二十一、海岸線、白く染まる
次の日の朝。田上は、自分の部屋を叩くノックの音で目が覚めた。むにゃむにゃと体を起こすと、掛け布団の下に敷かれてページがくしゃくしゃになっている短編集を見つけた。それにしかめっ面をした後、田上はドアの方に顔を向けた。
初めは、寝過ごしたのかと思って慌てていた。しかし、その次に今日は特に早く起きる用もない日である事を思い出し、ドアをノックした人については田中か誰かがゲームの誘いでもしに来たのかと思った。だが、実際の所は全く違った。眠たそうに目をパチクリさせながらドアを開けた先に居たのは、何の用事もなさそうなタキオンだった。だから、田上は思わず「タキオンか…」という少し失礼な言葉を発した。当然、タキオンがそれを見逃すはずもなく、ドアを開けた田上に言った。
「おはよう、圭一君、と気持ちよく朝の挨拶をしたいところだったのだが、君の第一声が――タキオンか…では気持ちよくとは言えないな」
それでも、その後にタキオンが「おはよう」と言ってきたので、田上は素直に「おはよう」と返して、次の質問をした。
「海に行くのは明日だろ?」
「ああ、そうだよ。水曜日だと言ったじゃないか。ああ、それと、どこに行くかについては私が調べて提案してもいいかい?」
「ん?いいよ。…それだけ?」
「勿論、ここに来たのはそれだけではないさ。色々と積もる話もあるじゃないか。中に入れておくれよ」
タキオンが、田上の目を見ながら言うと、田上の方は、その目を少ししかめ顔をしながら見つめ返した。
「少しだけだったら俺も見逃すけど、お前がこの部屋に居座るって言うんならダメだよ」
「そんな固い事を言わなくてもいいだろ?」
そうタキオンが聞き返したが、田上が相変わらず難しい顔でタキオンを見つめ返すと、タキオンも妥協して言った。
「なら、君が着替えて準備を整えるまででいいよ。昨日のような気分の悪さはないんだろう?」
田上は、また数秒タキオンを難しい顔で見つめてから、「ああ」と頷いて、廊下に誰も目撃者がいない事を確認し、タキオンを部屋の中に入れた。入れたら、後はいつも通り、タキオンは田上のベッドに座りに行った。そして、何か暇を潰せそうなものはないかときょろきょろと辺りを見渡すと、丁度ベッドの枕元に昨日田上が自分の為に読み聞かせてくれたであろう短編集を見つけた。それを手に取りながら、タキオンは、洗面台の方で服を着替えている田上に向かって比較的大きな声で言った。
「君、昨日の夜、私の為に朗読をしてくれたね。この枕元にある本かい?」
「ああ!」と服を着るために少し力が入ってしまっている声が聞こえた。その声を聞くと、タキオンは続けて言った。
「ありがとう。…私、結局君の話の途中で寝てしまったのだけれど、あの後どのくらい読んでいてくれたんだい?」
「んん?少し。そんなに読んでない」
「そりゃ、ありがたい」とタキオンは言いながら、洗面台に居る田上の方へ行った。結局、本を手に取っても田上が居ないとそわそわとして落ち着かなかったのだ。田上は、自分の髭を剃っていた所だった。鏡越しに目が合うと、そのままぴたりと動きを止めたが、その後は自分の事を見つめてくるタキオンをチラチラ睨みながら髭を剃り終えた。そして、顔を洗ってすっきりした所で、田上は「何かあるのか?」と仏頂面で聞いた。
タキオンと田上は、そのまま二人でベッドの方に移動しながら話した。狭い廊下だったので、タキオンを先に行かせた。その為、タキオンが半身になって田上の質問に答えた。
「別に、恋人が二人で居るのに理由はいらないだろ?」
それに田上が睨みながら言った。
「その恋人にはもう少し分別を持って、恋愛をしてもらいたいな」
「ハハハ。いいじゃないか。卒業したら、すぐ子供を作ってしまうかもしれないから、こういう時間は大切にした方がいいと思うよ」
そこで、タキオンはベッドに座り、田上は自分のパソコンの前に置いてある椅子に座って、それを少し移動させてから対面した。今日のタキオンは、少しらしくないスカートを着ていた。まるで、どこかの礼儀正しいお嬢様みたいだ。田上は、その事を頭に思い浮かばせてから、タキオンの顔を眉を寄せてじろじろと見た。それに、タキオンは眉を上げて「何かあるかな?」と表情で問うてきた。声は出していない。それだから、田上は、その質問を無視し、唐突に椅子から立ち上がり言った。
「外に行こう。あんまり長居すると面倒だ」
タキオンは、可笑しそうに田上の顔を見上げたが、素直にそれに従って外に出て行った。
田上が、タキオンが外に出る時にあんまり警戒するから、呆れ笑いをしてタキオンが言った。
「そんなに警戒しなくとも、見ている人は居ないだろう?」
そう言うと、田上はこう言い返した。
「いや、どこに目があるのか分からないんだから、警戒するに越したことはないだろ」
その言い草も少し可笑しかったが、タキオンはこれ以上田上を焚き付ける事はしないでその横について歩き始めた。幸いな事に、出入りの瞬間を見た人はいなかったようだ。しかし、出入りを見ておらずとも時間の感覚として感じている者が一人、共有スペースのソファーの方に居た。タキオンと田上が、階段を下りて廊下の奥から出てくると、共有スペースを通り抜けてそのまま外へ行こうとしたのだが、そのまえにソファーに座ってスマホをいじっていた田中がそれを見つけて、声をかけた。
「よう、田上、アグネスさん。大阪杯おめでとう」
思いがけないところに知り合いが居て、田上は少し動揺したが、その様子はできるだけ表には出さないで「ありがとう」と答えた。だが、その動揺は隠す必要はあまりなかったかもしれない。結局、タキオンは田上の腕に恋人の様に張り付いていて、田上が動揺してまでも隠したかった二人の関係がダダ漏れだったからだ。しかし、田中の方と言えば、田上を妙な目で見つめてきたばかりでその事には触れなかった。実の所、あんまり気にしてもいなかった。それよりも気にしていたのは、ここにタキオンが居る事だった。暫く田上の顔を見つめながら考え込んでいたが、やがて、田上が居た堪れない空気に耐え切れなくなって「もう行ってもいい?」と聞くと、田中は急速に頭の中で考えに決着をつけて、ニヤリと笑って田上に言った。
「お前、アグネスさんを部屋に上げたろ?」
田上は、背筋が凍った。この後の田中の言葉次第ではタキオンから手を放すことも考えた。しかし、田中はその後に何も言わずに田上の返答を待っていた。これはこれで面倒だった。だから、田上は必死に頭を高速回転させて一番の最適解を探しに探したが、田上が何か言う前にタキオンが口を開いた。
「そうだよ。今日は、彼に用があったから私が押し入ったんだ」
「用?」
田中が、――面白い事が始まった、と言うような顔つきで聞いた。
「別に君に言うようなことじゃないさ。あんまり首を突っ込むとその首叩き落とすよ」
それから、タキオンが田上の方を同調を求めるために見てきたので、それに乗っかって田上も「お前の鼻をそぎ落とすぞ」と言った。
「はいはい、科学者コンビに言われたら、そりゃあ引くしかないですわ。…今度出るゲーム、田上は買うのか?」
「ん?…あれは、少し迷ってるな。最近忙しいから」
すると、田中はタキオンの顔をちらっと見てから、「忙しそうだもんな」と言ってソファーに座り直した。
そこで話は終わり、田上とタキオンは外の方に出た。少し肌寒かったが、そうは言っても我慢できるくらいの肌寒さだった。その中をタキオンたちは暫く歩き、手頃なベンチに座ると話を始めた。
「君は、ゲームは最近していないのかい?」
「ん~、ゲームは時間があればしてるけど、あんまりしてないな」
「それは私のせいかい?」
「タキオン…のせいでもないけど、あんまりする気がなくなったのが一番かな。最近は、専らネットサーフィンとか寝るとかそこらへんだよ」
「そのせいで、人生が詰まんなくなったりは?」
タキオンが、田上の手を片手間で遊びながら聞いた。田上は、タキオンの顔から目を逸らし、その遊ばれている手を見つめ、考えながら言った。
「別に…そんな事はないよ」
「では、私と居れて楽しいという事でいいのかな?」
タキオンは、期待の籠った目で田上を見つめてきた。それだから、田上もそのタキオンの質問に少しだけ動揺して、彼女の顔を見つめ返した。けれども、見つめ続けるにはやっぱり気力が足りなくて、ふいと目を逸らして地面を見つめた後言った。
「楽しくない事はない…。……だけど、お前と居ると少し大変だ」
「どんな風に?」
「そんな風に。…詰められるのはあんまり好きじゃない」
「そりゃ、すまない」
そう言うと、タキオンは寄せていた距離を少し開けて、ベンチの上で座り直した。そして、今までずっと田上の方に注いでいた目を逸らして、目の前に広がっている芝生やら花壇の花々に目を向けた。いつの間にか日が照りだし、少し汗ばむかな?というくらいの気候になっていた。そこに、一つ涼しい風が吹いた。花々が揺れ、芝生や木の葉が擦れ合ってさらさらと気持ちの良い音色を立てた。だから、タキオンは涼しい空気を吸い込みながら言った。
「のどかだねぇ…」
その声を聞いて、今まで地面をぼんやりと見つめていた田上も目を上げた。そこにはやっぱりタキオンが見た物と同じ景色が広がっていた。草があって、花があって、道があって、風がある。のどかには違いがなかったが、田上には今の風が少し冷たく感じて、少し体を強張らせた。
その後は、暫く空白の間があった。タキオンは、景色と吹いてくる風を楽しむために黙り、田上は、景色なんて楽しむ気はないが、同時に何か話そうという気分でもないため黙って自分の手を見つめた。大したことのない手だった。毛が少し生え、爪は適当に刻まれている。手の平の皺に何の意味があるのかは分からない。ただ、生命線というものが長いという事だけは分かるが、それ以外の皺の意味は曖昧にしか覚えていない。頭脳線がなんちゃらで、感情線がなんちゃらという事だけだ。いや、もしかしたら、感情線というのはただの間違いで、環状線がこの手の平にあるのかもしれない。そんなものだけれども、田上は、小学生くらいの頃に見た手相の本の記憶を手繰りに手繰り寄せて、自分の手の平に意味を見出そうとした。
――この人差し指の下の線は、本数が多ければ生涯年収が一千万ずつ増えていくんだったかな?……四千万か…。少ないな…。
――ここの手の平のとこに罰点があれば、人生が幸せに上手くいくって本に書いてあったような気がする。…ある事にはあるけど、皺としてはあまりに薄いな。…幸が薄いって事かな…。
あんまり碌な考えは浮かんでこなかった。だから、手相を考える事を止めると、ただ何を想う事もなく手の平を握り締めた。そうすると、隣で景色を見ていたタキオンが、田上が詰め寄られるのを嫌がっていたことも忘れて、肩を寄せて聞いてきた。
「君は何をしているんだい?」
「俺?…特に何も…」
「でも、今、自分の手を真剣そうに見ていたじゃないか」
そうタキオンが聞くと、田上は自分の手にチラリと目をやって言った。
「手なんて見たって何にもならないけどね」
「そんな事はないだろう。手一つだけでも話題が生まれたりするじゃないか。こんな風に。君の手を見せておくれよ。手相ってどんなものだったか覚えているかい?」
奇しくも、手を見て自分と同じ考えに行き着いたタキオンの顔を見つめながら田上は答えた。
「生命線くらいしか覚えてない」
「奇遇だね、私もだ。…ここの線は、なんだったかな?鎖状の線になってると何かになるって聞いたけど、感情線だったかな?」
またしてもタキオンは、自分と同じ考えに行き着いていた。ただ、環状線だの何だのという考えを伝える事は少し躊躇ったが、のどかな日和のおかげかすんなりと言葉が出てきた。
「俺もこの線が感じる方の感情線かと思ったけど、なんか別の言葉があるような気がして、鉄道とかの方の環状線と間違えたのかな?って思った」
「環状線?でも、私たち二人共感じる方の感情線が出てきたから、これであっているんじゃないか?」
その言葉を受けて、田上が「うん…」と少し沈んだ声で答えたから、タキオンは田上の手を見るのをやめてその顔を見上げた。田上としては普通の顔をしていたつもりだったが、タキオンから見ると、悲しげにしているように見えた。その悲しげな具合が、妙にタキオンの笑いを誘って、ふふふと笑いながら田上に言った。
「どうしたんだい?そんな顔して。今の私の返答が気に入らなかったかい?」
「いや、そんな事はない」
「そうなのかい?」
それから、タキオンは一つ距離を詰めて、田上の体にぴったりと張り付き、その顔を近づいて眺めた。田上は、ベンチの上でちょっとずつ逃げようとしたが、その度にタキオンが近づいてきたので、結局ベンチの端まで行って止まった。そして、面倒臭そうに言った。
「何か言いたい事でも?」
「いやいや、そんなに邪険にしなくていいよ。ただ、今は君の顔を見つめていたい気分なんだ」
「なんで?」
「そんなこと聞く必要もないだろう?私たちは恋人同士なんだ。顔なんて幾ら見つめ合ったって良い」
そうすると、田上が反抗するように「俺は良くない」と言った。しかし、全力でタキオンから逃げるようなこともしなかった。ずっとベンチには座って居てくれて、タキオンがじっと見つめてくるのを居心地悪そうに堪えていた。そして、何か別の事で気を逸らせないか逸らせないか考えていると、不図思いついたのでそれをタキオンに聞いた。
「お前の今日の服、落ち着いてるな」
「服?…まぁ、落ち着いているといえば落ち着いているかな。いつもは彩度の高い色の服を着ていたしね。今日はどちらかと言うと、薄めのお淑やか~な服装だ。君はこっちの方が好みかい?」
「別に、普段のタキオンでもいいけど、今日は、雰囲気も落ち着いているように見えるし」
「ふむ、落ち着いている…。やはり、服の影響かな?私としては、少し君と話せてウキウキしているわけではあるが」
「それはそうだな。…でも、ちょっと普通に座ってみて」
田上がそう言ってみると、今まで田上に寄りかかっていたタキオンが姿勢を正し、手を膝の上に置いた格好をしてみた。しかし、それでは田上に近すぎたので、「もう少し離れてくれ」と田上が言って、タキオンがベンチのもう片方の端に行き、また同じ格好を取った。田上は、その格好をよくよく見つめてから言った。
「やっぱり、お前、お嬢様みたいな感じがあるな。なんか、その姿が様になってる。後は、髪をもう少し整えるだけだな」
「まぁ、少しばかりの所作は習ったからね。座るくらいなんてことないさ」
そこで、田上が少し微笑んでタキオンに言った。
「そんなお嬢様だったのに、どうしてあんなに研究バカになったんだ?」
「そりゃあ、私も自分の足を直すのに分別なんて考えていられなかったからさ。そしたら、分別を気にしない君が居たものだから、私は大いに助かった」
「俺だってお前のトレーナーになれて良かった。…色々と酷い事もしたけど…」
すると、タキオンが「ストップ」と言って、また田上のすぐ隣まで距離を寄せてきた。
「それ以上ぐだぐだ言うのは許さないよ。私はそんなに気にしていないんだ。別に、君に怒ってもいないし」
「でも、………俺に何か言う時もあっただろ?」
「あったね。…できれば忘れてほしいものだけど、私たち恋人になったからそれでいいじゃないか」
「……恋人もなぁ…」
それで、タキオンが少し眉を下げた表情を取って「嫌なのかい?」と聞いてきたから、田上はやりきれなくなって目を瞑った。目を瞑ると、外は見えなくなり自分の考えだけに集中できそうかに思えたが、やはり隣にタキオンが居る手前ずっと黙っていることもできずに、少し間を空けると渋々口を開いた。
「恋人であろうとは思ってる。思ってるけど、中々…分からないんだ。何か引っかかってるんだ」
「なにが?」と相変わらず不安そうにタキオンは聞いた。
「それが分かったら苦労はしない。…お前の為に何かしてやれたらいいと思うよ。…思うんだけどね…」
「私と触れ合うのが怖かったり?」
「…それもあるのかな…」
「じゃあ、私ともっと触れ合おうよ。要は、慣れだよ慣れ。君の人怖さも私と触れ合えば慣れるよ」
そう言うと、タキオンはぐいぐいと距離を詰めてきたが、今度は、田上はベンチからずり落ちて下の草の上に座り込んだ。その後に、嫌そうな顔をしながら陰気に言った。
「お前が、そもそも生徒って言うのも俺の抵抗の一助になりえてるんだよ。…恋人っていう言い方もやめてほしい」
「それじゃあ、私たちの関係を何て言えばいいんだい?」
「……科学者と実験動物」
「私は今は科学者ではない」
タキオンは、頭の片隅に研究やら実験やら楽しい科学の遊びをまた再開しようと思っていたことが浮かび上がったが、それは今は言わないままにした。それから、話を続けた。
「君がさっきお嬢様みたいと言ったじゃないか。私は、君と結ばれるお嬢様がいい。だから、恋人が一番適切だ」
「……トレーナーと教え子」
「卒業したらどうするんだい?」
「…終わり」
「選手を引退して卒業するころには、二十四とかになっている可能性もあるよ。その時は私ももういい女だ。受け入れてくれてもいいんじゃないか?」
「その時は、もう俺の事もうんざりしてる頃だよ。何しても、大して変わらない俺がもう嫌いになってる頃だよ」
「私は、嫌いにはならないと思うし、君もあと六年も経てば変わってるよ。何しろ私が傍に居るんだ」
「六年あれば、俺の事を嫌いになるのに十分な時間だな」
「嫌いになんてならないさ」
「何を根拠に?」とすぐさま田上が聞いた。
すると、「後悔しないため」とタキオンが答えた。それでも田上は続けざまに聞いた。
「けど、いつかお前の言葉が自分を苦しめる結果になるかもしれないぞ」
「それはない。断言する」
「なぜ?」
「私は、君が苦しんでいることを知っているからだ」
そう言われると、田上は返す言葉に迷って黙ってしまった。しかし、何が何でも『恋人』という言葉は受け付けられないので、言葉を捻り出した。
「でも、変わらないぞ。変わらなかったらやっぱりうんざりするだろ」
「変わる。君はいい男だもの」
「でも、俺はいい男じゃない」
「いい男さ。もっと自信を持って良い。何しろ私が好きになったんだ」
「お前が好きになったにしちゃ、あまり不釣り合いな不細工だ。何か裏があるんだろ」
「不細工?」
タキオンは、田上の思いも寄らない発言にからかうように首を傾げたが、その後にふふふと笑って言った。
「私、大阪杯の日にも君に言ったじゃないか。――君はかっこいい、って。それが信じられないのかい?」
「俺はもっと自分の事を正当に評価してる。俺は、お前が言う程かっこよくなんかないし、お前だって見る目が、…何かおかしい」
「なら言うが、この私が、好きじゃない人と昨日のような熱烈なキスができると思うかい?」
「あれは、しなければよかった。もっと別の方法を探せばよかった。勘違いしてた」
「何を?」
これは、田上にとって少し意地の悪い質問だった。タキオンも話の調子に合わせて、軽く聞いてしまったので、この言葉は慌てて取り消した。
「すまない。…まぁ、分かってる事だ。君は、私の事を恋人と勘違いしてしまったというわけだね?…でも、その後にハナミ君とアルト君が来た時は恋人だと言ったじゃないか」
「あれは軽率だった。そんな簡単に言うべきことじゃなかった」
「じゃあ、話は変わるが、理事長の秘書さんから連絡が来たといっていたね。あれの返答はどうするんだい?まさか、キスをした者同士が――恋人じゃありません、なんてこと言えるわけがないだろう?」
「……どうすればいいと思う?」
「私は、別に隠すこともないと思うけどね。それに、後々バレそうなことじゃないか?今必死になって隠すより堂々と――私たちは恋人です、と言った方がいいと思う」
「…でも、俺は、そう言って責任をとれる気がしない。そう言ったら、せめて結婚するまで頑張らないといけない」
そこで、タキオンがふふふと笑った。
「別に頑張る必要はないんだよ。君は、何かを妙に重く捉え過ぎてる。結婚なんて頑張ってするもんじゃないだろう。したいからするものなんだよ」
「でも、俺は生涯人を支えるなんてことは無理だ。このまま、根無し草の方が俺に合ってる」
「じゃあ、私の事は好きじゃないと?」
そう言われると、田上も困る。腕を支えにして座っている草の上から、怠そうに首を傾げてタキオンを見上げた。すると、タキオンはベンチから降りてきて、開脚して立てている田上の足をどけてどけて、田上と顔を近づけた。田上も動きはしなかったが、終始嫌そうな顔のままタキオンを睨み続けた。そして、タキオンと田上は見つめ合って、暫く目で語る合戦をしていたが、キリがないのでタキオンが口を開いた。
「キスして確かめてみるかい?私と君の愛を?」
「嫌だ」と田上がすぐさま答えたが、タキオンはその口を塞ぐようにぴとと唇を重ねた。田上の心臓が震えて大量の血液を全身に送り始めた。その血液は主に上の方へと向かっていき、田上の顔を赤らめさせた。唇を重ねたのは一瞬だったが、その後はタキオンが不敵に笑いながら自分の顔を見つめてくるので、田上はタキオンの目から視線をずらした。その顔を見ながらタキオンが聞いた。
「どうだい?私の事が好き?」
田上は、暫く何とも言えない面持ちで黙り込んだ後言った。
「好き。…だけど、それは少し狡いだろ。強引だよ」
タキオンはにこりと笑った。
「それはすまない。だけど、私の事好きだろ?」
「好きだよ。…好き」
「じゃあ、秘書さんには何て言う?」
「……あんまり人に公表するような事じゃないよな」
「まぁ、私もその考えに一理はある。けど、聞かれたら答えるって言うのが義務なんじゃないのかい?」
「そりゃあ、そうだけど…」と田上が言葉に詰まるとタキオンが言った。
「逃げ道が欲しいのかい?自分に人を愛するのはまだ早いと?」
これは、田上の言いたいことを全て言葉にしてくれた。だからと言って、それを肯定してしまうと自分を意気地無しと言っているようなものだったから、田上は答えを言えずに黙ってタキオンの顔を見つめ返していた。タキオンは、田上の考えが手に取るように分かっていたから、そのまま田上の体を草の上に押し倒し、その上に乗って田上の顔を覗き込むと言った。
「そこのところを秘書さんと話し合ってみようよ。会ったことはないけど、理事長の秘書であればその対応の道のエキスパートだろ?きっと良い考えが出てくるよ」
その提案を受けて、田上は「うん…」と頷いた。それから、タキオンの顔を見て言った。
「それじゃあ、秘書さんに連絡を取らないといけない。お前と俺と秘書さんで三人で話すんだろ?」
「ああ」と返事をすると、タキオンは田上の体の上から降りてその横に寝転がった。田上はその様子を寝ながら目で追っていたが、自分の横に寝転んだタキオンと目が合うと言った。
「草の上に寝転ぶ種類のお嬢様は嫌いじゃないな」
「むしろ好きだろ?」とタキオンが軽く笑いかけた。それから、田上は体を起こすと自分のポケットからスマホを取り出し、秘書さんの方へメールを返した。その背中を、タキオンは愛おしく思いながら眺めた。