ケロイド   作:石花漱一

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二十、走れウイニングライブ⑦

 研究室に入ると、タキオンはぴしゃりとそのドアを閉めて、カフェと自分の部屋を分かつカーテンを開けた。薄暗い部屋が広がった。タキオンは、そこの電気も点け、自分の所の電気も点け、田上を椅子へと座らせ自分も別の椅子に座って話し出した。

「それで、最近の君はどうだったのかな?何か気になる事でも?」

 今の田上はすんなり口が開いたから、タキオンにこう言った。

「……お前は、大阪杯で走って俺の所まで来た時、…泣いたよな?なんで泣いたんだ?」

「ああ。……それかい?…参ったな。今は君の話がしたかったんだけど。…まぁ、聞かれたのならしょうがないけど、あの時はちょっと精神が参ってしまったんだよね。何しろ、最後の直線で中々私の後ろから青い服の奴が離れようとしないんだよ。あれは、怖かったね。……だから、…少し君に頼った」

 それを話すとタキオンが少し気を落としたから、田上が場を取り持つようにトレーナーらしく言った。

「いや、それを聞けて良かったよ。…今後の走りには影響しそうか?」

「今後…?やるとしたら宝塚記念だろ?……少し、見送りにって事はできないかい?」

「なんで?」

「……まぁ、君との事もあるし、走るのも…楽しくないわけじゃないんだけど、ちょっと今やる気がないんだ」

 田上は、難しい顔をしてタキオンを見つめた。タキオンは、田上から少し目を逸らした。そのタキオンを見つめたまま、状況を整理するために田上が言った。

「それじゃあ、今後の予定は未定にしておこう。…天皇賞・秋は?」

「分からない」

「じゃあ、未定だ。タキオンだったら、一月でも十分に仕上げられると思うし、考えるのは宝塚の出走登録期間が始まったらって事でいいか?」

「ああ、それでいい」

 そうタキオンが答えると、その後に微妙な沈黙が流れた。話が終わりなのか終わりじゃないのか、まだ定まっていない状況だ。タキオンも田上に話をしたかったのだが、今の問答でどうにも精神が削られて、話すのが億劫になった。それでも、ひとしきり考えた後にタキオンは口を開いた。

「…君は、…私と結婚してくれるんだろ?」

「いや、…それは…どうすればいいのか分からない」

「…何がそんなに君の心を詰まらせるんだい?私が、女子高生である事がそんなにいけない事なのかい?…それも、卒業してしまえば無しになる。女子高生じゃなくなる。君と同等の関係だ」

「俺は、…お前をそんな目で見れない」

「けれども、私の事が好きなのかい?随分な女ったらしだなぁ。うんざりしてくるよ」

 タキオンは、先程の会話のせいなのか少し苛立っていた。その鬱憤を田上にぶつけてしまった。田上は、心の中でこそ動揺したが、その様子はおくびにも出さずにタキオンの鬱憤に答えた。

「なら、掃いて捨てればいいだろ。お前と正面から見つめ合えないんだ」

「私だって、ただの子供だ。限界がある。あんまり私を責めないでくれ。君の相手をするのに自分まで命を無くしそうになる」

 ここで、そんなに使用した時間も長くない天井の電灯が明滅した。二三度、パチパチとした後、また静かになった。田上は、それを見上げて「故障かな…」と呟いた。タキオンは、そんな事には気付く素振りも見せないで、田上にぼそぼそと言った。

「私は、君と一緒に居たい。ただ、それだけなんだ。あんまり難しい事じゃない」

 そして、次に勝手にタキオンの実験用の機器の電源が付いた。埃を被っている赤色のランプが光り、機器が唸りを上げた。

 その後にタキオンがもう一つ言った。

「君と一緒に居れたらどんなにいいだろうか?きっと、夢があって愛があって華があるんだろう。そんな暮らしを君としたい」

 その途端にシャッとカーテンが閉められ、電気が消えた。田上は、驚いて声を上げたが、それは暗闇に溶けていったように感じた。その闇の中で唯一見えるのは、タキオンの赤い目とそこからぼんやりと見えるタキオンの体だけだった。タキオンは、泣いていた。――圭一君、トレーナー君、と。――私の所に…私の所に来てくれ。

 田上は、体を動かそうとしたが、なぜだか自分の体の感覚がない。すると、右の方の暗闇からふっと自分が湧いて出た。「俺が愛しているのはお前だけだよ」とタキオンの頭を撫でる。見ていて吐き気がした。そんなのは自分じゃなかった。大声を出してタキオンに呼び掛けようとするが、いくら叫んでも声は出ない。その内落ちていく感覚がした。田上は、タキオンに必死になって呼び掛けた。しかし、自分だけは落ちていく。涙が出てきた。――やっぱり、お前は何もできないろくでなしだった。そう頭の中の自分が言っていた。そして、絶望の淵に落ちて落ちて落ちて行こうとした時、ガラガラ!!と大きな音が響いて、研究室に光が差し込んだ。田上は、落ちてはいなかった。しっかりと椅子の上に座っていた。開いたのは、研究室の方のドアではなくてカフェの部屋の方のドアだった。息を切らしたカフェがそこに居た。

「カフェさん…」と田上が呟いた。カフェは、余程全力で走ってきたのか、息を切らしてぜいぜいはあはあ言っていた。そして、そのままタキオンと田上を見つけて、じっと見つめてから「良かった…」と呟いた。田上には、何が何だか分からなかった。夢のような心地がした。今起きたことが、実際にあった事だとは信じられなかったが、いつの間にか、目の前にいたタキオンがしくしくと泣いていた。

 そのタキオンにカフェはそっと呼び掛けた。もう息切れは大分収まっていた。

「タキオンさん…、私の声が聞こえますか?」

「カフェ?…何も見えない。ここはどこだ?」

 そう言って顔を上げたタキオンの目には深淵が覗いていた。

「ここは研究室です。あなたの前には、トレーナーさんが居ますよ」

 その言葉の後にカフェは、田上にタキオンの手を握るように身振りで指示をした。田上は、恐る恐るタキオンの手を握った。

「タキオンさん、あなたの手を握っているのは、トレーナーさんです。感じますか?」

「…分からない。…何も分からない。私を愛してくれ、圭一君…。君の事が好きなんだ」

 すると、カフェが目を見開いて田上を見た。てっきり、タキオンの言葉に田上が動揺しているものだと思って見たのだが、予想外に落ち着いているのを見ると不思議な顔をして聞いた。

「トレーナーさん、あなたの事を今タキオンさんが好きだって言っていましたが…」

「……それは、本人から聞きました」

「…では…」

「何にも言わないでください。これは俺とタキオンの問題ですから」

 田上が殺気立って言うと、カフェもじっと睨み返した後、タキオンに目を戻して呼び掛けた。

「あなたが、立っている地面を感じますか?」

 その途端にタキオンの様子がおかしくなった。

「カフェ?カフェ?行かないで!待ってくれ!行っちゃだめだよ。ああ!圭一君!!!ああ!!!…ああ…」

 そして、タキオンの意識は事切れた。カフェの腕の中に倒れかかった。それだから、カフェも慌てて「何があったんです?」と田上に聞いた。田上もタキオンの頭の中までは分からないから、力なくカフェの腕の中にいるタキオンを呆然と見つめながら「分からない…」と答えた。すると、カフェは田上が自分の質問を勘違いしている事に気が付いて、もう一度言った。

「違います。大阪杯の事です。あなたとタキオンさんの間に何があったんですか?」

「何…?」

「言わないと始まりませんよ。タキオンさんは、心の隙間を侵されたんです。……この部屋の何かに…。お友達が私を呼んだからここに来れたんです。…多分、…この部屋の何かはあなたをまず最初に堕とそうとしたんです。…しかし、私が来てそれが失敗して、代わりにタキオンさんの心に入り込んだ。……タキオンさんの意識が消えたのはそれのせいです。……心の強い人は、悪霊なんかに侵されません。弱っていたからそうなったんです。なぜそうなったんですか?」

 カフェの語気は静かな怒りを孕んでいた。

「え…」

「早く言ってください。…このままでは、この部屋の何かに衰弱させられるだけです……」

 カフェは田上の顔を睨んでくる。

「いや…」

「何を躊躇っているんです…?あなたは、タキオンさんの事を好きじゃなかったんですか…?」

「なんでそれを…?」

「…見てれば分かります……。…さあ、早く…言ってください……」

「え、えっと…、何から言えば…」

「私は、タキオンさんが帰ってきたときに…お友達の二人に――疲れた、と言うのを聞きました……。…それと関係があるのではないですか……?」

「え、え、え?…関係…」

「あります。……恐らくそれでしょう……。…あなた自分の愛する人を救いたくはないんですか……」

「急に言われても…」

「いつだって何だって急です……。覚悟なんて決めてる暇がないから、皆苦しんで生きているんです……。あなただけじゃありません……。タキオンさんだってそうだったから、変な物に憑かれました……。あなたの代わりにタキオンさんが今苦しんでいるんですよ……」「でも、…俺は…」

「いい加減タキオンさんから目を逸らすのはやめてください……。…一端の覚悟も持たないで人を愛そうなんてバカのする事です……。あなたはバカなんですか…」

「バカ…で」

「……逃げたらタキオンさんが死ぬだけですよ…」

 カフェは不意に、瞬きもせず田上を見つめてきた。

「あなたが、見捨てたからタキオンさんが死ぬんです……」

「それは…!カフェさんがどうにかできませんか?」

 田上は苦し紛れにそう言ったが、カフェは全く取り合わなかった。

「あなたは、……タキオンさんの顔を見なかったんですか……?目がありませんでした…。五感がありませんでした…。私は、タキオンさんの中にいるタキオンさんに話しかけたから聞こえたんです……。タキオンさんは、自分を見失いました……。あなたが何も言わなかったら一生そのままでしょう……。私には、タキオンさんを見つけ出す程の力はありません……。自分ってとってもちっぽけなんです……。人の世界に入ろうとすれば、とてもとても大きい暗闇で、到底探し出せるものではありません……。その中をタキオンさんは彷徨い歩いているんです……。きっと悪夢みたいな場所でしょう……。先程の悲鳴をあなたは聞きましたか?あなたが今この場で動かなければ、一生その悲鳴に苛まれます……。タキオンさんの悪夢の中であなたに何かが起こったんです……。どうでしょう?……血まみれの惨殺死体にでもなっていたんでしょうか……?可哀想に……。タキオンさんは、一生それに向き合わなければならないんです」

「なんでそんな事になったんですか!」

 田上は、どうしようもなくなって大声を出して聞いた。カフェは相変わらず、瞬きのしない亡霊のような顔つきで田上を見てきた。

「心の隙間に入り込まれただけです……。タキオンさんの過去に何があったのかは知りませんが、いずれ向き合わなければいけない問題でした。……それが、この部屋にいる物に侵されたんです……」

「この部屋にいるものって何ですか!」

「……分かりません……。私が、たまたま見つけました……。いつからいるのかは分かりませんし、私も確かに見たことはありません。……『ある』のを感じるだけです」

 その話を聞くと、田上は今にも泣き出しそうな顔をして、カフェの腕の中にいるタキオンを見つめた。タキオンが起き上がらないのは嘘だと思えるような気がした。このまま、少し放っておけば一人で起き上がって、後ろから背中を叩いて呼び掛けてくれるような気がした。ただ、田上も同じ心霊現象に出会っていたから、放っておく事はできなかった。

 カフェが、田上に言った。

「さあ、タキオンさんとあなたに何があったんですか?」

「……どうしても、どうしても言うことができないんです!少なくとも、カフェさんには言えません。だから…」

 そう言うと、田上は立ち上がってタキオンの方に寄った。そして、カフェの代わりにタキオンを腕に抱き、持ち上げた。両腕にタキオンを抱き上げ、お姫様抱っこの体勢だ。それから、カフェに「ついて来ないでください」と言うと、タキオンを抱いたまま研究室を出た。タキオンに全く力が入っていないので、抱き上げながら運ぶのは大変だった。途中、幾度かこのまま下ろして立ち去ってしまおうかとも考えたが、どうしてもタキオンを野ざらしで放っておくことはできなかった。

 田上の目的地は、タキオンと散歩をしたことのある花壇だった。菜の花は、まだ咲いているはずだ。その花をタキオンに見せてやろうと思った。これと言った根拠があるわけではないが、菜の花を見れば、タキオンも目を覚ますのじゃないだろうかと思った。タキオンを迎えた人たちが駄弁りながら帰っていくのに途中であった。しかし、田上はその人らに絶対に目を合わさないで、自分の行きたいところだけを見据えた。

 

 黄色い菜の花の所まで来ると、田上も疲労が溜まってきて若干の息切れを起こしていた。それでも、タキオンを落っことさずに辿り着けたので、少々ほっとした。幸いな事に、近くに人はあまりいなかった。遠くに二三人が見えるだけで、後はのんびり穏やかとした春の午後だった。そして、田上は、タキオンを抱えたままその花壇の前に片膝を突いてしゃがみこんだ。

 菜の花が綺麗だった。彩度の高い黄色が春の陽気に意気揚々と輝いて、田上の目に色濃く映りこんだ。その中に小さな赤いてんとう虫が見えた。それを見た途端に、田上はふっとあの日の景色を思い出した。空に昇っていくてんとう虫をいつまでもいつまでも見上げた日。なんだかあの空に見惚れてしまった。タキオンも同じように空を見つめていた。――タキオンもあの空に見惚れたのだろうか?それが、不意に気になって、今度はタキオンの顔を見つめた。自分が惚れてしまった顔だ。今は、昏々と眠り続けている。――本当に起きないのだろうか?そう思いながら、田上はタキオンの長い前髪を掻き分けて、その可愛い顔を露わにした。その顔を見ると、田上は唐突に話しかけた。

「何でお前の事を俺なんかが好きになったんだろう。…なんでお前が俺の事なんかを好きになったんだろう」

 それを言うと、タキオンの顔が微かに笑ったような気がした。だから、田上も少し嬉しくなってもう一つ言った。

「お前の事が好きな事には間違いがないんだけど、どうしても何かが立ちはだかってて、途中で分からなくなるんだよ。……お前に迷惑はかけたくないんだけどな…。どうしても卑屈になったりお前を突き放したりしてしまうんだよ。……許してほしい。許してほしい。…お前に心の全てを打ち明ける日が来るまで、どうか、どうか許してほしい。…お前にも何かがあるんだろ?俺も一緒に考えるよ。お前だって苦しいのに、俺がお前の好意を盾にして攻撃してしまうからそうなったんだろ?弱い男でごめん。精一杯頑張ってお前の横に居るから、どうかもう一度俺を見てほしい。失敗してもどうか俺を許してやってほしい」

 田上はそう言うと、そっとタキオンの唇にキスをした。もうタキオンが起きるまで離さないつもりだった。すると、それ程経たないうちに晴れているのに雨が降ってきた。狐の嫁入りだ。田上の顔に雨が降りかかるが決してその唇は離さず、じっとじっと祈っていた。

【挿絵表示】

 

 菜の花が風に吹かれ揺れる音がする。周りには誰もいない。雨が静かに降り注ぐ音もする。田上の体は、肌着までびしょびしょになってきたが、それでもタキオンは起きない。田上は、じっとじっと待った。頭の中で――起きてくれ起きてくれ、と唱えていた言葉は、いつの間にか――愛してる愛してる、という言葉に変わった。やがて、雨が上がった。雨が上がるのにそれ程の時間はかからなかった。ものの二三分だ。それでもタキオンは起きない。田上は、一心に自分の愛をタキオンに注ぎ込みながら、起きるのを待った。

 

 ある時、びしょ濡れになった田上の頭から一筋の雫が垂れてきた。その雫は田上の頭から頬へ、頬から唇の方へ行き、タキオンと田上の唇を濡らした。すると、ピクッとタキオンの手が動き、体に力が入り始めた。けれども、田上はまだタキオンが起きたという確信が持てなかったから、そのまま唇を離さなかった。タキオンは、勿論起きていたが、田上がキスをしているという事に特段驚くこともなく、そのまま受け入れた。田上の首に手を回し、ゆっくりと後ろへ押し始めた。この頃になると、田上もタキオンが起きていることに気が付いていたが、もうタキオンにしがみ付かれていて離すことはできなかった。それに、自身もまた離すつもりはそんなになかったから、タキオンに押されるがままに地面に倒れた。二人の体勢が変わるたびに唇が離れそうになるからその都度、キスをし直した。二人の体を雨が伝って行き、田上は地面に寝そべり、その上にタキオンを乗せた。そこでようやく二人は、唇を離し見つめ合った。タキオンの赤い瞳が怪しげに水濡れた景色を反射し、田上を見た。

「君の声が聞こえた。真っ暗闇だったけど、はっきりと伝わったよ」

「それは良かった」

 二人はお互いを愛おしそうに見つめ合い、それからまたタキオンが言った。

「君からキスをしてくれたね」

「ああ、俺からキスをした」

「もう後戻りはできないかな?」

「できないだろうし、するつもりもない。お前を愛すると決めたんだ」

「それは、後から撤回になったりしないかい?」

「それは、…恐らくしないけど、したら俺の過ちだから絶対に止めてくれ」

「ああ、分かったよ。止めてみせる」

 そして、また二人はどちらが先と言う事もなくキスをした。

 見つめ合う時間が続く。二人とも嬉しさの絶頂に居るようだった。

「……君と、一緒に居れると思うと、涙が出てきそうだよ」

「俺もだ。いつか年老いてどちらかが死ぬその日まで一緒に居よう」

「死んでからもだよ。ずっと傍に居るから」

「俺もそうしよう。死んでも一緒に居るよ」

「ああ、そうしよう。そして、いつか二人で君のお母さんに会いに行こうね」

「そうだな。何十年も会わない事になるんだな」

 ここで、初めて田上はタキオンから目を逸らしてタキオンの向こうの空を見た。そして、タキオンに目を戻すと、タキオンが少し不安がった。

「あんまりお母さんの事を気にしてもらっても困るよ。私を見て」

「分かってるよ。……お前も大変だったんだな。…二人でだ。二人で助け合っていこう。俺がお前にばかり負担をかけてもしょうがないから」

「分かってるさ。…分かってるけど、それで自分を殺してしまったら駄目だからね」

「タキオンもだ。俺を助けるが為に少し頑張りすぎた。俺が言うのもあれだけど、もう少し落ち着こう。二人でするんだ。お前の問題は決してお前一人の問題じゃない。俺の問題も俺一人の問題じゃなかった。二人で生きて行こう」

「分かった。そうするよ。ありがとう」

 今度は、タキオンが田上の唇に軽くキスをして、すぐに離れた。田上は、そのキスを受けると嬉しそうに少し口角を上げたが、何も言わずにそのまま起き上がった。タキオンは、田上が起き上るにつれ自分も体勢を変えたが、決して田上の上から降りようとはしなかった。田上も下ろしたいわけじゃなかったので、タキオンが居場所を変えやすいようにゆっくりと起き上った。そして、最終的に田上が濡れた地面に胡坐をかいて座り、タキオンがその上に向かい合わせで座った。この場所に人がいないのが幸いだった。もし、人が通ったらその途端に二人きりの世界が終わってしまっただろう。それで、碌に話すこともできずに悶々としてしまっただろう。

 田上は、タキオンを膝の上に乗せて見つめ合いながら言った。

「綺麗だな、タキオン」

「かっこいいよ、圭一君」

「明日もまた話そう?」

「ああ、そうしよう。当分は君から離れたくない」

「それもいいな。何かあったら俺に言ってくれ」

「ああ、言うよ。君も何かあったら私に言うんだよ」

「そうするよ。……もう行くか?全身びしょ濡れだぞ」

「もう少しこうしていたい。……私は、どうしてここに?」

「お前が気を失って、カフェさんがお前の事を助けろって言ったんだ。だから、ここまで連れてきた」

「なんでここなんだい?」

 タキオンがそう聞くと、田上がふっと笑った。

「この菜の花を見ればお前が目を覚ますかと思ったんだけど、この菜の花の効果があったのは俺の方だった」

「どんな効果があったんだい?」

「勇気が湧いた。…少し違うかな?落ち着いた。……お前とこれを見たいと思った。これが一番だな。だから、…その、…お前にキスをした」

「私は、なんとなく君の事を感じていたよ。暗闇の中で君が私に語り掛けるのを聞いたんだ。そして、暖かい風が吹いて道ができた。だから、私はその道を歩いてここまでやってきた。…夢だったのかな?」

「いや、俺は、あれは夢のようには感じない」

「私もだ。するとなると、これは私は超常現象に出会ってしまったという事でいいのかな?」

 タキオンが、興味深げにそう言うと、田上はしょぼくれた顔をして言い返した。

「あれにはもう二度と会いたくないよ。…怖かった」

「私も怖かったさ。…いやだ。思い出したくない!」

 タキオンは田上の首にしがみ付いた。そして、少し震えた声を出した。

「君が、…君が死んじゃってたんだ。カフェを追いかけて行ったら。カフェが私に話しかけている時はまだ良かった。光が差していた。けど、カフェは急に回れ右して光の射す方向に消えていった。そして、最後には誰かが扉の閉める音がして急に暗闇になった。すると、そこに……君が死んでたから、無我夢中で逃げたよ。逃げたら、もう自分がどこに居るのか分からなくなっていた」

「大丈夫だよ。俺は、ここで生きているから」

 そう言って田上は、タキオンの背中をぽんぽんと叩いた。それにタキオンが嬉しそうな声を出した。

「ああ、君は生きてる。生きているって何て素晴らしいんだ。匂いも嗅げるし、光も見れるし、触れもするし、聞こえもする。それに、何と言ったって君が居る。これが一番嬉しい事だよ」

「俺も嬉しい。お前の目。…お前の目が、怖かったよ」

「私が、変になってしまった時かい?」

「そうだ。…あんまり言うのもあれかな?」

「いや、言ってしまった方がいいよ。今は明るい日の光の下だ。夜になってその事を思い出すより、今洗いざらい私に言ってしまった方がいい。その方が、一人で怖がらずに済む」

「そうか。二人でだもんな。…でもあれは形容し難いけど、…強いて言うなら、タキオンの目が暗闇に飲み込まれてしまったというか何と言うか。…とにかく、そこには何もなかった。タキオンの目が悪霊に憑かれたみたいに真っ黒になっていて、全ての光を吸い込んでいた。…怖かった」

 今度は、タキオンが田上を安心させる番だった。田上の後頭部の髪をくしゃくしゃと撫でながらタキオンは囁いた。

「怖いものを見たね。それが、自分の好きな人って言うんだから猶更だ」

「でも、タキオンは俺の死んだ姿を見たんだろ?」

「それに優劣はつけられないよ。君の、怖かった、という言葉は君の口から本音として出てきたわけだから、まずはそれを尊重しなくちゃ。私を心配するのはその後だ。…二人で、だろ?」

「ああ。…怖かった。それでも助けるのを渋った自分も怖かった。俺には、人の心がないのかもしれない」

「そんな事はないさ。君は私を起こしてくれたのだろう?最後には、勇気を出して私と長い長いキスをしてくれたのだろう?あれがなければ、私は暗闇の中から脱することができなかった。君のおかげでもあるんだよ」

「良かった。…そう言ってくれて。…報われた」

「今日まで頑張って生きてきたね。幾度か折れそうになったけど、よく生きてこられたよ」

「それは、タキオンのおかげだよ。俺をずっと堪えていてくれてありがとう」

「それで、私も報われるよ」

 そして、二人はより一層強く抱きしめあって、全身でお互いを感じた。陽の光によって、濡れていた地面も徐々に乾き始めてきた。空には虹が架かった。その虹を、タキオンは不意に顔を上げた時に見つけた。それから、思わず「あ、虹だ」と言った。それに田上が反応を示して、タキオンを抱きしめたまま「虹?」と聞き返した。田上は、周囲を見回して虹沿見つけたそうにもぞもぞしていたが、それはタキオンが許さなかった。「もう少し抱きしめさせてくれ」と言うと、田上の首が動かないように固定した。これは、ちょっとの意地悪だった。田上もそれが分かったから、――これは喧嘩を売っているのだろう、と思って、自分も少し意地悪をした。

「あ、人が歩いてきてる」

「え、本当かい?」

 そう言うと、タキオンの手が少し緩んだから、すぐに田上は、タキオンを気遣いつつも身を捩って虹を探した。虹は、田上の左の方にあった。それを見上げて、田上は「本当だ。綺麗だな」と言った。タキオンは、田上の言葉で騙されたのに少しムカついたが、それによって冷静にもなった。だから、虹の方を見ていた田上の顔を無理矢理自分の方に向かせると言った。

「もうそろそろ行かなきゃ。私たち、お昼ご飯を食べていないし、ここで抱き合っていても色々と不味い」

「不味い?何で?」と田上は甘えるように聞いた。今までの田上からすると、考えられない表情だ。その表情を見ると、タキオンも少し可笑しくなってニヤリと笑ったが、ニヤリと笑ったのみで後は真面目な顔をて言った。

「こういう場面を見られたくないのは君も一緒だろ?...それに、こうやって諭すのは君の役目とばかり思っていたんだけどな」

「俺は、今、タキオンに甘えたいお年頃なんだよ。...気持ち悪いかな?」

「いや、そうやって甘えてくれると、君も私に心を開いてくれていると分かるから安心するよ。...それでも、ここに居るのは不味い。とりあえず、カフェの所に行こう。そして、研究室が無事だって言うんなら、あそこに行こう。…カフェは研究室かな?」

「多分そうじゃないか?」

「うん、じゃあ研究室に行ってみるとする。…あそこなら、カフェと松浦トレーナー以外には邪魔されないし、また、あの人らもよってたかって私たちの恋路を邪魔しないだろうしね」

 田上は、それに「そうだね」と返事をして了承の意を伝えた後、少しタキオンをからかうような顔つきをして言った。

「お前、そう言えば、松浦さんにハグを求めたことがあったな」

「…ん?」とタキオンは初めは覚えていないふりをしていたが、段々と我慢しきれなくなったのか、その後に少し怒った口調になって言った。

「あんまり穿り返さないでくれよ。松浦君には実験として協力してもらおうと思ったし、それも君が私を抱き締めなかったからじゃないか」

「今は抱き締められるよ」

 田上が、挑発するように言った。

「じゃあ、やってもらおうじゃないか。もう一度抱き締めたまえ」

「分かった」

 そう言うと、田上はタキオンの体を抱きしめ、その栗毛に自分の顔を埋めた。雨の匂いの間にほんのりと香るタキオンの匂いがした。それを感じると田上は顔を埋めたままふふふと笑った。タキオンもその田上の吐息が首筋に掛かり、くすぐったそうにふふふと笑った。すると、その笑い声が田上を幸せにして、またふふふと笑わせた。その笑いの連鎖が少しの間続いた後、その連鎖を断ち切ろうとタキオンが田上の耳にふっと息を吹いた。それで、田上はむっと怒った顔をして、タキオンの首筋から離れ、タキオンの顔を見つめた。

 タキオンは、その顔に向かって微かに笑いかけながら言った。

「もう、ここでは十分だろ?着替えるか何かしてから研究室に向かおう。それから、カフェにも何か言ってやろう。あの人も君を説得するために頑張ったんだろ?相手が、君だったんならそれはそれは労力が必要だったはずだ」

「謝らないといけないな」

 その後に二人は見つめ合った。この場から離れようと言っているのに、一向に離れようとしない。まだまだ二人だけの時間を楽しみたいようだった。しかし、それもようやく終わりを迎えた。今度は、本当に道の向こうから人が現れたのだ。女の子の二人組だった。タキオンは、その二人を見ても誰なのか気付いていなかったが、田上は気が付いた。だから、その二人をただの通行人だと思って、その人たちに悟られないように、急いで立ち上がって田上から離れたタキオンに言った。

「あれ、お前の友達じゃなかったか?…確か、アルト君とハナミ君じゃ?」

「え?ああ…。不味い奴らが来たな。この場で一番うるさい人たちだ」

 その二人組は、じっと立っているタキオンと濡れている地面に座っている田上を見つめながら近づいてきた。そして、タキオンたちから二三メートルの場所まで来ると、じろじろと目の前の男女を見つめながら「田上トレーナー、こんにちわ」と言った。それから、タキオンの方を見て、田上の手前言いにくそうにしながらハナミが言った。

「何してたの?」

「別に。……ただ、雨が降っていたから遊んでいただけさ」

「抱き合って?」

 ハナミは、難しい顔をしながらも躊躇うことなくタキオンに聞いた。この少し無神経な質問に以前のタキオンなら怒った顔をしていたかもしれないが、今のタキオンは違った。なんてことないという顔をして答えた。

「好きだから抱き合っていただけさ」

 この真正直な答えにハナミは混乱した。確かに、タキオンの言葉は聞こえていたが、頭の中で理解ができなかった。今のタキオンの反応は、ハナミの知っているタキオンの反応ではなかった。その考えが、ハナミの思考を鈍らせたが、アルトと言えば、ただニコニコしながら言った。

「じゃあ、田上トレーナーと恋人になったって事なの?」

 タキオンは、座っている田上を見つめて「そうだよね?」と言った。答えの分かり切っていた質問だったが、まだ、明確な言葉としては聞いていなかったのでそう聞いた。それに田上は、タキオンを見つめて「そうだよ」と言った。すると、今度は、アルトが田上の方に聞いてきた。

「タキオンのどこを好きになったんですか?」

 初めに田上は思わず照れてしまった「え?」と上ずった声を出してしまったが、次にごまかすように笑いながら言った。

「色んなところかな。栗毛も好きだし、小さな手も好きだし、赤色の目も好きだけど、一番はタキオンが好きだよ」

「おお!!本当に好きなんですね。親友の事を好きになってくれてありがとうございます。私は、この子の将来が不安で不安で…。だって、研究に熱中していた頃は碌に教室に来なかったから。最近は、ちゃんと来るようになって面白いんです。…もしかして、田上トレーナーの事を好きになったから来るようになったの?」

 最後にアルトはタキオンの方に聞くと、タキオンは首を振って答えた。

「いいや。それとこれとは別さ。…でも、それも一概に違うとも言えないけどね」

 そして、話の終わった気配がした。その気配を感じて、今度はハナミが口を開いた。

「タキオンは、私に田上トレーナーの事は好きじゃないって言ったよね?しかも少し怒って」

「ああ、あれは嘘だ。すまなかった。けれど、こっちもこっちで色々あったんだ。君につっけんどんになったのは申し訳なかった」

「…謝る…んならいいけど、…こっちも悪かったしね。…ん~。…上手く言葉がまとまらないなぁ」

 そう言ってハナミは目を泳がせた。それで、ふっと田上と目を合わせると、そのまま口を開いて言った。

「トレーナーさんは、私が今、――あなたの事が好きですって言ったらどう答えますか?」

「え?…断るけど…」

 田上は、その言葉に別の何かが含まれているのじゃないかと思ってハナミを見つめたが、ハナミは田上の答えを聞くと、あっさりと今度はタキオンの方を向いて聞いた。

「タキオンはどうするの?」

「え、私かい?…普通に止めるよ。だって、私の圭一君だもん」

「…圭一君。…前は、トレーナー君って呼んでたよね?…モルモット君?」

「ああ、トレーナー君とかモルモット君とかだね。それがどうかしたかい?」

「…いや、…仲良くなったんだね」

「そうだね。大阪杯は、疲れもしたが有意義な旅になったよ」

「GⅠ、三度目の優勝なんて凄いね」

「ここまで来ると、日本ダービーを勝ち切れなかったのが惜しいくらいだね。四冠目を大阪杯にしてみたかった」

「日本ダービーは、他校の人だったよね。…凄いよ。タキオンは、私たちの期待の星だよ」

「そりゃあ、ありがとう」

 普段のハナミらしくない神妙な褒め方にタキオンも戸惑いながらも感謝の言葉を告げた。

 そして、またハナミが言った。

「どれもこれも田上トレーナーと一緒に居たから勝てたの?」

 その後にタキオンから田上の方に目を移すと、「田上トレーナー、いい加減立ち上がったらどうなんですか?」と真面目な調子で言った。だから、田上も「ああ、すみません」と思わず謝罪して、慌てて立ち上がった。タキオンは、その様子を見ながら、ハナミに言った。

「そうだね。圭一君がいたから勝てた。それは、モルモットとして私の実験に協力してくれたからだけではなく、私の心の支えとして大きな役割を果たしてくれたからだ」

「じゃあ、私にはそれが足りないのかな…」

「勿論それだけじゃないよ。ウマ娘ってのは、まず体が資本だ。資本がなければ何もできない。出資してくれるトレーナーにだって限度がある。ならば、ウマ娘にとってレースとは何なのか?私たちウマ娘は、ほとんどヒトと同じ種でありながら、その本質はヒトとは根本的に異なる。明らかに走るために生まれてきた人種だ。昔は、それを労働の糧として使用してきたそうだが、今は違うと言える。レースだ。レースが人々を熱狂させた。人は、自分よりも儚く力の弱そうな女の子に夢を見た。――こんな小さな女の子に物凄い底力があるのか…、と。つまり、ウマ娘にとってレースとは人々に夢を与える手段なのだよ。君もあんまり勝ち負けに拘らない方がいい。私たちは、恐らくそのために生まれてきた」

「じゃあ、人なんて好きにならない方がいいって事?」

 タキオンの長い話に、ハナミは頭を混乱させながら聞いた。

「それは、私の話を曲解しすぎだよ。私たちは人とは異なるけど、人としては暮らしていいんだよ。現に私は人並みに恋をしたんだから。ヒトとは異なるという私のただの仮説であって、夢であるだけだよ。根拠なんてあんまりない。…だけど、レースにおいて体が資本なのは事実だ。いくら頑張ったってできない事もあるんだよ。君は、トレセン学園にいて楽しいだろ?」

「…まぁ、それなりに充実してはいるよ」

「なら、私はそれだけでいいと思うけどね。私は、レースの才能を持って生まれたから、たまたまウマ娘として上手くいったけど、世の中色んな人がいるんだ。別に、ウマ娘だからって走る理由もない。皆、それぞれ走る事を楽しんでここから立ち去っていくだけさ。そのまま、自分のトレーナーと結婚して主婦になる人がいれば、様々な資格を取って専門職になったりする人もいる。今は、走る事が楽しくっても将来はどうなっているか分からないものだよ」

 ハナミは、まだあんまり分かっていなさそうだった。うーん…、と唸ってタキオンの顔をただ見るともなく見つめていた。だから、アルトが分かりやすいように横から口を挟んだ。

「つまり、レースやって楽しんで、それから学園生活も楽しんで、私たちと遊ぶことも楽しんで、何もかも楽しめばいいって事だよ。私は、楽しいよ?ハナミと居る時もタキオンと居る時もレースをしている時も。…そりゃあ、負けちゃえば悔しい時もあるけど、結構すぐに吹き飛んじゃうよね」

「私も…別に吹き飛ばない事はないんだけど……、何の話だったっけ?これ、元々は違う話だったよね?」

 そこで、タキオンが言った。

「ああ、私が圭一君が好きなのをどうたらこうたらで、急にハナミ君が――田上トレーナーと一緒に居たから勝てたの?って聞いてきたんだろ?」

「ああ、それだよ。…私たちのトレーナー、もう白髪の爺さんだからな~」

 ハナミがそう言うと、アルトも同調した。ハナミとアルトは、同じトレーナーの下で指導を受けている。

「あの人も優しい事には優しいんだけど、担当している子が多いからね。どうしても私たちだけには目を向けていられないからね」

「つまり、もっと白髪の爺さんに頼りたいって事かい?」

 その言葉を聞くと、ハナミも躊躇ないながらも頷いた。

「まぁ、…まぁ、間違いじゃないけどね。…それ程気にしている事でもないからなぁ。…でも、私もかっこいい人と付き合いたいなぁ…。出会いがないよ」

「なら、飛び出せばいいじゃないか。マッチングアプリなんかを使って、男の人と会ってみたらどうだい?」

「そんなん怖いに決まってんじゃん。もし、相手方がヤバい人で数人で来て、私をどっかに連れて行ったらどうすんの?」

「事件だね。警察が捜索するに決まってるよ」

「私は、まず事件に会いたくない!…となると、タキオンと田上トレーナーみたいに仲が良くなって、恋人になりたい。…そんな出会いありますか?」

「女子校に居るんじゃ大変だろうね。一番身近な人が男の人じゃなかったら、まずアウトだ」

「そうだよねぇ…。…田上トレーナー!タキオンじゃなくて私はどうですか!」

 ハナミが唐突にそう言うと、タキオンが隣の田上の腕を掴んで慌てて言った。

「なに人の恋人を取ろうとしてるんだい!君はお呼びじゃないんだからどっかに行け!」

「えー、田上トレーナーなら面倒見良さそうなんだけどなー」

「こいつが面倒見がいいのは私の時だけだよ!分かったら圭一君に構うのは止めろ!」

「えー、そう言われるともっと欲しくなっちゃうー。…冗談だよ冗談。タキオン、田上トレーナーの事好きすぎるでしょ」

「そんなに好きじゃない!」とタキオンは反射で言ったが、その後に慌てて田上の顔を見て弁解した。

「別に嫌いじゃないよ」

「じゃあ、大好きなの?」とハナミが横から口を挟んだ。

 それにタキオンは「うるさい!」と噛みつくように言った。すると、田上はそれが可笑しくってクスクスと笑い始めた。タキオンとハナミは、その顔を不思議そうに眺めた。アルトも、今まで終始ニコニコとしていたが、今回ばかりは不思議そうに田上を見つめた。この場に居る田上以外の全員が、その笑っている姿に驚いていた。田上も自分が笑っているせいで場の雰囲気がおかしくなっているのは感じ取っていたが、それでも妙にタキオンの言動が笑いのツボに入ってしまってクスクス笑いを止められないでいた。そして、一頻り笑い続けた後、ごまかすようにオホンと咳ばらいをして言った。

「何かあったの?」

 三人は、まだ不思議そうな顔をして見つめていたが、最初にタキオンが口を開いた。

「…君、そんな風に笑う事もあるんだね。いつも渋い顔してたのに」

「そうだね。まさか、そんな風に驚かれるとは思わなかったけど」

「それくらいに君の笑っている姿が希少なんだよ。…何が可笑しかったんだい?」

「…タキオンの言動だよ。…必死に俺の事を守ろうとしているのが、なんか猫みたいで」

 それを言うと、田上にまた笑いが込み上げてきて、ふふふと笑った。

「猫?…全部、ハナミ君のせいだけどね」

「おやぁ?でも、希少な希少な田上トレーナーの笑顔が見れて嬉しかったんじゃないですかな?」

 ハナミが、目を見開いてニヤニヤしながら言った。

「まぁ、嬉しいと言われれば嬉しいけど、君っていうのがなんだか癪だ。…でも、礼は言わせてもらおう。ありがとう」

 タキオンも若干ハナミの調子に合わせて感謝を告げた。そこで、田上がタキオンの気を引く様に小突いて言った。

「俺、もうそろそろ寒くなってきたから、もう帰るね」

「ああ。じゃあ、私も帰ろう。二人共また今度」

「ばいばい」とアルトとハナミが言って、それから、アルトが不図思い出した声を出して言付け加えた。

「ああ!タキオンの荷物。私たちが回収してデジタルさんに渡しておいたから」

「忘れてた。ありがとう。…じゃあ、私たちは行こうか」

 タキオンは、田上の右腕にくっついて歩きだした。アルトもハナミもニコニコしながらそれを見送った。ずぶ濡れで地面に寝転がった汚い背中が片方と、嬉しそうに渋い男の顔を見上げる可愛い顔が見えた。その二人は、黄色い菜の花の咲いている花壇を右手に、随分と幸せそうに歩いていた。タキオンの栗毛の尻尾がどことなく嬉しそうに揺れていた。

 その歩み去って行く二人を見つめて、アルトとハナミは「良かったね」「嬉しそうだね」と言い合った。

 狐が嫁に入った後の虹は、役目を終えて徐々に空に溶けていこうとしていた。

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