それから、大阪杯前日のそわそわと落ち着かない、だらだらとした午後が過ぎていった。タキオンは、もう一度外に出て軽く走ってくる気にもなれなかったので、持参した本で暇を潰していた。寮の部屋にある自分の物でもう何回も読んだ事があるが、何回読んでも面白いアメリカのある博士の本だった。これを初めて読んだ時期は焦っていた頃だったと思う。当時は焦っている自覚などなかったが、今思えばあの頃は焦っていた。あの頃とは、田上と出会う少し前の事だ。だから、焦って生き急いでいたタキオンは、田上に出会ってどれだけ安心したか知れない。これも、今考えると気が付いた事だ。しかし、不安が急激に安心に変わってしまうとその物事や人に依存してしまう。自覚のない事だ。田上もきっとタキオンのトレーナーになりたくて必死だったのだろう。なにせ、六月の最後の選抜レースの時まで誰もスカウトしておらず、誰かの補佐にもなっていなかったから、相当な不安だったはずだ。これは、今の田上を見れば分かる。そして、田上は今もその状況から抜け出せていない。変わっていくタキオンを必死に繋ぎ止めようとして、自分の身の回りの変化に怯えている。田上の父の賢助の家に帰省をしに行った時に、田上から「永遠なんてない」と諭されたことがタキオンにはあったが、それは今の田上に一番必要な言葉で、一番受け入れる事が難しい言葉だ。何しろ不安なのだ。今を変える事が田上にとって。かつてはタキオンも不安だった。帰省をしていた時は、変わってほしくないと田上に泣きつくようにして頼んだこともあった。だが、タキオンはいつの間にか解決してしまった。色々な要因があるように見えたが、一番は前に進もうとしたことだろう。解決したはずだった自分の足の研究実験をやめず、ぐだぐだとその状況に依存することをやめたのだ。田上にも前を向いてほしかった。何とかして自分の方を向いてほしかった。あわよくば自分に思いを寄せてほしかったりもしたが、これはまず田上に前を向かせてからだ。それ故に今日の接吻は失敗だった。田上の事を深く考えず、自分の感情のままにやってしまったのだ。まだ、タキオンの唇には田上の唇の感触が残っているような気がした。あの人らしい渇いた唇だった。田上もまた、接吻の事が頭から離れず、夕食の時間になってタキオンにベッドの上で揺り起こされた時、あまりにもタキオンの覗き込んでくる状況が重なって、思わず「やめろ!」と声を荒げてしまった。その後にタキオンの驚いた顔に気が付くと、怒声を上げてしまった自分に戸惑いながら「ごめん」と言った。タキオンは、田上には分からない妙な目付きでこちらを見てきていた。しかし、田上はあまり気には留めずに聞いた。
「夕飯か?」
「ああ、そうだよ。もう持って来てある」
静かな声でタキオンは言って、後ろの方を振り返って見た。田上もタキオンが見た方に視線を動かすと、帰省の時に使ったような小さな背の低い丸テーブルに料理が置かれていた。
「私とマテリアル君で運んできたんだ」
そこで田上の部屋のドアがばたんと開いて、騒々しいマテリアルが入ってきた。
「タキオンさん、飲み物忘れてましたよ!…あ、田上トレーナーも起きてらしたんですね。明日の大阪杯には体調戻してくださいよ。皆でタキオンさんを応援しないといけないんですから」
「はい」とあまり気が乗らない、または、マテリアルの勢いに押されて小さく見える返事が聞こえた。それでタキオンが言った。
「あんまり大きな声で話さないでくれ。こっちは病人なんだぞ」
「あっ、すいません。飲み物ここに置いて行きますね」
マテリアルはそう言って、丸テーブルに水の入った容器を置くと部屋から出て行った。その時に「何かあったら私に連絡してくださいね」との言葉も残していった。
その様子を見ながらタキオンはやれやれとため息を吐いて田上に言った。
「あの人、病人がいても静かにならないね。……さあ、食べよう?」
タキオンは田上に手を差し出した。しかし、田上はその手を取らないで自分でベッドから降りて行った。
「なんで丸テーブルなんだ?」
丸テーブルの横に躊躇なく座りながら田上が聞いた。それにタキオンも同じように反対側に座りながら答えた。
「この部屋に椅子がないだろ?だから、ホテルの人が寄越してくれたんだ。わたしは別にこれでいいと思ったんだけど、何か悪い事でもあったかな?」
「…いや、ホテルの部屋に不釣り合いな丸テーブルだから…」
確かに安っぽい木の丸テーブルだった。全然お洒落でも何でもなくただの丸テーブルで、高そうなホテルでないと言えど洋風なホテルの中では、この絶妙なお茶の間感は拭えなかった。それが少し可笑しくもあったが、田上も眉をピクリともさせず、少しの笑い声も立てなかった。それだから、二人で夕食を食べ始めると奇妙な沈黙が流れ始めた。田上にはタキオンがどのような事を考えているか分からなかったが、少なくとも外見上では何事もなく黙々と食べ物を口へと運んでいた。それが何だか少し寂しかった。いつものように意気揚々と何か話してほしかったが、それをタキオンにさせるためには、まず自分から話しかけねばならないように思えた。それが、とても億劫で面倒だった。話しかけようとしてもため息しか出てこない。このため息を言葉に変えなければならない。この言葉に変えるのが、とても面倒なのだ。何しろため息しか出てこない。やっとの思いで言葉にできそうになったとしても次にはため息しか出てこない。その上、ため息を出せば出す程、田上の心は沈んでいった。タキオンは一向に話す気配がない。ただ、黙々とご飯を食べ続けている。その様子を見ていると、今度は田上の食欲が消えて行った。せっかくタキオンが運んでくれたと言うのに、残すわけにはいかない。田上は空いてない腹に無理矢理飯を詰め込んだが、それも長くは続かなかった。目の前の皿の料理はほとんど減っていないが、田上は箸を置いた。すると、タキオンがそれに気が付いて初めて田上に声をかけた。
「お腹が一杯なのかい?」
声を掛けられたら掛けられたで、なんだか喉につっかえがあるような気がした。しかし、それも無理矢理押し通すと田上は「ああ」とため息まじりにそう返事をした。今度は田上にもタキオンの表情が分かった。田上の言葉に困ったような顔をしていた。それを見てみぬふりをすると、田上は「ご馳走様」と呟いた。それに迷ったように目を動かしてから、タキオンが言った。
「…もう少し食べてくれなきゃ困るよ。君も一端の人間なんだ。燃料がないと動けないだろ?」
それには田上は答えたくても答えられない。今度は、喉のつっかえがしっかりと機能して、田上の言葉を塞いでいた。その様子を見ると、タキオンは自分のご飯を箸の上に装って、田上の前の方に差し出した。そして言った。その声は、少し泣きそうな声だったから田上は慌ててその顔を見た。すると、微かに目に涙が滲んでいるような気がした。
「私が食べさせてあげるから、ちゃんと食べておくれ。君には落ち込まないで生きててほしんだよ。今日の事は私が悪かった。すまない。謝るから食べてくれ。…頑張って生きてくれ」
そう言われると、田上も雰囲気に飲まれて恐る恐るタキオンの持つ震える箸に口を開けた。その口に、タキオンがご飯を運んだ。田上は、慎重にご飯を噛みながらタキオンの顔を窺った。今にも涙が零れてくるんじゃないかと思っていたが、それはなかった。タキオンは、再び自分の箸にご飯を装って田上の方に差し出した。何かを我慢して歯を食いしばっているように見える。田上は、もぐもぐと咀嚼しながらそんな事を考えていたが、あまり現実感がなかった。自分がふわふわと浮いていて、第三者の視点でこの場を見ているような気がした。あまり感情がない。何かに揺さぶられない。そんな不思議な感覚がした。タキオンは尚も田上の口に食べ物を運んでいたが、不意に我に返ると田上は言った。
「もう自分で食べるよ」
「……本当かい?」
今のタキオンの顔は、田上の事を睨んでいるように見えた。それに少し怯えながらも「本当だよ」と返して自分の箸を手に取った。それから、二、三口食べ物を口に運んでみたが、驚き情けない事にこれまた食欲が失せてきた。どうにも腹が空かない。これ以上入る容量がない。しかし、タキオンに食べると言った手前、何とか食べ物を腹に詰め込まないといけなくなった。
今度は、吐き気を催してきて箸を皿の上に置いた。口に手を当て、お腹の具合の悪さを慎重に測る。吐き気こそするもののまだ堪える事はできそうだ。再び箸に手を伸ばそうとするが、田上のただならぬ様子を感じ取ったタキオンがそれを遮るように言ってきた。
「どうかしたのかい?」
声は心配そうだったが、それには構わず田上は「いや」と否定して箸をもう一度取ろうとした。それで見かねたタキオンが言った。
「吐き気がするんじゃないのかい?」
見事に言い当てられた田上は、箸に伸ばした手を力無く下ろした。そして、躊躇いながらも「ああ」と頷いた。すると、タキオンは思わず声を荒げてしまった。
「なら、食べなくてもいいよ!……いや、すまない。私だ。私のせいだ。君に無茶をさせてしまった。……裏目に出てしまった。…何が君の為になったんだろう。分からない。君に…、君に無理はさせたくなかった。…すまない」
そう言うとタキオンは押し黙ってしまった。どうにもやりきれない空気が続くが、もう田上はご飯には手をつけなかった。それで力なく床に寝転がった。ホテルの綺麗な天井が見えた。染み一つないかに思えたが、隅の隅の方に三つ点々点と茶色の染みがあった。それが人の顔に見えた。なんだか不気味に笑っている。田上はそれを見て恐ろしくなったので、横向き寝転がり直した。ベッドのシーツの裾が見えるがそれ以外は何も見えない。タキオンの咀嚼音が聞こえるだけだ。田上の部屋は静かだった。静かな部屋の中にタキオンの咀嚼音だけが聞こえた。
結局、田上の分もタキオンが残さず食べてくれたようだ。その上、タキオンが皿を片付けてくれると言うから田上も申し訳なくなって手伝おうとした。しかし、その後で「体調不良である君が動いてどうする」とタキオンからの指摘を受けると田上は仕方なくベッドに腰を落ち着けてタキオンが皿を下げていく様子を見つめた。途中でマテリアルも夕食から帰ってきて、皿を下げるのを手伝い始めた。その為にすぐに皿はなくなっていって丸テーブルも片づけられた。タキオンが、丸テーブルを片付けていくときにもう自分の部屋に帰ると言った。だから、田上はタキオンを呼び止めて言葉に迷いながら言った。
「……ごめん。……明日負けたら」
ここでタキオンが田上の言葉を遮った。
「明日負けても君のせいじゃない。私が勝つんだ。負けたって気にしなくていい。負けたら私のせいだから、君は落ち着いて見ていてくれ。それが一番私の為になる」
「…ああ」
田上の返事が聞こえると、扉は閉まって田上は部屋に一人きりになった。息が詰まるような沈黙がこの部屋にはまだ流れている。できる事ならタキオンに置いて行ってほしくなかったが、例えタキオンが居てくれたとしてもこの空気はあまり変わらなかっただろう。その空気に変化を加えたくて、田上は大きなため息を吐いた。すると、一瞬だけ可笑しさが込み上げてきたが、本当に一瞬で、すぐに田上は滲み出る不安に頭を支配された。その事を田上は自覚していない。ただ、何も考えられなくなっただけだ。何も考えられなくなると、田上はベッドに寝転がって天井を見上げた。先程の食事までは気が付いていなかった天井の染みが今は気になって仕方がなかった。だから、それを見ないように体ごと顔を背けた。ベッドは壁に寄せてあって、顔を背けるとすぐに壁があった。しかし、壁があるとなると、今度は背中が気になった。背中を守るものが何もない。天井の怖い染みにいつ襲われるか分からない。なので、次に田上は壁をぴたりと背にすると、天井の染みから目を離さないように体を横に向けた。これならひとまず安心で、染みに襲われる不安もなくなった。
僅かなりとも食べたばっかりだったし、食事の前には眠っていたのもあって中々寝付けなかった。まだまだ、ゲームもスマホも見る気にはなれないから、その内に田上は染みの事を忘れて抜け殻の様になってベッドの上に横たわっていた。耳を澄ますと何かが軋んでいるような音がする。どこから聞こえてくるのかも分からないし、どっちみち田上は抜け殻なので、その音を耳に入らせているものの、頭には入らせていなかった。
そして、夜が更けていった。いつの間にか田上は眠った。眠ってしまう前は刻一刻と近づいてくる大阪杯が怖くなっていた。しかし、案外眠れてしまうものだから猶更怖い。起きた時には、一瞬で時間が経っていて、夜のうちに風呂に入ることも忘れていた。だから、田上は慌てて朝に部屋の風呂に入り、ついでに髭も剃った。その時に、寝ている時の自分の夢の事を考えた。タキオンと言い争いをしている夢だった。どちらが悪いと言う事もない、些細なひび割れで田上は激昂していた。タキオンもそれに負けじと激昂していた。そして、田上は一回頬に平手打ちを食らった。そこは、レース前の控室である。タキオンはその部屋から出ようとせずに椅子に座り直すと言った。
「君の事なんて嫌いだ!!」
その言葉を聞いて、田上はおいおいと泣いた。それから、タキオンがもう一つ言った。
「ここから出て行ってくれ!!」
言われるがままに田上は出て行った。出て行くとそこは奈落だった。深い穴に真っ逆さまに落ちた。真っ暗で真っ暗で何も見えず落ちていく感覚があって、その中で田上はこう叫んだ。
「許してくれ!!!」
しかし、その声は暗闇の中に吸い込まれて、到底タキオンの方へ響きそうにはなかった。
そこで夢が終わった。思い出すのも少し疲れる夢だった。田上は、この夢が何を指しているのかは分からなかったが、どうか現実にはなってほしくないと思った。そう思って、風呂から上がった。
朝は、この夢のおかげで早くに目覚めることができたので、風呂に入る時間が取れたのが幸いだった。予定通りの時間に目覚めていたらきっと自分の体が気になって仕方がなかっただろう。
早朝だったからか、誰も起きていないようだった。田上は、何の気なしに自分の部屋の外に出てそう思ったが、そう思った直後に隣の部屋の戸がバタンと開いて、タキオンが出てきた。タキオンも早朝に起きてしまった口らしい。昨日よりは少し明るめに「おはよう」と田上に言ってきたから、田上も昨日より少し明るめに「おはよう」と返した。
「気分はどうだい?」
昨日の事を考えてか、タキオンがそう聞いてきた。田上の今の調子は、寝たおかげなのか昨日よりマシな具合になっていた。だから、「大丈夫だよ」と少し無理をしていつもより明るく言った。すると、タキオンも安心したようだ。「それはよかった」と言って、にこりと笑った。その笑顔を見て、田上の胸は少し痛んだ。目の下には、僅かに隈があるような気がした。
「眠れなかったのか?」
唐突にそう聞くとタキオンは精一杯の笑顔を作って「そんな事はないさ」と返したが、その後に眠そうに目をパチクリさせた。申し訳なさが田上の胸の中に広がった。それでも、気のきいた言葉一つかけてやれずにこう言った。
「今日は勝てそうか?」
「今日?…そうだな。…勝てるかな」
「…でも、目の下に隈ついていないか?…無理しないで言ってくれ。お前の健康管理も俺の仕事なんだから」
「…まぁ、眠れなかったと言えば眠れなかったけど…。決して君のせいじゃないからね!」
表情を落とした田上に慌ててタキオンが言ったが、田上はタキオンの話なんて聞かずに手で顔を覆ってため息を吐いた。
「俺のせいだ…。これでお前が負けたらいよいよトレーナーを辞めないといけないかもしれない…」
「何でそんなことになるんだよ!」
タキオンが勢いよく言っても、田上は一向に聞き入れようとはせずに続けて言った。
「だって、担当の体調管理もできないトレーナーなんてここには要らないだろ」
「それは!…仕方がないだろ。私が自分でしてしまった事について悶々と考えていただけなんだから。君は悪くないよ」
「いや、俺が悪いに決まってる。トレーナーとしての業務を遂行できてないから、お前の体調を悪くさせた。昨日の事だってそうだ。お前に隙を見せなければあんなことにはならなかった。…俺たちは仲良くなりすぎたんだよ。…トレーナーの実家に泊まるウマ娘なんて聞いたことがない」
「でも、紛いなりとも仲良くならなかったら、私の足の研究は絶対に停滞して成功し得なかった!君がいたから成し得たことなんだ!」
「それも本当なのか分からない。お前は俺が好きだったからこうやって引き留めているだけだろ。トレーナーとして無能なのかそうじゃないのかで言ってくれ」
「君は無能なんかじゃない!」
タキオンの声がホテルの廊下に響いたから、田上は「静かにしてくれ」と少し鬱陶しがるように言って、それから続けた。
「お前が俺の事をどう思っていようが関係ない。心の内では、全然別の事を思っているかもしれないからだ」
「それじゃあ、君は何も信用していないじゃないか」
「…いや、お前の事くらいは信用してるよ」
「じゃあ、今の言葉を取り消しなよ」
「……いや、お前が信用できない」
「どっちなんだい!」
タキオンは、思わず声を荒げるてから慌てて「ごめん」と言った。しかし、田上はタキオンの大声に動じる様子もなく暗かった。
「俺こそごめん。…もうどうすればお前のためになるか分からない。…分からないんだよ。それが、俺の無能である理由だ」
「分からないなら探せばいいじゃないか!私はそうやって生きてきたよ。これからもそうやって生きていく。君の幸せも探していくよ!別に私の事なんて好きでもそうじゃなくてもいいから」
「探しても探しても見つからないものはあるんだ。小さくなった消しゴムも失くしたきり一度も見つけたことはない」
「君の幸せはそんな小さな消しゴムじゃないよ。床を丁寧に丁寧に探して見つけるもんじゃない。皆があっと驚くような冒険をして手に入れるのが幸せだ」
「じゃあ、そんなのは俺には無理だ」
「無理じゃない!今君が差し掛かっているのが冒険の曲り道だ!えいっと踏み出すしかないんだよ。大事なのは勇気だけだ。おまけに君には仲間がいる。私が隣にいる」
そこで、廊下のどこかのドアがばたんと開く音がした。これまた早朝に誰かが起きてきたようだ。廊下で口論をしている音を聞きつけたかもしれない。田上は、その音を聞くと、タキオンと話しているのを見られると不味いと思ったのか、すぐさま自室へ入ろうとした。しかし、それはタキオンが肩を掴んで食い止めた。そして、田上に「私も一緒に入ろう」と言った。田上は、これまでになく嫌そうで、これまでになく迷ったが、渋々頷いてタキオンを中へと招き入れた。
タキオンは田上の後から中に入った。最初は、靴を脱がなければならない。だから、田上の後について狭い玄関口で待っていたのだが、前には田上の立派な背中があった。その横に二つ立派でないと言いつつも普通の手があった。この手がタキオンは好きだった。ごつごつとしたあまり肉の無い手だったが、それが父を彷彿とさせるし、男らしくもあって好きだった。その手を後ろから見つめていると、その手を繋いで横に立って歩きたくなった。ただ、今日の所はダメそうだった。今は失敗をしてはいけなかった。特に田上が落ち込んでいる時だ。ここで失敗をしてしまえば取り返しがつかないからタキオンは慎重に慎重に田上の後を歩いて部屋の中へ入った。
この部屋には椅子がない。ベッドと小さい箪笥と机しかないから、二人どころか一人とて床以外に座る場所がない。だから、タキオンは田上の寝ていたベッドに座るのだが、田上はその横に座りたくないらしく、昨日の様に再び床の上に座った。タキオンが一度「私の横に座りなよ」と言って田上が座れるように横っちょにずれたが、田上は「いやいい」と言って自分の座った場所から動かなかった。それから、少しの話題を見つけ出す沈黙があって、タキオンが言った。
「君、朝風呂に入ったんだね。レース前の緊張を解すためかい?」
「……いや、……昨日入り忘れた」
その言葉にタキオンが少し笑った。
「ははは、君、風呂を忘れるなんて大分参っているようだね。……やっぱり私のトレーナーで居るのは嫌なのかい?」
最後の方の言葉は、真剣に言っていた。
「……ああ。……分からない」
「分からない?」
「……お前が俺の事を好きだから引き留めていたわけだろ?……それじゃあ、俺は何の為にここに居るのかが分からない。……俺は、お前の好きなモルモット君ではいたくないんだよ…。…トレーナーで居たい…」
「ああ…、そうか。…私は順番を間違っていたわけだ。…というより、順番という事を考えていなかった。…すまない。私は心配だったんだよ。君が今にも死にそうだったから…。…だから…。いや、そうじゃない。できるだけ長く私の下に引き留めておきたかったんだ。すまない。…許してくれ。…私は君をトレーナーとして見ていなかった。勿論、君は優秀だ。トレセン学園のトレーナーになれるくらいだから優秀なことは間違いがないだろう。…でも、…でも、…ああ、何て言ったらいいんだろう。肝心なところで私は分からない。…とにかく、…とにかく、………私の願いは君に私の事を切り捨ててほしくないって事なんだけど……、依存しているのかな…。…トレーナー君はどう思う?」
「……依存してるんじゃないか?」
「……そうか…。……でも、どうしても君と共に居れないか考えてしまう。ダメなのか?……一番の解決策は、君がこのまま去って行ってしまう事なのかな?」
タキオンは田上に呼び掛けたが、田上はタキオンを見つめたまま何も答えなかった。だから、またタキオンは話を続けた。
「…トレーナー君、愛って何だと思う?…分からないんならいいけど、私もあんまりよく分からない。こうして君につい打ち明けてしまったけど、愛って…、愛って、このまま君が立ち去るのも許せるものなのかな?……そう言えば、君の口からあんまり話を聞いていなかったから言うけど、君は私の事はどう思っているんだい?…これだけは答えてほしいんだけど。私のキスが無駄に…はならないか…どう思う?」
「………好き………だった」
田上が恐る恐る言うと途端にタキオンが活気付いて嬉しそうに目を見開いた。
「本当かい!本当なのかい!」
「…………今は分からない。…好きって気持ちも薄れていった」
田上の言葉にタキオンは我に返って「…ああ、そうだよね…」と呟いた。
「……君が……。なぁ、私のキスってどうだった?嫌だったかい?」
「嫌?………分からない」
「…そうか…。少し眠いな…。…一緒に眠らないかい?」
タキオンは田上のベッドに寝転がりながら言った。その言葉に田上が首を振ると、タキオンは残念そうに目を瞑った。
「そうか…。…私は…君が好きなんだけど…君の…、いや、君と傍に居れたらいいんだ。……君が…望めば……一緒に行く…よ」
タキオンは次第に眠りにつきながらゆっくりと話した。タキオンの顔は、段々と安らかな寝顔に変わっていって、それが田上の安心にも繋がった。程よく肉の付いた丸いほっぺたを見ながら田上は少し表情を明るくして立ち上がると、タキオンの寝ているベッドへと近づいて行った。そして、そこに座って布団からはみ出しているタキオンの手を突いた。タキオンは身動き一つしなかった。もう寝ているようだ。その事を確認すると、田上は大きなため息を吐いて、言葉を零した。
「………分からない」
そうすると、突然にタキオンの手がもぞもぞと動いてベッドの上に置いている田上の手をぎゅっと握った。慌てて田上が眠っているタキオンを見下ろすと、その目が眠そうながらも開いていた。そして、田上と目を合わせてにっこりと笑った。
「……できる事なら傍に居させてくれ」
タキオンは、そう言うと今度はしっかりと眠りについていった。田上はその様子を用心深く眺めていたが、今度こそタキオンが眠りについたのを確認した。それから、眠ってしまったがために緩んでいたタキオンの手をぎゅっと握り返し、再びタキオンの顔を見つめながらこう言った。
「分からないな」
その顔は少し笑っていた。しかし、次には田上も眠たそうな顔になって、こてんとタキオンの隣に寝転んだ。少々寝付きにくい体勢ではあったが田上はすぐに眠ることができた。その一、二時間後に起きたマテリアルは、隣のベッドにタキオンがおらず、田上のスマホに連絡を取ろうとしても繋がらず、大変に焦った。田上のスマホは、鳴ることには鳴っていたのだが、目覚まし時計としての効力は発揮できていなかったようだ。だから、マテリアルは恐る恐る隣の部屋に行って、その扉を開けた。鍵は閉めていなかった。その部屋の中に入ると、横向きに変な体勢で寝ている田上の後ろにタキオンの顔があってほっと一安心した。それから、寝ている田上の顔を強めに人差し指で突いて言った。
「朝ですよ」