ケロイド   作:石花漱一

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二十、走れウイニングライブ⑨

 それからもタキオンは、じっとデジタルの事を見つめながら田上が電話に出るのを待った。しかし、田上は一向にタキオンの電話に出ようとしなかった。その頃にはデジタルもタキオンの視線を背中にひしひしと感じながら、自分の机の方に向かっていたが、一度気になって振り向いてみれば、前見た時と全く変わらない格好でタキオンが座っていたので驚いた。デジタルは、神妙な面持ちで「まだ繋がりませんか…」と聞いた。タキオンは、さっきと変わらない調子で「まだだねぇ…」と言った。それだから、デジタルは話を動かすのは自分しかいないのだと感じ、続きの言葉を言った。

「…もしかしたら、田上トレーナーのスマホはマナーモードになっているか、荷物に紛れて音が聞こえなくなっている可能性がありますね…」

 それに、タキオンは「そうだねぇ…」と心ここに在らずといった調子で答えた。

「もしあれでしたら、直接寮まで行って話してみてはいかがでしょうか?寮にはいらっしゃるんでしょう?」

「……それは、難しいねぇ…。今の私には、圭一君の寮に単身乗り込んでいくほどの元気はないよ…」

「なら私がお手伝いいたしましょうか?」

 デジタルがそう聞くと、タキオンは初めてデジタルをしかと見つめて言った。

「そういう問題じゃないんだよ。私は、彼を待ちたいんだ。追いかけていったって私の心は解消されない。私は彼を待ちたいんだ」

「そういう事なら…お好きなようにして構いませんが、…トレーナーさんが本当に出てくれるのかどうかは分かりませんよ?」

「…君も案外物を言うね」

 タキオンは、デジタルの顔をじろりと睨んだが、特にそれにデジタルが怯むということはしなかったので、そうすると一つため息を吐いた。

「…圭一君…。出ないかなぁ…」

 すると、耳元の電話から唐突に低い声が聞こえてきた。

「…長い。もうやめてくれ」

 そう一言言うと、電話は切られた。タキオンは、一瞬、自分の電話に幽霊が出たのじゃないかと思ったが、すぐにその後に田上の声だという事を確認すると切れた電話をもう一度繋ぎ直した。

 今度も少し電話に出るまで時間がかかったが、前ほどではなかった。比較的すぐに疲れた低い声が出てきた。

「…何か用か?」

「…君と話したくって」

 タキオンは、しおらしく言った。すると、それに迷惑そうに田上が答えた。

「…諦めてくれよ…」

「…他にすることがないから。……私と君は恋人だよね?」

「………分からない…」

「そうか…。…でも、キスはしてくれたよね?」

「……分からない」

「…私、君を追いかける事が疲れるようになってきた。…前程の元気がない」

 それに、田上は何も答えなかったのでタキオンは続けて言った。

「…水曜日は海に行くんだよね?」

「………行きたい、とは思っている…」

「…そう。…恋人みたいなことできるかな?」

「……できない…」

「…そうだろうね…。……昼食は?食べたかい?」

「いや。…お前は?」

「食べてない」

「…食べないと体が作れないぞ」

「それは君も同じだ。…購買に一緒にパンとか買いに行くかい?」

「…いや。俺はいい」

「奇遇だな。…私も買いに行く元気はあんまりないよ」

「…夕食は?」と田上が聞いた。

「…君はどうする?カフェテリアに行くかい?」

「…いや。冷蔵庫にあるもので済ます」

「…君と一緒が良かったけど…」

 その後に、田上の答えを待つような空白があったが、田上は何も答えなかった。その代わりにこう言った。

「…元気に過ごせよ」

「君と一緒に過ごしたい」

「…ばいばい」

「…ばいばい」

 田上は、タキオンの言葉を無視して強引に別れを告げた。タキオンも別れの言葉以外は何も言えなかった。言う元気がなかった。

 

 その後は、デジタルに励まされて夕食に行った時と風呂に入りに大浴場に行った時以外は、一歩たりとも部屋から出なかった。その時は、デジタルが良い話し相手になってくれた。何か話題を振ってみれば、よくコロコロと回る口でタキオンを飽きさせないように延々話をしてくれた。たまにお道化てタキオンを笑わせてくれるので、大分気が楽になった。

 それでも、田上とのいざこざは寝る時になってまた蘇ってきた。タキオンは、苦しい眠りに着いた。夢にうなされた。暗闇が迫ってくる夢だった。走っても走っても追いかけてきて、自分の手や服の裾を掴んで引き留めようとしてくる。学校の机の下に隠れても、菜の花の茂みを通って追っ手を撒こうとしても必ず見つけられる。暗闇が迫ってくる。暗闇が迫ってくる。

――もう助からない。

 そう思ったところでタキオンは、デジタルに揺り起こされた。自分の息が荒れているのを感じた。デジタルに起こされてようやく収まったのだ。体が火の様に熱く、汗をだらだらと溢れさせていた。

 起こされたところで、タキオンは一瞬状況を理解できていなかったが、自分んを覗き込んでいるのがデジタルだということが分かると息を整えてから「ありがとう」と礼を言った。

 ただ、デジタルは心配そうにタキオンに状況を告げた。

「…大丈夫ですか?…トレーナーさんの名前を必死に呼んでいましたけど、悪い夢でも見ましたか?」

「あ、ああ。…良い夢じゃなかったな」

「お水を持ってきましょうか?」

「ああ、そうしてくれるとありがたい」

 その言葉を受けて、デジタルはそそくさと水をコップに注いで、ベッドで体を起こしたタキオンの所へと戻ってきた。そして、手渡そうとした時、タキオンの手が少し震えているのを目聡く見つけて言った。

「怖いんですか?」

「いや、…。怖いかもしれない。ちょっとこの部屋に電気を点けてもらえないか?」

「ああ、気が利かなくてすいません。只今」

 それで、明かりがパッと点いた。

「ありがとう」とタキオンが言って、コップの水をグイと飲みこんだ。それから、自分の上に乗っている白い布団を見つめながらタキオンは言った。

「圭一君はどうしてるのかな?」

「…さぁ?寝ているんじゃないでしょうか?」

「…そうだよね。…電話を掛けたら迷惑かな?…今何時だい?」

「一時三十五分です。さすがにこの時間電話を掛けたら迷惑ではないでしょうか?」

「…そうだよね。…でも、どんな時でも私の相手をしてくれるのが彼だから…。…掛けてみてもいいよね…」

「私は別に構いませんが、怒ったりはしないでしょうか?」

「多少は怒るだろうが、関係がめちゃくちゃになるほど怒ったりはしないはずだ。彼は、いつだって私の我儘を許してくれた」

「なら、そうしてみてはいかがでしょうか?」

 デジタルがそう言うと、タキオンは枕元にあるスマホにおもむろに手を伸ばして、田上に電話を掛けた。案外すぐに出た。「もしもし」と寝起きでありそうながらもしっかりとした声が聞こえた。

 タキオンが、「圭一君」と呼び掛けると、田上が「何か用か?」と聞いた。その後にタキオンは何を言おうか少し迷ったが、「今回は電話に出るのが早かったね」と言った。すると、田上は「なら、出なかった方が良かったか?」と喧嘩腰で聞いてきたので、少し慌て気味に「出てくれた方が嬉しいよ」と言った。それから、続けて言った。

「でも、君にしては電話に出るのが早かったじゃないか。今まで起きてたのかい?」

「……いや、さっき目が覚めたから水を飲んでた。こんな時間に何の用だ」

「夢を見ちゃってさ。それが怖かったから君に電話したんだよ」

「デジタルさんは?起こしてないか?」

「いや、デジタル君が起こしてくれたんだよ。私、夢でうなされていたそうで、心配したデジタル君が起こしてくれたんだ」

「なら、俺に電話を掛ける間もなく寝たらどうだ?デジタルさんに迷惑をかけているんじゃないのか?」

「ああ、そうだね」

 そこで言葉を途切れさせると、自分のベッドで眠たそうにしているデジタルに向かって言った。

「君はもう寝てていいよ。その代わり、少し私は圭一君と話をするけど、君はあんまり構わないだろ?」

「え?…はい!そのお声をお聞かせいただけるだけでも私の幸せの極致でございまする」

「なら、手数をかけるが電気を消してくれないか?」

「はい、只今」

 そう言うと、デジタルは電気を消して自分のベッドに寝転がってさっさと寝てしまった。タキオンの顔にはスマホの明かりが眩しく照り始めたが、その明かりだけでは白く冷たく不安だったので枕元の夜寝る前の読書などに使うオレンジ色の照明を点けた。そして、田上に言った。

「君は勿論付き合ってくれるんだろうね?私のお話に」

「…いつまで?」

「私が眠りにつけるまで居てくれよ。怖いじゃないか」

「…どんな夢を見たんだ?」

「……今日の騒動の夢だよ。あの私の前に現れた暗闇が、また私に迫ってきた。私は、必死にそれから逃れようとしたけど無理だった。あれは、必ず私を捕まえに来た。…けど、君とこうして話すことができるのなら、見つけられても良かったかもしれないな」

「縁起でもない事言うなよ。あの時のお前の様子は大分おかしかったんだからな?それを自覚しろ」

「でも、君が相手をしようとしないのがいけないんじゃないか。私をそんな考えにしたくないのであれば、しっかりと君が私の相手をすべきだ」

「……相手をしてやりたいのは山々だけど、お前だって俺が自分の相手で忙しいってのは分かってるだろ?」

「そりゃあ、分かってるけど私たちってもう夫婦みたいなものじゃないか。妻を一人置いて行くのは夫としてどうにかあるぞ」

「俺は!…お前とは結婚していない…。その話はちょっとやめてくれ。そうでないとこの電話は切る」

「…でも、君が私にしたことは忘れないよ。君は私にキスをしたんだ。それでいて私の事を好きじゃないというのなら、君は女子高生に猥褻行為を働いた事になる。私が先生にチクれば簡単だぞ」

 そうタキオンがいやらしく言うと、田上は声を荒らげる他になかった。

「お前!……そんな事を言うような奴じゃなかっただろ…。…もうダメだろ。…ここまでしたんだ。ここまでしたのに、全く良くなる未来が見えない。…お前ももうそろそろ気が付いてるだろ?多分、俺たちは最初から出会ったら駄目だったんだ」

「…でも、君はつい昼頃に二人で助け合っていこうと言ったじゃないか。それで、もし自分が私の事を愛するのをやめたら絶対に止めてくれと言ったじゃないか」

「人にいやらしく先生にチクる事を仄めかすのが、俺を止める方法なのか?お前だったらもっと違う方法で俺の事を止めてくれると思ったんだが」

「…それは、…悪かった。確かに今のは私が悪い。悪かったから、許してくれるとありがたい」

「いや、…そう言えば、理事長の秘書さんから連絡があったんだ」

「…なんて?」

「お前のウイニングライブの話だ。別に歌詞に変更を加えたのはどうでもいいそうだけど、それでお前と俺の間に何かあるんじゃないかと、ファンから問い合わせが何件か寄せられたそうだ。今の所返信はしてなかったけど、とりあえず、交際はしていないって返しておくから」

「え…、でも、…でも、私の意志は?私には、どうしたいのか聞かないのかい?」

「聞いても話が長くてまとまらない事は分かってる」

「分かってるなら、猶更まとめる努力をしようよ」

「いや、まとめたとしても次の瞬間には紐が解けてバラバラになってるんだ。幾ら話したってキリがない」

 田上がそう言うと、タキオンは再びある事が心配になって言った。

「…君、本当に海には行くんだよね?絶対に断ったりしないよね?私は、あれを楽しみにしてるんだよ。その想いを踏み躙ったりはしないだろうね?」 

「多分しない。…本当に行くつもりではいる。いるけど、実際に行くとなってどうなるのかが分からない」

「お願いだから、ちゃんとしてくれよ。少しだけでもいいから、私を喜ばせてくれよ」

「そのつもりではいる。そのつもりでは…。その日に近くなってみないと分からない」

 そこで、二人の間に沈黙が割って入った。その沈黙は、暫く二人の間を漂っていたが、これ以上続けば電話を切ろうと田上が思ったタイミングでタキオンが田上に話しかけた。

「君、目が覚めたと言っていたけど、なんで目が覚めてしまったんだい?私と同じように悪夢を見たのかい?」

「……そんなところ」

「どんな夢を見たんだい?」

「…言いたくない」

「なぜ?」

「…お前に言えるような夢じゃないからだ」

「それは私だけ?デジタル君にであれば言えたりするかい?」

「誰にも言えない。…この話題もやめてくれ」

 すると、タキオンが一つため息を吐いて言った。

「…君と直接会って話をしたいよ。ほら、抱き合って話をした方が君も落ち着いて話ができると思わないか?私の見立てでは、そっちの方が君も落ち着いているような気がするんだ」

「…できない」

「…じゃあ、秘書さんに返信するのも待ってくれ。…それとも、秘書さんの方も直接会って話をした方がいいんじゃないか?秘書さんも物分かりが悪い人じゃないだろ?会ったことはないけど」

「…まぁ、お前がやらかしたことを俺に説教するくらいには物分かりの良い人だ」

「説教ってどのくらい?」

「二言三言タキオンさんに伝えておいてください、みたいな感じ」

「…。それを私は聞いた事があったかな?」

 タキオンがあっけらかんとして言った。

「そんな感じだったから俺も参った。…菊花賞を終わってみれば、それで良かったんだろうな…」

「……君は、まだ自分の事をダメなトレーナーだと思っているのかい?」

 タキオンは、そう唐突に聞いた。

「…そんなところだ。…今日はもう眠いから寝よう?もう二時になる」

「でも、そうすると私、怖くて眠れないよ。怖かったから君に電話を掛けたんだ」

「…でも、こっちだっていつまでも起きているわけにはいかない。…ちょっと部屋の電気を消すから待っててくれ」

 そう言うと、電話から田上の声が聞こえなくなって代わりに、ゴト、ガサ、ゴソと聞こえてからまた田上の低い声が聞こえた。

「お前、眠れそうか?」

「いや、結構元気だね。大分覚醒してしまったよ」

「…何か子守歌でも歌えば眠るか?」

「子守歌?」

 タキオンは、少し苦笑してオウム返しに言った。それから、続けた。

「子守歌っていうのは、電話越しにするもんじゃないよ。それに、私も子供っていう年じゃないからね」

「でも、夢が怖くて俺に電話を掛けたんだろ?」

「夢が怖いのは大人だってそうなるさ。いいだろ?男としては、女性から頼られた方が嬉しいんじゃないのか?」

「お前に頼られたって嬉しくはない」

 田上からぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

「ははは。私と君の仲じゃないか」

「あまりに不安定だけど」

 そこで、タキオンが少し考えを巡らしてから言った。

「今の君はどうだい?大分、落ち着いたように見えるけど、私と交際することには賛成かい?」

 そうすると、田上も黙ってしまったが、返事はしてくれた。

「お前の事は心配になるな…」

「…?なんで?」

「……ダメ男を世話するのが癖になったら、お前の今後が心配だ…」

「ふふっ。そんな事を心配しているのかい?…大丈夫だと思うけどね。今後、君のような奴に出会うとも限らないし」

「出会わないとも限らないだろ。……今のうちに良い人を紹介しておこうか?」

「今?…そしたら、君はどうするんだい?」

「……潔く身を引く」

「それは、潔しとは言わないだろ。そういうのは、擦り付けて逃げるって言うんだ。…それに、良い人を紹介するくらい心配だったら、自分でちゃんと私の手を握っておけばいいじゃないか」

「それができないから心配なんだ。……俺を追いかけるのが疲れてきたって言ったろ?…その通りだよ。俺は、もう逃げるのが癖なんだ。この癖はもう…」と田上が言葉を続けようとしたところで、タキオンが少し大きな声でそれを遮った。

「直せる!君の気持ち一つで簡単に直せるよ。……君は、前にお母さんが死んだ時に暫く不登校になったと言っていたね?でも、その時にしっかりと復帰して今まで生きてきたじゃないか」

「まぁ…、そうだけど、……そうだね」

 そして、また暫くの沈黙が続いた。二人共何も話さないから、お互いがお互いを寝たのじゃないかと思って、ほとんど同時に「圭一君?」「タキオン?」と呼び掛けた。それから、二人の声が重なったのを可笑しく思って、クスクスと笑い合った。その後にタキオンが口を開いた。

「このままだと眠れない気がするな。…何かないかい?」

「何か?……ないな、今の所」

「…すると、私が、君が眠りに就けるように君の好きなところを一つずつ言ってあげようかな?」

「なんで俺なんだよ。眠れないのはお前だろ?」

「でも、君も怖い夢で目が覚めたんだろ?なら、平等にお互いが眠れるようにしなければならない。例え、君が今、――怖くないと言っても、電話を切って私の声が聞こえなくなったら怖くなる可能性があるだろ?」

「その時は、自分で音楽でもつけて怖さを紛らわすよ」

「そいつは狡い。卑怯だ。私は、君の声が聞きたいというのに、君だけ眠ってしまったら私は眠れないじゃないか」

「それを今お前はしようとしているんだろ。お前、もう眠たくて頭回っていないんじゃないか?今なら、すんなりと眠れそうじゃないか?」

「えーー。君の声を聞きながら寝たい」

「…じゃあ、童話とか読み聞かせてしてやろうか?」

「ああ!それがいい。それがいいよ」

 タキオンは先程の「私は子供じゃない」という言動とは裏腹に、恋人の優しい読み聞かせを喜んで受け入れた。すると、田上は苦笑しながら「じゃあ」と言って、自室の本棚から本を取ってきた。手に取ったのは、『雨の島』という題名の、ある作家の短編集だった。その『雨の島』というのは本の中に載っている短編の一つが本の題名になっただけであって、その本の内容は『雨の島』とは関係のない短編の方が多い。田上は、その中から手頃な読み応えのある短編を一つ選んで読み始めた。その短編の題名は、『猛暑日』というものだ。

『夏は暑い。ただ、今日の暑さは尋常ではないくらいに暑い。今日という日に生まれた子供は、残念ながら生き永らえる事には不可能な暑さだろう。すぐに暑さにやられて死んでしまう。幸いな事に、親族中に今日生まれそうな子供はいない。僕の家にたまに訪ねてくる従妹の親友が、秋頃に生まれそうという情報は持っている。従妹の親友と言ったが、別に親友が生まれてくるわけではない。親友のお腹の中に居座っている子供が生まれてくるという事だ。そこは、ご注意を願いたい。それと共に、どうかその子が生まれてくる日が、寒さにやられて死ぬような日じゃない事も願いたい。しかし、秋頃であればそんなに心配するようなこともないだろう。少なくとも、気温においては。

 だが、見てごらん。今日は、山の緑が今にも暑さに溶けそうに唸っている。僕の家は、比較的木に囲まれた場所にあるから、街中よりは大分マシだろうと思っていたが、それでも暑い暑い。今、故郷に置いてきた僕の母に手紙をしたためている所だが、動いてないのに汗がぽたりぽたりと紙の上に滴り落ちる。これでは、真面に文字が書けそうにない。すぐに紙が溶けて字が滲んでしまう』

 ここで、田上は、タキオンがもう眠ってしまったのかどうかが気になって、そっと電話に向かって「タキオン?」と呼び掛けた。すると、向こうから眠そうな声でむにゃむにゃと「んん」と返事が聞こえてきた。どうやら、眠りに落ちるまであと少しのようだ。田上は、次へと読み進めた。

『字が書けないのならば、ここでじっとしていてもしょうがない。僕は、気晴らしに街の中心の方へと出かける事にした。

 街へ出ると、尚の事暑い。やはり、木の葉も幾分の日除けにはなっていたのだ。この時ほど、木の葉に感謝し、木の葉を恋焦がれたことはない。余談は程々にして、僕はあるところへ向かった。僕の行きつけの街の喫茶店だ。そこに勤めている、僕より幾分若くて可愛げのあるお嬢さんが居るのだが、僕は昔この人に好意を持っていた。この『昔」、というのが肝だ。今は、綺麗だとは思っても好意は寄せていない。なぜなのか?そこの所が諸君は気になるだろう。良かろう。ならば、答えて進ぜよう。なぜ、今は好意を寄せていないのかというと、その人は街の好青年と結婚してしまったからだ。口惜しい限りである。僕が、先に声を掛けておけば、まだ嫁を貰えたかもしれないのに。

 今年で三十二となるが、まだ子供も居なければ嫁も居ない。母からは、つい一年位前までは見合いの話を持ち掛けられていたが、どんな話も断っていくうちに遂にここまで来てしまった。もう後戻りはできない。口惜しい限りである』

 そこで、また田上は「タキオン」と呼び掛けた。今度は、返事はない。電話口に耳を澄ませてみれば、微かにタキオンの寝息が聞こえてくるような気がする。その寝息がなんだか可笑しくてニヤリと笑みを作ってしまったが、その後は、何も言わずに電話を切った。

 それから、田上は仰向けに体勢を変えると、体の凝りを解し、またうつ伏せに本の方へと向き直った。その本の続きを読んでから寝るつもりだった。タキオンと同じように枕元の明かりを灯してそれを読み始めた。しかし、最後まで読み切る前に田上は眠りに就いてしまった。本のページは開いたままである。朝起きて、そのページがくしゃくしゃになっていれば、田上は少しショックを受けてしまうだろう。ただ、田上はそんな事には気付かないままに、昏々と眠り続けていた。

 

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