ケロイド   作:石花漱一

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二十、走れウイニングライブ③

 その後は、変わらず楽しそうに話しながら四人で食事を終えた。特に何を言うこともなく、ただタキオンと田上は軽く話して、国近とソラも軽く楽しく話した。それぞれ二人とも色々の事情の違いはあれど、同じようにお互いを見つめていた。

 タキオンと田上が先に席を立って、部屋の方に戻った。国近とソラは、まだ少し話したいと言って席に残った。席に残ったと言ってもレストランが解放されている時間は、もうそれほどないが、二人は限界まで一緒に話したかったのだろう。田上も同じ気持ちだったが、タキオンが同じ気持ちなのかどうかは推し量れなかった。二人は、ただご飯を食べ終わり話すことも段々と無くなってきたので、席を立っただけだ。その後は、手を繋いで廊下を歩いた。田上は、微妙な心持で視線をふらふらと辺りに彷徨わせた。しかし、目新しい物など特になく、ただのホテルだ。――もっと一緒に居たいと言ってもいいのだろうか?田上の心にはその葛藤が芽生えた。そして、チラとタキオンの顔を見た。二人は、黙って前を見て歩いていたのだが、タキオンが自分を見てきている目に気が付くと「何だい?」と聞いた。こう聞かれると田上は弱った。恋人ではないのに、恋人のようなことは言いたくなかった。これには、大きな矛盾、つまり、もうすでに恋人の様に手を繋いでいるではないか、という事が含まれるのだが、田上はこの状況に慣れてしまっていて、タキオンと手を繋ぐことを極々自然な事だと考えていた。それなんだけども、田上は、タキオンに向かって「もっと一緒に居たい」などと言うのは恋人がするようなことである、と考えているから、些か滑稽でもあった。

 弱った田上は、タキオンの顔を見つつ正面に視線を泳がせつつ、それでも逃げる方法が思い浮かばなかったため正直に躊躇いながら言った。

「お前と……一緒に……居たいかなぁって…」

 そう言うと、田上はてっきりタキオンがニヤニヤ顔で目の前にいる無様な男の頬でもつついてくるのかな?と思っていたが、実際の所は、彼女はただ口元に笑みを浮かべたばかりで田上にこう言った。

「いいよ。私も、そうしたかった。…だけど…」

 ここでタキオンが言い淀んだので、田上が聞いた。

「だけど?」

「…だけど、マテリアル君も少し気にならないかい?…私にはあの人が落ち込んでいるように見えたんだけど」

「…まぁ、俺にもそう見えたよ」と田上は言った。田上が、自分がそうであると感じた様に、マテリアルの目も虚ろで鬱を漂わせていた。

「だろう?だから、私もちょっと彼女と話をしておきたいんだ。君と楽しくお喋りしている間に隣の部屋で首でも吊られてたら困るだろう?」

「…そうだけど…、お前一人で話すつもりなのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンはむっつりと黙り込んで少しの間考えた後、こう言った。

「私一人の方が、君が居るよりあの人も話しやすいと思うんだけどどうかな?」

「どう?…それは俺が男だからって事?」

「それもあるしそれもないけど、多分、あの人結構君の事見下していると思うんだよ。鬱でヘタレで何にもできないダメダメ。…私は、そんなこと思ってないよ。ただ、君が言ったようなことを羅列しただけさ。それに、あの人は自分の気に入らないことに対して結構敏感じゃないか。私たちの関係だったり、違う部屋に入ることだってね。だから、君がもし私たちの部屋に入ってきて話すのであれば、その事が気が散ってしょうがないと思うんだよね」

 タキオンがそう言い切ると、田上は少し悲しそうな顔をした。

「じゃあ、お前と話せるのはもっと後か?」

「事によっては今日は話せないかもしれないね」

「そうか…」

 田上は、悲しそうな顔から寂しそうな顔に変わってタキオンを見つめた。すると、それにタキオンは困ったように笑った。

「そんな顔をしないでおくれよ。…なんだか、君、大分想いが表情に出るようになっていないか?前は、あんなに思い詰めた顔をしていたのに」

「…そんな顔をしてたか?」と田上が言うとタキオンが「してたしてた」と返した。そして、会話はとつとつと進んでいって、それは部屋の前に着くまで続いた。部屋の前に着くと、タキオンと田上は名残惜しそうに自分たちの手を放して「ばいばい」と別れた。それから、タキオンはマテリアルと相見えた。

 

 タキオンが部屋に入ってくると、マテリアルは重そうにタキオンの顔を上げた。そして、「ああ、タキオンさんでしたか」と暗い声で言った。部屋も暗かった。カーテンを閉め切り、電気は一つも点けず、ただ手に持っているスマホの白い光だけがマテリアルの顔を照らしていた。部屋の中には、タキオンが開けたドアによって光が入ってきた。

 タキオンは言った。

「こんなに暗い部屋で何しているんだい?」

 そうすると、マテリアルは「ああ」と擦れた声を出して言った。

「電気を点けるのを忘れてました」

 そして、マテリアルは立ち上がり部屋の電気を点けにタキオンの近くまで歩いてきた。タキオンは、黙ってそれを見つめていて、マテリアルが元の場所へと戻って行くのも黙って見つめていた。マテリアルは、また自分の座っていたベッドに戻ると座ってスマホを見つめようとし始めたが、微動だにしないで自分の事を見てくるタキオンの存在に我慢がならなかったのか、顔を上げて言った。

「…何か用ですか?」

「…いや、君が少し心配でね」

「心配なのは田上トレーナーの方ではなくて?…行けばいいんじゃないですか?待っていらっしゃるんでしょう?あなたの愛するトレーナー君が」

「そうさ、待っているよ。だからこそ、少し早めに終わらせたいのだけれど、…何から話せばいいかな?」

「何にも話すことはないですよ。あなたには関係のない事です」

 マテリアルは、タキオンをどうしても突き放したいようだったが、タキオンはそれには構わず、自分のベッドに歩み寄って座り、マテリアルの方を見ながら言った。

「君、トレーナー君が私のせいで自信を失ってしまったと言った時、大阪杯でも彼に勇気づけられなかったら一緒に考えてくれると言ったよね?」

「ええ、言いました。言いましたけど、結局あなたが解決してしまいましたね。その愛する人のキスによって。分かりましたよ。田上トレーナーの目が大分優しくなっていました。今もその人相の怖さは変わりませんが、一二か月あの人の顔を見てみれば表情の在り方が変わったことくらいは分かります」

「なら、私も分かる事があるんだけど、今の君の表情はつい今朝までのトレーナー君のものと同じだよ」

 タキオンが、真剣な顔で正直に言うと、マテリアルは押し黙ってしまった。だから、タキオンは続けて言った。

「別に、責めようってんじゃないし、殺そうってもんでもないけど、…少し気になるんだよ。…私たちがくっつく事がそんなに嫌かい?君にも少しばかり相談もしただろ?応援してくれる気持ちにはならないのかい?」

「…なれません。だって、交際していないのにキスだなんて、不倫みたいなのと一緒じゃないですか」

 マテリアルのあまりの言い分にバカバカしくて、タキオンも思わず苦笑してしまったが、その事について丁寧に聞いた。

「なんでそう思ったんだい?不倫っていうのは、既婚の人が別の異性の方に寄っていくことだろ?トレーナー君は、正真正銘の二十五歳独身男性だ。それと私がキスだなんて問題あるまい。…第一、彼は私の事を受け入れてくれた」

「それが問題なんです。その事柄について責任ってものがないじゃないですか。あの人は、もう大人なんですから責任というものが何たるかは分かっているはずです。それなのにあなたと『付き合う』ということもせずに逃げ道を作っているんですよ?」

 これには、タキオンも反論に少し時間を要した。マテリアルの言っていることが強ち間違いではないという事が分かっていたからだ。だからと言ってタキオンが田上のことを庇わないわけにはいかなかった。

「…トレーナー君もまだ心の蟠りが溶けなくて苦しんでいるんだよ」

「苦しんでいる事に託けてあなたを弄ぼうとしているんですよ?」

「トレーナー君はそんな人じゃない」

「そんな人かどうかはどうでもいいんです。議論すべきことは、予想のできない『未来』の事なんかではなく『今』です!この時です!この時であれば、あの人がどんな人間か分かるでしょう?鬱で人を傷つけて、痛めつけて、あなたに辛いとまで言わせるクソ野郎です。それだけは絶対に変えられません。未来なんて分かりません。絶対にあなたの方には靡かないですよ」

「それは、バスから降りた時に二人で話した。それでも、私は彼を愛すると誓った」

 二人の議論は白熱してきた。

 マテリアルは、反論した。

「それは、あなたが希望のある未来を描いているからでしょう?あの人の少し優しくなった目に騙されたからでしょう?もしかしたらこんな未来が私の手元に来るんじゃないか。そう思ったんでしょう?そんなものは一切来ません。あの人の顔を見れば分かります。あの人は、元々そういう人間なんです」

 マテリアルが、そう言い切ると不気味なほどの暗い沈黙が舞い降りて辺りを包んだ。タキオンは、顔を俯かせていたが、マテリアルはそれを見ると少し怖くなった。必死な程にタキオンが怒りを抑えているような感覚があった。それでも、タキオンは努めて冷静な口調で言った。

「君は、私のトレーナー君を何と心得る?私の愛を否定した挙句、私のトレーナー君までバカにしようというのかい?」

「いや、私は…」とマテリアルはごにょごにょ言ったが、何も聞き取れなかった。そして、タキオンはそのまま続けた。

「君は言ったよなぁ?私たちの成長だか何だかを見てみたいって。その為に田上トレーナーの補佐になりたいって。君みたいな美人が来て私も心躍ったものだけど、今の君は私たちの邪魔をしたいだけなんじゃないのかい?」

 マテリアルは、タキオンの質問に何も返せずにもぞもぞと体を動かした。タキオンは、暫くマテリアルが返事をするかどうか待ってみたが、何も返さないという事が分かるとまた話を続けた。

「国近君とソラ君が付き合うそうだね。…君は、それについてはどう思った?」

「……付き合うんだったらそれでいいです」

「本当かい?私たちが付き合っても君は本当にそう言うのかい?心から私たちに対しておめでとうと言えるのかい?」

「……はい」

 マテリアルが、目を泳がせながらそう言うと、タキオンは一つ疲れたようなため息を吐いた。そして、言った。

「トレーナー君の次は君だよ。類は友を呼ぶって本当だね。それに、どっちかが上がればもう片方が下がるっていうのも。…君ばっかりはどう向き合えばいいのかが分からない。……君は、トレーナー君の事は尊敬しているかい?」

「……はい」

「…私にはそうは見えないけどね。今しがたクソ野郎と言ったばかりじゃないか」

 タキオンの言葉にマテリアルは何も言い返せなかった。ただ、俯くばかりで暫くの沈黙が流れた。それから、もう一度タキオンが疲れた様にため息をついて言った。

「君、友達は?」

「…?…昔はいましたけど…」

「今は?」

「今は…、連絡は取っていません」

「なら、連絡を取ってみればいいじゃないか。…その人とは親友なのかい?」

「…いえ、一番良く話をしたというだけで向こうが私の事を親友だと思っているのかは分かりません」

「分からない?……困ったな。…友達以外に何か吐き出せそうな人は居ないのかい?恩師とか家族とか、そういう愚痴の相手になりそうな人は?君、見た限りだとお喋りはそんなに嫌いじゃないんだろう?」

「ええ…」

「すると、トレーナー君とは相性は最悪なわけだ。そして、今も友達がいないわけで…。トレセン学園の職員の中でそういうサークルみたいなコミュニティはないのかい?」

「…ありますけど…、私はあんまりそういうのには疎くて。…サークルって何をすればいいんですか?」

「そりゃあ…、私もサークルなんて入ったことはないけど、何か皆でわちゃわちゃするんじゃないのかい?…サークルによっても色々特色が違うかな?…まぁ、私が思うに今の君は世間が狭すぎるよ。私たちでしか世間は成り立っていないだろう?そりゃあ、私たちが不倫しているだなんて偏見が生まれるわけだ。だって、実際は不倫なんてものじゃないんだから。…この議論は置いておこう。…私ね、ちょっと君と相性の良さそうな人に心当たりがあるんだ」

 マテリアルが、タキオンのした提案を聞いて不思議そうに目の前の顔を見返した。それと目が合うと、タキオンは少し眉を上げてお道化た仕草をして言った。

「保健室の先生の赤坂っていうやつさ。君と雰囲気は似ているし、喋るのもまあ好きだろう。嫌いだなんてことはないはずだ。保健室にはひっきりなしに人が来るからね。そいつらをいつも上手くいなしてるから、別に性格が悪いわけでもない。私との話も合っていたんだよね。最近は話していないけど。…どうだい?話してみるかい?」

「え?……友達は、少し欲しかったりもしますけど、タキオンさんと話の合う人ですか?」

「まぁ、奴は誰とでも話は合うんじゃないか?そもそも気の良い奴だから、相槌も上手い」

「…でも、私、これと言って話すこともありませんよ?」

「話すことは、見つかるんじゃないか?…遊びに行ってみるかい?私と君と赤坂君とトレーナー君も混ぜて。…トレーナー君は嫌がりそうだな。まぁ、彼には後で聞いてみるとして、君はどうだい?」

「えぇ?…どこに遊びに行くんですか?」

「ショッピングモールとか?動物園?水族館?テーマパーク?」

「ああ…、まだ予定が定まるのは先のようですね。…分かりました。少しその赤坂君って人と話してみたくなってきました」

 マテリアルがそう言うと、またある種の沈黙が流れた。タキオンが、何か言いたげにマテリアルの顔を眺めた。しかし、何か躊躇いがあったようだ。中々言えずにいる。その様子を認めると、マテリアルはタキオンに質問をしようとしたのだが、言葉が途中ですり代わってしまって、こう言った。

「赤坂君は女の人ですよね?」

「え?ああ、そうだよ。赤坂花織(あかさかかおり)っていう名前だよ」

 それから、一息つくとマテリアルようやく先程しようとしていた質問をした。

「それで、タキオンさんは私に何か言いたいことでも?」

「…いや、……君の付き合う付き合わない問題は結局の所解決していないから、今からトレーナー君の部屋に遊びに行っても良いものかと思って」

 そう言われると、マテリアルは急に目付きが険しくなって、タキオンの方を見なくなった。そして、考えながら言った。

「……私は、…確かに孤独感でストレスが溜まっていたことも事実です。それを、二人に少しぶつけていたのも。……でも、今も考えは変わりません。田上さんが、あなたとのキスの責任を取ろうとしていないことに変わりはありません。いくら愛し合っていると言っても、逃げ道を用意して向き合う愛なんて聞いたことがありません」

「それは、三人で話し合おうと言いたいところだけど、トレーナー君は追い詰めれば追い詰める程、今度は私から離れていこうとするからね」

「それは、愛とは言わないんじゃないですか?最愛の人を放っておいて逃げ出す男がどこにいるんですか?」

「それが、彼の難しい所だよ。私の事を好きには間違いないんだろうけど、それ以上の苦しみが彼の背中には乗っかっている」

「でも、勇気付けてあげる事ができたんでしょう?」

「案外そうとも行かない。確かに、落ち着いたよ。でも、今の所は、だよ。いつ彼がまた鬱気分になって死を考え出すかは分からない」

「その時に彼を救ってあげるためにタキオンさんは傍に居てあげるんですか?」

「そうだよ?」

 すると、マテリアルがタキオンの顔をじっと睨んで言った。

「どうもそこのところが分かりません。愛って自分を犠牲にして相手に尽くす物なんですか?華やかに彩られている、十代、二十代、三十代を捨ててまでもあなたは田上さんに尽くすんですか?」

「三十代になっている自分を想像なんてできないけど、そう悲惨な事でもないだろう」

「いや、分かりませんよ?その頃には、もうタキオンさんが待ち切れなくて結婚しているかもしれません。もしかしたら、トレーナーが限界になって自殺しているかもしれません。例え、結婚していたとしても、その結婚生活はタキオンさんが想像したものじゃないかもしれません。田上さんは、呑んだくれになってタキオンさんに毎日暴力をふるっているかもしれません。それとも、結婚もしないで引きこもりになって、それに献身的に尽くしているだけの都合のいい人になっているかもしれません。幸せな未来を一つ描くだけなら簡単ですが、不幸せな未来は幾つも幾つも描けます。きっと、昔友達だった人も今はこうなっているかもしれません。旦那と上手く行かずに離婚した人も普通にいるでしょう。愛ってそれでいいんですか?献身的に尽くすのが愛ですか?」

「いや、違う。相手を思いやるのが愛だ」

「じゃあ、思いやりって何ですか?今の日本社会ではなんとでも言えますよね?老人が重そうな荷物を持っていたら手伝ってあげましょう。それが思いやりです。困っている人がいたら助けてあげましょう。それが思いやりです。…思いやりって愛なんですか?こんなに無造作に愛が置かれていていいものなんですか?」

「いや、世間一般に囁かれているのは思いやりではないよ。ただのレプリカさ。本物の思いやりと言うのは、世間一般や君の言うことに当てはまらない。想像力を持ったものだ。私は、今日もその思いやりにあった。ライブ会場に向かうバスでの事だ。トレーナー君が居なくて私は暇だった。それで、ぼんやり外を眺めていたら、後ろから呼び掛けられた。後ろを見ると、国近君が自分のスマホを持っていて、それを私に渡してきた。見ると、スマホはトレーナー君と繋がっていた。これが思いやりだ。国近君は、後ろから私の事を見ていてきっと考えたのだろう。――田上が居ないから、アグネスさんが暇しているんだろうな、と。だから、私とトレーナー君を繋げてくれた。これが思いやりなんだよ。分かるかい?一概に電車で老人に席を譲る事を思いやりという訳じゃないんだよ。ただ、義務的にそれをするのであればそれは思いやりでも何でもなく、ただの義務だ。つまり、思いやりとは相手の事をしっかりと見て観察して、自分のやれそうな事を考える事なんだよ」

「それでは、国近さんはあなたに愛を持っていたと?」

「愛なんて一概にこれなんてことは言えないさ。友愛があれば性愛もあって親子愛もある。私は、トレーナー君にこう言った。――愛とは、良いことばかりではなくて、悪いこともあって成り立っている、と」

「…?何が言いたいんです?」

「私たちの事に君が口を挟む余地はそんなにないってことさ。私は、彼の傍にいると決めたんだ。決めたからには、それを実行して解決へと導く。どんな手を使ってもだ」

「……いや、分かりません。それでも分かりません。やっぱり何かが足りないんです。悪い事もあって成り立っている、と言いましたね?…それがどうもしっくりこないんです。悪い事の何が良いんですか?悪い事があってもトレーナーに固執する理由は何ですか?いくら好きだから愛しているからと言っても、自分の幸せな生活を捨ててまで愛する人と傍に居る必要はないでしょう?…タキオンさんは、自らを言葉で縛っているんじゃないですか?――彼の傍に居ると決めた。愛が、悪い事もあって成り立っていると考えたのは、自分の行為に対する正当性を見つけたかったからなのではないですか?」

 マテリアルの言葉に押されて、タキオンは動揺した。そして、少し目を辺りにちらほら動かした後、反論した。

「…別に、固執しているつもりはない。…ない。…ないんだけど、今の君の言葉のせいで心が揺れた。…いや、……愛ってなんだ?」

「あなたが先程言ったじゃありませんか。愛は、良い事も悪い事もあって成り立っている、と」

「違う。…それは、…ただ意味を広げたものってだけだった。…私が彼に向けているこの感情は何だ?性交をしたいから?種の存続?私は、それだけの為に生まれてきたのか?」

「私には、そんな事は分かりませんよ。ただ、言っておきますけどね。タキオンさんは、私に偉そうに講釈垂れてきましたが、なにも完璧な存在なんかじゃありませんよ。タキオンさんだってまだ十七年十八年しか生きていないのだから、世間を広くは見渡せてはいません」

「なら、いつその完璧な存在になれるんだ!…私は、トレーナー君の傍に居ていいんだろうか?…参った。なにか分からなくなってきたぞ。生きる意味ってなんだ…?」

 タキオンが、段々段々と背を丸めて俯いていくと、マテリアルが言った。

「とりあえず、田上トレーナーの下に行ってきたらどうです?待っていらっしゃるんでしょう?生きる意味も愛も人も定かではない今、私たちは再出発するしかないんです。それまで、好きな人の所でお喋りでも楽しんできてもいいでしょう」

「ああ、…そうだね」

 タキオンは、あまりに動揺した様子でそう答えた後に、少しふらふらしながら部屋から出て行った。マテリアルは、その後ろ姿を心持ち心配そうに眺め、タキオンが部屋から出て行くと、一区切りついたため息を吐いた。それから、風呂に入る準備をした。熱々の熱湯で頭を冷やしたい気分だった。

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