ホテルに入るとロビーにあるテレビの朝のニュースが目に飛び込んできた。丁度、自分たちの事をやっていたからだ。
――アグネスタキオン、田上トレーナーを熱望か?
恐らく冗談の見出しなのだろうが、冗談にしては性質が悪かった。テレビには、昨日のウイニングライブの映像の一部が使われていたから、話題になったとかなんとかでニュースに取り上げられたのだろう。幸いな事にそのニュースは、ニュースキャスターがちょっと状況を説明して、何か自分の考察を出したばかりで終わっていった。その考察は、概ね間違ったようなものではなかったが、田上にはそれが苛ついた。タキオンは、そのニュースを見ると、困った顔をして言った。
「ちょっと不味かったかな。君は、あんまりあのニュースは真に受けなくてもいいと、私は思うね」
「俺は…、生きるよ」
「…そう言ってくれるとありがたい」
そして、二人は朝食を食べにレストランに行った。どうやら、余裕をもって間に合ったようで、先に座っていたマテリアルが国近と一緒に出迎えた。
「どこに行っていたんですか?」とマテリアルが聞いてきたから、タキオンが席につきながら「公園にちょっとね」と答えた。マテリアルは、不思議そうな顔をしながら「へ~」と言い、その後に不意に思いついたようにタキオンの正面の席に座った田上に言った。
「私が、田上さんの事を白馬の王子様と例えて言ったら、タキオンさんは――それは違うって言ってきたんです。タキオンさんが、言った例えって何だと思います?」
田上は、唐突な問題に「え?」と聞き返すほかなかったし、横で聞いてたタキオンは「それを話すのかい?」と嫌そうな顔をした。それだから、マテリアルが「ダメですか?」と聞くと、タキオンは「ダメではないけど…」と田上の顔を窺いながら言った。
それで、マテリアルがもう一度田上に説明をして、田上に答えさせた。田上は、農村の真面目な男なんて言葉を一度で思いつけるはずもないので、無難なところで「モルモットに乗った王子様?」と答えた。すると、横からタキオンが「モルモットは君だろ」とツッコミを入れた。マテリアルは、「ぶっぶー」と不正解の音を出した。だが、正解を言おうとはしなかった。だから、田上が、「もう分からないです。正解は?」と聞くと、「あともう一回だけ答えてみてください」と催促をした。あと一回と言われたので、田上も仕方なくタキオンを見つめながら考えた。様々な案が浮かんでは消え、浮かんでは消えたが、最終的に残ったのは案外惜しいものだった。
「……農村の役立たず?」
「惜しいけど、私が君に対してそんな事を言うわけないだろ」とまたしてもタキオンはツッコミを入れた。それから、マテリアルが正解を言うのを待った。
「惜しい!タキオンさんが言ったのはですね。農村の真面目な男です。白馬の王子さまって柄じゃないそうですが、農村の真面目な男って柄ではあるそうです。大分、あなたに対してぞっこんですよ」
いらない事をマテリアルは言ったが、タキオンは田上の反応が気になったので敢えてそれを止める事はしなかった。けれども、顔に多少の熱が帯びていく感覚がした。
田上は、その事を聞くとタキオンの方を見つめた。タキオンもまた田上を見つめ返した。田上は、一瞬疲れに歪んだ顔を見せたが、静かにこう言った。
「あんまり良いイメージじゃないのか?」
「そんな事は無いさ!君のイメージとして言っただけであって、そこに良いも悪いもないよ。ただ、爽やかな白馬の王子よりかは農村の真面目な男の方がイメージとしてより近いかなという事だよ」
タキオンがそう言うと、横から国近が口を挟んできた。
「え、俺はどういう風に見える?」
「え?君?…落ち武者」
タキオンは、面倒臭かったので雑に答えた。それが、案外国近の笑いを誘って、一時話すどころではなくなった。そして、国近が笑い終わってしまえば、マテリアルが口を開いて田上に言った。
「タキオンさん、あなたの事がよっぽど好きみたいで、農村の真面目な男の事を熱弁してましたよ。結婚していないのは心に蟠りがあるとかなんとか」
「それは君が聞いたからだろ!」
少々怒り気味でタキオンが言ったから、マテリアルは「すみませんすみません」とへらへらしながら謝った。けれども、凝りもせずそのまま話を続けた。
「これは、私の妄想なんですけどね。あなたが、農村の真面目な男で、タキオンさんが、超高速のプリンセス。つまり、王女様って事ですけど、それって素敵じゃありませんか?」
「素敵?…そうかもしれませんね」
田上は、求められた答えに苦笑しながら答えた。
「そうですよ。王女様が、農村の男の人に恋に落ちてその心を溶かしていくんです」
「もういいだろ。やめてくれ」
「ちょっと待ってください、タキオンさん。今、良いところなんです」
そう言うと、不満そうな顔をしつつもタキオンは引き下がった。そこで、ちょっと田上の顔を見た。田上もタキオンの顔を見ていて、目が合うとタキオンにふっと笑いかけてきた。タキオンは、それをされるとマテリアルの話を遮って思わず言ってしまった。
「君、やっぱり女ったらしだろ!そんな風に笑いかけるなんてさぁ!」
すると、瞬時にマテリアルがそれに対応して、聞いてきた。
「ドキドキしてしまったんですか?」
「んなわけないだろ!」
マテリアルにそう言ってから再び田上の顔を見たが、田上と来たらさっきとあまり変わらない表情でタキオンの事を見ていた。途端に、また顔が熱くなった。手で顔を覆うと、その指の隙間から田上を見つめて、ぼそっと呟いた。
「君、十分かっこいいと思うんだけどな…」
「え?」と田上が聞いてきた。タキオンは、この言葉は今は聞かせる気は毛頭なかったのだが、面倒な事に横からマテリアルが田上に言った。
「君、十分かっこいいと思うんだけどな…、って言ってました」
それで、田上は苦笑してしまったし、国近とソラは同じ様な顔でにやにやとタキオンと田上を眺めていたし、タキオンはマテリアルに怒ってその頬に拳をぐりぐりと押し付けた。マテリアルは、へらへらとして謝っていた。
やがて、朝食の時間が始まった。今回の朝食はタキオンが振り回されるばかりとなった。マテリアルが、タキオンの事を面白可笑しく話してはタキオンが「やめろよ!」と言ってマテリアルの頭をぐりぐりして、その都度田上は苦笑していた。そして、タキオンと目が合うと、ふっと笑いかけたてきたから、より一層のタキオンの田上への惚れ具合が露わになった。
こんな感じでてんやわんやしていたから、おかげで皆が朝食を食べ終わる頃にはタキオンはまだ食べ切っていなかった。だから、トレセン学園の大阪杯のチームの引率者が「皆さん、三十分後までに荷物をまとめて玄関口まで来てください」と言う時も急いで口にご飯を詰め込んでいた。そして、その人の話が終わる頃にようやく食べ終わる事ができた。
朝食の後にゆっくり話ができると田上が思っていたのかは謎だったが、タキオンは手っ取り早く荷物をまとめると、すぐに田上の部屋へと向かった。田上は、あまりタキオンと話したがらないようだった。荷物なんて、そこまでぐちゃぐちゃにした覚えもないし、また、ぐちゃぐちゃにしたとしてもものの四五分で片付けることのできる量だ。タキオンを相手にするには、三十分では足りないにしても、朝食の後に二言三言話す時間は十二分にあったはずだ。それだけども、田上は忙しいだ何だと理由を付けて動き回って、タキオンが話しかけて来るのをのらりくらりとかわした。タキオンも今の隙間時間では、満足のいくまで話せないことは分かっていたから、そこまで問い詰めることはしなかったが、多少の不満は残った。朝食の後、というのは元々は田上の方から言い出したことだった。それを田上の方から破るのは少し裏切られた気がした。
それで、タキオンがつまらなさそうに田上の部屋のベッドに座っていると、さすがにちょっとの後ろめたさがあったのか、田上とタキオンの目が合った。タキオンは、田上の動く様をじっと見つめていた。田上は、タキオンから必死に目を逸らそう逸らそう、忙しいふりをしようふりをしようとしていて、それが少し緩んでしまった時に目が合ったのだ。田上は、タキオンと目が合うと動きを止めてしまった。それだから、タキオンはもう話すつもりなんてなかったのだが、思わず「何か用かい?」と聞いてしまった。田上は、そう聞かれると目を泳がせて、何か考え込んだが、言いたいことが決まると言った。
「俺に人を愛するなんて事は無理そうだ」
「どうしてそう思ったんだい?」
タキオンがそう言っている間に、田上は忙しいふりをするのも忘れて、ベッドに座っているタキオンの横に自分も座った。
「人を好きになるっていう事がどうしても受け入れられない」
「私は、大丈夫だと思うけどね。ほら、人って変わるだろ?君も、以前は好きな人なんていないという態度だったけど、今はこんなに私の事が好きだ好きだと言っているじゃないか。それなら、きっと変われるよ」
その言葉が、恥ずかしかったのかどうなのか、田上はタキオンの顔をじっと睨んだ。タキオンは、――きっと恥ずかしかったのだろう、と見当をつけてその顔をじっと見つめ返した。二人は、そのまま十秒くらい見つめ合ったが、先に目を逸らしたのはやっぱり田上の方だった。目を逸らしながら、はぁとため息を吐いた。このため息は、自分の根性にうんざりしたから出たものだった。そうした後に、田上は言った。
「もう玄関に行こう。バスが待ってるよ」
田上は、自分のバッグを持って立ち上がった。タキオンもまた一緒に立ち上がった。それから、田上に言った。
「私は、君の事が好きだし、君の事をいつまでも待ってるよ」
すると、また田上は目を部屋の中にキョロキョロと泳がせ、最後にタキオンの方を見、言った。
「世界で一番望みのない選択をしたな。こんな愚図、さっさと見捨てりゃいいのに」
「それは、散々言ったろ。後悔するから君を見捨てないんだ。こんな可愛い奴を放っておける奴がいるか?いや、いないだろう。そのくらい私の中で君は大切なんだよ」
そう言われると、田上はレストランでした時のような笑みを顔に浮かばせてタキオンにこう言い返した。
「だから、お前が好きなんだ」
その途端にタキオンは、びっくりして顔を赤くして恥ずかしくなって慌てた。そして、そのまま手で顔を覆った。田上もその仕草に驚いて「どうかしたのか?」と聞いた。
タキオンは、手で顔を覆ったまま、恥ずかしさのあまり声の調整の仕方を忘れて大声で答えた。
「私の顔を見ないでくれ!女ったらしめ!いつからそんな事が言えるようになった!」
「そんな事で動じるような奴だったか?自分からぐいぐい攻めてくるくせに」
「私もちょっとおかしくなった!君と想いが通じ合ったのが嬉しくて、君のその笑顔が嬉しくて調整が利かない!」
「…迷惑かけたな…」
「ああ、そうだよ!おバカモルモットめ!これからも迷惑をかけるつもりだろう!そんなら私にもっと優しくしろ!」
その言葉が終わると、田上は、自分の顔を覆っているタキオンの手をそっと掴もうとした。それに、タキオンは、自分の顔を田上が見ようとしていると思って、抵抗してきたので、「いや、違うんだ」と声をかけてタキオンの手を緩ませた。タキオンは少しずつ少しずつ手の力を解いていって、田上の顔を見た。田上は、タキオンの顔ではなく手の方を見つめていたから、タキオンも自分の手の方に目線を移した。よく見る大きな手が自分の手を握っていた。窓から入る外の日差しが、その手を照らす。タキオンは、田上の方をチラと見上げた。田上は、何を想っているのか知らないが、しきりにタキオンの細い指を揉んでいた。だから、タキオンもまた自分の手に視線を戻した。すると、田上が口を開いて「タキオン」と言った。もう一度田上の方に視線をやったが、今度もタキオンの方は見ていない。どうやら、田上はタキオンの顔を見るのが照れ臭いようだった。それに少し愛おしさを覚えながら、タキオンは田上の話を聞いた。
田上は、タキオンの指を揉みながら話した。
「俺は、…。俺のどこが好きなんだ?」
「どこ?…そんな事問われて、――はいこれです、なんて言えないけどな。全てだよ。君の全てが好き」
「そんなありふれた言葉は聞きたくない。なんで俺の事を好きになったんだ?後悔するしないにしても、俺は、愚図で鈍間で情緒不安定の老け顔だぞ。どこに好きになる要素があるんだ」
「まぁ、老け顔についちゃ議論の余地なく、私はかっこいいと思っている。君って素敵だよ?」
「素敵?人生で一度もそんな事言われた事がない」
「君のお母さんにもかい?」
「母さん?……まぁ、そんな事を言ってたような気もするけど、母さんはノーカウントだろ?大概は、褒めるようなもんだろ」
「それならそれでいいが、君の顔ってかっこいいよ。その少々渋めの顔も君のかっこいいところの一つさ。四十代って言われたのは、二十代にしちゃ少しだけ皺が多いって事かな。ちょっと君は疲れすぎだね。…でも、私は気にならないけどね」
タキオンがそう言い切ると、田上が口を開いて何か反論をしようとしたが、言葉が出てくる前に部屋の扉がコンコンと鳴った。
「行かなきゃ」と田上が言った。まるで、喉の奥から出てこようとしていた言葉の波を一気にかき分けて、出てきた言葉のようだった。タキオンは、もう少し話していたかったが、さすがに時間の流れには逆らえない。田上の後について、部屋を出た。部屋の扉を叩いたのは、当然の如くマテリアルだった。もう、タキオンと田上が仲良くしていてもとやかく言う事は無い。ただ、タキオンと目が合うと少しニヤリとした。それでも、出てきた言葉は「もうバスに行かないといけない時間ですよ」だった。タキオンは、挨拶程度にニヤリとし返すと、田上の方を向いて言った。
「帰ったらもう一度話そう。…どこで話す?」
「俺は、あんまり話したくない。それに、トレーニングもないのにお前と会うのは業務外だ」
「恋人と会うってのに、君は仕事じゃないといけないのかい!?」
「お前は…お前は…、…どうしたらいいんだろう…」
そして、あんまり事情の分かっていないマテリアルが、無神経に聞いてきた。
「あれ?まだ、心は定まっていなかったんですか?」
これは、田上はされたら困る質問だ。だから、代わりにタキオンがそれに答えた。
「ああ、そうだよ。どうやら、私の事が好きなんだけど、どうにもどうにもらしい。…まぁ、初デートは決まったよ。海に行くんだ」
「赤坂先生って方と遊ぶのはどうなっているんですか?」
「それは、後からだ。まず、デートの方が先」
そこで、田上が口を挟んだ。
「デート?」
「え?…ああ、そうさ。デートだろ?恋人同士が行くんだから」
「恋?…人同士は……」
田上が言い淀むと、タキオンが「なんだい?」とその続きを催促した。だから、田上も少しずつ言った。
「恋人は、……ちょっとの間表現を控えてくれないか?…俺の心が定まっていないのに、そんな事言われると余計に定まらなくなる。…明日、トレーナー室に居るから、そこで話そう?」
「でも、トレーナー室だと二人きりになれないだろ?それじゃ話しにくいんじゃないか?」
「じゃあ、どこで話せばいい?」
「…研究室かな。あそこであれば、二人きりになれるだろ?」
「俺は…、あそこでまたお前と二人きりになんてなりたくない」
「じゃあ、どこがあるんだい。……まさか、君、トレセンに帰るなり事なかれ精神を出して、また前に逆戻りするんじゃないだろうね」
「……いや、そんな事は…ない」
「今の間はなんだい?私が、一番許さないのはそれだぞ。また、引き返すことだ。…研究室の何が不満なんだい?」
そこで、部屋の扉が開いて廊下を誰かが通って行ったから、田上がそれを気にして動揺した。
「ここで話しちゃ誰かに聞こえる。筒抜けだ」
「ならどこで話せばいい?」
タキオンが厳しくそう聞くと、田上も悩みに悩んでから言った。
「明日、……研究室に行く」
「…私は今日がいい」
今度のタキオンは、頑張って決断をした田上に少し配慮した口調をとったが、その目は田上をじっと見据えていた。
「私たちの将来に関わる事だ。…できれば、今日がいい。…昼頃にあちらに帰り着くんだろ?」
「ああ。……だけど、……」
田上は、中々話し出せない。マテリアルは、この場で二人を見つめていてどうした物か迷ったが、ここで自分が動き出して田上がそれに便乗してしまえば、タキオンに怒られそうな予感がしたので簡単には動き出せなかった。廊下は、バスに向かう人が現れだしてきた。中には、タキオンと田上を――何をしているんだろう?という目付きでじろじろと見てくる輩もいる。田上は、これにはどうしようもない。廊下の人が気になってどうしようもないし、タキオンも答えを出させようと見つめてくる。板挟み状態だ。それで、助けを求めるようにマテリアルの方をチラと見た。マテリアルは、田上の目を見ると、助けを求めてきているんだろうなという事がなんとなく分かったが、恐ろしく迷惑だった。それでも、自分も早くバスの方に行きたかったのでタキオンに提案した。
「バスの中で話したらどうです?」
「バスの中?」
少し怒ったようにタキオンがマテリアルに聞き返した。そして、田上の方を一度見てからマテリアルに言った。
「バスの中なんてここより気が散るだろ?圭一君が話せないだろう」
「田上さんどうですか?」
また、田上の方に矛先が向いた。田上としてはもう話をしたくなかった。どうしようもないことだらけで自分の殻に閉じこもっていたかった。なので、中々話し出さない。マテリアルもバスの時間が気になる。そこで、マテリアルはタキオンの方を説得しにかかった。
「タキオンさん、どっちにしろここでも話せませんよ。帰れば、時間はいくらでもあるんです。次走の話でもしながら、これについて話せばどうでしょうか?なんなら言われれば私がトレーナー室から出て行きますので」
タキオンは、しかめっ面をした。しかし、自分の頭の中でもこれ以上話してもどうしようもならない事は分かっていたので諦めた。その代わりに、田上にこう言った。
「水曜日に、…海に行こうね。お洒落していくから、私に見惚れないようにしろよ」
タキオンは冗談交じりにそう言ったが、田上は浮かない顔で「ああ」と答えた。それから、三人はバスの方に向かった。バスの中では、タキオンも田上もあんまり話さなかった。タキオンは、バスの窓から終始外を見ていたし、田上は何もすることがないので寝ていた。それは、飛行機に乗って帰るときも、また、バスに乗ってトレセンまで行くときも同じだった。二人は、必要な事だけしか話さなかった。それを、バスの後ろに居て見ていた国近は心配した。心配したが、何も言い出すことはできなかった。何が原因かも分からないので、適当に口出ししてしまえば、悪化の線もあるだろうと思ったからだ。――ひょっとしたらちょっとした、小さな喧嘩かもしれない。と国近は思ったが、あの田上に限って、小さなことで喧嘩をするのは考えられなかった。田上は、決して短気な男ではないのだ。国近はそれをよく知っていたが、前にあるしょんぼりとした背中をただ見つめる事しかできなかった。
バスは、トレセン学園についた。トレセンに帰れば、タキオンは大勢に迎え入れられた。タキオンと同じクラスでありながら、普段はタキオンを敬遠している連中だ。バカみたいに笑顔を作って、「凄いね」「おめでとう」と言ってくる。こいつらも一週間すれば、またタキオンから遠ざかるのだ。そんな事を想いながら、人並みの中をかき分けていくと、親友の姿が見えた。アルトとハナミだ。こいつらもニコニコと周りの人と同じように笑っているが、小さく手を振るだけで何も言わなかった。タキオンは、この人らがこのまま何も言わないつもりなのだろうと思ったから、自分から近づいて行った。そして、二人の前に言った途端、こんな言葉が口から零れてきた。
「嗚呼、二人共。…疲れたよ」
「頑張ったね」とハナミが言って、「お疲れ様」とアルトが言った。タキオンは、二人の友に暖かく迎え入れられた。そして、人の波の一番端の方に見覚えのある長い黒髪と金色の怪しげな目が見えた。また、別の親友であるカフェだ。その顔を見ると、なんだか元気が湧いて出た。
「やあやあ、カフェ!君がここまで来てくれるなんて珍しいじゃないか」
「……元気そうですね」
「元気なものか!今回の大阪杯の旅は、私の十七年の人生の中で一番大変だったよ」
「…何があったんです?」
「それは、また後日のお楽しみさ。…あれ?圭一君は?」
タキオンは、田上が座席で何か準備をしていたので、先に降りてきたのだったが、田上は一向にバスから降りてこなかった。何かあったのだろうかと思って、後ろを振り返ってみたが今は人の波の中で後ろに引き返すのは無理そうだった。
ウマ娘の女子高生の頭の向こうにちらほらと黒い髪の男たちが見えたが、それらは皆人波を遠巻きにして帰ろうとしていた。タキオンは、田上があそこの中にいるに違いないと思った。田上との話はまだ終わっていない事は向こうの承知の事だろうから、それを避けるために先に逃げて自分の部屋に引きこもろうとしているんじゃないかと思えてならなかった。だから、タキオンは「ちょっと通してくれ」と言うと、強引に人の波を通り抜けていった。人波は、そんなに簡単に通れるものじゃなかった。誰もかれもタキオンの見てくるし、タキオンに一度触れておこうと手を伸ばしてくる輩もいた。その手がタキオンの鼻の穴を引っ張ろうとした時には、タキオンもブチ切れて「やめろよ、バカ!!」と怒鳴った。すると、人波はタキオンをすんなりと通し始めた。
トレーナーたちの群れは、もう自分たちだけで寮に帰ろうとしていた。そこに田上が「圭一君!!」と呼び掛けた。群れの最後尾が、何人か振り返り顔が分かった。しかし、そのどれでもない。田上は、その群れの中間に居た。堪え切れなくて、タキオンの方を振り返ったようだ。その瞬間に目と目が合った。田上は、不味いと思ったのだろう。そこで一目散に道を駆け出した。寮まではあと少しだ。田上が走り出すとタキオンも追いかけた。自分の荷物はそこらへんに放っておいた。田上も全力で逃げているが、距離はそれほど遠くはない。五十メートルあるかないかだ。ただ、群れがその前に立ちはだかっていたから少々面倒だった。田上は、早々に群れを抜け出して、寮へ向かっていた。タキオンは、「圭一君!なんで逃げるんだ!」と叫びながら追いかけた。途中で茶々を入れてくる奴もいた。
「お、元気がいいな。頑張れよ」
その人にタキオンは「うるさい!」と怒鳴って、田上の方へ向かった。結局、余裕で捕まえる事はできた。所詮ウマ娘と人間である。比べ物になるわけがない。とりわけ、本気のウマ娘相手では。
タキオンが田上の背中に背負っているバッグを掴むと、そのまま走り続けようとした田上が、よろけて転びそうになったからタキオンがそっと抱き止めてやった。だが、逃げないようにその袖はしっかりと捕まえておいた。
地面に足を投げ出して、息を切らしている田上にタキオンは聞いた。
「どうして逃げるんだよ。逃げたって何にもならないぞ」
田上は、タキオンを睨んだまま、何も答えなかった。それだから、タキオンもその目に怒りを触発されそうになって苦しかった。そうやって苦しくなっているタキオンの隙を狙って、田上が走り出そうとするから尚の事苦しくなった。
「そんなに逃げないでくれよ。私の事が好きなんじゃないのか?」
「……好きじゃない」
田上は、もっとタキオンを苦しくさせようとしてきた。それでも堪えて堪えて言った。
「そんな事言って後悔するのは君だろ?ちゃんと自分の問題に向き合わなきゃ」
「答えの出せない問題に向き合ったってしょうがないだろ」
「答えはあるよ。…何回これを言えばいいんだい。人間には苦しくったって投げ出したくなったって進まなきゃならない時があるんだよ。いい加減前を向いてくれ。死ぬときになって後悔したくないのなら、君は私の事をしっかりと見ないといけないんだよ」
「もう遅い。もう遅いんだよ。俺が、これまでどれだけ後悔してきたと思う?お前が、まだ母親の膝でぬくぬくと暮らしている時から後悔の連続だ。俺とお前じゃ分かり合えない。やっぱりこれなんだよ」
「でも、君は今の言葉を後悔してしまうだろう?死んでしまったらもう後戻りはできないぞ。今からでも後悔を払拭するんだ。今がそのチャンスなんだ。君の後悔は何だい?心に残って残って離れない物。それを見つけ出して取り除くんだ」
そこが、トレーナー寮の前だったから、近くを横切っていく人たちがたくさんいた。またも田上の集中は削がれて、その人たちに怯えを見せた。タキオンもこのままでは話しようがない事が分かった。だから、田上を立たせるとその顔を見つめて言った。
「研究室へ行こう?そこなら、まだ真面に話ができるよ」
「…でも、俺は…」
田上は、目を泳がせ躊躇いを見せる。タキオンもなんだか焦ってきたから、田上を脅すためにこう言った。
「早くしないと、公衆の面前でキスをするよ」
答えは聞かなかった。強引に田上を連れて行くと、帰ってきて休む暇もなく研究室へと急いだ。田上は、自分の手を引いていくタキオンのその背を見つめながら、ぼんやりと考えた。タキオンに何を話そうか。どう逃げてやろうか。しかし、やっぱり考えはまとまらなかった。