ケロイド   作:石花漱一

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二十、走れウイニングライブ②

 タキオンはそれの四十分後くらいに帰ってきた。外の暗がりには雨が降っていた。ぽたぽたと流れ落ちる雨の音が聞こえる。車が、雨を跳ね飛ばしながら走っていく音も聞こえた。田上は今か今かと少し重い顔をしながら待っている。こっちゃんは、もう部屋に帰っていた。もしここに居て、自身のトレーナーに怒られでもしたら面倒だと言っていた。だから、ホテルのロビーにいるのは田上とマテリアルの二人とホテルの受付の人だけとなった。子供のいないがらんとした空間が田上の心に染みたから、田上は外の雨のかからない場所に立ってタキオンを待つことにした。マテリアルは、その間に一度部屋の方にパソコンを置きに戻った。そして、田上がマテリアルと二人きりでいることに抵抗を持っているのを察したのか、そのままロビーでスマホをいじりながらタキオンの帰りを待っていた。

 タキオンを乗せたバスは、ザーと降りしきる雨の中ホテルの駐車場へよっこらしょとやってきた。それから、玄関の前までバスが止まろうとしてきたので田上は横にずれた。バスは、ピー、プシューと音を立てて止まった。バスの中には、明かりが点いている。外から田上はタキオンの姿を探したが、前の方にその姿はなかった。それでも田上は心待ちにして通り行く女子高生たちをチラチラ見ながら人相を確認していくと、その中に国近がいた。――これはおかしいぞ?と田上は思った。タキオンは国近より前の席のはずだ。タキオンが勝手に移動したりしていなければ。そうでなければ国近の前にタキオンがいるはずだったが、田上はあの特徴的な栗毛の後ろ髪の生えた饅頭の様な頭を見ていなかった。だから、田上は国近を呼び止めて「タキオンは?」と聞いた。すると、国近がこう答えた。

「確か、なんか物を落としたとかで座席の下を探ってたぞ?一緒に探そうかって言ったら、――いい、って断られた」

「そうか」と礼も言わずに田上は話を終わらせた。そして、心配そうにバスの方を見上げた。まだ、疲れた人や楽しそうに話をしている人が次々と降りてきていた。田上は、段々と心配を募らせながら最後まで待った。すると、最後の人はタキオンではなく全然別の人だった。田上は、これで何かあったんじゃないかと思ってぎょっとした。丁度、一番最初に降りてきた今回の引率者が田上の近くにいたので、「え~、…タキオンは?」と話しかけるともなく話しかけた。すると、それに気が付いた引率者の人が「あれ?降りてませんでした?」と言ってバスの中に確認しに行った。田上も心配だったのでその後についてバスに乗り込んだ。バスに乗ると、通路の方にタキオンの栗毛の尻尾だけがぴょこぴょこ揺れているのがすぐに目についた。どうやら、引率者の人も気が付いたようで「何か探し物ですか?」とタキオンに呼び掛けた。その声が聞こえると、タキオンの顔だけがぴょこりと座席の上に覗いて、次いで、田上の姿を見つけると満面の笑みで田上の事を呼んだ。

「トレーナー君!丁度よかった。シャーペンがなくなったんだよ。君も探すのを手伝ってくれ」

 引率者の人はお呼びじゃないという口調だったので、前に居たその人が戸惑いながら田上の方に道を開けた。それで少しごたごたした。狭いバスの通路を大の男の二人がすれ違おうとするからこうなるのだ。ちょっとごたごたした後、田上はしゃがんで座席の下を確認しているタキオンの後ろに立って聞いた。

「どんなシャーペンがなくなったんだ?」

「去年の私の誕生日の時に君がくれたシャーペンだよ。ほら、ピンクと黄色の蝶が描かれたカラフルな奴」

「…ああ、あれか。まだ使ってたんだな」

「使うさ。何だと思ってるんだい?私の事」

「いや、…あんまり高くないシャーペンをあげたからもう壊れてるのかなぁって思って」

「まぁ、あれ、案外頑丈だね。…でも、今となっては思い出の品だから壊れたとしても保存するか、どうにかして直すよ」

「で、どっちのほうに転がって行ったんだ?」

「えぇ?…ああ、確か前の方に転がっていったと思うんだけどね。…中々見つからないなぁ」

「じゃあ、後ろの方を探すよ」

「頼むよ」というタキオンの言葉を聞いて、田上は後ろの席を探し始めた。探すとものの十数秒で見つけた。二席くらい後ろの席の下に何かあるかなぁ?と暗がりの中に濃い部分を見つけた後に、田上がそこを探すと余裕で見つかった。

 田上はタキオンに「シャーペンあったよ」と報告をした。それにタキオンは大きな喜びで返すことはなく、「ああ、ありがとう」と気のない返事をした。こういうタキオンを田上は見た事があった。特に、レースがあった日などはそうなっていた。つまり、眠たいという事だ。眠たいからあまり物事を考えられていないのだ。

 タキオンにシャーペンを渡すと、そのままバッグの中にそれをしまった。そして、ゆっくりのんびりとタキオンは歩き出した。その途中でタキオンは欠伸をしていたから、やっぱり眠たいのだろう。田上は、呑気そうなタキオンを穏やかな目で見つめていた。だが、バスを降りて少し雨に当てられるとそこからなぜか進むことができなかった。目の前に雨風を凌げる場所があるというのに、何の迷いからか田上はその先に進むことができない。しかし、タキオンは後ろで立ち止まっている田上に気付かずにホテルのロビーの中に入ろうとしていた。だから、田上は迷いながらも「タキオン」と助けを求めるように呼んだ。すると、タキオンは振り返って田上を見た。眠たげな眼だったが、田上が何かに怯えているのを察するとにっこりと微笑んだ。そして、とことこと田上に近づいてきて、その両手を自分の両手でそっと取ると言った。

「私は、君の事は恨んじゃいないよ。ライブでは、ちょっと感極まって泣いてしまったけど、君に対する想いは変わらない。君から去って行くつもりはない。君を追い出すつもりもない。ただ、君と一緒に居たいと願っているだけなんだ」

 田上は、冷たい雨を背中に浴びながら、タキオンのその挑戦するような目つきを眺めた。いつものタキオンだ。いつものタキオンだったが、田上には今一つ言葉が足りなかった。

「タキオン。…俺は…俺は…」

「どこへでもついて行くから。もう君を追い詰めるような真似も二度としない。ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。私たちは急ぎ過ぎた」

「…でも、……俺は酷い奴だ。恨まれたってしょうがない奴だ。駄目駄目で最低の屑野郎だ。女の子一人も丁寧に扱ってやることができない」

「別に私の事を丁寧に扱ってくれなくて結構さ。君のしたいようにしてもいい」

「でも、……なんでそんな俺の事を大事にしてくれるんだ?」

「…なんで?…理由なんて特にないけどなぁ。……強いて言うなら。…強いて言うなら…、君が好きだから?…っていうとなんで俺の事を好きでいてくれるんだ?という話になるね。…う~ん」

 そこで、田上の顔を見てにやりと笑うと言った。

「君の事なんてお見通しだよ。何て言ったって、もう二年も付き合いがあるからね」

 そして、また考え始めた。

「う~ん、…君を好きで居れる理由…。……私は、…一度見つけた君を放っておけないんだよね。…すると、君は同情か?と問うわけだ。…同情…。同情ってわけでもないんだよね。私は、私のしたい事をしているだけだ。…すると?…どういうことだ?私の弱い足を治す薬を作った時よりも難しい。…何て言ったって君だ。君の事は、真剣に考えて真剣に見つめ合わなければならない。…う~ん、…もう君とは二年と言わず何年来何十年来の友人、そして、好きな人であるような気がするんだよね。もう、一緒に居るのが当然じゃないかと思うくらいに。これを同情と呼ぶのか?……君はどう思う?トレーナー君」

「………俺は、…タキオンの口から言ってほしい」

「よし来た。ならば言ってやろう。…という請け合いをしてみたはいいが、分からないな。これを何て説明すればいいか。…愛?いや、君はそんな安っぽくて曖昧な言葉で片づけてほしくはないだろう。……好き?…愛おしい?…これが一番近いような気がする。君に突然キスをした時があったろ?あの時、私は自然と体が動いてしまったんだ。愛おしさのあまり、とは言わないけど、何か言葉では言い表せられない別の力が働いていた。君を抱き締めたいとか、一緒に居たいとかそんなものだ」

「…母性?」

「母性…とは少し違う。憐みの感情なんかもある。たまらない愛おしさもある。なにもかも詰まっていたんだ。喜びだって、悲しみだって、愛しさだって、憎さだって、楽しさだって、空しさだって、過去だって、未来だって、皆詰まっているんだ。それを愛と呼ぶんだよ。今分かった。愛ってのは、好きとか恋とか良いイメージで語られていた。でも、実際の所は違ったんだ。愛には、全てが詰まっている。正なることも負なることも。私の呼ぶ幸せと同じようなものだ。愛には乗り越えなくてはならないものがある。それを乗り越えなければ、手に入れる事はできないんだ。一緒に行こう。私は待ってる。いつまでもいつまでも君の愛を待って、その愛を享受できなかったらたくさん泣く。その後に、それまで君へと培ってきた愛を倍の倍に膨らませて別の人と結婚するんだ。私には覚悟ができてる。行くんだ。どこまでもどこまでも、見えない夢を探し求めて」

 そう言ってタキオンは田上の手をぎゅっと握りしめた。田上には、それでタキオンがなぜ自分の事を好きで居てくれているのか納得がいった。しかし、雨の中を進み出るまでには及ばなかった。まだ、少し怖かった。この後に何が起こるのか、どれ程の事が起こるのか。それが知れないうちはホテルの方へと進めない。すると、その様子を見たタキオンが急に田上の首に腕を回し、顔を近づけた。そして、自分が雨に濡れるのもいとわず、田上と唇を重ねた。すぐにそれは離れた。田上は、またも不意打ちに面食らって、呆然とタキオンの顔を見つめていた。タキオンは、事も無げにニヤリと笑って言った。

「二回目だね。…どうだい?心地は変わったかい?」

 田上は、先程の唇の感触を思い出すように、自分の唇を触りながらタキオンに返した。

「…今のは…少し俺の思ったようなキスだった」

 それに、ハハハとタキオンは笑った。そして、田上に手を差し伸べて言った。

「これが私の愛だ。苦楽の詰まったキスだっただろう?君の相手をするのは骨の折れる仕事だから」

「……でも、これだけして、俺がお前の事を拒否したら?」

「拒否したら?…その時は泣くさ。少し罵ったりもするかもしれないけど、その時は許しておくれ。…でも、私は結構君とは良い線行けてると思っているよ」

「……なんで?」

「だって、一回目も二回目も私とのキスはあんまり嫌がらなかっただろう?二回目は猶更。それに、君が好きだったっていう事も聞いたし」

「その事は忘れてほしいんだけど」

 田上がしかめっ面をして言うと、タキオンは笑いながら「分かったよ」と言った。それがあんまり信用できなかったからしかめっ面を崩さないでタキオンを見つめていたら、次にこんなことを言ってきた。

「でも、やっぱり私のキスは嫌じゃないんだろ?」

「…嫌だ」と田上がその質問を嫌がるようにタキオンを睨むと、そこでマテリアルが大声を出しながら外の方に出てきた。

「ちょっとちょっとちょっとタキオンさん!今のは何ですか!田上さんもなんで普通に話しているんですか!…え?…どうなっているんですか!本当にお二人は付き合っていないんですか!」

「うん」とタキオンが頷いてその後に「君、ちょっと声量を控えたまえよ」と言った。

「なんでそんなに冷静でいれるんですか!お二人…!…今凄い事をしましたよ?」

「凄い事ってちょっとキスしただけじゃないか」

「キスですよ!なんであなた方付き合ってもないのにキスしてるんですか!なんであなた方そんなにずぶ濡れなんですか!」

「ああ、そうだね。トレーナー君、君もあんまり雨に打たれると風邪をひくよ。熱を出すよ」

 田上は、そう言われると雨に濡れたところと乾いたところの境目を見つめた。今は、タキオンの足が濡れた方にある。それを辿って今度は真正面で田上とマテリアルを見比べているタキオンの顔を見た。タキオンもこちらを見てきた。あんまり声が出そうにない。また、振り出しに戻ったような気がした。それでも、タキオンは田上の顔を見つめてくるから、田上は迷いながらこう言った。

「俺は…俺は…」

「…もう許してあげなよ。子供の頃の君が言ってるよ。――辛かった。死にたかった。って。その声に耳を傾けてあげよう?今の君はそんなに辛くはないんだから。…幼かった頃の君に言ってあげよう?――もう大丈夫だ、って。きっと辛い事や悲しい事がこの先一杯あるよ。そのどれもで死にそうになっていたら私も君を助けてあげられない時が来るかもしれない。その時に、自分一人の力だけでも生き残れるようにするんだ。もう大丈夫だよ。幼かった君には、今の大人になった君とそれより少し幼い私が付いてる。生きて行けるよ。君は、君が思ってるより軟な男じゃない。ここまで生きてこれたんだ。大丈夫。今日からも生きていけるさ」

 そう言うとタキオンは、田上の手をそっと握った。それで田上はどうしようもない感情に襲われた。もうこの感情は止められない。そう思うと、田上は、掴んできたタキオンの手を振り解いて、そっとタキオンを自分の体に抱き寄せた。タキオンも少し驚いたが、田上に包まれている喜びを感じると、両手で田上の腰のあたりをちょこんと抱き締めた。そして、少し震えている田上に言った。

「私たちは、たった一日限りの関係じゃないだろう?」

 田上は堪えた。堪えに堪えた。口から漏れだしそうな何かを。しかし、それももうタキオンを抱き締めている今、堪える事はできなかった。

「ありがとう」

 そう田上は泣きながら言った。大の男が、恥ずかしげもなく女の子の肩で泣いていた。マテリアルは、それを呆然としながら見つめた。自身の感覚や認識を越えた出来事だった。付き合ってもいない男女がこんなことをしていいはずがないと思ったが、なぜだか止める言葉は思い浮かばなかった。そして、次には深い敗北感に襲われた。この二人を止められなかった自分が酷く惨めに思えた。何にもできない駄目女に思えた。自分の信じていたもの全てが崩れ去った。だから、マテリアルは何も言わずにそこから去った。後には、田上とタキオンだけが残された。バスは、田上たちが話している間に立ち去っていた。ホテルのロビーから漏れる光が、雨に冷えた街の真ん中にいるタキオンと田上を照らした。車はまだ降りしきる雨の中走っている。その雨の中泣いていた田上は、唐突に泣き止むとタキオンの顔を見つめて言った。

「俺も行っていいんだよな」

「いいとも」

 その後にタキオンは何か続けて言葉を言いたそうに目を泳がせたが、田上が動き出すのを待った。田上も、自分から動き出してほしいのだろうなという事をタキオンが願っているのを感じた。だから、それに少し笑みを零すとタキオンの乱れた前髪を整えながら言った。

「お前の事が少し分かってきたよ」

 そう言うと、タキオンは満面の笑みかまたはニヤリ顔かを浮かべ田上に言った。

「それが愛さ。私の事が愛おしいかい?」

「…ああ。……でも、もう少し待ってくれないか?」

「待つ?」

「ああ。まだ、心残りがあるんだ。分からないことがあるんだ。その謎が溶けないと…こう、お前の前に立てないというか何と言うか」

「…じゃあ、私の前に来てくれるつもりはあるんだね?」

 タキオンの言葉に田上は少し目を逸らして躊躇った。そして、次にタキオンのその田上の愛しさに満ちた瞳を見つめると小さく口を開いた。

「ああ…。……お前の前に行くつもりはあるよ…」

 ざあざあと雨が降っている。その雨の重みに打たれるように田上は下を向いた。何だか気が重くなった。また、鬱が再発したのだろうか?だが、タキオンはそんな田上の様子には構わず聞いた。

「まだ、心の整理が付いていないんだね?…私を抱き締めて後悔が生まれる事があるかもしれないと思っているんだね?よろしいよろしい。後悔なんて誰でも持っている物さ。……でも……。どうしたらいいんだろう…」

 タキオンがそう言って考え込んだ。二人とも黙りこくって一瞬の沈黙が流れたが、次に田上がタキオンに呼び掛けた。

「タキオン、見てて」

 田上は、自分の足元を指差し、そして、一歩前に進み出た。これで、田上は乾いたところへと進み出た。タキオンが、雨の下に立ったまま不思議そうにそれを眺めていると、田上が、タキオンから見れば辛そうな笑い、自分の意識では普通に笑ってタキオンに言った。

「これで一歩前に出た。明日も一歩踏み出せれば儲けもんだな」

「…ああ、それはそうだけど……、あんまり辛かったら私に言ってね。私は、いつでも君の味方だから」

「いつでも?……確か、スカーレット君に講釈を垂れた時、タキオンは俺に対して結構怒らなかったか?」

「え?…ああ、私にも君以外に守らなければならないものがあるんだよ。私の世界に居るのは、君一人だけじゃないんだよ。でも、君が新たな世界に挑戦するときや大きな不安に押し潰されそうな時は、私は君の味方だから」

「じゃあ、いつでもじゃないんだな」と田上は揚げ足を取った。この言い方に腹が立って、タキオンは何か咄嗟に言い返そうとしたが、すんでの所でそれは止めて別の言葉にすり替えた。

「そんなに卑屈にならないでくれよ。私を突き放さないでおくれ。絶対に君の味方なんだから。君が助けを求めたら絶対に飛んで助けに行くから」

「本当に飛べるんだったら、今頃俺も母さんに会いに行ってるよ」と田上は小声で恨みがましく言った後、タキオンに向き直って言った。

「まぁ、お前のおかげで少し気が楽になったよ。ありがとう」

 そう言った田上の笑顔が、あまりにも辛そうで消え入りそうで、タキオンはどうしようもなくなった。だから、ホテルの方に立ち去ろうとしている田上の後ろにしがみついて、その歩みを止めた。だが、タキオンはなにも言えずにただ田上の服を握りしめているだけだった。

 それなので、田上は「どうしたんだ?」と聞いた。すると、タキオンはそれに答えて話し出した。

「私は...、君の事が心配だ。突然死んでしまうなんて事しないでおくれよ。君は、私の全てなんだから」

 そう言った後で田上は、タキオンの手を引き剥がしつつ後ろに振り向いて、雨の滴っているその顔を見つめながら言った。

「お前のおかげで気が楽になったのは事実なんだ。今更、お前の事を置いて行くなんて事はしないよ。...ただ、今はその想いに答えられないだけだ。...必ずお前の下に行くだなんて約束はできない。約束してしまうと、約束を破ってしまった時が怖いんだよ。俺は、これまで自分の事を善良で良心的で誠実な人間だと思って生きてきた。だけどな、こういう鬱になって思い返してみると、全然誠実でも良心的でも善良でもなかったんだよ。約束なんて、俺の心の未熟さのせいで破った数の方が多い。傷つけてしまった人も数知れない。きっと皆俺の事が嫌いなんだよ。それで、お前が俺の事を嫌いになってしまえば、俺はどうすればいいか分からない。俺に明日を生きる力なんてない。死にたい死にたいと思って毎日を過ごしてきた。...あの俺が昔見たビデオの人たちもそうだ。多分、死ぬほど辛かったんじゃないかと思う。担当するウマ娘を勝たせてやることができずに、そのまま離れ離れになるだなんて」

 後半の方になると田上はもう半泣きになって、タキオンに話していた。それでも田上は最後の言葉を言うと堪えきれずに、泣き出した。その顔をタキオンに見られたくないから、田上が手で自分の顔を覆い隠すと、タキオンがその手をそっと外しながら言った。

「その涙は自分を許すための涙だよ。なんにも恥ずかしいものじゃない。君は、泣くほど辛かったんだ。その辛さを今消化している最中なんだよ。何度でも泣けばいい。泣くのを我慢してしまうと、また君の中に鬱が溜まってしまう。...抱き締めてあげようか?」

 田上が、必死に鼻水をすすりながら顔を縦に揺らした。それを見ると、タキオンは田上の体をそっと抱いた。田上が、鼻水をタキオンにつけるのを嫌がって身を捩ろうとしたが、手すら動かせない程度にはそっと抱いた。すると、段々と田上も落ち着いていって、涙の後の疲れた声でタキオンに「ありがとう」と言った。

「ありがとう。…お前に会えて俺は…俺は本当に運が良かった。お前が俺に愛を与えてくれて本当に助かった。こんな屑でカスで何の取り柄もなくて自信なんて何一つない俺だったけど、お前のおかげで救われた。これからも少し揺らぐことがあるかもしれないけど、…その時は俺の傍に居て…くれるんですか?」

 最後の言葉の所で田上の頭に『プロポーズ』という五文字が過ってしまったから、少し言葉遣いが変になってしまった。しかし、タキオンはそんな事には構わないで彼女らしい表情で「ああ」と頷いた。

 二人はまだ抱き合っている。そこで、国近が登場した。夕食にいつまで経ってもやってこない二人を探しに来たのだ。

「何してんの?」と何の気なしに自動ドアを開けて外に出てきたは良いが、二人が抱き合っているのが分かると「ああ、ご苦労です」と言ってホテルのロビーに戻っていった。戻って行きこそしたが、田上たちに夕食の事を話さないといけないのでホテルのロビーに残って入り口の方から必死に目を逸らしていた。

 国近が来ると、田上もタキオンも離れた。国近の声が聞こえると、田上も一瞬ドキリと心臓を驚かせたが、あの声を聞いても全く動じなかったタキオンの身に触れているとそれは次第に落ち着いた。そして、体を離すと愛しく可愛げのあるその頬をそっと撫でた。まだ、二人は恋人同士ではない。だが、その様相は恋人そのものだった。そのようだから、手を繋いでホテルの中に入ってきた二人を見た時、言うまい言うまいと思っていたことを国近は思わず言ってしまった。

「お前ら付き合ってんの?」

 そう言われると、田上とタキオンは顔を見合わせた。今の自分たちの関係に名前など付け難かった。しかし、タキオンは口を開いて田上に聞いた。

「付き合っているとはちょっと違うよねぇ?」

「…ああ」

 田上は、国近の前で少し慎重になりながらも、正直に頷いた。そして、続けてタキオンが言った。

「愛し合っているとか?」

「…んん」と今度は躊躇うように恥じらうように田上が頷いた。それに国近が聞いてきた。

「え?…じゃあ、…付き合ってるって事?」

「いや、愛し合ってるって事さ」とタキオンが返した。国近は不思議そうな顔をして、田上とタキオンの顔を交互に見比べ、次いで不可解な事を考えるように眉を寄せた。それから、二三秒して言葉を発した。

「…つまり、難しいって事だな?」

「そうそう、難しいって事だよ。良く分かっているね、君」

 察しの良い国近に嬉しそうな声を出してタキオンは言った。田上もこれ以上国近が踏み込んでこなさそうでほっとした。しかし、ほっとしたのも束の間、国近が田上にこう言ってきた。

「ああ、お前、夕食はどうするんだ?お前らの分があるけど、出てこないから探しに来たんだ。…びしょ濡れだな。どうすんの?」

 当然、二人は雨に打たれながら話し合っていたし、雨に打たれながら接吻をした。だから、びしょびしょである。タキオンの方がまだマシといったところだろうか。それにしても、二人とも椅子に座ればその椅子に水を少々含ませるくらいには濡れていたので、田上がタキオンに言った。

「着替えはあるか?…急いでシャワーでも浴びて着替えよう。ビニール袋を貸そうか?何かの時のためだと思って、袋を持って来てたんだ」

「ああ、それを借りるよ」とタキオンが返すと、話が終わったと思った国近が口を挟んできた。

「じゃあ、着替えてから来るんだな。あんまり時間もないから急げよ」

 そう言うと、国近は立ち去って行った。

 田上たちは廊下を急いだ。しかし、タキオンが田上の手を繋いだままだったので、心だけは急いでいたと言った方が正しいだろう。ゆったりと歩いていた田上とタキオンは、さらに話もしていた。タキオンは、終始ニコニコ顔で話していて、たまに田上を可愛がって遊んでいた。田上は、不満そうな表情を見せたが、周りの人にはそう見えるだけで二人の間では笑い合っていると認識された。

 そんなこんなしているうちに部屋の前に着いた。田上は、部屋からビニール袋を取り、その一つをタキオンに手渡すと注くらと自分の部屋に戻って、シャワーを浴びた。冷え切った体に熱いお湯で最初はびっくりしたが、慣れてくると心地良い温度に感じた。ただ、慣れてきた頃には田上はシャワーをすぐに止めて、着替えて部屋を出た。脱いだ服は、ビニール袋に入れてしまった。

 部屋を出た田上は、タキオンを待つか待つまいかで迷った。今の田上は、できるだけタキオンと居たい気分だった。それ程にタキオンの事が愛おしく感じられた。ただ、ある事に考えを巡らすと、田上も行こうかなという気持ちになった。それは、――タキオンが先に行っているかもしれない、という事だった。特にこれといった約束はしていなかったので、タキオンが先に行っていることも十分にあり得た。そして、置いて行って後でタキオンに文句を垂れられる事も十分にあり得た。その事に考えが至ってしまっては、もうどうしようもないので田上は、レストランに向かおうとした。その時、未練がましく一度振り返るとタキオンがガチャリと扉を開けて出てきた。肩にタオルを掛けて、ほかほかの湿った栗毛が登場した。その栗毛が登場すると、田上は思わず表情を明るくして「あ、タキオン」と言った。その顔を見てタキオンがハハハと笑った。

「君の顔、私を見た途端に笑顔になったじゃないか。今の君の顔の移り変わりを君の友人らに見せてあげたいくらいだよ」

 そう笑われると、ーータキオンと出会えて折角嬉しかったのにそんな扱いされるんだったら俺の喜びを返してくれ、と言わんばかりに田上はぶすっと不機嫌そうな顔をした。それを見るとタキオンは尚の事笑ったが、少しの間笑ったばかりでその後はすぐに田上の横について手を繋いだ。田上も幸せそうにその手を握り返した。

 

 二人は、手を繋いだまま話しながらレストランに入っていった。もう、ほとんどの人が食べ終わっている。席を立って、誰か知り合いと話している人もいた。そんな中で国近が入ってきた田上とタキオンに手を振った。その隣には、マテリアルと二人分の食事があった。マテリアルはもう食事を食べていたが、そこにあったから食べていたというだけで、特段国近と仲良くしている様子もなく、田上が座る分の一席を空けて座って食べていた。マテリアルは、比較的後から来たようで皿の上にはまだ食事が残っていた。それを、あまり浮かない顔でぽつぽつとスプーンで掬って食べていた。

 田上は、マテリアルと国近の間に入って食事をとった。タキオンは、ソラの横に座って食事をとった。すると、ソラがタキオンに聞いてきた。

「田上トレーナーと仲が良いんですね。手を繋いでくるだなんて」

 どうにも不思議そうな顔だった。

 それにタキオンが平然として答えた。

「ん?まぁね、トレーナー君とは、デビュー当初から仲の良い関係としてやらせてもらっているよ」

「モルモット君ですか?…そんな風でしたか?…もっと仲の良さそうに…」

 そこでソラが言い淀むとタキオンが機嫌のよさそうな笑みを浮かべて言った。

「君のトレーナーは、もっと正直に聞いてきたよ。――付き合ってるのか?ってね。今思えばちょっと失礼だな」

「で、付き合っているんですか?」と国近の方をチラリと見やりながら、ソラが、今度は田上も含めて聞いた。国近は恥ずかしそうに笑って「すんません」と言ったが、その隣の田上は答えるのが難しそうな顔をしていた。だから、タキオンが言った。

「付き合ってないよ。ね?」

 最後の「ね?」は田上に向けたものだ。田上はそれに「ああ」と躊躇うように頷いたが、その田上にソラはもう一度聞いた。

「じゃあ、なんで手なんて繋いでいたんですか?私の記憶していた限りでは、手を繋ぐほど仲が良かったような気はしませんでしたが」

 田上の隣のマテリアルは、金色のウマ耳をじっと話に傾けていた。

 そして、田上の質問にタキオンが答えた。

「手を繋いでいない頃よりは仲が良くなったって事さ。君も案外失礼だな。…あんな場所で私に対して宣戦布告をしてきたり」

「宣戦布告?」と今まであまり口を開こうとしなかった田上が唐突に聞いてきた。それに、途中で話を遮られたタキオンが快く説明した。

「ん?ああ、この人がね。ゲートに入る待機をしている時に、――私は恵さんの夢を背負ってきました。なんてことを言ってきたんだよ」

 そう言うと、国近もソラも両名恥ずかしそうに顔を俯かせた。その様子を見やると、タキオンは口元に笑みを浮かべて、続けて田上に言った。

「この人たちも私たちに言えないくらい仲が良いよね。私は、この人たちの方こそ付き合えと良いと思うんだが」

 その途端に国近とソラがもぞもぞと居心地が悪そうにし始めた。チラチラとお互いを見合って、目が合うと国近がソラに言った。

「田上たちなら言ってもいいんじゃないか?」

「ええ?…一人二人知っておいた人がいた方が、いざという時に相談もしやすいですかね?」

「そうかもしれない。…言ってみる?」

「恵さんが田上さんとタキオンさんとマテリアルさんを信用できるというのなら、私は構いません」

「…信用できると思う?」

 国近が不安でに聞くと、ソラがタキオンの方を向いた。そして、もう一度国近の方に向き直ると言った。

「タキオンさんは、どうでしょう?不図した拍子に話しそうな気もします」

 すると、タキオンが当然の如く口を挟んできた。何の話なのかは、まだ全貌が掴めなかったが、自分が口の軽い奴だと思われていることは完璧につかめたからだ。

「ちょっとちょっと、君、私を何だと思っているんだ」

「あんまり秘密を守る人には見えませんね」

「そんなこたぁは分かっているけどね。私だって守るときは守るよ」

「守らないときは守らないんですか?」

「それは、私が守る価値がないと判断した時に話すまでだよ」

「では、守る価値とは?」

「絶対の絶対の絶対、と必死の形相で念押しされた時さ。それ以外は守る価値はないね。そして、君たちが今この場で話すのであれば、このどこに人の耳があるか分からない場所で話すのであれば、私も守る価値のない秘密だと判定するね」

 タキオンのその言葉を聞くと、ソラと国近は顔を見合わせた。そして、しばらく見つめ合ったまま目で語らい合い、それでも問答がつかなかったのか国近が口を開いた。

「先々を考えるんだったら、あんまり秘密にしててもしょうがないんじゃないか?…第一、俺たちは何も悪い事はしてないわけだし」

「じゃあ、…それでもあんまり広めたくはないですよ?」

「それは、俺もそうだ。アグネスさんは、別に自分から盛大にビラを配って広めたりはしないだろう?」

「それをしないと死んでしまうのであれば、君たちの秘密より自分の命の方が大事だからするさ」とタキオンが答えた。

 その言葉に、少しニヤリと顔を歪めた後、国近が言った。

「じゃあ、言うけど、…あんまり人に言うなよ。…俺ら、交際することになったんだ」

 一番驚いたのは、田上だった。「ええ!!?」と目を見開いて、声も一際大きくして信じられないというような大声を出した。だから、周りの人もなんだなんだと田上の方を見た。田上は、自分の手がコップに当たって、それが倒れそうになって慌てたし、周りの人の注目も集めてしまって、恥ずかしそうに顔を赤くした。それから、国近に「本当?」と聞いた。国近は、「本当」と余裕そうな笑みで田上に返した。田上であればこんな顔をできないだろう。田上は、国近という男を今少し尊敬した。いつもはへらへらした男だとばかり思っていた。

 その驚き様に国近は呆れつつ言葉を続けた。

「ライブの後になんやかんやあったんだ。それで、別に一緒に居るのが嫌いじゃなかったから、付き合うことになった」

 マテリアルも驚きの顔で、国近とソラを交互に見比べていた。だが、タキオンの方はと言うと平然そのもので、特に興味もなさそうに「へー」と頷いた。その平然さに国近は苦笑しかけたが、田上が質問をしてきたのでその顔を崩してその話を聞いた。

 田上は、戸惑いながらこう言った。

「え、…抵抗とかないの?…相手は、十七?十八歳だぞ?」

「特にないね。元々、俺も嫌いじゃなかったから、その内その内俺も何かどうしようかと思っていた所だった」

「そんなんじゃ、欲しいものも取り逃がしますよ」とソラが口を挟んできた。これは、タキオンが田上に向けるような楽しい目つきだった。それを呆然として見ながら、田上は一度黙って、口に手を当て考え込んだ。これでは、今の自分とタキオンの関係が滑稽に思えてきた。チラとタキオンの方を見てみた。タキオンは、今ある話に興味がないので黙々とご飯を食べていた。それをじっと見ていると、タキオンも田上の方を見てきて、それで目が合った。タキオンは、栗毛色の髪の毛を揺らして「どうかしたかい?」と言うように首を傾げた。田上は、それに答えるために首を微かに横に振った。それでも、田上がタキオンから目を離そうとしないので、タキオンも少し意地になって田上と見つめ合い続けた。すると、国近とソラは面白可笑しそうにその見物を始めた。急に始まった睨み合いは、国近たちが見始めるとあっけなく終わり、田上が鬱陶しそうに国近の方に「何?」と聞いた。それに、国近は言う予定ではなかったが、不図思い浮かんだことを言った。

「あれだ。あの、あいつらには言うなよ。気が付いたら教えてもいいけど、気が付いてないんなら敢えて気付かせる必要もない。説明するのが面倒くさかったら、俺の方に丸投げしてくれれば何とかするよ」

「ああ、オーケー」と田上は返して、夕食の続きを食べ始めた。

 それからは、タキオンと田上がゆったりと話すのを国近たちが可笑しそうに見たり、国近たちも交えてこのレースの振り返りをしたりした。マテリアルは、早々に食べ終わると、田上に「私はもう部屋に戻ります」と告げて帰ろうとした。その時のマテリアルの様子が何かおかしかったから、田上が「大丈夫ですか?」と聞いたが、マテリアルからはただ「大丈夫です」としか返答を得られなかった。まるで、田上の再来である。タキオンは、その様子を見て難しそうに眉を寄せた。

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