タキオンと田上は、寮の方に帰るとまず体を暖めるためにシャワーを浴びて、それが終わると別の服に着替えた。それから二人は、何をどうすると申し合わせわけでもないのに同じくらいの時に寮から出ていって、自然にお互いの寮の方に向けて足を向けた。そして、道でばったり二人が会うとタキオンが口を開いて言った。
「…同棲するのはいつになるんだろうね?」
その言葉で田上は少し動揺したようだったが、できるだけ平然として「まだ先だな」と答えた。タキオンには、勿論田上が動揺している事が手に取るように分かったが、ただ「あんまり長くならない方が私には助かるね」と会話の答えを言ったばかりでそれを指摘することはなかった。
その会話をした後に二人は、研究室兼カフェの私室へと向かった。今度は、タキオンも田上の腕に引っ付いたり、手を握ったりはしなかったが、そうすると、田上が少し不満げな顔をしていた。それで、中々本音が言えないようだったから、タキオンが聞いた。
「私に甘えたいのかい?」
案の定、田上はその言葉で動揺していた。
「え…?…別に…別に、そんなんじゃあないけど…。……少し手を…繋いで…くれ」
それに、タキオンは笑いながら答えた。
「そんなに苦しそうに言わなくったっていいじゃないか。今の君、睡眠薬を飲まされて朦朧としている人みたいだったよ」
「…早く…」
そう言って、田上が睨んできたから、それに笑い返してタキオンは手を繋いであげた。タキオンの手に繋がれた田上の手は、初めのうちは居心地が悪そうにもぞもぞ動いていたが、タキオンと話しているとそれも次第に忘れていって、自然と手を繋いでいた。途中で、二三人とすれ違いもしたが、タキオンと手を離そうともがくことはなかった。ただ、その人たちとすれ違った後は、恥ずかしそうに、――これで良かったのだろうか?と考えながら変に口角を歪ませていた。だから、タキオンはその度に勇気づけ、また、その手を放さない為に少しだけ強く握ってやった。その手の微妙な力の変動に田上は気がついてはいなさそうだった。
やがて、二人は研究室兼カフェの私室へと着いた。タキオンは、田上と手を繋いだままカフェの私室の扉を叩いた。すると、なんにもないのに扉は勝手にするりと開いた。タキオンも驚きはしたが、たまーにこういう事があるから、わざわざ声に出して驚くこともせず、田上の手を引いてカフェの私室の中へと入った。そして、中でソファーに座ってこちらを睨むように見てきているカフェにタキオンが軽く言った。
「やあ、ミス・超常現象。私を助ける手伝いをしてくれたそうだね。お礼を言いに来たよ」
「こんにちは、超光速のお姫様。大好きな王子様の口付けは如何でしたか?」
カフェは、元気そうなタキオンに若干腹が立って、気だるそうにそう言った。その効果は抜群だった。タキオンは、その言葉を聞いた途端に「は!!?」と大きな声を上げたし、ついでに、田上が緊張して無意識のうちにタキオンの手から離れようとした。
タキオンは、その後に、田上の手が離れようとしているのに気が付いて、急いで隣の顔を見上げたが何を言う暇もなく、田上が自分のしようとしていた事に気が付いて、「ごめん」と言った。だから、その言葉を聞くと今度はカフェの方を向いて、タキオンは言った。
「君!見てたのかい!?」
「いえ…。でも、お友達から聞きました」
「出た!君の幽霊だね?こっちにはプライバシーの欠片も無いのかい?」
すると、カフェは空中を見つめて少し押し黙った後、タキオンに言った。
「お友達が言うには、――道端でキスをする奴にプライバシーも何もあるもんか。…との事らしいです。…タキオンさん、あなた、道端でキスしていたんですか…?とんだ破廉恥お姫様ですね……」
「違う!始めたのは私じゃなくて圭一君だよ!」
タキオンが、恥ずかしさ紛れにそう言うと、田上が横から口を開いた。
「そうです……。すいません」
恐ろしく気落ちした声だった。それで、タキオンも責めるつもりはなかったから、「君のせいじゃないんだよ」と慌てて取り繕ったが、田上はもうタキオンを見ておらず、かと言ってカフェでもない虚空を見つめていた。すると、また先程の様に電灯がカチカチと鳴って、部屋に置いてあった金の天秤が、キシキシと音を立てて右に落ち込んだ。その天秤の様子にはタキオンは気が付かなかったが、またあの時に自分に入り込んできたような暗闇を感じて怯えを持った。それでも、田上の事が心配で田上の視線に入り込むように前に立つと、繋いでいない方の手も取って「大丈夫かい?」と聞いた。電気は、何事もなく極めて平常な様子で再び調子を保った。
カフェは、その電灯を見上げ、次に動いた天秤を見つめると、タキオンの言葉に「大丈夫…」と答えている田上を横に天秤の方に歩いて行った。そして、それを前の様に水平に戻した。金の天秤は、鈍く電灯の明かりを反射していた。
そうすると、今度は、自分を不安そうに見てきているタキオンに向かって言った。
「…あなたたちも随分と不安定ですね。私が居るのにこんなになるなんて…」
「今のは君の幽霊かい?」
タキオンがそう聞くと、カフェが答える前に、天秤と同じ低い棚の上に置いてあったノートが、一人でに空中に浮かび、そのノートに『違う』と書き殴られた。その事に困惑しながらもタキオンは、どこに居るのかも分からない幽霊にもう一度聞いた。
「じゃあ、今のは先程の暗闇と関係あるんだね?…それは何だい?」
『悪意』とノートに書かれた。
「悪意?そいつは君の同族という事でいいんだよね?」
また『違う』と書かれた。しかし、今度はその後に電灯が再びチカチカと鳴った。そして、ノートに慌てたような文字で『ここでするような話じゃない』と書かれた。
「私もそのように思います。一旦、ここから離れましょう。そして、あなたたちは当分の内はここには来ないでください」とカフェが言った。
「君は?君は大丈夫なのかい?」
「私には、元々そういう体質があります。悪さを働く者を寄せつけない、大人しくさせるものが」
その言葉を理解できなさそうにタキオンが、少し首を傾げて眉を寄せたが、何か言う前にカフェが口を開いた。
「行きましょう。…まだ話がしたいですか?私は、別にしなくて構いませんが」
「私はしたいよ。何か…何かがあの部屋に居るんだろ?ね?」
タキオンは、話の最後に田上にそう呼びかけたが、田上は「ああ…、うん…」とぼんやりとした様子で返事をしたばかりだった。それだから、タキオンは尚の事田上が心配になって「大丈夫かい?」ともう一度聞いた後、カフェに「本当にこれは大丈夫なんだろうね?」と焦り気味の様子でそう言った。カフェは、ぼんやりとしている田上の目を見つめながら、「大丈夫です…」と言った。その言い方も的を得ないようなものだったので、タキオンは「本当に…?」と聞いた。
「ええ。…ただ、この人に女の子にキスをするくらいの度胸があったのが……。この部屋を出ましょう」
田上やタキオンの心に変動を及ぼすと、どんな影響が出るのか分からないので、言いかけた言葉を飲み込んでカフェは外へと二人を促した。しかし、どこに行く当てもなかった。空き教室に行くのもなんだか微妙だし、かと言って廊下で話すのは落ち着かない、外のベンチに腰掛けるのは雨が降った後なので尻は確実に濡れる。その中で選択肢を絞っていった結果、渡り廊下にあるちょっとした四五段の階段に腰かけて話そうという事になった。最後までごねたのは田上だったが、タキオンが少し頑張って頼むと仕方なくそれを受け入れた。
三人は、研究室の一番近くにある渡り廊下の方まで行って座った。その上には、まだ渡り廊下があってそれが屋根になって雨が降りこむのを防いでいた。風もそれ程強くなかったのは幸いだった。屋根があるといえど、端の方は少し濡れていたのでタキオンたちは中央寄りに座った。階段に座ったのは、タキオンと田上だけだった。カフェは、渡り廊下と校舎を繋ぐガラス戸に背をもたれかけさせ、しゃがみこもうとした。そこで、何が気に入らなかったのか再び立ち上がると、階段を上り切ってただの石の廊下になっている所に座って言った。
「タキオンさんもこっちに座ってください」
「なんでだい?」
タキオンが不思議そうに聞くと、カフェが返した。
「あなたに見下ろされると妙に腹が立ちます」
それを言われると、タキオンも苦笑をしながらカフェの指示に従った。カフェは、タキオンが何の抵抗もしなかったので拍子抜けになって、なんだか負けた気分がした。ただ、それをごちゃごちゃ言っても始まらないので、ゆったりとしたズボンが座った事により少し乱れたのを整えると言った。
「何から知りたいですか?手短に話してください」
「じゃあ、『悪意』とは一体何だい?君のお友達の話だと、幽霊ではないようだけど…」とタキオンが言うと、カフェのズボンのポケットから先程のノートがふわりと飛び出て、文字が書かれた。
『近しい物。しかし、何なのかは言えない。言うと、あいつが俺を苛めるかもしれない』
「そうなのかい?その『悪意』はあの部屋から出ても耳を澄ませているのかい?」
そのタキオンの質問は、少し答えるには難しかったらしく、ノートに文字を書かれるまで間があった。その後に、こう書かれた。
『分からない。あいつが、起きているのか寝ているのか話しているのか、俺に推し量る事はできない』
「すると、部屋が『悪意』なのであって、君たち幽霊の様に実体?のようなものがあるわけじゃないのかい?…そもそも、君たち幽霊って一体どういう生き物なんだい?現在の科学では全く存在の確認ができないものではあるのだけれど。…何か私たちの知らない物質が関係しているのかい?」
それの後に暫く間があって、またノートに文字が記された。
『分からない。カフェには私の存在が確認できる。カフェの体を解剖してみては?』
カフェは、嫌そうにしかめっ面をして、「余計な事を…」と言ったが、ノートにはまだ続きが記された。
『それと、『悪意』の正体にこれ以上触れるのは止めてくれ。お互いにとって良くない。俺が、『悪意』と言ったのも忘れてほしい』
「分かった。なら、君について聞きたいが、……君の名前は一体何なんだい?」
すると、ノートには『言えない』とただ一言記された。それだから、カフェが解説を付け加えた。
「私が、その人に名前を聞こうとしてもただ、――言えない、の一点張りでした。何回聞いてもどうしても言えないそうです。だから、私は、普段はTruth〈真実〉と呼んでいます」
「その言葉に何か意味でもあるのかい?」
「いえ、特に。……何か分かる事があればいいな、と思ってつけた名です」
「じゃあ、意味があるじゃないか。君は、そのトゥルース君に真実を教えてもらいたくてつけた名なんだろ?」
「あんまり望みはありません。だから、特に意味はないんです。……質問はそれで終わりですか?」
「いや、まだあるよ。…トゥルース君へ質問だ。いや、カフェでもいい。私は、あの時どうなっていたんだ?君の声は微かに聞こえた。それもすぐに去って行ってしまったが。…それで、暗闇に包まれたと思ったら、暖かい風が吹いて圭一君が起こしてくれた」
そこでタキオンは田上の方を見たが、田上と言えば、その話を聞いた途端に目を落として気落ちした顔をした。それに何か励ましの言葉をかけてやりたかったが、それをする前にカフェが返事をした。
「私にもあなたが何を感じてたのかまでは分かりませんが、あの部屋の不思議なものはまず、田上トレーナーのことを狙おうとしました」
「…?それがなんで私になったんだい?」とタキオンが言うと、平然としてカフェが答えた。
「私が、飛び込んできたからです。…部屋に押し入ったのは間違ってはいないと思います。あれは、もし時間があれば、タキオンさんも狙っていた可能性が無くは無いですからね」
「君になんでその事が分かったんだい?」
「私が、部屋に押し入ったとき虚ろになっていく田上トレーナーが見えました。そして、今回の暗闇の元凶も。なんでああなったのかは聞きません。あなたたち同士で解決を目指せるのならば、私は干渉しません。ただ、今後は、落ち込んだ時はあの部屋に行くのはよした方がいいですよ。いつ、ああいう事が起きるか分かりません。私にもなんであれがあんなに動き始めたのかは全く分からないんです。…私は、襲われることはありません。そこらへんは、安心してていいです」
「そしたら、圭一君の事をその部屋の奴はどうしようとしてたんだい?圭一君を虚ろにしようとしてたんなら、わざわざ君が来たタイミングで私に乗り換えるようなことはしないだろう?」
「あなたのは、奴の鼬の最後っ屁です。どういう仕組みで成っているのかは分かりませんが、私には、田上トレーナーの事を抜け殻にしてその中にあれが入ろうとしていたのじゃないかと思います」
「入って何を?」
「私には分かりません。でも、本人に成りすまして生活するだなんて碌な事ではないでしょう。あれが、『悪意』というのなら、あなたを懐柔して弄ぶことも考えるでしょうし、もしかしたら、トレセン学園で殺害事件みたいなことを引き起こそうとたくらむかもしれません。…とにかく、私には詳しい事は分かりません。ただ、あれが日常に溶け込もうとしていたのは分かります。人間の生活を味わってみたかったのではないでしょうか?」
そこで、今まで黙って話を聞いていた田上が初めて口を開いた。
「タキオン…」
ぼんやりしていたのが転じて、今度は、気落ちした声になっていた。
「俺は…」
「別に君が悪いと言っているわけじゃ無いんだよ?」
タキオンが、心配そうに口を挟んだが、それを否定して田上が言葉を続けた。
「いや、俺は、自分が怖い…。悪意が俺を抜け殻にしなくたって、悪意になってしまいそうな自分がいる。あれが、先に俺を狙ったのも納得がいく。一番、扱い易そうなのが俺だったんだよ。何もわからない、何もない、今にも正気を失いそうな男。いつどこで爆発するのか分からない…。もしかしたら、もう悪意は俺の中に居るのかもしれない」
それを田上が言うと、タキオンが慌てて問うようにカフェの顔を見た。だから、カフェはタキオンではなく、田上に向かって言った。
「私が、見る限りあなたの中にあれが住んでいるようには見えません。……ええ、トゥルースもそう言っています。…ただ、御存知の通り『悪意』という言葉は人間にだって適用されます。自分の心からそれを産み出してしまうのです。…ですが、それはよっぽどの事ですのであまりお気になさらないほうが身のためかと…。…それに、トレーナーさんにはタキオンさんも居るのでしょう?苦しくなれば、可愛い奥さんの顔を思い出してみれば如何ですか?」
若干、冗談めかして言ったが、話を聞いていた田上の方はただ悩ましげに自分の顔を指先で撫でただけだった。タキオンもその冗談を良くは思わなかったようで、カフェの顔をじろりと睨んだ後田上に向かって言った。
「例え君が悪意に侵されていたとしても、私は全然構わないよ」
「なら、俺の中身がすり替わっていたとしても良いって事か?」
「そんな事じゃないさ。ただ、君は悪意に侵されるほど軟な男じゃないって事さ」
「でも、俺は飲み込まれそうになった」
「飲み込まれそうになった?…君が虚ろになっていくときだね?どんな感覚だったんだい?私にも共有してくれ」
「……それと同じような夢を見た事がある」
「どんな夢なんだい?」
「……落ちていく夢だ。…深い深い穴に。…底は見えない。ただ、落ちていくだけ…」
「その夢は、落ちていくだけの夢かい?」
「…いや、……タキオンに嫌われる夢だった。――部屋から出て行け!って怒鳴られて、ドアを開けたら奈落に真っ逆さまだった」
その事を聞くと、タキオンは優しく言った。
「君もバカな夢を見るなぁ。私が、君を嫌いになんてなるはずがないじゃないか」
「でも、嫌われてもいいようなことはたくさんしてきた…」
「君は、それを後悔してたんだね。…大丈夫だよ。私は、君の事は嫌いになったりしない」
タキオンは、そう言って田上を安心させるためにその背に手を伸ばしたが、田上は「やめてくれ…」と言って手を追い払った。けれども、タキオンだって田上の事が心配だった。だから、何か言葉をかけてやろうとしたが、その前にカフェが言った。
「もう話は終わりですか?終わりならば、私は早く帰りたいのですが…」
「ああ、もう終わりだよ」
そうタキオンが言うと、急に田上がスクッと立ち上がって言った。
「じゃあ、俺ももう帰る」
そうすると、他の二人の返事も聞かずスタスタと歩いて行った。
「え…」とタキオンは呆然とした様子だった。自分も立ち上がって追いかける事ができず、ただ、その去って行く背中を見つめた。それから、我に返ったのはカフェに「タキオンさん…?」と呼び掛けられた時だった。田上は、渡り廊下から校舎に入り、廊下の角を曲がって見えなくなっていた。
タキオンは、カフェに向かって怒り気味に言った。
「なんで圭一君は帰ったんだ」
「さぁ?…私に聞かれても分かりません。あなたが一番分かっていらっしゃるんじゃないですか?」
「……分かっているよ。…どうにもやりづらいよ」
「…それは、あなたも辛さを持っているからじゃないですか?…心に抱えているものがあるのでしょう?」
「…そりゃあ、…持ってるさ。だけど、どうにも向き合う時間がなくてね。心に抱えたままにしてる。…いつか分かるときが来るのかな?」
「私には分かりません。…けれど、真実は掴まなければなりません。…望みはないですが…」
「真実なんて、望んだって勉強したって簡単に手に入るようなものじゃないからね。…掴まないといけないよ」
タキオンは、そう言うとノロノロと立ち上がった。そのタキオンにカフェが「いってらっしゃい。…そして、真実が分かったときは、ぜひ、私に恋の実らせ方を教えてください」と言った。タキオンは、気だるそうにその言葉を発したカフェの顔を見つめたが、その後に「できたら教えるよ。…何十年かかるかもしれないけど…」と返した。カフェは、にこりと口角を上げてもう一度「いってらっしゃい」と言った。タキオンは、もう何も反応せずノロノロとした足取りながらも最大限急いでいる様子で田上の去って行った方へ歩いて行った。
結局、その日の内にタキオンが田上の背に追いつけることはなかった。タキオンも一応急いだつもりではあったのだが、田上が途中で走ったのか何なのかもう行方は全く分からなくなった。タキオンは、そこで田上が寮に行ったのだろうと見当をつけたが、寮の前まで歩いて行ってみて、誰も居ないのを確認するとそれ以上探す気力が失せた。だから、その後はそのまま寮へと帰った。
帰ると同室のデジタルが出迎えてくれた。タキオンの大阪杯を見ていたらしく、「あそこのここが良かった」「ここがこうでどうこうで本当に素晴らしかった」とお褒めの言葉を述べた。それをタキオンは適当に聞き流したが、ウイニングライブの話に移りデジタルの質問が飛んでくると、そこで始めてデジタルの目を見た。
デジタルは、ウイニングライブについてこんな質問をしてきた。
「タキオンさんのダンス、演技、本当に素晴らしかったです。その中で、歌詞にはないはずのトレーナーさんに言及していたのはタキオンさんの悪戯とかアドリブとかですか?」
この質問が飛んできた時、タキオンはベッドにうつ伏せに寝転がっていて顔を枕に埋めていた。しかし、その質問でそれをやめてデジタルの方をじっと見つめ始めた。デジタルは、タキオンが答えもしないで自分の顔を見つめてくるのに戸惑った。だから、こう聞いた。
「…あの、…今の質問はダメでしたか?」
「…いや、ダメではないよ。ただ、この話をしたら君は喜ぶんだろうな、と思ってね」
「どんな話ですか?」と聞きながらデジタルは、もうすでに自分の頭の中で空想を繰り広げていたが、そのどれでもない答えが返ってきた。
「私と圭一君ね、…キスをしたんだよ」
「キスぅ!?キスですと!?それは、憐れなデジタルめをからかうための嘘ではなく?」
「この場で君をからかって何の意味があるんだい。本当だよ。全部本当。つい帰ってきた後もキスをしたばかりさ」
「あわわわわわ!!なななな、なぜ!なぜ、その様な行為を及んだのか後学の為に私めに教えていただけはしないございましょうか」
「後学?…別に言っても構わないけど、君も私の相談に乗ってくれよ」
「そそそそそ、相談!?ああ、ぜひともデジたんに言える事があれば仰ってください。何にでも答えを見つけて差し上げます!」
そのデジタルの反応にタキオンは苦笑した。
「いつまでも君は騒ぐねぇ。…答えなんてあればいいけど。……私、一番初めのキスは思わずやってしまったんだよ。…気を引きたかったのかどうかは知らない。ただ、衝動的にやってしまったんだよ。彼が、――行かないでくれ、なんて言うから」
「行かないでくれぇ!!え?え?…トレーナーさん…圭一君!!?タキオンさん、先程田上トレーナーの事を圭一君と仰いましたか!?」
デジタルは混乱に混乱を重ね、到底、言語では追えないほどに思考がひっちゃかめっちゃかになっていて、先程のタキオンの何気ない発言を今頃引っ張り出していた。タキオンもその様子を少し鬱陶しく思ったが、相談を続けたかったので、デジタルの話に真摯に答えた。
「そうだよ。圭一君さ。彼の名前だよ。大阪杯を終えた夜からそう呼ぶことにした。君も自分のトレーナーの事を名前で呼んでみたらどうだい?案外、楽しくなるんじゃないか?」
「あたしですか!…あたしは、…別にあんまりそういう気分じゃないので呼びません。…それで、…キスをしたという事は…?」
「…まぁ、…交際を始めたよ」
「おひょぉぉぉぉお!!」とデジタルが叫び始めたが、タキオンがそれを遮って言った。
「待った。騒ぐのは待ってくれ。こっちにも色々あるんだ。君に、前に迷惑をかけたことがあっただろ?言わば、それの延長線みたいなもんだ。…とりあえず、私の話を聞いてくれ」
「はい。聞きます」
タキオンにそう言われると、途端にデジタルは大人しくなってその話を椅子に座って綺麗な姿勢で聞いた。
「私は、大阪杯の前日から今まで、計三回のキスをした。一つはさっき言った通りだ。少し衝動的にした。二回目は、ウイニングライブからホテルの方に帰った後だった。彼と通じ合えたような気がしたからキスをした。三回目は彼からだった。私を助けるためにキスをした。そして、二人で助け合っていこうと言った。…けれど、すぐに彼は再び心変わりをして、私から遠ざかって行った。…彼の心を救うにはどうすればいいと思う?」
そうすると、デジタルは困ってしまった。まぁ、「答えを見つけて差し上げます」と軽々しく言った時には想像していない話だった。タキオンならまだしも、そのトレーナーである田上圭一とはあまり触れあっていないのだ。本人がどのような状態であるのかは、デジタルにはあまり分からないし、また、軽々しく助言をする事もできなさそうに思えた。後者の方は、タキオンが許さないように思えた。デジタル自身の足りない頭で考えるには、とてもとても難しい問題で、それについて答えを求めてきているのならば、タキオンの性格上、安易な答えでは簡単に却下されそうであった。それでも、デジタルは自分の考える以上の事は言えないので、躊躇いながらも口を開いた。
「…えっと…、…あたしには図りかねますが、…まだ時間が足りないのでは?二人で居る時間をもっと増やして、それから、トレーナーさんの経過を見てみてはいかがでしょうか?」
「…時間か。…私には、耐え切れそうにないな。…会う度にあんなになっちゃうんじゃ、私はどうしても疲れてしまう。…勿論、そんな簡単にはいかないって事は分かっているさ。分かっているけれども、今までだって一緒に話して、一緒に乗り越えようって約束してきたのにあんなになるんだ。デジタル君には、解決策はあるかい?圭一君をパッと変えてしまうような方法を」
「……あたしにはちょっと……」
「……そうか……。……私は、彼に自力で乗り越えてほしいんだ。私が居なくたって、生きていけるように」
「今は生きてはいけないんですか?」
「恐らく生きてはいけないだろう。私に、――行かないでくれ、と言ったのがその証拠だ」
「それなのにタキオンさんの事を突き放してしまうんですか?これは、大変な恋路ですね。あたしの頭の中では到底描けません」
「…?何の話だい?」
デジタルは、自分が趣味で描いているマンガや小説の話をしていて、隙あらばこの話を元に何か話を描こうと思っていたのだが、それが口から洩れてしまっていた。それだから、慌てて「いえ、何にもないです!それで、タキオンさんはトレーナーさんの事をどうしたいのでしょうか?」と聞いた。
「…私は…。…ダメなんだろうなぁ。あんまり近道を考えすぎても。……トレーナー君に電話かけてみようかな」
「ああ、そうしてみたらどうですか。それが良いと思いますよ」
デジタルがそう言うと、タキオンは悩まし気な目つきでその顔を見た。そして、怠そうに言った。
「私の荷物からスマホを取ってくれないか?手前のポケットに入れているはずだ」
それにデジタルは「はい、ただいま」と言って、さっさっと動いてタキオンに手渡した。そして、電話を掛けようとしているその顔を、興味津々な様子で見つめた。タキオンも田上が電話に出てくるのを待っていて、目を泳がせている時にその視線に気が付いたが、特に嫌がる素振りも見せずにその目を見つめ返した。すると、段々とデジタルは恥ずかしくなってきてそれを堪え切れずにこう言った。
「まだ、トレーナーさんは電話に出ないのでしょうか!」
タキオンは、デジタルの事を見つめながら「まだだねぇ…」と呟くように言った。