タキオンは、田上の部屋のドアを軽くこんこんと叩いた。すると、すぐに田上が出てきて、タキオンの顔を見ながら言った。
「マテリアルさんは、大丈夫そうだったか?」
「ん?…ああ。私たちが付き合う付き合わないには難色を示していたけど、とりあえず、一悶着越える事はできたよ」
「そうか…。ありがとう。本来は俺も参加すべきだったんだろうけど」
「断ったのは私だ。それが一番正しかった。そして、この事についてあんまりあれこれ言わないでくれ。…私は少し疲れた。…休ませてくれ」
タキオンがそう言うと、田上は快く自分の部屋に入れた。そして、タキオンが「君と一緒に寝ながらベッドで語らいたい」と言うと、しかめっ面をしつつも少し口角を緩ませ頷いた。
二人は、田上の父の家に帰ったときの様に、タキオンの頭の下に田上の腕枕を敷いて、向き合って寝転がった。そして、その上に布団を被さった。今夜は、少し気温が低かった。布団も存分に被った方がいいだろう。そう思って田上がタキオンの頭の辺りまで布団を被せると、タキオンがようやく笑みを作ってふふふと嬉しそうに笑った。田上は、その髪を梳く様にそっと撫でた。
「俺もお前の為にしてやれることがあればいいんだけど…」
悩ましげにそう言うと、タキオンがこう言い返した。
「私は、十分にして貰っているよ。こうして撫でて貰っているし、布団にも入らせて貰っている。…欲を言えば、君がこうして私の事をずっと好きでいてくれたら嬉しいよ」
「…そうしたいのは山々なんだけど、今一自分というものが定まらないんだよな。俺は、なんでお前の事が好きなのか分からない」
田上がぼそぼそと呟くように喋る言葉にタキオンがピクリと耳を澄ました。その様子を田上が感じて、タキオンに聞いた。
「何かあったのか?」
「……いや、…私もつい今しがたそれが分からなくなったばかりだよ。私が君を好きなのは愛が為と思っていたけど、それだと理由にならないんだ。愛って、…愛って、君の為にどう働くんだろう…」
「なるほど。…お前もまだまだ子供なんだな」
「君も子供だよ!…私もだけど。…知識がないのに走り出そうとしている。何か少し怖いんだ。愛ってものに決着をつけようとすると、知らないものが絡みついてきて私を引き留める。私は、意味のないことを追い求めて走り続けているのかもしれない」
タキオンがそう言った後は、外からの雨の音に耳を澄ませるような沈黙が続いていたが、その実、田上が聞いていたのはタキオンのタキオンらしい呼吸の音だった。その音を聞きながら、田上はタキオンの髪を撫で続けた。すると、タキオンも少しは落ち着いてきたようでこう言った。
「君は、…私が傍に居ていいんだよな」
「できればそう願うけど、見捨てたいんだったらいつでも見捨てていいよ。タキオンが、引き留めてくれなかったら、そのくらいの男っていうことは決まっているから」
「嫌だよ。私は、君と離れることができないんだ。…ああ、もしかしたら、私は君に依存しているのかな?」
「どうしてそう思ったんだ?」
「私は、…私は、もう君無しの生活は考えられない」
「でも、もし俺がお前の事を好きじゃなくなったら、思いっきり泣いて思いっきり罵ってやるって言わなかったか?」
「それも今となっては分からない。強がりだったかもしれない。だって、考えてみると君がいなくなったら私はどうすればいいのか分からないんだ。まあ、もう走る事を志すのはやめるだろう。トレセンからは去っていくだろう。だけど、家にも帰れないよ。母さんも父さんも帰れば温かく迎えてくれるだろうけど、もうあそこは私の居場所じゃない。ならどうすればいい?私は、どこぞの会社に勤めてしがない、家に帰れば酒を飲んでテレビを見るだけのオフィスレディとして生きるのか?そんな中で新たなパートナーを見つけるのか?いや、こんな私を好いてくれる人なんて誰一人居ないんだ。…君だけだよ。稀代のマッドサイエンティストを愛してくれたのは。君と居るときだけなんだよ。未来を見通せるのは。私は、いつも悪い未来からは目を逸らして今日までやって来た。そりゃあ、君にフラれる未来を少しは想像した事があるけど、あんまり踏み込む事はしなかった。それが起きたらどうするかなんて考えもしなかった。いつも、すぐに幸せな未来に切り替えるんだ。君と同じ家に住んで、同じ時を過ごして、夫婦みたいな会話をして、子供がたくさん生まれて、その子供たちが成長するにつれ私も老けていって、君と一緒に過去に感慨を抱くんだ。私の脳裏にあるのは、そんな未来だ。…君と居る以外の未来が見えない。マテリアル君がさっき言ったよ。――望む未来なんて来ないかもしれませんよ。私は、それにいつも――彼を愛すると誓ったからそのようになる、と答えてきたんだ。答えてきたんだよ…。でも、今日はこんなことも言われた。私が、――愛は良い事も悪い事もあって成り立っている、と言ったら、マテリアル君は――それは自分の行為に対する正当性を見つけたかったからなのではないですか?と。君が私の事を見ようとはせずにそれでも尽くすのを見ると、マテリアル君は心が痛むそうだ。在りもしない未来を想像して私が君に尽くす、または固執しているのを見れば、私が先ほど言った愛の成り立ちも自分の不都合の正当性を示すものに見えるそうだ。…もし、私が依存的に君と付き合っていた、いや、ほとんどそうかもしれない。…依存的に付き合っていたとして、その依存から立ち直ったとしよう。私は、君に愛なんてなく、立ち去ってしまうかもしれない。その時に君を一人にしたくない。…そうだ。君を一人になんてしたくないんだよ。当初の私の目的はそれだった。後悔をしたくなかったんだ。それが、いつの間にか愛の話に擦り替わっていた。自分本位になってしまっていた。…どうしてなんだろう?」
タキオンが、不思議がると田上が悲しそうに言った。
「行くのか?」
その声を聞くと、タキオンは考え込んでいた目を上げて、同じ布団の中に居る田上を眺めた。その目は、行かないでほしいと訴えかけていた。その目を見ながら、タキオンは言った。
「…君のその目が私を引きずり込んだのかもしれない。…行かないさ。行くつもりはない。…だけど、ちょっと同じ布団に入るのは止めるよ。健全な付き合いをしよう」
タキオンも自分の心に半信半疑だったが、ふっと田上への執着が薄れたような気がした。ただ、田上はそうも行かなかったようで、タキオンが布団から出て行くのを呆然として見つめた。そして、ベッドの端に座ったタキオンと田上の目が合うと、田上がそっと目を逸らした。
タキオンは、その田上に声をかけた。
「…君が一人が怖いのは分かっているけど、私だって生きなきゃいけないんだよ。勿論、君の事は好きだよ。でも、君の心の事と私の好意は別々にしなきゃならなかった。君の依存心と私の好意が交錯してしまうと飲み込まれそうになるんだよ。私だって、心にちょっと引っ掛かっているものがある。家族の事だ。奴らとどう向き合って生きればいいのか、未だに決着が付いていない。だから、君に縋ろうとした。けど、それじゃダメなんだ。一人で生きていく力は身につかない。OLになったって、どっかの誰かの妻になったって、過去の全てを清算して生きて行かなきゃならない。マテリアル君がさっき言ったよ。生きる意味も愛も人も定かではないから、私たちは再出発をしなければならない。出発なんて何回でもするさ。生きる意味も一緒に考えてあげるから、自分の耳に都合のいい話は忘れて一緒に歩こう?私は、君への想いも一旦忘れるから、生きる力を身に着けよう?」
すると、田上が目を逸らしたまま言った。
「忘れないで…。行かないで…。離れないで…。俺を愛するって言ったじゃないか…」
「愛するって言ったけど、君のわがままの通りにはできないんだよ。いつか、お正月に君の家に帰ったときに私に言ったろ?お前の父さんじゃないって。君も十分わかっているじゃないか?言葉としては、君の身に染みついているんだよ。今こそ、その言葉を頭の中で考える時だ。私は、君の依存対象ではないし、君の母さんでもない。君の母さんはもう死んでしまった。君の記憶の中にしか居ないんだよ。それを私で埋めようとしないでくれ。母さんの思い出を大切に保管しておいてくれ。もう君の前に二度と母さんは現れる事は無いんだから」
「…嫌だ。タキオンが良かった。俺を愛して…。もう、どこにも行く当てはないんだ。父さんだって、俺の事を愛してくれちゃいない。もう、楽しかったあの頃は無い。帰りたい。帰りたい。俺を連れ戻してくれ。あそこに帰りたい。あの公園に。もう、限界なんだ。許してくれ。俺を取り去ってくれ。消えたいんだ。もう何もかもいらないんだ。あの家にいつものように帰って「ただいま」って言いたいんだ。殺して。…お願いだよ。俺を殺してくれ。この先に幸せなんて見えない。もうダメだ…」
そう言うと田上は、涙を流して身を縮めた。タキオンから必死に顔を逸らして、見えない何かに向かおうとした。瞼の裏にある懐かしい景色へ。しかし、タキオンはそれを許さなかった。強引に田上の体を仰向けにして、その上に乗った。田上は、それでも自分の手で顔を覆おうとしたが、その手もタキオンが掴んで食い止めた。田上は、涙を流しながら「やめてくれよ!!」と叫んだが、タキオンはそれでも止めなかった。代わりに自身の涙を田上の顔に滴らせてこう言った。
「やめないさ!!生きて行かなきゃならないんだ!!それがこの世に生を受けた者の使命なんだ!!恨むんなら、神様でも私でも母でも父でも恨むがいい!!それでも、君を残して世界は回っていく!!君の母さんが死んだって世界は回るんだ!!ちっぽけな男一人を残して去って行くことなんて誰でもできる!!見捨てられた?そうさ!!見捨てられても君は生きているんだ!!人間は皆一人だよ!!過去に縋っている生きている人が大半だよ!!いつか気が付いた時にはその人は多大なる空しさに襲われるだろう!!君は今気が付いた!!私だって、過去に縋りたい気持ちは良く分かる!!…けどね。けどねぇ。…今私の目の前に居て涙を流している憐れで可愛い私の愛しい人は誰なんだい?……君だよ。君なんだよ。いつだって幸せな事ばかりとは限らないさ。君のお母さんが逝ってしまえば、享受したかった愛が誰かに奪われることもある。恨み事なんて数えきれないんだよ。でも、…でも、君であれば生きていけるんだよ。他の誰でもない君だ。君が生きてさえいれば、心底笑えるようになる。今度は、大丈夫だなんて軽い言葉は言わない。君を許すような言葉は一切吐かない。君がその手で掴み取るんだ。私が手伝っちゃだめだ。それは、君にしか分からない事だから。君が、本当の宝物を見つけた時、心底笑うことができるんだよ」
タキオンがそう言ってから、田上の額に浮いている汗を自分の手でそっと拭きとった。田上は、自分の顔に伸びてくるその手に少し怯えつつもされるがままに汗を拭きとらせた。そして、タキオンが額の汗を拭いて二人の目と目が合うと、田上が言った。
「でも、生きるって言ったって何を目標にすればいいんだよ。もう俺には何もないんだよ」
「別に目標なんて作らなくたっていいさ。その時、その時でやりたい事をすればいいんじゃないか?」
「衝動的に生きろっていう事か?」
「いや、違う。自分に後悔のない生き方を選ぶんだ。怒りに身を任せて人を殺めたり、絶望に打ちひしがれて自殺を図ったりしないような生き方をするんだ」
「でも、衝動的に生きても俺は人は殺さない」
「それは分からないよ?衝動的っていうのは予想もつかないことをするんだ。時に人を傷つけるつもりがなくても傷付けてしまう時があるだろう。そういう時に、後悔しないような生き方をするんだ。勿論、どうしようもない時だってあるさ。急に目の前に殺人鬼が現れる事を誰が予想できる?急に飛行機が墜落してしまう事を誰が予想できる?私には、予想ができないね。その時は、仕方がない。けれど、人を殺してしまって、自分を殺してしまって後悔しない生き方をするんだ。この自分を殺すというのは、肉体的にだけでなく精神的にも当てはまる。いつか年老いて死ぬ間際になって、今まで自分を殺して生きてきたことを知る人もいるだろう。そういう人にならないために私たちは努力しなければならないんだ。…だから、私は君を見捨てる事はできない。それは、君自身を殺すことだけでなく、自分すらも殺してしまうという事が予想できるからだ」
「義務なんだろ?」
「義務?…そんなんじゃないさ。誰かにああしろこうしろと言われて君の傍に居るわけじゃない。ただ、後悔しないために君を助けるんだよ」
「俺を助けた後は?どうせ、そのまま放って捨てるんだろ」
「そんな事を考えているうちは、まだ放って捨てないさ。君が放って捨ててもいい事が確認出来たら、私無しでも生きていける事が確認出来たら、放るでも何でもするさ。…そして、私が君の隣に居るのも、愛しているからだけじゃない。私自身が君の行く末を想って後悔しないためだ。だから、今は君の布団に居ることができない。許してくれ。少し振り回してしまった」
「振り回したって言ったって…、お前が俺にキスをしてきたことは無くならないぞ。どう責任を取るつもりなんだよ」
「それも……君に優しさがあるのなら、許してほしい。身から出た錆びな事に変わりはないが、今どうこうする術がない。全ては、君の事が片付いてから責めてほしい。罪は受け入れるから」
タキオンにそう頼まれると、田上の視線は一旦タキオンの後ろの天井を見て、そして、またタキオンの顔を見た。その次に、抑えられている腕と体が気になって「降りろよ」と言った。タキオンは、「ああ、ごめん」と言って、腕を抑える事は止めたが体の上から降りようとはしなかった。だから、田上はまた「苦しいんだけど」と言った。タキオンは、田上の顔を見たまま動こうとしない。何か迷うことがあるようで、それはあまり表には出さなかったが、とにかく上から動こうとしなかった。それで、田上が振り落とそうともがいたら、タキオンがようやく口を開いて言った。こっちもこっちで苦しそうだった。
「…君に色々と言ってみたけど、それでも頭にあるのは家族の事だ。君と家族になれたらと私は思う。…私の至らないところだろう。私も解決しないといけないんだろう…。…父さん母さんか…。どう向き合えばいいんだろう?」
「そんな事知るか。俺はもうお前の事なんて嫌いだ。どっか行け」
田上が、憎しみ込めてそう言うと、タキオンの顔がもっと苦しそうに歪んだ。
「君、本当にそう思っているのかい?衝動的に言葉を発していないかい?私が、本当に離れていったら後悔するのは君だろう?」
「いいよいいよ。このくらいの屑は一回落ちぶれて落ちるところまで落ちたほうが身の為になるんだ。もう俺の事は放っておいてくれ」
「私を困らせないでくれよ。私が君を手放さないことは君が一番知っているんだろう?頭の中で感じていなくとも、無意識のうちに君は感じているはずだ。私が、君を助けたいって事を。…それをあんまり利用しないでくれ。こっちも苦しいんだ」
「苦しいんだったら、さっさと手を放せよ。どこかに放れよ。お前が居なくとも、生きていけるって事を身を持って証明してやるよ」
「それで、君が苦しみの狭間で生きるというのなら私はもっと苦しい。…どうにも疲れる。君と向き合っていると精神を食われる。巨大な化け物に挑んでいるみたいだ」
「今度は、化け物呼ばわりか。ああ、そうだよ。化け物だ。お前なんて一飲みにしてやるから、さっさと部屋に帰れ。俺は、もうトレーナーを辞める。金輪際、人に教える立場になんてならん。お前ともこれっきりだ」
「ええ…?なんでそんな事になるんだよ」
「もううんざりしたからだよ。もうダメだ。高校の頃から積み上げてきた物をぶっ壊してゼロから始めてやる。それがいい。そっちの方がいい」
そして、田上はタキオンの顔を不意に見つめた。だが、それはすぐに止めて続けて言った。
「お前との連絡先も全部消してやる。全部だ。着の身着のまま。保険証も運転免許も要らない。財布も要らない。ここから逃げてやる。大人なんて真平だ。だから、どけよ!」
田上はもがいたが、当然ウマ娘の力には敵わない。それどころか再びタキオンに腕を押さえつけられて前の体勢に逆戻りとなった。だが、腕を抑えつけた田上の顔を見たまま何も言わない。なので、タキオンの事を多少睨みながら、田上は言った。
「なんだよ!」
「…いや、…私の連絡先を消させるわけにはいかないよ。例え、君がどこかに行ったとしても私とぐらい繋がってもらわなきゃ。着の身着のまま飛び出していくって言うんなら、せめて財布とスマホくらい持っていってもらわなきゃ。一人じゃさすがに寂しいだろ?時々は私が話し相手になってあげるよ」
「……止めないのか?」
「そりゃあ、男の船出を止めるっていうのは野暮なもんだろう。君が行くと言うのなら、私は君を見送るしかないんだけど、それでも、時々は便りを送ってほしいんだ。元気だよっていう事をみせてほしい」
「俺は…俺は……、…やっぱり行かない」
「おや!そうかい。それは嬉しいね」
そう言いながらタキオンは顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑みをしかめっ面で田上は眺めた後、タキオンとチラチラと目を合わせながら言った。
「でも、トレーナーはやめる」
「おお?どうしてだい?」
「もう続けていく気力がない。リリーさんとも契約はできない。俺は、大人じゃない。我儘な餓鬼だ。我儘な餓鬼は、一つの事に熱中できない。お前の事もだ。お前を巡ってどうせ俺は不祥事を起こす。もしかしたら、手を上げてしまうかもしれない」
「なんで手を上げるんだい?」
「餓鬼だからだ。つまんないやつだからだ。力で人を支配したいようなバカだからだ。お前だって、ウマ娘じゃなかったら振り落としてた」
「ただ、私はウマ娘だった。それは君も分かっているだろう?」
「ウマ娘だからって暴力を振るっていい理由にはならない。俺はバカだ。いつでも誰かに暴力を振るいたくて、それを押し殺して今日まで生きてきた。だから、そんな奴は学校には居ない方がいいだろう」
「でも、君は暴力は振るわないと思うけどね。冷静な人ならば。…だって君は私がいつか割れたカップの欠片で手を怪我した時、本気で心配してくれたじゃないか。君の優しさは本物だよ。君が冷静であれば」
「冷静じゃない奴に冷静である場合の話をしてもしょうがないだろ」
「そこまで自分を見つめる事ができたら冷静まであと少しなんじゃないか?」
そこでタキオンが微かに口角を上げて微笑みかけた。そんな顔をされると、田上はそれに反抗しようという気持ちがムラムラと湧いて出た。
「そんなら冷静になんてなりたくない」
すると、次に部屋のドアがコンコンとなった。二人とも一瞬今までの事に想いを巡らすことを止め、ドアの前に立っている主にどう反応しようか迷った。そこで、今まで田上を見るために俯いていたタキオンが不意に目を上げて時計を見ると、もう消灯の時間だった。それで、タキオンには恐らくドアの前の主がマテリアルだろうという事の見当が着いたから、「どうぞ!」と声を上げた。無論体勢は変えていない。田上の動きを封じたままである。タキオンの呼び声を受けて扉がゆっくりとがちゃりと開く音がする。田上は、タキオンの顔を――信じられない、やめろという目付きで睨んだが、タキオンはただ不敵に笑い返すだけだった。
ドアの前に居た人はマテリアルだった。マテリアルは、扉の中からタキオンの声で「どうぞ」と言われたので恐る恐るドアを開けた。何があったのだろうか?と考えたからだった。ゆっくーりとドアを開けて金色のウマ耳を次いで髪の毛を覗かせた。そして、部屋の中を覗けるようになるまでゆっくりゆっくりとドアを開けた。目が覗いた。と思ったら、ドアが開くのが止まった。今、目の前で起こっている情報を瞬時に整理することができなかった。だから、小さくタキオンに問いかけた。
「タキオンさん。……何してるんですか?」
「え?トレーナー君が私の連絡先を消すとか言うから押さえつけていたんだよ。…あんまり外に話を聞かれたくないからそこの扉は閉めておいてくれ」とタキオンが答えると、田上が即座に口を挟んだ。
「もうお前となんて幾ら電話をかけても口は利かない。だから、連絡先なんてあったってしょうがない。俺は家に帰るんだ」
その言葉を無視してタキオンはマテリアルに言った。
「この通りだ。トレーナー君がちょっと話を聞こうとしてくれない」
「お前と話すことなんて何一つない。俺はトレーナーを辞める。これだけで十分だ」
「私は、それじゃあ十分じゃない。君が、家に帰った後で後悔するだろうという事が容易に想像できる」
そう言った後にマテリアルが部屋に入ってくる足音が聞こえたので、田上が怒りの標的を急激にマテリアルの方に向けて「入って来るな!」と怒鳴った。だが、田上が予想したような反応をマテリアルは取らなかった。田上としてはてっきり自分の言葉に怯えてくれるものだとばかり思っていたが、そんなことはなく、田上に怒鳴られるとマテリアルはキッと睨み返して怒鳴り返した。
「私はタキオンさんを連れ戻しに来たんです!楽しく仲良く時間を過ごしていると思ったら、なんですか?これは!」
これには田上の方が怯えたから、タキオンが田上の方を見つめながら苦笑して「そんなに怒鳴るのはやめてくれよ」とマテリアルに言った。ただ、マテリアルの憤りはそれでは収まらなかった。
「そんな風にしてたって事はどうせ田上さんもタキオンさんに怒鳴っていたんでしょ?それなら私が怒鳴ったって一緒です。タキオンさんは優しすぎるんですよ。このバカよりももっと優しいんですよ」
「そんなんじゃないさ。私は後悔したくないからトレーナー君の傍に居るだけだよ」
「それを優しいって言うんですよ」
「優しいとは言わないさ。優しいっていうのは万人に対して思いやりの心を持てる人の事だ」
「なら俺は違う」と田上がぎらぎらとした目付きで言った。
「俺は、もうお前にだけは優しくはできない。もうダメだ。クソ野郎のバカ野郎のアホ野郎だから、女の子一人にだって優しくはできない」
「私は、十分君は優しいと思うんだけどねぇ」
「そんな事は無い。俺がお前をどれだけ傷付けたと思う?どれだけ酷い言葉を投げかけたと思う?そんな男の事をお前は善人と呼べるのか?呼べない!呼べる奴は気違いだ!」
「それじゃあ、私は君の中では気違いかもしれないね。君は十分善人だよ。優しいという言葉に限らず、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てるし、私を大切に扱おうとしてくれている」
「大切に…?扱ってないだろ?」
「努力は伝わるよ。さっきの言葉だって私に酷い言葉を投げかけたと感じているからあんな言葉が出てくるんだ。根っからの悪人なら酷い言葉が何たるかも分からないだろう。君は人の心を十分に想像できる善人だよ」
タキオンがそう言うと、田上の顔が段々段々とくしゃくしゃになっていって、その両の眼から涙がぽたりぽたりと零れてきた。田上は、自分自身でもこの事に驚いた。自分の涙は、もう枯れ果てたものだとばかり思っていた。涙が顔を伝って零れ落ちていく。それを感じながら田上は震えた声で言った。
「お前は、なんで俺の事をそんな目で見つめてくるんだよぉ。……俺は、本当に良い奴じゃないんだ。もう、どうしようもできないくらいに心の汚れた救えない奴なんだよぉ」
「救える。救ってみせる。未来はある。君はその手で掴むことができる。長く困難な道になるかもしれないけど、君の周りには大勢の人がいる。マテリアル君だって君の事をバカと言ったかもしれないけど、君が前に進むというのなら味方になってくれるはずだ。それだけじゃない。君の父さんだって母さんだって祖父母や昔の友人たち皆君の味方だ。君を知っている人で味方になってくれない人なんていない。君が助けを求めれば、自ずと味方は増えていく。トレーナーじゃなくたっていいから、男じゃなくたっていいから、進め。私も勿論君の味方だ。君がどこかへ行きたいと言ったらどこへだって連れて行ってあげるよ」
「………海に行きたい」
「今かい?夏とかじゃなくて」
「今だ。大阪杯の後に海に行こうって言っただろ?行こう。二人で海を見に行こう」
「いいね。賛成だ。…今は春休みだから私はいつでも行けるよ?どの日にする?」
「水曜日にしよう。人がいない海岸線を見に行こう。…お前の事が好きだ。…腕を解いてくれ」
「ああ、ごめん」と言ってタキオンが体も起こしつつ腕も自由にしてあげると、田上もまた上半身を起こし始めた。タキオンは、自分が邪魔だと思って急いで田上の体から降りようとしたが、田上がそれを肩を掴んで止めた。なんだ、と思って田上の方を見やると、ふっと覆い被さるようにその体に包まれた。幸せの匂いがタキオンの鼻腔を突き、その低い声がタキオンの鼓膜を震わせた。
田上はタキオンの体を抱き締めて言った。
「競走を引退したら一緒に過ごそう。お前の事が好きだ。…愛してくれてありがとう。」
「……それは、…プロポーズって事でいいのかい?」
タキオンが嬉しさを必死に押し殺した声で聞いた。
「…ああ。お前さえよければ、俺の…俺の愛する人になってほしい」
「ああ、いいとも」
タキオンの顔は、今や信じられないようなもう有頂天真っ盛りのような形容しがたい表情になっていて、その声も嬉しさは抑えきれていなかった。田上は、タキオンの体を抱くのを止めてその顔を見つめた。タキオンも見つめ返した。そして、田上はその唇にそっと自分の唇を重ねた。数えられない時をタキオンは過ごしたかのように感じたが、実際の所はほんの少しの間唇を重ねただけだった。それから再び田上はタキオンの顔を見つめて言った。
「後悔はしない。お前の事が好きだった。ずっとずっと前から」
「どのくらい前から?」
タキオンが嬉しそうに聞いた。
「いつからかは分からない。ある時、不意にお前にずっと傍に居てほしいと思った」
「私は、気が付いたのはここ最近さ。だけど、これまでの君との生活が無かったら、君を好きになるって事はなかっただろう。つまり、君と過ごした時があって自ずと君を好きになった。私からも言うよ。愛してくれてありがとう。これからもよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
田上も少し嬉しそうに微笑んだ。その顔を見ると、タキオンももっと微笑んで田上を再びベッドに押し倒したが、今度はタキオンも一緒に倒れてその体をぎゅっと田上に抱き締めていた。田上は、ベッドの後ろの壁で頭を打ち付けるんじゃないかと思って咄嗟に声が出たが、案外そんなことはなく、田上の上に覆いかぶさって抱きついたタキオンも頭を打ち付けなかった。ただ、タキオンはこの体勢は好みではないらしく、田上の体を下がって下がって自分の顔と田上の顔が同じくらいの高さにくるように合わせた。そして、田上の体の上で寝転がった。
その時にマテリアルが言った。
「私は何を見せられているんですか?タキオンさんを連れ戻しに来たんですけど。…公開プロポーズを見に来たんじゃありませんけど」
二人はマテリアルの事をすっかり忘れていたから、その声が聞こえると驚いてそちらに顔を向けた。マテリアルは呆れた様にもう一度言った。
「タキオンさん、帰りますよ。もう消灯の時間を越えてしまったんですけど」
「ああ、帰るよ。…トレーナー君。いや、圭一君って呼んでもいいだろ?」
「圭一?ああ、いいよ」
「でも、圭一君は少し長いな。…圭君?」
「どちらでもどうぞ」
「圭一君…圭君。…圭一君かな。そっちの方がいいや」
そう言うと、タキオンは田上の体の上から起き上がってベッドから降りた。そして、マテリアルに「先に行ってていいよ」と言ってから、ベッドの上で起きようとしている田上の方に向かっても言った。
「圭一君、明日も明後日も明々後日もその次の日もその次の次の日も私は、この気持ちが収まりそうにないよ」
「俺もだよ。ありがとう」
それから、田上は部屋からタキオンを見送るために立ち上がった。「行ってていいよ」と言われたマテリアルはまだ部屋に残って二人の動向を見守っていた。田上とマテリアルの目が合った。そうすると、田上の笑みがさっと引いて、大人同士の真面目な顔となった。
その顔にマテリアルが言った。
「浮かない顔ですね」
「…ええ、こうするのが正解だったのかが分かりません。…けど、後悔はありません。タキオンに言わなかったらいつかどこかで後悔していた。それは分かり切った事だった」
「それを伝える事ができてよかったです。……頑張ってください」
そう言った後にマテリアルは後ろを向いてドアの方に向かった。いつも後ろ頭に一つ結んでいた金色の髪が、歩くたびに揺れていた。それを見送ると共にタキオンが動き出したので、田上も一緒に動いた。タキオンは、「また明日ね」と言うと部屋から出て行き、隣の部屋へと戻った。田上は、タキオンと小さく手を振り交わしてホテルのドアを閉めた。
ドアは、ガタンと鳴って閉まった。その音が一日の終わりを告げた。ふーと息を吐いて田上はベッドに寝転がった。思い返せばまた頭痛のしてくるような日だった。タキオンに色々と酷い態度を取ってしまった田上を、なぜタキオンが許してくれているのかは分からなかったが、今はそれがとにかくありがたかった。鈍い頭の痛みが田上を襲った。――今日は疲れた。そう思うと、目を瞑った。一二回スマホの鳴るような音がしたが、動く気がない田上はスマホを取って確認しようとも思わなかった。