ケロイド   作:石花漱一

6 / 89
三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら(後編)

 食堂のキッチンは、トレーナー男子寮女子寮共通のもので、トレーナーもまあまあ数がいるのだが、老夫婦が二人で食事を作っていた。カフェテリアに行くか、ここにくるのかは、それぞれのトレーナーによって分かれるのだが、トレセン側としては、あまりこちらの方には押しかけないようにしてくれとのことだった。ここは、あくまでもカフェテリアで食いあぶれた人用のものらしい。

 ここのキッチンには普段、老夫婦以外入ることはない。(なぜ、ここに老夫婦が勤めているのかは永遠の謎である)ただ、田上が自身の担当の子のために食事を作りたいと言ったら、快くキッチンに入ることを許してくれたし、さらに食材までも分け与えてくれた。その人たちが言うには、「この食材は元々この学園の人たちのためにあるんですから、この学園の人であれば、誰でも持って行っていいんだよ」とのことだった。

――なんと優しい老夫婦なんだろう!

 田上は、そう感激をした。それから、老夫婦の言い草にも筋が通っていたように思えたので、後ろめたさも感じることがなく、心地よくタキオンの弁当を作らせてもらっていた。

 田上は、今日もキッチンへ行った。老夫婦はもうそこにいて、暗いうちからもう料理を作っているようだった。食堂の長机の方にも一人二人トレーナーと思しき人がいた。何のためにそこにいるのかは分からないが、田上が予想するに、もう朝も近いので自動的に起き上がってしまった人たちは、ここで暇でも潰そうというのだろう。

 田上は、キッチンまで歩いて行って老夫婦に挨拶をした。

「おはようございます、修さん。節子さん」

 田上は、できるだけ元気よく挨拶をしたつもりだったのだが、老夫婦は心配そうな顔をして、そして、節子さんの方がこう言った。

「おはよう…圭一君、元気ないの?」

「そんなことないですよ」

「……」

 修さんは、皺の寄った顔で田上の顔を睨んだ。田上は、少したじろいだが、毅然とした態度でそれを見返した。それを見ると、修さんは、ふっと微笑んで言った。

「圭一君」

 随分としわがれた声だった。

「ここ二日ばかり見なかったんが、なにかあったんけ?」

「風邪です」と田上は答えた。そうすると、修さんは「そうか…」と呟いて、料理の方に集中した。田上もキッチンにあるエプロンと包丁を借りて、修さんの横に立った。しばらく包丁がまな板を打つ音と、節子さんが野菜を煮ている音しか聞こえてこなかった。

 そして、食堂の椅子に座っている男の人が、大きなくしゃみをした後、修さんが言った。

「あんまり無理せんでもええからな。圭一君が、元気ななったら、君ん担当ん子んもんも俺らが一緒に作うてやるんばい」

 訛りがきつくて、上手に聞き取れなかったが、言いたいことは分かった。疲れてたらタキオンの分も作ってくれるよということだった。それを聞くと、田上の喉にはなんだか熱いものが詰まって、せっかく話しかけてくれたのに何も返す事ができなかった。だから、田上は黙々と野菜を切り続けた。

 

 それから、暫く経った頃、田上はお弁当の仕上げに入ろうとしていた。もうおにぎりも作り終わり、お弁当箱も埋まってきたときだった。修さんが、田上に話しかけてきた。

「圭一君は、最初のこん(頃)に比べっと米握るのがうもう(上手く)なっときとんのぅ」

 田上がラップに包んだおにぎりを見つめながら言っていた。今度は、田上も言葉を発することができた。

「…僕も大学の頃は一人暮らしで料理をしていたんですけど、どうにも見栄えは気にしなかったですからね。おにぎりなんて崩れても気にしなかったし、味も最低限あれば良かったので」

「……そんな圭一君をこんなに一生懸命にさるる(させる)担当ん子は、どげん(どのくらい)いい子なんか想像もつかねぇばい。…おい、せつ。どげんもんばい?」

 そう呼びかけられた節子さんは、ゆっくりと鍋をかき回しながら頬に手を当て考えた。

「どげん…?まず、美人さんなことは間違いがないわねぇ。…それから、…それから、圭一君が喜んで弁当を作るくらいだからねぇ…」

 節子さんは、そう言っておっとりと考えていた。

「うーん…、例えば、すごく優しいとか?」

 そう言って田上の方をチラリと見たが、田上は口元に微妙な笑みを浮かべただけだった。

「違うかしら?…じゃあ、とても勉強熱心とか?」

 あんまりこの時間が長く続いても困るので、田上は、「まあ、そんなところです」と頷いた。その途端、修さんがぶわっはっはと笑い声をあげた。

「おい、せつ。お前、圭一君を困らせてってばい。まあ、そんなところです、って、お前の答えが面倒と言っとるんばい」

 修さんがそう言うと、田上が困ったように笑った。

「面倒ということではないんですけど、僕の担当の子はあんまりいい子と言える代物ではなかったから、答えは出てきそうにないのかなって思って」

「へー、圭一くん担当ん子んは、いい子じゃねっがぁ。どして?」

「どうして…?うーん、がさつで自分のことすら他人に任して、弁当作ってくれなきゃ怒って、危ない実験に他人を巻き込もうとしたりして、そして、人の家に勝手についてこようとしたりして…、とにかく我儘なんですよ。あいつはいい子じゃありません」

 田上が、そう言い切って、老夫婦の顔を見ると、二人とも似たような顔で目を丸くして田上を見つめていた。

「どうかしたんですか?」

 田上は、挑戦するように言った。すると、修さんが「ふーん」と言って噛み締めるように頷いた。

「やっぱり圭一君は、一生懸命ばい」

「…どうして?」

「いや、……こげんこ(こんなこと)言われて気ぃ悪くせんでほしかってんば、圭一君みたいにたげんこ(他人のこと)考えられる人はそうそういなか。圭一君はそん子んに怒っとるみたいじゃが、怒っとんのならそも弁当なんて作らなか。…こう、……言いてぇこと分かるけ?」

 修さんが、言葉にできないもどかしさを感じながら、田上を見た。田上は、修さんの言いたいことが分からなかったし、また分かろうともしなかった。田上は、冷たく言い放った。

「分かりません」

 修さんは、少し悲しそうな顔をして、「そうか…」と呟いた。

 田上は、タキオンの分の弁当箱に具を詰めながら、先ほど言ったことを考えた。――がさつで、怒って、巻き込んで、勝手についてくる。ここの中に人の魅力と言えるものなんて何一つなかった。そのうち、田上は自分が何でタキオンが好きなのか分からなくなった。思い出せるタキオンの顔が、悪だくみをしている顔しか出てこなくなった。すると、急に悲しくなった。今、自分が何のために弁当を作っているのか分からなくなった。

 田上の手が止まった。目頭が熱かった。頭もぼーっとした。もう何を考えればいいのかわからない。田上は、必死に手を動かそうとした。自分の思いを振り払うように、いらない考えを消しゴムで消すように。でも、目頭の熱さは止まらなくなり、一つ二つと弁当箱に涙が零れた。

 その様子を節子さんが見とめていて、慌てて田上に声をかけた。

「圭一君!大丈夫?やっぱりさっきの修さんの言葉がダメだった?」

 田上は、節子さんに声をかけられながらも、自分の止まらない涙を抑えようとしながらも、必死に弁当箱に具を詰めた。修さんも田上の涙を見とめた。

「圭一君?」

 修さんは、田上にそう呼びかけたが、田上は反応しない。もう二,三度呼びかけたが、やっぱり田上は弁当に具を詰めたまま二人の言葉を聞いていないふりをした。

 修さんは、自分で何を思ったか知らないが、田上の腕をつかんだ。そして、言った。

「こっちを見んね。圭一君!」

 そう言われて田上は、やっと修さんの方を見た。顔が見えた。しわくちゃの顔が心配そうに眉を寄せていた。

「俺の言葉がダメだったんか?」

 修さんはそう聞いた。田上は、ふるふると首を横に微かに振った。

「じゃあ、何があったんけ」

「………なんにも」

「そんなはずはなか!なんにもなくて涙が零れるんのなら、俺ん料理ば今頃しょっぱくて苦情ん嵐ばい」

「………なんにもないんです」

 そう言った後に、田上は修さんの手を腕からそっと外した。そして、涙をこらえるように、上を向いた。

「……すいません」

「…なして謝る?悪いんは俺のほうばい!最初から元気ない思っとたのに、そのまんまにしとったって。もう座り、後は詰めるだけけ?」

 田上は、節子が持ってきた椅子に大人しく座り、頷いた。その後、やっとの思いで声を出した。

「……タキオンの弁当箱から……卵焼きときゅうりをとって、代わりのを詰めてください。…僕の涙が落ちました」

「…分かった。取ったんはどうする?」

「………僕のに」

 そう言うと、田上はうつむいた。どうにも顔を上げる気にはなれなかった。田上の前には、修さんがいたのだが、田上には背を向けていた。その背も、うつむいている田上には見えず、ちょっとちょっと動く修さんの古びたサンダルとよれよれの靴下が見えるだけだった。

 そのうち田上は、うとうとし始めた。乾いた涙が、瞼をくっつかせて田上を眠りにつかせようとした。前に夢を見た時から、三日と経っていないが奇妙な夢を見た。それは、修さんに肩を叩かれるまで続いた。

 

 田上は、いつも通りトレーナー室で仕事をしていた。パソコンの画面を文字と数字が埋めていく。キーボードの音しか聞こえてこなかった。

 しかし、暫くすると、どこからか誰かの寝息が聞こえてきた。田上は、くるくると辺りを見渡して、それがソファーの方からするのに気が付いた。

 田上は、立ち上がってそっと寝ている人物を起こさないようにソファーに近づいた。ソファーにいたのは、タキオンだった。そうなると、田上の心は喜びに踊った。もっとタキオンの顔が見たいと、しゃがみこんでタキオンの顔を見た。タキオンの長い前髪が邪魔だったので、それを掻き上げた。綺麗なすべすべしたおでこが見えた。

 すると、タキオンが鬱陶しそうな声を上げて、田上の手を振り払おうとしたので田上は微笑んでそっと手を外してやった。タキオンの顔には、また髪の毛がかかった。

 田上は、あんまりここには長居できなかった。少しすると、パソコンの方を向いて立ち上がり、歩き出そうとした。しかし、それは寝ていたはずのタキオンが手を掴んできたので、それはできなかった。田上がタキオンの方を見ると、タキオンは田上の手を掴んだままゆっくりと起き上って言った。

「愛するっていうのはどういう行為のことだい?」

 田上は、驚いてタキオンを見たが、そこで夢は途切れた。修さんに肩を叩かれたからなのか、夢がそれ以上を見せてくれなかったのかは分からない。気が付けば修さんの体が前にあって、顔を上げると修さんらしいしわくちゃの顔がそこにはあった。

「圭一君、弁当、そん子んとこにもっといとってばい」

 田上は、寝ぼけたままで何度も「ありがとうございます。ありがとうございます」と言った。時計を見てみると、弁当を詰めた直後の様な時間ではなかった。どうやら、ぎりぎりまで自分を寝かせててくれたようだ。ただ、寝た時の姿勢が悪かったので、寝れて嬉しいのかそれとも背中が痛くて気分が悪いのか、区切りがつかなかった。

 田上は、一旦部屋に戻り自分のバッグを持った。不思議と気分は晴れていた。田上は、トレーナー室まで軽い足取りとまでは行かなくても、いつもの田上の足取りよりかは比較的軽やかに歩いた。寒い朝だった。田上は、何も言わずに黙々と歩き続けた。その背は、寒さには屈してはいない。まだ、ほんの少しの、僅かな灯を胸に宿した男の小さな背だった。

 

 今日という一日は、平凡な一日だったようだ。朝に少し涙を流したのを除いては。田上は、それを極力忘れようと努めたが、タキオンの視線が気がかりだった。タキオンは、恐らく田上が泣いていたのに気が付いていたものじゃないかと思う。タキオンが、弁当を取りに来たのは昼近くになってからだったが、タキオンの視線は目元に向けられていた。田上の目元を見ると、タキオンは何かを言おうとしたが、それはやめて別のことに変えたように感じた。タキオンが、言った別のこととは「明日の何時に出かけるんだい?」ということだった。田上は、「九時から」と答えたが、その間もタキオンは目元を見ていたように感じる。全部田上の被害妄想かもしれない。しかし、タキオンが弁当を受け取って出て行くとき、少し心配そうな顔をしていたのは確かだった。

 

 タキオンは、弁当を受け取ると研究室に再び戻ったが、すぐにそこから出て行った。それは、赤坂先生と話に保健室に行くからだった。

 タキオンが、保健室に着くと数人の生徒に赤坂先生が取り囲まれていた。中に入ると、赤坂先生が、「また風邪?」と聞いてきたが、タキオンは静かに首を振った。それから、赤坂先生を取り囲んでいる輪からは逸れて、窓の方に寄った。赤坂先生が取り込み中の時は、タキオンはよくそうしていた。知らぬ他人と馴れ合う気などなかったからだ。それに赤坂先生とよく周りを取り囲んでいる人たちの話を聞けば、大抵は、映画やドラマの話で、タキオンに興味のあるものではなかった。だから、たまに窓から外を眺めているタキオンのそばに寄ってきて、話しかけてくる人がいても、話が合わないとわかるとそっと離れていって、また赤坂先生と話し出した。

 今日は、いつもより人が多かった。なぜだろう、と窓から差すほんのり暖かい日光を浴びながら考えていると、今日から授業がなくなって、冬休みに入ったことを思い出した。そうすると、この人たちもいつまでもいなくならないのではないかと不安に思った。タキオンはちょっと振り返った。三、四人の生徒が見える。タキオンは、赤坂先生と田上の家に行くことについて少し話がしたかったのだが、今日はどうにもできそうになかった。地毛なのか染めているのか分からないカラフルなウマ娘たちが、赤・黄・青・白と並んでいた。――白がいなかったら、完全に信号機だったな。タキオンが、考えたことのくだらなさを自覚しながらもニヤリと口角を上げると、白のウマ娘がタキオンが見ているのに気が付いた。前髪には、三本のヘアピンが付いていて、それぞれ星とハートと稲妻の形をしたキラキラしたものが付いていた。その子の髪は長かった。パッと見た限りでは、その一団の中でその子が一番おとなしそうな子だと言えるだろう。実際、この子は自分から話すことはあまりなく、必然的に聞き役へと回っていた。

 その子は、突然、タキオンに興味が湧いたようだった。タキオンとしては、そんなことごめんだった。だから、話しかけられないように、またそっぽを向いて窓の方を見ようとしたのだが、白の子の声らしき声が聞こえてきた。それは、仲間たちに言っているようだった。

「……あの子、確かアグネス家の…」

「タキオンっていう子でしょ!」

 鬱陶しい程に元気のある声が聞こえてきた。そして、また白の子に答えたその声が言った。

「危ないって言うよ?触ったら指が溶けるって!」「私は、その子と話すと口から怪光線が出るって聞いたよ!」別の声が口を挟んだ。

――礼儀がなっていないのかは知らないが、本人を目の前にしてその声の音量でいいと思っているのだろうか?

 タキオンは、面倒くさそうにため息を吐いた。一瞬だけ窓に白い靄がかかった。

「…本当に?」

 白い女の子が訝しむ声が聞こえてきた。すると、女の子たちが「う~ん」と悩むのを聞いた。

「……私は、ゴルピが言ったのを聞いた事があるだけ…だけど」

「私もあんまりどこで聞いたのか覚えてないや」

「…じゃあ、話してみないと分からないんじゃない?」

「はい!私話したことあります!」

「ええ~まじ~?」という声が起こった。そこで赤坂先生の声がした。

「こら、タキオンがいるんだからそういう話はせめて他所でしなさい。あなたたちの声は大きいのよ」

――先生がする注意としてはあまりにも不適切だな。タキオンはそう思った。しかし、それを口には出さず、もう帰ろうと決めた。タキオンが、ここでできることはなさそうだった。

 タキオンは、急に動くと赤黄青と白のウマ娘が見守る中、保健室のドアの方まで歩いて行った。しかし、そこで不図思いついたので赤坂先生に向かって言った。

「赤坂君、一昨日のトレーナー君の件なんだが、探れそうな機会が見つかったよ。事によっては、君にも報告してみようかな」

 その途端に赤坂先生が目を丸くして聞いた。

「マジで?」

「ああ」とタキオンは頷いた。そして、その後にまだ居るウマ娘たちに視線を投げかけた。白の子以外は、皆赤坂先生とタキオンの顔を見比べ、なんだろうと不思議に思っているようだったが、白の子はまだ興味ありげにタキオンを見ていた。タキオンは、その目を無視して、保健室の引き戸を開けた。その戸は、建て付けが悪いのか、ウマ娘の力でも少し重く感じられた。そして、そのままタキオンは、研究室に戻るため廊下を歩いて行った。

 だが、十歩も歩かないうちに後ろの保健室の戸が開いた音がした。何かあったのだろうかと思って、後ろを振り返ってみると白の子がこちらに歩いてくるのが見えた。タキオンは、露骨に嫌そうな顔をした。白の子は、大人しそうな子ではあったが、話すことができない人ではなかったようだ。「そんな顔しないでよ」と笑いながらタキオンに近づいて行った。

「何の用だい?」

 タキオンは仕方なく立ち止まって、そう言った。白の子は、傍まで近づいてくるとタキオンに向かって言った。

「さっきはごめんね。あの子たちああいうところがあるから……、悪い子ではないと思うんだけどね。…少し騙されやすいというか…」

「用件は何だい?」

 タキオンが質問を繰り返すと、白の子は苦笑した。

「えーっと、…あなたって本当に触ると指が解けるの?」

「君も信じたのかい!?あんな話、嘘に決まっているじゃないか。…いや、口から怪光線はあながち嘘でもないか。トレーナー君に渡した薬の副作用にそんなものがあったような気がする」

「えっ!?それは本当のことなの?じゃあ、私も口から怪光線が出る?」

「出ていないじゃないか。見ればわかるだろう?薬を飲んだ時だけだ。…そして、私は君たちがあまり好かない。もうこれで話は終わりだろう?それであれば、もう嘘なんて垂れ流さず、声の音量も控えた節度ある行動を頼むよ。それでは」

 そう言って、タキオンは立ち去ろうとしたが、白の子はタキオンを呼び止めた。

「待って、最後に一つだけ!」

 タキオンは面倒くさそうに振り返った。

「…なんだい?」

「…何で有馬記念に出なかったの?十分出れる実力はあったでしょ?」

 そう言われると、タキオンはイラっとした。

「予定になかっただけだよ。人には色々な事情があるんだ。君の様な輩が詮索するものではないよ」

「そう…」

 タキオンに怒られて白の子はしゅんとした。それから、「ありがとう」と一言告げると去っていった。タキオンはその後ろ姿を見てようやく落ち着いた。そして、鼻歌を微かに歌いながら、人気のない廊下を歩いて行った。

 

 研究室に着くとタキオンの頭に何か引っかかるものがあることを知った。どうにもその言葉が頭から離れなかったのだが、薄暗い部屋の椅子に腰掛けてみると、その矛盾した言葉に気が付いた。

――君の様な輩が詮索するものではないよ。

 タキオンは、これが頭にずっと引っ掛かっていた。頭を振っても、何かの勘違いだろうと思っても頭にこびりついて離れないので、そのことについて考えてみた。答えは、すぐに分かった。自分も同じことをしようとしているからだ。トレーナーが母のことを想って泣いたなど、自分が詮索するべきものではないのかもしれない。タキオンはそう思った。いささか不安になった。自身のトレーナーは、完全にタキオンのために、自身の嫌なことをしてあげるという無理をしていた。そのことは見てみれば分かる。タキオンは、そのことによって嫌われるのが嫌だった。せっかく良好な関係を築いて、脚も治って、実験体としても素直で優秀で、こんなにいい物件など他にはないだろう。なにより、あんな人の良い男に嫌われるなど、自分が悪いことをしている気がしてならなかった。

 タキオンは、少しの間そわそわして、それから時計を見た。もう昼だった。トレーナーは、自分の部屋で自分の弁当を食べているころだろう。タキオンは、明日出かける前にもう一度、田上に話を聞こうと思い、研究室から自分の弁当箱を引っ提げて出て行った。

 

 タキオンが、トレーナー室のドアを開くと、田上がスマホを見ながらご飯を食べているのが見えた。田上は、ドアを開けたタキオンにすぐに気が付いて声をかけた。

「おお、タキオン。研究室で食べるんじゃなかったのか?」

「まあね」とタキオンは呟いた。

 タキオンは、今すぐにでも話を切り出して、本当に自分が家について行ってもいいのか聞きたかったが、うしろめたさからかひとまずソファーの所に落ち着こうとしてしまった。それだから、いけないと思って、話しかけたそうにチラチラと自身のトレーナーの方を見たが、トレーナーはと言うと自分のスマホを見ながら黙々とご飯を食べていた。

 タキオンは、どうしていいのか迷った末に、とりあえず、ご飯を食べようと決めた。ご飯を食べて、一息つけばなにか妙案が生まれるかもしれなかった。だが、それが生まれる前にトレーナーの方から好機が訪れた。田上は、タキオンの背を見ると不図思い出したことがあって聞いた。

「おい、タキオン」

 急に話しかけられてタキオンはびっくりした。声を抑えることには成功したが、その後の返答で声が少し裏返ってしまったのが、少々恥ずかしかった。

「ん!なんだい!?」

 タキオンの驚き様に田上は笑った。

「そんなに驚かなくてもいいだろ。米粒飛んだぞ。…で、タキオンは明日本当に行くんだね?」

 タキオンは、最初のうちは米粒の処理やら思いがけない質問やらで、田上の話が頭の中にとんと入ってこなかった。しかし、段々と頭の中で整理をつけていくにつれ、田上の言ったことが理解できた。

「ああ。…ああ!そのことで君に聞きたかったんだよ!……その、本当に私を連れて行ってもいいんだね?本当の本当に私が付いてきてもいいんだね?」

「俺もそれで言いたいことがあった。…俺は向こうにいったらお前の世話は一切しないからな。ついて来てもいいけど、俺はゆっくりしたいんだ。あくまでも休暇なんだ。タキオンの面倒くさいことはしない」

 田上はそう宣言をした。

「えっと…、世話をしないというとどこぐらいまでしないつもりなんだい?…まさか食事抜き?」

「それは、さすがに可哀想だし、父さんが作るから特に問題はない。…何と言うか、俺の気分を紛らわすためにこの宣言が必要だったんだよ。正直言って、今でも嫌なんだけど…」

「今でも嫌なのかい……」

 タキオンが、誰に言うともなく呟いた。そして、少し考え込んだ後、慎重に話し始めた。

「実はね……。この…今回の私の我儘?にも少し目的があってね。あんまり話すことはできないんだけど、秘密裏に君の父親に聞こうと思っていたんだ」

「……何を?」

「それが難しいところさ。この目的を話すと君との関係が壊れるか、ある人が凄く怒られるかのどちらかなんだけど…。どうしたものかねぇ。いっそのこと君に聞いてみるのが一番手っ取り早いと思うんだろうけど、本当のことが話せるかどうか…」

 タキオンが、うーんと悩んでるのにつられて、田上もうーんと悩んだ。

「うーん…、タキオンが何か聞きたいのか……。それは誰のことを?まさか、俺の父親に興味があるってわけでもないんだろ?」

 タキオンは、「うーん…」と言ってごまかした。田上は、訝しく思ったが、そのことには触れなかった。そして、別のことを言った。

「タキオン、お前が何を思って俺の帰省についてきたいのかは知らないけど、目的があるのはなんとなく分かった。その上で言いたいんだけど、俺はこの旅行は不納得であり、大変面倒くさいものであると思っている。……しかし、父さんはタキオンが来ることも少しは喜んではいると思うんだ」

「…つまり?」

「つまり、もう後戻りはできないってことだ。旅行の準備はしっかりしておけよ。研究道具は持っていけない。トレーニングは、鈍らない程度にはするように動ける服を持っていくんだぞ。そして…、何かあったかな?」

「ああ、そうだ」

 タキオンが声を上げた。

「今日のトレーニングはどうするんだい?」

「ああ、それは……。どうする?」

「どうするって言ったって…、今日は、ノートの記述も少なからずできたので、満足ではあるがね」

「ああ、違う違う。俺が言いたかったのは、明日、電車で長いこと座るから、前日のトレーニングの疲れで乗り換えもままならないとなったら面倒だろ?それで、どうするかって聞いたんだ?…タキオンとしてはどうだ?」

「ふむ……、では、今日のトレーニングはやめておくか。どうせ大阪杯までまだ長いんだ。気楽に行けるさ」

「じゃあ決定だ」

 田上は、そう言って、スマホに目を戻した。タキオンはしばらくそれを見つめていたが、田上が自分の方を見るとゆっくりと目を逸らした。お昼ご飯は、二人とも別々に食べたようだった。同じ部屋にいながら、顔を見ながらは食べなかった。互いに、一方はスマホを片手に、もう一方は宙を見ながら、考え事をしていた。その考え事の内容は、二人とも同じとはいかなかったが、その考えている顔は二人とも面白いくらいに似通っていた。

 そして、タキオンはご飯を食べ終わると、部屋を出て行った。もう二人は、今日のうちは会わないだろうと思って、去り際に別れの言葉を交わした。

「バイバイ」「バイバイ」

「また明日ね」「また明日ね」

 そう言った後、田上は付け加えた。

「明日は忘れ物がないようにな。着替えとか暇つぶしのものとか、今日のうちに準備しておけよ」

 そして、今日という日は過ぎていった。いよいよ、明日になれば、八日間の旅が始まる。田上にとってそれがいい帰省であったのかは今のところは分からないが、少なくともタキオンは田上とその母親の関係性について知ることができるだろう。その上でどう考えるのかはタキオン次第。良くも悪くも実りのある旅になるだろう。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。