早朝、田上は寒さで目が覚めたので、急いで布団を自分の体の上までたくし上げて再び眠りに着いた。その時に夢を見た。何とも言い切れない夢だった。
タキオンが居た。一緒に料理を作っている夢だった。幸せそのものと言えるだろう。タキオンが卵焼きを摘まもうとするのを叱ったり、一緒に人参を切ってあげたり。そして、それを作り終わると子供に弁当を持たせて、幼稚園へと送り出した。保母さんを先頭に長い列を作っている小さな子供たちの一番後ろに田上たちの子供はついた。田上とタキオンは、外に出てそれに手を振った。子供も手を振り返していたが、早々のうちに曲がり角を曲がって見えなくなった。
田上とタキオンは、一緒にニコニコと笑い合いながらまた家の方に戻った。田上は、玄関で一度躓いた。それにはあまり気を留めずに進んだ。リビングに着いた。すると、田上が今までいた家のリビングとは違うリビングだということに気が付いた。それに気が付くと、どんどんと家の様相が違うことに気づく。あんなところに達磨の置き物なんてない。こんなところに家族写真は置いていない。そして、家の中の寝室や廊下を嫌だ嫌だと思いながら見ていき、再びリビングに戻った時、田上は信じられない光景を見た。タキオンが、違う男の人とのんびりお茶を飲みながら会話を楽しんでいた。田上が、その部屋に入って行くとタキオンは言った。
「君は誰だい?」
「俺だよ!」と田上は必死になって訴えかけたが、一向にタキオンは自分の事を思い出そうとしない。仕舞いには、男の人が田上の方に詰め寄ってきた。
「誰なんだお前は!ここは俺の家だぞ!俺の家族に手を出さないでくれ!」
その男の人は、昔見たアニメのキャラクターで、優しく子煩悩の父親だった。田上は、その人に追い出された。外に投げ出される間際にタキオンの「大丈夫かい!?」という声が聞こえたが、田上に向けたものではなかった。そして、地面に這いつくばった田上の前で扉は大きく音を立てて閉まった。家は、田上を脅かすように巨大にそびえ立っている。
「俺の家だったのに…」
その家を見つめながら、田上は呟いた。リビングの窓からは、タキオンとあの人が楽しそうに話しているのが見えた。すると、不意にカランと音を立てて田上の前にナイフが落ち、急に人が現れた。どうやら、その人が田上の前にナイフを落としたようだ。その人は、三度笠を被ってボロボロの衣服をまとった流浪の侍の格好をしている。腰には、鞘に収めた刀をぶら下げていた。
その侍は、田上の前にしゃがみこむと言った。
「それで指を落とせ。そのナイフで。お前の罪を一つ一つ落とすんだ。お前にしかできない事だ。殺せ。やれ」
田上は、言われるがままにそのナイフに手を伸ばした。まず、人差し指だ。じわりじわりと食い込んでいくナイフを声も出さずに見つめていた。すると、家のドアが開き、男の人が「何しているんだ」と言って田上の足を蹴ってまた引っ込んでいった。タキオンが「やめなよ」という声が聞こえたが、田上は自分のナイフから目を離さなかった。そして、人差し指を終えた。次は中指だ。今度は、侍が話しかけてきた。這いつくばって自分の指を切っている田上の上で、ぼそぼそと訳の分からない事を言った。大いに怖かったが、それでも田上は自分の中指を切り終えた。その次は、薬指である。これは、目の前に子供が出てきた。誰だか知らない子供だ。そいつが、「遊んで遊んで」と田上にせがんできたがそれを無視し続けていると、駄々をこね出して田上の顔を蹴りつけ始めた。田上は、「やめろよ!!」と叫んでその子供を追い払ってからまた自分の薬指を切り始めた。そして、薬指が切れた。今度は、小指だ。そこで家の方が騒がしくなったので田上は家の方を見た。見た途端にドアが開いてタキオンが田上の上に投げ出された。優しかったあのキャラクターは今は悪役へと変貌を遂げていた。タキオンを投げ出した悪役は、下品な声で笑っていた。それにむかっ腹が立ったから田上は立ち上がるとそいつの目の前まで行き、心臓を一突きした。すると、悪役は断末魔の悲鳴を上げて溶けて消えた。タキオンが「ああ!!トレーナー君!!」と叫んで逃げて行った。まだ、悪役の事を旦那だと思っているようだ。田上は、逃げて行ったタキオンの後を追おうとしたが、玄関先でしゃがみこんでいた侍がその手を取って止め、言った。
「お前には、まだ罪がある。早く小指と親指を落とせ」
田上は、侍には逆らえず泣く泣くまた腹ばいになって指を切り落とした。小指を切った。すると、家を囲う塀の影からタキオンがひょいっと顔を出して「トレーナー君」と呼び掛けた。そして、子供も幼稚園から帰ってきた。田上は泣いて喜んだが、侍がその喜びに水を差すように「まだ親指がある」と言った。田上は、タキオンと子供に囲まれて指を切ろうとした。そのナイフを持った手にタキオンが手を添えた。田上がそれに驚いて、タキオンを見上げるとその顔をにこりと微笑を作って言った。
「要は、野菜を切るみたいなもんだろ?」
その冗談に田上も顔に微笑を浮かべた。タキオンが、声をかけた。
「一、二の三で切るからね。一、二の、三。それ!」
最後の指が切れた。そこで夢が終わった。後の事は何も出てこなかったが、ただ唯一、侍が笑っていたのは分かっていた。
そして、田上は起き上がるのだが、その前に田上が寝付き始めた頃に話を戻そう。ただ、今度は田上の話ではなく、タキオンとマテリアルの話だ。タキオンとマテリアルは、寝る前に少し話をしていた。大したことを話すでもなく、マテリアルが手鏡を見つめて美容のなんちゃらをしている時だ。ぽつりぽつりと話をしていて、その間にタキオンは田上に一二個メッセージを送ったりもした。これが、田上の部屋でスマホが鳴った原因だ。しかし、田上がスマホを取らなさそうだということが分かると、タキオンはメッセージを送るのを止めた。そこらへんでマテリアルもやる事を終わらせたので、同じときくらいに二人は布団についた。タキオンが暗すぎるのは嫌だと言うので、薄明りは付けていた。そんな中二人は眠りにつこうとしたが、ここでマテリアルがちょいと気になってタキオンに声をかけた。
「…タキオンさん」
「…んん?」
少し眠そうにタキオンが返事をした。
「タキオンさんは、田上さんと話して生きる意味は分かりましたか?」
「生きる意味?……私は、圭一君と居れたら楽しいけど…、まぁ、後悔しない事なんじゃないのかい?」
「では、愛は?」
「愛も……。多分、愛は私の言ったとおりだったと思う。確かに君が指摘した時は冷静ではなかったけれど、私の考えに外れはなかった。愛の美しさを知っている人は、愛は美しいなんて簡単には言えないはずだよ。その裏で様々な事をしてきたから。…だからこそ愛は美しいんだけど、やはり単純化して見てしまえば、愛というのは――美しい、というただ一つの意味しか残らない。簡単じゃないんだよな、愛って」
「…ふふ、有難いお言葉です」
「んん?今笑ったかい?まさか君、私の事をバカにしている?」
「いえ、そんなんじゃありません。ただ、そう言っている時のタキオンさんはトレーナーの事を思い浮かべているのかな、と思うと少し可笑しくて。……そういうキャラではなかったじゃないですか。田上さんはあなたのモルモットだったんでしょう?」
「…やっぱりバカにしてるな。いいけど。……まぁ、キャラでなかったというのも間違いではないな。私も二転三転して変わっていっている最中だし。…研究を再開してみようかな?」
「研究ですか?」
「…いや、以前研究をやめた時は、もう次から次へと出てくる自分の研究課題にうんざりして止めたんだ。少し義務だったところもあるのだろう。あの時の私には余裕がなかったと見える。…今ならば、少し研究を楽しめそうな気がするんだ。可能性なんて追いたい時に追うのが一番だろうしね」
「そうですね」
「……君は、もう私が心配しなくても大丈夫かな?」
「え?…ああ、あれは少し気が立っていたのもありましたよ。…けれど、良かったでしょう?あの人がああやって素直に言ってくれた方が良いんですよ。あの人も後悔はないって言ってました。タキオンさんも後悔はないでしょう?」
「後悔はないさ。後悔はないけど、君にそれを言われるとなんだか腹が立つな」
「でも、嬉しかったでしょう?」
「嬉しいよ。嬉しいからもうやめてくれ。動揺が凄い」
そこで、マテリアルがはははと声を出して笑った。その後に、外の雨の音を聞いてからマテリアルが言った。
「でも、タキオンさんももう将来安泰か…。引退したら結婚するんでしょう?」
「結婚?…するよ。プロポーズ?って聞いたら、ああって答えたんだから」
「いいなー。私の所にも白馬の王子様が来てほしい」
「白馬の王子っていう柄じゃないだろ、圭一君は。どちらかと言うと、農村の真面目な男という感じじゃないかな?」
「言い得て妙ですね。......それで、農村の男に超高速のプリンセスが恋に落ちたということですか。今時の話ですね。冴えない男の人が王女様と恋に落ちるだなんて」
「あんまりバカにするなよ。その男の人は村じゃ人気者で、なんで結婚していないのか分からないくらいなんだぞ」
「なんで結婚していないんですか?」
「知らない。本人が結婚したがらなかったんじゃないか?」
「じゃあ、王女様がその心を溶かしてあげないといけないんですね」
「ああ、ようやっとそこら辺まで漕ぎ着けたところだよ」
「……超高速のプリンセスも恋をするんですね」
「するさ。当たり前だろ?私を何だと思っているんだ」
「人の事なんて興味のない、トレーナーを実験動物として扱っていて、その癖、その実験動物と仲の良い科学者」
「…概ね間違いでもないな。今はその実験動物の事が好きになっただけだ」
「…面白いです。その実験動物を引き留めるために涙を流しながらチョコを食べさせていたんですから」
「君もあんまり口が過ぎるな…。もう寝よう。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
そう言うと、二人はこれきり話さなくなり、部屋は雨の音だけが聞こえるようになった。その内、タキオンも薄明かりが邪魔になってきたから消した。すると、部屋の中は本当になにも感じなくなった。瞼を照らしていた薄明かりも消え、雨の音も静かなクラシック音楽となってタキオンを眠りへと導いた。ここで、タキオンも夢を見た。田上と散歩をしている夢だった。
麗らかな午後の陽の光を浴びて、静かな住宅街を散歩していた。すると、そこに自転車が突っ込んできた。二人の仲を引き裂こうと画策したのかは知らないが、タキオンは田上を守るためにその自転車を蹴倒して助けてやった。田上は、「ありがとう」と言って、散歩を続けた。
暫く歩くと、目的地である公園に辿り着いた。公園には誰も居ない。タキオンたちの為に作られた公園だ。その中の一つのベンチにタキオンたちは座った。手を繋いでいたから、春の温かさが手を滲ませて伝わってきた。こちらも田上と同様に幸せそうだった。楽しく話をした。このまま何も無いかに思われたが、人の見る夢の常としてやはり不思議な事が起こった。
ベンチに座って楽しく話をしていると、突然に公園の遊具の影から男の人が現れて、タキオンたちの方に近づいてきた。タキオンはその人が怖かった。その人も取り付く島もないような怖い人相をした人だった。タキオンは怯えて田上の手にしがみ付いた。田上もあまり頼りにならなさそうな顔つきでその人に挑んでいたが、一応はタキオンを庇ってその人と対峙した。
田上は、迫ってくる男の人に聞いた。
「何の用ですか?」
すると、男の人はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべるばかりで、何も話そうとはしなかった。男の人は、フードを被っていた。だから、顔は影がかっていて見えづらい。しかし、口元や不気味に光るその目だけは見えていた。
男の人は、尚も近づいてくる。田上の制止も聞かずにタキオンの耳に触った。そして、一つ二つともぎ取った。次にタキオンの尻尾を掴み、引き抜いた。案外何ともなかった。男の人は、タキオンからウマ娘としての部分を引き抜くと公園から叫びながら去って行った。
「俺は自由だーー!!」
そこで夢は終わった。起き上がればタキオンが人間の女性になっていた。なんて事はなく、ただ、その夢だけが頭に残った。その夢について、タキオンはこう考えた。
――私は、ウマ娘でいるのが嫌だったのだろうか?
思い当たる節は一つだけあった。田上との未来だ。自分が競走を続ける以上は、田上との結婚生活も少しだけ遠のく物となる。ウマ娘の現役の期間は長くはない。大概が二十の前半辺りで辞めてしまう。それ程長くはない。その事はタキオンの頭の中に在ってはいたのだが、この夢を見るに無意識下ではそれを長いと感じているようだった。それによって、あろう事か自身がウマ娘であることに葛藤しているからあんな狂人が出てきたのだ。無理な事を覆せる程のイカれた奴が。
この夢の問題点は、タキオンもその夢に賛成であると言う事だ。現役なんてさっさと降りて、田上の横で暮らしたかった。これは、きっと母の通ってきた道だった。三年走れば、それ以上グダグダする事もなく、ひょいと現役の座から退いてタキオンを産んだ。自身を見てくれていたトレーナーであるタキオンの父と一緒に。ただ、これはタキオンの一存で決めるにはどうにも難しい。走るのは、楽しくもあったが、どうにもどうにもタキオン一人じゃ考え切れなかった。だから、タキオンは起き上がるとすぐに着替えて田上の部屋へと向かった。
田上は、あの夢を見て起きた後は普段通りに朝の支度をして、部屋から出て行った。朝食までまだ少しあり、ホテルの外を散歩しようと考えた。雨は、田上が起きる前に上がっていた。田上は、桜がどうなっているのか気掛かりだった。昨日の雨は、中々に強かったので散ってしまったのではないかと思った。しかし、土曜日に行った公園に行ってみると、桜はまだ咲いていた。地面に落ちていた花びらは湿って汚く見えたが、上の桜はまだまだ咲き誇っていそうだった。
その薄桃色の花びらを見て歩いて行くうちに、タキオンと座ったベンチが見えた。それを見ると、どうしようもなく胸がざわついて、自分の下した決断が良かったものかどうか怪しくなり始めた。田上は、物事の判断基準が分からなくなり、その混乱から逃げ出すようにそのベンチの前を走って通り過ぎた。どうしようもなく嫌だったが、二つ三つ離れたベンチに田上は座り込んだ。その位置からはまだあのベンチが見える。それからふいと目を背けて、田上はベンチの上で背を丸めて俯いた。指を組んで膝の上にそれを置くと、地面を一心不乱に見つめ始めた。何も分からなかった。タキオンとキスをしたことが正しい事なのか。タキオンと添い遂げる事を決めたのが正しい事のなのか。それを黒い沼のような頭の中で田上は考えようとしていた。
タキオンは、田上の部屋をコンコンと叩き、十数秒待って、もう一度叩いて誰も出てこないとなると、そのドアを開けて中に入った。田上は、ちょっと出て帰ってくるつもりだったので鍵を閉めていなかった。それだから、タキオンは中に入れたわけなのだが、当然中には誰もいない。がらんとして電気の付いていない部屋を見渡してタキオンは、一つ鼻を鳴らした。まだ、朝食の時間ではない。なので、ロビーあたりで何かしているのかと見当をつけて、タキオンは田上の部屋から出て行った。
しかし、ロビーの方にも田上はいなかった。ロビーに置いてあるテレビの中でニュースキャスターがピーチクパーチクと話しているだけである。今度は、タキオンは田上がトイレに出ていてその時だけ留守だったのじゃないかと見当をつけた。それで、田上の部屋をノックもせずに開けて入ると、まだ誰もいない。全く以て出ないような便で無ければもうそろそろ帰ってきていてもおかしくないはずだ。
タキオンは、――圭一君はどこにいったのだろう?と首を傾げながら、次にホテルの受付の方に向かった。人探しは、人に聞くのが一番だ。ちなみに、文明の利器であるスマホはベッドの上に置かれているのを確認した。
タキオンは、受付の人に「渋い顔の男が出て行かなかったかい?アグネスタキオンのトレーナーの田上って人なんだけど」と聞いた。受付の人は、目の前のアグネスタキオンという大物に苦笑しながら、「出て行くのを拝見いたしました」と言った。「どこに行ったのかは?」とタキオンが聞くと、受付の人は苦笑をそのままに「存じ上げておりません」と答えた。タキオンは、「ありがとう」と言って出入口の方に立ち去って行った。
ここまで来たら、タキオンのいくところは一つだった。昨日、足を運んだ公園だ。それ以外であれば、もうタキオンは諦めるつもりだった。通りには、出勤途中の人がぞろぞろと歩を進めている。その人の波を見つめながらタキオンは、公園へと歩いた。誰もタキオンには気が付かない。皆、前に歩くのに一生懸命である。各々スーツを着て髪型を整えて、真面目な顔をして歩いている。その人たちの間を通り抜けると、タキオンは公園へと足を踏み入れた。
公園には、ちらほらベンチに座って桜を見ている人やスマホを眺めている人が目に着いたが、一際目を引いたのは地面を見つめてピクリとも身動きをしない田上だった。その状態からタキオンには田上の心が察することができた。恐らく、つい昨日の出来事であるタキオンと田上の関係性の変化についてだろう。タキオンは、どうしてやろうかな?という風に鼻を一つ鳴らして、田上の座っているベンチの方へと歩いて行った。
田上は、ぐるぐると考えがまとまらずにじっと地面を見つめていた。そこで、隣にタキオンが座ってきたから驚いた。その拍子に顔を上げると、タキオンの赤い目が自分を見つめているのが分かった。分かりはしたが、あんまり嬉しいものではなかったから、タキオンから距離を空けるため、ベンチの上でタキオンのいる方と反対の方向にちょっとずれた。すると、タキオンも田上の方にずれて近づいてきた。田上は、困ってしまって無意識のうちに口に手を当てタキオンから顔を逸らした。タキオンは、それを覗き込むように身をかがめて言った。
「何か悩んでいるようだね?言ってごらん?未来の妻に隠し事は不要だ」
その途端に田上は立ち上がった。自分でもなんでそんな事をしたのか分からなかった。しかし、考える間もなく自分の体は、タキオンから逃げるように公園の芝生周りの道を歩き始めた。タキオンもその事に多少驚きはしたが、難なくその横について一緒に歩き始めた。田上は、競歩にも近い早歩きで歩いていたが、タキオンはウマ娘だ。所詮、成人男性の競歩なんて恐るるに足らなかった。普段、田上と歩くときはなるだけ歩みを遅くしているのだ。タキオンは、自分の歩きたい速度で歩きながら、田上に話しかけた。
「桜は、まだ綺麗だね。君も桜が気になってここまで来たのかい?」
田上は、何も答えなかった。答えなかったが、これはどうにもタキオンを振り切ることができなさそうだと考えると、唐突に近くにあったベンチの方に体の向きを変え、それに座った。タキオンは、半笑いになりながら「なんでそんなに私を振り切ろうとするんだい?」と聞いた。田上は、仏頂面を崩さずに、タキオンの方を向かずにこう言った。
「……お前と結婚するなんて…、俺には…俺には考えられない」
「どうして?」
「だって、……お前は俺の教え子だ。ただの女子高生だ。未成年だ。そんな奴と結婚だなんてバカげてるだろ」
「私はそうは思わないけどね。大体、昔の人は十六で結婚する人も居たそうだから、そこの所に大した意味は無いと思うのだけれど。しっかり考えることができて、子供も産める年齢になったら結婚なんてどうぞご自由に、という感じじゃないのかい?」
「…それだよ。未来が俺には描けない。子供を作るつもりがあるのか?」
田上は、恐る恐る聞いたが、タキオンはこれまでのように難なく「勿論」と答えた。その答えを聞くと、田上は頭を抱えた。
「俺は、…俺は、どうすればいいのか分からない」
「性交が、って事かい?」
「いや、…いや、いや、いや、それもあるけど、…結婚ってなんだ?具体的にどうするんだ?」
「そりゃあ、子供作って料理作って家族になるんだろう」
「家族?お前と?」
「なりたくないのかい?」
タキオンが少し眉を下げて言うと、田上の心に動揺が響いた。
「そうじゃないそうじゃない。怖いんだ。やっぱり、俺はまだ人と触れ合うっていうのが怖いんだ。お前だけじゃない。俺に触れてくる奴皆が怖いんだ」
「でも、私と共に生きる決断に後悔はないんだろう?」
「後悔?…お前に自分の気持ちを伝える事をずるずると引き延ばしていたら、いずれ後悔するだろうって事が分かったから言っただけだ。あの言葉に後悔はない。けど、どうすればいいのか分からない。お前とどう向き合えばいいのか。一昨日、お前が俺にキスした時からそうだ。何か、訳が分からなくなった」
「じゃあ、もう一度キスをしてみるかい?」
タキオンが、田上を誘惑するように少し身を寄せると、田上は怒りに身を任せて立ち上がった。立ち上がったときは身に怒りをみなぎらせていたが、タキオンの顔を見た途端にそれはひゅうと萎んでいった。ここで悪口雑言をぶつけても何にもならないことは分かっていた。田上は、疲れたため息を吐くと力なくベンチに座り直した。
「もう二度とそんな真似はしないでくれ」
「…すまない」
タキオンもまさかあそこまで田上が怒った顔をするとは思わなかった。
それから、少しの間沈黙が続いた。頭上の桜からは、はらはらと花びらが舞い落ちてくる。その間にタキオンは少し妄想をした。田上と家族となってここに来る妄想だ。舞い散る花びらの中を楽しく話しながらこの公園を散歩する。誰も邪魔する人なんていない。
そこで唐突に思い立ってタキオンは田上に呼び掛けた。
「圭一君…」
田上は、また先程の時と同じ体勢をして、ぐるぐると頭の中でまとまらないことに何とかけりをつけようとしていた所だった。
「ん、なんだ?」と田上は答えた。それにタキオンが言った。
「私、…どうやらどうやらウマ娘では居たくなかったみたいだ」
田上は、思いもよらない質問だったから、驚いて身を起こした。タキオンは、田上の方は見ずに話を続けた。
「私、今日夢を見たんだよ。君と散歩している夢だった。それはそれは、楽しかったんだけど、公園のベンチに座って話していると、ある時物陰からフードを被った男の人が出てきた。君はやめろって言ったんだけど、それでもその人は近づいてくるんだ。そして、私の耳と尻尾を引っこ抜いて公園から叫んで出て行った。――俺は自由だ~、ってね」
そこで、タキオンは田上の方を向いて言った。
「これには思い当たる事があるんだ。君との関係性だ。…君は、私が…その引退したら結婚しようって言ったね?」
「…ああ」
「どうも、無意識下の私はそれじゃ納得がいっていないようだ。それをするくらいなら、ウマ娘をやめたいと思っている」
「…大変だ」
「そう、大変だ。だから、君に相談しなくちゃならないと思って、ここまで君を探しに来たんだよ」
「そうか…」
田上は、さっきから他人事のように返事をしている。その田上にタキオンは聞いた。
「圭一君。…私は、三年いっぱいで現役から退きたいと思う。君はどう思う?」
「俺?………いいんじゃない?」
「今の間は?躊躇いがあったね?この事については、慎重に話さなきゃならないと思うんだ。後悔のない君の意見を聞かせてくれ」
「…俺、…俺?…俺は、…俺。…ちょ、ちょっと待ってくれ。タキオンは、走る事より俺と居る事の方が良いのか?」
「ああ。私は、それでいいと思うけど、なんなら今すぐにでも現役を退いてもいい」
「それで、俺と俺と入籍するつもりなのか?」
「ああ。多分、私の両親は、君とであれば何も言う事は無いと思う」
「それは分からない。こんなに精神が不安定な男だぞ。絶対にお前が不幸になるのは見え透いてる」
「まだそんな事を考えているのかい?それなら私は構わない。全部、受け止めて話し合うつもりだ」
ここで、タキオンがまた少し身を寄せてきた。今度は、感情的になったからだった。だから、田上は立ち上がってタキオンから離れて言った。
「ちょっと待ってくれ。…俺は、…俺は、まだ定まっていないんだ」
「何が?私と結婚をすることがかい?昨日、あんなに啖呵を切ったというのに?」
「いや、…いや、そうじゃないんだそうじゃないんだ。……俺は、…俺は、…お前を…家族だなんて…」
田上がそう言ううちにタキオンも立ち上がって、田上ににじり寄った。だから、当然田上も一歩一歩後ろに下がっていく。しかし、田上のすぐ後ろは茂みだった。すぐに下がる事はできなくなった。
「私は、君と共に生きたい。その覚悟はできてる。君も後は覚悟だけだ。…私を受け入れてくれ」
タキオンは、両手を広げて田上の方に尚もにじり寄った。田上は、もうこれ以上下がれない。迷いに迷った。タキオンを受け入れるべきか、そうじゃない道を探すべきか。しかし、何も考えられない。何もまとまらない。どうすればいいのか分からない。頭が混乱の絶頂に達する。その時に、頭の中の田上は「待った」の号令をかけた。
「待って待った待ってくれ。今の俺には決められない。頭が働かないんだ」
「でも、そうも言ってられないよ。いずれ時は来るんだ。その時に決められなかったらどうするんだい?自分の咄嗟の選択に後悔する羽目になるかもしれないよ?…何がそんなに君を苦しめるんだい?私と添い遂げるのを拒否するのは君も後悔に繋がってしまうのは理解しているんだろ?」
「理解してるさ。理解してるけど、今はどうしようもないんだ。頭の整理が付かない。…もう朝飯の時間だ。行かないと」
田上は、自分の腕時計を理由に咄嗟に逃げ出そうとしたが、ここは相手がウマ娘だ。例え、田上が走って帰ろうとしていたとしてもすぐに追いついて隣で詰問し始めた。
「君、昨日は私の手をしっかりと握ってくれていたじゃないか。今日は、どうだい?私の手を握ってくれるだろ?」
「嫌だ」と走りながら端的に答えた。
「逃げてもどうしようもないぞ。一緒に考えよう?パートナーだろ?」
「分からない」
「分からないじゃ済まないよ。君、何を想って私と一緒に過ごしたいだなんて言ったんだい?あれは、私を誑かす為の嘘だったのかい?」
「ああ」と初めにそう答えたが、不味いと思ったのかすぐに「違う。…けど、違わない」と曖昧に答えた。
ここで息が切れて、田上は走りを歩みへと落とした。ただ、タキオンは尚も田上の横について言った。
「家族になりたいんじゃないのかい?私と一緒に過ごしたいんじゃないのかい?私の事が好きなんだろ?なら、正直になりなよ」
田上はタキオンを睨みながら息を整え、その後に言った。
「分からないって言っただろ?今は答えが出せない」
「だから、私と一緒に考えようって言ってるんじゃないか」
「お前にだって答えは出せない」
「そんな事やってみないと分からないじゃないか。私の事を舐めてないかい?」
「舐めてる。舐めてるから、もう話しかけないでくれ」
「そいつはないだろ。私は君の事が好きだし、君も私の事が好きなんだったら、仲違いして口を聞かないのは全くの無意味だ。それに、私は君に話さないでくれと言われて、はいそうですか、とはいかないからね」
「じゃあ、せめて朝食まではもう何も言わないでくれ。とにかく、今は時間がない。朝食に遅れても面倒だから、何も言うな」
「二回も言う事はないだろ。分かったからそんなに睨まないでくれ。傷付く」
「悪かった」
そう言って田上は前を向くと目を和らげる努力をしたが、どうしても目の周りの力の張りが取れなかった。だから、田上は前を向いて歩いた。タキオンも田上が、しきりに目の周りを揉んで力の張りを無くそうとしているのを見ていたから、「もう睨んでも良いから私の顔を見て話してごらんよ」と言った。しかし、田上は頑としてそれを受け付けず、ただひたすらに前を見てタキオンの横を歩いた。タキオンは、その田上の様子を悲しくもあり愛しさもある眼差しで見て、その後に田上の腕に引っ付いて歩いた。そして、頬もつんと一つ突いた。田上は、「やめろ」とタキオンの顔を睨んで言ったが、特に腕に引っ付いているタキオンを引き剥がそうとはしなかった。それだから、タキオンはホテルまではそうして歩いた。道行く人でタキオンたちを呼び止めそうな人は誰一人いなかった。皆、誰も彼も忙しそうだった。
ホテルの近くまで行くと、タキオンの方から離れた。田上は、それを見て驚いたが、その後に疲れたようなため息を一つ吐いた。タキオンは、「どうしてそんなため息を吐くんだい?」と不思議そうに言ったが、田上の返事は「朝食かそれ以後に話そう。今後は、どうしても決めなくちゃいけない」ということだった。別に、その返事自体はどうでも良かったのだが、それを言った時の田上の顔があまりにも苦しさに歪んでいて、見ていて憐れだった。優しく頬を撫でて安心させてあげたかった。だが、そんなことをすれば、田上はタキオンの手を振り払い、もっと疲れた顔をするのだろう。田上の心を悩ませているのは、タキオンとの関係性なのだから。