は、田上の素っ頓狂な質問を面白がって、顔に笑みが滲み出ていた。そして、タキオンは続けて言った。
「そうだなぁ…。…あんまり覚えてないや。何しろ私も唐突にキスしてしまったものだから」
その答えに田上は、ベッドの前の床の方に力なく座り込んだ。そして、頭を抱えて言った。
「あんな事するべきじゃなかった。……大阪杯に動揺が響いたらどうするんだよ」
「…動揺しているのは君だろ?」
「それにしちゃ、いつもみたいに声に覇気がないな」
田上がそう指摘すると、タキオンも思うところがあったのか口を噤んだ。それから、暫くの沈黙が流れたが、田上が体勢を変えて、そのまま床ににうつ伏せに寝転がると言った。
「何がしたかったんだ?実験か?俺にキスして情けなく動揺するのかを調べたかったのか?」
「そんな事を調べて何になるんだい。……純粋に私の好意だよ。嘘偽りない私の好意」
「人が好きで、なんでキスをすることになるんだ」
「そりゃあ、そういう欲求が出るからだろ」
「…そういう欲求が出たのか?」
すると、田上の言葉にタキオンが再び口を噤んだが、少し経てばこう言った。
「…あの時は少し違っただろうな。…君があんまりにも可哀想で可哀想で」
「つまり、同情か?」
「同情?…同情とは違う。あれは、私の紛れもない好意だ。なんなら今してやってもいい」
そう言ってタキオンは寝転がっていた田上のベッドから体を起こした。田上は尚も床に寝転がったまま言った。
「もういい。……聞きたい事もないからこの部屋から出てってくれ」
「君がいるから無理だな」
「俺を避けて行ってくれ」
「いや、私は君に起きて見送ってほしい」
タキオンがそう言うと、田上はゆっくりとその場に起き上がって胡坐をかいた。そして、「ばいばい、タキオン」と言うと、早く帰ってほしそうタキオンの顔を見つめた。だが、タキオンは田上が起き上がると、ニヤリと笑って言った。
「やっぱり帰らない。…ねえ、一緒にベッドに寝転がろうよ。そこにいるより断然気持ちがいいよ」
「ベッドに行ったらお前に何されるか分からないだろ。あれ以上はもうごめんだ」
「ごめん?君が行かないでほしいって言ったんじゃないか。それなのに君は嫌だっというのかい?」
「ああ、嫌だった。あんなところでタキオンにあんなことをしてほしくなかった!」
「だったら、別の場所だったら良かったというんだね?」
「いや、違う!あんな事どこでやったって同じだ!問題は、どうしてそんな事をしたのか?だ。…タキオン」
「私はちゃんと言ったじゃないか。君が好きだからやったんだ、と。何がそんなに気になるんだい」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。……俺にはお前の事が分からない。好きだからって人にキスができるものなのか?」
「現に私がやってみせたじゃないか」
「でも、可哀想だからとも言っただろ?」
これはタキオンの言葉を詰まらせた。確かに、好意もない事はないのだが、あの接吻の行動の意図としてはやはり田上が可哀想だからに変わりはなかった。決して、同情ではないのだ。同情ではないのだが、愛燃え上がった故の行動だった。田上は、タキオンが言葉に詰まると、勢いづいてこう捲し立てた。
「やっぱり、お前も何か勘違いしているんだよ。人を好きになるって言うのは、お前ぐらいの年齢じゃ理解できない事なんだからもう二度とあんな軽率な行動はしないでくれ」
そう言われるとタキオンは不機嫌そうな顔を見せた。
「君、私の事をあんまり子供扱いしすぎじゃないかい?私は、もうすぐ十八だよ?子供なんていつでも産める年齢だよ?」
「子供でも何でも作って構わないけど、せめて俺のいないところでしてくれ」
「それじゃあ、あの時ベンチで言った事と矛盾してるじゃないか」とすぐさまタキオンが反論した。
「君は、私に行かないでほしいって言ったんだ。何回でも言うよ。行かないでほしいって言ったんだ!」
「ああ、言ったよ。だけど、それは錯乱したようなものだと思ってくれ。本当の俺じゃないんだ」
「それは確かにそうかもしれない。だけど、錯乱したなら錯乱したでその言葉にも確かに意味はあるんだ。それが本当の君自身でなくとも、君の心を映した鏡のような物なんだ。君は、確かに私に行かないでほしいと言っていた。これは本当の事だろ?」
「本当の事だけど、…本当の事だけど…、今はとりあえず出て行ってくれないか?」
「嫌だね。私はこの議論を止めたくない。元より君には、君が幸せになるまで一緒にいると働きかけ続けてきたはずだ。今更その言葉を忘れたわけではあるまいね?」
「忘れた」と意地を張って田上は答えた。すると、タキオンはそれを真に受けたふりをして「ひどい!」と答えた。一種の茶番劇だったが、両者とも譲れないものを持っていた。だから、この緊張状態は続いたまま、一瞬の空白ができてから再び言い争いが始まった。
タキオンが言った。
「本当に私は君の事を好きだから言っているんだよ。机の周りを追いかけ回した時だって、バレンタインのチョコを食べさせた時だって、私は君の事が好きだった」
「なら、なんで俺にすぐに言わなかった」
「言うわけないだろ!?私を何だと思っている。純情なる乙女だぞ!何が楽しくて、好きになってすぐに君に気持ちを打ち明けなきゃいけないんだい?」
タキオンがそう言うと、急に田上が黙り込んで考え始めた。しかし、これは田上には分かるものではないのですぐにタキオンに聞いた。
「……いつから俺の事を好きだったんだ?」
「…一月くらいから…。…いや、もっと前からの可能性もなくはない」
「…つまり、正月くらいからか?怪しかったのはそこらへんだよな?」
「いや、正月じゃないんだ。…私が自覚し始めたのは、一月末くらいで…」
「は?…正月は?正月はなんなんだ?あれ。明らかに距離感がおかしかっただろ?」
「あの事を持ち出されると少々恥ずかしい。あの時は私も錯乱していたと言ってもいい。むしろ、錯乱していたと言わせてくれ」
「今も十分錯乱している」
「今は違うさ!君の事が大好きだよ!」
「それが駄目だ。俺の事を好きになること自体間違ってる。いいか?お前は勘違いしてるんだよ。真面な思考を持った女子高生が、四十くらいにみえる老け顔の男を好きになるわけがない」
「それは偏見だ!女子高生が何を好きになったって関係がないだろ!」
「だから、お前は真面じゃないんだ。もう少し真面になれ」
「ああ!!君、それはトレーナーとして言ってはいけない事なんじゃないのかい!?私だって傷付くよ!自分の好意を否定されて踏みにじられた挙句、真面になれだなんて、君は男の風上にも置けないぞ!」
「じゃあ、ぜひ風下においてくれ。元々俺はこんなもんだ。お前がもう少し大人になって、人の事を理解できるようになったら自ずと分かる。自分の好きだった人はこんなにも人間の屑だったのかって」
「君は人間の屑なんかじゃない!」
「なら、糞だ。お前にこう言ってる時点でダメな奴だってわかるだろ?」
「ダメな奴だなんてとっくの昔から分かっているさ。それでも、一緒にやっていこうって言ったじゃないか」
「そんな事は知らない。嫌なら俺をトレーナーから外せばいい」
「君…、そんな脅しをする事こそが、私が君を愛しているという事を君が知っている証拠だよ」
そう言われると、田上はその言葉の意味をすぐに理解できずに少しの間考え込んでしまった。タキオンは、その田上をじっと見つめて待った。勢いに任せて責め立てるという、愚かなことはしなかった。そして、暫くすると、田上が口を開いた。
「…俺はお前の愛なんてどうでもいい。知っていても知らなくても、お前の事を受け入れるつもりなんて毛頭ない。お前はまだ十七だ」
「そして、もうすぐ十八だ」
「十八くらいの小童に愛なんて語らせない」
「二十五の小僧に私を止められると思うか」
タキオンがそう言うと、田上は床に座ったままじろりと睨んだ。そして、大きくため息を吐いた。
「今日の所はこれで止めよう。俺はもう疲れた」
「夕食は抜くつもりかい?」
「ああ。もう何も言わないでくれ」
「でも、君の分の夕食は用意されてるよ」
「...ああ、そうか。...そうだったか。...連絡を入れて、俺は食えないことを伝えようかな」
「...でも、明日に備えて何か食べなきゃ」
「別に俺は走らないんだから、食わなくたって問題ない」
「私は問題あるよ。君の不健康が気に掛かってレースに集中できない」
そのタキオンの言葉に再び田上は、タキオンをジロリと睨んだ。そして、今度は、胡坐をかいている膝の上に頬杖を突いて、顔を背けてから言った。
「…そうは言っても、俺はこの顔であいつらに会うことはできない。あいつらなら、絶対に話しかけてくるだろ?」
「それなら、私が厨房の方に聞いてみるよ。部屋の方に食事を持ってこれないか」
「いや、…俺からこの大阪杯チームの引率に聞いてみるよ」
「今すぐ?」
タキオンがそう問うと、田上はじっとその顔を見つめた後「今すぐ」と返した。それから、田上は責任者の方に電話をかけて聞いてみた。責任者も分からなかったようなので、その事をホテルに問い合わせるために少し時間が空いた。その間にタキオンが「私もこの部屋で食べたい」と駄々をこね出したので、田上は渋々頷いて責任者の方にタキオンも付き添うことを告げた。男女が同じ部屋にいるという事に責任者の人はあまりいい顔をしなかった(声しか聞こえない)が、タキオンがもうすでに田上の傍に居て、さらにタキオンからの働きかけも猛烈に受けてしまうと、こちらも渋々ながら頷いた。田上は、実の実を言うと、タキオンが一緒にご飯を食べてくれると言うと、ほんの少しだけ嬉しかった。立場上拒否をせねばならなかったが、自分が結局タキオンに負けてしまうという事は分かり切っていたので、安心して口論ができた。
それから、夕食まで大きく時間が空いていたので、タキオンはとりあえず自分の部屋に帰らせた。その後に、自分以外が消え去った部屋を見て何をしようか考えたが、ゲームをする気にもスマホを惰性で見続ける気にもなれなかったので、ベッドに寝転がって寝るかぼーっとするかした。初めに寝転がったときにうつ伏せに寝た。すると、タキオンがここに寝転がっていたことを思い出した。タキオンの微かな匂いが鼻をついたからだ。それに気が付くと、田上は慌てて仰向けに寝転がった。仰向けに寝ても気まずい事には気まずくて、背中が気になって仕方がなかった。しかし、それを気にするのもいい加減疲れて、――もういいやと思うと、ホテルのベッドで思う存分寝た。変な夢を見た気がするが、それはタキオンに起こされた時に全て持っていかれた。その前に、少しタキオンの方も話してみよう。
タキオンは、半ば田上から押されつつも部屋から出ると、その部屋の扉を不満そうに見つめた。しかし、もう出てしまったものはしょうがないから、自分の部屋に入った。すると、それ待ってましたとばかりに、部屋に入ってきたタキオンにマテリアルがニヤニヤしながら話しかけた。
「タキオンさん、田上トレーナーと手を繋いでいる所を見ましたが、もうお付き合いでもしたんですか?」
「は?…手を?…どこで見たんだい」
「ホテルですけど、違ったら不味いですか?」
「…いや、不味くはないけど…」
「けど?」
マテリアルが、タキオンの続きの言葉を催促した。しかし、タキオンは続きは話さずにマテリアルをむっと睨むと言った。
「君に言う義理はないね。あんまり首を突っ込むと痛い目見るよ」
「そんなに首は突っ込んでいませんよ」とマテリアルは反論したが、その声は情けなく小さくバツが悪そうだった。だから、マテリアルは暫くタキオンに話しかけなくなったが、やはり堪え切れずにこう聞いた。
「手を繋いだって事は、仲が良いって事ですよね?」
その時、タキオンはベッドに座って本を読んでいて、マテリアルの質問を受けると、寝転がりながら睨みつけた。しかし、睨みつけたもののこう言ってくれた。
「仲はいいさ」
タキオンが上手く誘いに乗ってくれたので、マテリアルは嬉しくなったが、それはできるだけ表には出さないように次の質問をした。
「手を繋いでどこまで行ったんですか?」
「いった?」
タキオンは、行ったというのが行動の事を指していると思って、まさか自分たちがキスをしてしまった事をマテリアルが知っているんじゃないかと思って焦った。しかし、マテリアルの答えは、タキオンの予想した物とは違っていた。
「行った。…どこまで行ったんです?レースでも見に行ったんですか?」
「ああ、そのことか。…いや、桜を見に公園の方に行ったよ」
「桜ですか。今日あたりが満開日ですもんね。私も行けばよかったな」
そこでマテリアルはタキオンをからかう言葉を思いついてしまったが、それはぐっと飲みこんだ。本当は、「あ、私がついて行ったら二人きりになれませんね」とニヤニヤ顔でいうつもりだった。その代わりに、マテリアルはこう聞いた。
「明日はどうですか?順調そうですか?」
「ん?うん。順調だよ。…あ、そうだ。今日の夕飯は私とトレーナー君は、部屋の方で食べるから、君はあまり関係がないだろうけど、そういう事だから」
そう言ってタキオンは本を読み始めようとした。ただ、さすがの優秀なマテリアルでも今の説明では完全に把握ができなかったので、慌てて聞いた。
「え?どういうことですか?ん?夕飯?」
一回で理解できなかったマテリアルを面倒臭そうに見つめながらも、説明しない方が面倒臭いのでタキオンはやれやれと言った。
「そうだよ。夕飯だよ。トレーナー君の調子が悪いそうなんだ。だから、部屋の方にご飯を運んで貰ってそこで食べようって事になった」
「え?タキオンさんは、田上トレーナーの様子を見たんですか?それとも散歩している間にそうなったんですか?」
「ん~、帰ってきてからだね。トレーナー君から連絡が来た」
タキオンがちょっぴり嘘を吐くと、案外マテリアルがそれに食い付いてきた。
「え?本当ですか?ちょっとその連絡見せてもらえませんか?」
「え?連絡?…今はちょっと難しいな」
「難しい事はないでしょう?スマホでちょっと見せてくれるだけでいいんですよ?」
「いや、難しい事には難しいんだ。特に今は読書中だ。見せるんなら後でだね」
「後とは?…いや、私から連絡して聞いておきます。わざわざタキオンさんの手を煩わせることはありませんでした」
タキオンは、マテリアルが直接田上に連絡をつける事に不満を持っているようではあったが、そこまで口出ししてしまうと自分から墓穴を掘りに行くようなものなので、それ以上は何も言わなかった。それでも、気になりはしたので本に目を向けながらも、チラチラと電話をしているマテリアルを窺った。
マテリアルは、早速、自分のスマホを取り出して田上に電話を掛けていた。その途中で不安そうに見つめてきていたタキオンと目が合うと、何を思ったのか自信満々に握られた拳の中で親指をそびえ立たせた。なんだかバカバカしくて気まずくて、タキオンはすぐに目を逸らした。逸らしている間も当然耳は澄ませている。マテリアルが「もしもし」と言うのが聞こえると、こんな具合に話しているのが聞こえた。
「タキオンさんが体調が悪いって言っていましたが大丈夫でしょうか?」
『大丈夫です』と田上らしい低い声が、電話の向こうからくぐもった声で言った。
「それで、晩御飯をタキオンさんと食べるとかなんとか聞きましたが、こちらも把握しているのでしょうか」
再び電話の向こうから『大丈夫です』とくぐもった声が聞こえた。タキオンは、マテリアルが自分の事をあまり信用していないことに多少腹を立てつつも、続きの話を聞いた。
「もし、他の方に風邪をうつすのを気にされていらっしゃるのなら、タキオンさんもできるだけ隔離した方がいいのでは?」
タキオンは、本に目を向けながら――余計な事を言うな!と心の中で怒ったが、田上は少しの沈黙の後こう言った。
『体が怠いだけなのであんまり問題はないと思います。部屋から出ないのは念の為です』
「そうですか…」とあまり筋の通っていない論理を自分に無理矢理納得させながらマテリアルは頷いた。そして、その後で急に思いついた事があって聞いた。
「田上トレーナーが、タキオンさんと手を繋いでいるのを見ましたが、お二人はどういうご関係で?」
すると、少し間が空いて電話が切れた。切れたことに気が付かずにマテリアルは暫くの間田上が話すのを待っていたが、「トレーナー?」と二,三回呼び掛けて返事がないと、そこでようやく電話を切られたことに気が付いた。
「切られちゃった」
そうマテリアルが呟くと、タキオンがすぐさま言った。
「君がそんな嫌な質問するからだよ」
「だって、タキオンさんの話を簡単に信じられますか?男女が手を繋いで歩いていたら、そりゃあ何かあったんじゃないかって疑うでしょう?」
「何にもないって言ったじゃないか」
「私は、その言葉は信じられません。告白でもなさったんですか?」
「告白は、…してないさ」
タキオンは、頭の内では不味いと思ったが、告白と言われてしまうとそれ以上の事をしてしまった自分を思い出して、言葉と言葉の間に変な間が生まれてしまった。そして、案の定マテリアルは食い付いた。
「告白はしていない?じゃあ、何をしたんです?」
「何?何と言えば………、何だよ」
どうにも上手く逃げる言葉が見つからなかった。タキオンは自分がどんどんと追い込まれて行っているのが分かったが、どうしようもない。もう話の流れに任せた。
「何?…例えば、キスでもしてしまったんですか?」
――この女は妙なところで勘が良い、と思いながら、タキオンは観念して言った。
「そうだよ。…してしまった。…あんまり衝動的になりすぎた。…トレーナー君の言うとおりだったなぁ。あんなところでするべきじゃなかった」
途端にマテリアルが黄色い声を上げた。
「つまり、もう付き合っているんですか!ラブラブですか!」
「いや、違う」
それ以上の言葉が出てこないから、タキオンは本に目をやってごまかした。すると、当然マテリアルが聞いてくる。
「違う?…キスしたのに付き合っていないってどういうことですか?」
「………あんまり私にも分からないんだよ。とにかく、私が衝動的にキスしてしまったから、トレーナー君は今少し困惑してる」
「ああ、それで体調が悪いんですね。…でも、夜食は部屋で食べるって言ってましたけど、まさか二人で食べるんですか?気まずくないですか?」
「気まずい事には気まずいさ。でも、あの人、そのままにしておいたら夜食を抜いてしまいそうだったから私も一緒に食べる事で見張ってあげるんだよ」
「別に私が代わってあげてもいいですよ。タキオンさんも田上トレーナーの面倒ばかり見ていたら大変でしょうから」
マテリアルがそう言うと、タキオンが断りたいけど断り切れない微妙な表情を見せた。すると、マテリアルはそれを見て可笑しそうに笑った。
「いいですよ。タキオンさんが田上トレーナーと一緒に食べても。そんなに大好きなんですか?」
マテリアルに心を見透かされて恥ずかしくなったのか、タキオンは顔を背けた後、「そんなことはないよ」と言った。声は心なしかおぼつかず、それがまたマテリアルの笑いを誘った。微笑ましいものだったが、それ以上は何も言わずに放っておいてあげた。隣の部屋でベッドの上で寝転がっていたら急に電話を掛けられた田上は、この頃になるとぐっすりとはいかない浅い眠りに入り込んでいた。