田上は、目を覚ましたら目の前にマテリアルが居て、ここはどこかと焦ったが、幸いなことにそこは自分の部屋であった。一時間足して寝た田上だったが、まだ眠たそうにしてベッドのそばにあった時計を確認した。遅刻という時間ではない。それを確認すると再びマテリアルの方を見て言った。
「おはようございます」
普段の田上よりも数段緩み切っていた田上の寝ぼけ声だったので、少し怒り気味だったマテリアルも思わず顔に笑みを作った。その後に顔を引き締めて田上に言った。
「…後ろの。…何ですか?」
「後ろ?…ああ、タキオンが寝てるなぁ。…不味かったですか?」
「不味いも何も、朝起きて隣のベッドが空だったら焦りますよ。なんで部屋に入れて、その上、一緒に眠ってたんですか?」
「……眠たかったから…」
田上は、相変わらず眠たそうに要領を得ない返事をした。それに少し困りながらも口調は変えずにマテリアルは続けた。
「眠たかったらあなたは教え子と一緒に眠るんですか?もう少しトレーナーとしての自覚を持ってください」
そう言われると田上はトレーナーとしての自覚を取り戻してきたようだ。頭に手を当てて少し焦った口調で俯き言った。
「……不味かったですかね?」
「そりゃあ、不味いに決まっていますよ。あなたたちは…」
ここでタキオンが目を覚ましたようだ。むにゃむにゃと呂律が回らないながらも言った。
「マテリアル君。……トレーナー君は悪くないよ。……私がここに勝手に眠ってしまったんだから、わざわざトレーナー君が招き入れたんじゃない。……トレーナー君は優しい人だから、君の思うようなことは断じてしないよ」
「そんな事は分かっています。でも、トレーナーとしてタキオンさんが押し入ったら断ってください。いざとなったら私が駆け付けますから」
「でも、…君を起こすような時間じゃなかったし、そもそも君だってこの部屋に押し入っているじゃないか。……一体どういう了見でこの中まで入ってきたんだい?…トレーナー君にしっかり断ったかい?」
「そりゃあ…、寝ていたので断ってはいませんが…」
「それじゃあ、君も何も言えないじゃないか。ふぁ~あ、今何時だい?」
「七時半」と田上が答えた。
「じゃあ、まだ少し寝ていられるな」
そう言うとタキオンは起こしかけた体を再びベッドの上に寝かせた。それを見て一度は論破されたマテリアルも勢いを取り戻して、タキオンに怒って言った。
「眠たいんだったら自分の部屋で寝てください」
「んん?…昨日もトレーナー君の部屋に入っていたんだ。今日も入っていたって問題あるまい。…何か問題でも?」
「昨日?……そう言えば、あなたたちいつから一緒のベッドで寝ていたんです?まさか昨日の夜からじゃないでしょうね?私が寝た後?」
そう言われると、今度は田上が答えた。
「いや、今朝がたに俺が部屋に入れたんです。廊下で話してたら、誰か出てきた音がしてそれで慌てて部屋に戻ろうとしたら、タキオンも入りたいって言ったから…」
「今朝って…一体何時?」
マテリアルがそう聞くと、「六時前くらい?」と田上がタキオンの顔を見ながら答えた。タキオンも「そのくらいだろうね」と言うと何ともないと言う風にマテリアルの方を見やった。マテリアルは、理解が追いつかないと言うように顔に困惑を滲ませながら、タキオンの顔を見返したが、その後に田上の方を見て言った。
「……六時前にあなた方は何をしていたんです?田上トレーナーが起こしにでも来たんですか?」
「いや、トレーナー君が外に出る音が聞こえたから私も出て行ったんだよ。…私があまり眠れていなかったからね。トレーナー君と話して暇でも潰そうと思ったわけさ」
「そう…ですか。……でも、タキオンさんももう自分の部屋で寝ていいんじゃないですか?」
「えーー、もう少しここで寝ていたのだけれど」
「でも、もうすぐご飯ですし、せめて、ご飯を食べてから寝てはどうでしょうか?」
マテリアルにそう言われると、タキオンは田上の顔を見てどちらにしようか考えた。無論、朝食を取らないわけにはいかないし、朝食の時間になれば田上もどこかに行くだろう。そうなれば、この部屋で寝ていてもあまり意味はなかった。だから、タキオンは仕方なしにため息を吐くと、目を閉じながら言った。
「…まぁ、もう少ししたら動くよ。ちゃんとそっちの部屋には行くから君もあまり騒がないでくれ。トレーナー君と私の仲が良いこと自体は悪い事じゃないだろう?むしろ、君はその姿を見に来たんだから口出しは無用なはずだ」
こう言われると、マテリアルも言い返す言葉が見つからずに、「分かりました」と言って部屋から出て行った。部屋から出て行ったマテリアルのドアの開閉音が聞こえた後、タキオンは田上に話しかけた。
「なあなあ、……君は……。いや、この話は止めとこう。そんなに早急にせずともいいはずだ。…多分。……今日の朝食は何だい?」
「知らない」と田上が答えると、そのぶっきらぼうな口調にタキオンがふふっと笑った。
「美味しいものだといいなぁ。……今日、勝てるといいね。……少し不安になってきたよ。そんな私の手を繋いでくれるかい?」
タキオンは自分の被っている布団の間から手を出すと田上の方に差し出した。田上も初めはそれを掴もうとしたのだが、その寸前で躊躇いを見せるとそのまま手を引っ込めて背中を丸めて、「嫌だ」と言い返した。タキオンは目を瞑っていたからその状況は見えていなかったが、今の沈黙の間から田上がしたであろう行動はなんとなく予想できた。予想できたので、少し揺さぶりをかけるつもりでこう言った。
「ああ、悲しいな~。君が好きだったアグネスタキオンが手を繋いでほしいって頼んでいるのに、君はその手を取れないのか~。残念だな~。悲しいな~」
そう言い切った後には田上の複雑な心境の読み取れる沈黙が続いた。そして、その後に田上が重そうな口を開いた。
「………あの話はなかったことにしてくれないか?」
「…あの話?」
タキオンは何の話か当然分かっていたが、敢えて聞き返した。
「………お前が好きだったって話だ。あれは、気の迷いだった。お前の事なんて好きでも何でもなかった」
「……そりゃあ、ないだろう。ちゃんと君が言ったじゃないか」
「それを取り消さしてほしいんだ。あの時は気が動転していた」
その後にタキオンの物思いの沈黙が続いたが、それはしっかりと自分で破ってタキオンは言った。
「君が取り消したいんだったらいいけど、私はちゃんと覚えているからね。それは、例え嘘であっても私には嬉しいものだったから。……君と改めて再び向き合うその日まで私はこの胸に取っておく」
相変わらず、田上は言葉を出しづらそうにしていて、次の言葉もやっとの思いで言った。
「そんな日は……来ない」
「……悲しいなぁ」
そう言ってタキオンは、上げた手を下ろした。タキオンの言葉に田上はもう返事を返さなかった。暫く、背を丸まらせて座ったまま物思いに沈むと、唐突に大きなため息を吐いて、ベッドの上にタキオンを潰さないようにして倒れた。先程寝ていた時と同じ体勢だ。その体勢が、タキオンが寝た時の手の位置と、田上の頭の位置が近くなる体勢だったので、タキオンがその事に気が付くともぞもぞと手を動かして田上の耳を指先でぎゅと掴んだ。しかし、それは田上が嫌そうな声を上げて振り払えば、簡単に離れた。その後に可笑しそうに静かにふふふと笑ってタキオンが言った。
「もう帰った方がいいかい?」
「んん」という曖昧な返事が聞こえた。タキオンはその声の明確な意図が分からなかったので、「うん?」と聞き返した。すると、今度はしっかりと田上が口を開いた。
「……帰っていいよ」
「帰っていい?…じゃあ、帰らなくてもいいって事かい?」
これには田上は返事を返さない。だから、タキオンは少し笑いながら言った。
「君も随分と照れ屋だな。帰ってほしくないなら素直にそう言いたまえ。…抱き締めてあげようか?」
「それは止めてくれ。…さっさと帰れ」
「おや、今度は怒りっぽくなった。…はいはい、帰るよ。帰るとしようかな。……君は勿論朝食は食べに行くんだろ?」
「ああ、今日は行くよ」
半身を起こしたタキオンを見上げながら田上は言った。すると、タキオンはにっこりと笑った。
「それは良かった。一緒に食べようね。もう祝勝会を開いていても良いかもしれないね」
「それはお前のコンディションにもよるな。…寝不足は大丈夫そうか?」
「う~ん、昼までにもう一眠り、しなくても目を瞑っているだけでも万全にはなりそうかな」
田上はそう言っているタキオンの目の下の隈を眺めた。
「嫌だな。人の顔をじろじろ見ないでくれよ」
「……ごめんな。……何もできないトレーナーで」
「また君の君自身によるネガティブキャンペーンが始まった。いいかい?本当に君はできる奴なんだ。何回この議論をしたらいいんだ」
「……でも、今のお前の為にしてやれることなんて何一つないんだよ」
「人ってそんなもんだよ。君は神様じゃないんだからできる事にも限界がある。例え、一流のトレーナーだとしてもね。自分に迫ってくる女の子をかわしながら、その子のメンタルケアをするなんて尋常じゃない事だよ。話していくうちに情が移りそうになる。君はそれが怖いんだろうけど……まぁ、身を委ねるしかないんじゃないのかい?もう一度私を好きになってごらんよ」
「好きになった事なんてない」
田上は、タキオンの事を憎むように睨みながら言った。
「おや、怖い。冗談だよ冗談。……けど、私は君から離れるつもりなんて毛頭ないぞ。引退後も君とは付き合いを続けるからね」
「……頑張れ」
暫くタキオンの顔をしかめっ面で睨んだ後に田上はそう言った。しかし、表面的な応援の言葉の真意は、当然の様にタキオンには伝わった。これは誰であろうと伝わっただろう。口調がバカにしすぎていた。
「おやぁ?私の事を舐めてるね?…君の事を想って、早三か月。もう自分の想いを伝えるまでに至った女だぞ?永遠に君の傍に居てやる。君に美人の奥さんができたとしても、一生傍に居てやるからな」
「……幸せになるまでじゃなかったのか?」
「君が幸せになれば、次は私の幸せだよ」
「その時にはもう手遅れだぞ」
「手遅れだったら私は泣く。そして、生涯独身でも貫いてみようかな」
「……重いなぁ」
「そうさ。私は重い女だ。君を軽々しく見捨てたりしない。女子高生だからって舐めるなよ。もう一端に考える事はできるんだ。君が男なのか女なのか一目見ただけで分かる」
タキオンが、最後に少しの冗談を述べると、田上がそれに見合う量の笑顔を顔の中に作った。それを見るとタキオンも同じように顔に笑みを浮かべた。それから言った。
「どれ、私もそろそろ戻ろうかな。マテリアル君がやきもきしているだろうし。帰ったら、何か小言を言われそうだ。……朝食は私が扉を叩くからその時まで待っていてくれ。一緒に行こう」
田上はそれに「いいよ」とだけ答えて目を瞑った。目を瞑ると、もしかするとタキオンに何かされるんじゃないかと恐ろしくなったが、そんな事は今の雰囲気では当然なく、タキオンは「じゃあね」と言うとベッドから抜け出して自分の部屋の方に帰っていった。これで田上はやっと落ち着いた。再び眠りに落ちそうになったが、これから朝食だと言うのでその眠気は堪えつつタキオンが扉を叩く音を待った。
すぐにタキオンは戸を叩いてきた。田上の頭は眠たさに少し朦朧としていたが、なんとか歩いて扉を開けた。扉を開けると、当然タキオンが待っていたのだが、少し心配そうな顔をして田上の事を見ていた。
「大丈夫かい?君の方が体調が悪そうだけど」
「大丈夫」と一言だけで答えると、田上はタキオンの横について半ば眠るようにしながら歩いた。今日の朝食はマテリアルも同じ席で食べるようだった。だから、マテリアルがタキオンの右にいて、田上がタキオンの左にいて歩いていた。マテリアルが、ぺらぺらと話す口だったので、タキオンはその対応に追われて田上の方をほとんど見ていなかった。田上は、目を瞑ったままふらふら歩いている。段々と歩みが遅れてきた。追いつこうと必死になって足を速めていたが、遂にもうダメだと思って、渾身の力で目を開けて廊下に置いてあるソファーの方まで歩いた。タキオンたちは気が付かずに先に歩いて行ったが、それを気にする暇はなかった。眠気と共に頭も痛くなってきた。締め付けるような痛みが田上を襲い、唸らせた。深呼吸をすれば少し楽になったが、それでも痛いものは痛かった。
田上は深呼吸を繰り返しながらタキオンたちの声が聞こえてくるのを待った。しかし、一向にそれは聞こえず、代わりに今はあまり会いたくない人物の声が聞こえた。国近の声だった。「大丈夫か?」と田上に声をかけてきた。田上は、友人に隙を見せるのがあまり好みじゃないから、苦しそうに目を開けると、「大丈夫。…少し目を瞑ったら朝食を食べに行くから」と言った。国近はその言葉を聞いてソラと顔を見合わせているんだろうという事が目を瞑っている田上には分かった。それでも何も言えずにいると、「ごめんごめん」とタキオンの声が聞こえた。そして、国近に「おはようございます」と言っているマテリアルの声が聞こえた。後ろの方で大人の社交辞令が始まったが、それには構わずタキオンが田上の肩を叩いて呼び掛けた。
「どうしたんだい?苦しいのかい?」
田上は、助けを求めるように頷いた。
「誰か呼んでこようか?何が苦しい?」
次にタキオンがそう呼びかけると、大きく息を吐いて、痛みをこらえるためのしかめっ面をしながら言った。
「…誰かは必要ない。…頭が痛いだけ」
そう言ってから立ち上がると、タキオンはその田上に手を貸そうとした。しかし、それは借りないで、国近が「大丈夫なのか?」と言ってきた言葉に「大丈夫」と返して歩き出した。頭の痛みは先程よりマシになった。もしかしたら、先程の行動は大袈裟だったのかもしれないと思う程にはマシになった。
国近は、今日は別の席でソラと二人で飯を食べていたが、田上は仲の良い友達がいなくともできるだけ明るく快活に話した。すると、それと反対にタキオンの顔は悲しそうに田上を見つめていた。
朝食が終わり、暇な時間ができた。タキオンたちが移動を開始するのは昼前からだ。午前中に走るウマ娘もまだここでは暇な時間ではあるが、タキオンたちより早くに出ないといけないのでどことなくそわそわしているように見える。今は八時半を少し過ぎた頃だ。タキオンと田上とマテリアルは、ホテルのロビーにあるソファーに座ってそこそこの会話をそこそこに弾ませていた。話のない沈黙が所々にあったが、それは当人たちにはあまり気にならず、その沈黙の間には、田上の隣に座っているタキオンがしている行動に視線が集まっていた。タキオンは会話にはほとんど参加していなかった。その代わりに田上の隣に座って、ソファーの目の前にある低い机の上に置いてある白いうさぎの陶器の置物を眺めたり、持参の紅茶を少しだけ飲んだり、田上たちの話に耳を傾けたりした。たまにタキオンが、田上の手を勝手に取って揉んだり触ったりしているが、そういう時には、話の間が生まれる。田上が嫌そうにタキオンの方を見ているからだ。そうすると、マテリアルも一緒にタキオンの方を見るが、タキオンはにっこりと笑って田上を見つめ返し、手遊びを続けるだけだった。
田上には、むずむずとするやりきれない時間が続いた。田上の頭は、今もぼーっとする痛みのようなものが続いていた。それでも田上は、タキオンが自分の手を揉むのをやめるとマテリアルとぽつぽつと話した。話題は、タキオンの事だったり、しょうもない事だったり、転々とした。時間は、静かなざわめきの中過ぎていく。やがて、午前中の組の子が出発した。そうすると、田上の胃袋はなんだか緊張で気持ちが悪くなってきた。それをタキオンは目聡く見つけて言ってきた。
「君が緊張してどうするんだい。走るのは私だぞ」
少し表情筋が強張っている田上は、変な顔をして笑い「平気だよ」と答えた。その答えを聞くとタキオンは顔を曇らせてちょっとの間考え込んだ後田上に向かって言った。
「私に対してくらい強がりはよした方がいいんじゃないか?」
「強がり?…してない。それに、お前に対してという理論が分からん」
「私だよ。仲が良いだろ?友達だろ?君を想ってるんだよ?」
「俺の事を想ってるんだったら猶更だ」
それでタキオンが反論しようとしたら、マテリアルが「あれ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「タキオンさん、……あれの事は?あれ?…タキオンさん。告白したって事なんですか?」
「告白?」
タキオンは、マテリアルの言葉を真正面から受け止めきれなくて、一度聞き返して受け流したが、その後に少し顔を赤らめてこう言った。
「ああ、君に言っていなかったね。……複雑だな。非常に複雑だ。…トレーナー君」とタキオンが聞こうとした途端に田上が「ダメだ」と返した。
「何も言っていないんだけど」
「言う必要はない。……マテリアルさん」
田上がそう呼びかけた。すると、彼女らしからぬアホ面で目の前の二人のやり取りを見ていたマテリアルは、またも「はいぃ!!」素っ頓狂な声を上げた。
「…ちょっとした手違い、と言うか間違いみたいなのがありまして、タキオンが変な事を口走っただけです」
「手違いでも間違いでもないさ!」とタキオンは返したが、田上はその声を無視して続けた。
「だから、この件に関してあまり口出ししないでください。話し合いは済ませました。もう解決しました」
「解決?」とタキオンが疑問を投げかけると同時にマテリアルが「お言葉ですが…」と反論した。
「お言葉ですが、私は結構タキオンさんの悩みを聞いたりもしましたよ。解決したならいいですが、どうもそうではないようですし…」とタキオンの方を見やり、再び田上に目を戻した。
「タキオンさんの悩みを聞くに本当に手違いでも間違いでもないように思うのですが。…タキオンさん、どう」
「もうやめてくれませんか」
マテリアルの話を田上が遮った。田上の視線は、今はもうマテリアルには向いておらず、机の方へと向かっていたが、その瞳に机は映っていなかった。
「…俺にその気はなかったんです。……愛とか恋とかそんなものはどうでもいいんです。生きるためには必要ありません。今は、タキオンが俺を引き留めているからここに居るだけです。…今すぐにでも…」
田上はそう言いかけたが、その後には何も言わなかった。タキオンには、田上の言いかけた言葉は何となく察しがついたが、それを改めて問いただそうとはせずに、隣に座っている田上に向けていた体を正面に戻した。雰囲気は、通夜のように暗くなった。田上の胸には苦しさだけが残り、喉は異物で塞がった。そして、また喉が痒くなった。誰かに殺してほしい。そう切に願ったが、この場で田上を殺せるものは田上以外は誰一人としていない。ガリと摘まむように一回喉を引っ掻いた。
暫くすると、マテリアルが立ち上がって言った。
「もうそろそろ準備をした方がいいですね。…タキオンさん、行きましょう」
ぼーっと陶器の白いうさぎを見ていたタキオンは、その声で目が覚めたかのような反応をして、マテリアルの後について行った。ただ、マテリアルが声をかけても微動だにしようとしなかった田上を置いて行くわけにはいかないので、優しく肩を叩くと「一緒に行こう」とタキオンは呼び掛けた。それに、田上は渋々立ち上がると、マテリアルの後ろをノロノロとついて行った。今度は、田上の横にタキオンが旦那を介護する婆さまのように付いた。田上は、横に立たれるのを嫌そうにして、タキオンに――前を歩いているマテリアルの横に行け、と目で訴えたが、タキオンはそんな事は意に介さず田上の横を歩き続けた。すると、田上の気持ちも少し落ち着いた。
部屋の前で田上たちは別れた。当然、タキオンも準備があるので、自分の部屋の方にマテリアルと共に入った。初めのうちは、勝負服や靴などを手頃なバッグに詰めていて穏やかな沈黙が続いていた。時々、マテリアルが「あれありますか?」「これありますか?」とタキオンに聞いてくるだけの穏やかな沈黙だ。まるっきり穏やかであることに間違いはないのだが、マテリアルが不意にそれを打ち壊すように言った。
「タキオンさんは…」
そう言いかけたところで、タキオンが見事な反射神経で「なんだい?」と遮った。その声は、「これ以上言う事は許さないぞ」という語気を含んでいた。だから、マテリアルは少々驚いて、隣のベッドに置いてあるバッグの奥の方に立っているタキオンを見つめた。部屋の電気はつけていなかったので、窓から差し込む陽の光がタキオンの顔の場所でちょうど影になっていた。その影の中に赤い瞳が静かに揺らめいていた。マテリアルはそれを見ると、怖気が出てきた。GⅠウマ娘の貫禄かもしれないし、はたまたタキオン自身の想いの強さがそこに現れているのかもしれない。タキオンの体は、妙に妖怪じみて見え、マテリアルに次の言葉を言わせまい言わせまいと脅していた。それでも、マテリアルはどうしても気になって、目を泳がせて、もう一度泳がせて言った。
「………タキオンさんは、どうしてもトレーナーを捕まえておきたいんですか?」
そうすると、タキオンの妖怪じみた気配がふっと消えた。だが、マテリアルに軽々しく喋らせない空気の重さは残った。
タキオンは、はぁとため息を吐いて部屋の電気を点けに行った。そして、かちりと音を出して電気を点けると、口を開いて言った。
「私は、できればトレーナー君にはここに居てほしいと思っているよ。……想いを打ち明けてもあまり状況は変わらなかった。ならば、私はトレーナー君について行くつもりでいるよ。…どこまでも」
「……でも、田上トレーナーは、タキオンさんと離れたいんじゃないですか?」
「…離れたい?…離れたい。……私は、トレーナー君にもうこれまでにないくらい全力で拒否されたらどうすればいいのかな?」
「……それが、彼にとっても簡単な道になるんじゃないでしょうか?」
「簡単な道と言えば聞こえはいいが、それが不幸へと続く道だとすれば?私は、できるだけトレーナー君にそちらの道に踏み込んでほしくない」
「タキオンさんが、…そんなにトレーナーにお節介を焼かなくてもいいのでは?」
「お節介?……なら、君がお節介を焼いてくれるのかな?」
「私がですか?……」
「ほら、答えられないだろう?……私は、彼が好きだからという理由だけで動いているんじゃないんだよ」
「でも、辛いって言っていたじゃないですか!」
マテリアルが少し感情的になって言うと、タキオンは眉間に深く皺を刻み込んだ。
「辛い事には辛いさ。私の好意を否定されるんだから」
「その先に何があると思いますか?…きっとタキオンさんの望む未来ばかりが待っているとは限りませんよ!」
「…あまり大きな声を出さないでくれ。……まぁ、私が望む未来が待っているとは限らないだろう。そのくらいは私も心得ているさ」
「なら、なぜそれでもトレーナーの傍に居たいと仰るんですか?自分の身が不幸になる可能性も十分にあると言うのに。…私は、正直に言って、田上トレーナーよりタキオンさんの方が幸せになっていてほしいです」
「これまた、正直すぎるね。……参ったな、トレーナー君には敵しかいないじゃないか」
「私は敵ではありません」
「いいや、敵だね。君はトレーナー君を切り捨てる事を選んだんだ」
「私は……、私は、田上トレーナーを切り捨てたいとは思っていません」
「なら、今の言葉は何なんだい。田上トレーナーよりタキオンさんの方が?君は本当にトレーナー君の事が分かってあげられているのか?君に言ったろ?トレーナー君は自分自身を苛め続けているって」
「その挙句にタキオンさんを苛めているのであれば、どうしようもありません」
「それを切り捨てると言うんだ。トレーナー君だって、心根は優しいんだ」
「それじゃあ、自分を傷つけさせてもいいと言うんですか?」
「ああ、良いとも。私の傷くらいトレーナー君の傷に比べればどうってことないよ」
「私にはそうは見えません。私には、………」
ここでマテリアルには再びタキオンの顔が恐ろしく見えた。今度は、顔に影なんて掛かっていなかった。ただ、タキオンの目が冷たく睨んでいるように見えた。その目からマテリアルは視線を逸らしたが、これが彼女の性なのか、言いたいという気持ちはどうしても止められなかった。
「私には、…トレーナーの事を好きであればあるほど苦しんでいるように見えます。……何とか諦められないものでしょうか?別にあの人じゃなくたって良いトレーナーは一杯います。苦しんでいる人のお世話を、わざわざタキオンさんがしてやる必要はないでしょう?」
「………それと同じことをトレーナー君に言われたよ。……その時は何と言ったんだったかな?……忘れたけど、今言える事は、あの人が良いトレーナーだって事だよ」
「良いトレーナーは自分の教え子を無闇に傷つけたりしません。それに、心根が優しいからと言っても今がどうしようもないんじゃ、トレーナーとしてもダメです。……やっと私の言いたい事がまとまりました。…あの人は帰りたいんですよ。自分の家に。それで許してあげてくれませんか?あなたもそのトレーナーを引き留めて苦しんでいるんです。手放したら一件落着じゃないですか」
「だから、それは最初に言ったろう?こっちは良くてもあっちが駄目なんだ。不幸になる」
「実家に帰れば少し落ち着く人だっていますよ。帰らせてあげましょう?」
マテリアルが必死にそう頼むと、タキオンの心も僅かに揺れて、顔が悲しみに歪んだ。そして、少し震えた声でこう聞いた。
「トレーナー君は私から離れたいのかなぁ?」
「……私は離れたほうが幸せだと思います」
マテリアルは、睨まれるのを覚悟でそう言ったが、タキオンはそう言われると力なくため息を吐いてベッドに腰かけた。そして、もう一度ため息を吐いた後言った。
「……大阪杯。……トレーナー君に少しでも勇気づけてもらおうかな…」
いつになく弱気なタキオンだった。