ケロイド   作:石花漱一

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十九、大阪杯⑦

 そのまま時間は過ぎていって、遂に阪神レース場へと出発する時間となった。その時間には田上が出てきてタキオンたちの部屋のドアを叩いて呼んだ。こちらも陽気そうな面ではなく、むしろ陰気と言った具合だったが、それ以上にタキオンとマテリアルの顔は落ち込んでいた。田上には何が起こったのかは分からなかったが、タキオンの落ち込んでいる顔を見ると自分が何かしてしまった事が影響したのだろうと思って、自分自身も落ち込んだ。しかし、皆の集まる場所に来ると段々と表情を明るくさせて、国近と話すときにはそれ相応に明るくなって接していた。ただ、タキオンの顔は暗いままだった。本来なら、国近は田上の体調を心配した後、「今日は勝てそうか?」と聞くつもりだったのだが、タキオンの表情は見るからに暗かったのでそれはやめた。その代わりに田上の顔が緊張で少し強張っているのをからかってみたり、自分も緊張しているとお道化てみたりした。

 そして、昼から走る組全員が集まると、そこまで遠くはない、むしろ近い阪神レース場にバスに乗り込んで出発した。タキオンは、暗い顔のまま田上の横に乗り込んで、田上の手を指を組み合わせて握った。田上は、それには何も反応を示さなかった。今は、奇妙な緊張に吐き気がしていた。その無視がタキオンには悲しかったが、何も言わずに握っている自分たちの手を眺めた。小さな細い手が、ごつごつとした大きな手に埋もれていた。

 

 すぐにバスは阪神レース場へと着いた。その周辺にはタキオンや有望なウマ娘を一目見よう映そうと報道陣と野次ウマが押しかけていた。しかし、バスはぴたりと入り口に寄せていて、控室へと向かう選手たちはほとんど野次ウマたちの目には映らなかった。タキオンが、出てきた時は歓声が上がったが、タキオンが見向きもしなかったためその歓声はすぐに止んだ。そして、観客の勝手な予想が始まった。「少し顔が暗くなかった?」という人があれば「いやいや、あの顔は絶好調だね。頗る冷静だ」と知った気になっている人もいた。勿論タキオンは、今は沈んでいる。田上も沈んでいる。マテリアルも沈んでいる。だから、この一行の周囲は雰囲気が異様に暗く、あまり人が寄りたがらなかった。国近でさえ、今は話しかけるのをやめようと思ったほどだ。

 三人は廊下をスタスタと歩いて行った。田上が先頭に立って、自分たちの控室の場所を探している。途中でタキオンが勝負服に着替える更衣室も見つけたが、それは告げずに通り過ぎた。今、タキオンを更衣室に送り出しても早すぎる上に、控室の場所がタキオンには分からないからだ。田上の腹は、廊下を歩いている今も気持ちが悪いし、頭も変に痛い。まるで、そこに痛みがあると言うのに自分はそれを感じていないような痛さだった。

 そして、三人は、自分たちの控室を見つけた。そこにぞろぞろと入って行った。当然、終始無言だったが、皆が入り切ってそれぞれ椅子に座ったときに田上が口を開いた。しかし、それはすぐに閉じた。喉が渇ききっていて、到底言葉が出そうになかったからだ。それに、喉も異物感もまだあった。タキオンは、ずっと物思いに耽って俯いている。やりきれない。どうにもやりきれない。――それなら、と思い、マテリアルは口を開いた。もうどうなったっていいから自分の胸の内を打ち明けてしまった方がいい。

「田上トレーナー」

 マテリアルが真剣な声でそう呼びかけると、田上は顔を上げ、次いでタキオンも顔を上げた。その顔は、少し恐怖に引きつっているように見えた。

 田上がこちらを向くと、マテリアルは言った。

「……私は、大人の意見として、田上トレーナーには休息が必要に思われます。バレンタインのときなんかには、タキオンさんの事を見ててほしいとか何かと言いましたが、どうにもそれは私が苦しくて見ていられません。もう、これ以上どうしようもないのなら、一度家の方に帰って、それから考えてみてはいかがでしょうか?」

 マテリアルは、タキオンがこの話ている間に何か口出ししてくるものかと思って、今か今かと待ち構えていたが、案外そんな事はなかった。だからと言って、タキオンの方をどうしているのかな?と見やるわけにもいかないので、マテリアルはじっと田上の方に視線を向けたまま聴覚でタキオンの動向を探った。当然の如く、見るようには分からなかったが、タキオンが身動き一つしないでいるのは分かった。今のタキオンもまた、田上にじっと眼を注いで、その動向を見守っていた。

 田上は、マテリアルにそう言われると、苦しそうにため息を吐いて黙りこくった後、変に引きつった笑みを作りながら言った。

「……どうすれば良かったんでしょう。マテリアルさんにまで、そう言われて…。…家に帰れば安泰でしょうか?もし、トレーナーを辞めて、引きこもりになって、その先に何があるんでしょうか?僕はもう二度と、社会に復帰できる気がしません」

「…でも、このままここに居ても苦しいだけでしょう?…タキオンさんに引っ掛かっていないで飛び出してしまえば、私は楽になると思います」

 そこで田上は一つため息を吐いて、ずっと自分を見つめてくるタキオンを眺めた。自分に恋しているのは薄々勘付いていはいたが、それに向き合うのは嫌だった。可愛い子供らしい顔がこちらを見つめてくる。その目が何を想っているのか分からない。幾ら自分を想っていると言っても、タキオンだって所詮は人なのだ。いつ自分を切り捨てて誰かの所へ行ってしまうかも分からない。

 そうして見つめている間もタキオンは微動だにせず、本当に自分を見つめているのかも怪しくなって、田上は目を合わせるのをやめた。すると、タキオンが口を開いた。

「こっちを見てくれ。トレーナー君」

 田上は、逸らした目をノロノロとタキオンの方に戻した。そして、目が合うとタキオンが言った。

「……私は、君の事が好きだ。とても信頼している。……けれど、最近はちょっぴり嫌いだ。少し私を遠ざけようとしすぎている。それは、私が詰め寄っているからなのかもしれない。……君の事が好きだからと言って、詰め寄るのはダメなのかな?少し私欲を優先しすぎているかな?」

 田上は、ゆっくりと首を縦に振った。

「…そうか。…改める。絶対に改めるけど…、私が君の事を好きだって事を忘れないでほしい。それだけは忘れないでほしい。……ダメかな?」

 今度も田上は、ゆっくりと首を縦に振った。これは、ダメではないという意味だったし、他の二人もその様に受け取った。それで、苦しい雰囲気は一旦終わりを迎えた。タキオンは椅子をガタガタと言わせて立ち上がり、気を取り直して言った。

「昼ごはんにしよう。こんな空気は嫌いだ。楽しくお昼ご飯を食べようじゃないか」

 それから、長机の端に三つあるお弁当を持ってくるとそれぞれに手渡した。マテリアルは、少し落ち着かないがらも受け取って、田上は戸惑いながらタキオンの顔を見つめて受け取った。その際に田上が何か言葉を発しようとしたのだが、タキオンが静かに自分の唇に人差し指を当てて黙らせた。

「お昼ご飯を食べよう?」

 それには何も言えなかった。ただ、タキオンの顔を見つめ返すばかりになった。そして、タキオンが、田上の隣に座ろうとしたのだが、ここで「あ!」と言って椅子に針でもあったかのように慌てて立ちあがった。田上がそれを不思議そうに見ると、タキオンは恥ずかしそうに笑って言った。

「まぁ、あんまり詰め寄っちゃダメだものね」

 そう言った後に椅子と椅子の間を空けるとタキオンが田上と離れた長机の端に座った。田上は、その様子をじっと見ていたのだが、不図「俺の隣に座ってもいいよ」という言葉を言いたくなった。しかし、田上の方を見ないで今から昼食にありつこうとしているタキオンを見ていると、言葉は出てこなかった。喉の異物感はまだあったが、それが原因ではなかった。ただの躊躇いが、田上の言葉を出させなかった。マテリアルは、その田上の様子を見ていたのだが、全てを察した上で敢えて何も言う事はしなかった。ただ、このまま二人が離れてくれさえすれば、安心してこの人たちを見ていることができると思った。

 昼食を食べている途中で控室にタキオンのお父さんとお母さんと妹の桜花が入ってきた。初めのうちは、補佐になってから初めて会うマテリアルに驚いていたが、それが落ち着くと今度はタキオンと話し出した。田上は、こういう時に家族の話に参加したりしないのだが、タキオンが父母と話していると小学一年生を終え、現在は春休み真っ盛りの桜花がとことことやってきて田上に言った。

「田上さん。お姉ちゃんとマテリアルさんどっちが好きなの?」

 その途端に飲んでいた緑茶が気管に入って、げほげほとむせこんだ。それで、タキオンたちが何事かと振り向いたが、「大丈夫です大丈夫です」と繰り返して家族を自分たちの話題に戻させようとした。だが、何かを勘付いたタキオンが桜花を睨んで言った。

「桜花、また余計な事を言おうとしたんじゃないだろうね」

「ううん言わないよ。言うわけないじゃん。何の事?」

 何の事?と聞かれるとタキオンも答えることができなかった。だから、桜花の事を睨みながらも渋々前の方を向いた。前の方を向いたタキオンは両親と話の続きをしようと思ったのだが、両親の方は桜花の方を興味深げに見つめていて話の続きという気配ではなかった。どうにも桜花と田上が話している構図が興味深いようだ。それにはタキオンも同じように興味深かったので、仕方なくまた桜花の方を振り向くとその小さい後ろ姿を見つめた。

「…それでどうなの?お姉ちゃんとマテリアルさんどっちが好き?」

「ん?んん?」

 田上の視点からはタキオンとその両親が見えいるのはバッチリ見えていたので、返答に困った。夫婦は、ニヤニヤと笑っているし、タキオンはしかめっ面で桜花の事を睨んでいた。田上は、答えるのをごまかしたくて笑うしかなかった。こういう話には耐性のない男で、どう返答するのが正解かも分からない。しかし、桜花はニコニコしながら田上を追い詰めてきた。

「もう笑ってないで答えてよ。お姉ちゃん?それてともマテリアルさん?」

「…え~っとぉ」

 田上も同じようにニヤニヤしながら助けを求めるようにタキオンを見ると、タキオンと目が合った。タキオンの顔は険しいながらも、助けを与えるようなことはなく、むしろ答えを期待しているように見えた。そう感じると、田上は桜花に目を戻し言った。

「俺は、あんまりどっちが好きっていうのは言いたくないかな」

「それじゃあ、つまらないよ。どっちが好きなの?」

 そこで困ったように田上が鼻から息を吹き出すと、お父さんの方が「桜花」と窘めるように言った。だけども、桜花は引き下がらずに「ちょっとだけちょっとだけ」というと田上の方に内緒話のように耳に手を当てる仕草をした。当然田上は答えるわけにはいかない。タキオンと答えてもマテリアルと答えても、結果がどうなるか予想が付かなかった。それで、もう一度タキオンの方を見やると、その動きを見つけた桜花が「お姉ちゃん?」と嬉しそうに声を上げて言った。すぐさま田上は「違う違う」と答えた。すると今度は、「じゃあマテリアルさん?」と少し気落ちした声で言った。次も田上は「違うよ」と答えたが、ここで外野からタキオンが言った。

「私の事、好きじゃないのかい?」

 慌てた後だったから心臓が異様にドキドキした。それに、タキオンが田上の事を好きだと知っている者同士からすると、その言葉は意味が違って聞こえた。タキオンは、さも冗談かのように言ったが、意味を知っていればこれは核心に迫っているものだと分かるだろう。きっと、タキオンの父母は冗談のように聞こえただろう。だが、事情を知っている田上とマテリアル、そして、純粋にそのまま言葉を受け止めた桜花はその言葉の意味を知っていた。だから、桜花が興奮して言った。

「お姉ちゃんもやっぱり田上さんがお嫁さんになった方がいいよね?」

「お嫁?」とタキオンが聞き返すと、自分の言葉に不安になった桜花が言った。

「あれ?お嫁って言うんじゃなかったっけ?」

「ああ、お婿の事じゃないかい?」

「あっ、それだよ。それ。友達が言ってたやつだよ。…お婿さん?になれば赤ちゃんができるって」

「あれ?チューしたらできるんじゃなかったかな?」とタキオンが悪戯っぽく返すと、「違うよ!」と桜花が熱心になって言った。

「チューしたら赤ちゃんができるんだけど、そのためには、結婚しないといけないんだよ。男の人がお婿さんで、女の人がお嫁さん。でも、一人しか結婚できないから、田上さんに今お姉ちゃんが良いかマテリアルさんが良いか聞いてたんだ」

 タキオンのお母さんが、くすくすと笑っている。それを窘めるようにしながら、タキオンが振り向いて、また目を桜花の方に戻すと口を開いた。

「マテリアルさんはそんな人じゃないよ。ちゃんと仕事としてここに居るんだ。そして、トレーナー君も。…だけど、最近は、トレーナーが担当するウマ娘に恋をするというドラマが流行っているらしいね。トレーナー君もその口かな?」

 タキオンは、そういう話をするときは、終始冗談をする口調に徹していて、両親に決して好意の戦いを悟らせないようにしていた。田上としてもそれはありがたかったのだが、何しろ先程まで「あんまり詰め寄っちゃ駄目だものね」と言っていたタキオンが、もうすでにそれを忘れたか何かして王手をかけようとしているのだから、田上は妙に腹が立った。しかし、それはタキオンと同じようにおくびにも出さないで言った。

「俺は、タキオンの事は好きでも嫌いでもないよ。嫁にしたいなんて思わない」

「それは悲しいねぇ。私は君の事好きだよ」

 タキオンがそう言うと、桜花がひゃあと声を上げた。

「お姉ちゃんやっぱり田上さんの事好きなんだ!ねえねえ田上さん、お姉ちゃん良いと思うよ。本当はお姉ちゃんの事好きなんでしょ?だから、結婚しよう。お姉ちゃんも好きって言ってるから」

 ここでようやっとタキオンのお父さんが本腰を入れて、タキオンの方に言った。

「タキオン、お前まで田上さんを困らせてどうする。田上さんにも立場があるんだぞ」

「おやぁ、自分の教え子と結婚したトレーナーが良く言うねぇ。お父上」

 そう言われると、嫌そうな顔でタキオンの事を睨んだから、タキオンがハハハと笑った。その横でお母さんの方もハハハと笑っていた。

「はいはい、分かったよ。ごめんね、トレーナー君。からかったりして」

「……いいよ」

 そして、一件落着かに思えたが、一匹まだ騒がしいのが残っていた。

「でも、田上さんとお姉ちゃんが愛し合っているんだったら、それは止めるべきじゃないよ」

 ここまで言うと、タキオンも困った顔をして笑った。

「桜花には、愛が何かわかるのかな?」

「好きって事でしょ?」

「好きって事に間違いはないが、愛と呼ぶのであれば、好きだけに留まる事じゃないよ。例えば、家族愛だったり、友情だったり。他にも、簡単に好きと言えない関係だったり。色んな事と愛は結びついてる。桜花にはそれが分かるかな?」

「う~ん…、私、とも君の事好きだよ」

「とも君!…おや、好きな人ができたのかい?」

「うん。とも君も私の事が好きって言ったから、大人になったら結婚するんだ」

「はは~。…母さん、ビッグニュースじゃないか。なんでこれを最初に言わなかったんだ」

「忘れてた」とタキオンのお母さんは、にこやかに答えた。その後に、タキオンは田上の方を見ると言った。

「ごらんよ。私の妹が春を迎えたぞ」

 それに田上は特に返す言葉もないので、「そうだね」と答えた。すると、横からお母さんが口を挟んできた。

「タキオンの小さい頃ってそういう話を全く聞かなかったけど、本当は誰か好きだったりしたの?」

「ん?…ああ、特に好きだったことはないよ」

「今は?誰か好きだったりしない?」

「今?出会いがないだろう。私が行っているのは女子校だぞ」

 タキオンがそう言うと、女子校で出会いを見つけた母親が「ああ、そうだね」と思うところがありそうに頷いて、それから田上の方をチラリと見た。娘の将来を目の前のある男の手に委ねたがっている母親の顔だった。田上は、その顔に気付いてながらも気付かぬふりをしてその場をやり過ごした。タキオンは、それには気が付いていなかった。気が付いていたら、もしかしたら良い顔はしなかったかもしれない。ただ、今のタキオンの顔は妹の桜花を見つめて、静かに笑っていた。

 

 事態が一段落着くと、今度は田上やマテリアルも交えて談話を始めた。田上の方は、今までの付き合いの中で分かっていることも多いし、そんなに話したがらないことも知っていたので二言三言「最近の調子はどうですか?」という話題だけで終わらせた。その問いには、田上は「そこそこです」とタキオン一家からすれば相も変わらない答えを返した。一番多く話題になったのは、やはりマテリアルだった。タキオン一家が来たのが昼食の途中で、まだ残りの昼食を口に含んでいるのにも関わらず、話し相手として相性のいいタキオンの母と早口に楽しく話し合っていた。その合間に、タキオンだったり桜花だったりが合いの手を入れていた。タキオンの父の方は会話に参加こそしていなかったが、熱心に耳を傾けて嫁たちの話を聞いていた。田上もここでスマホなんかをいじりだしたら、無礼甚だしいだろうからタキオンの父を見習って耳を傾けるふりをしていた。実際の所は、頭の中で刻一刻と迫ってくる大阪杯に気分が悪くなっていた。別に場慣れしていない田上ではなかったが、今回ばかりはどうにも調子が悪い。――あんまり行きたくないなぁ。というのが本音だった。しかし、そんな事を言ってられないので、田上はその声を押し殺し押し殺して、精一杯トレーナーとして立つべき場所にいようと努めた。

 

 やがて、タキオンが勝負服に着替えに行くことになった。タキオンの新しい勝負服を家族らは見ていないから、早めに着替えてもらおうという事だ。タキオンは、あまり乗り気ではなさそうだったが、不意に田上と目を合わせるとにっこりと笑って「よし、行こう」と言い出した。この時は田上も何の事だか分からずに、――行きたきゃ行けばいいじゃない、という気持ちで送り出したが、赤いドレスに身を包んで帰ってきたタキオンの言葉を聞いて――ああ、なるほど。面倒臭いな、と理解することができた。帰ってきたタキオンは、母親たちに「どうかな?」と見せびらかした後、田上の方も向いて言った。

「君は私にぞっこんだものね。なぁ、母さん。この人にこの服を始めて見せた時、感動しながら――綺麗だ、って言ってたんだよ。女ったらしに程があると思わないかい?」

 タキオンのお母さんは、ニコニコしながら「あら、そう!」と嬉しそうな声を上げた。娘の将来に希望が見えたような口調である。田上は、これにうんざりしながらも丁寧にタキオンに言った。

「綺麗だって思わなけりゃ、綺麗だなんて事言わないよ。服は綺麗だろ?…ゆらゆらしてて」

「服は?」とタキオンがからかうように聞き返すと、田上は怠そうに言った。

「…髪も結んでたり、ヘアピンで分けてたり、良いと思うよ。蝶も可愛い」

「そうじゃなくて、私はどうなんだい?綺麗だろ?」

「着飾ってていいと思うよ」

「んん…」と攻め切れずに不満そうな声をタキオンは上げたが、その顔は普段よりも満足そうなものであった。それもそうだろう。これは、田上にしてみれば大分サービスした方だった。家族の手前、変な事も言えないし、これが最善策だった。それがタキオンには嬉しくて、満足げな表情を作らせた。

 家族らは、タキオンの蝶の飾りのついたヘアゴムやら、ゆらゆらと揺れる炎のような服を存分に堪能すると、もうそろそろ客席に行こうかな、という時間になって出て行った。

 田上たちは、もう昼食を食べ終わっていた。白い長机の上には空の弁当箱だけが置かれた。家族らの方は、移動中に食べてきたようで、ここではタキオンたちが食べているのを見ているだけだった。

 もうそろそろタキオンが出ていきウォーミングアップの時間が始まる。さぁ、いよいよだ。いよいよこの時間がやって来た。田上の具合は、どんどん悪くなるばかりで一向に良くなる気配を見せない。タキオン一家が来たときは、それを忘れて少しは普段の調子に戻っていたが、帰った途端にぶり返してきた。タキオンも「大丈夫かい?」と笑い事ではないように心配していたし、マテリアルも同様に心配していて、少々鬱陶しかった。田上は、こうなったら行くつもりだった。死んでも殺してもどうやっても行くつもりだった。だから、タキオンが「大丈夫かい?」と聞いてきたら「大丈夫」と半ば切れ気味に半ば脅すようにそう言った。タキオンの心配は募るばかりだったが、マテリアルと顔を見合わせるだけでそれ以上は踏み込むことができなかった。

 田上は具合の悪さに顔の険しさを増していたが、ここでマテリアルがトイレに行った。もう出ようという五分前だ。タキオンもそわそわしていることにはしているが、田上の事も気になっている。田上は、先程から身動き一つ取らないで椅子に座り、机の上に手を置いて俯いていた。ばたんと戸を閉めて、マテリアルが部屋を出て行った。そうすると、一時の沈黙の後、田上が重苦しく、責めるような口調で口を開いた。

「……俺、…女の人とキスしたことなかったんだよ」

「……それは、…私が君の初めてを奪ってしまったという事かな?」

 タキオンが、後ろに小さく結んだ髪を揺らせて田上に言った。

「…別に、責めようってんじゃないけど……、なんか…俺が思い描いていた事って何だったんだろう…」

 今の田上は、意気消沈しているようだった。

「私のキスが不味かったと言いたいのかな?」

 レース前で少し喧嘩腰なタキオンが、できるだけ優しく聞いた。

「…いや、……言葉のままだよ。…想像してた物と違った」

「それは、…彼女ができて、それからすると思ってたって事かな?」

「…まぁ、そんなところだ。………何話してんだろう」

 田上は、そう言うとそれきりコース前のトレーナー席に行くまで話さなくなった。

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