救護室のドアを開けると、勢いが良すぎて大きな音が鳴った。だから、その部屋にいたおばちゃんがびっくりして入り口のタキオンの方を見た。しかし、タキオンは毛頭そんなおばさんの事を気にするつもりはなく、また余裕もなく、部屋の中を見回した。一番奥のベッドに座って田上が、ぼーっとテレビを見ていた。まるで、冴えない男を懇切丁寧に模した彫像のようだった。表情は、暗くはないが明るいとも言えない。体格も筋肉質ではない。背中は丸まっている。目は、焦点が定まっているのかはタキオンの位置からでは分からなかった。ただ、少なくとも言えるのは、大きな音を立てて入ってきたタキオンにピクリともしなかったであろうという事だ。だから、タキオンは田上が本当に彫像ではなく人間なのかを確かめるために恐る恐る呼び掛けた。
「…トレーナー…君?」
タキオンがそう言うと、田上がこちらに首を向けた。その途端に嬉しいのか悲しいのか分からない、変な表情になって言った。
「タキオン、俺、お前のレースを見れなかった」
それで、タキオンは涙が溢れてきそうになった。いや、もう出てきていた。少しは堪えようとしていたのだが、レースの時のソラとの一騎打ちの恐怖も相まって、抑えていたものが出てきてしまった。タキオンは、後ろに小さく結んだ髪の毛を解いて、田上の下に駆け寄った。そして、ベッドに座っている田上を押し倒し、抱き締めて、しくしくと泣き始めた。そこでようやっとマテリアルが追いついてきた。タキオンが田上を抱き締めて二人してベッドに寝転がっているのを見ると、マテリアルはぎょっとしてタキオンを引き剥がそうとし始めた。しかし、そうすると救護室にいるおばちゃんがマテリアルの肩に手を置いて言った。
「いいんじゃない?二人ともよくやったもの」
「は、はぁ」とマテリアルは、おばちゃんに急に話しかけられて驚きながら返事をした。そして、おばちゃんが見ている手前、引き剥がそうとしたタキオンから渋々手を放した。
タキオンは、田上にしがみ付いたまま段々と段々と落ち着きを取り戻していった。田上もタキオンが落ち着きを取り戻せるように塞がれていない左手でぽんぽんぽんぽんと小さな肩を優しく叩いた。テレビが忙しなく鳴った。その音が耳障りに聞こえて、マテリアルはテレビの傍にあったリモコンを取って、その電源を消した。
タキオンは、今や息を落ち着けるのみとなって、時折、鼻水を啜っている音がした。だから、おばちゃんが持ってきたティッシュをマテリアルがタキオンに勧めると、それでようやく田上からタキオンが離れて、鼻をかんだ。田上は、タキオンが離れた後もぼーっと天井を見ていた。それなので、タキオンは鼻をかんだ後、すぐにまた田上の首に抱き着いてベッドに寝転がった。今度は、うふふと嬉しそうな声を上げていた。その声を上げている小さな頭を田上は、無意識のうちに撫でた。その中でこれまた無意識にタキオンが触れるのを嫌がるはずであるウマ耳を撫でたのだがタキオンは何も言わずに田上の耳を見つめた。そして、唐突に田上の耳に息を吹いた。その途端に田上は「うわぁ!」と声を上げて、無意識の悩みから目を覚ました。
「私の耳がそんなに好きかい?」
そうタキオンが聞くと、バツが悪そうに田上が「好きじゃないよ」と返した。それから、少し間を空けて脈絡無く「ごめん」と言った。これは、田上としては脈絡無く言ったつもりだったのだが、タキオンは耳の事を「好きじゃない」と否定したことに対する謝罪かと思った。だから、「本当は私の耳が好きだったのかい?」と聞き返すと、「え?」と田上の本気の疑問が返ってきた。その後に田上が少し照れた顔をして「別に嫌いじゃないけど」と答えた。その答えた顔が、好きな女子を目の前にしている少年じみて見え、タキオンは愛おしそうにその鼻を「このこの」と言って突いた。すると、田上が本気で嫌そうな顔をしたのでそれはやめて、次に言った。
「で、そのごめんは何に対するごめんだったんだい?倒れた事?」
「…いや、特に何にもない」
「何もない事はないだろう?君がごめんと言ったら、私に謝りたい事でもあるんだ。吐き出した方が楽になるよ」
「……なんで俺ってこんなに役立たずなんだろうって。……お前の為に何もしてやれなかった。それどころか、俺は…あそこから逃げ出したかった」
「逃げ出したい事が役立たずとは限らないじゃないか。君はあそこで不安になっただけだろ?それじゃあ、役立たずとは言えない」
「でも、俺はお前の事なんてどうでもいいと思ったんだよ」
「不安になれば誰でもそうさ。それに、私はレース前になると君の事を忘れていたからね。君が、確実にそうなるであろうという事は分かっていたのにだ」
「分かっていたってお前にはどうしようもなかっただろ。ただの眩暈なんだから」
「おや?その眩暈は、絶対に君のストレスから来たものだろ?何にもない人は眩暈なんて起こさないよ」
「…眩暈はお前には防げないだろ」
「…まぁ、そうさ。だから君のストレスを和らげる必要があった。…私は、それを怠った。謝罪するのは私の方だ。すまない」
そう言ったところで、マテリアルが後ろから口を挟んできた。
「そう言えば、タキオンさん、途中で躓いてましたけど大丈夫でした?足の具合」
「え?…ああ、ちょっと気が散ったときにね、隣の子に驚いてよろけたんだよ」
「その時に田上さんも倒れたんですよ。私、あなた方が何かで繋がっているのかと思いましたよ。テレビで特集される超常的な双子みたいに」
そう言われると田上とタキオンは不思議そうに顔を見合わせた。そして、タキオンが先に口を開いた。
「君、本当に私と同じ瞬間に倒れたのかい?」
「…いや、俺は覚えてない。何しろ倒れてたから」
冗談というには些かお粗末で、口調がそうであったというだけなのだが、タキオンは田上の言葉にフフフと口元に笑みを浮かべると再びその首に抱きつき直した。そして、田上だけに聞こえるようにこっそりと「好きだよ」と言った。その途端に田上はタキオンの腕と自分の首の間に手をねじ込んで引き剥がしに取り掛かり始めた。タキオンは、ハハハと笑って余裕の力で田上を捻じ伏せたが、田上がどうしても諦めようとしないので、遂に自分から腕を解いて地面に立ち上がってしまった。そして、田上に手を差し伸べた。起きて立ち上がろうという意思表示だった。それを田上は察すると、その手を取ってベッドから立ち上がった。もうさっきの彫像のような男ではなくなっていたが、悲しさがその表情に滲み出ていた。タキオンは田上が立ち上がるのを見ると、手を繋いだまま救護室のおばちゃんに言った。
「もう、トレーナー君は連れて行って大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。本人の具合が悪くないのなら、どこに連れて行っても大丈夫です」
そこでタキオンは田上の顔を眺めた。こめかみのあたりにガーゼが貼られていた。怪我をしたようだ。タキオンは、その状態を聞くために自分のこめかみを指差して「大丈夫かい?」と聞いた。田上は、頷いたので次に「もう眩暈もないね?」と聞いた。それにも田上は頷いた。そうすると、この救護室からタキオンたちはようやく出て行った。救護のおばちゃんにそれぞれ「ありがとうございました」「ありがとうございました」と言うと、その扉を開けて出た。その時に、救護のおばちゃんからタキオンと田上の両名のサインを欲しがられたので、二人は適当に済ませた。おばちゃんは、ご丁寧にもサイン色紙を救護室に準備していたようで、すぐに取り出すと二人の名前を書かせた。マテリアルには、「あなたがGⅠウマ娘の担当になったときにサインをもらうからね」という訳の分からない気遣いを見せた。――お節介なおばさんだ、と思いながらマテリアルは、社交辞令の笑みを作って「頑張ります」と返した。おばちゃんは、「あらやだ。あなたモデルみたいね」と言うとマテリアルに手を振って送り出した。
救護室の外に出ると、まだタキオンと田上は手を繋いでいた。指を絡ませた繋ぎ方ではなかったが、確かに手を繋いでいる。だが、田上は全然嫌がる素振りも見せずにタキオンと手を繋いでいた。まるで、恋人同士のようだ。ここが、レース場の廊下という場所でなければタキオンももう少し田上との距離を縮めて歩いていたかもしれないが、今はどこに人の目があるのか分からないので、それなりの距離を保って落ち着いた様子で二人は話していた。これは、二人だけの世界だった。後ろについてきているマテリアルには、その間に割って入る余地がなかった。それがなんだか妙に苛ついた。他の所を見れば確かに苦心している二人ではあったが、今この瞬間を見れば心の通い合った成功している恋人同士のように見えた。マテリアルは、未だに恋が何なのか分からない。小学生の時も中学生の時も恋をしたことはある。高校生大学生になれば、男女の交際もしたことがあった。それでも、分からない。自分が何に立ち向かっているのか。何と対峙しようとしているのか。その分からなさが、妙にむかつく。マテリアルは、楽しそうに話している二人の間に割って入って、その手を解きたかったが、それができずに悶々としていた。
それから、三人は自分たちの控室の前まで聞こえたのだが、そこでマテリアルの前に居た二人が立ち止まって顔を見合わせた。部屋の中から、タキオン一家であろう話し声が聞こえたからだ。そして、田上が言った。
「手を、離さないと」
「……今更かい?」
「誤解されたら面倒だろ?」
「君は、誤解されるような事をしているのかい?」
「…いやぁ…」
田上はそう言われると、余った方の手で困ったように頭を掻いたが、続けて田上が言葉を発する前にタキオンが言った。
「まぁ、私に任せてごらんよ。ちゃんと説明するから」
そう言ってから、タキオンは田上の返事も聞かずに扉を開けた。田上の手が、するりと自分の手から抜けてしまわないようにしっかりと優しく力強く握っていた。その様子が、またマテリアルの心に傷を負わせた。
田上は、いきなり開いたドアの先に自分と手を握っている女子高生の両親が居るのを認めると、恥ずかしいやら気まずいやらで自分を穴に埋めて消え去りたくなった。しかし、それはタキオンが許してくれなかった。そして、部屋の中に入ると二人が手を繋いでいる事を見つけた桜花が早速大声を上げた。
「ああ~!!お姉ちゃんと田上さんデートしてるじゃん!!結婚できるじゃん!!」
その大声が廊下に響き渡らないようにタキオンは、マテリアルをさっさと中に入らせて扉を閉めた。それから、驚きと困惑の眼差しで二人の様子を見ている両親に良く見えるように繋いでいる二人の手を少し上げて見せた。桜花は、それを見て嬉しそうに声を出して笑っていた。タキオンの母が、何か質問をしようとしたのだが、それは手で制してタキオンは田上と一緒に椅子に座った。ドアの近くにいたマテリアルは、完全に場違いな自分を部屋の隅に追いやって息を潜めていた。
タキオンは、ゆっくりと座って母親の顔を見、父親の顔を見、そして、田上の顔を見ると、田上に言った。
「トレーナー君、あんまり君に心労をかけたくはないんだけど、一度、私の両親の話を聞いてみるのも手だと思うんだ。……大丈夫かい?本当に気分が悪くなったら話をやめるから、もしそうなったら遠慮なく言ってくれ」
「……でも、俺はお前のトレーナーってだけなんだぞ。お前が、俺がホテルで言った事を気にしてるんなら重ねて言うけど、俺は、あれは勘違いだった」
「勘違いでも何でも良いけど、私は改めて整理したいんだ。冷静で経験豊富な大人がいる場所で、私の好意をしっかり君に伝えたいんだ」
「……俺は、……はぁ。いいよ。…どうぞ」
「俺は?なんだい?しっかり言ってくれ。君の意見を聞くというのも今回の題目に含まれるんだ」
「……俺は、……お前の好意くらい知ってる。今更話す必要もないだろ」
「ああ、それは、私がどういう未来を願っているのかとか君と添い遂げる覚悟を改めて」
「いかれてるのか?自分の親の前でそんなこと話して何が楽しんだよ」
「私だって、あんまり楽しくはないさ。ただ、君との関係を取り持つ助言でもくれればいいかなって私は思って」
「…でも、それによって俺の逃げ場はなくなるんだぞ。これは、お前が俺を追い詰めていることに他ならないのか?」
田上がそう言うと、タキオンも言葉を詰まらせて考えた。それから言った。
「…私は、君を追い詰めたくない。……なぁ、父さん母さん、…こう…、言うのが難しい事情があるんだけど、私はトレーナー君の事が好きなんだ。で、トレーナー君は、私の事をどう思っているのか自分でも分からないらしいんだ。…一応、手を繋いで歩くくらいの事はする。…だよね、トレーナー君」
突然、話を開始したタキオンに少しの憤りを感じながらも田上はそれに答えて頷いた。すると、母親の方が不思議そうな顔をしながら言った。
「…田上さんがタキオンの事を好きじゃないんなら、勝ち目は無いんじゃない?」
これは、タキオンにも田上にも困る質問だった。この質問がタキオンだけでなく、なぜ田上にも困るのかと言うと、この後にタキオンが必ず田上の方を向いて何か言うだろうと言う事が容易に想像できたからだ。その想像通りにタキオン田上の方を向いて言った。
「……君が、私を好きじゃないんなら私に勝ち目はないだろうけど、……なぁ、これ言ってもいいのかい?」
タキオンが田上にそう聞くと、田上は黙って微かに首を横に振った。そうすると、タキオンは困ってうんと唸った。それから、もう一度田上に言った。
「……君が私の事を好きじゃないとなると、この議論も意味をなさないからな。……参ったな」
そこでタキオンの父親が口を開いて、自分の大きくなった娘に言った。
「あんまりあれこれ言いたくはないけどな。……タキオンも田上さんの事をそんなに心配しなくてもいいんじゃないか?タキオンも田上さんも他のトレーナーのとこよりも仲が良いのは分かるから、そのまま田上さんの事を見てたらどうだ?……俺には、田上さんの気持ちが分からないし、分かったところで俺がする事なんて何一つないだろうけど、さっきも田上さんが言った通り、追い詰めることに他ならないんだ。嫁に行くお前の姿も見たいけど、俺は田上さんと仲の良いタキオンも見たいよ」
その父親の言葉を聞くと、タキオンはふむふむと頷いて、少し考えた後に田上に言った。
「これまで通り手は繋いでくれるかい?」
田上はタキオンの目を見てゆっくりと頷いた。それだから、にこりと笑ってタキオンは両親、または父親に向かって言った。
「ありがとう。一応、私たちの間でも出した答えだったんだけど、どうにも我慢できなくてね。…私が我慢をする必要はなかったんだ。これまで通りトレーナー君と楽しくやるよ」
すると、丁度いいタイミングで田上のスマホに電話がかかってきた。見ると、自分の父親からの電話だった。田上は、周囲の人間を見回して目で了解を取ると、立ち上がって部屋の隅に行き電話に出た。電話には、心配そうな声の父が出てきた。
『もしもし、圭一?』
「はい、圭一です。どうぞ」
『お前、レース中に倒れたって?どういうことだ?』
「ああ、ただの眩暈だよ。おでこに傷ができただけ」
『傷?』
「倒れた時にできたやつだよ。おでこを擦ったみたい」
『ああ、それだけか。…良かったな。…で、アグネスさん一着だったな。…レース中って言ってたけど、ゴールの瞬間は見れたのか?』
田上の父が不意にそう言うと、田上は残念そうに返した。
「いや、見れなかったよ。もう、その時には救護室だった」
『そうか。それは残念だな』
「ああ」
『…幸助の方も心配してたから、何か連絡送っといてやってくれ。幸助の知らせで、俺もお前が倒れたの知ったんだ』
「ああ、ご迷惑をおかけしました」
『…それじゃあ、アグネスさんにおめでとうって言っといてくれ。電話を切るな。ばいばい』
それに田上も「ばいばい」と返して、耳から電話を離した。電話はもう、賢助の方から切られていた。そして、幸助に連絡してやろうかとも思ったが、前の方で自分の帰りを待っているタキオンと目が合うと、そんな事はほっぽって隣の席へと移動した。移動するとタキオンはまた田上の手を絡めとって、繋いだ手を両親に見せびらかすように机の上に置いた。しかし、母親は桜花の相手で忙しくしていてそれを見ていなかった。桜花は、今の話があまりよく分からなかったようで、「お姉ちゃん結婚しないの?」としきりに母親に聞いていた。だから、母親は諭すように「お姉ちゃんが、子供を産んでも桜花は育てられないからね」と言っていた。桜花は、タキオンによく似た表情で「えーー!!」と残念がっていた。それを見て田上がふふふと笑みを零すと、タキオンが不思議がって「どうしたんだい?」と聞いた。それに田上は答えた。
「…やっぱり桜花ちゃんとタキオンは似てるよな。今の顔とかそっくりだった」
そう言うと、田上の声に反応して桜花がこちらを向いた。そして、「あ、そうだ!」思いついた顔をして言った。
「私、田上さんのお嫁さんになる」
その途端に両親が笑い出して、タキオンが慌てて聞いた。
「どうしてそんな考えになるんだ!桜花にも好きな人がいるんじゃないのかい?」
「私、田上さんも好きだよ。それで、田上さんとチューして自分の赤ちゃん産んで育てたい」
「ダメだよ。トレーナー君は私の物だぞ」
女子高生が、小学二年生相手に意地を張ると、小学二年生も意地を張り返した。
「だって、さっきの話だと田上さんは、お姉ちゃんの事を好きじゃないって事でしょ?なら、お姉ちゃんの物じゃなくて私の物でもあるわけだよ」
この論じ方が、これまたタキオンにそっくりで田上はフフフと笑った。フフフと笑うとタキオンがこちらを向いて言った。
「君は、誰の物なんだい?まさか、桜花の方に行くって言うんじゃないだろうね」
田上は、タキオンをからかうように意味有りげにニヤリと笑った。それにタキオンもニヤリと笑い返し、それから桜花に言った。
「トレーナー君は、私の物のようだ」
「まだ、なんにも言ってないじゃん。ちょっと笑っただけだよ」
「そのちょっとが分かるようになれば、桜花もトレーナー君の事を分かるようになるさ。どうだい?トレーナー君。君、私の物だと言っていただろ?」
そう言われると田上は、タキオンの様子に合わせて飯事遊びのように桜花に言った。
「桜花ちゃん、残念ながらトレーナーの契約を結ぶときにお姉ちゃんの物になるって言っちゃったんだ」
「えー、…じゃあ、チューして赤ちゃんができたら、遊びに来てね。私、とも君と一緒に赤ちゃんのお世話してみたいから」
「結局、とも君か」とタキオンは呆れたように笑い、田上は、桜花に「それはちょっと難しいな」とごまかし笑いをした。その後で、タキオンが不意に思い出したように言った。
「そう言えば、犬はどうしたんだい?正月頃に飼ったとか言っていなかったかな?」
母親がそれに答えようとしたが、横から桜花が口を挟んだ。
「よー君って言うんだよ。母さんスマホ出して、写真見せよう写真見せよう」
桜花にそう催促されて、タキオンのお母さんは自分のバッグに入れていたスマホを取り出して机の反対側にいるタキオンに見せた。その時に田上に言った。
「お正月の時は、うちの子を本当にありがとうございます。……もしかして、うちの子が告白したのってお正月の時だったりします?あそこらへんが怪しいのかなって…」
その言葉に田上はどう返答したらいいのか困ってしまって、タキオンの方を見た。タキオンは、「へ~、かわいいね」と言って写真の犬を見ていたのだが、田上に見られると嫌そうな顔をして言った。
「なんでこっちを見るんだよ。自分で言えばいいだろ?…違うよ。正月の時じゃない」
「あら、そう」とお母さんは引き下がったが、それならいつ告白したのかを知りたそうにタキオンの方を見ていたが、タキオンはそれを完全に無視した。そうして、大阪杯は終わり、残すところレース後のウイニングライブのみとなった。これは、第一レースから第十二レースに出た全ての子が歌って踊るライブである。公演は夜まで続く。タキオンは、もう移動を始めなければならなかった。ウイニングライブ会場行きのバスが、タキオンを迎えに来る。田上は、それを見送る。普段であれば、田上もそのバスに乗って関係者席でウイニングライブを見に行くのだが、今日の所はまた眩暈で倒れられても困るからという理由で見送りになった。田上は、背の高いバスに乗って移動していくタキオンに手を振った。タキオンもそれに手を振り返した。そして、そのまま小さくなっていった。青空の中に所々黒い雲が見えた。それでも、ほとんどが空色に染まって綺麗で、田上はそれに一瞬目を留めた。しかし、目を留めたのは一瞬ばかりで、その後にはホテルに帰るバスへと乗った。